第11話 『翔太の片恋』・前

 腕時計を見ると六時半を回っていた。
 しょうたは店の前でそくを整える。
 そっと扉を押してなかに入るとカウンターの向こうで、なながぼんやりとした様子で立っていた。暗い表情のようにも見える。ひょっとしたら……。
「あら翔太君、いらっしゃい」
 それでも、精一杯明るい声を七海はあげ、
「また、昭和歌謡――今日はどんなレコードを探してるの」
 ほんの少し笑ってみせた。
「今日はかみじょうつねひこさんの『誰かが風の中で』がないかと思って」
 できる限り明るい声で答えると、
「あっ、テレビドラマの『木枯し紋次郎』の主題歌になった曲ね――でも珍しいわね、どちらかというと、暗いかんじの歌が好きな翔太君にしたら。あれはテンポも良くて、旋律も明るい気がしたけど」
 さすがに七海は穿うがったことをいう。
「それはそうなんですが、あの歌はそれまで暗くて湿っぽいものが多かった時代劇の主題歌の殻を破ったというか、エポック・メーキングというか――だから、けっこう興味をそそられて」
 思った通りのことをいうと、
「そういうことなんだ。でも……」
 七海は少し考えるような面持ちを浮べてから、
「私の記憶では残念ながら、うちにはあの歌は入ってない気がする。単なる私の思い違いかもしれないけど」
 いかにも申しわけなさそうにいった。
「じゃあ、とにかくざっと見させてもらいます。ひょっとしたらということも、ありますから」
 翔太は笑顔を浮べて七海の前を離れ、奥の中古レコードのコーナーに歩く。七海が入っていないというのならその通りなのだろうが、そんなことより翔太は七海の様子のほうが気になった。
 レコード棚の陰に隠れ、翔太はカウンターのなかの七海の様子をうかがい見る。やっぱり表情は暗い。その暗さのなかに何となく悲しげなものが、あれは……。
 翔太の脳裏に中年男の顔が浮ぶ。
 思い出したくない顔だった。
 あの男から何か連絡が入った。そうとしか考えられなかった。
 翔太は両の拳を握りしめて七海の横顔をしばらく凝視してから、ゆっくりとカウンターに向かって歩いた。
「七海さん――」
 できる限り優しい声を出したつもりだったが、翔太を見る七海の顔に一瞬、おびえのようなものが走るのがわかった。
「間違ってたら謝りますけど、ひょっとして溝口さんから、また連絡が入ったんじゃないですか」
 真直ぐ顔を見ていった。
 とたんに七海の顔が歪んだ。
 両眼が潤んだ。
 が、七海の口は開かない。
「七海さん」
 叫ぶような声をあげた。
 七海の視線が床に落ちた。
 こくんとうなずいた。
 少女のような仕草だった。
「いつ……」
 のどにつまった声が出た。
「昨日の夜、ケータイに。一度会いたいってあの人が」
 七海は溝口のことを、あの人といった。
「それで七海さんは溝口さんと、会う約束を――」
 たたみかけるようにいった。
「一度ぐらいはと思って……」
 蚊の鳴くような声を七海は出した。
「あんなにひどい目にあわされたのに、七海さんはまだ、あの男のことを」
 怒鳴るようにいう翔太に、いやいやをするように七海は首を振った。何度も首を振った。そのとき店の扉が開いて若いカップルが一組入ってきた。
「あっ、いらっしゃいませ」
 かん高い声をあげる七海の顔の涙は止まっていた。いつもの顔に戻っていた。
「会うのは、いつ」
 カップルが店の奥に歩くのを見届けて、押し殺した声を翔太は出す。
「明後日の夜――」
 ぽつりと七海がいった。
「会わないほうが、あの男とは会わないほうが」
 と翔太が声をあげると同時に、また店の扉が開いた。
「おう、相変らず仲が良さそうじゃの」
 能天気な声が響き、そっちのほうに目をやると、なんとげんである。後ろにはゆうぞうもいる。
「ちょっと七海さんに話があってやってきたんだが、取りこみ中なのかな」
 裕三がげんそうな目を向けてきた。
「いえ、そんなことはないです。ちょっと昭和歌謡の歌詞のことで意見の食い違いがあって、それで」
 とっさに翔太がこういうと、合せるように七海がうなずくのが目に入った。
「それならいいが……」
 ほんの少しにらむような目を向けてから、裕三は源次と並んで翔太の隣に立った。
「実は、パン工房のたけふみ君のことでね」
 裕三が話を切り出し、
「近頃、人相の悪い二人連れが丈文君の店に入りびたって、客が迷惑をこうむっているといううわさを耳に挟んだんだが、七海ちゃんはそのことを知ってるのかな」
 単刀直入にこんなことをいった。
「私もそのことは耳にしています。どんな事情でそんなことになっているのか、きちんと丈文君にただしてみなければと思ってはいたんですが、返ってくる答えが怖くて。それでなかなか腰が上がらなくて伸び伸びに……すみません、お二人に丈文君を紹介した私がこんな有様で」
 七海は首をたれた。
「そんなにしょげることはねえよ。あのときは渡りに船と、わしらのほうも有難がって丈文を受け入れたんだからよ。じゃから、そのあたりはお互い様で、そんなに責任を感じることはよ。七海ちゃんだって、この商店街のために、よかれと思ってやったことじゃろうしよ」
 いたわりの声を源次が出した。
「とはいえ、放っておくわけにもいかないから、そのあたりの事情を丈文君にいてみようと思ってね。以前、丈文君はそうしたあれこれを俺たちに説明するともいってたし。そうなると七海ちゃんもその場に同席したほうがいいんじゃないかと思って、ここにきたんだが」
 柔らかな声で裕三がいった。
 源次にしても裕三にしても七海に対してはかなり優しい。おそらく七海の母親のけいけこが二人の初恋の相手だからということなんだろうが……その恵子は現在もオーストラリアに行ったきりで帰ってはいない。自由奔放に動き回っている。
「これから行くつもりなんですか」
 ちょっととまどったような顔で、七海が訊いた。
「そのつもりで仕事をさっさと終えて、すぐに出てきたんじゃがよ。七海ちゃんの都合はどうかいの」
 のんびりした口調で源次がいうと、
「はい、私のほうも個人営業なので何とでもなりますけど」
 神妙な顔つきで七海は答えた。
「それなら、僕も一緒に行っていいですか」
 翔太は間一髪、話に割って入った。
 七海はかなり、丈文という高校の同級生だった男に入れこんでいた。それが気になった。二人の間がどんな状況なのか、それが翔太は知りたかった。しっ……そんな言葉がふわっと胸の奥をよぎった気がした。
「大歓迎だ。頭のいい翔太君が一緒に行ってくれれば、鬼に金棒。いうことなしだ」
 機嫌のいい裕三の声が耳を打った。
「あっ、ありがとうございます。じゃあ一緒に行かせてもらいます」
 頭を下げる翔太の胸に複雑な思いが湧く。何といっても動機が不純なのだ。しかし、自分はいまだに七海のことを……諦めきって胸の奥深くに封印したはずの恋心だったけど、それが。
 そんなところへ、先程の若いカップルがドーナツ盤のEPレコードを一枚手にしてカウンターにやってきた。ジャケットには西にしじまの『池上線』のタイトルが踊っていた。翔太も好きな曲だった。

 丈文がやっている『宝パン工房』の閉店時間は七時。ちょうど終ったころで、丈文は店のあと片づけをやっていた。
 裕三たちの姿を見た丈文は一瞬、ぎょっとした表情を浮べ、
「すみません。十五分ほどで一段落つきますので、それまで奥のほうで待っていてもらえますか」
 力なくいった。
 パン焼き機の脇にあるパイプイスに腰をおろし、四人は丈文のくるのを待った。さすがに機械の周りは暖かく、寒さはまったく感じられないのが有難かった。
 しばらくすると神妙な面持ちの丈文がやってきて、四人の前のイスに体をすくめるようにして座った。
「人相の悪い連中がこの店に入りびたり、客に迷惑をかけているという噂を耳にしてね。今日はそのことやら、以前少し待ってほしいと丈文君がいっていた、あれこれの話を聞くためにここにきたんだが。どうだ、正直に話してくれるだろうか」
 ずばりと裕三がいった。
 丈文は少しの間、無言でうつむいていたが、やがて「はい」と小さな声を出した。
「その二人はいったい何じゃ。おめえが昔つるんでいたワル共なのか、どうなんじゃ。名前はなんというんじゃ」
 ドスの利いた声を源次が出した。
「そうです。府中の競馬場で知り合ったワルたちでさかはまという男たちです。その二人とこの店が開店する直前に偶然出会って――それで」
 肩を落す丈文に、
「例のしっそう騒ぎだな。あれは一体何だったんだ。原因はそもそも、どういうことなんだ。それを教えてくれないか」
 裕三がはっきりした口調で訊いた。
「原因は金です。あいつら、それを返せと脅しにかかって……」
「お金って、いったいいくらなの」
 七海が疳高い声を出した。
「それは、五千円です」
 意外な数字を丈文は口にした。
「五千円じゃと――そんなもの、おめえ。をつけて返してやれば簡単にケリはつくんじゃねえか」
 すっとんきょうな声を源次があげるが、事はそう簡単ではないようだ。
 丈文がワルたちの前から姿を消す三日ほど前だという。当面の金に困っていた丈文は、矢坂という男から五千円を借りた。それまでも貸したり借りたりを繰り返していて、金の出入りはいいかげんで、丈文もかなりの額を矢坂と浜田からは踏み倒されていた。
 そんなこともあって、五千円の借金は丈文の頭からすっかり消え去っていたが、偶然顔を合せた矢坂はそれをネタに因縁をつけてきた。
「バックレる寸前に金を持ち逃げしたのが気に入らねえ。裏切り料、迷惑料、利息――諸々元利合せて五十万払えよ、てめえよ」
 無理難題をふっかけてきた。
「そんな金は、とても」と頭を振る丈文に、
「なら、店をぶっ壊すか。かなり、いい音がするだろうな。胸のすっとする音がよ」
 二人は脅しをかけた。
 丈文にとっても商店街にとっても、大事な店だった。従うしかなかった。丈文は金策に走りまわった。ようやく十万円ほどを工面して二人に渡し、「これで勘弁してほしい」と懇願したが「残金四十万を持ってこい」と散々殴られて放り出された。
 それがあのときのてんまつだと、丈文はいった。
「五千円が五十万か。実にいい商売じゃのう。わしも、あやかりたいのう」
 話を聞き終えた源次が首を振ると同時に、七海が大声をあげた。
「それでその二人と縁が切れるなら、お金は私が立替えます」
 翔太の胸が、ざわっと音を立てた。
 四十万もの大金を七海は丈文のために……七海はやっぱり丈文のことを。しかし、そうなると溝口はどういう立場になるのか。わからなかった。きちんと論理立てのできる話なら得意だったが、男と女の話は苦手だった。特にどろどろの男と女の話は。
「それで、その矢坂と浜田という二人は店に入りびたって金の催促というか、嫌がらせというか――丈文君をいたぶって喜んでいるのか。何とも救いようのない連中だな」
 吐きすてるようにいう裕三の言葉にかぶせるように、
「となると、わしの出番じゃの。久しぶりにちょっとシメてやるかの。もちろん、七海ちゃんが四十万を払う必要はまったくない。そんなことをしようもんなら、共は今度は七海ちゃんを標的にしかねないしの」
 源次がうれしそうにいった。
「シメてやるって、相手はガタイもでかいしけん
なれもしてるし――それをシメてやるって、そんな小さな体で」
 丈文は源次の強さを知らない。
 その丈文の最後の言葉に源次がすぐに反応した。
「丈文、喧嘩の基本は度胸と馬力。命のやりとりの基本は技と運――体の大きさは関係ねえと昔からきまっておる」
 むっとした顔つきでいい放った。
「はあ、そうなんですか。でも、あの、あいつらのバックにはヤクザがいるって。二人はそんなことをいってましたけど」
 ぜんとした表情で恐る恐る口にする丈文に、
「ヤクザ、けっこう。大いに腕が鳴るのう。楽しみじゃのう」
 すずめの巣のような頭を、源次はばりばりといた。
 そんな様子を見ながら「丈文君」と裕三が真面目な口調でいった。
「その二人の口から、せりざわしげのぶという名前が出たことはないか。どうだろう」
 あの三合瓶の口を斬り落した、しわおとこだ。
「さあ、そんな名前は一度も……」
 怪訝そうな表情を浮べる丈文に、
「じゃあ、顔中に皺のある男というのは」
「ああ、そういう人の話なら聞いたことが。俺たちには凄腕の皺男が用心棒としてついているとか何とか――そんなことを二回ほど聞いたことがあります」
 そういうことなのだ。これでワルたちが一本につながった。そうなると源次は――あの男とやはり闘うことに。源次でさえ恐れを抱いた、あの流の小太刀の達人と。翔太の胸に不安感が湧きおこる。源次は翔太にとって、唯一あこがれのヒーローだった。
「源ジイ、そういうことだ。これでいよいよ源ジイは、あの神技ともいえる太刀筋の男と、いずれ命のやりとりをすることになるようだぞ。そして、どうやら、その男たちがこの町で何やら悪さをしているのも確実のようだ。それも食い止めないとな。大事になってきたな、源ジイ」
 裕三の重い声に、源次がわずかにあごを引くのがわかった。
「あの、この町で悪さって。いったいその人たちは何をしてるんでしょうか」
 七海が青い顔で口を開いた。
「そのあたりは翔太君の領分だな。といってもまだ情報が少なすぎて、さすがの翔太君でも五里霧中だろうけどな」
 裕三の言葉に七海が翔太の顔を見た。
「あっ。ぼりさんのいう通り、まだ情報不足で何が何やら……」
 七海の視線に顔がった。
 何か気の利いたことをいいたかった。
「まず、丈文さんの問題を解決しないと。そのためには源次さんに、その二人をやっつけてもらって、できる限りの情報を引き出す。そのお膳立てとして、丈文さん」
 翔太は丈文に視線を向ける。
「その二人は、どれぐらいおきに店に現れるんですか。そして、いつも何時頃に現れるんですか」
「くるのは二、三日おきです。時間のほうは、決まっていません。ばらばらです」
 丈文は真剣そのものの表情で答える。
「それなら今度現れたときに、こういってやってください。次の日の七時すぎに店にきてほしい。残金の四十万が工面できそうだからと。店の閉店時間ですからお客さんに迷惑はかけませんし、その時間帯なら小堀さんも源次さんも、そして僕も余裕を持って店で待ち受けることができますから」
「なるほど。金ができそうだといえば、やつらは必ずやってくるか。そこで待伏せとは名案じゃな、翔太。さすがじゃな」
 源次がすぐに賛同し、裕三も「それで行こう」とうなずいた。
「よかったら、そのとき七海さんも一緒に」
 と翔太は素気ない口調で、七海に声をかける。
「そんな怖い所へは、私は――結果をあとで教えてもらえれば」
 青い顔をして慌てて首を振る七海を見ながら、翔太はちょっと自己嫌悪に陥った。
 七海が断るのは予測できた。それでも翔太が七海に声をかけたのは――一種の意地悪としかいいようがなかった。このとき翔太は、七海を困らせたい衝動に強く駆られていた。子供のころ、好きな女の子をいじめたように、むしょうに意地悪がしたかった。

 このあと翔太と七海は裕三と源次と別れて、二人で夜の町を歩いた。しばらく無言で歩いていると、
「どこかで食事をしていかない、翔太君」
 七海がふいに声をかけてきた。
「あっ、いいんですか、僕なんかと」
 また憎まれ口が出て、翔太は自己嫌悪に陥る。この夜の翔太の脳裏には、溝口と丈文の顔が常に浮んで揺れていた。
「翔太君とでないと、できない話だから」
 何となくさびしそうな口調で七海がいった。
「すみません。何だか意地の悪い、いい方をして。もちろん行きます、どこへでも」
 素直に謝ったものの、七海のことになると、時として冷静さを失う自分を心の奥でしかった。恥ずかしかった。
「それなら、ジローのナポリタンでどう。あそこなら、そんなに高くないし」
 七海の言葉に「はい」と翔太は答え、二人は『ジロー』に向かい、奥の席に腰をおろしてスパゲッティのナポリタンを頼んだ。
「翔太君、怒ってる?」
 ぽつりと七海がいった。
「怒ってるって。僕は七海さんに対して、そんな立場にはいませんから」
 また嫌みな言葉が口から出た。
「やっぱり、怒ってる。仕方がないとはいえるけど」
 くぐもった声を七海は出した。
 また翔太の胸がきしんだ音を立てた。
「僕はただ、七海さんが幸せになってくれれば、それでいいので、だから……」
 慌ててこんな言葉を口にした。
「そうね」
 短く答えて、七海は視線をひざに落した。
 そんなところへナポリタンが運ばれてきて、二人はフォークを手にした。しばらく無言の食事がつづいた。何かを話さなければと思いつつ、翔太は黙々とフォークを使った。いつものように頭は働かず、カラ回りするばかりだった。
「あのあと、あの人、左遷されたわ」
 低い声で、ふいに七海が口走った。
 あのあととは、七海の悲願でもあった、一回目の歌声喫茶の開催後に違いない。そこで溝口が左遷されたということは……。
 三カ月ほど前まで、七海とレコード会社の営業だった溝口とは不倫の関係だった。
 父親を知らずに、母一人子一人の家庭で育った七海は中年男性に憧れを持っていた。それに乗じて溝口は優しい言葉を駆使して七海に近づき、二人は深い関係になった。七海は大人の大らかさを持つ溝口に夢中になった。だが溝口が優しかったのはほんの一時のことで、その後は七海を顎で使う、ふんぞり返った中年男の姿に戻った。
 それを知った翔太は溝口の元に赴いた。
れているのは七海のほうで、俺は七海のことなど何とも思っちゃいない――」
 平然とこううそぶく溝口に、翔太は額を床にこすりつけて土下座をし、七海と別れてほしいと懇願した。そのとき溝口は、
「きちんと真面目に考えてやってもいい――その代り、お前。そのまま俺の靴をめてみるか――」
 こう翔太にいい放った。
 翔太は溝口の靴を舐めた。
 これで落着かと思ったが、溝口はこのあとも七海と別れようとはせず、持ちこむCDのすべての買取りなど無理難題を押しつけてきた。七海は途方にくれた。今度こそ別れなければと七海はあがいた。それでも七海は溝口が好きだった。
 そんなとき、溝口が担当である新人歌手と深い関係にあることを七海は知った。溝口との電話で本人自身の口からそれを聞いた七海は、その場にうずくまった。そして、ちょうどその場にいた翔太にしがみついた。
「私を抱いて、私を押し倒して。そうすれば、あの駄目男と別れられるかもしれない。私を好きなようにして、翔太君」
 しがみついた両腕に力をいれた。
 だが、翔太は――。
 まだ先月のことだった。
 ようやく、ナポリタンの食事が終った。
「去年の歌声喫茶のとき、一緒に連れてきていた新人歌手との不倫が上層部にわかって――噂では、あの人のいいかげんな態度に新人歌手のほうが嫌気を差し、その人自身が上に訴えたということだったけど」
 独り言のように七海はいった。
「そのために、あの人は本社の営業部から千葉にある在庫管理の倉庫のほうに左遷。家族ともおかしくなって今は別居中だと、あの人はいっていた」
 七海の目が真直ぐ翔太の顔を見ていた。
「持っていたものは、すべて失った。あと残されているのは私だけだと。だから自分を見すてないでくれって」
 絞り出すような声だった。
「だから七海さんは、あいつに会いに行くんですか。前のように、よりを戻すために」
 翔太が口を開いた。
 震え声だった。
「違うわ――」
 七海が叫んだ。
「あの人とはっきり別れるために、そのことを伝えるために私は行くの。でも」
 七海の顔が悲しげに歪んだ。
「私は翔太君のように強くない。たった一人の身内のお母さんは自由奔放そのままで、いつもどこかに出かけていてそばにはいない。私の周りには誰もいない。私はいつも独りぽっち。淋しい、淋しい、淋しい、淋しい……」
 ちゅんと七海は鼻をすすった。
「誰かによっかかりたい、誰かにすがりたい。でも、誰もいない、誰も……」
 語尾がかすれて消えていった。
「七海さんには、丈文さんが」
 この期に及んで、こんな言葉が口から出て、翔太の胸がまた軋んだ。
「丈ちゃんは単なる同級生。できるなら不幸な道を歩んでほしくないと、そう願ってるだけ。それに丈ちゃんは私のれいな部分しか知らない……でも翔太君は私の醜い部分、嫌な部分、いやらしい部分。そんな、人の知らない部分をみんな知っている。翔太君と一緒にいると、私はとても落ちついた気分になれる。でも、翔太君は……」
 七海はまた、でもといった。
「あのとき、私を抱いてくれなかった。翔太君が私を抱いてくれれば、私はあの男と別れられる気が……勝手ないい分なのかもしれないし、まだ高校生の翔太君に、こんなことをいうのは間違っているとも思う。でも、私は本当にそう思っている。本当に」
 七海の両目は潤んでいた。
「それは……」
 翔太の喉がごくりと鳴った。
 大好きな七海だった。
 好きで好きでたまらない、七海だった。
「それは、何?」
 七海の頬には大粒の涙が次から次へと流れ、きちんと両手を置いた膝の上にこぼれて落ちた。       (つづく)