第二章    過 去(承前)




      7(承前)




 ひろしは何も言わずけいろうに視線を返す。怒りやまどいというより、思考をめぐらすような目に見えた。
「失礼します」
 と、慶太郎は桜型のへんをバッグにしまうと寛のわきを素早くすり抜けて、しゃがみ込んだままのりんの前にかたひざを突く。
「ビックリさせてすみません。まずは深呼吸をしてください」
 慶太郎が静かな口調で言うと、佳鈴は素直に深呼吸し始めた。
「私こそ、取り乱してしまって」
 佳鈴は何事もなかったように自分で立ち上がり、両手を挙げて左右に体を曲げるストレッチをした。彼女が呼吸をととのえながら体を動かすのを見て、リラックスする方法を知っている、と感じた。
「いいですね、血色が戻ってきました。実は、ぼりともさんの病気を治したくて、あなたに話をうかがいに参ったんです」
 おだやかな口調で言った。
「とおっしゃられても私には……」
 佳鈴の声のトーンも元に戻っている。
「古堀さんには、僕のカウンセリングを受けてもらっています」
「そうですか。でも私、お役には立てません。知らないんですから」
 佳鈴は乱れたエプロンを付け直すと、ちゅうぼうに引っ込んだ。
 深追いは禁物だ。
 慶太郎は膝のほこりを手で払い、
「申し訳ありませんでした。奥様を驚かせてしまって」
 と寛に頭を下げた。
「あなた、テレビに出てるしんりょうないですよね」
 寛はいま気づいたようだ。
「ええ、そうです。ご主人に、改めてお話を伺いたいことがあります。お時間いただけないですか」
「妻も大丈夫そうだし、事を荒立てるつもりはありません。お引き取りください」
「いや、いまの奥さんの様子から、重大なお話になるかもしれませんので、ぜひともお願いします」
 慶太郎は半歩近づき、口調を強めた。
「妻がどうしたとおっしゃるんですか」
 慶太郎に見下ろされる格好となった寛があと退ずさりする。
「そのことも含めて説明します。ただ、ここでは……」
 慶太郎は店内に目をやる。
「仕方ない。それじゃ奥で」
 と吐き捨てるように言って、寛が一旦店を出るようにうながした。

 店を出ると日差しがまぶしい。今日もすでに体温を超えそうな気温だった。クーラーのいていた場所から出ると急にかんせんが反応する。
 オーニングテントの下でしばらく待つ。佳鈴に事情を話してきたと言って、寛はすぐ横の路地に入り、店舗の裏に当たる家の玄関ドアにかぎを差し込んだ。
 慶太郎はリビングに通され椅子に座る。
 寛はミネラルウォーターをそそいだグラスを二つテーブルに置き、
「話してもらいましょうか」
 と腰を下ろして、不機嫌な表情で水を口にした。
「素敵な庭ですね。店の奥からも見えるようになっているんだ。奥さんがガーデニングを?」
 慶太郎は水の礼を述べ、グラスを手にする。
「話をらさないでください。さっさと用件を」
 寛がしかめっつらで壁の時計を見た。
「いやたんせいされているのに、花壇のレンガが足りないようです。ほら、一番はしのところを見てください」
 せんにちこうの咲いているあたりだ、と慶太郎が指さす。
「私もひまじゃないんですよ」
 寛が軽くテーブルを叩いた。
「失礼を承知で伺います。ざわさんが、戸沢姓を名乗っておられるのは奥さんが老舗しにせ旅館の一人娘だからですね?」
「そんなことあなたに言う義務はないでしょう」
 寛はにらみ、しかしすぐに視線を時計に向ける。
「ゴールデンウイーク明けくらいに、奥さんの様子が変だと思われたことはありませんか。落ち着きがなかったり、機嫌が悪かったり、または眠れなかったり」
「そんなこと、何もない」
「普段通りだったと?」
「ああ。ゴールデンウイークはお客さんも多いから、互いの体調には神経を使ってる。何かあったら分かります」
 面倒くさそうに寛が答える。
「女性のお客さんが、奥さんを訪ねてきましたね」
「それが何だっていうんですか」
「来たんですね。ここで話をしたんじゃないですか」
 慶太郎はテーブルに目を落とす。
「心療内科医ってのは、質問ばかりするもんなんだ」
 寛はほおを引きつらせ、無理な笑みを浮かべた。
「これに見覚えありますか」
 慶太郎は佳鈴に見せた桜の紙片をテーブルに置いた。
「そんなものを妻も持ってたけど、それがどうしたと?」
 いちべつしていらついた声を出した。
「ご存じなんですね」
「同じようなのを見たことがあるってだけですよ」
 寛は紙片を手に取り裏返し、
「やっぱり、そうだ。妻は勉強がよくできたから、先生がくれたって言ってた。メダルみたいなもんだって。何でそんなものを妻に見せたんです。もしかして先生が妻に?」
 慶太郎に顔を向ける。
「いいえ、違います」
「……?」
 寛の目は紙片と慶太郎の顔とを往復した。
「何か感じがよく似てるけどな。優秀の文字を囲む花丸もこんな感じで」
 寛は紙片をテーブルに戻す。
「お手本を見たんです」
「手本って、妻があなたに見せたと言うんですか」
「いいえ。詳しいお話をする前に、奥さんの持ってらっしゃるものがあるかどうか、確かめてもらえませんか」
「何でそんなことをする必要があるんです? そちらの話が先でしょう」
 寛のくちびるに力がこもったのを見て、話を聞かないうちは慶太郎の要求も飲まないという意志を感じた。
「申し訳ないですが、それはできません。順序を間違えると大変なことになりますので。ただ、これだけは申し上げておきます。ある事件にかかわる重大なことなんです」
「事件?」
「ええ、その事件の背景に私の患者、そして奥さんがかかわっているかもしれないんです」
 と言って、事件の真相を明らかにすることが、自分の患者を回復させることに直結しているのだ、と慶太郎は説明した。
「それで調査の真似事をして、奥さんに不快な思いをさせてしまいました。申し訳なく思いますが、私も必死なんです、戸沢さん」
 真剣な視線を彼の目に注ぎ込んだ。
「先生が患者さんのために妻を訪ねてこられたことは分かりました。ですが、妻が事件に関係しているような言い方はやめていただきたい」
「関係あるかないか、それを確かめたいんです。そのために、奥さんが持っていらっしゃるこれが、今もあるか確認してほしい。もし、あれば、僕も嫌な話をしなくてすみます。すぐにでも退たいさんしますので」
 慶太郎は、寛の目の高さまで紙片をつまみ上げた。
「分からない。あなたの言ってることは一から十まで。突然やってきて、妻をパニックに追いやっておいて、妻の持ち物がどうこうと言われても」
「それについては、返す返す申し訳なく思っています。この紙片を見せたとき、奥さんが無反応ならばお邪魔しませんでした。けれどさっきのじょうな反応を見て、さまざまなピースがつながりはじめたんです」
「……確かにあんな妻は見たことないですが」
「僕の考えをお話しして、ご主人の協力をあおぎたいのですが、実際に事件にかかわる大事な事柄なので、軽々しく口にできないんです。その点をどうかご理解ください。奥さんの持ち物を改めてください」
 それなりの覚悟をもってここにいる、と慶太郎は頭を下げた。
「いいでしょう、先生がそこまでおっしゃるのなら」
 何度も首を振ってから寛は立ち上がる。への字口でエプロンを外すと椅子に置き、かんまんな動きでリビングを出て行った。
 慶太郎は、かいただけの庭をきちんと見ようと、窓に近づき千日紅の根元に目をらす。やはり芝と花壇とを仕切るレンガが一つ足りない。長らくそこに置かれていたであろう長方形のこんせきははっきりと見て取れた。
 ここからすぐ見えるのに、なぜ補充しなかったのだろう。あまりにとんちゃくがなさすぎるではないか。もし、そこにあったレンガが犯行に使われていたものだとすれば、なくなっていることに気づかれたくないはずだ。したことも重要だが、しなかったことにも必ず意味がある。けっそんしたレンガは、ただ面倒くさかったではすまされない重要な意味を持つもののはずなのだ。
 気になるのはそれだけではない。
 紙片を見て取り乱し、しゃがみ込んだ佳鈴の立ち直りの速さだ。慶太郎を指さしたのは、ある種の恐怖の表れであり、敵視していてもいいはずだ。その張本人がいくらひざまずいて謝罪したとしても、気を取り直すのには時間を要するものだ。
 佳鈴は、素直に慶太郎の指示に従い深呼吸し、顔つきや言葉遣いもすぐに元通りになった。一連の因果関係を見失ったのか、もしくは結びつかない状態ではなかったか。
「先生……」
 寛の声に振り返る。彼は白いアルバムを手に持って、険しい顔で立っていた。
「やっぱり、見当たらなかったんですね」
 寛はうなずき、アルバムを開いてテーブルに置いた。置くというより、手から落ちたように渇いた音がした。
 開かれたページには、ベッド上に座って千羽鶴のレイを首にかけ、Vサインをしている髪の長い少女、思い思いのポーズをする数人の子供たち、看護師とのツーショット写真が貼ってあった。ページ右下に『記念のメダル』というキャプションが記されてたが、実物はなかった。
「拝見します」
 と慶太郎がテーブルに着いた。
 寛は緊張した面持ちで椅子に座ると、閉じた膝に両手を置いた。ようやく慶太郎の言ったことを信じ始めたサインだ。
 前のページを確かめると、『神戸ポートピア病院にて』という説明があった。
「やはり入院生活を送っておられたんですね」
 慶太郎は目だけで寛を見る。
「十一歳のときに半年ほど入院してたと聞いてます」
 寛は息苦しそうな声を出した。
「それにしてもみのからは遠いですね」
「なんでも小児科専門の入院設備が充実しているから、と両親が探してきてくれたと言ってました」
「病名はお聞きになってますか」
ぜんそくです」
「そのときに貰ったメダルが、ここに貼ってあった」
 慶太郎は次のページに戻って、メダルがあったはずの場所を示し、
「誰から貰ったとおっしゃってました?」
 とたずねた。
「いや、先生にとしか聞いてないです」
「そうですか。あの、ここをよく見てください」
 ページをぎょうしてから慶太郎は、彼のほうに向ける。
 寛は顔をアルバムに近づけた。
「うっすらとですが、長方形の紙が貼ってあったあとのようなものがあります。たぶんそこにメダルの説明が書いてあったんだと思います。その紙も一緒にがしたんでしょうね。覚えはありませんか」
「アルバムは他にもたくさんありますし、これを見たのも随分昔だったんで」
 半年間も入院していたことや、桜型の紙メダルについても、本人から聞いたのは結婚間もなくの頃だ、と寛は言った。
「奥さんはあなたにこれを見せて、思い出を語ったんですね」
 その際取り乱していれば、寛も覚えているはずだ。
「先生、もういい加減、事件のことを話してください。ここにあった紙メダルが何にどう関係しているんですか」
 つうな声を上げた。
「もう少し奥さんのことを教えてください。これまで、心ここにあらず、という感じのことはありませんでしたか。話しかけても、反応がなかったり、遅かったりしませんでしたか」
「そんなことまで……それもどうせ事件に関係があると言うんでしょ」
 投げやりに言ってひたいに手を当てた。
「そうです」
 と慶太郎は真顔でうなずく。
「交際し始めた頃から、何度もそんなことがありましたよ。でもいろいろ思いにふけたちだったから、考え事でもしてるんだろうと思ってきました。そうではないってことですか」
 と寛はいきをついた。
「そのことについて奥さんに確かめたことはありますか」
「確かめるというか、そのたびに大丈夫かときましたよ。声をかけたり肩を叩いたりするとふと我に返るようです。どうしたんだと訊いても、特に覚えてないようで、その後は普通にしてます。あらそうって、あっけらかんとしてますし、くせみたいなものだろうと思ってましたけど。先生は妻が病気だとおっしゃるんですか」
「いえ、それだけの症状で病気だとはいえません。ただ気にはなります。専門家のカウンセリングを受けたことは?」
「ないです、少なくとも私と知り合ってからは。風邪ひとつひいたことないですよ。だから喘息のことも、結婚後これを見たとき聞いたんです。病弱だったなんて、思ってもいなかった」
 寛はアルバムを見た。
「一本電話をかけさせてください」
 そう断ると、慶太郎は庭が見える窓際へ行き、くらもちに電話をかけた。
「倉持さん、何度もすみません。『いしずえ』のことなんですが」
「ああ、先生、ちょうどよかった。その『いしずえ』に関してですが」
 別働隊がすでにけいはん学習支援NPO法人「いしずえ」の元代表理事の男性へのちょうしゅを終えていた。病院に長期入院をする小学生から高校生までの学習支援を目的に設立された「いしずえ」は、始まりはその名の通り京阪奈の病院を取引先としていたが、すぐ兵庫や滋賀など小児病棟のある病院が多い地域に広がったのだそうだ。
 しまざきは神戸事務局の設立メンバーで、支援活動に意欲的でフットワークも良く、アルバイトながら滋賀県や福井県の事務局設立準備にもかかわったという。そのためもあって元代表理事は島崎をはっきり覚えていた。活動においても患者や病院スタッフに評判が良いだけでなく、教え方がいのか、彼が受け持った子供がとっしゅつして成績を伸ばしたのだという。後に有名弁護士として活躍する姿を見て、我がことのように喜んでいたそうだ。
「亡くなったことを残念がってたそうです。先生の言っていた通り、国語科の指導をしてました。元代表理事は、例の桜型の紙のことも知ってました。島崎の最上級のめ言葉なんだそうで、本当に優秀な子にしか与えなかったみたいです。それが現場にりゅうされていた。当時それを貰った子供の関与が濃厚になってきましたね」
 倉持の話を聞いて、
「神戸の事務局ですか。彼は『神戸ポートピア病院』と、もう一つ滋賀県の『おお総合病院』とで二十年前の同時期に学習支援を行っているはずです。その点について、至急に調べてほしいんです」
 と倉持に依頼した。
「つまり、先生が訪問されている『モカロール』の戸沢佳鈴が、その神戸ポートピア病院の患者だったんですね。大津総合病院で島崎の指導を受けたと思われる子供が、先生の患者ですね。名前は?」
「まだ、倉持さんの胸だけにとどめておいてほしいんですが」
 友美の名をあいまいにしたままでは、島崎との関係性を明確にできない。
「いいでしょう。先生のゴーサインを待ちます。信用してください」
「古堀友美、です」
 慶太郎は漢字表記を伝えた。
「すぐに調べさせます」
 慶太郎の頭の中でこうちくした仮説は、徐々に確信へと変わっていく。
 四十四歳だった島崎は二十年前、二十四歳の大学院生だった。彼は小児病棟で長期入院している子供たちに学習支援をする「いしずえ」にアルバイトとして所属していた。「いしずえ」の支援活動は、神戸ポートピア病院だけでなく大津総合病院にもおよんでいた。つまり島崎は、十一歳の佳鈴と十五歳の友美とに接触した。島崎は二人の少女に優秀者の証しとして桜型の紙片をメダルとして与えたのだ。
 友美はそのメダルを捨てた。その後『さいとうこころのクリニック』の院長が、父親によるぎゃくたいいんする心的外傷後ストレス障害と診断を下したのは、それなりの反応を示していたからだ。さらに、スマホなどを持たない理由に『いやらしい広告を見てから毛嫌いしてしまって』や、たかあきと交際しているとかんぐった際に『その人に悪いことしてないんやろね』と問い、彼女の言う「悪いこと」を孝昭が否定すると『間に合った』とらしている。これらは性的なしょうどうへのけんだととって間違いない。十分せいじゅくした健康な大人の抱く性的な欲求をけがらわしいと思う原因は、多くの場合、未成熟な時期に受けた性的虐待だ。
 友美が、島崎の性的虐待の被害者だったことに疑いの余地はなくなった。島崎のよこしまな感情、ゆがんだ欲望のこもったメダルであり、それを思い出したくなくて捨てた。国語科に関する参考書や問題集も、目にするのが嫌だったにちがいない。
 一方佳鈴は、メダルを記念としてアルバムに貼っていたくらいだから、嫌悪感はないということか。
 しかしいま、佳鈴が見せた桜型の紙片に対する反応はまるで違う。紙片を見て、立っていられなくなるほどの恐怖ときょうがくに襲われたようだった。
 アルバムに貼った時点では、優秀メダルだったものが、今は恐怖のまとと変化したのだ。
 そのきっかけは、何だ。
 考えられるのは、友美の訪問だ。別々に入院していた二人が、どうして互いの名前と顔を知ったのかは分からないが、新聞記事を読んですぐに、友美は行動を起こした。病を押してまでここに来なければならないと思ったのだ。
「先生、どうかしたんですか」
 寛に呼び掛けられ、慶太郎は振り返る。
「すみません。奥さんの心ここにあらずをうんぬんできないですね。さっきはゴールデンウイーク明けと曖昧な言い方をしましたが、五月七日の奥さんの行動を思い出していただけませんか。とくに夕方から夜にかけて」
「スマホの記録を見てみます」
 スマホに保存している日記を見る、寛の指の動きがぎこちない。震えているようだ。
 スマホの画面を見たまま、寛が動かなくなった。
「どうしました?」
「……七日は、夕方から、実家に行っています」
 寛の声に力はなかった。事件における佳鈴のアリバイを確かめる質問を、慶太郎がしたと認識しているからだ。
「戻られたのがいつなのか、分かりますか」
「それは日記には書いてません。ですが……」
 寛は思い出そうとこめかみ辺りを指で叩き、
「たぶん帰宅は十一時を過ぎていたと思いますが、寝室には午前一時頃に入ってきたんです。随分遅いな、と尋ねたら、厨房で新しいレシピを考えていたって」
 と言った。
「新しいレシピ、完成していたんじゃないですか」
「そうです。ちゃんとできあがっていて、明くる朝、私と従業員とで味見をしています。いつもの妻でした」
 日記にもそのことが記されていると、寛はスマホの画面を慶太郎に見せた。
「やっぱりそうですか」
「やっぱり?」
「これは推測で、きちんと診察しないといけないんですが、奥さんにはかいせい障害の傾向が見受けられます」
「解離性障害」
 寛がつばを飲みこんだのが、のどぼとけの動きで分かった。
「この病にはけんぼうともなうものや、自分の頭の中にいつくもの人格を作り出すものなど、いくつかの症状があります。急に我に返るという症状も解離性障害にはみられるんです。事件後に、普段通りレシピを考えたことも説明がつきます」
「そんな、妻が病気だなんて」
 寛は天井を見上げ、うなり声を上げた。
「仮定の話では戸沢さんも納得のしようがないでしょう。実は事件現場にこれと同じように優秀の文字が書かれた桜型の紙片が残されていました。その紙片からいくつかのもんけんしゅつされています。そこに奥さんのものがあるのか、はっきりさせなければなりません。どうか奥さんの指紋を調べさせてください」
 頭を下げてお願いするしかない。
「もし、妻の指紋だったら彼女はどうなるんです?」
 りょうひじをテーブルに置き、充血した目で寛が訊いてきた。
「逮捕はまぬかれないでしょう」
「妻が逮捕だなんて」
 寛が青ざめた。
「とはいえ解離性健忘では、事件のその瞬間のことを記憶していないことが多い。なので責任能力の有無が問われることになるでしょう」
「責任が問われないこともあるんですか」
 寛は救いを求めるような顔をした。
「あり得ます。けれど、ご本人にとってそれがいいかどうかは分かりません。当然被害者もおられることですし、罪に問われないことで自分を責め、それが新たなトラウマになることもありますから」
 慶太郎は、自分は医者であり患者を治すことが仕事で、事件の解決が目的で動いているのではない、と再度、自らの立場を強調した。
「私の患者もそうですが、奥さんや寛さん、あなたの心のケアも僕の守備範囲にあるんです。僕はあなた方の味方だと信じてください」
 ややあって、
「せめて事件の内容だけも教えてもらえないですか。まだ信じられないんですが、心の準備がります」
 と寛がかすれた声を出した。
「分かりました。すべてが確定してからのほうがいいと思ったんですが、お話ししましょう。京都のよし神社で島崎弁護士が石段から転落死した事件、ご存知ですか」
「あの事件ですか。事故でなく他殺ではないかと報道されていた。弁護士さんを妻が……ない、ないですよ、そんなこと。間違いだ、何かの」
 寛は短い髪を爪を立ててかき乱し、急に立ち上がって、部屋を歩き回る。呼吸が浅かった。
「戸沢さん、一度深呼吸をしてください。もし奥さんが犯行に及んだとしたら、それなりの理由があるんです。とても辛いことがあった証拠でもある。そんな奥さんの支えは、ご主人、あなた以外にありません。そのあなたが取り乱してどうしますか。必ず僕がお二人の力になります。ここは落ち着きましょう。そしてすべてを僕に任せてくれませんか」
 足を止めた寛が、椅子に座る慶太郎を見下ろす。ゆっくり深呼吸をしテーブルに着いた。
「もうどうにかなりそうです、先生。助けてください」
 泣き顔で寛が言った。
「大丈夫、僕がついていますから」
「先生……」
 寛が慶太郎のジャケットのそでぐちつかんだ。
「僕が考えている、今後のことをお話しします。もし、指紋が一致したら、二、三日かあるいはもう少しかかるかもしれませんが、ここに警察官がやってきます。任意同行を求められますが、慌てずに応じてください。刑事さんには僕から奥さんの病気のことなどを伝えておきます。奥さんに不利益になるようなことは絶対させませんし、目的は病気治療だということを忘れないでください」
「……分かりました」
 寛が袖を離した。

第三章    未 来




     1




 孝昭は目の前の光景がまだ信じられないでいた。午後一時にもとみや医師が家にやってきて、しょう越しに言葉をかけたかと思うと、友美は部屋から出てきてみずからクリニックへ行くと言い出した。それだけでも驚きなのに、本宮医師の運転する車にすんなりと乗り、いま診察室へと入ったのだ。
 本宮医師が友美に何を言ったのかは分からないが、とたんに顔つきが変わったようだ。目に力が宿やどったとでも言えばいいのか、すっとすじも伸びた感じだ。
「友美さん、あなたは今日の朝刊で報じられた、島崎弁護士の事件で、ある女性が重要参考人として調べられているという記事を読まれたので、ここに来てくださった。それに間違いないですね」
 ソファーの正面に座る本宮医師の言葉に、孝昭の隣の友美がうなずいた。さっきまで診察室を見回し、落ち着かない様子だったけれど、本宮医師が話し出すと彼の顔を食い入るように見詰めている。
「それは、彼女のことを知っているからですね」
 友美は、こくりとうなずくだけでやっぱり言葉は発しない。
「さて、戸沢佳鈴さんを助けないといけないようです。そうすることで、あなたの罪の意識もやわらいでいく。僕はそう思っていますし、あなたもそれを信じてほしい。いいですね。今から行うのはEMDRというものです。日本語だと『がんきゅう運動によるだつかんと再処理法』と呼ぶ専門家もいますが、それほど難しいものではありません。薬も使わないので、副作用もない。またマインドコントロールのたぐいでもありません。ただ僕が動かす指を目で追うだけのものです」
 本宮医師は友美のけんから約三十センチの位置で、人差し指を二、三度ゆっくり左右に動かして見せた。
「いいですよ、そんな感じです」
「先生、そのEMDRというのは、どういった治療なんですか」
 孝昭が訊いた。催眠術のようないかがわしさを感じたからだ。
「アメリカの臨床心理士が開発したもので、心的外傷後ストレス障害の治療として認められているものです。実績もあります。しかし科学的なメカニズムは完全には分かっていません。簡単に言うと、ネガティブな記憶というのは人に話したり、夢に見たりしていくうち『仕方のないこと』『自分は悪くなかった』と心にむように意味づけしていきます。そうなると普通の記憶として処理される。ところがトラウマ記憶は、あまりに強烈であるため処理できない。フラッシュバックしているとき左右の脳のバランスが崩れてしまうんです。眼球を左右に動かすことで脳のバランスを改善すると考えられます。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠とがあることはご存じですか。夢を見ているときはレム睡眠だと言われています。やっぱり眼球が左右にれているんです。僕も日本EMDR学会認定の臨床家資格を得るとき体験したんですが、そうですね、半分寝ているような感覚になりました。起きていながら悪い夢を見ているという感じです。つまり客観視できているので、怖くない」
 本宮医師は丁寧に説明してくれた。
「危険はない、ということですね」
 孝昭は友美に聞かせるように念を押した。
「僕がついていますから、大丈夫。友美さん、これから嫌だったこと、苦しかったこと、辛かったことを思い浮かべてもらいます。これ以上は続けたくないと思ったらいつでもやめていいですからね」
「分かった」
 友美が返事した。
「孝昭さんは待合室へ」
「先生、お願いします」
 孝昭はお辞儀をして、立とうした。
「あんたもいて」
 と友美が腕を掴んだ。
「俺がいたら嫌やろ?」
「かまへん。先生ダメ?」
 友美は本宮医師のほうを見る。
「そのほうがリラックスできるんでしたら、僕は構いません」
「孝昭、お願い」
 友美はこんがんする目を向けてきた。
「分かった」
「では、そこの椅子に」
 本宮医師は、部屋の壁際に置かれた椅子に目をやった。
 孝昭が移動すると、
「では、始めましょう」
 本宮医師が優しく友美に言った。
                     〈つづく〉