第9話 『卒業』・前

 
 どことなく気分も清々すがすがしい。
 松飾りも取れ、商店街はいつも通りの様子に戻りつつあるが、辺りにはまだ正月気分が満ちている。
『のんべ』の暖簾のれんをくぐると約束の八時前だというのに、奥の小あがりには、いつものメンバーが勢揃せいぞろいしていた。
「早いな、みんな」
 上がりこむ裕三ゆうぞうが顔を崩すと、
「みんな正月気分でウハウハしているというか、行く所がないというか――要するにみんなヒマ人なんですよ」
 上機嫌で川辺かわべが口を開いた。
『独り身会』の集まりは、この店と駅裏のおでん屋の『志の田』で交互にやると正式に決まってから川辺の機嫌はすこぶるいい。もっとも恋敵の件を除いての話ではあるが。
 テーブルの上にはすでに思い思いの料理が置かれ、ビールとウーロン茶の瓶も並んでいた。新年早々のせいなのか、店内の客は六分ほどの入りだ。
「それじゃあまあ、新年会で新しい年のための乾杯はすんでいるが、それはそれとしてまずは――」
 洞口ほらぐちの音頭で乾杯する。
「ところで、頓挫とんざしていた角打ちバーの件が何とか落着して、ほっとしたよ。こんな身近に、あんな人材がいたとは、まったく灯台下暗しというのはこういうことをいうんだろうな」
 ぼそりという洞口に、すぐに川辺が口を開いた。
「あのブラジル人の若者たちなら、去年の歌声喫茶で料理の腕が確かなのはわかっていますし――それに彼らは海兵隊事件でげんジイに危ないところを助けられて自分たちの先生のように慕っていますから、こちらのいうことも素直に聞くでしょうし。まさに万々歳といったところです」
 川辺のいう海兵隊事件とは――去年の秋、八代やしろ酒店の角打ち酒場で屈強なアメリカの兵隊たちといざこざをおこして、あわや命のやり取りということになった日系ブラジル人の若者たちを源次が救った出来事だった。
「確かにあいつらが、店に入るのを引き受けてくれて事無きを得たが、それにしても哲司てつじ君は……」
 思わず重い声を出す裕三に、
「だが警察の話では、哲司は体を張って冴子さえこさんを守ったということだからよ。わしにいわせれば、あいつは男のなかの男――」
 ひとくちビールを飲んでから野太い声で源次げんじははっきりいい、
「それに山城やましろ組より先に、警察があの二人を逮捕してくれてわしは、心底ほっとしているよ。あの件で冴子さんは怒り心頭に発していたから、もし先に山城組が見つけていたら、とんでもないことにもな」
 絞り出すようにいった。
「とんでもないことって何よ、源ジイ」
 串カツを頬張ほおばりながら、きょとんとした顔を桐子きりこが向けてきた。
「それは、まあ、何というか……」
 いい渋る源次の言葉にかぶせるように、
「哲司君の話はもうよそう。言葉にすればするほど胸がつまる。とにかく彼が体を張ったおかげで、冴子さんは無傷だったんだから」
 と裕三が話を締めくくったところで、源次が斜め前を目顔で指した。
 裕三がそちらに目をやると見知った男の顔が目に入った。あのしわだらけの不気味な男の横顔だ。男は三合瓶を傍らに置いてコップ酒を飲んでいた。
「いつからだ」
 と裕三は小声で源次にく。
「裕さんがくる少し前に店に入ってきて、あの場所に座りこんだ」
 すると目当ては源次――そんな気がした。そうとしか考えられなかった。
「ところで、『走れメロス』のパン屋さんはどうよ。はやってるっていう話は聞いてるけど」
 桐子が能天気な声をあげた。今度は焼き鳥を手にしている。
「はやってはいますが、時折り妙な連中が店にきているといううわさを耳にしましたよ」
 すぐに川辺が声をあげる。
「あの野郎、まだ妙な連中とつきあっているのか。もう少ししたら、すべてを話すといっていたが――ところで川辺。今夜はお前、やけによくしゃべるな」
 源次がじろりと川辺を見る。
「あっ、何といったらいいのか。近頃、里美さとみさんの店にあの男が顔を見せなくなって、それでまあ、その」
 川辺の耳のつけ根が赤くなっていた。
「あの男ってのは、おめえの恋敵だとかいう椎名しいなという男か。現金なやつじゃの、まったくおめえってやつはよ」
 源次のあきれた声を追いやるように、
「妙な連中か。そろそろ、丈文君からも詳しい話を聞かせてもらわないと……」
 裕三は独り言のようにいいながら、ちらりと斜め前の皺だらけの男の横顔に目を走らせる。ひょっとしたら、この男もそれに関わりがあるのでは。そんな思いが胸をよぎった。
「まあ、その件は俺のほうで調査をして、みんなに報告するから、それまで待っていてほしい。なあ、源ジイ」
 妙な連中がらみということになれば、当然源次の出番になる。裕三は首を振る源次にうなずき返してから、
「実は今日、鈴蘭すずらんシネマの中居なかいさんから俺に電話があって、その報告がてら俺はここにきたんだが」
 みんなの顔を見回してから、コップのビールを一気に飲みほした。
「中居さんから電話って――また入りが悪くなったのか、あの小屋は」
 心配げな声を洞口があげる。
「いや、年末年始の興行は翔太しょうた君が選んだ寅さんシリーズで、まあまあの入りだったそうで助かったと中居さんはいっていた」
 とたんに、それまでおとなしく枝豆を食べていた翔太が恥ずかしそうな表情を見せた。
「興行のほうはそんな訳で、まだまだ大丈夫だといっていたけど、近頃立てつづけに妙な手紙が届いて、それで相談したいというのが電話の主旨だった」
「妙な手紙って、何よ」
 すぐに桐子が興味津々の声をあげた。
「言葉ではなかなか説明しづらいということで、それは会ってから現物を見せて話をするそうだ。それで、翔太君と二人で一度きてもらいたいということだった」
「僕がですか……」
 翔太が今日初めて口を開いた。
「中居さんは、そういっていた」
「それなら、私も行く」
 裕三の言葉が終らないうちに、桐子が勢いよく右手をあげた。
「翔太にこいっていうんなら、それはきっと去年の鈴の湯の恋文事件のような話に違いないじゃん。それなら女の私も行かないと。それで決まりっ」
 満足げにうなずいている。
「まあ、それはそれとして、中居さんが翔太君をご指名なら、そうしないとな。どうだ、翔太君は、明日あたり」
「はあっ、僕でよければ、どこへでも行きますけど」
 と翔太がうなずいて、明日鈴蘭シネマへ出かけることになった。
 そのとき、源次の体に力が入るのがわかった。例の皺だらけの男のほうに視線を向けると、首を回して源次を見ていた。
 にらみ合いだ。
 数瞬の後、源次がふらりと立ちあがった。
 草履をつっかけて男の席に向かって歩いた。男の異様な雰囲気のためなのか、周りの席に座っている客は一人もいない。源次が男の前のイスにすっと腰をおろした。
「得物は……」
 いきなり源次がいった。
らいくにつぐ――すりげで尺三寸」
 何でもないように男は答える。
まさむねじってつか、名刀だの」
殿の太い首でも、一太刀でな」
 ちゃんと名前を知っている。
「流派は……」
 源次はあくまでも真顔でたずねる。
流」
「なるほど小太刀か、じゃから磨上げか」
 納得したように源次はうなずく。
 冨田流は越前福井のちゅうじょう流から出た流派で、初代宗家は冨田九郎左衛門長家ながいえ――。
 世に小太刀の名人として名高い冨田勢源せいげんは、この長家の孫にあたる。勢源は眼病のために盲目だったといわれるが、美濃国で試合を挑まれた際、三尺五寸の得物を振るう兵怯者を前に自身は二尺ほどのまきを手にして迎え撃ち、一瞬のうちに打ち殺したといわれる。
 この冨田流を学んだ兵法者のなかに関門海峡に浮ぶ船島でしんめんさしと対決した、巌流がんりゅうろうがいるが、小次郎の得物は物干竿と呼ばれた四尺近い長刀、小太刀とはほど遠いものだった。これは師のうちを務めていた小次郎がそれを受けきれず、そのため段々に自身の刀身を長くしていった……とも伝えられている。
「お主の流儀はいちほうげん殿の京八きょうはち流とか――これはまた珍しい流儀。なかなかに楽しいものとなりそうだの」
 この男やはり、源次と闘うつもりらしい。
「あんたの名前は……」
 低い声で源次がいった。
せりざわじゅうしん――見知りおきを」
 いうなり男はふらりと立ちあがり、時代劇めいた二人の会話は終ったように見えたが、ふいに「手土産代り」と男はつぶやき、上衣の懐に右手を入れた。
 瞬間、何かが一閃いっせんした。
 軽やかな音が響いた。
 抜いた来国次を男が懐に戻した。
 そのとき傍らの三合瓶の首がゆっくりと動いて、ことりと落ちた。
「ぐえっ……」
 言葉にならない声を源次があげた。
 男は瓶の首を斬り落したのである。
 折ったのではなく斬ったのだ。
 まさに神技ともいえる技だった。
「ごめん」
 短くつぶやいて男は源次の前を離れた。
 源次は自失じしつの表情で瓶の斬り口を眺めている。
「わしの負けやも……」
 絞り出すような声が聞こえた。

 三時過ぎ。
 裕三は『ジロー』の奥の席でコーヒーを前に翔太と向かい合っている。翔太の隣には桐子、やっぱりついてきたのだ。
「源次さん、大丈夫でしょうか。あんな男と闘うことになったら」
 暗い面持ちで翔太はいって、ここへきてから三度目の重い吐息をもらした。
「源ジイのことだから、大丈夫だとは思うが、しかし……」
 そういって裕三は口をつぐんだ。
 昨夜男の席から戻った源次はしばらく無言で座っていたが、
「あの男は瓶の首を刀で斬った。わしも瓶の首ぐらいなら、指をたたきつければ折ることはできる。しかし硬い物を瓶に叩きつければ折れるか割れるかするのは当り前のことで、何の不思議もない――あの男は折るのでも割るのでもなく瓶の首を斬り落したのだ。わしにはできん。いくらわしが刀を握ったとしても、瓶の首を斬ることなどは無理だ……」
 一気にこれだけいって、その後は黙りこんでほとんど口を開かなくなった。
「大体僕には、あの男が刀を一閃させたところが見えなかった。注視していたつもりだったけど、何かが一閃したと思ったら、もうすでに刀は男の懐に戻っていた。小堀こぼりさんにはあの男の太刀筋が見えましたか」
 源次の影響なのか、翔太は太刀筋という昔っぽい言葉を口から出した。
「俺にも何かが光ったのが見えただけで、他には何も見えなかった」
 重い口調で裕三も答える。
「そうなんです。はやすぎるんです、あの男の太刀筋は。そして絶妙すぎるんです、あの男の技は……それに、あの男は源次さんと闘っても勝つつもりの自信満々の口調でした」
 翔太は本気で源次を心配しているようだ。
「そうかもしれんが」
 裕三は硬い口調でいい、
「源ジイはあの男のような正統な武術者とは違う。源ジイは忍者だ。敵の目を欺き、奇策を用いて勝ちを自分のものにする、異端の術者だ。俺にはそのあたりに勝機があるように感じられるんだが」
 力強く口にして大きくうなずいた。が、これは裕三の本心ではなかった。源次のあの落ちこみようを見て、あるいは――そんながあるのも確かだった。
「あのねえ」
 ふいに桐子が声をあげた。
「源ジイが負けるわけないじゃん。源ジイは今までずっと勝ちつづけてきたんだよ。そんな勝ちぐせのついた源ジイが負けるなんてことは絶対ない。源ジイが負けるのは発作がおきたときだけで、あれさえおきなければ無敵のおっさん、無敵のトーマス」
 訳のわからない一言を加えてから大きく深呼吸をして、
「それ以外に、もし源ジイが負けるとしたら。それは源ジイの時代が終ることを意味する。だけど私の見たところ、源ジイの時代はまだまだつづく。歴史というものは、そういうものなんだよ、頭の硬い翔太クン。翔太はまだまだ物事の本音の部分をわかっちゃいない。思考が単純すぎる。見える部分にしか反応しない。歴史の歯車とは勢いなんだ。その勢いがある限り、源ジイの時代は安泰だから。私がいうんだから間違いない。信じる者は救われる。何たって神様は翔太のすぐそばにいるんだからね」
 さらに訳のわからないことをいい、桐子は大仕事を終えたあとのように薄い胸を得意げに張って鷹揚おうように何度もうなずいた。
「そうだ、桐ちゃんのいうことにも確かに一理はある。そういうことだから、あまり心配をするな、翔太君」
 正直いって桐子のいってることはチンプンカンプンだったが、ここは大筋で肯定しておいたほうがいい気がして、裕三も大きくうなずきをくり返す。
「そういうもんなんでしょうか」
 ぼそっという翔太に、
「そういうもんだよ、翔太クン」
 うれしそうに桐子は笑った。
 それから三十分ほどあと。
 裕三たちは鈴蘭シネマの事務所の応接コーナーで、中居と向き合っていた。
「それで、その妙な手紙というのは……」
 と裕三が切り出すと、すぐ脇の机の引出しのなかから中居は三通の封書を取り出し、そのなかの一通を抜き出してテーブルの上に置いた。
「読んでください。それがいちばん新しい手紙です」
 中居の言葉に裕三はすぐに手紙を取り出して黙読をする。

「再三のお便り、まことに申しわけありません。私の自分勝手な申し入れに、あるいはお怒りを覚えていらっしゃるかもしれませんが、何とぞ孤独な一人の女の頼みとして、この件を承諾していただければ、このうえない幸せです。
 二十五年前のあの日――成人式映画週間で上演されて、私の胸を揺さぶった作品。主演はダスティン・ホフマンとキャサリン・ロス、監督はマイク・ニコルズ――あのときリバイバル上演された、『卒業』の映画が私の胸をつかんで、いまだに心のなかから離れません。
 というのも、これも以前に書きましたが、あの日私は結婚式を一週間後に控え、マリッジブルーの真っ只中におり気持は重く沈みこんでいました。そんなとき、ちょうど婚約者との夕食の帰りでしたが……ふさぎこんだ気持のまま何気なくふらりと一人で入ってた、この卒業という映画の衝撃――。
 特にダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスの結婚式場に乗りこみ、二人で逃げる最後のシーン。あれには言葉を失いました。そして、ひょっとしたら私も誰かが結婚式場から連れ出してくれるのでは……そんな妄想ともいえる気持を胸に抱いて、二人が乗りこんで去っていくラストシーンを見ていました。私の顔は流れ出る涙でべたべたでした。
 そして映画は終り、観客の人は次々に席を立っていきましたが、私は体が震えてなかなか、その場から立ちあがることができませんでした。
 ふと気がつくと私は館内に、ただ一人……いえ、何がどうなのかはわかりませんが、ちょうど隣の席に男の人が一人いて、まるで私に寄りそうようにして、じっと座っているのがわかりました。
「あなたの涙を見ていたら、立つことができなくなりました」
 その人は私にこういい、それから私たちはそのまま三十分ほど話をしつづけ、そのとき私はこの人とある約束をしました。その約束を守るためにも、あのときと同じ日、同じ時間にあの『卒業』を再度リバイバル上映していただきたいのです。
 勝手なお願いなのは重々わかっております。けれど何とぞ、この思いを叶えて頂きたく、伏してお願いする次第でございます」

 便箋びんせんの末尾には、松村まつむら康子やすこという名前と住所、それに電話番号が書かれてあった。
 裕三は残りの二通の手紙にも目を通したが最初に読んだ手紙とほとんど差異はなく、この三通目の手紙がいちばん要領を得ていた。
「この映画を小屋にかけるかどうかというのが、今回の中居さんの相談なんですね」
 裕三は念を押すようにいい、
「卒業の映画は……あれは確か一九六〇年代の後半でしたか」
 遠くを見るような表情を中居に向けた。
「正確にいうと一九六七年です。もちろん日本の公開はそれから少しあとでしたが、私はリアルタイムでこの映画を。小堀さんはいかがですか」
 すぐに中居が口を開いた。こちらも遠くを見るような目をしている。
「私もリアルタイムで観ています。確か高校生のときだと思います。あれはいろいろな意味で衝撃的な映画でした」
 裕三はそういってから「翔太君は」といって隣を見た。すると、翔太がすぐに歌を口ずさみ始めた。

  Hello darkness, my old friend
I`ve come to talk with you again
Because a vision softly creeping
Left its seeds while I was sleeping
And the vision that was planted in my brain
Still remains
Within the sound of silence

「もちろん映画は観ています。三年ほど前にDVDでしたけど……映画も好きでしたけど、サイモンとガーファンクルの歌う、この『サウンド・オブ・サイレンス』という曲が僕は大好きで。あれはまさに、昭和のアメリカンポップスの名曲です」
 口ずさみをやめた翔太は、幾分恥ずかしそうにいった。
「そうだな。確かにこの曲は名曲だな。直訳だけど、というのもいいな」
 裕三の言葉に中居と翔太が同時に何度もうなずく。
 ここで桐子がキレた。
「それって、どうよ。私は卒業という映画も観てないし、サウンドオジサンがどうとかという曲も知らないし、そんな私を置きざりにしておっさんたちの世界に、みんなで浸りきるって、いったい。これでも私は日本中の女性代表として今日はここにきてるんだから、それをほったらかしにするっていうのは、人間としてどうよって、いいたくなるじゃんね。歌はともかく、映画の荒筋ぐらいは話してくれるのが、ちゃんとした大人の礼儀だと思うんだけどね」
 まくしたてるようにいった。
「それは、まったくまことにその通りといいますか、ええと、日本代表のお嬢さん」
 中居は桐子の名前を忘れたらしく、お嬢さんという言葉でごまかした。が、その言葉に気をよくしたのか、桐子が嬉しそうに微笑ほほえんだ。見たこともない、よそ行きの顔で。
「ざっくりと説明しますと。主人公は大学を卒業したての若者で、この彼が今後の進路に悩んでいるときに一人の人妻と出逢い、深い関係に落ち入ってしまいます。しかしそのあと彼は、ふとしたことから理想の若い女性と知り合い、互いに好意を抱くようになるんですが、実はその若い女性は不倫関係に落ち入った人妻の娘さんだったという……」
 ふっと吐息をもらす中居に、
「最低っ」
 吐き出すように桐子がいった。
「まさに最低の結果になってしまい、若い男女は別れることに。しかし、主人公の若者はその女性が忘れられなくて二人は再び燃えあがることになりますが時すでに遅く、その女性には婚約者がいて二人は結婚式を挙げることになります」
「最低っ」
 とまた桐子が叫んだ。
「そこでクライマックスの教会での結婚式のシーンになり、そこへ主人公の若者が乗りこんで、誓いのキスをしている花嫁の前に飛びこみ、二人は手に手を取って教会を抜け出し、通りかかったバスに乗りこんで去っていくといった――」
 と中居が話を締めくくろうとしたとき、
「最高っ」
 と桐子が怒鳴った。
 心なしか両目が潤んでいるようにも。
「私は話しべたなので、こんな乱暴な荒筋しか話せなくて申しわけないんですが……」
 といかにも申しわけなさそうにいう中居に向かって、
「大丈夫だよ、オジサン。私は男と女の問題にかけては創造力が豊かだから、あれで充分だよ。骨の髄まで、よくわかったよ」
 一人で納得している。
「最低、最低ってつづいて嫌になったところで、最後は万歳三唱を叫びたくなるほど最高の青春物語。これで私の心も晴れ晴れとして、いうことなんてないじゃんね」
 上機嫌でいう桐子に、
「いや桐ちゃん。この映画はそんな単純なものじゃなく、母と娘の問題、それで壊れる家族の問題、そしていちばん考えさせるのは、はたしてあのあと、あの二人は幸せになれるだろうかという問題――」
 翔太がんで含めるようにいう。
「そんなこと、なれるにきまってるじゃん。好き同士が一緒になって、不幸になるはずがないだろ。それで不幸になったら、神様に申しわけが立たないじゃんね」
 単純明快に桐子は答えた。
「いや、事はそんなに簡単なものじゃ……」
 思わず口に出す翔太に、
「じゃあ、翔太はどうなるって思ってるのよ」
 桐子は唇をとがらせる。
「なろうと思えば幸せにはなれるけど、そこに少しでも疑問符がくっつけば」
 諭すような口調でいうと、
「なろうと思えば幸せにはなれるんなら、私の意見とほぼ同じじゃない、文句のつけようなんかないじゃない。まったくあんたは、理屈っぽいんだから」
 こくんとうなずいて、じろりと翔太を睨んだ。
「いや、それは桐ちゃん」
 翔太が次の言葉を出そうとしたとき、
「まあ、幸せ談儀はそれぐらいにして――桐ちゃんの意見も一理はあるし」
 と裕三は翔太の口を封じた。
 好き同士が一緒になって不幸になるはずがない――桐子はこういい切った。ひょっとしたら世の中の女性の大半は、ややこしい理屈や感情は抜きにして桐子のいうことに賛同するのでは。心の奥底でそう感じたことも確かだった。
「映画の幸せ談儀もいいが、このあたりで本筋のこの手紙の件に移ろうじゃないか」
 裕三はこほんとひとつ空咳からせきをして、
「中居さんにおきしたいんですが、この手紙に書いてある二十五年前に卒業の映画を鈴蘭シネマで上映したのは事実ですか。それをまずお訊きしたいんですが」
 えらく真面目な口調でいった。
「事実です。当時は成人式が一月十五日に行われていましたから、それに合せて『成人式映画週間』と銘打った催しを実行し、その際に上映した映画が卒業でした。ちょうど二十五年前のことで、今は邦画一本槍ですが当時は洋画も上映していましたから」
 即座に中居は答えた。
「するとあとは、この映画を観たあと、この手紙に書かれているように男女二人が館内に残って何らかの話をし、何らかの約束を交したのが事実かどうかということになりますが、それを中居さんに確かめても酷なことでしょうね」
 困惑の表情を浮べる裕三に、
「いえ、それも事実です」
 と中居ははっきりした口調でいった。
「あれは夜の七時頃から始まる、最終の映画上映でした。それで、お客さんが帰ったあと、そろそろ掃除をと客席をうかがうと、二人の男女が残って何か話をしているのが目に入ったのをはっきり覚えています。これは若い恋人たちが映画の余韻に酔いしれているのではと、何となく嬉しい気分になり、灯りを少し落して私はそこを離れて事務所に引っこみ、三十分ほどして再び館内に戻りましたが、そのときはもう若い二人はいなくなっていました」
 すらすらと口にする中居に、
「すると、この手紙に書いてあることはすべて事実だと――ということは、中居さんの心づもりは、卒業の映画を上映しようということに決まっていると」
 念を押すように訊いた。
「いえ、したいとは思っていますが、まだ心に引っかかることが少しあって、それを皆さんに相談しようと、わざわざきてもらったわけです」
 申しわけなさそうにいった。
「心に引っかかることというのは、いったいどんな」
 身を乗り出す裕三に、
「あのあと二人は綺麗きれいに別れたのか、それとも……そして約束を交したと書いてあるが、その約束とはいったい何だったのか。この二点が引っかかって」
 低い声で中居はいった。
「つまり、こういうことですか。あのあと意気投合した若い二人はどこかにしけこんで一夜の恋を楽しんだのではないか――そういうことですね」
 単刀直入にいった。
「その通りです。もしそうであれば、私の心のなかの大切な部分が消し飛んでしまいます。せっかくのいい気分が……あの映画には、思いを寄せる女性の母親との不倫関係が描かれています。もしそれがなければ、あるいは一夜の恋も許せるかもしれませんが……現にあの映画には不倫関係が――」
 中居はちょっと唇を湿し、
「それを観て、なおも一夜の恋ということになると、私の許せる範疇はんちゅうからは、はみ出してしまいます。卒業という映画に対しての冒涜ぼうとくということになり、到底リバイバル上映をする気にはなりません。ていにいえばそういうことなんです、ですから」
 顔をゆがめて苦しそうにいった。
 この人は根っからの映画好きで、ロマンチストなのだ。中居の微妙すぎるほどの話を聞きながら、裕三はこう思った。だから中居は翔太を呼んだのだ。
「この件をどう思う、翔太君は」
 裕三はすぐに翔太に意見を求めた。
「文面から推測すると、この女性もかなりのロマンチストのような気がします。妄想癖があったとしても、そしてマリッジブルーに染まっていたとしても、そんな大胆なことをする女性には見えません」
 翔太はしっかりした口調でいってから、
「もしそんなことがあったなら、卒業という映画は単なる小道具になってしまい、重点はその一夜の行為のほうに移行して映画などは、どうでもいいことになるはずです。でもこの女性はあくまでも映画に固執しています。この映画を大切にしています。ですから、そんなことはなかった、こういい切れます。思いこみの重さの違いがそれを如実に物語っています」
 はっきりと翔太はいい切った。
「それに」
 と今度は桐子が口を開いた。
「女の頭で考えるんなら――もしそんなことがあったとしたら、二十五年振りに同じ映画を上映してほしいなんて要求は出さない。そんなことがあって、こんな大げさな要求を出せばすべてが茶番、すべてが学芸会のようになってしまって折角の思い出がぶち壊れてしまう。もしそんなことがあったら、女はそれを大事に大事に胸の奥に秘めて、ちびちびと楽しみます。それが女の本性で、こんな大げさな催しにはくっつけません、以上」
 桐子にしたら、まっとうな意見を述べた。
 中居の表情が柔らかくなっていた。
「それを聞いて安心しました。私はこの手紙を読んでから、何とか実現させてやりたいとずっと思っていました。しかし、今の疑問が胸の奥に引っかかって、なかなか踏ん切りがつきませんでした。これですっきりしました。私の腹もきまりました」
 中居はこういって、翔太と桐子に深々と頭を下げた。
「実をいいますと、すでに映画の発注はすませてあるんです、仮ではありますが。すぐに発注しても期日通りに届くとは限りませんから。十五日までに、あとそれほど日数はありませんからね。ところで……」
 中居は裕三たちの顔を順番に見回し、
「手紙には相手の男性と、ある約束を交したと書いてありましたが、こればっかりはいくら翔太君でもわかりませんよね」
 申しわけなさそうに訊いた。
「そうですね。ちょっと情報が少なすぎますから。仮説は立てられますけど、当たらない確率のほうが高い気がします。これはやっぱり、松村さんという女性に直接訊くのがいちばんだと思います」
 これも申しわけなさそうに翔太がいった。
「そりゃあ、そうですよね。もちろん、この松村さんという女性には早急に連絡をとって、一度こちらにきてもらうつもりでいますから、そのときに単刀直入に訊いてみることにします。答えてくれるかどうかは、わかりませんけどね。どうです、そのときにはみなさんも一緒に同席して映画談儀といいますか、人生談儀といいますか、そんなものを」
「同席させていただければ、ぜひ。何といっても二十五年来のなぞですからね」
 笑いながら裕三がいうと、翔太と桐子が同時に頭を下げた。
 そして、頭をあげた桐子が――。
「さっきの男の人との約束の件だけど、どんな約束をしたのか、何となく私にはわかるような気がする」
 大胆なことを口にした。(つづく)