第二章 過 去(承前)
4(承前)
「僕だって、食べ物からそんな連想したくないよ。普通はもっとも結びつかないからこそ、当事者には衝撃が大きいんだ。うまく有効打になってほしい」
慶太郎はテーブルの上にあるケーキの入った紙袋を引き寄せた。
「私はケーキはケーキとして、尊と美味しくいただきますわ」
おどけた言い方をして、コーヒーメーカーに豆と水を補充した。
「姉さん、本宮先生とそこで会った。ちょうどうちにみえるところだったんだって」
玄関口から屋内の友美に声をかける孝昭の後ろ姿を、慶太郎は見ていた。初訪問時のおどおどした感じがなくなっているように感じる。あのときは友美への対応となると、営業の際に見せた自信が漲る顔つきから一変し、卑屈ささえ漂わせていたのだ。
八恵の存在が大きいのだろう。彼女のお陰で、自己肯定感を抱くようになってきている。今の孝昭なら、友美の頼みの綱になってくれるにちがいない。
「先生、入ってください」
と振り返った孝昭の顔つきに覚悟を見た。
「おじゃまします」
二人が卓袱台に座る位置は、テレビを背に孝昭、彼の左側で襖に近い場所に慶太郎と、これまでと同じだ。友美が部屋から出てくれば、孝昭の正面で襖を背面に彼女が座る。
「この間はブローチ、ありがとうございました。お菓子が好きだと伺ったんで、お礼にケーキを持ってきたんです」
少し間を置いて、
「他にも作ってくれると聞いたんですが、本当ですか」
と訊いてみた。
さらに一拍おいて、
「もっと凄いのができるんですって? ぜひお願いしたいんですよ」
慶太郎は耳を澄ます。この行為も馴れてきたのか、友美との間合いを感じ取れるようになった。
剣道で、自分の竹刀が相手に届く距離と、相手の竹刀の切っ先が自分を打つ距離は微妙に違う。その間合いの読みで、勝負は決するといっても過言ではない。相手の竹刀が届かない距離にいれば、安全だが勝負にならない。慶太郎のやろうとしているのは、相手が打てば当たると思う距離まで近づき、打たせる戦法だ。実際には相手の竹刀は僅かに届かず、慶太郎の竹刀が相手を打つ。それゆえ間合いの読み誤りは、極めて危険なのだ。
「先生も一緒に食べましょう。お持たせで失礼ですけど。姉ちゃん、紅茶でいいよね」
孝昭が台所に立つ。
「僕も手伝います」
慶太郎も台所の孝昭の隣に立って、
「少し濃いめのミルクティーにしましょう。いいですか、友美さん」
念のために、洋酒の香りを紅茶の匂いで分かりにくくしたかった。
孝昭はミルクパンに牛乳を注ぎ火を着けた。そこに紅茶のティーバッグを入れ、焦げないように煮出す。すぐに紅茶の香りが広がった。
居間の襖のがたつく音がして、見ると友美が顔を覘かせていた。彼女の目は卓袱台の上に置いた緑の包み紙に注がれている。
そのうち四つん這いでにじり寄り、襖から完全に体が出てきた。
「ブローチ、ありがとうございました。いろんな人にどこで買ったんだと聞かれます」
慶太郎が台所から話しかけ、すぐにカップと小振りの皿を三枚、盆に載せる。淡々と接することで、医師とクライエントであるというムード、カウンセリングをするという気配を匂わせたくなかった。
「いい香り」
と友美が襖を後ろ手で閉めた。
慶太郎は盆を持ち、孝昭に目配せをして一緒に居間に戻った。
「ミルクティーが合うんじゃないかと思って」
友美の前にマグカップを置いた。
「『竹取物語』、テレビで紹介してた」
友美が包みを手にした。
「俺も知ってる、ネーミングがいいなって思ってたんや。遠慮なく呼ばれよ、姉ちゃん」
「うん」
友美が切り分けるよう孝昭に包みを突き出す。
「僕はスイーツが大好きなんだけど、店とかには疎くて、これも家内に選んでもらったんですよ」
「先生も召し上がったことないんですか。さあどんなんだろう」
孝昭は包装を解き、竹の皮を開く。
「わあ、美味しそう」
友美が発した嬉しそうな声に慶太郎は安堵した。引きこもり傾向のある人は、こだわりが強く、自分の興味のあるものに対しては躁的な態度を示すことがある。それほど目前のケーキは、友美を引きつけているようだ。
孝昭は用意していたナイフで切り分けるために、一旦大きめの皿にケーキを移した。
「結構ずしりときますね」
「僕も、ケーキにしては重いと思いました。家内からパウンドケーキだって聞かされたとき、間違ってレンガでも買ってきたのかと思ったって、冗談を言ったら嫌な顔をされました」
と笑いつつ慶太郎は、友美の表情のどんな微細な変化も見逃さないよう注視した。
「ケーキを固いレンガやなんて、心療内科医なのにデリカシーがない」
友美の視線は、ナイフが入るケーキだけに注がれていた。
だがレンガという語句がしっかり耳に入っていること、デリカシーがないという言葉でそれをちゃんと理解していることが分かる。表情筋に反応はなかったし、呼吸も乱れていない。
これは解離性健忘の中の選択的健忘による記憶障害なのだろうか。レンガで人を殴った事実があまりにも衝撃的で、それに関係するものだけを記憶の箱にしまい込んだとも考えられる。いや、自らレンガという言葉を使ったにもかかわらず、嫌悪を示す様子はなかった。いくら選択的健忘で、行為そのものが思い出せなくても、関連のあるものを避けたい気持ちが強く働くものだ。
例えばエレベーターで暴行された女性が、ショック状態から選択的健忘による記憶障害を発症した場合、暴行そのものは完全に忘れているのに、エレベーターを避ける。解離はトラウマから自分を守る防衛本能だとも言えるからだ。
心療内科医が向き合っているのは、実は心の傷そのものではない。心に受けた傷に起因する身体症状と対峙している。つまり事件の不快な刺激をレンガから想起しないほど解離させていて、友美に身体症状として現れなければ、それはもはやトラウマではないとも言えるのだ。
しかしそれなら、新聞記事に対する一連の行動の説明がつかない。
焦るな、焦っては事を仕損じる。本来の目的を見失ってはならない。医師として友美の受けたトラウマを解放することが目的だ。そのために警察の取り調べはどうしても避ける必要がある。捜査官による追及は、トラウマを受けた現場に無理やり引き戻す行為に外ならない。それはトラウマを理解する専門家でも安易にやってはならないことだ。
「デリカシーですか。参ったな」
大げさに頭をかく。
「じゃあ、いただきます」
切り分けたケーキを配り終えて、孝昭はフォークを友美と慶太郎に渡した。
「まずは、友美さんからどうぞ」
そう促すと、友美が目を輝かせて皿を手に取る。分厚く切ったパウンドケーキに載ったまるごとの栗にフォークを突き刺した。そして口に運んだ。
「栗、美味しい! 孝昭も食べてみぃ」
「ほんまか」
孝昭も栗が載ったところから食べた。
「旨い。美味しいです、先生」
「では僕も」
慶太郎はケーキを食べながら、なおも友美の表情を観察する。ラム酒の匂いは紅茶の香りで誤魔化すことができたようだが、どうしても独特の風味が口から鼻へ抜けた。気づかないはずがない。
しかし友美の口に運ぶ手は止まらない。
「友美さん、お口に合いましたか」
と尋ねてみた。
「洋菓子と和菓子のいいとこ取りって感じ。どちらも好きやから」
彼女の微笑みで、不快感を抱いてはいないことが分かった。
洋酒が苦手だというのは、孝昭の勘違いだったのか。それとも使用されているお酒の量にもよるのだろうか。
「友美さんは、スイーツは何でも? 今後の参考に、教えてください。苦手なものはないんですか。例えば僕は、あんず系の味だけがどうも苦手でして。アプリコットタルトなんかが食べられないんです」
こちらから間合いを詰めた。
「アプリコット、好き。美味しいのに」
「子供の頃に食べたあんずのシロップ漬けが原因です。小学二年生の歯の生え替わる時期に食べて前歯が抜けちゃった。その感覚が気持ち悪かったのと、歯抜けの状態のときに同級生に笑われた体験が結びついたんだと自己分析してるんです。理由が分かっても、苦手意識は治ってませんがね」
そう、理由が判明したところで改善できるとは限らない。逆に原因が分からなくても、克服できることもある。そこが人間心理の難しさだ。
慶太郎は、再度苦手なものはないかと訊いた。
「甘いもので?」
「ええ」
「それなら洋酒の入ったもの」
即答に近かった。
「洋酒、お酒がダメなんですね」
「ううん、洋酒。私だって夏にビールとか、寒いときに日本酒とか、たまに飲む」
ケーキを食べて、友美がミルクティーを美味しそうに啜る。
「洋酒だけが嫌いなんですね」
「大嫌い」
猫が顔に水を浴びたように激しく首を振った。
「すみません、嫌いなものなんて話題にして」
慶太郎は軽く頭を下げ、
「好きなものの話をしましょう」
と切り替えた。
「豆大福、松風、草餅、エクレア、レアチーズケーキ」
友美は子供のように甘味を並べた。
「お店のこだわりとか、あるんですか。特にどこそこの何が美味しいって」
「そんなんない。いま言うたお菓子で当たり外れはなかったもん。なあ孝昭」
友美は向かいでケーキを頬張っている孝昭に、同意を求めた。
「そやな、これは不味かったいうのはなかったかな。反対にメチャクチャ美味しかったいうのもなかったけど」
「私、とびきりなもん、好かん。みんな、誰もがそこそこ満足するもんのほうがええ」
その言葉を聞いて慶太郎は、孝昭に目で合図を送った。あるタイミングで、友美が買ってきたシフォンケーキの話を持ち出すよう打ち合わしていたのだ。
「けど、あれはとびきりやったで。いつぞや姉ちゃんが買うてきたシフォンケーキ」
「あれ、そんなに美味しかったか」
友美は皿を空にし、まだ大皿に残ったケーキをじっと見る。
慶太郎はもう一切れを彼女の皿に載せた。
「あっ、おおきに。さっきデリカシーがないって言うたこと、取り消したげる」
屈託のない笑顔を見せた。
遠出をして有名店でケーキを買ったこと自体に、特別な意味はないということか。
「とびきりって、そんなに美味しかったんですか」
と慶太郎はさりげなく訊き、ティーカップを手にした。
「ええ、具体的に言うのは難しいんですけど、今まで食べたものとはちょっと違うって感じました。姉ちゃん、有名店のやって言ってたんやなかった?」
「そうやけど」
「どこのですか。僕も食べてみたいですね」
慶太郎は手帳を出して書き留める準備をした。
「ごめん、忘れたわ」
「ほんまに? 京都のお店やなかった気がするんやけど」
「覚えがない」
友美の左目だけが瞬いた。
「そうですか、残念だな。シフォンケーキは家内が好きなんで、喜ぶと思ったんだけど」
慶太郎は手帳をしまい、
「いずれにしても美味しいものにありつくには、常にアンテナを張ってないといけないですね。友美さんはさっき、このパウンドケーキのことをテレビで知ったって言ってましたね」
情報収集の手段について、水を向けた。
「好きだからグルメ番組は、よく観る」
「メモをとるんですか」
「滅多にメモらへん。新聞に紹介されてたら切り抜くこともあるけど」
夕刊のグルメ情報をよく読む、と友美は言った。
「もしかしたら、そのシフォンケーキのお店も切り取ってるかもしれないですね」
「ほかした」
友美が言い捨て、
「竹取物語、美味しかったわ」
と、体をひるがえし襖を開く。
「待ってください。新しいブローチは?」
「そのサンプル見せようと思うんやけど」
「そうでしたか。それじゃあ、少し大きめのがいいかな」
と注文をつけるふりをして、焦りを隠した。
彼女が切り抜きについて、即時に「ほかした」、つまり捨てたと反応したことで、シフォンケーキの店は新聞で紹介されていたことが分かった。
ケーキの効用なのか、友美の機嫌はその後もよかった。ブローチでいっぱいになった紙袋を膝元に置き、そこからテーブルに出しては並べ、ひとつひとつ説明してくれた。
一時間ほど経過したとき、孝昭が、
「なあ、姉ちゃん。本宮先生やったらええんとちゃうか。カウンセリングを受けても」
と言った。
予定にないことだった。
「孝昭、それは……」
友美の表情が強張ったのが見て取れる。
「こんなに話をしてる姉ちゃん、久しぶりに見た。姉ちゃんが悩んでること、相談できるんやないか? もちろん俺は席外すさかい」
「孝昭あんた、はじめからそのつもりやったんか」
卓上に並べたブローチを手で集め出した。それを元の紙袋に入れて、サッと自室に入ってしまった。
「姉ちゃん、何でや。何であかんのや。自分でも治りたいって言うたやないか」
大きな声を出す孝昭を、慶太郎は手で制した。
「ちょっと、古堀さん」
「先生」
「気持ちは分かります。しかし今は抑えてください」
「すみません。姉が昔に戻ったみたいだったんで、つい」
「うん、話が弾みましたね」
慶太郎はさっき出した手帳に、
『ここからはところどころ筆談にします。とりあえず、ケーキの感想を話してください』
と書いて見せた。
「先生、本当にこのパウンドケーキ、旨かったです。営業先のお土産にしようかと思いました。女性にも男性にも受けそうです」
「木の実がいっぱいで、結構食べ応えがありましたからね。でも市内を飛び回ってる古堀さんなら、もっといろいろご存知なんじゃないですか」
『いま友美さんがブローチをしまった紙袋、見たことは?』
「ないですね。というか先生の好みが分からないので」
孝昭は首をかしげた。
「思い出したら、教えてください」
『琥珀色の文字で、漢字四文字。陰翳礼讃とあったんですが』
と走り書きした。
谷崎潤一郎のエッセイに『陰翳礼讃』という題名のものがあったはずだ。
「あっ、そうだ。思い出しました」
孝昭は声に出さず、それです、と唇を動かした。
「どこですか」
「いや、今度クリニックにお持ちします。楽しみにしてください」
「それは嬉しいですね。では今日はこれでお暇します。友美さん、またブローチを頼みにきますね。テレビの視聴者からの評判もいいので、よろしくお願いします」
襖に言って立ち上がり、
「古堀さん、ではまた。そうだ、そろそろ抗菌マットの交換をお願いします」
と言いながら、慶太郎はアパートを後にした。
来るときは孝昭の車だったためタクシーを拾おうと、すっかり暮れた車道に出たとき、光田からの電話を受けた。
「先生、面倒なことになりました」
光田らしからぬ切羽詰まった言い方だった。
「僕も電話しようと思ってたところです。例のケーキ屋さんを見つけるヒントを掴んだんです。まず光田さんの面倒なことというのを訊きましょうか」
目の前をタクシーが通過したが、手を上げなかった。タクシードライバーにも気兼ねしなければならない内容だと思ったからだ。
「いま話していいですか、先生」
「外だから、うるさいでしょうが、大丈夫です」
「この間、一課の倉持刑事の話をしましたよね、元は少年課だった」
「物腰が柔らかい人ということでしたね」
「そうです。その倉持さんが、私と鑑識係官との密約に気がつきました」
鑑識課に光田が出入りしていることを聞きつけた倉持が、鑑識係官を呼び出して指紋の話を聞いたという。
「じゃあ、古堀友美さんのことが」
リミットが近づいている。鑑識係官がいくら光田との関係性を大事に思っていても、組織の人間だ。上からの指示に従わないわけにはいかない。当然光田とても同じで、捜査妨害だと新聞社にねじ込まれれば抗えない。新聞社の社員としてやっていけなくなるのだ。彼にも、協力してくれた鑑識係官にも迷惑はかけられない。
こうなることを覚悟はしていたが、あまりに早かった。
「いえ、まだ喋っていません。ただ、先生の名前を出してしまったんです」
「僕の?」
「ニュースソースは明かせないという私の立場を分かっていただいた上で、本宮先生と話してほしい、と逃げたんです。先生、すみません、それしか時間稼ぎができなかった」
分かっていただいた、という言葉遣いで、ピンときた。
「光田さん、倉持さんに代わってください。そこにいらっしゃるんでしょう?」
「分かりましたか。じゃあ代わります」
スマホが手渡される雑音に続き、
「本宮先生でいらっしゃいますか。電話で失礼します、京都府警一課の倉持と言います。先生、どうか捜査協力願えませんか」
包み込むようなソフトな声と話し方だ。
「協力は惜しみません。ですが、光田記者にもニュースソースは明かせないという不文律があるように、僕には医師としての守秘義務があります。それを破れば罪になる」
慶太郎は電話に集中するために立ち止まった。
「先生が守秘義務を持ち出されたことで、患者が関係しているのは明白ですね。捜査照会という形で情報提供してもらえないですか、そうすれば秘密漏示には当たりません」
なるほど倉持は、強引なタイプではないと感じた。彼ならば事情を話せば、慶太郎の思いを分かってくれるかもしれない。
もし交渉が決裂しても、治療の目処がつくまで個人情報保護法を盾に、回答を拒み続けてもいい。
「倉持さん、会って話しませんか」
「いいでしょう。当方は今からでも結構ですが、先生のご都合はいかがですか」
押しは強いようだ。
「では今夜、九時に私のクリニックに来ていただきたい」
敵陣には旧態依然とした組織の論理が渦巻いているだろう。そこに踏み込むのは避けるべきだ。
「分かりました。今夜九時に伺います。光田さんに代わります」
「先生、本当に申し訳ありません」
電話を代わるなり光田が言った。
「いや、これは嫌みではなく、さすが光田さんだと思いましたよ」
医師が守秘義務違反した場合、秘密漏示罪に問われる。そうならないように捜査機関は、捜査照会の手続きをとる。しかし、その手続きを経てもなお、医師は本人の同意がなければ情報の開示を拒んでも罰則はない。それを知っていて光田は、慶太郎にボールを投げたのだ。鑑識課係官が指紋検査を白状してしまった以上、この方法しか光田自身と、友美を守る方法はなかっただろう。
「面目ないです」
「僕のほうも犯人を蔵匿するのが目的ではありません」
慶太郎はあえて法律用語を使い、
「その辺りを倉持さんには分かってもらうつもりです」
そう言い切った。
「それを聞いて安心しました。私は信じます、倉持さんと先生を」
「正念場ですので、僕も全力を尽くします。それで光田さんに調べてほしいのは、包装紙や袋に『陰翳礼讃』というロゴを使っているケーキ屋さんなんです」
「彼、思い出したんですか」
古堀という姓を口にしなかった。まだ倉持が傍にいるようだ。
「友美さんが持っていた紙袋に、そのロゴがあったんです。最近、新聞で紹介されている公算が強い」
「その言葉、谷崎潤一郎の随筆の題名ですよね」
「僕も真っ先にそれを思い出しました。店主がファンなのか、ゆかりの地に店を構えているか」
「関西でゆかりの地なら、京都以外では大阪船場、兵庫県の神戸か芦屋ですかね。案外すぐに見つかるかもしれないですよ」
光田の声から焦りは消えていた。
5
慶太郎の前には倉持がいた。挨拶を交わし名刺交換をして、慶太郎が出したコーヒーを口にしてから目を閉じ、彼は何も話さない。
倉持は背こそ慶太郎より十センチほど低いが、横幅は倍近くある。柔道の猛者を思わせる猪首で耳はいわゆる餃子耳、耳介血腫の状態だ。しかし顔付きは柔和で、子供が好きなアンパンマンに似ていた。一課の刑事よりも、元の少年課のほうが向いているような気がする。
慶太郎も沈黙に付き合うことにした。
「コーヒーご馳走さまでした」
と倉持は茶道のお点前のように一礼し、背筋を伸ばしてカップをソーサーに置いた。カップは空だ。
「もう一杯、いかがです?」
「私は無類のコーヒー好きでしてね。飲んでいるときは何も考えず、ひたすら味わいたいもので、失礼しました。満足したので結構です」
「そうでしたか」
「早速ですが、先生が関わっている人間の指紋が、殺人現場の遺留品に付着していた。この事実をどうお考えですか」
倉持は、電話のときよりもゆったりとした話し方だった。
「守秘義務がありますが、私の関係者であることを認めましょう。つまりクライエントです」
「なぜ患者さんの指紋なんかを調べたんですか」
「理由は言えません」
「質問を変えます。指紋採取のとき、本人の同意を得ましたか」
倉持の質問は鋭かった。
風体に惑わされてはならない、と慶太郎は気を引き締めた。
〈つづく〉