第8話 半グレの純愛・後
哲司はおずおずと店の扉を開け、奥の席に歩いて座りこむ。注文を取りにきた女の子に「コーヒー」と呟き、小さな吐息をもらして肩を落した。
コーヒーはすぐに運ばれてきて哲司の前に置かれたが、とても飲む気にはならない。本音をいえば逃げ出したい思いだったが、そんなわけにもいかない。何といっても冴子との約束なのだ。できるはずがない。
じゃあ、どうすれば……。
相手の物忘れに期待するしかない。
考えに考えたあげく、出てきた結果がこれだった。いくら元気がいいといっても相手は年寄りなのだ。記憶力は鈍いはずだ。自分の顔など、とうに忘れているに違いない。そう勝手に結論づけてここにきたのだが、内心はびくびくものだった。
十分ほど体を竦めて座っていたら、冴子が顔を見せた。「コーヒー」と厨房に向かって叫んでから哲司の前にきてふわっと笑い、隣の席に体を落しこんだ。
「あっ、こんにちは」
慌てて声をあげると、
「何だか暗い顔してるけど、大丈夫」
顔を覗きこんできた。
「あの、やっぱり緊張してるというか、何というか。自分、こういうの、あんまり慣れていないっすから」
つまりながらいって、冴子の顔から視線をそらした。とても正視できなかった。間が近すぎた。
「心配することなんか、全然ないから。小堀塾の裕三さんは落ちこぼれの子供たちの面倒を見ている人だし、化物みたいに強い源ジイも義理とか人情には厚い、純な人だから」
何でもないことのようにいった。
「それはまあ、自分も落ちこぼれですから、ひじょうに有難いことというか。何といったらいいのか、自分もその塾に通ったほうがいいような気がしてるのも、確かなことというか、どんなもんっすか、やっぱ少しは勉強したほうが」
何をいっているのか、わからなくなってきた。
「何を頓珍漢なことをいってるのよ。小堀さんの塾は小中学生が通うところだし、今日はそういうことできてるわけじゃないでしょ」
呆れた声を冴子が出したところで、コーヒーが運ばれてきた。
冴子はすぐにカップを手に取り、ふうふう息を吹きかけて中身をゆっくりと飲みこむ。カップをそっと皿の上に戻してから、哲司のカップに目をやり、
「コーヒー、全然減ってないんじゃないの、冷めたらまずいから、早く飲んだら」
うながすようにいった。
「はいっ、いただきます」
慌てて手を伸ばして、カップをつかむ。
ごくりと飲みこんだ。
とたんに咽せた。
気管支のほうに入りこんだようで、口のなかのコーヒーを吹き出しそうになったが、そんな醜態だけは――必死でこらえて全部飲みこんだら、今度は咳が止まらなくなった。涙と鼻水もずるずる出てきて、顔も火照ってきた。焦りまくった。同時に悲しくなった。
「ほら、ティッシュ」
隣の冴子がティッシュを差し出した。
咳こみながら目と鼻を拭った。
冴子の右手が背中をさすり始めた。
「まったく、この子は、幼稚園児か」
笑いながら冴子の手は、背中をさすりつづけている。
正直いって嬉しかった。そして、恥ずかしかった。なるべく音を立てないように鼻をなよっとかんだ。
「どうした、虫気の病か。虫封じの鍼でも打ってやろうか」
突然、頭の上から野太い声が聞こえた。
上目遣いになって視線を向けると、酷い癖毛の背の低い年寄りが立っていた。あの化物のように強いジイサンだ。源次という男だ。思わず首を竦めて哲司が視線を隣に移すと、こっちは白髪混じりの髪を長く伸ばした真面目そうな年寄りだった。私塾の先生である、小堀裕三という男に違いない。
「悪いな冴子さん、待たせたようで」
裕三がこういい、二人は哲司たちの前の席に腰をおろした。いつ注文したのか、すぐにコーヒーが運ばれてきて二人の前に手際よく並べられる。
「ちなみに虫気というのは幼児の専売特許のような病でな、虚弱体質が主な症状なんじゃが。なあに秘孔に鍼を数本打てば、そんなものは立ちどころにな」
にまっと源次は笑い、太い腕を伸ばしてコーヒーカップのなかに砂糖とミルクをたっぷり入れて口に運んだ。意外と甘党らしい。理由はなかったが、ほんの少し安心した。
「源ジイのいう虫気じゃなくて、この子はコーヒーを気管支につまらせただけ――もっとも動作に子供っぽいところがあるから、鍼を打ってもらうのもいいかもしれない」
冴子は笑いながらいい、
「まあ、私の弟のようなもんです」
とつけ加えた。
弟という言葉がいいのか悪いのかよくわからなかったが、それでも哲司は嬉しかった。
「なるほど、弟か。昔から出来の悪い人間ほど可愛いとは、よくいうからのう。それと似たようなものかのう」
のんびりした口調でいう源次の言葉にかぶせるように、
「いずれにしても、元白猟会の人間がこの商店街のために働いてくれるというんだから、これは大いにめでたいことだと俺は思うけどな。俺たちも命を張った甲斐があったというもんじゃないか」
裕三が本当に嬉しそうにいって、コーヒーをひと口飲んだ。こちらはブラックだ。
そんな様子を哲司はおどおどしながら窺うが、まだ例の件は露見してはいない。この分なら、まず大丈夫だ。幸い咳のほうも治まってきたし。
「俺たちのあれこれは、冴子さんから聞いて大体はわかってるな」
と裕三が真直ぐ視線を向けてきて、哲司が慌てて「はい」とうなずくと、冴子が初対面の三人をそれぞれ簡単に紹介した。
「何でも冴子さんの絶妙な一言で、白猟会を脱ける決心をしたそうだが――そういうことなら、これからは冴子さんに足を向けて寝ることはできないな、なあ哲司君」
よく通る声で裕三がいう。
「それはもう、命の恩人にも等しいような人ですから。自分、冴子さんにはすごく感謝しています」
本音を素直に口に出す哲司を源次が睨みつけるような目で見ていた。ひやりとした。これはひょっとしたら。下腹部のあたりが、すうっと寒くなった。思わず、膝の上に置いた両手を握りしめた。
「哲司、おめえ」
源次がドスの利いた声を出した。呼びすてだった。
「ひょっとして、冴子さんのことが好きなのか」
こっちのほうを指摘してきた。
「何をいい出すんですか、羽生さん」
すぐに上ずった声が飛び出した。
「確かに自分は冴子さんのことが大好きですけど、それはさっき冴子さんが自分のことを弟のようだといったように、自分も冴子さんのことを実の姉のように慕っているということで、決して色恋の好きじゃないことは確かっす。それに、そんなことは冴子さんに対して失礼すぎると思います。失礼すぎます。本当に失礼すぎると……」
一気にいって肩で大きく息をした。躊躇っていたら、言葉が委縮してしまって出てこないような気がした。大きな吐息をもらしてみんなを見ると、呆気にとられたような表情で哲司を見ていた。
「悪い、悪かった。わしの失言じゃ。ほれ、この通り謝るからよ」
源次は頭をぺこりと下げ、
「じゃが、これだけは覚えておいてくれ。冴子さんには山城組の若頭で透さんという、イイ人がいる。そのことだけ肝に命じておいてくれればそれでいい。それで万々歳じゃ」
ごつい顔で源次が笑った。
その顔を見ながら哲司は納得した。山城組の若頭というのは、冴子と応接コーナーで話をしたとき、お茶を運んできた精悍な顔つきの男だ。あるいはと思ったがやっぱりそうだった。納得はしたものの、やっぱり淋しかった。
「大丈夫ですよ。この子は弟で私は姉――これは今日ここにきた小堀さんと源ジイが証人。妙なことにはなりっこないから、ねえ、哲ちゃん」
さらりといって冴子は顔をくしゃっと崩したが、いつもの笑顔とは少し違うような……冴子も微妙な何かを敏感に察したのかもしれない。となれば、ここはとにかく姉弟で押し通すしか術はない。哲司は普段あまり使ったことのない頭をフル回転させる。
「正直なところ、こんな姉さんが本当にいてくれたら、自分も暗すぎる人生を送ることなく、まっとうな道を歩いていけたかもしれないと思えるっす」
こんな言葉が口から出た。
「暗すぎる人生って――哲司君はどんな生い立ちを送ってきたんだ。よかったら話してくれないか」
すぐに裕三が哲司の言葉を丸ごと受けた。
これは多分、この人の優しさだ。
これで話題が変えられる。
「実は――」
と哲司はいって、小学生のころの苛めや、母親にすてられて施設から中学に通ったこと。鉄工所に就職しても頭が悪くて仕事がなかなか覚えられず、周囲から邪魔にされて半グレの道に飛びこんだことをつつみ隠さず三人に話して聞かせた。
「お母さん、帰ってこなかったんだ」
ぽつりと冴子がいった。
「いつの時代にも、どこに行っても。陰湿な苛めはついて回るというのが悲しいなあ」
呟くようにいう裕三の言葉につけ加えるように、
「ようく、わかった」
源次が低いがよく通る声を出した。
「おめえもこれからは、幸せにならねえとな。冴子さんが姉ちゃんなら、わしたちのことは兄ちゃんだと思えばいい。それでおめえの居場所は完璧じゃ。みんな仲間だ、遠慮はいらねえ。大威張りで、この町の一員になればいい」
源次がうまく話をまとめた。
この人も顔に似合わず優しいのだ。しかし……。
「源ジイと小堀さんが兄ちゃんでは、おかしいでしょ。そこはやっぱり」
冴子が哲司の思いを代弁するように、待ったをかけた。
「――おじいちゃんでしょ」
話がまとまるところに落ちついた。
「すると、哲司はわしたちの孫ということになるのか――まあ、仕方がねえけどよ」
ちょっと膨れっ面で源次がこぼす。
「じゃあ、そういうことで乾杯でもするか。コーヒーだけど」
裕三が真面目くさった顔でいうと、
「その前に、この子の面接の結果はどうなったのかを教えてもらわないと」
「合格にきまってるじゃろ」
源次の吼えるような声に、哲司の胸がすうっと軽くなる。ばれなかった。あの件は守り通せた。有難かった。この町のために死ぬ気で頑張ろうと哲司は思った。
「よし、それなら」
と裕三がコーヒーカップを持ちあげたとき、
「おい、ちょっと待て」
不意に源次が声をあげて、哲司の顔を凝視するように見た。射抜くような目だ。哲司の全身を氷のようなものが走り抜けた。
あの件がばれた。
「おめえ、あのときの……」
といったとたん、隣の裕三が源次の脇腹を肘で突いた。
「そうだよ。源ジイがのんべで白猟会の連中の席に行って、ビール瓶の首を指で吹っ飛ばしたときにいた兄ちゃんだよ」
そんな覚えはまったくなかった。
「あのとき、雲を霞と逃げ出した兄ちゃんの一人だよ。あまり、恥をかかせるもんじゃないよ、姉さんの前で」
首を振りながら裕三はいった。
「そうだ、そうだ、あんときの兄ちゃんだった。雲を霞と逃げ出した……」
源次が裕三の言葉に合せた。
二人して自分を、かばってくれた。
心なしか鼻の奥が熱くなった。
「ありがとうございます」
思わず二人に頭を下げた。
「乾杯――」
冴子が叫んで四つのコーヒーカップが、ぶつかった。いい音がした。が、冴子も今のやりとりからあの件を気づいたかもしれない……ふとそんな思いが胸をよぎった。ちらりと隣の冴子に目をやると顔中で笑っていた。この町にずっと住みつづけたい。哲司は心の底からそう思った。
六畳一間のアパートの電気ごたつのなかに哲司は仰向けになって体を入れ、天井を見つめている。
見れば見るほど節の多い天井だったが、いつもなら腹立たしくなるその安普請も今日はまったく気にならなかった。冴子たちと会ってから三日目、哲司はゆったりとした気持で天井を眺めていた。
ジローで裕三と源次に会った帰り、冴子は哲司を誘って駅近くにある、『角打ちbar』のリフォーム工事をしている現場に連れていった。
十坪ほどの小さな店のなかに入ると、新しい木の香りが鼻に心地良かった。なかでは二人の職人が仕事をしていて、下地になる石膏ボードを壁に張っていた。
「どう、この店」
上機嫌でいう冴子に、
「素晴らしいです。こんなところで働けるなんて夢みたいっす」
嬉しさ丸出しで哲司は答える。
「それも、いつかはてっぺん――哲ちゃんが上に立ってこの店を盛りあげていくのよ」
「それだけはちょっと心配で。何といっても自分、頭よくないっすから」
正直、かなりの不安があった。
「だから、気配り。こうした客商売は気配りが行き届いてないと、すぐにお客は寄りつかなくなるから。だから人の顔色を窺って生きてきた哲ちゃんには最適。誠心誠意、お客のことを考えて店を切り盛りしていけば、成功するはずだから、そんなに不安がることはないと思うわ」
冴子はさらりといって、
「じゃあ、このあとは本店である八代酒店に出向いて、経営者の初子さんに会って話をしてこようか」
哲司をうながして、この店から歩いて五分ほどの位置にある、八代酒店に向かった。
角打ち酒場は五時からということなので、初子とは酒店のほうで顔合せをした。
「小堀さんと源次さんがオーケイを出したんなら、私には何の文句もないよ。あの二人というか、特に小堀さんの人間の見立ては的を射ているからね」
それでも初子は哲司の上から下までを凝視するように見て、
「この兄ちゃん。ちょっと痩せすぎのような気もするけど、あんた体力のほうは大丈夫かね」
腕をくんでいった。
「痩せていても体力だけはあるっす。これでもあっちこっち鍛えてますから」
何があっちこっちなのか、はなはだ疑問ではあるけど、
「ふうん。あっちこっちで鍛えてるんなら、まず大丈夫だろう。それにまだ若いし」
初子も、あっさりオーケイを出した。
「ありがとうございます。死ぬ気で頑張りますから、よろしくお願いいたします」
すかさず哲司は頭を思いきり下げて、大きな声で礼をいう。このあたりが哲司の気配りの良さともいうべきところだ。
「それじゃあ、兄ちゃん。そういうことで、来週の月曜日から初歩の修業のためにうちに通ってきな。今度開店する角打ちバーに必要な最低限のノウハウを叩きこんでやるから。食材の下拵えから、肉や野菜をうまく焼きあげるコツなんかをきちんとよ」
初子の言葉に、これもまた調子がいいほど大きな声で哲司は「はいっ」と答える。
それから十五分ほどで哲司と冴子は八代酒店を出て、ぶらぶらと商店街を歩く。
哲司の胸は高鳴っている。大好きな冴子と二人並んで歩いているのだ。つい先日までには考えられない展開だった。
「ちょっと早いけど、夕食代りに焼そばでも食べていこうか」
という冴子の提案で二人は焼そば屋の暖簾をくぐる。
ソースの焦げる香ばしい匂いを嗅ぎながら、哲司は冴子とビールで乾杯した。哲司にとって、人生最大で最高の乾杯だった。ビールが腹ではなく胸に染みわたり、不覚にも目頭が熱くなった。ずずっと鼻をすすった。
「自分、頑張ります。本当に死ぬ気で頑張りますから。冴子さんへの恩返しのためにも」
潤んだ声で、これだけいった。
「私のためなんかじゃない、これは哲ちゃんのため。哲ちゃん自身の幸せのために死ぬ気で頑張って、まっとうな道を歩んで。今まで悲惨だった分を取り返すためにもね」
発破をかけるように冴子はいった。
「はいっ」としかいえなかった。
本当は冴子のために頑張りたかった。
冴子に喜んでもらうために頑張りたかった。
しかし、そんなことはいえるはずがない。自分はあくまでも冴子の弟分なのだ。冴子の恋人でも思い人でもなかった。でも、それでよかった。冴子と一緒にいられるだけで、哲司は充分に幸せだった。
そんなことを考えていると、ドアをノックする音が耳に響いた。白猟会がちりぢりになってからは、この部屋を訪ねてくる者もいなくなった。多分何かの勧誘だろうと立ちあがり、ゆっくりドアを開けると見知った顔が二人立っていた。
「おい、哲。久しぶりだなあ」
髪を金髪に染めた男がいった。
「とうの昔に引き払ったと思っていたが、まさかまだ、ここにいたとはなあ。あるいはと思ってきてみたら、ドンピシャリだったぜ」
もう一人の鼻と瞼にピアスをつけた男が、ねばっこい声を出した。
金髪男の名前はサトシ、ピアスのほうはマリオと呼ばれていた。どんな漢字を当てるのか哲司は知らなかったが、二人共白猟会の仲間であり、冴子を拉致しようとしたときの残りの二人だった。
「あがるぞ」
サトシが低い声でいい、二人はどかどかと入りこんで電気ごたつのなかに足をつっこんだ。二人共、革ジャン姿だった。
「酒はあるのか」
ぼそっとした声でいうマリオに哲司が首を振ると「しけてんなあ」とサトシが声をあげて舌打ちした。
「ところで、先日妙な噂を耳にしてよ、それで確かめにきたんだけどよ」
睨めつけるような目で、サトシが哲司を見た。
「てめえと例の山城組のクソアマが、二人並んで町なかを歩いて焼そば屋に入り、飯を食ってたというんだけどよ。そんなことはねえよな、哲。何かの見間違いだよな」
「それはまあ、そういうこともあったというか、何というか」
しどろもどろの口調で哲司は答えるが、あれを誰かに見られていたとは。しかしいったい誰に。
「あの、誰からそんな話を聞いたのか、それを」
遠慮ぎみに哲司は声を出す。
「今、あの町には、けっこう俺たちと同類のもんが入りこんでんだよ。そういうことだから気にすんな」
サトシがへらっとした顔で答えると、
「そんなことより、そういうこともあったとは、どういうことだ。あの女には俺たち三人は酷い目にあってる。そのことをてめえ、まさかとは思うが忘れちゃあいねえだろうな」
マリオが嫌な目つきを向けてきた。
こいつは頭に血が上ると何をするかわからない男だ。すぐにナイフを振り回して平気で人を刺す。表沙汰にはなっていないが、今までに三人の体にナイフを突き立てている。三人共死には至らなかったが重傷だった。そのうちの一人は女性だった。
「忘れちゃ、いないけど……」
震え声で哲司はいった。
「なら、どういうことだ。いつのまに、あの女と仲よし小よしになったんだ」
「それは……」
口ごもっていると、マリオは革ジャンの懐に手を突っこんで何かを取り出した。大型のサバイバルナイフだ。刃渡り二十センチを超える、一突きで相手を死に至らせるものだ。そいつをマリオは哲司の顔に押しつけた。
「全部吐け。洗いざらい全部だ。嘘いいやがると、てめえのホッペタにこいつをまず刺しこんでやるからそう思え」
顔にあてたナイフの先に力をいれた。
恐怖が哲司の全身を貫いた。
こいつなら、やりかねない。
「まずは、少し捻じこんでやったらどうだ。歯みがきができねえぐらいによ」
サトシが笑いながらいった。
「そうだな、それもいいな」
マリオの目が吊りあがった。
危ない兆候だった。
「待って、全部話すから、ちょっと待って」
疳高い声で哲司は叫んだ。
聞かれるままに、冴子とのあれこれを哲司は二人にすべて話した。マリオはナイフで哲司の顔を叩きながら話を聞いた。話をしている間、哲司は小便がもれそうになり、右手で股間を押えこんで話をつづけた。
ようやくナイフが顔から離れた。
哲司は恐る恐る股間から右手を話す。
小便はもれていなかった。
「よかったな、ションベンがもれてなくてよ。もし、てめえの、ど汚ねえションベンが俺の体にちょっとでもかかっていたら、てめえの金玉をこいつでえぐりとるとこだったぜ」
嘲笑いながらマリオはいった。
「つまりは、てめえだけ角打ちバーのてっぺんになり、おまけにあの女も、モノにしようという魂胆なんだよな。そりゃあ、あんまり虫が良すぎるんじゃねえのか、哲司さんよ」
サトシが、ねちっこくいった。
「冴子さんを何とかしようなんて。自分はそんなことは爪の垢ほども思っちゃ……」
「けど、てめえ、あの女が好きなんだろう。それが爪の垢ほどもっていうのは、おかしいんじゃねえか」
サトシは息がかかるほど顔を哲司の前によせ、
「おい、哲。はっきりせえや。てめえ、あの女とやりたいのか、やりたかねえのか。そこんところをはっきりさせたれや」
怒鳴りつけた。
同時にマリオのナイフの刃が、ぴたっと哲司の頬に吸いついた。その刃がゆっくりと動き始めた。
「いう。いうから待って――やりたい、やりたいにきまってるだろ。しかし、冴子さんにはさっき話したように男が――」
哲司の言葉が終らぬうちに、
「よし、きまった。そういうことだ」
サトシが重い声を出して、嫌な笑いを顔に浮べた。
「きまったって、何が……」
怯えのなかに怪訝な表情を哲司が浮べると、
「俺たちであの女をもう一度襲って、体を頂いてちまうということだ」
サトシが血走った目でいった。
「そんなこと駄目だ、そんなことは」
おろおろ声を出す哲司に、
「指図をするのは俺たちで、てめえじゃねえ。黙ってろ、ノロテツが」
サトシが威嚇するように叫んだ。
ここでも哲司はノロテツだった。
「てめえはあのクソアマに電話をして、呼び出してくれさえすればいいんだよ。そして前に計画したようにクルマに放りこんで、この部屋に連れこめば、それでよしだ。ど汚ねえ部屋だが、あの女にゃあこれぐらいがお似合いだ」
マリオが部屋をぐるりと見回した。
「ここで一晩中、あの女をオモチャにして、それをビデオで録って、あの女の一生をめちゃくちゃにしてやろうという算段だ。面白えだろうが」
革ジャンの懐を、マリオはぽんぽんと叩いた。ちゃんと、ビデオを持ってきているのだ。
「ビデオって、そんなことは」
掠れた声でいう哲司に、
「録画しておけば、いろんな意味で金になるからよ。もちろん、いろんな意味で保険にもなるしな。心配するな、てめえにもオコボレで一回ぐらいはやらせてやるからよ」
サトシがまた、へらっと笑った。
「自分はそんなことは――」
「やってるとこを見れば、やりたくなるさ。もっともそれでも首を振るなら、こっちはまったくかまわねえけどよ」
「だけど、冴子さんは頭だった菱川さんが好きだったんで、そんな人に手を出したらそれこそワルの仁義に……」
哲司は白猟会の頭だった菱川の名前を出した。最後の切り札だった。
「半グレに仁義なんてものはねえよ、ノロテツが。大体あの女が素直に頭の要求に従って体を投げ出してれば、グループもつぶれることはなかったし、こんな最悪の状況にはならなかったはずだ。災いの元凶はあの女なんだ。そんな女を放っておくわけにはいかねえだろうが。頭だってそう思ってるはずだ」
サトシが屁理屈をこねた。が、屁理屈がまかり通るのがワルの世界だった。
「それに頭は当分、向こう側から出てこられねえ。文句があっても、ここには届かねえ。それからな、以前から俺もあの女とは、やりたくてやりたくてしょうがなくってよ。いい女だからよ、あのアマはよ。あの女を攫って頭に差し出せば、一回ぐらいはオコボレでと考えてたんだが、あのザマだ。それが何とも頭から離れなくてよ」
本音じみたことをサトシがいった。
「とにかく、あの女を呼び出せ。それがてめえの役目だ」
唐突すぎるほどのかんじで、マリオがいった。目が据っていた。
「あと二時間もすれば暗くなる。てめえたちが仲よく焼そばを食らった店にでも呼び出せば、あとは待伏せした俺たちで処置をして車に放りこみ、この部屋に連れこむ……そういう段取りだから、あの女のケータイに今すぐ電話を入れろ。火急の用事ができたからとか何とかうまく言葉を並べてよ」
「俺たちで処置するって、そんなことは……冴子さんはけっこう強いし、また前の二の舞いになるんじゃ」
そうなのだ。冴子は強いのだ。以前もサトシとマリオは、簡単にその場に失神させられている。
「そんなことは百も承知だ。だから今回俺たちはこんな物を持ってきた」
笑みを浮べながら、サトシは革ジャンの懐に手を入れて何かをつかみ出した。シェーバーを大きくしたような何かの機械……。
「スタンガンだよ。あの女がいくら強くても、こいつを押しあてればそれでおしまいだ。いくら何でも、押しあてるぐれえの隙はあるだろうからよ」
スタンガンのスイッチを入れた。
先端が弾けて火花のようなものが点滅してパチパチと音を立てた。これは駄目だ。こんなものを押しあてられたら、いくら冴子でも抵抗などは――。
哲司は胸の奥で絶望的な声をあげた。
「あの、冴子さんは今留守のはずで。確か東北のほうにお祭りがあって、そこで屋台を組んで商売をしているはずで」
こんな言葉が、とっさに飛び出した。むろん嘘だった。
「そうか、あの女は今、東北か。そういうことなら仕方がねえな。なるほどな」
まさかとは思ったが、マリオがすんなり哲司の言葉を認めた。が、つづきがあった。
「嘘だな、ノロテツ。まあ嘘でもいい。今日はてめえの顔を立てて決行は中止にしてやる――決行は明日だ。わかってるな、ノロテツ。今回てめえの顔を立てたということは、明日は何があろうと従ってもらうということだ。もし明日、てめえが拒否したり裏切ったりしたら、そのときはその右手の指を……」
じろりと睨んだ。
「そうだな。てめえには、先だってのジジイたちとの闘いのときのときの敵前逃亡の前科もあるから、一本じゃなてく三本ほどつめてもらうことにするか。といっても俺がこのナイフで一本ずつ切り落してやるから心配はいらねえ。顔を立てるということはそういうことだ」
これもワルの屁理屈だったが、マリオのいう通りでもあった。
「じゃあ、帰るとするか。明日の同じころまたくるから、腹を括っておけ。ノロテツ」
二人は同時に立ちあがった。
そして部屋を出る間際に、サトシがこんな捨て台詞を残していった。
「もしてめえが裏切ったとしても、俺たちは何も困らねえ。決行を日延べしていくだけのことで支障は何もねえ。てめえが指を三本失くすだけのことでよ」
一人残された哲司は、頭を抱えてうずくまった。
次の日の午後、哲司は居ても立ってもいられない気持でふらりと部屋を出てジローに行った。
先日冴子と隣合せで座った席に腰をおろし、ぼんやりとコーヒーをすすった。あれから、何かいい方法はないかと頭を絞ってみたが無理だった。
冴子や源次に正直に話せば、サトシとマリオはぼこぼこにされるだろうが、それだけのことで何も状況は変らない。決行を日延べするだけと、はっきりサトシは口にした。そういうことなのだ。決行を延ばして、好機の訪れるのを待ち、あのスタンガンを冴子の隙を見て使えば――打つ手はまったくなかった。それに自分のこの手。
マリオは執念深い性質だ。
やるといったら、おそらくやる。
哲司は右手を広げて、じっと見る。
背中にすっと悪寒が走った。
ぶるっと体を震わせて、視線を左手の隅に向けると見知った顔がいた。名前は知らないが、あれはどこかの半グレの一人だ。その半グレが、やたら皺の多い年齢不詳の男と話をしていた。
あの半グレが自分と冴子の姿を見て、サトシたちに話した……そうに違いない。しかしこの二人はここで何を――サトシは自分たちと同類の人間がこの町には入りこんでいるといっていたが、いったい何のためなのか、見当もつかなかった。だが、今はそんなことを考えている余裕はなかった。
哲司が視線を元に戻そうとしたとき、皺だらけの男がこちらを見た。何だかわからないが体中が寒くなるのを覚えた。
源次と同じ種類の人間。
そんな気がした。
何がどうなのかはわからなかったが、危険すぎる人間のように思えた。そのとき哲司の頭に唐突にある考えが浮んだ。
サトシとマリオの件を警察に持ちこんだら……が、すぐに哲司は頭を振る。サトシとマリオは、まだ何もしていない。憶測だけでは警察は動かない。事件がおきなければ、やつらは動かない。
ふっと吐息をもらして皺だらけの男のほうに再度視線を向けると、男はまだ哲司のほうを見ていた。半グレ男のほうが立ちあがる気配を見せた。こちらに声をかけようとする様子のようだ。
長居は無用と、哲司はさっと立ちあがってレジ台のほうに向かった。素早く金を払って店を出た。
部屋に戻って電気ごたつに入り、何かいい考えはないかとさらに頭を絞る。浮ばなかった。焦った。
じりじりと時間は過ぎる。
そろそろ二人がくるころだ。
あとは頼むだけだった。誠心誠意、頭を畳にこすりつけて哀願するしか術はなかった。たとえ、三本の指を切り落されたとしてもだ。そして……恐怖で小便がもれそうになったが、哲司は腹を括った。
ドアが叩かれて、ノブが回される音が聞こえた。二人がきたのだ。ドアに鍵はかかっていない。ドアが開いて、二人が乗りこんできた。
二人はこたつのなかに足を突っこみ、哲司の顔を睨みつけた。
「腹は括ったか、ノロテツ」
低い声でマリオがいい、哲司はそれにわずかにうなずく。
「そりゃあ、てめえにしたら上出来だ。なら、まずケータイをここに出せ」
サトシが目顔でこたつの天板を差した。
哲司はポケットからケータイを出し、素直に天板の上にのせた。
「いやに素直だな、今日は。なら、さっさとあの女に電話をしろ」
サトシの言葉が終らないうちに、哲司はこたつから飛び出て頭を畳にこすりつけた。
「お願いします。どうか冴子さんを襲うのはやめてください。諦めてください。その代り自分の……」
右手を伸ばして畳の上に張りつけた。
「三本の指は切ってもらってもいいです。それに免じて、冴子さんだけは」
泣き出しそうな声をあげた。
「ほうっ、そういうことか。なら三本の指は切ることにしようか。けどよ、冴子は諦めねえからな。今日はやめにしても仕切り直して、後日目的は果たさせてもらうぜ」
嘲笑いながらサトシがいった。
「だから、指の代りに冴子さんだけは」
哲司は声を絞り出す。
「てめえはいつまでたっても、ノロテツだな。だから今日は免じてやるっていってるじゃねえか」
サトシは低い声でいってから、マリオに目配せをした。
マリオが懐から、大型のサバイバルナイフを抜いた。
「なら遠慮なく落させてもらうか。ノロテツがどんな声で泣き出すか楽しみだな。並や大抵の痛さじゃねえぞ」
声を頭の上で聞きながら、がばっと哲司は体を起こした。あと方法はひとつだけ。たったひとつだけだ。
「お前らの気持はすべて、わかった。お前らは外道だ。生きていてもしようがない、ケダモノだ」
立ちあがって、ズボンの後ろポケットに手を入れた。
抜き出したのは、半グレをやめてからも肌身離さず持ち歩いていた小型のナイフだ。マリオのサバイバルナイフに較べたら、刃先は極端に短かったが。
「あっ、てめえ」
二人の顔に緊張が走った。電気ごたつを撥ねあげて立ちあがった。
サトシも懐からナイフを抜いた。こっちも大型のサバイバルナイフだ。
「お前ら二人を殺せば、冴子さんは助かる。自分は死んでも冴子さんを守る。自分は冴子さんが大好きだから、大好きだから……」
吼えるようにいってから、哲司はさっと二人の前に出てナイフを構える。
「ほざけ、馬鹿野郎が。そんなちっぽけなナイフで何ができる」
マリオがサトシに目配せをした。
さらに一歩前に出る哲司に、二人は両脇から襲いかかった。哲司は動かなかった。というより、両手を上にあげた格好でサトシとマリオのナイフを受け入れた。
大型ナイフが哲司の両脇に、深々と突き刺さった。埋まった。痛みか熱さかわからない衝撃が哲司を襲った。その場に倒れこんだ。しかし、これで冴子は助かるはずだった。自分が死ねば警察が動く。サトシとマリオは逮捕されて塀のなかだ。へたすると、余罪も併せて無期懲役だ。冴子は安泰だ――これが哲司の考えた最後の手段だった。
「おい、まずいぞ」
サトシが怒鳴った。
「バックレよう」
これはマリオだ。
二人が部屋を飛び出していくのがわかった。大型ナイフはまだ、哲司の体に突き刺さっている。畳は血だらけだ。意識がどんどん遠のいていく。
哲司の脳裏に冴子の顔が浮んだ。
冴子は笑いながら、咽せている哲司の背中をさすっていた。あれは嬉しかった。生涯でいちばん嬉しかった出来事だった。
「冴子、さん……」
哲司は口に出して冴子の名前を呼んだ。
むしょうに冴子の明るい声が聞きたくなった。そうだ、ケータイだ。
こたつの上にあったケータイは撥ね飛ばされて、二メートルほど向こうの畳の上に転がっていた。
哲司は這った。
ケータイに向かって芋虫のように這った。
少しずつ、少しずつ。
冴子の明るい声が聞きたい。
冴子の声が。
ようやく右手がケータイをつかんだ。
握ったとたんに意識が遠のいた。
真暗だった。(つづく)