第六話 あぁでもない、こぉでもない

 ──青年が獣の森に旅立つ少し前の、深夜のこと。
 鼻たれは涙屋がいる部屋を訪れていました。
「あんたんとこの、あの仮面の若い人、これから獣の森に行くことになったよ」
 鼻たれはお喋りが好きな男で、話題の種にと、「誰にも言ったらいけねえんだけど」と前置きをしてから、捕虜の交換について涙屋に報告しました。
 涙屋はそれを聞いて「ふふっ」と機嫌が良さそうでした。
「おいおい、じいさん、獣の森はなかなか危険だし、捕虜の交換に失敗すれば彼に責任がいくのに、どうしてそう機嫌がいいんだい?」
 涙屋は年に似ずえくぼを作って答えます。
「なに、彼が一歩を踏み出したのが嬉しくてね」
「踏み出した? 彼は止まっていたのかい?」
「ええ、怒りという鎖をひとつ外したんでしょう。だから代弁者も動いた。若い者が成長する姿ほど美しいものはない」
「よくわかんねえけど、何だか鼻たれも嬉しいよ」
 それから涙屋は、あることを鼻たれに願い出ました。
 それを聞いた鼻たれは、驚いた様子で棒を強く握ります。
「い、今から城を見学したい? まだ陽も出てねえのに」
「ああ。気になることがあって眠れないんだよ」
「気になること?」
 涙屋は「シーッ」と唇に指を当てました。
 鼻たれも思わず口に手のひらを当て、耳を澄ませます。
 すると、壁の向こうから「あぁでもない、こぉでもない」というかすかな声が。
 涙屋はいぶかしげな顔をして壁の向こうをにらみます。
「この声だ。この声が気になって眠れないんだよ」
「こりゃ確かに気になる。眠れたもんじゃねえよなぁ」
 鼻たれは後ろ髪をくと、「うーん」と少し考えました。かと思うとあごをさすり「病人だし、老人だし」などとぶつぶつとつぶやきます。鼻たれの監視を条件に、涙屋が城を探検するのは、間もなくのことでした。


「あぁでもない、こぉでもない」
 微かに聞こえるあの声を頼りに、二人は深夜の城内を進みます。
「声の主は、どうやらここにいるようだ」
 鼻たれが立ち止まったのは、城内で最も大きな扉の前でした。
 声は涙屋がいる部屋と同じ階の、とても大きな空間からするものだったのです。
 涙屋は大扉を見上げて言います。
「ここは、もしかして政治を語る場所かな?」
 鼻たれはぼりぼりと頭を掻きました。
「部屋の場所は覚えているけどよ、鼻たれ、部屋を何に使うかまでは知らないんだ」
 涙屋が何か言う前に、鼻たれがそっと扉を開けました。扉の向こうは、円状の造りで、無数の椅子が設置された、やはり大きな空間が広がっていました。
 そして涙屋のようにひげを生やした男達がたくさん座っていて、「あぁでもない、こぉでもない」と議論していたのです。
 そこは議会と呼ばれる、その国の有識者が集い、国の政治や法について議論する場所でした。
 現在の場内は深夜にもかかわらず騒然とし、産毛が逆立つような、ヒリヒリとした空気が漂っています。現に、何とも言えない緊張感を抱き、鼻たれは大きな身体を小さくして、扉の横で固まっていました。
 一方、涙屋はものじすることもなく、最も後ろの席に座る比較的若い有識者に尋ねます。
「お忙しいところ失礼します。あたしゃ今、城を見学させてもらっている涙屋と申します。人様に涙を流してもらうことをなりわいとする者です」
 若い有識者は、細い目をもっと細くして、涙屋のつま先から頭の先まで見回しました。
「特例で、外国人が城にいると聞いていたが、なんだ、こんな老人だったのか」
「ええ、まあ。あたしは今、この議会に興味しんしんなのですが、今日は、遅くまで何の議論をしているのですか?」
 若い有識者は、頬に生えた無精ひげをぞりぞりとでて言います。
「今は国の発展と国民の幸せを懸けた、真面目で難しい政治の議論の真っ最中だ」
 涙屋が「ほう、それで」と顔を近付けると、男は面倒くさそうに議会の中央を指差します。
「いつも通り、ほら、鎖国についての反対意見と賛成意見だよ、よく聞いていればわかるだろ」
「大変恐縮なのですが、そもそも何故この国は鎖国と化したので?」
「何だ、見学者のくせに予習もしていないのか」
 涙屋は聞き上手にして質問上手でした。
 若い有識者は段々と気持ちを良くしたのか、本には載っていない、この国の小さな秘密まで話し始めます。
「数十年前、国が男女にわかつまでは、海外との交流も多かった。それから男女それぞれの国になると、時間をかけて、だまし騙し、港の数を減らしていったのさ」
「ほう。それで、鎖国にした本質とは?」
「そもそも鎖国にした表向きは、大国から来た〝鏡の使者〟が例の奇病を運んだからになっている。もちろんそれも事実だ。だがもう一つ、国がわかれても、一部の大臣や政治家に諸外国との絆を強く保ち、王と妃よりも多くの財力や人望を集めようとする動きがあったのだ」
「ほう、なるほど」と涙屋の口髭がふわりと揺れます。
「さらに、雨と曇り、二つの教えをおびやかす『晴れの教え』も当時入りつつあった。それらは国を混乱させる。この国においては背の低い代弁者を筆頭に鎖国を進めるようになったのだ」
「何だかな難しいなあ」と鼻たれが口を挟みます。
 涙屋は、鼻たれにだけ聞こえる低い声でこう言いました。
「どこの時代の、どこの国も同じだ。国を開けば毒も薬も、宗教も経済も運ばれてくる。だが国を閉じれば、発展も未来も閉ざされる」
「何か言ったか?」と若い有識者が耳を向けると、涙屋は笑顔のまま今度はこう訊きます。
「あなたは反対党?」
「ああ、そうさ。何たって今現在、開国に反対意見のほうが優勢だから、鎖国が保たれている」
「反対する理由は?」
 男は向こうの席に座る男達を指差しました。
「あっちのほうにいる、少数派のくせに頑固な連中が気に入らないのさ。国の未来がどうとか言っているが、開国することで奴ら国を危険にさらす気でいる」
「嫌悪感はよくわかりました。開国に反対の意見は、一体どのようなお考えなのでしょうか?」
「ふん。例えば通貨の問題だ。この国は今までもこれからも若々しい男同士の友情を根本に、物々交換でやっていくべきなのに、鎖国を解いてしまえば今さら通貨を発行しなければいけない。女の国じゃあるまいし、おい、誰が初めの通貨の費用を払うんだ? そう言いたい」
 男は「それに」と息を吸い込みます。
「開国によって難民の受け入れの問題や、危険な亡命者、密偵も我が国に紛れ込むかもしれない。最近も海賊が攻めてきたじゃないか。国民の安全が脅かされた際、誰が責任を取るのか、そう言いたい。何度でも言うぞ、賛成党の連中はこの国に混乱を招き入れる気でいる。どうかしている」
 涙屋は、有識者の話を何も言わずに聞くと、最後に大きくうなずきました。
「なるほど、よくわかりました。では何故いつも、『あぁでもない、こぉでもない』と言い合っているのですか? そういった大切なご意見や、物事の本質を討論すべきでは?」
「数十年前から、もう議論し尽くして、話すことがないからだ」
「対立する意見を集約するためにお互いの妥協案を提案したり、この国の理想を語り合うことは?」
 若い有識者の鼻から一滴の血が垂れます。
 彼はそれをくと、親指の付け根でおでこを叩きます。
「そんな話、したかどうかも忘れた。だが、それがどうした。我々はこの国の政治家だから、議論して賛成したり反対したりしなきゃ、責務のまっとうにならないだろう」
「あなた達の責務のまっとうは、さっき言っていた国民の幸せや国の発展が本質でしょう」
「つまり何が言いたい」と言う男に対し、涙屋はどこか寂しそうに言います。
「議論を煮詰まらせたままでは、政治家の責務をまっとうしているとは言えないじゃないですか。議論から結果を導き出してこそ国の前進があり、その前進が国民に幸福をもたらすでしょう。そしてそれらは誰か一人でも、その人物の善良にして強い意志と、周囲の前向きな願いによって生まれると、あたしゃ思うんです」
「何を言っているんだ、お前は。慎重をまったくの反対にしたような言い方だ。守りを保った慎重さこそ国のかなめであるべきだし、それこそ平穏だろうが」
「ええ、慎重を否定したりしません、よぉく気をつけて新しい法を作ったり、変革を進めていくべきで、あたしだって賛成です。言い方を変えます。想像力こそ政治だと思うのです」
「政治は政治だ、絵画とは違うぞ。俺をからかっているのか、じいさん」
 涙屋が何かを言う前に、男は鼻息を荒くして涙屋を睨みます。
「爺さん、あんたも、あっちのほうにいる連中と同じなんだろう。国をお前の脳と一緒にして腐らせる気でいる。おいそこの鼻たれ、この老いぼれに気が済むまで見学させたら、さっさと退出させろ」
 鼻たれは小さく頷いて見せると、涙屋を守るように場所を移動させました。
 それからしばらく、涙屋と鼻たれは議会の様子を見学します。
 議会では現在、男の国が守る鎖国制度について、反対党と賛成党の支持者が「あぁでもない、こぉでもない」と繰り返し、声の調子に抑揚を付けたり、低くしたり、歌うように言ってみたり、時々唾を飛ばすほどの怒声で言い合ったりしていました。
 女の国への悪口が突然始まることもありました。
 その話になったときだけ皆の意見が同じとなり、さっきまで睨み合っていた者同士が肩を組む姿がありました。
 よく見ると眠っている有識者も何人かいました。
 しばらくそんな様子を眺めてから、涙屋は鼻たれを連れ、議会の大部屋を後にします。


 回廊を歩く涙屋の足取りは重いものでした。
 議会の様子を思い出してみると、大人同士が、子どものように互いと互いを否定し合う様子しか浮かびません。
 鼻たれは心配そうに涙屋の顔を覗き込みました。
「どうした、また腹痛くなったか?」
 涙屋は鼻たれの目を真っ直ぐに見てこう断ります。
「少し、この国の悪口を言ってもいいかな?」
「いいよ、聞いてみたい」
「あの議会がこの男の国を表していると思うと、溜息も出る」
「って言うと?」
「一方的で、粗暴、幼いところだよ」
「外の国の政治は、違うのかい?」
 鼻たれの言葉に、涙屋は「ああ」と溜息をきます。
「そうだね。どの国も似たようなものかもしれない」
 すると涙屋は「少し疲れた」と言って、回廊の途中で座り込みました。鼻たれも立ち止まると、涙屋は再び溜息を吐き、頭を抱えます。
「あぁ、文章が百行ある案であれば二行とか、ほんの一部でいい。互いの案を褒めてから議論を始めるとか、提案に溢れた柔軟な討論ができれば、そんな政治ができれば、より有意義な未来が約束されるのになぁ」
「そうなのか?」と鼻たれが涙屋の顔を覗き込みます。
「見ただろう。反対派のなかには変革に対してではなく『賛成派に反対する者』もいる。その逆もしかりで、賛成党には『反対の反対派』がいる。雨が嫌いな者の本質が傘を差す煩わしさにあるように、嫌悪の先は新しい法や変革ではなく、対岸にいる者だ。嫌悪は本質を見失わせるというのに」
「涙屋の爺さんは、開国に賛成なの?」
「開国した場合の未来、鎖国を続けた場合の未来、そして男の国の今をよく考えれば答えは容易たやすい。そこが想像力だ」
「そう言われると、じいさんは開国に賛成に思えるなあ」
「どの道、決断は、この国の民意が下すべきだ」
「ふうん」と鼻たれは壁によりかかります。身体はこの国一番の大きさですが、その仕草はまるで少女のようです。
「鼻たれ君、君はどう思っている?」
「どっちでもいいけど、さっきの男が言っていたみたいに、危険が国に入ってくるのは、嫌だよなぁ」
 涙屋は立ち上がると、窓の前に立ちました。時刻は深夜、窓の向こうにはうっすらと霧が広がり、虫の音や鳥の寝息が聞こえます。
 涙屋は薄明りの空を仰ぎます。
「さっきも言った通り、今の議会こそ、この国の縮図だ。一方的で閉鎖的、そして想像力を負の方向に働かせている」
「けど、この国にも、良いところがあるぞ。友情とか」
「友情は否定しない。もちろん素晴らしいことだ。だが、良いところだけにすがり、問題点を見ようとしない。それだと反省がなく、進歩もない。同じことの繰り返し、時間を無駄にしている」
 鼻たれは鼻の頭を少し掻いてから、涙屋の背中を叩きます。
「爺さんは優しいんだね」
「どうしてそう思う」
「仮面の彼にこの国の言葉を教えて面倒を見たり、今も、そうやって本気でこの国の未来を案じてくれたりしているじゃないか」
 涙屋は年に似ずえくぼを作ると、白い髭を小さく揺らしました。
「導かれたように思う。この国と女の国に。偶然ではなく、何か、強い縁があって、ここにいる気がするのだ」
 鼻たれには涙屋の言葉の意味も、抱える想いも、よくわかりません。けれど彼は、風船のように顔を膨らませて笑い、再び涙屋の背中を叩きました。
「ねえ、でも、元気になったね、じいさん」
 涙屋は大きくため息を吐くと、少しほほんで見せました。
「ありがとう、鼻たれ君」
 次に涙屋は、鼻たれにこう尋ねました。
「ところで、この国に選挙制度は存在しないのか?」
「センキョ? 何だそれ、焼いたら美味そうだな」
「政治のやり方の一つでね。国民に権利を与え、国民の意思を強く法律に反映させる手段にもなる」
「聞いたことねえけど、そういう話なら、代弁者よりも、良き友の王に進言するのがいいかもな」
「あたしが良き友の王とえっけんするのは難しいかね?」
 鼻たれは再び「うーん」と考え込み、こう言いました。
「良き友の王は、良き友だからお喋りは難しくねえんだけど、それが不思議なことに、最近城の連中にも、王を見た奴がいねえんだ」
 涙屋はそれを聞き、この国には現在王が不在で、女の国に捕まった要人こそ、良き友の王であることを見抜きます。
 しかしそれを言葉にしないで、彼は窓の向こうを見つめました。
 鳥のさえずりとともに、ぐずついた天気の早朝の空が窓の向こうに広がっていました。
 涙屋は調子を切り替えてこう言います。
「これから君は、仮面の彼を連れて獣の森に行くのだったね」
「んだ。そうだよ」
 涙屋は立ち止まり、鼻たれを真っ直ぐに見つめてこう言いました。
「彼とまたゆっくり話がしたい。どうか、彼を守って、この国に戻ってきてほしい」
「ああ、もちろんだよ。まかせて」
 鼻たれは胸を張り大きく頷いて見せました。それから彼は、涙屋を部屋に帰すと、青年とともに灯台を目指すことになります。
 そうして無事、真実の青年はもちろん、良き友の王を連れて帰国するのでした。





   鎖国問題、王の帰還





「──何故、この国の王が隣国の捕虜に?」
 青年にそう訊いたのは涙屋でした。
 青年は男の国に戻ってすぐ許しをもらい、鼻たれとともに涙屋のお見舞いに来ていました。
 窓の向こうの空は鉛色ですが、雨は降っていません。曇りを崇める鼻たれは、廊下の窓から空を眺めています。
 その様子をしりに、青年は涙屋の様子を確認します。清潔で温かな寝床と栄養のある食事のお陰で、涙屋の頬には血色が戻り、しわの数が減った気すらします。昨晩は鼻たれと城内を散歩したことも聞き、青年は安堵しました。
 それから青年は、獣の森での出来事をありのまま涙屋に報告しました。
「王は数カ月前にゆうかいされたと、代弁者が言っていました。何だか間抜けな話に思えます」
 涙屋は長くて白い髭を撫で、難しい顔を作ります。
「そうかもしれないし、違うかもしれないなぁ」
「やっぱり、真相は他にあると思いますか?」
「君はどう思う?」
「僕は、王は自ら女の国に赴いたのだと思います。別れた奥さんにやっぱり会いたくなったとか」
「何故そう思った?」
「女性が怒ったら、花を持って謝りにいくのが紳士だ、と母に教わりました」
「君のお母様は正しい。この地域に渦巻く大体の問題の解決もそれで出来そうなのになぁ」
「それじゃあ、王の誘拐について、貴方はどう思いますか?」
 涙屋は髭をさすり「さあ?」と首を傾げて見せました。
「あまり重要に思えない。それよりも、獣の民のほうが気になる」
「はあ。ええ、まあそちらも気になりますけれど」
 涙屋は、今度は目だけを天井へ向け、思い出したようにこんな話を始めました。
「とある国の王は、不老長寿を強く追い求め、医術の心得がある者に薬を処方させ、それを飲み続けた」
 青年は興味を引かれこう訊きます。
「できるものなのですか、そういう薬が?」
「いいや、その薬の正体は水銀だった。水銀は長時間熱したり蒸留したりすると、様々な形状に変わる、が戻すこともでき、その性質から不死身の象徴とされた。だが当然、水銀など飲めば本来の生命力を弱め、人の身体に悪い影響を与える」
「興味深い話ですが、つまりどういうことですか?」
「この国はいとも簡単に永遠の命を実現しているが、それは自然の道理に大きく反している。獣の森も、秘法が生んだひずみに思えてならない」
 青年は腕を組み、考えを口にしました。
「秘法は、永遠の命の代わりに、大切な記憶を忘れさせます。そのせいで、この国の人達は、子どもの存在を忘れ、子どもを獣と呼ぶようになったのだと思います」
 涙屋は窓の向こうの曇天を見つめます。
「果たして、森にいる子ども達は、どこから来たのだろうか」
「わかりません」
 青年は床を見つめ、涙屋は自分のつま先のほうを見つめます。
 青年は少し考えた後、こう言いました。
「貴方は永遠の命が嫌いなのですか?」
 涙屋は青年の目を見て言います。
「君は好きなのかい?」
「ええ。だって、それがあれば父と母は助かるし、家族はずっと一緒にいられる。そう、そうだ。この国は国民全員に永遠の命を与えているじゃないか。僕の両親にも、僕にも、永遠の命を与えてくれるよう、王にお願いしてみようかと今思い付きました」
 涙屋は厳しい剣幕で首を横に振り、青年の手に自分の手を重ねます。
「悪いことは言わない、やめなさい。彼らのように自ら頭を叩き、子どもの存在すら忘れるようになるぞ」
「じゃあ、貴方は死が怖くないのですか?」
 涙屋は手を握ったり開いたりして言います。
「怖いさ。けど普通は避けて通れないのだから、受け入れる考えや覚悟も必要だと思っている」
「その考えや覚悟とは?」
「前にも言った。君が教えてくれたじゃないの」
 涙屋はきょとんとした幼い表情で、青年の肩を優しく叩きました。
「両親を死なせまいと、一日一日を無駄にせず、この国を変えようとする、懸命な君のその姿さ」
 涙屋は大きく息を吸い込んで続けます。
「人間は、死があるから一日一日を大切にできる、毎日を大事にできるんだ。あたしは君から、改めてそれを学んだ」
 青年は両親のために故郷を飛び出し、明日親が死ぬかもしれない覚悟を以って、今日を生きていました。
「この国で君ほど、死と向き合い、戦っている人間はいない。だから〝王を帰還させる〟という明日を、君は引き寄せた」
 青年は胸を熱くさせられるような、くすぐられるような、でも本当は、誇らしい気持ちを抱いていました。
 それから涙屋は、深夜の、議会での出来事について語りました。
「この国の政治を語る場所を見学したよ。だが不毛なやりとりばかりだった」
「例えばどんな?」と青年。
「煮詰まった鎖国についての議論を延々と繰り返し、時々話が変わったかと思えば女の国の悪口を言い合って一時的に同調する。ただそれだけの政治だった」
 青年は仮面の表面をコツコツと指で叩きます。仮面を付けてから、考えるときの癖がそれでした。それから青年はこう言いました。
「でも、喧嘩するより、仲が良いほうがいいじゃないですか」
 涙屋は再び幼い表情を見せて、青年にこう訊きます。
「人と人が仲良くなる方法ってわかる?」
「わかりません」
「もう少し考えなさい」
 青年は理不尽な気持ちを抱きつつ、足の先を睨み、それからこう言いました。
「お金や食べ物を分け合うことですか?」
「それも大事ですが、一番手っ取り早いのは、共通の嫌悪を持つことです」
「なんだ。じゃあ、女の国と男の国も、共通の嫌悪を持てばいいのに」
「ところが、男の国は、この嫌悪による結束を利用して今に至っています。恐らく女の国も」
「利用? どういうことですか?」
 涙屋は議会の様子を説明して言いました。
「人は嫌悪で結束する。だから男の国の政治は、国民に、女の国が敵だと教え、それによって結束を強くしたり、国内の諸問題を誤魔化したりしているんです」
 青年は腕を組みます。
「国民を騙しているのですか? 何だかとても嫌な気分になります」
「それが政治であり、大人のやり方でしょう。卑怯だが邪悪とは言い切れない。多くをまとめるうえではそういう仕組みも必要なときがある」
 やはり納得のいかない青年に、涙屋は言います。
「それでいい。怒りや我慢はあまりよくないけれど、とにかくよく考えなさい」
「何だか、心に靄がかかったような気分です。答えはないのですか?」
 涙屋は口髭を小さく揺らすと、顔の皺を増やし、柔らかい表情で言います。
「人とよく語り、考えることが答えへの近道です」
 それから、涙屋は「考え事をしたい」と言って青年を外に出しました。
 青年にはまだ話したいことがありましたが、鼻たれに声をかけ部屋を後にしました。


 その日は、青年にとって息つく暇のない、大変忙しい日となります。牢屋に戻されるかと思いきや、鼻たれは青年をとある一室に通します。いつもと違って、鼻たれは鼻水をよくかみ、少し緊張した様子です。
 そこは城のなかでも上階に位置した、太い支柱が四隅で天井を支え、内装のすべてに豪華な装飾が施された寝室でした。
 青年にもすぐにわかりました。そこは王の寝室だったのです。
「来なさい」
 部屋に入った直後、大きな太鼓をドンと鳴らしたような声が奥から聞こえました。
 鼻たれと青年が部屋の奥に進みます。
 涙屋が寝ていたものよりさらに広く大きな寝床に王が座っていて、周囲には数人の大臣らしき男と、代弁者もいました。
 王の背たけは青年より高く、筋肉質で、体重は青年の倍はあります。口の周りには熊の毛のような髭をたくわえていました。
 頬に影が差し、白髪も目立ちますが、顔色は豚の肌のように健康的です。さきほどの声と併せて、昨日見たときよりも元気を取り戻していることがわかります。
「仮面の客人と話がしたい」
 それから王は人払いを言い出し、鼻たれも代弁者も、廊下に追いやろうとしました。
 しかし誘拐騒ぎからのやっとの帰還なので、鼻たれだけ、部屋の隅に残ることになりました。
「まったく、ケチだよなぁ」
 王の、子どものようなぼやきを、青年だけが聞き取りました。
 王の寝床の周囲にはいくつかの椅子が置かれていましたが、王の前で座ることは失礼かと思い青年は床に膝を突こうとしました。
 けれど王は想像より遥かに気さくで、「気を遣うな」と青年に笑顔を向けました。
 それから王は、隅に立つ鼻たれにこう言います。
「おい、代弁者にはうまく言ってくれるな?」
 青年にはよくわかりませんでしたが、鼻たれは大きなため息を吐き深く頷きました。まるで幼馴染同士のようなやりとりです。
 それから王は、部屋にある大きな窓を開け「さあ、行こうか」と、青年に振り返ります。
「あの、どこにでしょうか?」
「城下町にだよ」
 王の年齢は百を優に超えています。しかし、そのとき見せた表情は登山家のように健康的で、同時にとても無邪気なものでした。