第二章    過 去(承前)




      5(承前)




 けいろうしんちょうに言葉を探す間、時をかせぐようにゆっくりとコーヒーを飲んだ。返事を待つくらもちの視線は、さらにおだやかさを増す。
「言えません」
 と、カップをテーブルに置く。
「つまりもんさいしゅりょういっかんで、そこで知り得た情報だからしゅがあるとおっしゃるんですか」
 倉持が目で笑った。
「…………」
 治療だったとめいげんすれば、いま一度守秘義務をたてに取ることができるが、それこそ彼の思うつぼだ。彼はかんじゃの同意を得ない治療は医療りんにもとることを知っている。
 同意を得ずに治療が許されるのは、患者に決定能力がない場合に限られる。ただその場合でも、親族の同意を得るのが原則だ。ただし必要不可欠なりょうだと認められるものでなければならない。守秘義務のはんちゅうともの指紋採取を含めることなど、いくらいても無理だ。
 慶太郎の行為は、守秘義務の範疇でなくなるだけではなく、無断で医療とは無関係な行為をしたことになる。
「先生、どうなんですか」
「倉持さんの勝ちです」
 慶太郎はとうりょうしたのように頭を下げた。
「ではすべてをしゃべってもらえるんですね」
 倉持は胸ポケットから黒い手帳を出して開く。
「いえ、今は言えません。もし言えば警察は、僕の患者からじょうちょうしゅするでしょう。それが病気を悪化させかねない。医師としてそれはできないんです」
「心配にはおよびませんよ、先生。医療施設で話をうかがうことを検討してもいい」
「外科的、または内科的しっかんならそれも可能でしょう。しかし精神疾患は場所や人が変わることが及ぼす影響が大きい。しゅんしんせいの少年少女のほう行為を、たくさん見てきたあなたなら、いかにメンタル面が重要であるかお分かりのはずだ」
「思春期なんですか、指紋のぬしは」
 倉持は手帳をじた。思春期心性という専門用語が、少年課だった彼の胸に届いたようだ。あるいは、発達心理学などを勉強した経験があるのかもしれない。
「いえ、成年です。ですが、学童期にトラウマを受けた可能性があります」
りゅうひんへんの持ち主が、過去に受けたぎゃくたいふくしゅうを実行した。花丸をつけて、よく出来ました、と書いた被害者が、過去の加害者……か」
 大きな声の独り言だった。
みつ記者も頼んだと思いますが、僕からもお願いします。数日だけ待ってください」
「何か手掛かりをつかんでるんですか」
「手掛かりというほどのものかさえ、まだはっきりしません。その患者は事件の前に不可解な行動をとっています。それが事件に関係あるのかどうかは分かりませんが、普段はやらない、いや病状から考えればハードルの高いことをした。そんなことをする意味を解明することは、病気の治療にも役立ちます」
「治療、にも?」
「そうです。たとえ事件がその患者の犯行だとしても、逮捕して終わりではないでしょう? できる証拠や証言が得られなければならない。ちがいますか」
「そんなに悪い状態なんですか」
「言えません。ただ、客観的なぼうしょうとして事件前後の行動の意味を知る必要がある、と僕は思っています。罪をおかしたなら、つぐなわなければなりません。いくら僕のクライエントであっても。そのためにも、いま警察による事情聴取をかんこうすべきでない、としゅとして申し上げたいんです。犯人とくてい、逮捕、そしてりっけんえ、これこそが本当の意味での捜査協力だと思います。倉持さんの質問の答え、僕の疑問が解けるまで、待っていただけませんか」
 慶太郎はボールを倉持に投げた。
 倉持は何度か手帳を開いたり閉じたりして、
「二点、確認したい」
 と手を止め、スーツの前をととのえた。
「何でしょう?」
「逃亡や証拠いんめつをさせない、と約束できますか」
かんしているわけではないので、約束は無理です。ですが、面倒を見ている方がいます。その方とは連携できています。変わったことがあれば、すぐに知らせてくれるはずです」
 クライエントにはねんりょがあって、そのためにもげんどうに注意を払っているのだ、と慶太郎は言った。
「キシネンリョ?」
「これと言って明確な理由はないんですが、心が死に向かってしまう状態です。自殺願望より危険な場合もあります。現にしょう行為もげんしゅつしてますので」
「なるほど。先生が直接ではないにしろ、監督者がいるということですね」
 慶太郎はうなずき、
「確認事項のもう一つは?」
 とく。
「捜査しょうかいの際に、先生が知り得た事柄、それは医療情報も含め、つつみ隠さず話していただけますね」
 このときの倉持のするどい目、それは一課の刑事のものだった。
「ええ。信じてください」
「それで、何日くらい必要ですか、先生が指紋の主の犯行で間違いないと納得されるまでに」
「五日、ください」
「長いですね。その間、こちらで何か掴んでも、そのしゃが先生の患者であった場合、手が出せないんですからね」
「なら、こうしませんか。時間を短縮するために、倉持さんに調査を手伝っていただく、というのは?」
「警察が?」
 倉持のふとももに力が入ったのを、テーブルのかすかなしんどうで分かった。
「こちらの知り得た情報も分かるということです」
「うーん、それは」
 倉持がここに来て初めてこんわくの表情を浮かべた。民間人が警察を指揮すると言っているようなものだ。さすがに抵抗があるのだろう。
「精神科医としてじょげんし、それを受けて倉持さんが指示するというのはどうですか」
「先生の意見を参考にした、ということなら」
 いいでしょう、という倉持のしょうだくは、聞き取れないくらいの小声だった。
「こちらも手の内を明かすんです、五分五分です」
「最後にもう一つ。光田さんに関することです。私も彼を信頼していますが、署内の人間が皆そうだとは限りません。先生とは相当仲がよさそうだ」
「報道をひかえろとおっしゃるんですか」
 光田に限って、慶太郎に黙って記事にすることはない。しかし、警察がミスするようなことがあれば、ジャーナリストの一人として追及するだろう。それを止めることは慶太郎にはできない。いや、すべきではない。
「そこまでは言いません。彼自身が掴んでいる情報で、先生もご存知のことがあったら、それも私たちの耳に入れてほしいんです」
「私が知る範囲でなら」
 慶太郎は改めてコーヒーのおかわりをすすめた。
「いただきましょう」
 その言葉で慶太郎は、倉持との交渉がうまくいったといきらした。


 午後十一時過ぎ、慶太郎は光田と向かい合っていた。倉持の訪問を受け、どうなったのかが気がかりで、彼が連絡してきたのだ。
「さっきまでそこに倉持さんが座ってました」
 腰掛けた光田のでんに、慶太郎が目をやった。
「道理でしずみ込んでます」
 と光田は尻を浮かせ、ソファーの表面をでた。そして、
「倉持さんとの話、どうなりました」
 と不安げにたずねてきた。
 慶太郎が捜査協力の話をすると光田は笑顔になり、いつもの寝癖の髪を撫で付けた。
「さっそく倉持さんに『いんえいらいさん』のロゴを使った洋菓子屋、ケーキ専門店、喫茶店などを探してもらうことにしました」
「警察力を使ったほうが、当然早いですからね」
「とはいえ、友美さんの気まぐれで、その店へ行っただけだということもあります」
「空振り、ですか」
 嫌なひびきだ、と光田がため息をつく。
「だから、違うアプローチも考えておく必要があります。事件当日、しまざきさんが、女性の電話の『しゅう』という言葉に反応しているとすれば、どうしても教育機関で被害者と接触したと考えられますね」
さくらがたの紙も、そこに書かれた花丸と『よくできました』というのも、そうですよ」
「で、倉持さんに島崎氏の経歴けいれきを洗うようお願いしました。警察は彼が大学できょうべんっていたこと以外の情報を持っていませんでした。中高生を教える立場、塾や予備校、うーん家庭教師などの経験がないかまで、徹底的に調べてほしいと」
れきしょにはない経歴ですね」
「そうです。もうそれしか考えられません。僕は思いきって友美さんのご両親に話を訊いてみようと思っています。光田さんには、同級生を当たってもらいたい。できたら友美さんの当時の様子を思い出してもらい、これを見せてください」
 慶太郎は桜型の紙を示す。
「やってみましょう。マイナスの報道だとけいかいされがちだし、そうだな、友美さんのフェルトざいが素晴らしいので、彼女を取材していることにします。どんな中学生だったのかを調べていると」
「いいですね。ただ警察にさっされないようにお願いします」
 倉持が信用できないのではない。警察の捜査官に友美のことを知られれば、他の新聞記者に気取られる危険性があるのだ。
「心得てます」
「明日、ぼりさんと話して、実家への訪問日を決めます。それまでは地元新聞に載った『陰翳礼讃』のロゴの店の記事を探しておいてください。友美さんが知り得たのはいつなのか、その裏取りになります。それを見て、行動を起こしたならば、彼女を駆り立てる何かが、紹介記事の中にあったということになりますから」
 警察が店名を探り当てるのが先か、光田が記事を見つけるのが早いか、いずれにしても情報をかんし合うはずだ。
「店が分かっても、行動の動機になる記事がないと十分じゃない、ということですか」
「引きこもっている人を突き動かす、よほどのことなんです。友美さんが行動に出るほどの何かがある、そこに僕はけます」
 今日は光田よりも、熱くなっている。慶太郎は、深夜にもかかわらずクーラーの温度を一度下げた。




     6




 二日後の昼、たかあきは助手席にもとみや医師を乗せて、おお市内を走っていた。本宮しんりょう内科クリニックまりこういんから、三十分ほどで実家に着く。
「では先生、いきなり警察が踏み込んできて、姉を連れて行くことはない、と思っていいんですね」
 本宮医師から実家を訪問したいと言われ、母に電話をした。すぐにでも両親と会わせたかったけれど、二人がそろって家にいる今日になった。
「少なくとも府警の捜査一課とは話がついています」
 本宮医師の返事は心強かった。
「先生、ありがとうございます」
 約束の午後二時少し前に、古堀工務店の駐車場に車を止めた。隣には父親愛用の軽トラが材木を積んだままでめてある。
 孝昭はエンジンを切る前に、
「先生、母にはショックを受けないように、よしじんじゃの事件に姉が巻き込まれていて、精神的にまいってしまった。それで先生にてもらってることになっています」
 と昨夜の母のどうようについて、本宮医師に伝えておいた。
「承知しました」
「よろしくお願いします」
 二人は車から降りた。
「ただいま、俺」
 孝昭が玄関の扉を開けて、声をかけた。
「お帰り、待ってたよ」
 母が事務服のままで出てきた。
「こちら電話で話してた、姉さんがお世話になってるお医者さん」
 孝昭が紹介すると、
「本宮と言います。お時間をいていただきありがとうございます」
 と、本宮医師が名刺を母に渡す。
「友美がお世話になって。仕事場なので散らかってますけど」
 頭を下げてから母は、奥の応接室へと案内する。
 応接室といっても、にテーブルと椅子を置いて、その周りには材木やサイジング、壁面ボードの見本やたいしんこうぞうの図解パネルでごった返している。懐かしい部屋だったけれど、孝昭がいたときよりも狭く感じた。
「何もありませんが」
 と母は、冷たい緑茶とあゆの形をした和菓子をテーブルに出した。そのとき父が作業服に付いたくずを払いながら入ってきた。
「こちら、友美のお医者さん」
 母が差し出した名刺を受け取り、父はしゃくした。
「本宮と言います。事件のことは孝昭さんからお聞きになったかと思います」
「友美がそんな怖いことに……信じられません」
 母が激しく首を振る。
 本宮医師は、改めて事件のがいようを話した。
「人から傷つけられることがあっても人様に手をげるようなこと、しません。何かの間違いやと思います」
 口に手を当てて話を聞いていた母が、作業場の大工たちを気にしながらふるえる声で言った。
「僕は、友美さんを診て、人をあやめることなどない、と確信しています。ただお嬢さんは今、大変不利な状況に置かれています。このままだと、警察の取り調べを受ける可能性が出てきました」
 本宮医師は、心療内科医としての解釈を交えて再度問題点を整理してくれた。
 トラウマを受け、その結果心的外傷後ストレスしょうがいを発症している可能性があり、その結果うつ状態、さらに引きこもってしまっている現状。そのトラウマの原因が、花丸をつけた桜の紙片に関係があるというすいろん。さらに紙片に記された文字は事件の被害者、弁護士の島崎やすかずの手によるものであるという事実を話した。
「そして警察が最も重要視しているのが、紙片に残されたお嬢さんの指紋です」
「えっ、そんな……それはどういうことになるんですか。友美が……犯人やいう意味ですか」
 と言う母の横で、だまっていた父が体をこわらせ、
「違う、そんなことせん」
 けんしわを寄せて声をしぼり出した。
「お父さんのお気持ちよく分かります。僕は、主治医としてお嬢さんを守るつもりで調査を行ってます。それに、お嬢さんの犯行だとするには妙なところがある」
 本宮医師は言葉を切って、
「これはまだおおやけになっていないことですが、島崎さんはレンガでなぐられ転落したと見られています。カウンセリングの中でレンガという言葉をお嬢さんの前で使い、レンガを連想されるようなものを見せました。ところがとくだん反応を示さなかった。これはお嬢さんがレンガを手にしなかったことをしています」
 と父を見た。
 孝昭は、本宮医師が父を安心させようと、かいせいけんぼうの可能性を話さなかったことに心中で手を合わせた。
 職人気質の父はゆうずうかない。友美が病のせいで人を殺したかもしれないと知れば、被害者への申し訳なさで、一転して友美をさばいてくれ、と言い出しかねなかった。そうなれば家族の足並みが乱れてしまう。
 本宮医師は一瞬で、父の性質を見抜いてくれたようだ。
「友美は、あの子はやってないんですね」
 父に代わって母が確かめた。
「その裏付けが欲しいんです。友美さんの中学校時代のことを教えてください。とくに不登校になったあたりのことを」
「そうですね。あの子、ずっと優等生でほんまに手のかからない子でした。親の私から言うのはなんですが、学校の勉強だけやなくて絵を描いても、ピアノをいてもいつも一等賞で、ほこらしかったんです。ただ体が丈夫やなかったから、心配はしてました。そうしたら中学三年生の夏に朝礼で倒れてしもて、その後総合病院でりつせい調ちょうせつ障害やて診断されたんです。それからが……」
 ふさぎ込みがちになって、高校に進学しても以前のような明るくそうめいな友美ではなくなった。それは、小学四年生だった孝昭でもその変化に気づいたのだから、母にしてみればなおさらのことだったにちがいない。
「入院がきっかけですか」
「そうやと思います。健康に自信をなくしたんやないでしょうか」
 どんなに優秀であっても、健康でなければ持てる力をはっできませんから、と母がくやしそうに言った。
「友美さん、塾とか習い事はされていましたか」
「小学生の頃はお習字とピアノを習ってましたが、中学生になってからは通ってません」
「小学生……孝昭さん、これを見たのは間違いなくお姉さんが中学生のときですね」
 本宮医師が桜の紙片をこちらに示す。
「間違いないです。姉が小学生なら、私が低学年だったということになってしまいます」
「お母さん、お父さん、これが現場にあったものです。見覚えありますか」
 本宮医師は母に紙片を渡す。
「こ、これが殺人事件の……」
 母があわてて手を離す。
「失礼しました。これは僕が作ったもので、実物ではありません」
「そうですか。びっくりしました。いいえ、見たことないです。ねえ?」
 母が紙を持ち上げ父にも見せたが、首を振る。
「中学生の頃にこれをもらうような場所、思い当たりませんか」
「学校ではないんですか」
「島崎さんが大津の中学校で教鞭を執ったことはありません。せってんがないんです」
「先生やなかったら、やっぱり思い当たりませんね」
「そうですか」
 母から紙片を返してもらった本宮医師が、
「入院期間は何日でしたっけ?」
 と、何かを思いついたような顔つきで訊いた。
「えーと、三週間です」
「中三の夏ですね。受験には大事な時期だ。その間勉強はどうしてたんですか」
「それは……病院に参考書と問題集を持ち込んで……あっそうです、思い出しました。学習支援の教室があったんです」
「院内にですか」
「ええ、しょうびょうとうに」
「そこでは病院の方が勉強をみていた?」
「いいえ、背広着てはった若いお兄さんで、NPO法人の方や、と看護師さんから聞いた覚えがあります」
 母の顔に赤みが差した。
「大津総合病院でしたね」
「そうです、そうです」
 それを聞いて本宮医師はスマホを取り出し、画面をスワイプさせている。そして指が止まると電話を掛けた。
「もしもし、本宮です。お久しぶりです。先輩、大津総合病院にコネクションないですか。いえ、今日はバイトの話じゃないんです。その話はいずれ、また。二十年程前に小児科に入院歴のあるクライエントのことが知りたいんです。小児科はいませんか。では病院内部に詳しい方はおられないですか。入院環境の分かる方です。看護師のヨネモトさんですね。はい、はい。先輩の名前出してもいいです? ありがとうございました。では失礼します」
 電話を切ると、ネットで検索し、その手で大津総合病院の番号をタップした。
 紹介された米本に連絡が付いたようだ。本宮医師は、先輩医師の名を出し、自己紹介すると、二十年前の小児病棟で行われていた学習支援について訊いた。
けいはん学習支援NPO法人『いしずえ』ですね」
 本宮医師は、首にスマホを挟みタブレットにメモすると、礼を述べて切った。
「『いしずえ』だ、そうですが、覚えていらっしゃいますか」
 本宮医師が訊く。
「さあ、そこまでは覚えてないですね」
 母がつぶやいた。
「うーん、五年前に解散してますね」
 スマホで検索した本宮医師が言った。
「何とか当時を知る人物を探します。あのお母さん、友美さんの部屋というのは今どうなっていますか」
「あの子が家を飛び出したときのままにしてます。ここにいるときから、部屋の中のもんをちょっと動かしただけでも怒ってたさかい」
「そうですか、中学の卒業アルバムと、もし当時使ってた参考書や問題集があったら、見せていただきたいんですが」
 ノートや日記類は本人の了解なしで見ることができないから、持ち出さないよう本宮医師が言い添えた。
「分かりました。あの子何でも残すたちやから、とくに引きこもってからは……参考書と問題集ですね」
 母が部屋から出て行った。その後ろ姿を見ながら、今年五十九歳でいつも元気でエネルギッシュな印象にかげりを感じた。を連れて帰ったら喜ぶだろうか、とふと妙なもうそうが浮かんだ。
「ここ、落ち着きますね」
 本宮医師が父にほほみかけた。
「先生、娘は治りますか」
 ずっと考えていたことをやっと口に出せたというように、父は唐突に質問した。
「必ず回復します。たとえどんなトラウマが原因でも」
 本宮医師がきっぱりと答えたのに驚き、孝昭は彼の横顔に目をやる。これまで断言をけてきたように思っていたからだ。これも父を安心させるためなのだろうか。
「ほな治って、普通に……?」
 父が言いたいことは分かっている。人並みに結婚して家庭が持てるようになるのか、と聞きたいのだ。
「普通というのがどんなものかは、人それぞれですから僕にも分かりません。僕が言いたいのは、トラウマそのものが心の傷なのではなく、それを思い出すたびに体が何らかの悲鳴を上げる。そのことによって傷になる。それを傷にならないようにできる、ということです。車を運転していると、急に動物が飛び出してくることがありますでしょう?」
「ここらはちょっと街を外れたら、まだ田舎道が多いさかい、野生の動物が出てきてきかけたこともあります」
 父は短くったごま塩頭を撫でる。
「ほとんどの動物は、その場でうずくまりブルブル震えて動かなくなる。これがどうしようもない恐怖にそうぐうしたときの対処法です。『とうけつ』って言って文字通りこおったように固まる。動物たちはしばらくその状態にいて、ハッと気づいてその場から逃げていきます。それは動物である人間も同じなんです」
「人間も一緒」
 父と目が合った。父は木の香りや温もりが心地いいと思うのは、人が動物だったときから受け継いだ本能だ、とよく言っていた。その主張と重なる部分があると父も感じたのだろう。
「ええ。だから存分にブルブル震えて、場合によっては泣きわめけば、動物のようにまた前に進める。けれど、脳が発達した人間はそれができなくなった。いろんな方法で回避する知恵を持ったんです。でも、根本的にはうずくまって凍結した状態は、改善されていません。はっさんできなかったから、いつまでも頭と心に残り続けることになった。それはえいきゅうとうじゃないので、何かのひょうに出てきては同じ恐怖がよみがえることになります。いま友美さんはそんな状態だと思ってください。発散させるか、凍結した恐怖が溶け出しても同じことはもう起こらない、と思えれば、回復するんです。孤立さえさせなければ」
「ちょっと分かってきた気がします。そんな風に説明してもろたことないさかい。あんな病気はもう一生あかんのか思てしもて」
「周りの助けが必要ですが、大丈夫です」
 本宮医師がまた断じた。
 母が戻ってきて、
「アルバムと数学の参考書と問題集。あの子の得意なんは国語やったんですけど、なかったんでこれにしました」
 と、テーブルに置いた。
 こうに過去のにおいが届いた気がした。
                     〈つづく〉