第二章 過 去
3
孝昭が自宅アパートに戻ると、襖の向こうから友美の声がした。
「何? 姉ちゃん」
聞き取りにくかった。
「八恵って誰?」
今度はしっかりした声だ。
「あっ、えーとリフォームのお客さんだけど」
「嘘。孝昭は、女性のお客さんを名前で呼ぶの?」
「名前……?」
とつぶやきながら、部屋を見回す。
卓上カレンダーが目にとまる。今日の日の欄に八恵と書いて丸を付けていた。打ち合わせの日が待ち遠しくて、迂闊にもマークを付けてしまった。卓上カレンダーなどに仕事の予定を記したことはなかったので、余計に目立ったのだろう。
「彼女?」
「ち、ちがう、ちがう。八恵いうんは歯医者さんや」
「お医者さんを、八恵って呼び捨てにしてるの?」
「まさか、そんなことあり得へん」
「私に、言えへん人か」
口調が叱るときの母親に似ていた。逆らえない強さがあり、正直に話すしかない。
「そんなことない。僕のただの片思いなだけやから」
音を立てて襖が開く。すぐそこに友美が正座していた。
「歯医者になんか行ったって聞いてへん」
「患者として知り合ったんやない。八恵先生はお父さんから独立して歯科クリニックを開院されるんや。リフォームの仕事で知り合った。歯医者さんのお嬢さんが、僕なんて相手にするはずがない」
半分本音を吐いた。
「私がいるから、あかんのやろ」
友美が自分で切った前髪は一文字で、その下の目が孝昭を凝視している。
「そんなこと関係ない。釣り合わないってだけや」
「私なんかいないほうがええんやろ?」
「何でそんなこと言うかな。ええ加減にしてくれよ」
「こんな時間まで、八恵さんと逢てたんか。片思いやのに」
「だから、改装をどうするか打ち合わせをして遅くなっただけ。しょうもないこと気にせんと、お茶でも飲もう」
「孝昭、その人と結婚したいん?」
「片思いやって言うてるやん」
「隠さんでもええ。あんたも男や」
「もうこの話はやめよ」
「男はみんな同じ、女の子に酷いことをする。あんたはそんな人間にならんといてほしかった」
急に友美の目から涙がこぼれ落ちた。
まずい、感情の起伏が激しい。
「とにかく冷たいお茶飲も」
「堪忍な、孝昭。こんなお姉ちゃんのせいで苦労ばかり。けど、お姉ちゃん、一人では生きていけへん」
さらに溢れる涙が友美の頬を伝う。
落ち着け。かつて本宮医師が言った「自傷することで生きようとしている」という言葉を心の中で反芻した。そうだ、一人で生きていけないということは死にたくない気持ちの表れなのだ。狼狽えてはならない。
「人間、生きてたら怪我とか病気は避けられへん。それが人間、ううん動物も植物もみんな同じとちがうか? 時間かかっても治ったらええんや。一緒に治そう。協力するさかい」
「お姉ちゃんは邪魔なだけやな」
「な、わけない。邪魔やったら、一緒に住まへん」
「八恵いう人のこと、忘れられるんか」
「忘れる……いや片思いやから」
「ほんまにあんた、その人に悪いことしてないんやろね」
友美の目が怖い。
「悪いことって?」
「いやらしいこと」
「ない、ない、絶対。お客さんなんやで。そんなことしたら訴えられて会社はクビや。その前に警察に捕まってしまう」
「警察……」
友美が目を見開く。
「姉ちゃんが言うようなことやったらの話や。何もしてないんやから警察なんか関係ない」
そう言い繕い、友美の表情を窺った。
「間に合った……」
と友美が妙なことを言った。
「なんて?」
「姉ちゃんは、いまのままの孝昭がいい。前の彼女と交際してたとき、あんたはおかしかった」
「おかしかった?」
友美の言葉に面食らった。
「分からへんのか」
やや上を向き半眼で孝昭を見る。正座する友美から見下ろされる格好となった。
「ぜんぜん」
「それが分からんから、姉ちゃんは心配なんや」
友美が涙を手で拭う。
孝昭はティッシュペーパーを箱から引き抜き差し出した。
「なあ姉ちゃん、何が心配なんや?」
「それは……どういえばいいんか分からん。言いたいけど……言いたくない」
「ええ、そんなアホな」
「あのな孝昭、姉ちゃんかてこの病気しんどいんよ。治るもんなら治したい。そうしたら、あんたにきちんと話せるのに」
友美の手のティッシュペーパーがみるみる涙を吸った。
孝昭は、友美自ら病気であることを素直に認め、治したいと口にしたことに驚いた。姉らしく弟に何かを教えたがっているようだ。
「姉ちゃんがその気なら、どうやろ、本宮先生にカウンセリングを受けてみたら?」
勇気を出して声にした。
「カウンセリングやったら、昔に受けた」
「あの人は、前の医者とはちがうと思う」
「医者は医者や」
病院は嫌だ、といつものようにそっぽを向いた。
「無理にとは言わへん。そう言えば本宮先生が、近いうちにブローチのお礼がしたいって言うてた。電話で話したんやけど、ごっつ喜んではるみたいやった」
「お礼なんか……もっとええのん作れる」
「そやな。ほな、新しいの作ってあげたら? きっと喜ばはるよ」
孝昭は声を上げて笑ってみせた。
「……お茶いらん、もう寝る」
そっけなく襖を閉めたが、一瞬友美の目元が緩んだようだった。
すぐにニードルを突き刺す音がしはじめた。激情に至らせず、うまく気持ちをそらすことができたことに胸を撫でおろす。
いまの友美の顔を思うと、カウンセリングを拒否しているようには見えなかった。
「シャワー浴びてくる」
襖に向かって言って、孝昭は風呂場へ向かう。
頭から湯を浴びながら、本宮心療内科クリニックからの帰り道に車からかけた電話での、八恵との会話を思い出していた。
光田という新聞記者の話、本宮医師が正当防衛に持ち込もうとしていること、そして友美が有名菓子店に出かけたことに何かあるはずだという八恵の主張を話し、それに本宮医師も賛同し調べてくれる手筈になったことを報告した。
ある意味八恵の手柄なのに、それよりも、
「古堀さん、大丈夫?」
と孝昭を気遣ってくれた。指紋の一致という結果を正式に聞いて、孝昭がどれほど傷ついたか心配だと涙声を出した。
八恵の思いやりが、疲れ切っていた孝昭の心を回復させた。だからこそ友美に正面切ってカウンセリングを持ちかけられたのだ。
その上八恵は、お姉さんは人殺しなんてできないし、絶対しないのを一番知っているのは孝昭で、その孝昭を信じていると励ましてくれた。
自分のことを考えてくれる人がいる心強さと、温かさを孝昭は感じていた。そして、友美が八恵の名前に触れたことで、ますます彼女が特別な存在に思えてきた。
髪を拭きながら、冷蔵庫の缶ビールを取り出す。キッチンテーブルに着いてビールを喉に流し込んだ。
美味しいとは思わなかった。友美が警察の厄介になったらどうしようという不安がずっと頭から離れないからだ。それでも本宮医師に加えて、光田という新聞記者が協力してくれていると思うと心強かった。何と言っても、鑑識係官に指紋の鑑定を依頼できるほどの人脈があるのだ。
ビールを飲み干して缶を潰し、市指定の資源ゴミの袋に放り込む。その横にある新聞回収用の袋に目がとまった。
孝昭がまだ読んでいない今日の夕刊がそこにある。
もしやと思い、そっと新聞を引き抜いた。襖のほうを確かめ、できるだけ音を立てないように新聞を開く。
記事は『島崎弁護士転落事件、殺人事件として捜査』という見出しだった。
八日、京都市東山区の吉田神社の境内において遺体で発見された島崎靖一(44)さんは他殺と断定。捜査を殺人事件に切り替え、京都府警と東山署は合同の捜査本部を明日にも立ち上げることが警察関係者の取材で明らかになった。詳細は明らかにされていない。捜査本部は被害者の交友関係を中心に、引き続き聞き込みを強化する模様だ。
友美はこの記事を見て、孝昭が読む前に捨てようとした。やはり島崎事件の犯人は友美だということか。
流したばかりなのに、背中や脇の下から汗が噴き出す。
さっと拭ってパジャマに着替え、本宮医師にメールする。友美が病気を治したいという気持ちになっていることを知らせたかったのに、それだけでは済まなくなった。
『本宮先生
帰宅後、姉と話をすることができました。姉のほうから病気を治したいと言いましたので、本宮先生にカウンセリングを受けてみては、と持ちかけました』
そこまで入力して、会話の内容をそのまま文字化したほうが往診時に役立つと思い、できるだけ忠実に文章にした。そして懸念材料として新聞記事のことを書き込み、メールを送信した。
寝床を敷き、横になる。しかし本宮医師からの返信がないか気になって、眠る気にもなれない。もう一缶、ビールを飲もうかと迷っていると、メールの着信音が鳴った。スマホを持って体を起こす。
『詳しいやり取り参考になります。お疲れなのにありがとうございました。その感じなら自然に明日伺うことができそうですね。さて新聞記事の件ですが、古堀さんが帰った後、光田氏にも情報が入ったようです。スクープに近い内容みたいで、彼も本日の夕刊は読んでいなかったのでびっくりして、すぐ例の鑑識係官に確認してくれました。記事ではまだ明らかにされていませんが、顔面に残っていたのが催涙スプレーの成分であるオレジン・カプシカムの他に、レンガなどに使われる焼き固められた粘土と頁岩だったことが判明したんだそうです。当初は石段もしくは周辺の砂利や土だと思われていたようです。それで被害者はスプレーを浴びせかけられた後、レンガのようなもので顔面を殴打された可能性が高いとみています。神社境内、その周辺に同様のレンガは見つからなかったということで、犯人があらかじめ用意してきたものと踏んでいるようです。凶器を持って島崎さんと会ったとなれば、殺意がなかったとする僕の見立ては成り立たなくなります。少々作戦を変更すればいいだけのことですけどね。因みにレンガと聞いて、何か心当たりありますか』
現状の悪化を悲観せず、それでいて見え透いた慰めの言葉を使わない本宮医師のメールは、孝昭をひとまず落ち着かせてくれた。
孝昭は冷静になって、アパートにレンガを使った場所はないし、うちにも置いていないとメールした。
すると、ほとんど間を空けずに『分かりました。では明日六時に、よろしくお願いします』と返信が届いた。
明くる日の昼、孝昭は八恵をランチに誘った。普段ならウジウジと悩んで結局声をかけ損ねるのだが、今回はすんなりと電話できた。友美のことは、いまや二人の問題になりつつある気がする。彼女に頼るようで恥ずかしいが、八恵の明るい笑顔に会いたい気持ちが勝ったのだった。
見栄を張って高級ホテルのランチを候補に挙げたが、彼女は定食が食べたいと言った。ご馳走させて欲しいと告げたから、孝昭の財布を気遣ってくれたにちがいない。
四条烏丸の定食屋で焼き魚定食を食べ終わると、八恵が冷たい麦茶の入ったコップに手を伸ばす。
孝昭は自分も茶を飲み一呼吸置いてから、夕刊の記事を見つけた経緯と本宮医師とのメールの内容を話した。
「夕刊、私も読みましたけど、そんな証拠が出てきていたんですね」
「作戦変更をしないとって、本宮先生が言ってます」
「でも凶器がレンガというのが、何か変じゃないですか」
素手よりはマシだけれど、非力な女性にはかえって不利じゃないか、と八恵が言った。
「ですが準備していたのなら凶器だと思われても仕方ないですね。だけど、うちにレンガなんてないし」
「私はお姉さんが犯人じゃないと思っているんですが、辻褄合わせをしようとすると、吉田神社の外で拾って持って行ったということになります。これもやっぱり変。女性の発想として、相手を殺すためにその辺りに落ちているレンガを拾って行くなんてあるかしら。もしそうだとすると」
両手で持ったまま話していた八恵がトンと音を立て、まるでチェックメイトと言わんばかりにコップを置いた。
「そうだとすると?」
孝昭がそう訊くのを待っていたように、
「明確な殺意があったとは言えない証しではないですか」
と言った。
「どうしてですか」
定食屋で昼間からする話ではないので、孝昭は小声で尋ねた。
「もしレンガで殴りつけることで相手が死んでしまうと考えていたら、やっぱり準備して行きます。お姉さんが持てる適当な重さと大きさのレンガが現地で調達できるとは限りませんから。それではとても計画的とは言えません」
「なるほど、そうですね」
「一方、家から持って出たとします。古堀さんの家にないとなれば、誰かの家のものか、作りかけの住宅建築現場、もしくはホームセンターで買って用意しないといけませんよね。これも面倒だと思いません?」
「他人の家のものを持って行くなんて、姉にはできないと思います。ただうちは実家が工務店ですから、姉もレンガとかの建築資材を見慣れているんで……」
本宮医師のメールでレンガという文字を見た瞬間、現場の大工さんから予備のレンガをもらって、それを積み木のようにして姉と遊んだ子供の頃を思い出していた。
「建築資材は一通りおもちゃになりました」
と孝昭は残り少なくなっている八恵のコップに、ポットの冷茶を注いだ。
「ありがとう。でもそれなら、なおさらそれで人を殺そうと思いますか。これも本宮先生の専門ですが、そのものにあるイメージとか、思い出とかってあるじゃないですか。たとえば大工さんが使う金槌。見慣れてるでしょ、孝昭さん」
「え、ええ。勝手に使うと大目玉をもらいましたけど」
急に名前で呼ばれて、ビクッと背筋が伸びた。
「それで人を叩けます?」
八恵の真顔が嬉しかった。自分のために懸命に思案してくれているのだ。
「私にはできないですね。親父や大工さんたちが大切に扱い、作業後に毎日手入れをしている姿が目に焼き付いていますから」
「じゃあ釘はどうです。たぶん遊び道具になってたでしょう? それで人を刺すことができますか」
「釘ですか。うーん、やっぱりできないな。端材に釘を打たせてもらうんですが、最初は真っ直ぐ打てませんでした。何度も打って長い釘がスーッと材木に打てたときは嬉しかった」
「釘にポジティブなイメージを持ってるから、ネガティブなことと結びつかないんだと私は思うんです。歯医者だって、結構危ないものを扱ってますよ」
ドリルにレーザーメス、即効性の麻酔薬と物騒なものを八恵は並べ、
「他人は手慣れた道具を使ったんだって言うかもしれません。でも苦労して習得したものだから、いろいろ思いが詰まってます。それを汚すことはしたくないです」
と、うなずいてみせた。
「姉なら、レンガはあり得ると思っていたんですが、八恵先生の話を聞いて、姉だからちがうように思えてきました」
「よかったです。ちょっとでも孝昭さんの気持ちが楽になれば」
八重歯が覘く。
「八恵先生には感謝しています。姉をケアしてきて、どんなことでも自分を勘定に入れないくせがついてて、楽しいことというか、楽しんじゃいけないと思ってきたところがありました。でもこの間、ケアラーの話をしてもらって、自分自身をケアすることも大事だと分かり、罪悪感が少し軽くなりました」
孝昭は連日時間を割いてもらった礼を述べた。
「こちらこそ、ご馳走していただいて。とてもおいしかった。今夜の往診、うまくいくといいですね」
八恵は事件解決とは言わなかった。あくまで友美の病気を治療するためのカウンセリングであるということを、孝昭に気づかせてくれた。
「もっと信じないといけませんね」
「ええ、温かく見守ってあげてください」
八恵が腕時計を一瞥したのを機に、孝昭は会計伝票を手にした。
八恵を北上歯科クリニックまで送ってから、本宮医師にメールを送った。どうしてなのか、彼には二人がうまくいっていると言いたくなるのだった。
得意先を六社回って帰社する。いつものように業務日報を書いて上司に提出すると、夕食に誘われた。
「姉の調子がよくないんで、今日はこれで」
「そうか、お姉さんそんなに?」
「今後、往診が増えると思います。場合によっては早引きしないといけなくなるかもしれません」
上司の耳に入れておいたほうが、もしもの時に動きやすいだろうと、
「その節は、申し訳ないのですが、よろしくお願いします」
と孝昭は頭を下げた。
4
午後二時過ぎ、慶太郎が着信したばかりの孝昭のメールを読み終えたとき、クリニックに澄子が戻ってきた。
慶太郎が友美の好みを踏まえて、ある条件を満たすお菓子を探していると相談すると、澄子は、いいものがある、と地下鉄で烏丸御池駅まで出かけ、京洋菓子司『ジュヴァンセル』という店のパウンドケーキを買ってきたのだった。
「ご苦労さん。『竹取物語』っていうのか。これ三つとも同じもの?」
「どんなのか知っておいたほうがいいでしょう? 特に香りね。慶さんは古堀さんところで一緒にいただくんでしょうから、見るだけ、ね」
自分は家に帰ってから両親や尊とじっくり味わうわ、と笑う。
「もう一つは千葉さんにプレゼント。クライエントが増える一方なのに、誰かさんは横道に逸れてばっかり。大変な中、彼女頑張ってくれてるから」
「それには一言もないよ。さて、どんなのかな」
ずしりと重い深緑色の紙箱の蓋を開くと、竹の皮に包まれた焦げ茶色のパウンドケーキが現れた。
「栗と黒豆、凄いな」
こぼれ落ちそうなくらいケーキの上に盛られた、丸ごとの栗と大粒の黒豆の甘露煮に、年甲斐もなく声をあげた。
「ケーキ部分にもマロンペーストが練り込んであるんですって。尊、栗が好きだから喜ぶわ」
「僕も栗は好物なんだけど、おあずけか」
顔に近づけ匂いをかぐ。
「栗と柚子の香りが堪らないでしょう?」
「そうだね」
両手で静かに持ち上げて、
「形も重さも申し分ない」
と澄子に微笑んだ。
「本当にいいの? 洋酒以外って言ってる人に、わざわざお酒が使ってあるものなんて。食べれば甘露煮にラム酒が入っているって分かるわよ」
澄子に言った条件は、友美の苦手な洋酒がそこはかとなく使われていること、形がどことなくレンガに似ているカステラかパウンドケーキが望ましいというものだった。とはいえ洋酒を使ったケーキ類は、一見してそれと分かるようにしてある、いやそれを「売り」にするものが多い。そこで澄子が思いついたのが、以前友人の家でご馳走になった和菓子とパウンドケーキを融合させた『竹取物語』だった。
「あえて賭けに出る。話題をお菓子に振り向け、なぜシフォンケーキを買うために遠出をしたかを探るためだからね。そのためのアイテムとするには、食べてすんなり終わりではダメなんだ」
ケーキを通じて友美の心を揺さぶりたい。洋酒がその引き金にならないかと考えた。人の好き嫌いは、経験によって作られるものだ。思い出を引き出すきっかけになり得る。単にアルコールが分解できない体質である場合でも、初めてそれに気づくエピソードはあるものだ。
「こんなのいらないって、嫌われるだけかもよ」
澄子がケーキを慶太郎の手から取り上げる。
「それも意味があるんだ」
「そうなの?」
「うん。ここらで友美さんと古堀さんとの信頼関係をより強くしておこうと思ってね」
何度かの偶然を装った往診の限界を感じていた。昨夜、孝昭が友美に正式なカウンセリングを持ちかけたのは、友美を謀っていることへの罪悪感があるからだ、と慶太郎は分析している。
背景にあるのは、自分のことを慶太郎に漏らしていると友美が感づいているのではないかという不安だ。
それを払拭するために、あえて友美の苦手とする洋酒入りのケーキを持参することにした。
その場で拒否され、うろたえたところを見せれば、孝昭が自分の好みすら慶太郎に話していない、と友美は感じるだろう。
「姉弟の結束を固くしておくのね」
「事件のことも含めて、これからは友美さんの過去を掘り下げていくことになる。僕の質問も、どうしたって核心をつかねばならない。友美さんが、僕も古堀さんも味方ではないと思っては困るんだ」
「友美さんには、弟さんが常に味方だって思わせてあげるのね。だけど何も、ケーキでレンガを連想させることはないんじゃないの? 何だかこっちまで変な気分になっちゃう」
ケーキを竹の皮に包み直しながら、澄子が言った。
〈つづく〉