第三章    未 来 (承前)




      1(承前)




 ともがうなずくのを確かめ、
「まずはゆっくり深呼吸をしてください」
 と、体の力を抜くようもとみや医師は言った。
 たかあきの座ったところは、友美をななめ後ろから見る格好となるのだが、肩が大きく上下するのが分かった。伸びた毛を自分で切ったぞろいの髪が、背中でれる。
「はい、結構です。先ほど僕はざわりんさんの名前を出しましたね」
 友美があごを引いた。
「新聞に名前は掲載されていません。でもあなたは、それが誰であるのかすぐに分かりました。僕が戸沢さんのことを知っていたことに、疑問を持ちませんでしたが、どうしてですか」
 それは孝昭の疑問でもあった。
 今日の朝刊に、しまざき氏転落死亡事故について、兵庫県在住の女性から任意で事情をいている、というしゅの記事が載っていた。だがそれが「佳鈴」だと言われても、孝昭にはピンとこなかった。孝昭が聞いているのは、あの「いんえいらいさん」のロゴを使った店は『モカロール』といい、そこのパティシエが佳鈴であったことと、彼女に本宮医師が会ってきた事実のみだ。警察から事情聴取されているのが佳鈴だ、と友美が知っていたことも驚きなら、佳鈴が事件に関与しているなどとは思いおよばなかった。
「だって先生が、いま私を苦しめているのは佳鈴ちゃんのことで、彼女を助けましょう、って言ったから……何もかも知ってるんだなと思って」
 友美が本宮医師から耳打ちされたのはこのことだったのか。
 彼女を助けるため? これまで悩んでいたのは、自分のことだけではなかったということか。
「なるほど、僕を信じてくれるんですね」
「でなかったら、ここに来てない」
「ありがとう。僕は佳鈴さんに会いました。あなたと関係があることも知っています。しかしこんていに存在する問題について見えない部分がある。そこが分かってくれば、あなたが佳鈴さんを助けることにつながります」
 と、本宮医師は言い、
「練習したように僕の指を目で追ってください」
 友美の正面ではなく、やや角度をつけるように座る位置をずらした。そして人差し指と中指だけを立てて、彼女の顔のけんの前へ差し出した。
「いま一番、嫌なこと、不快な記憶を頭に思い浮かべてください」
 と指を左右に動かし始める。
 指を追うと、ごくわずかに友美の頭が揺れた。
「不快……」
「そうです。それを思い浮かべて、嫌だと思ったとき何を聞き、何を見て、何を考えたのか、感じたままを話してください」
「嫌なのは、駅のざっとう。私を見るぎょうさんの目が怖い」
「たくさんの目? どこの駅ですか」
「京都駅」
「そんなに怖い思いをしてまで、どうして駅に向かったんです」
「向かったんとちがう、戻ってきた」
「どこかに行っていたんですね」
「うん」
「行きは怖くなかったんですか」
「ものすごく怖かったけど、戻ってきたときのほうがもっと……」
 友美の息づかいが荒くなった。
「どうしてなのかな? 用を済ませて戻ってきたんですよね」
「行かなかったほうがよかったと思って、気分が悪かった」
「気分が悪いのは、人混みよりも、その後悔の気持ちからだったということですか」
 本宮医師は左手を伸ばして、友美のみゃくた。
「大きく息を吐いてください。そしてゆっくり吸って。行かなかったほうがよかったと思う気持ちを思い出してください。いま家に帰ろうとしている駅。その人混みの中にいますね」
「うん」
「では時間をさかのぼって行きます。そこは『モカロール』へ向かう電車を待っているところです。思い出せますか」
「……行き?」
「そうです」
「……同じように人が私を責めるような目で見てきて怖い。においもかなん。売店の食べもんの色んな匂いが気持ち悪くて」
「その匂い、いま匂っているように感じますか。そうですね五段階でいうと、どれくらいリアルです?」
「四くらい。ほんまに好きやない、私」
「その嫌なことに意識を向けてください」
 本宮医師の指は動き続ける。
「それでも電車に乗った。そのときの気持ちはどんな感じかな?」
 と軽い調子で質問した。
「私らにとって嫌なことが迫ってることを伝えたい。この四月にあいつが京都の大学の先生になったとテレビで知った。私のいる場所まで近づいてきたんや。テレビで顔を見るたび、声を聞くたび吐き気がする男が……佳鈴ちゃんは知らんのや、きっと。そやから笑っていられる」
「笑っていられる? どうして知っているんですか」
「新聞記事で見た。あの子何も知らないから兵庫県に店を開いたんやで、先生。そうに決まってるやんか」
 友美の声は急に大きくなった。本宮医師に文句をつけているようにも聞こえる。
「深呼吸してください」
 本宮医師は友美に眼球運動をやめさせ、脈をとりながら、
「友美さんは佳鈴さんに会った。そのとき彼女の顔を見ましたね。何を感じましたか」
 と訊く。
「変わってない、あの頃の写真の顔と」
「写真?」
「あいつが自慢げに見せたんや」
「それは二十年前のことですね」
「あの子は小五」
「ご本人に会ったことは?」
「ない……」
 友美は佳鈴に会って話したい、と手紙を出したが、返信では「遠いので一人では無理」と記されていたという。孝昭が記憶している、母が病院に受け取りに行った手紙にちがいない。
「少し脈が速くなりました」
 また友美に深呼吸をさせた。
「記憶を佳鈴さんと会った場面に戻しましょう」
 ここでまた本宮医師の手の左右運動が開始された。
「佳鈴ちゃんは口元のほくろが可愛くて、目がキラキラしてた。あの頃より輝いて見えた。それが急に腹立たしくなって」
 体をこわばらせたのが、孝昭から見ても分かった。
「腹立たしいくらい、佳鈴さんは笑顔だったんですね。そこはお店ですか」
「店先」
「コーヒーやケーキの香りがしますか」
「する。洋酒の匂いも」
 友美はむせたようにき込んだ。
「店先でかわした言葉、覚えていたら話してください」
「私の顔を見ても気づかへんかった。『覚えてない? おおの病院にいたぼり友美よ』と名乗った。そうしたら、アッと声を出した」
 佳鈴が元気だったかとたずねてきたが、友美は返事をせず首を振ったのだと言った。
「どこか悪いの? と尋ねてきたけど答えられるはずない。だから、ケーキを買いたいけど洋酒の入ってないものを、と言うたら、『もっと大人のモカロール』を食べて欲しいのに残念って、新聞で見たのと同じ笑顔で……。もう限界やと思って、二人だけで話があると言った」
 こんわくの表情で少し考えていたけれど、佳鈴は自宅で話せるようにしたのだそうだ。
「一旦出てに入る、店の裏手にあたる場所ですね。通されたのはどこですか」
「リビング」
「大きな窓があって、そこから店と共通の中庭が見える部屋ですね」
「明るくまぶしい窓」
「さっき腹立たしいと言いました。もう限界だとも。それはどういうことですか」
「あんたは、もう忘れてしまったのかって」
 友美が機嫌の悪いときに出す低い声だ。
「佳鈴さんは何を忘れたんですか」
「あいつのこと」
「あいつというのは?」
「……島崎」
 友美がしぼり出すように言った言葉に、孝昭の心臓のどうは急に速まり、からせきが出た。やはり友美は島崎とつながっていた。はっきりと本人の口から出た以上、もう言い訳はできない。
「少しきゅうけいします」
 本宮医師は、三十回ほど手を目で追わせ、
「深呼吸して」
 と友美の手を握る。
「……先生」
 友美は涙声になっていた。
「大丈夫ですよ。島崎氏の名前を声にしましたが、怖さは十段階でどれほどでしたか」
 本宮医師は手を握ったまま訊いた。
「八くらい、かな」
「客観視できてるようですね。休憩しましょう」
 そう言うと、入り口から本宮夫人が盆にカップを載せて入ってきた。診察室の様子が分かるようになっているのかもしれない。
 部屋に広がった香りでミルクティーだと分かった。テーブルにお茶とカステラを置くと、静かに「どうぞ」と声をかけ夫人は出て行った。
「孝昭さんも、こちらへ」
 そううながされ、孝昭は椅子ごとテーブルにつく。
「あの、先生」
 本宮医師のじゅつがうまくいっているのかを訊きたかった。しかし、友美の前では答えようがないと思い直し、言葉を飲み込んだ。
「いい状態ですよ」
 孝昭の心配を見て取ったようだ。
「そうですか」
 恥ずかしくなって、カップの載ったソーサーを引き寄せた。
「心配しないでください。ここまでのEMDRで、僕の仮説はもはや定説となりつつあります。そうなれば、友美さんの悩みの一つも取り除くことができるでしょう。そしていま警察で話を訊かれている戸沢さんのことも」
 本宮医師の手は、ようやく友美の手からカップに移動した。
「私のせいで……佳鈴ちゃんが」
 本宮医師の言葉に友美が反応した。事件に関することを自分から口にしても取り乱していなかった。これがEMDRによる客観視なのだろうか。
「佳鈴さんは何もしゃべらないそうです。だから真相を聞き出せません。それはある意味当然なんです。おそらく彼女は記憶にふたをしてしまっている。部分的に記憶を失っている状態です。つまりは覚えていないのと同じですから、いくら警察が質問しても答えようがない。このままでは真相も明らかになり得ません」
「私が悪いんです」
 友美はけわしい顔つきでテーブルを見た。
「あなたのせいではありません。なぜなら、佳鈴さんの行動は誰にも予想できなかったし、もちろんその結果も。まずお茶を飲みましょう」




     2




 セッションは二日目に入っていた。昨日は休憩の後、何度こころみても、話す内容が佳鈴にとって重要な事柄だと思うあまり、あせりも手伝って、友美は集中できなくなった。そのうち過呼吸気味になったので、日を改めことにしたのだ。
「昨夜は眠れましたか」
 慶太郎は友美に訊いた。
「と、思うけど」
 友美は、昨日と同じ位置に座る孝昭を見る。
「うなされてはなかったよ」
 孝昭の答えに、
「ほな、寝られてたんやな」
 と友美がホッとした顔を見せた。
「話したことで、少し肩の荷が下りたのかもしれませんね。昨夜、警察から知らせがありまして、佳鈴さんに帰宅が許されました。任意だからということもあるでしょうが、現在は落ち着ける場所におられるという意味で、ひとまず安心してもいいでしょう」
 くらもちは、通常のしゃが完全もくを決め込むのとは違う様子を、佳鈴と向き合ってみて初めて実感したと、電話でらした。
 悪いことをした覚えがないのに、警察に連れてこられたことにこうし続け、もんがついたへんを見せると、「怖い」をれんしてふるえるばかりだ。紙片から佳鈴の指紋が検出された理由を訊いたが、泣きじゃくり、会話そのものが成立しなくなったようだ。
 続けて倉持は、
「ご主人の協力を得て、被疑者の家をそうさくしたところ、化粧台の引き出しからかんよけのさいるいスプレーもおうしゅうしました。いま成分を調べていますが、たぶん被害者の顔やちゃくに付着していたのと同じものでしょう。先生のご指摘の庭のレンガも、犯行で使われたのと同じメーカーのものか、確認するために持ち帰っています。ただ逃亡や証拠いんめつのおそれがないので、ご提案通り家に帰し、ご主人に監視してもらいます」
 と言った。彼は、佳鈴の犯行を確実視しているようだった。それは友美が安全圏にいることを意味する。しかし、無関係であるとは言えないところに、慶太郎の苦悩もあった。
「佳鈴さんがきゅうに追い込まれているのは……これのせいです」
 紙片を彼女の前にすべらせた。
「これは!」
 物を見せて、一気に記憶をよみがえらせる方法をとった。佳鈴が安全な場所にいるということでリラックスした瞬間をついたのだ。
「視線を指に戻して」
 ちには、リスクがともなう。そのため自分の指に合わせて動く友美の眼球を確認しつつ、自然に思い出させるように注意をはらった。
「これは何ですか」
「佳鈴ちゃんが持ってた……あいつのメダル」
 友美の手をとると、やはり脈が激しくなっている。しかしその他の身体反応は認められない。
「あなたのものではないんですね」
「私のじゃない、あの子がアルバムにしまってたやつ」
「佳鈴さんは、突然やってきたあなたにアルバムを見せたんですね。確認ですが、あなたは佳鈴さんに、初めて会ったんですね。それは彼女にとっても同じです。なのにアルバムまで見せてくれた。指から目を離さないで、そのときのことを思い出してください」
「あのことを忘れたんか、と訊いたら、何のことかという顔をした。私は怒った。あのヘンタイ院生にされたこと、忘れられるはずないやろってったんや」
 そのとき友美はのどの奥が痛くなるほどの大声を出したのだ、と言った。
「佳鈴さんの反応はどうでした?」
「びっくりして、それから泣きそうな顔になって私にあやまったんや。ほんまに覚えてないんやって。そして奥に入ってアルバムを持ってきた」
 佳鈴はテーブルにアルバムを広げた。
「そのページには何があったんですか」
 記憶を鮮明に、よりリアルな追体験とするために、彼女の口から言わせることが大事だ。
「これがあった」
 友美は紙片を指さした。
「メダルといいましたね」
「小テストでいい点を何回か連続でとると、あいつがくれる優秀の証し」
「あなたももらった?」
「くれた。でもそれの授与式いうのが……」
 他の生徒がしっするから、二人きりのときに贈ると島崎は言ったという。
「病院の屋上とか非常階段とかに連れて行って、キスされた。やめてって言ったら、先生は君のことが好きやと体中をさわってきた。言うことを聞いたらりつせい調ちょうせつしょうがいも治ると、下着をがされて……」
 友美が言葉を詰まらせた。
 孝昭が息をのむのが分かった。慶太郎は目でうなずき、友美に話しかける。
「僕の指を追ってください。嫌なら言わなくていいよ。そのとき感じたことを教えてくれますか」
「恥ずかしかった。裸をカメラで撮られたから」
 島崎が自慢していた最新式のデジタルカメラなのだそうだ。生徒たちの学習する様子を院内に貼り出したり、保護者にプレゼントして喜ばれていたと、友美は悲しげにつぶやいた。
「恥ずかしくて、涙が出て、気持ち悪くなって吐きそうやった。メダルを貰うたびにいやらしいことをされた。嫌がると写真を学校の友達に見せてもいいのかと脅されて」
 むごい仕打ちだ。人として耐えられないりょうじょくだ。ましてや中学三年生の女の子なら、心的外傷後ストレス障害を発症してもおかしくないどうな行為だ。
 許せない。
 想像はしていたが、二十年間苦しみ続けた友美の揺れる目を見て、込み上げてくる怒りを慶太郎は必死に抑えようとしていた。施術者が感情に流されるわけにはいかない。
「補習という言葉を聞いて何か感じますか」
「大嫌い!」
「大嫌い?」
「そう、今もゾッとする」
「どういうことか教えてください」
「そのうち、メダルを渡すときだけやなく、上を目指すための補習をしてあげると言って、学習日やないときに私を呼び出した。お酒の匂いさせてた。本人は上等のブランディーやいうて自慢げに」
 洋酒を嫌う原因も島崎のばんこうにあったようだ。
「退院するまでそんなことが続いたんですね」
「退院が決まる前に、もっといやらしいことをきょうようしてきた。お前よりも四つも年下の子でも、言うことを聞いてどんどん賢くなってる。この子なんか、まだ小学生やのにって」
「そう言って見せられたのが戸沢佳鈴さんの写真だったんですね」
「この子に負けたくなかったら、中学生としての意地を見せろって」
 見せられたカメラの画面に映る佳鈴の顔は笑っていた。
「その顔を覚えていたんですね」
「……裸なのに笑ってた……」
 友美は赤ん坊が時折発する、泣いているのか笑っているのか判然とないケロケロという声を上げた。揺れるまなざしには涙がにじんでいる。
 慶太郎はセッションを中断し、呼吸をととのえさせた。
「先生、私は大丈夫や。私が佳鈴ちゃんに会ったからこんなことになった……」
「そうですか、分かりました。では続けましょう」
 慶太郎は彼女の目の前に手をかざす。
「目の動きが止まらないようにしてください。佳鈴さんとあなたの間にアルバムがある。佳鈴さんがアルバムを見せたのはどうしてなんでしょう」
「ここに当時の思い出がある。このどこにも変な人は載ってないって、入院してたときの写真をパラパラめくってみせた」
 慶太郎も見たが、暗い表情の佳鈴の写真は一枚もなかった。どれも同じような年格好の友達に囲まれて、笑顔があふれているスナップだった。
「そこにこのメダルがあったんですね」
 今度は慶太郎が友美の目前にある紙片を示す。
「信じられへん、こんなもんを大事に持ってるなんて。言うても分からんようやから、悔しくないんかあんなことと、私がされたことをあの子に……」
 友美は自分が受けたはずかしめを、過呼吸を起こしかけ、きながら話した。
「それに対して彼女は?」
「急に泣き出した。もの凄い声でわめいて、私をあいつやと勘違いしているような感じやった」
 佳鈴の取り乱しように、友美もどうしていいか分からず、身動きができなかったそうだ。
「気を失ってバタンと床に倒れてしもた。怖くなって、買ったケーキを持って外へ出た。そこからはもう夢中で、気がついたら京都駅に帰ってきてた」
「そうですか。あなたは忘れられない嫌な場面に立ち返ったのですが、今はどんな気分ですか」
 と慶太郎は、友美のほおを伝った涙がテーブルに落ちていたのを見て、テッシュを手渡した。
「そういえば、パニックにならへんかった。不思議。今の自分が、昔の映像を見てたみたいな感じ」
 友美の言葉を聞いて、慶太郎は内心あんしていた。
 EMDRのセッションが、すべての心的外傷後ストレス障害に有効というわけではない。これまでの友美との信頼関係が、そうこうしたようだ。
 海外にはEMDRのセッションは、特段の信頼関係を必要としないとする報告もあるが、慶太郎はそう思っていない。信頼感こそ医療のこんかんだと信じている。
「昔の映像、その感覚が大事なんです。過去のこと、すでに終わった出来事なんです。いま起こっていることではない。忘れられないけれど、すでに古いフィルムの映画だから、それを『昔』という箱にしまえる。どうです、そう考えると島崎が、今のあなたには何の影響も及ぼさない存在に思えてきませんか」
「怖い思いは今もあるけど」
「ですが、あなたはもう中学生じゃない。入院したとしても学習支援など受けなくてもいい。なにより島崎なんて取るに足らない人間です」
「……先生、佳鈴ちゃんはほんまにあいつを?」
 涙をぬぐった後、彼女の頬はもう濡れていない。
 恐怖のあまり凍結させていたトラウマは、似たような風景、光、匂い、さらには言葉や文字によってみゃくらくなく再現されてしまう。予期せぬフラッシュバックはせんれつなリアリティをもって、体験したときとたがわぬか、それ以上の恐怖や痛みをもたらすのだ。そのたびにどう、血圧上昇、そしてめまいや耳鳴り、過呼吸、吐き気などの身体反応を引き起こす。
 そこでそのトラウマに一定の秩序、例えば時間、空間、その他の条件付けをする方法をとったのだ。
 友美の場合、中学生のとき、起立性調節障害をわずらったために入院し、学習支援を受けるという状況で、島崎という狂った男と出会ってしまった。それらの条件が整わない限り、同じことは起こらない。現在の危機ではなく過去の出来事だと認識すれば、断片的なフラッシュバックが起こったとしても、身体反応は起こりにくくなるはずなのだ。すぐには無理でも、セッションの回数を追うごとに、徐々に他のいやな思い出と同じレベルに変わることが期待できる。そうなれば心的外傷後ストレス障害は一旦かんかいしたと見ていい。後は強いストレス体験を避けながら通院し、経過観察を行うだけとなる。
「実は島崎さんの転落現場に、これと同じ桜の紙片が残されていました」
 慶太郎は紙片を自分のもとに引き寄せ、
「新聞報道では触れていませんがね」
 と、ちゅうしゃくを加えた。
「私アルバムからがして、こんな汚らしいもん、よう持ってるなってあの子に投げつけた」
「なるほど、そのときにあなたの指紋がついたんだ」
「私の指紋……私が犯人やと思われてたってこと?」
 友美が後ろを振り向いた。
「ごめん」
 孝昭が小声であやまった。
「孝昭さんも僕も、あなたを信じていました。だから真実が見えてきたんです」
 慶太郎は驚いた表情の友美に、真剣な目で言った。
 友美は、慶太郎の言葉をみしめるようにうなずいた。
「佳鈴ちゃんは、何であんなもんを」
「紙片の意味を問いただそうとしたか、あるいはあなたと同じように投げつけるために」
「けど、先生。アルバムに貼るくらい大切にしてたのは、何で?」
 と、友美は切なそうな声を出した。
「彼女は十一歳とまだ幼かったから、島崎の行為の意味が分からず、自己防衛から『かいせいけんぼう』という状態におちいったんだと思います。冷凍保存状態にしていた記憶を、あなたの体験を聞いて解凍してしまったのでしょう。そして子供ではない自分が彼にいきどおり、きゅうだんしようと行動を起こした」
「忘れてたということ……?」
 半信半疑の表情を向けてきた。友美にとっては忘れられるような事柄ではないのだ。
「昨日、僕自身もEMDRのセッションを体験してみたという話をしましたね。実はクリニックを始めてから時々、夜中に大きなそうしつかんに襲われて飛び起きることがあったんです。そのとき気づかぬうちに涙を流している。次の日、気力が湧かないんです。その原因が分からないか、と体験を申し出たというわけです」
 慶太郎はセッションを行う医師の指を目で追ううちに、阪神淡路大震災直後の光景を思い出した。研修医として被災者のケアの手伝いをしていたとき出会った男性は、れきの下で動けなくなった妻や子供を目の前にして、何もできなかったと話した。その男性の顔が鮮明に蘇ってきたのだ。彼のうつろな目、かんした口元、ほうけてしまった表情で語る家族の最期が、実際に現場にいるように映像として見えてくる。
「これは二次じゅしょうというものに外なりません。トラウマ体験を聞く立場の人間、とりわけそれを職業とする者がもっとも気をつけないといけないストレスです。実際に体験していないトラウマによって、心的外傷後ストレス障害を発症することもあるからです。うつ病となった精神科医、心療内科医も何人か知っていました。にもかかわらず、自分では気づかなかった。同じ加害者に、同等の性的虐待を受けたあなたと佳鈴さんなら、いくら記憶の喪失状態であっても、トラウマは引き継がれたのでしょう」
 友美が今後生きていく過程には、トラウマの引き継ぎがなされる機会が必ずある。そういうことがあると知れば予防になるはずだ。
「やっぱり、私のせいや」
 予想通りの反応を友美は示した。
「いえ、違います。いずれ何らかの形で解凍されます。友美さんがしなくても、同じ事が起こった可能性がある。よく考えてください。いまは僕があなたの前にいる。孝昭さんを通じてあなたと出会いました。そして真相を突き止め、今度は佳鈴さんの力になろうとしています」
 用意していた言葉だ。
「先生が?」
「そうです。真相を分かっている僕が関われるタイミングで事件が起こったというわけです。だから彼女も僕が治療にあたり、最善をくすことができる」
 妻の指紋が付着したビニール手袋を提出する際、ひろしが佳鈴の主治医になってほしい、と言ったのだ。だからこそ捜査官やかんしき係官の捜索も受け入れた。
「悪いことばかりじゃないってことですよ、友美さん」
「先生」
「そうだ、孝昭さん。以上がお姉さんの辛い体験で、事件の真相です」
 慶太郎はずっとうつむいていた孝昭を見た。
「先生、ありがとうございます。ほんで姉ちゃん、ほんまにごめん、俺何にも知らんかったさかい……」
 孝昭は、じっと友美を見詰めて涙声で言った。
「言えへんかった。口に出すのも恐ろしくて」
「これまで、無神経なこと言ってたかもしれへん。許してな」
「こっちこそあんたに頼り切ってた、大人はみんな汚く思えて。私のことなんか何も分かってくれへんて、親をさかうらみしてた」
「友美さん、孝昭さん、二人に言っておきます。人生のシナリオは、誰でもない自分自身で書くものです。テーマは絶対に幸せになる、です。忘れないでください」
 おうしんではなく、次の診察日を決めましょうと、慶太郎はほほんだ。




     3




 慶太郎は倉持と二人の係官と共に、戸沢家におもむいた。佳鈴の負担を考え、彼女の落ち着く自宅のリビングで話を聞くためだ。
 倉持は、録音録画の機材を設置するよう係官に指示し、かたわらに夫である寛の同席を認めた。
 準備が整うと、慶太郎は友美のときと同様、EMDRの説明をした。数回練習してからセッションに入る。今回の目的は、強いストレスによって凍結され、健忘状態にある島崎転落死にかかわる記憶の解凍だ。
 倉持と二人の係官は、佳鈴の視界に入らないよう彼女の背面に立ち、寛はテーブルのはしの席につく。
 窓を背にして、佳鈴の正面に座るのは慶太郎だけだ。
──いまから嫌なことを思い出してもらいます。まず、以前僕が見せたこの紙を見てください。
「嫌! そんな不吉なもの」
──不吉だと思うことを思い出してください。浮かんだままの光景、感じたままを話してほしいんです。僕の指を見てください。
「体中が熱くなって汗が噴き出しました。自分が憎い、恥ずかしくて消えてなくなりたい。やっとの思いでお店を出して……主人への申し訳なさと、生まれてくる子供のことを考えると死ねません」
──子供? あなたは妊娠しているんですか。何カ月?
「三カ月に入るところです」
──そのことはご主人に伝えてないんですか。
 慶太郎は寛を見る。彼は激しく首を振った。
「近々言うつもりでした」
──あなたは母親になるために、勇気を出した?
「その通りです。このままでは、気持ちが収まりません。古堀さんが言うようにメダルをありがたがって、思い上がらせてしまいました。それまで何とも思わなかったけど、古堀さんに会った後にテレビで見たとき、気が遠くなるほど腹が立ちました」
──島崎さんがあなたにしたことは、古堀友美さんから聞いた話と、重なることが多いんですね。
「同じです。血が逆流しました。憎い。子供が生まれるまでにこの気持ちを何とかしたい……」
 佳鈴の呼吸が浅くなった。
──深呼吸してください。そうです。深呼吸が上手ですね。カウンセリングを受けたことがあるんですか。
 手を止めて尋ねる。
「眠れない日が続いたことがあって、主人に内緒で」
──なるほど。ではもう一度僕の指を見て……内緒にしていたのは、島崎さんに会うこともですね。やっぱり言えないことだから?
 佳鈴は、側にいる寛に目をることはなかった。蘇った記憶のシーンにぼつにゅうしているようだ。
「主人には絶対言えません。理由を訊かれるから。私の怒りは誰にも分かってもらえない」
──さらに辛いことを思い出してもらいます。問題の日、まずあなたは何をしました? 僕の指を追って。
「メダルを持って電話をかけました」
──用意したのはメダルだけですか。
「負けないようにレンガと痴漢よけスプレーを持ちました」
──よく連絡先が分かりましたね。
「ホームページに広報課の番号があったので、そこに。昔使っていた合い言葉みたいなものがあって、それを言えば分かると思いました」
──合い言葉みたいなものとは何ですか。
「『補習』。補習はいつも……」
 佳鈴が強くこぶしを握った。
──あなたに嫌なことをする目的で、補習をしたんですね。電話をしたのはどこからですか。
「京都駅にあるホテルの公衆電話です。スイーツの勉強をしてたとき、よく利用したホテルなので」
──何時頃でした?
「七時半頃」
──正確にどう言ったのか、覚えていれば教えてください。
「補習の件でどうしても話がある、そう伝えてもらえば分かるって言ったと思います」
──島崎さんの反応はどうでしたか。
「戸惑ったみたいだけど、笑いました。何も変わってない、悪魔のまま」
 さらに体に力が入った様子だ。
──よし神社で待ち合わせたい、と言ったのはあなたですか。
「いいえ、はじめホテルで会おうと言われました。私が外がいいと言うと、吉田神社を指定されました。それでお菓子に関係する神社にまいることがあるんで、私がかぐおかしゃがいいと言いました」
──ここからが大変になります。休憩しますか。
 慶太郎は手を止めた。
 いいえ、続ける、と佳鈴は前のめりで攻撃的な顔つきだ。蘇った記憶がより鮮明なのか、興奮状態にあるようだ。ちんせいさせるか迷ったが、ストレス状態の中でいつ記憶に蓋をしてしまうか分からないので、セッションを続けることにした。いま以上に動悸が激しくなったり呼吸が乱れれば中止すればいい。
 慶太郎は二、三度腕をぶらつかせ筋肉の疲労を取ってから、また動かす。
──あの急な石段を上って、ほこらの前に二人はいます。そこで何があったんですか。
 佳鈴はすぐには話さなかった。目は慶太郎の指を正確に追うけれど、くちびるは強く結んだままだ。頭に浮かぶ情景を言語化する時間が必要なのだ。焦らずに待つ。
「メダルを出して覚えているか訊きました。自分がやったことを後悔させたかったんです。そうしたらこう言いました。『君は優秀だった』。悪びれもせず、『優秀だった』と。優秀、最低の言葉。私を傷つけもてあそんだ言葉。私は思いきりスプレーを顔に吹きかけました。黙らせたかったんです。わめきながらしがみついてきたので、レンガで……」
 手首が痛いほどの衝撃があったこと、たばの臭いがしたことなど、話は前後して感覚だけを口走り、佳鈴の唇が震え出す。何かを言おうとしているけれど、言葉が出てこないようだ。
──島崎さんは石段から転落していたんですね。その後はどうしました。
「家に帰りたかった。とにかく歩いて、川が見えてきたのでレンガを捨てました。気がつくと家に戻っていたんです。後悔はありません。ただメダルもレンガと一緒に捨ててしまいたかった」
──それはあなたの犯行だと分かるからですか。
「いいえ、あんな人間からめられた証など、この世からなくしたいからです」
──あなたは記憶を取り戻したために、罪に問われます。その上で殺意があったのかを伺います。
「出会う前に殺したかった」
──出会う前?
「私は子供のとき、殺されたんです。殺しておけば出会わなくてよかった……」
 矛盾した言葉だけれど、少女の切実な気持ちが慶太郎には迫ってくる。
──佳鈴さん、あなたは後悔していない、と言いました。しかし、子供の頃の出来事と同様、事件の記憶に蓋をしていた。これは強いストレスを受けたためです。それこそが罪の意識があった何よりの証です。あなたは人々が笑顔になれるお菓子を愛する、優しい女性なんです。そんなあなたを踏みにじった人間を私は憎む。
「先生、ありがとうございます」
 えつが佳鈴と寛から漏れた。
──今後は僕があなたの治療を行いたいと思いますが、いいですか。
「お願いします」
──以上でセッションは終了します。佳鈴さん、深呼吸をしてください。どうもお疲れさまでした。ご主人もご苦労様でした。
 セッション後、佳鈴は逮捕された。

エピローグ

「すまんさわたり、この通りだ」
 佳鈴のが決まった日の午後、慶太郎は診察室できょういちに頭を下げていた。次回の放送でテレビ出演を最後にしてほしい、と担当ディレクターに申し出たことを聞きつけ、恭一が飛んできたのだった。
「今の世の中はやすたりのスピードは速いぞ。ちょっとくらい有名だったからといっても、あっという間に忘れ去られる。元の貧乏医者に戻りたいんか」
 恭一は、慶太郎のデスクの椅子に座って足を組む。
 これまでの恭一の尽力を考えれば、彼の前に立ち、ペコペコするしかない。
「だいたい俺だけ貧乏くじや。みつはお前からのレクチャーで、朝刊に児童虐待の特集を書くことになったって喜んどるしな。うーん、コンサル料の二割増しや」
「分かった。そうさせてもらいます」
「しかしよっぽどもうからないクライエントが好みなんやな。労多くして割り増しなしの明朗会計か。すみちゃんやたけるのことも考えたれよ」
「もちろん考えてる」
「ほんまかいな。今度の患者さん、殺人犯なんやからな。弁護士を世話せえいうから、とうとう慶太郎先生、いかがわしいことに手を出したと思ったで」
「沢渡だいみょうじんのお陰です」
 セッションの録画は証拠として法廷に提出することが決まっていて、『私は子供のとき、殺されたんです』という言葉や、被害者の行為によって心的外傷後ストレス障害を引き起こしたこと、そして慶太郎の、罪の意識があったゆえに解離性健忘を煩ったという見立てがじょうじょうしゃくりょうあたいする。しつに持ち込めると弁護士も言った。
「何で、そこまで一所懸命になれるんや、ついこないだ会ったばかりの人間に」
「いや戸沢さんの罪が軽くなることは、古堀友美さんの治療のいっかんでもあるんだ」
「どういうことや」
 恭一は組んだ足を元に戻した。
「自分が会いに行ったことで戸沢さんを犯行に駆り立てたという後ろめたさは、そう簡単に消えない。重い罪を科せられることになれば、やはり強いストレスとなる。それでは寛解を維持できなくなる」
「そこまで考えてるのか。儲かるわけないな」
 あきれ顔で席を立ち、ソファーに移動すると、テーブルのロールケーキを口にした。
「ココアとラム酒がいてうまいな」
「それ、戸沢さんとこのモカロールだ」
「犯人の?」
 慌ててアイスティーで流し込む。
「ご主人が作ったものだよ」
 慶太郎は笑った。
「久しぶりに楽しそうね」
 澄子が入ってきた。
「澄ちゃん、また金欠病を発症しますよ、こいつ」
 と恭一が口いっぱいにケーキを頬張る。
「慶さんらしいとあきらめてるわ。たぶん、被害者の奥さんの救済にも乗り出すでしょうし」
「えっ、お前まじかよ」
「そんなたいそうなことじゃない。被害者の奥さんだって被害者みたいなもんだ。そうとうなショックのはずだ。昔のこととはいえ、小中学生の女の子に性的暴行を加えていたことが、裁判で明らかになるんだからな」
「おいおい、何もそこまでお前が面倒みることないんとちがうか」
「沢渡さん、きつく言ってやって」
 そう文句を言う澄子は笑顔だった。
 慶太郎もすべての人をやせるとは思っていない。
 ただ自分の見える範囲に、明らかに傷ついた人間がいると分かっていて放置できないのだ。見過ごして、後悔したくない。
 人生には上り階段も下り階段もある。たとえ下りだと思っていても着実に前には進んでいる。底の見えない下り階段は暗くて怖いけれど、前に進んでいる以上幸福に近づいていると信じて欲しいのだ。
 上りだった佳鈴の人生を、友美は自分が下りに変えたと思っている。しかしそうだろうか。佳鈴はいま病気の現況と向き合えている。出産を機にフラッシュバックする可能性もあったのだ。
 慶太郎のクライエントは、階段を下りていると思っている人ばかりだ。そんな人たちに、病と向き合うことは前進なのだと分かってほしい。それは見えないけれど真実なのだ、と。
                       〈了〉