第10話 『卒業』・後

 
 夜の七時過ぎ――。
 ゆうぞうは『志の田』の小あがりで、おでんをつまみながらげんと向きあっていた。が、肝心の翔太はまだ姿を見せていない。
「川辺を誘わずに、二人だけでこんなところで飲んでてもいいんじゃろうかの」
 コップのビールを一口だけ飲みこんで、笑いながら源次がいった。
「あいつを誘うとさとさんのほうばかり気にして、まともな話ができなくなる。だから、ときには川辺抜きの志の田もいいんじゃないかと思ってな。それに……」
 裕三はふわっと笑い、
「俺もたまには、美人の顔をしっかりと拝んでみたい」
 おどけた口調でいった。
「なるほど、そいつは同感じゃが。里美さんは、わしにしたら何というか、その……」
 源次は口をもごもごさせた。
「わかってるさ。源ジイにしたら、この商店街で一番の美人はけいちゃん――そいつは重々わかっているが、里美さんもけっこうな美人だと俺は思うぞ」
 いいつつ裕三の目は、カウンターの向こうの里美の顔に移る。つられたように源次の視線もカウンターに向かう。とたんに、
「あっ、おでんの追加、大丈夫ですか。何かお持ちしましょうか」
 カウンターのなかの里美が声をあげた。
「まだ、大丈夫だから」
 裕三がおうような声をあげると、
「はあい」
 少女のような声をあげて、里美はぱっとほほんだ。
「美人な上に愛想よしか――川辺の気持もわからんではないな」
 視線を戻して裕三は機嫌よくいうが、源次はどことなく浮かぬ顔だ。
「どうした、何か気にかかることでもあるのか」
 少し身を乗り出すと、
「今の里美さんの笑顔なんだがよ、妙に陰があるというか、華やかさに欠けるというか……」
 源次は首をひねっている。
「それはつまり、里美さんは病気だということなのか」
「いや、体なのか心なのかは、はっきりせんが。わしの目には、どこかがおかしいような……いや、わしの勘違いということも充分に考えられるがよ」
 源次の言葉にもう一度カウンターの向こうの里美に視線を向けるが、裕三の目にはどこといって変った様子は見受けられない。
「源ジイの取りこし苦労だろ。美人に陰はつきものだから、そう感じるだけで。そんなことより、俺には里美さんの前に座っている客のほうが気になるんだが」
 里美の前には、以前川辺が恋敵だと決めつけたしいという男が一人で日本酒を飲んでいた。
「川辺の野郎は近頃、あの椎名という男は店に顔を見せねえといって上機嫌の様子だったが、それはたまたまのことで実際はそうでもなさそうじゃな」
 小さな吐息を源次はもらす。
「あの椎名という男、ちらっと横顔を見ただけだが、なかなか二枚目のようだったぞ。年も俺たちよりうんと若くて、五十そこそこに見えるし……この分だと川辺は」
「やっぱり、振られるか」
 ぼそっと源次はいい、
「ひょっとしたら、里美さんの陰りは、あの男との色恋がらみのせいかもしれんな。断定はできねえけどよ」
 太い首を左右に振った。
「色恋がらみの心労か――もしそうだとしたら、川辺は泣くだろうな。声をあげて泣くだろうな」
 しみじみとした口調で裕三はいう。
「しょうがねえべ。わしたちはイイ年こいた、クソジジイじゃからよ。そんな都合のいい色恋が近場に転がってるなんぞ、あるはずもねえからよ」
 分厚い肩をすとんと落す源次に、
「ところで源ジイ。お前のほうの病気はどうなんだ、大丈夫なのか。ちゃんと治まっているのか」
 心配そうな視線を向けた。
「わしか――わしなら大丈夫じゃよ。ここんところ、例の発作も起きてねえしよ」
 何でもない口振りで源次は答えた。
 源次はがんだった。
 それも余命一年という、ステージフォーの手術のできない末期癌だった。あとは抗癌剤による延命治療だけが命の綱だったが「自分らしく生きたい」という源次の希望で、それも退けられた。
 その結果、源次は――。
 深夜、自宅の治療室にこもって、癌細胞と対峙した。
 真暗な治療室のなかにろうそくを一本だけ立て、きちんと正座をして印を結んだ。
 「臨、兵、闘、者、烈、在、前……」
 そして、癌とのパイプ役として胃の上に左手をのせ、
「消えてくれとはいわぬ、共存しようじゃないか。お前がこれ以上増えて、わしが死ねば、お前も死ぬことになる……」
 こんな言葉で毎夜、癌細胞に語りかけた。
「わしは、お前を殺す抗癌剤治療を一切受けぬ。だからお前も、わしを殺すな。共存じゃ。仲よく一緒に生きようじゃないか」
 語りかけるさなかにも、激痛が体を襲った。
 源次はそれでも患部から左手だけは離さず、癌細胞に語りかけた。あまりの痛さに、血が噴き出すほど右手の指をみしめたこともあった。おうすることもあった。死の恐怖から大声をあげそうになり、顔を殴りつけたこともあった。心細さに涙がこぼれたこともあったと、源次はいった。
 体に変化が生じたのは、三カ月ほどが過ぎたころだった。
 一日に何回も襲ってくる激痛の数が減って、だるさも軽くなった。食欲も出てきて、ビールぐらいなら酒も飲めるようになった。死への恐怖も薄らいできた。
「ありがとよ。わしの勝手な願いを聞きいれてくれて本当に感謝してる。ありがとよ」
 語りかけが癌細胞への礼に変った。
 それでも時々、癌細胞は暴れて激痛が走ることがある。そんなときは、ひたすら体をくの字に折り曲げて耐え通した。発作が治まるまで耐えるのみだった。
 そして源次は今でも生きている。
 それが癌細胞への語りかけの成果なのか、それとも何か別の要因なのか。真偽の程は定かではなかったが、源次は曲がりなりにも今でも死なずに生きている。
「それで、癌のほうは小さくなったのか。医者には調べてもらったのか」
 こんな問いが仲間から飛んだこともあったが、
「それをやると、何やら癌細胞への裏切りというか、信頼度がゆらぐというか、失礼というか……そんな思いから、あれから医者へは一度もいってねえな」
 源次はこういって言葉を結んだ。
 そろそろ医者のいった、余命一年になりつつあった。
「大丈夫なら、それでいいんだが」
 裕三は妙に上ずった声でいってから、
「絶対に死ぬんじゃないぞ。お前がいなくなったら俺は、さびしくって淋しくって、しようがなくなる。いいか、俺より先に死ぬんじゃないぞ、源ジイ」
 ぼそっと口に出した。
「そりゃあ、無理だろ、裕さん。おめえより長生きしろったって、俺の体は何とか生かされてるってかんじで、それはやっぱりよ。何たって癌なんだからよ」
 ずるっと源次ははなをすすった。
 心なしか、目が潤んでいるようにも見えた。
 二人は少しの間、無言でビールをすすった。
「いらっしゃい」
 そんなところへ、里美の声が響いた。
 入ってきたのは翔太だ。
「何だ翔太君、散髪屋に行ってきたのか。それにしても、その頭は」
 耳までかぶさっていた翔太の髪は短く切られて、いわゆるスポーツ刈りになっていた。
「すみません。むかさんの理髪店に行っていて、遅くなってしまいました。店の状況が知りたかったこともあって」
 翔太はぺこりと頭を下げて、源次の隣にあがりこんで正座する。
「それにしても、その頭はちょっと短かすぎるんじゃねえか。まるで山寺の小坊主みてえというかよ」
 あきれたようにいう源次に、
「ああこれは、計算通りの髪型なんです。最初に短くしておけば、次の散髪に行くまでにかなり時間がかかって、長く伸びるまでに数カ月はもちますから。近頃は散髪代もになりませんから」
 何でもないことのようにいい、
「裕三さんや源次さんは、散髪のほうはどうしてるんですか」
 と逆にいてきた。
「わしは見た通りの縮れっ毛で雀の巣のような髪じゃから、時々自分ではさみを入れて適当にな。少々失敗しても、この頭じゃ目立つこともねえしな」
 といって源次は裕三の顔を見た。
「俺も床屋には行ってないな。レザーカッターで適当に処理してるよ。おっさんがどんな髪型をしていたって、誰も気になんかはしてくれないし。翔太君のいうように、けっこう散髪代も莫迦にならないしな」
 照れたようにいった。
「要するにみんな、貧乏人だということなんじゃろな」
 くしゃっと源次が顔を崩して、この話は一件落着ということに。
 それを見計らったように里美が翔太の分のおでんを持ってきて手際よく卓子テーブルに並べる。飲物はウーロン茶だ。
「それじゃあ、みなさん、ごゆっくり」
 気持のいい笑顔を残して、カウンターに戻っていった。もっとも源次にいわせれば、陰のある笑顔ということになるのだが。
「で、向井さんところはどうだったんだ。はやっているという情報は向井さん自身から聞いて知ってはいるが、実際のところは。それになみさんの様子はどうだったんだ」
 すぐに裕三は翔太にたずねる。
「いちおう、はやってはいます」
 含みのある言葉を翔太は口にした。
「それから美波さんですが、さえさんから特訓を受けたあいきょうげいの笑顔を武器に、並みいる男の人たちを魅了している様子です。最初はかなりぎこちなかったけれど、近頃はサマになってきたと、自信満々の笑顔を浮べていっていました」
 翔太も笑いながらいった。
「ほう、自信満々か――ということは、翔太から見ても美波ちゃんの笑顔は可愛かった。そういうことでいいんじゃな」
 うなずきながら、源次が念を押した。
「はい、その通りです。失礼を承知でいえば、決して美しいとはいえないのは事実ですけど、可愛いという点では本物です。何か心の奥が揺さぶられるというか、くすぐられるというか、充分に看板娘で通る可愛らしさだと僕は思いました」
「そうか。おめえがそういい切るのなら、そういうことなんじゃろうな。すごいな、冴子さんの愛敬芸は。さすがに七変化の達人じゃよな」
 源次は上ずった声でいい、
「しかしそうなると、世界中の女性たちがその技を身につければ、厚化粧なんぞはもう必要なくなるということか」
 独り言のように、こうつけ足した。
「それは有難い話でけっこうなんだけど、俺は翔太君が最初に口にした、いちおうという言葉が心にひっかかっているんだが」
 裕三は翔太の顔を凝視した。
「あっ、あれは……」
 翔太はちょっといいよどんで、
「実は、お客さんのほとんどが中年のオジサンたちばかりで、若い男性は皆無だったんです。そこのところがちょっと……」
 いい辛そうに口にした。
「ああ、そういうことか」
 裕三はうなるような声を出してから、
「その理由を翔太君は、どう判断したんだ」
 笑いをかみ殺したような顔でいった。
「やっぱり、若い男性の理髪店離れが原因かと。みんなオシャレな美容院に行ってしまって、昔ながらの理髪店には目もくれない。そういうことだと思います」
 いかにも残念そうに翔太はいい、
「でも、向井理髪店は大丈夫です。これからクチコミで美波さんの可愛らしさが広まっていき、やがては若い男性たちもくるようになる。僕はそう信じています――そして、それよりも何よりも、美波さん自身が中年のオジサンたちに囲まれてうれしそうでしたから、今はまあ、これでいいのかと」
 一気にいって、うなずいてみせた。
「そうか、それなら良しということで、いちおうこの件も落着ということで」
 裕三もうなずきを返し、
「それなら、本題に移ろうか。食べながらでも飲みながらでもいいので、俺の話を聞いてほしい――先日のすずらんシネマの件なんだが、あのとき、きりちゃんがいった、その男との約束がどんなものだったか、私にはわかるといった件。あの、あれこれがどうにも気になって、わざわざ翔太君にここまできてもらったんだが」
 ちょっと頭を振って翔太の顔を見た。

 あのとき――。
 まつむらやすという女性は映画館の隣の席に座った男性と、ある約束をしたと手紙には書いていた。その約束がどんなものか桐子はわかるといい、こんなことをいった。
「その男の人は隣に座った康子さんの涙にうたれ、結婚への迷いをあれこれ話す康子さんに心を動かされて、二十五年たって結婚が失敗だったとわかったら、僕が君をもらってあげるといった。だから二十五年後の今日と同じ日に、またこの映画館で再会して答えを聞かせてほしいと……その人はこういって康子さんともう一度ここで会うことを約束したのよ。そうにきまってるじゃん」
 まっとうすぎるほどの顔で、桐子はこういったのだ。
「桐ちゃん、それは」
 と翔太がのどにつまった声をあげた。
 裕三もなかも、ぽかっと口を半開きにした状態で桐子を見ていた。
「何よ、みんな変な顔をして。私、何かおかしなこといった」
 きょとんとした表情で桐子は、みんなを見回した。
「いくら何でも、その考え方は飛躍しすぎてるように思えるんだが、どうだろうな」
 裕三がさりげなく異を唱えると、
「ええっ、何で……文面を正確に分析すれば、この答えしか出てこないんじゃないの。私には、極めて論理的な答えのような気がするけど。なあ、翔太」
 名指しされた翔太は、ううんとうなる。
「確かに飛躍はしすぎてるけど、論理的といわれれば、そうもいえないことはない。でも、そんな奇特な男性が、そうそういるとはなかなか」
 かすれ声で翔太はいう。
「そうそうということは、多少はいるということじゃん。世の中に奇跡という言葉がある限り、それは時としてやっぱりおきるものなんだよ、翔太君」
「もちろん、僕も奇跡というものを否定する気はないけど、それにしても」
 どういう加減か、翔太は奥歯に物が挟まったようないい方をして、桐子の説を真っ向から否定する言葉を口にしようとはしない。
「なら、桐ちゃんは今月の十五日に、相手の男性がこの映画館にやってくる――そういう考えを持っているのか」
「もちろん、くるわよ。そして康子さんと奇跡の対面をするわけよ――その点、翔太はどう思ってるのさ。さっきは何か仮説があるようなことをいってたけど、どんな考えを持ってるのよ」
 薄い胸を張って翔太を見た。
「僕のは仮説というよりは単なる思いつきのようなものだから、まだ口にはできないけど。ただ相手の男性がくるかこないかといわれれば、こないというほうにけるよ」
「じゃあ!」
 桐子が叫ぶような声をあげた。
「問題の十五日に相手の男性がくれば、私の勝ちで翔太の負け。そういうことでいいんじゃないの。答えはすぐに出ることになるから」
 自信満々の口調で桐子はいい、
「そういうことで、以上」
 と話をしめ括った。

「まず最初に翔太君に訊きたいことは、あのときなぜ桐ちゃんの説を翔太君は否定しなかったのか――それが俺には不思議で、気になって仕方がなかったんだけど、なぜなんだろうな」
 ハンペンをそしゃくしている翔太に裕三は訊く。
「それは、単なる思いつきの僕の想像より桐ちゃんのほうが、あの場合論理的に思えたからです。康子さんの手紙を正確に読みとけば、必然的に桐ちゃんの説に到達するんです。むろんここには、但し書きがつきますが」
 翔太はごくりとハンペンをのみこみ、
「桐ちゃんがいったような奇特な男性がいたらという……僕はそんな男性はまずいないと頭から疑っていますが、いくら確率的にはゼロに近いといっても皆無でないことも確かです。もしそんな男性がいれば、荒唐無稽ではあるけれど桐ちゃんの説は正解で、十五日の康子さんの隣にはその男性が座るはずです」
 翔太は大きなためいきをついた。
「そうか、桐ちゃんの仮説は論理的で翔太君の考えは単なる思いつきの想像か。だから桐ちゃんの説を尊重して、あんな展開になったというわけか」
 独り言のようにいう裕三に、
「情報のピースが少なすぎるんです。それが増えれば、単なる思いつきを仮説に変えることもできるんですけど」
 低い声で翔太はいった。
「しかし、その情報も明日には増えるんじゃないか。中居さんの話では連絡を取った結果、明日には問題のその松村康子さんが鈴蘭シネマに顔を見せるということだから」
 そういうことなのだ。だから、その女性が顔を見せるまでに桐子とのやりとりの本意を翔太に訊いておこうと思って、志の田にきてもらったのだが。
「何だか難しい話じゃのう。手紙のあれこれは教えてもらっておったが、そのあとにそんなやりとりがあったとはのう。もっとも聞いておっても頭の悪いわしには、さっぱりわからんがの」
 と、黙って話を聞いていた源次が情けなさそうな声をあげた。
「ところで翔太。おめえのその、単なる思いつきの想像とやらを話してくれねえか。そうすれば、ちっとは話の筋も見えてくるような気がするからよ」
 何気ない口調の源次の言葉に「それだ、俺もそれが知りたい」と裕三が低く叫び、翔太の顔を凝視するように見た。
「それは無理です。人のプライバシーに関わることを単なる想像で話すことはできません。そんなごうまんなことは僕にはできません」
 はっきりした口調で翔太はいった。
「やっぱりな。翔太君の気性からいって、無理だとは思っていたが」
 肩を落す裕三に、
「すみません――それからさっきぼりさんは明日、松村さんが鈴蘭シネマにくれば情報量も増えるといってましたけど、多分それほど増えないと僕は考えています」
 はっきりした口調でいう翔太に、
「それも、単なる思いつきの想像なのかな」
 裕三は諦め口調でいう。
「はい。多分松村さんがすべてを話すのは、十五日の問題の映画を見終ったあと。そんな気がしてなりません」
「そうか、翔太君がそういうんなら、そういうことなんだろうな。真相は十五日までお預けということか」
 裕三はいかにも残念そうにいい、
「ところで大きな疑問がもうひとつあるんだけどな。これには桐ちゃんも言及していなかったけど、なぜ二十五年後なんだろうな。あの文面の流れでいけば、三年か五年。いくら長くても十年――それが二十五年という長すぎるほどの数字になると。そのあたりはどう考えているんだ、翔太君は」
 どうせ答えは返ってこないだろうと思っていたら、意外なことを翔太がいった。
「その二十五年という数字が、僕の思いつきの原点なんです。これが本当に微妙な数字で、もし、この数字の意味の言質が取れれば、僕の単なる思いつきも仮説に近づくことになるんですが」
 いかにも悔しそうにいってから、
「しかし、この二十五年なんですが、これが何とも無理な数字というか、わがままな数字というか……いずれにしてもこの数字に何の意味もないとしたら、僕の思いつきはすべて崩れてしまうのも確かです」
 わけのわからない言葉を並べ立てた。
「どうせ、この数字のあれこれも翔太君は教えてくれないんだろうな。ああ、何だか胸の奥がモヤモヤで一杯になってきたなあ」
 幾分おどけながら、それでも本音を裕三は口にする。
「すみません。生意気というか、わがままというか、そんなことばっかりいって」
 恐縮したような声を翔太はあげ、ぺこりと頭を下げた。
「何もおめえが謝ることはねえよ。要は頭の悪すぎるわしたちが情けねえだけで、おめえには何の非もねえ。わしが保証するから心配はいらねえ。なあ、裕さん」
 源次が野太い声で翔太を労った。
「もちろん、そうだ。翔太君は自分の信念を貫けばいい。そこが翔太君の翔太君たるゆえんなんだから、気にすることはないさ」
 笑いながらいう裕三の声にかぶせるように、
「いずれにしても、第一関門は十五日にその康子さんという女性の隣に男が座るかどうかというところじゃな。もし座れば、桐ちゃんは当分の間、威張りまくるんじゃろうなあ」
 面白そうに源次がいった。
「なら源ジイ、飲むか。ヤケ酒ということで」
 そういいながら裕三がカウンターのほうを向くと、いつのまにか椎名という男は帰ったようで姿がなかった。ぽつんと立っている里美と目が合った。
 ふわっと笑った。
 華のない笑いに見えた。

『卒業』は十五日だけの一日公演だった。
 その日、裕三は落ちつかなかった。
 何といっても奇妙なあれこれの、すべてがわかる日だった。康子という女性が鈴蘭シネマを訪れるのは二十五年前と同じ、夜の八時頃。その時間帯に独り身会のメンバーも鈴蘭シネマに押しかける手はずだったが、七時にはもうすべての面々がせいぞろいしていた。
 ロビーのソファーにみんなで腰をかけ、缶コーヒーを飲みながら話をして、時間がくるのを待った。中居がやってきて「朝からの客の入りは、四割程度です」といって事務所に戻っていった。
 源次と翔太と一緒に、志の田に出かけた次の日の夜――手紙の主の松村康子は約束通り鈴蘭シネマにやってきた。
 裕三、翔太、桐子、それに中居の四人は事務所の応接コーナーで康子と向かいあった。
 康子は目の大きな丸顔の女性で、年は五十一歳だということだったが、三つ四つは若く見えた。
「このたびは、こちらのわがままな希望を聞きいれていただいて本当にありがとうございます」
 と中居に向かって腰を折り、深々と頭を下げる様子は、康子の真面目そのものの性格を表しているようでもあった。
 そんな康子を見ながら、これでわからなかったことのいくつかは話してもらえると、胸を躍らせていた裕三の期待は翔太がいった通り、ほとんどが空振りに終った。
 あの夜、隣に座った男性といったい何を話して何を約束したのか――康子は肝心なこの問いに、
「すみません。すべては十五日の夜、映画を見終えたあとに。そのときはみなさんの疑問点にすべてお答えしますから。それまではどうか私一人だけの胸に納めさせておいてください」
 こんなことを何度もいい、康子は頭を下げつづけた。
 康子がこの夜、裕三たちに語ったのは自分の生きてきた、これまでだった。
 康子の実家はこの商店街からほど近い公団住宅で、ごく普通のサラリーマン家庭だった。康子はここから都立の高校に通い、卒業後は事務機器の販売会社に就職したが、二十六歳のときに会社を退職して三つ年上の松村すみと結婚した。
 見合い結婚だった。康子はそれまで恋愛経験がなく、男とつきあったことがなかった。何事においても消極的な性格だった。
 その性格の影響なのか、結婚式の一カ月ほど前から気分が沈みがちになり、挙式一週間前に、その症状は頂点に達した。
 そして、ふらっと鈴蘭シネマに一人で入り、『卒業』を観た。心が揺れた。涙があふれ出た。気がつくと隣の席に男性がいて……二人はある約束を交した。
 一週間後、康子は何とか結婚式を終え、寿にある澄男の会社に近い借家に居を定めて新婚生活が始まった。
 危惧していた康子の沈みがちな気持も徐々になくなり、三カ月ほど後には以前の普通の状態に戻っていた。
 決して大きくない食品卸の会社に勤める澄男の給料は安かったが、康子も近くのスーパーのパートとして働き、裕福ではないものの平穏な毎日がつづいた。
 子供は女の子が二人授かり、両方とも三年前と二年前に結婚して、康子は澄男との二人暮しになった。
 そして去年、澄男が突然倒れた。脳出血だった。運ばれた病院で二日の間昏睡状態だった澄男は、三日目の朝になってあっなくこの世を去った。まだ五十三歳の若さだった。
 康子は一人ぽっちになった。
 こんなことをぽつぽつと話す康子の両目は潤んでいた。
「ご主人は、昨年なくなられたんですか」
 意外な面持ちで裕三が口を開くと、
「はい、あっというまに……優しくて思いやりのある、私にはすぎた亭主だと感謝しています」
 低い声が返ってきた。
「すると康子さんは今、その恵比寿の家で一人暮しを……それはまた、淋しいというか何というか、大変ですねえ」
 しんみりした声で中居がいった。
「娘たちは、お母さんいっそ再婚でもしたらというんですけど、私は……」
 うつむき加減でいう康子に、桐子がしたり顔で口を開いた。
「確かにそれも、ひとつの手。おばさんはまだまだ若いんだから、そういったことも真面目に考えたほうがいいよ、今はそういう時代なんだからね。それにおばさんには二十五年前に約束した――」
 といったところで、
「桐ちゃん、それは」
 翔太が慌てて待ったをかけた。
「何よ翔太。自分が負けそうだからって、ごちゃごちゃ横槍入れないでくれる。山寺の小坊主みたいな頭をして」
 最後に源次と同じような言葉をつけ加えて、唇をぷっととがらせた。
 康子はこの時、これだけを話し何度も頭を下げながら「よろしくお願いします」といってイスから腰をあげた。
「二十五日は、相手の男の人もここにくるんですよね」
 部屋から出ようとした康子に、桐子が叫ぶようにいった。
「きます――」
 はっきりした口調で康子はいい、そそくさと部屋を出ていった。
「ほらみろ、小坊主」
 勝ち誇ったようにいう桐子に、なぜか翔太は無言で応えた。
「旦那さんが亡くなって、娘さんたちから再婚をすすめられてるって――何だか妙な展開になってきましたが、このまま『卒業』を小屋にかけても大丈夫でしょうか。といっても上映は明後日なので、今更中止することは……」
 おろおろ声を出したのは、中居だ。
 が、裕三には何も答えられない。
 何となく利用されている感もあるが、それも何がどうなのかは、よくわからない。今日康子がきて新たにわかったのは、ご主人が一年前に亡くなったということと、二十五日には問題の男性がここにくるという二点だけだった。
 腕をくんで天井を見上げていると、声が響いた。
「大丈夫です。上映しても面倒なことはおきないはずです」
 翔太がはっきりした口調でいった。
 これが、あの夜のすべてだった。

 上映時間の二十分ほど前。
 康子がやってきて、中居と独り身会の面々にあいさつして館内に入った。
 裕三たちも館内に入ると康子は真中あたりの席に腰をおろしていて、右隣の席に自分のバッグを置いていた。
「ほら、二十五年前の男の人の席をちゃんと確保している」
 桐子がはしゃいだような声をあげた。
 裕三たちは、康子の二列後の席に並んで腰をおろした。
 上映五分前。
 康子の隣の席にはバッグが置いてあるだけで、人の姿はない。それを見ながら桐子が焦ったような声をあげた。
「どうしたんだろ。隣は空いたままで、誰もこないけど。えっ、どうしたんだろ、おかしいじゃんね、これって」
 上映のブザーが鳴った。
「えっ、どうなってるの、これ。翔太が勝って私が負けるの」
 桐子の声と同時に、すっと康子の手が伸びて右隣に置いてあったバッグをつかみ、そっと自分の膝の上にのせた。
「おいこら、翔太。どうなってるのよ、これ」
 桐子が隣に座っている翔太に食ってかかった。
「大丈夫、必ずくるから。僕の負けで桐ちゃんの勝ちだから」
 何でもない口調で翔太が答えた。
 どうやら翔太には、すべてがわかっているようだ。単なる思いつきではなく、仮説をきちんと立てたのだ。
「翔太の負けなんだよね、私の勝ちなんだよね。何があっても、必ずくるんだよね。そうなるんだよね」
 安心したような桐子の声が耳に響いたとき、裕三の脳裏に何かがひらめいた。わかった。ようやくわかった。そう、何があっても、必ず相手はくるのだ、必ず。胸の奥がすうっと軽くなった。
 館内が暗くなり、スクリーンが明るくなった。サイモンとガーファンクルの、あの歌が流れ出し、ダスティン・ホフマンの若々しい顔が画面を横切っていった。
 裕三の目は画面よりも、二列前の康子の後ろ姿に注がれている。必ず何かをやるはずだ、必ず。康子の右手が動いた。そっと右隣の席に向かって動いた。あれは多分……ほっとした気分で、裕三は画面を見ることに専念した。
 隣の桐子が泣いているのがわかった。
 最後のシーンだ。
 ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスが手に手を取って教会から逃げ出すシーンだ。そして二人はバスに乗りこみ……二人の顔のアップに。
 それから、サイモンとガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』の曲が静かに流れ出して……映画は終る。
 灯りがついた。
 館内の客はそれぞれ席を立って帰っていくが、康子は動かない。やはり隣の席には誰の姿もない。
「何? やっぱり誰もこなかったじゃん」
 桐子がすっとんきょうな声をあげた。
「きたんだよ、桐ちゃん」
 裕三が優しく声をかけると、翔太が笑顔を浮べるのがわかった。
「翔太君の仮説は、いつ成立したんだ」
 と訊くと、
「一昨日、康子さんがきて、隣の席に相手の男性がくるとはっきりいったときですね。そして、おそらくと感じていた、ご主人の死……あれですべてのピースがつながって単なる思いつきから、ちゃんとした仮説に昇格しました」
 しんみりとした表情でいった。
「いったい、何がどうなっているんですか。私の目にはあの席には誰もいないように見えるんですが、それでも誰かきたんですか」
 いつのまにきたのか、中居がげんな面持ちで翔太に訊ねた。
「きたのは、康子さんのご主人の澄男さんですよ」
 ぽつりと答える翔太の声にかぶせるように、
「何がいったい、どうなってるのか。わしらのように頭の悪い人間には、さっぱりわからねえよ」
 源次が叫ぶようにいい、すぐにほらぐちと川辺がそれに同調してうなずいた。
「とにかく、康子さんの席のほうに、行ってみましょうか」
 裕三の先導で、独り身会の面々と中居は康子の席の前に移動する。
「ありがとうございました。これで私の胸のモヤモヤも晴れたような気がします」
 その場に立ちあがって、康子は頭が膝に着くほど深々とおじぎをした。
「やっぱりきてたんですね、ご主人は」
 翔太が康子の隣の席を指差した。
 小さな指輪があった。多分これは澄男がはめていた結婚指輪だ。康子はその指輪を隣の席に置いて映画を見ていたのだ。
「二十五年前、この映画館の隣の席に座ったのもご主人。そういうことですよね」
 翔太の言葉に、康子は小さくうなずきを返した。
「すみません、早く話せばよかったんですけど。何もかも話せばすべてが演出っぽくなってしまって、私の気持が主人に届かないような気がして……ですから映画が終るまでは自分一人の胸に秘めておこうと、私と主人だけの秘密にしておこうと。すみません、勝手なわがままを押し通して」
 と康子はイスに腰をおろし、ぽつぽつと事の真相を語り出した。独り身会の面々と中居も前の席にそれぞれ腰をおろし、康子の話を黙って聞いた。
 二十五年前の、あの夜――。
 映画を見終った康子が、ふと隣を見るとそこには婚約者の澄男がいた。
「ごめん、あんまり様子が変だったので、あとをついてきた」
 澄男はこういって、康子の涙の原因を訊いてきた。康子は結婚を前にして気分が沈みこんだ状態をつつみ隠さず、澄男に話した。泣きながら話す康子の顔を澄男は黙って凝視し、一言も口を挟まなかった。そして康子の話がすべて終ったあと、
「康子さんは僕をどう思っているかわからないけど、僕は康子さんのことが大好きだ。だからこの先、康子さんを大事にして決して不幸にしないことを約束する。幸せにするために一生懸命頑張る。だから五年、いや十年一緒に暮すことに耐えてほしい。そしてもし、その時点で康子さんが僕に不満を持っていたとしたら、そのときはまた考えよう」
 すがりつくような目でこういった。
「十年……」
 ぽつりと言葉を返すと、
「あっ、ごめん。二十五年にしよう。ちょうどそれが、夫婦の銀婚式にあたるから」
 慌てた様子で、澄男は二十五年といい直した。
「二十五年の約束って――何だかうそっぽいというかだまされているというか、そんな気がしてならないんだけど」
 康子がこう反論すると、
「僕の本当の気持をいえば、五十年の金婚式にしたいくらいなんだから、そこのところはちょっと我慢して銀婚式……だから、お願い、お願いします」
 訳の分からない理屈を澄男は並べたてた。
 が、澄男の一生懸命さだけは伝わってきた。要するにこの人はずっと自分と一緒にいたいのだ。それを痛いほど感じた。正直いって嬉しかった。そして楽しくなった。しかし、その思いは胸の奥に隠して、
「わかったわ。じゃあ、二十五年間、私は耐えることにします。だから澄男さんも、そのつもりで頑張ってください」
 真面目くさった顔でこういい、二人の契約は成立した。
 これが、あの夜のすべてだと康子はいった。
「凄い。うらやましいほど、凄い」
 桐子が感極まったような声をあげて、手をたたいた。
「それで、肝心の結婚生活のほうはどうだったんです」
 裕三はこう切り出した。
「一言でいって幸せでした。お金はあまりなかったですけど、あの人はいつも優しくて。そりゃあ夫婦のことですからけんをすることもありましたけど、折れるのはいつもあの人のほう。あの人は嘘のような、あの約束を守るため頑張ってくれました」
 康子のほうはそんな訳のわからない約束など普段は忘れ切っていたが、澄男はそんな約束にでも責任を感じているのか、時々こんな言葉を口にしたという。
「なあ、幸せなのか、どうなんだ」
 澄男の表情はいつも真剣そのものだったが、康子のほうはそれが面倒に感じられることもあり、さらに甘やかせてなるものかという気持も働いて、
「さあ、どうなんでしょうね」
 と、いつも素気ない言葉を返していた。
 そして、その言葉を聞くたびに、澄男はがっくりと肩を落していたという。
 そんな状況が二十四年間つづき、澄男は二十五年目に呆気なくこの世を去った。
「幸せです」
 という康子の言葉を一度も聞くことなしに、
「私はそれが申しわけなくて。本当は幸せだったのに、それを一度も口にしないで無視しつづけたまま、あの人をかせてしまって」
 康子の全身は震えていた。
「ですから、今夜この席に座り、隣にあの人の指輪を置いて、映画を見ている間中、私は幸せでしたといいつづけていました。子供のようなまねかもしれませんけど、私はとにかくそれをやりたくて……」
 康子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「子供のようなまねじゃない。立派すぎる行為だよ。まぶしいくらい、立派な行為だよ」
 桐子が潤んだ声で叫んだ。
「そうですよ。私もこの小屋の映画が役に立って、こんな嬉しいことは」
 これは中居だ。
「もちろん、そうだ。そうにきまってる」
 洞口が叫び、川辺も盛んにうなずきをくり返していた。洟をすする源次の顔には、うらやましさのようなものが一杯に広がっている。
「どうですか、康子さん。ここで声に出して自分の気持を澄男さんに伝えてみたら。本物の銀婚式だと思って」
 裕三の口から、こんな言葉が飛び出した。
「あっ、そうですね」
 康子はすぐに大きくうなずき、
「幸せでした、本当に幸せでした。本心は一度もいわなかったけど、あなたと一緒になって本当に幸せでした」
 声をつまらせながら叫んだ。
 すぐに拍手の音が康子の体をつつみこんだ。
 耳を澄ますと歌が聞こえてきた。
 翔太が『サウンド・オブ・サイレンス』の歌を口ずさんでいた。
 康子の泣き声が、館内に静かに響いていた。(つづく)