第二章    過 去




      2(承前)




「先生がかるがるしくきょうな戦法を考えておられるとは、私も思いません。いや、思いたくない」
 みつの目はさらにするどく、ばしっている。わざと「卑怯な戦法」という言葉を使い、けいろういどんでいるかのようだ。
「卑怯。そうですね、確かにそうかもしれません。でも、クライエントの命を守るために僕はなんでもやります。言い訳かもしれませんが、しゅの僕にはかんていの資格はありません。公正をするために外されます。ゆうどうや特別なはいりょもできない。裁判所が認めた鑑定人の診断結果がすべてで、そこに正義は存在する」
「それでもなお、先生が鑑定を持ちかけるのは、ぼりともさんがそこまで重い精神しっかんだと思ってらっしゃるってことですか」
「いいえ」
 慶太郎はそくに否定し、
「トラウマをかかえ、そのフラッシュバックに苦しみ、うつ状態であることは間違いないですが、かいせいどういつせいしょうがいとの診断をくだしょけんは、今のところありません」
 むろん解離性同一性障害だからといって、必ずしも責任能力を問われないわけではないが、とおぎなった。
「それじゃ精神鑑定なんてしても、意味がない」
「いいえ、僕が友美さんのためにあらがっている事実、懸命に取り組んでいる姿が大事なんです。逆に見捨てられたと感じた瞬間、ぼうになるでしょう。そうなってしまうと、もう本当のことを話さなくなる。それが何を意味するか」
 答えを光田にゆだねる。
「真相はやみの中……」
 光田は眼鏡めがねを外し、左手の親指と人差し指でがしらをつまんだ。
「真相が明かされなければ、加害者も被害者も、その周辺の方々も気持ちの持って行き場がなくなります。そして光田さん、あなたの記者だましい彷徨さまようことになりませんか」
 光田は返事せず眼鏡をテーブルに置くと、今度は両手の中指でこめかみをむ。やや間を置いて眼鏡を着けた。
「何だか丸め込まれた感じがしますけど、今日のところは引き下がります。くらもち刑事への協力はりゅうにします。あっ、こんにしているって言ってた一課の、倉持ばんないというんです。元はまいづる署の少年課にいた刑事で、物腰もやわらかいしこわもてでもありません」
「もしにんで呼び出されたとしても、あつ感は少ないということですね」
「と、思います。取り調べの様子を見たわけじゃないんで保証はできませんが」
「保留ということですが、いつまで待ってもらえますか」
 光田は少し考えてから、
かんしき係官の立場を考えると、三日、いや二日が限界です。もんいっした以上、それが誰の者なのかを伝えないわけには」
 と言った。
「二日ですか……古堀さんと相談の上、さわたりに話の分かる弁護士を当たってもらいます。それでも友美さんの状態を考えれば五日は必要です。お願いします光田さん、真相解明のために」
 慶太郎はひざに手を置き頭を下げ、言葉を継ぐ。
「協力してくれた鑑識の方には申し訳ないと思います。ですがジャーナリストとして、情報提供者を守ってほしい」
 光田は、ぐせのある後頭部当たりに手を回したまま黙った。
 沈黙が五分ほど続いただろうか、ようやく光田が口を開いた。
「……いくら先生の頼みでも、三十九条で逃げせることだけはしょうふくできません」
 そのとき、インターフォンの呼びりんが鳴った。
「光田さん、頼みます。五日のゆうをください」
 と慶太郎が食らいついたが、彼からの返事はなかった。
 もう一度呼び鈴が鳴ったのを聞き、慶太郎は慌てて玄関へ向かった。

 玄関口に立っている疲れ切ったたかあきの顔は、青いというよりもつち色に近かった。上着を手にし、汗ばんだシャツにゆるんだネクタイがだらしなく見える。クリニックに顔を見せたときのさわやかな営業マンの姿は、そこになかった。
「お疲れのところ申し訳ないです」
「いえ、こちらこそ」
 と言う孝昭に、慶太郎は冷えたおしぼりを手渡し、診察室のソファーへとしょうじ入れる。孝昭を見ると、光田が立ち上がり互いに名乗り、名刺を交換した。それを尻目に慶太郎は台所に下り、冷たい麦茶を人数分ぼんに載せて診察室に戻る。
 光田は先ほどまで慶太郎が座っていた場所に移り、慶太郎と孝昭は対面に腰掛けた。
「古堀さん、まずは冷たいお茶を召し上がってください。今日は本当にし暑かったですね」
「ありがとうございます」
 小声で返事した孝昭は、のどを鳴らして麦茶を飲んだ。
「おかわりを持ってきましょう」
「いえ、先生……それより」
 奥歯をみしめる咬筋こうきんが盛り上がり、緊張の度合いが分かる。
「そうですね。では光田さんから報告してもらいます」
 慶太郎は孝昭と並んで、光田と向き合う。孝昭には芝居じみた行為に映っているだろう。それはそれでいいのだ。ある種の儀式めいた演出によって、彼の中で最悪の事態にそなえる心の準備がととのえられるからだ。大の男二人が用意した、フィクションの意味を考えることで、少しでも客観視してくれればと願う。
「今回これの検査を依頼したのは、京都府警でもベテランの鑑識係官です」
 光田はショルダーバッグから、ポリ袋の中にもう一つ袋が入ったものを取り出して置いた。
「技術だけではなく、信頼できる人物なんですね」
 慶太郎が確認する。
「もちろんです。私自身も記者としてのりんていはいするととられかねない行為をしているし、それはとうがい鑑識係官とて同様ですからね。つまりそんな状況下でみちびき出された指紋しょうごうの結果は極めてかくが高いとお受け止めください。しまざき弁護士の転落死現場に残されたさくらがたへんからさいしゅされた一指と二指の指紋と、もとみや先生から渡されたポリ袋にあった一指、親指です、二指、人差し指のことですが、これらの照合結果は十二点法、つまり十二カ所の一致点により、一指において九八パーセント、二指は現場のものは不鮮明でしたので九二パーセントの確率で同一人物のものだという結果が出ました」
 光田が言葉を切り、孝昭の様子を見た。
 孝昭のポリ袋を見詰める目に力はなく、呼吸が乱れている。
「古堀さん、ゆっくり呼吸をしてください。いま光田さんが言ったことは、お姉さんの持ち物が現場にあったという事実の証明にすぎません」
 慶太郎は孝昭の背中に手を当てた。
「……私は、どんな顔して、姉にせっすればいいんですか」
 深呼吸をしながらの孝昭の言葉があえぐようだった。
「これまで通りでいいんです。いま言ったように、お姉さんが人をあやめた証拠ではありません。ただ警察からは疑われるでしょう。その対策を一緒に考えたいんです」
 背中に置いた手のするリズムを、さらに遅くして呼吸をせいぎょする。一定の回数を繰り返してから手を離した。
「まずは古堀さんが気を確かに持つことが大事です。ここに至るまでの間、あなたは最悪のことを考えてきたはずだ。精神的には、どん底だったかもしれません。しかし大丈夫、知恵をしぼれば抜け出せる。そのために僕たちはここにいる」
「実はさっきまできたかみ先生と一緒だったんです」
「ほう、そうですか」
「北上先生に話してしまったんです。私が小学生のときに見た桜型の紙のことから、姉が置かれた状況まですっかり……」
 と声をふるわせる孝昭に、
「彼女の反応はいかがでした?」
 慶太郎は優しくいた。
「さほど驚きませんでした。それどころか、たとえ指紋ががっしたとしても、いま先生が言ったのと同じように、殺人と切り離して考えるべきだと」
「冷静でそうめいな方だ。もう一人心強い味方を得たということになりますね」
 事件のことを打ち明けられる相手ができたことは、孝昭を精神面で支えてくれるだろう。それに、孝昭の話からるいすいしてならむやみにこうがいするとも思えない。
「それで光田さん、この結果を踏まえてどうされますか」
 慶太郎が改まった言い方をして、彼に向き直る。
「私は記者として、また便べんはかってくれた鑑識係官の手前、この結果を当局に報告しなければなりません」
「光田さんのお立場、分かります。私たちきょうだいのためにじんりょくいただき感謝しています」
 孝昭が背を丸めた。
「本宮先生の頼みですから。私はただ警察当局に隠し立てはできないということを理解していただければいいんです。照合した指紋があなたの姉である友美さんのものだったこと、つまり名前も明らかにする必要があります。それを受けて警察はお姉さんを重要参考人としてじょうちょうしゅするはずです。その後、強力なアリバイでもなければ、そのまま逮捕される可能性が高いと思ったほうがいい」
 光田ができる限り感情を殺し、たんたんと話しているのが慶太郎には分かった。
「先日先生がおっしゃっていた流れ通りに、事が運ばれるということですね」
 孝昭が隣の慶太郎を見た。
ほうさくとしては、時間稼ぎという意味でも、一旦はしんしんそうしつを主張して精神鑑定に持ち込みます」
 慶太郎は光田が顔をしかめたのを見て、
「同時進行で、正当防衛による事故である証拠を集めたい」
 と、ソファーから立ち上がり、彼の横に移動して孝昭と向き合った。
「事故……姉が島崎さんを呼び出していたとしても、大丈夫なんですか」
「検察は、計画性があったとして、殺意ありと主張するでしょうが、体力差ときょうを持っていない点をうったえれば殺人でのりっけんは難しいと思っています」
 そのうえこちらに有利なのは、島崎が格闘技の経験者であったことだ、とそくした。
「八恵先生が調べたんですが、日本拳法をやっていたんだそうですね」
 孝昭は八恵を姓で呼ばなかった。二人の距離がかなりちぢまっているとみていい。互いの信頼なくして、友美の現在の状態は話せなかっただろうし、殺人事件などにとうてい触れられるはずもない。
「そのようですね。たとえ学生時代の部活だとしても、そんな男性と向き合うのに女性が何の凶器も持たずに殺害しに行くなんて、まずあり得ないですから。しかし、それでも取り調べというかんもんがある。それが心配です」
 これはむしろ、いま横にいる光田への言葉として、そのまま続けた。
「光田さんが警察に報告するまでの三日間で、お姉さんと島崎弁護士との接点、呼び出した動機、さらに殺意がなかったことを証明できるものを探します」
「……五日」
 目をつぶって、声を上げたのは光田だった。
「では五日で」
 言い直して、光田にしゃくした。
「そんな短い間で」
 孝昭の視線は光田にそそがれた。
「これでも光田さんは、じょうしてくれたんです」
「申し訳ないですが、それ以上は無理です」
 と光田はきっぱり言った。
「いずれにしても古堀さん、早いうちにおうしんする必要があります。往診時には、家にいてもらわないとなりませんので、何とかお願いします」
「はい、分かりました」
 孝昭が口を結んだ。
「いいですか、刑が確定するまで、すなわち裁判がけっしんするまで、お姉さんはざいにんではない。それはきもめいじておいてください」
「日本の刑事裁判は有罪率九九パーセントだと聞いたことが……」
「それでも逮捕されたことで狼狽うろたえないでください。あなたのおびえがお姉さんのどうようを誘う。そうなると警察や検察の言っていることのほうが事実ではないか、とお姉さん自身がさっかくしかねない。一緒に考え、守り抜く強い気持ちを持ってください。けっしておくびょうになってはダメだ。あなたは勇気を振り絞ってここに来たんです。だからできるはずです。やりげると腹をくくるんです」
 慶太郎がしたのは、自分自身だった。光田の譲歩による五日間ではあるけれど、調べられることは限られる。そしてその核になるのが友美からの情報だ。精神的にダメージを負っていなくても、自分に不利になるような話を聞き出すのはなんわざなのだ。時として貝のように口を閉ざしてしまう彼女からのヒヤリングは困難を極める。アプローチを間違えれば五日などに過ぎてしまうだろう。
「八恵先生にも、同じようなことを言われました」
「同じようなこと?」
 パニック障害を持っている患者への配慮を、歯科クリニックに持ち込もうとしていた八恵の発想に興味があった。
「いつも最悪のことを考えてビクビクしている自分のことを、臆病でダメだ、としたら、〝私に話したくないことまで話してくれました。その決心、勇気のいることだ。勇気のある人を私は臆病とは思わない〟と、励ましてくれたんです」
 背中を押された形で、ここに来たのだ、と孝昭はようやくほおを緩めた。
「北上先生は頼もしい人だ」
「八恵先生はこんなこともおっしゃっていました」
 島崎を呼び出すことが計画のいったんなら、いきなり電話して自分であることを分かってくれるか心配だったはず。その不安は、大変な重圧となるのではないか。
「八恵先生は電話が苦手なんだそうです。だから余計に気になるんでしょう。私もそれを聞いて、姉も電話嫌いだったのを思い出しました。とても電話で場所と時間を指定するなんて無理な気がしてきて。それでも連絡しなければならないとなれば、連絡するまでの間、気が気じゃなかったんじゃないかって」
「呼び出そうにも、相手が自分のことを忘れていたら元も子もない。絶対に分かるようにしたはずだというのは同感です」
 慶太郎の言葉を受けて、光田が大学で島崎を呼び出した女性の話をし、
「島崎さんの様子から、『しゅう』という言葉が人物特定のかぎになった。そう思えてなりません」
 と感想を述べた。
「『補習』で、島崎さんは姉を認識した。そしてあんな場所に出向いたんですか」
「むろん二人の間で桜型の紙についてのやり取りもあったでしょう。その二つで島崎さんはちゃんと認識できたということです。それだけ二人にとっては重要な言葉であり、忘れることのできないアイテムだったんです」
 光田の言ったことを、孝昭はしゃくするようにうなずく。
「それで、また八恵先生の話で恐縮なんですが」
 八恵のことを持ち出すたび、孝昭の顔色はよくなっていく。
「恐縮だなんて、ぜひお聞かせください」
 こころようながす。
「電話をかけなきゃとか、自分のことを分かってもらうにはどうすればいいのかとか、呼び出しに成功するだろうか、というプレッシャーがあると、普段とは違う行動をするんじゃないか。そのようなことを八恵先生が言ったんで、事件後ではなく事件前のことを思い出そうということになりました」
 そして孝昭が引っかかりを覚えたことは「ケーキ」だったと言った。
「お菓子好きだったんですよね、お姉さんは」
 菓子にまつわる神社をもうでたり、コンビニエンスストアで菓子やケーキを買ったりすることもある、と孝昭から聞いた話を光田にもした。
 情報の共有こそ、ともに戦うチームには不可欠だからだ。
「シフォンケーキをゴールデンウィーク明けに買ってきたんです。有名店だって姉が言ったから箱を見たんですが、いま思うと京都のものじゃなかった気がします」
「その話、僕にメールしてくれましたね」
 慶太郎は、振り返ってデスクの上のタブレットに手を伸ばす。孝昭からもたらされたデータは「KT」というファイル名を付けてひとまとめにしてあった。
「なるほど、『有名店のだからしいよ』というメモがあったんですね」
 慶太郎は、もっと早く気づくべきだった、とくちびるを噛んだ。
「やっぱり重要なことなんですか」
 普段行かない場所に行くのには、何か理由がある。慶太郎ならその何かに気づくかも、と八恵が言っていたそうだ。
「お姉さんのへんばかりを見つけようと神経を注いでいたようです。遠出は、それだけ病状の回復を示すものだとはやてんしていました。そこまでよくなりつつあったのに、事件報道をさかいに悪化していったと……。北上先生の指摘は感情の流れと合致します。お姉さんの場合、社会・社交不安障害があります。電話恐怖症をともなうこともあります。もしそうなら、今回のように長い間会っていない人への電話は、僕たちが緊張を覚えるようなレベルではありません。まさに恐怖そのものだと言ってもいい。北上先生も社交不安障害の可能性はありますね。話をしないと分かりませんが、電話での通話だけに限られているのなら『パフォーマンスげんきょく型』と呼ばれるものです。しかしお姉さんは、人と接すること、社会や世間全体に恐怖を感じる『ぜんぱん型』のようだ。この手の不安障害の方が、電話での呼び出しをくわだてることは僕たち医師には考えられない。その上、事前に普段の行動範囲を超え、京都市内を離れたとなると、シフォンケーキには大きな意味がある。痛い見逃しです!」
 慶太郎は自分のてのひらこぶしで打った。
「あのケーキがそんな重大なことだったなんて。もっとちゃんと見ればよかった」
「京都のものではないと思われたのには、何か理由があるんですか」
「衛生商品をあつかってるんで、市内の医療、飲食関係の情報は常に仕入れています。有名な店との取引はそのまま実績となりますし、何より宣伝効果も見込めますんで」
 孝昭は、すらすらと菓子、パン屋の名前をいくつか口にした。
「聞き覚えがないお店だったということですね」
「ええ。店名ではないと思うんですが、ロゴタイプに見慣れない四字熟語が使ってあって、それも聞いたことがなくて」
 思い出そうと、孝昭が人差し指でひたいたたく。
「市外だとして、有名店はいっぱいあります。なぜ、その店を選んだんでしょう」
 光田が、雑誌かテレビで紹介されたのかな、とつぶやく。
「姉が読む雑誌は手芸に関するものばかりですし、そんな情報はやっぱりテレビでしょうか。私とごくたまに見ますが、ケーキ屋さんの記憶はありません」
 と孝昭はぜんとして額に指を当てている。
「いずれにしても、お姉さんは数多くの恐怖を乗り越えて、その店に出向いたんだ。そこに何かあるはずですよ。何とかその理由をカウンセリングの中で探ってみましょう。それと同時に、事件当夜五月七日のお姉さんの詳細な行動も知りたい」
「そのためには正確な犯行時間というか、島崎弁護士の死亡推定時刻が分かったほうがいいんでしょうけど」
 と光田は浮かぬ顔だ。大学関係者へのかんこうれいをはじめとして、かいぼう所見についても警察は口をつぐんでいると悔しそうに言った。
「呼び出された時間が七時半頃だと分かっているし、発見が翌朝の六時十分です。その間十一時間弱。ちょくちょう温度や胃の内容物から二時間ほどので絞り込めるはずなんです。なのになぜか倉持刑事も公表しないんです。社会的影響力のある有名人が被害者の場合、まれに情報とうせいが行われることがあるんですが、それは交友関係に限ってのことが多い。解剖所見が明かされないというのは珍しいですよ」
「理由には、どういったことが考えられます? 記者のかんとして」
 捜査側に、死亡推定時刻をはっきりさせたくないがあるのか、特定する必要がないのか、気になる。
「そうですね、解剖などけんで分かるのは、被害者が亡くなった時間じゃないですか。つまり……」
「犯行時刻ではない、ということですね。僕も同じ意見です。前にも触れましたけれど、とどめをしてないから、転落してから明くる日発見されるまでの間にぜつめいした可能性がある。死亡推定時刻が判明しても、それがそのまま犯行時刻にはならない」
 その上、今の京都の季節は温度や湿度が安定していないので、そもそも死亡推定時刻に余計にはばを持たせないといけないだろう。そこにさらにいきえるまでの時間をすることになる。かえってアリバイ捜査の邪魔になると考え、あえてげんきゅうしないのかもしれない。
「明確な殺意がなかったことの証明になるかもしれないですね」
 光田が表情を変えずに慶太郎を見た。
「また当夜のことを思い出してほしいんですが、古堀さんが自宅に戻ったのは何時くらいでした?」
「ゴールデンウィーク明けは連日ざんぎょうで、九時より早く帰ったことはなかったと思いますけれど、寄り道さえしていなければ帰宅時間が十時を回ることはなかったはずです。会社の日報を見ればはっきりします」
「帰宅してお姉さんが家にいなかったこと、ないですよね」
「ないです、あり得ません。いなかったら、心配で探し回ります」
「自室に閉じこもっていて、返事さえないこともあったんでしょう?」
「先生もご存知のようにふすま一枚ですから、はいで分かります」
 孝昭が早口になった。
「疑っているんじゃないんです。あなたも警察から事情を聴かれることになる。そのために整理しておいたほうがいい」
「私も、やっぱり警察に」
「お姉さんのうちですからね。もしお姉さんの犯行だとすると、島崎弁護士が石段から転落したのは、午後七時半から十時までの二時間半の間ということになります。ある意味警察よりも犯行時間をあくできているといってもいい」
「本宮先生、姉が暗くなってから外に出たとは、どうしても思えないんです。暗いと街中でも怖がるのに、あんな場所へなんか絶対無理です。指紋のほうが間違いだってことはないんですか」
 孝昭は話しているうちに光田のほうを向いていた。そのしょこっこくと揺れ動いている彼の心理を象徴している。信じたり疑ったりを繰り返し、犯人である証拠ががんぜんに示されてもなお、姉弟として、また友美の人間性をよく知る者として殺人というどうだけは認めたくないのだ。
「お気持ちは分かりますが、鑑識結果に疑いの余地はありません」
 光田は静かに応え、麦茶に手を伸ばす。
「万に一つも?」
 孝昭はすがるような目をした。
「お気の毒です」
 光田の言葉に、しおれた花のようにうなだれる孝昭に、
「北上先生が言うように、指紋の一致は犯行そのものを決定づけるものではありません。警察には重大な証拠ですが、僕たちはちがう観点で向き合いましょう。指紋については一旦わきに置きませんか」
 と前を向かせるよう言葉をかけた。
「…………」
「夜道を、さらにけいだいの暗がりのほうへと歩く。そのためにはかいちゅう電灯か、もしくは携帯電話の明かりが必要だと思います。お姉さん携帯は?」
「いまは持ってないはずです。いやらしい広告を見てから毛嫌いしてしまって。懐中電灯は家にあります。でも持ち出せたかな」
 台風で停電したことがあって、そのときに準備したけれど、孝昭もどこにしまったか忘れたそうだ。台風シーズンが近づけば確認するつもりだったという。
「そういうことは、ほとんど私がやってましたから」
「持ち出さなかったともいえないですね。とにかく島崎さんと会うことにしゅうちゃくしていたということです。そうでないと引きこもっていた人がいきなり、あんな場所には行けないと思います」
 うっそうとした緑の中の古びた石段がのうをかすめる。
「結局のところ、島崎氏との接点が動機の解明に直結しそうだ。指示してもらえれば、どこへなりと調べに参りますよ」
 光田の目にいつものするどさが戻った。
 刑法三十九条をたてにして逃げるのが目的ではないことを、分かってくれたのだろう。しかし、事情聴取や取り調べが友美の精神を追い込むような局面がくれば──。
「頼りにしています」
 慶太郎は笑みを返す。
「先生、私はどうすれば」
 孝昭が聞いてきた。
「明日、古堀さんは通常通り出勤してもらって結構です。で、いつでも休暇が取れるように準備しておいてください。そうですね、夕方六時にここに来ることは可能ですか」
「大丈夫です」
「では、六時に。その足で往診します。ただ急に行くと警戒されるでしょう。そうだな、訪問の理由はブローチのお礼ということにします。お菓子を持参しましょう。一緒に食べながらケーキ店について聞き出そうと思います」
「分かりました」
「お菓子ですが、シフォンケーキだとわざとらしいし、何がいいですか」
 慶太郎は、友美の好みを訊いた。
「洋酒が入ったものが苦手なんです。それ以外ならなんでも」
「洋酒以外、ですね」
 慶太郎は念を押し、うなずいて見せた。
                       〈つづく〉