第7話 半グレの純愛・前
わかってはいたが、哲司の足はまたこの町に向かう。といっても哲司の住んでいる所とこの町とは隣合せで、歩いてすぐの距離ではあった。
越境して歩く道順はいつもきまっている。
モルタル鉄骨造りの安アパートを出て、徒歩十分ほどで隣町。ここから商店街の裏通りに入り、テキヤの山城組の前を通ってから近くの喫茶店の『ジロー』に入ってコーヒーを飲む。そのあとは適当にその辺りをぶらつきながら、もう一度裏通りに戻り、山城組の前を抜けてアパートに帰る。
これが哲司にとって大事な越境のルートだった。
哲司はこの越境ルートを、週に二回ほど歩く。目的は……山城組だ。
今日もジローでコーヒーを飲んでから、哲司の足は裏通りを抜けて山城組に向かう。山城組の事務所が目に入ると、急に哲司の足は遅くなる。
古くて大きな二階家だ。
空襲からは逃がれられたようで、どこからどう見ても築百年以上は経っているように見える。何もかもがくすんで黒っぽい。出入口は右端に設けられていて、ここには木枠で素通しのガラス戸が嵌まり、金文字で『山城組』と書かれてある。そして、なかを覗けるのはこのガラス戸だけからだった。
哲司の目的は、このガラス戸だった。
ガラス戸の向こうは土間になっていて奥につづき、左側は組の事務所になっていた。ガラス戸を覗いて運が良ければ、この家の主の顔を見ることができた。が、今まで数十回、前を通りながら、主の顔を目にしたのは一回のみ。ただの一度だけだった。
主の名前は山城冴子。山城組のてっぺんだ。
哲司のいた半グレグループの白猟 会は、この山城組と反目しあっていた。元々の原因は、半グレの頭である菱川の冴子に対する一方的な劣情だった。
三カ月ほど前、哲司たち下っ端三人はグループの兄貴分から菱川のために冴子を拉致してアジトに連れてこいと命じられた。
相手は若い女一人――ナイフで脅して車に連れこめばと簡単に考えて、冴子の動向を窺いながら三人は実行に移した。夜の八時過ぎ、裏道を一人で歩いていた冴子を哲司たちは取り囲んだ。
「おとなしく、ついてこい」
とナイフをちらつかせる男に、冴子は無表情で懐から何かを抜いてひと振りした。そいつはガチャリと音を立てて一気に伸びた。警察官が持っている特殊警棒だ。
警棒がナイフを持っている男に飛んだ。
男は首根を打たれて悶絶し、次に殴りかかった男は胴を抜かれてこれも呆気なく崩れ落ちた。残るは哲司一人。
鬼の形相で冴子が睨みつけた。
身動きできないまま、立ち竦んだ。
哲司の顔は泣き出しそうだ。
正直いって冴子が怖かった。半グレとはいえ、元々荒事の苦手な性格だった。
「あんた……」
冴子が声を出した。
鬼の形相は素直な顔に戻っていた。
「名前は……」
と低い声で訊いた。
「山名哲司……」
びくつきながら答えた。
「ふうん、哲ちゃんねえ」
といってから、ふわっと笑った。
見たことはなかったけれど、観音様のような顔だと思った。眩しいほどの笑顔だった。
「似合わないから、半グレ脱けたほうがいい」
諭すようにいって、また笑った。
胸がどんと鳴った。
哲司の胸から何かが飛び出し、何かが飛びこんだ。甘酸っぱくて熱いものだった。
この一瞬、哲司は恋に落ちた。
背中を見せる冴子の姿を目に、哲司はしばらく、その場から動けなかった。
この後、独り身会の殴りこみによって白猟会は呆気なく解散した。菱川たち主な者は警察に逮捕され、残った者もちりぢりになって、ほとんどが町を去ったが哲司は町に残った。
冴子のせいだった。
哲司はゆっくりと山城組の事務所に向かって歩く。一目だけでも冴子の顔が見たかった。ほんの少しでも。
事務所の前を通りながらガラス戸の向こうを窺うように見る。奥から誰かが歩いてくるのが見えた。あれは……冴子だ。間違いなかった。冴子だ。
胸がきゅんと疼いた。
思わずその場に立ち止まって冴子を見た。
そのとき冴子の動きが止まって、こちらを向いた。目が合った。胸の鼓動が激しくなった。どうしていいかわからなかった。また、その場に立ち竦んだ。
がらりという音がして、ガラス戸が開いた。
「あら、いつかの」
屈託のない声が耳に響いた。
哲司の胸の鼓動がさらに激しくなった。
「確か哲ちゃんとか……」
冴子は哲ちゃんといった。
名前を覚えていてくれた。
今度は鼻の奥が熱くなった。
「どうしたの、こんなところで。まあ、入ったら」
予想外の言葉を冴子は口にした。
「あっ、いや、そんなことは」
しどろもどろの言葉しか出てこない。
「遠慮することはないわよ。昔は昔、今は今だから――とにかく入ったら」
「はあ、でも、それなら……」
冴子の言葉に、おどおどしながらも哲司は事務所のなかに入る。土間を通って左奥の応接コーナーに案内された。
長椅子に小さくなって座る哲司のすぐ前には冴子。逢いたくて逢いたくてしょうがなかった冴子が座っている。
「透さん。お茶、お願い」
奥に向かって冴子が声を張りあげる。
すぐに見るからに精悍な顔つきの男が盆に茶碗を二つ載せてやってきて、テーブルの上に並べる。男は低い声で「ごゆっくり」といって、すぐにその場を離れていった。
「それで、なんでうちの前なんかを?」
早速訊いてきた。
「それはまあ、満更、知らない仲でもないもんで。それでまあ、気になったというか何というか」
何とか、ごまかしの言葉が出た。
「知らない仲でもないというより、知り過ぎるほどの仲でもあるからね、私たちは」
冴子はちょっと吐息をもらしてから、
「それはそれとして、白猟会がなくなって、哲ちゃんは今、どうしてるの」
笑みを浮べながらいった。
「あっ、逮捕を逃れたほとんどの者は町を出ていきましたけど。自分はあの、その前にグループを脱けていて、でもいまだにあの町に居残って……」
ぼそぼそといった。
「へえっ、その前に、半グレやめたんだ。そしてまだ隣町にいるんだ。でもどうして居残ったの」
冴子はちょっと身を乗り出してきた。
「それは何というか、自分は不器用というか、莫迦というか、優柔不断というか、どうしていいかわからないというか」
口が裂けても「冴子さんが、この町にいるから」とはいえるはずがない。
「莫迦で不器用で優柔不断か……まあ、私たちも含めてこんな稼業をしてるものは、みんなそうなんだけどな」
冴子は独り言のようにいい、
「シノギは何をしているの」
ずばっと訊いてきた。
「半グレをやっていた者を雇ってくれるところなんて、なかなか。それでまあ、ティッシュ配りとか、もぐりの客引きなんかを日払いで……でも、なかなか生活できなくて、いっそ生活保護でも申請してみようかと……」
頭を掻きながらいった。
「半グレが、生活保護!」
冴子の顔がくしゃりと崩れた。
声をあげて笑い出した。
本当におかしそうだ。
目が糸のように細くなり、今にも涙が出てきそうなかんじだ。そんな冴子の様子を見ながら「やっぱり可愛いな」と哲司は思う。
冴子はひとしきり体中で笑ってから、
「ということは、働く気はあるってことだよね」
と、今度は真面目そのものの顔でいった。
「それはありますけど、やっぱり元、半グレっすから。それも、オチコボレの半グレっすから」
また頭を掻きながらいった。
「オチコボレ、けっこう。少しはまともな部分があるってことだから」
この一言で、何となく胸が軽くなるのを哲司は覚えた。
「ところで哲ちゃんは、料理はできる?」
妙なことを冴子が訊いた。
「料理って、あの。飯をつくったりする料理のことっすか」
首を傾げて哲司が言葉を出すと、
「そう、その料理。ごはんを炊いたり、玉子や肉を焼いたり、魚を煮たりする」
当然というような顔で冴子は答える。
「煮物はやらないっすけど、焼物ぐらいなら。シノギが悪いので、ずっと自炊生活をしてましたから」
怪訝な思いで哲司は口にする。
「自炊生活をしていたのなら、料理が苦手ということでもないんだ――それなら務まるかもしれない」
冴子は何かを考えこむような顔つきでいった。
「あの、自分にはよくわからないっすが。それはつまり、自分に料理をしろっていうことなんすか」
思いきって口に出して訊いてみた。
「何とか半グレから足を洗ったみたいだから、それならちゃんとした仕事についたほうがいいと思ってね」
また、思いがけない言葉が冴子の口から飛び出した。
「それは、冴子さんが自分のために、何か仕事を世話してくれるということなんすか」
口に出したとたん、胸の鼓動が早くなるのを感じた。冴子が自分のために仕事を……しかしそんなことが。
「ひとつ、うってつけの仕事がね。詳しくはまだいえないけど、そこに哲ちゃんを紹介してみようと、ふと思って。食べ物屋商売なんだけど、だからね」
笑いながらいう冴子の顔を見て、哲司はさっと立ちあがった。思いきり頭を下げた。
「ありがとうございます。こんな半端者のために、そこまで考えてもらって。こんな、不器用で莫迦で優柔不断な自分に。本当に何といったらいいのか、自分は、自分は、本当に自分は……」
最後は涙声になっていた。
それほど哲司は嬉しかった。
しかし、なぜ冴子は自分にこれほどの親切を――それがわからなかった、ひょっとしたら冴子は自分のことを、と考えてみて哲司は胸の奥で大きく首を振る。冴子ほどの女性が自分なんかに。しかしそうなると、なぜ冴子は……わからなかった。わからなかったが、そんなことは二の次だった。哲司は、ただひたすら嬉しかった。
涙ぐみながらそんなことを考えていると、
「突っ立ってないで、座ってよ。立っていられると、話もしづらいから」
冴子にこういわれて、哲司は素直に腰をおろす。
「ずっと、気にはなってたのよ」
ぽつりと冴子がいった。
「あのとき無責任に、似合わないから半グレ脱けろといったこと――もしあれで、本当にこの子が半グレやめてしまったら、ちゃんと自立できるんだろうかって。でも嬉しかった。あれで哲ちゃんが半グレ脱けたって聞いて。いった甲斐があった」
自分にいい聞かせるようにいう冴子の言葉を耳にして、哲司の胸がざわっと騒いだ。だからさっき、冴子は身を乗り出してきたのだ。そういうことなのだ。冴子はずっと、あの一言に責任を感じていたのだ。これは冴子の優しさであり、親切なのだ。
だが、これは冴子の勘違い……。
哲司は決して、冴子のあの一言で半グレを抜けたわけではない。あれは――。
「はい、あの一言で目が醒めました。自分には半グレは似合わない。さっさと脱けたほうがいいって」
しかし哲司の口からは、こんな言葉が流れ出た。むろん、嘘だった。嘘だったが、これを貫こうと思った。そのほうが冴子もいい気分だろうし、自分にしたってそうだ。それよりも何よりも、哲司は冴子の思いを裏切りたくなかった。
「じゃあ、哲ちゃんのケータイの番号を教えてくれる。話が本ぎまりになったら、連絡するから。もちろん、私のケータイの番号も教えておくから」
冴子は機嫌よく、こういった。
冴子のケータイの番号がわかる。わかったとしても何がどうなるものでもなかったが、それでも哲司は嬉しかった。冴子との距離がぐんと近くなるのだ。
哲司と冴子は互いのケータイの番号を交換した。
そのあと十分ほどして哲司は山城組の事務所を出たのだが、体が宙に舞うほど弾んでいた。嬉しくて嬉しくてしようがなかった。
アパートに帰ってから、哲司は六畳一間の一室に閉じこもった。
部屋の真中にある電気ごたつの上に、冴子と番号交換したケータイをそっと載せ、その前に座って電話のかかってくるのをじっと待った。トイレと食事以外、その場から動かず、ケータイの鳴るのを待った。
ケータイなのだから持って出れば、どこへ行こうが支障はないはずなのだが、それでも哲司は動こうとはしなかった。気持を集中させて冴子と話がしたかった。
自分が小さな子供のようなことをしているのはわかっていたが、それはそれでいいと思った。待つのが楽しかった。そして嬉しかった。こんなに胸が躍ることは初めてだった。小さなころから今まで、哲司にはいい思い出はほとんどなかった。
哲司は練馬区にある公団住宅で育った。
父親は長距離トラックの運転手で、母親は哲司が小さなころは専業主婦だった。
哲司が小学校に入学した年の夏。
「行ってくるから」
といつものように朝早く父親は家を出て、それっきり帰ってこなかった。
母親の鈴子はこのとき三十六歳。いっときは、わあわあ騒ぎまくって父親の行方を探しまくっていたが結局見つからず、ふた月ほどであっさり諦めた。このあとは生活保護と時折り出かけていく、夜の怪しげなバイトのようなもので暮すようになったが、鈴子はパチンコが好きで毎日のように通っていた。
この小学生時代、哲司にとって心の弾む記憶というのは皆無だった。
食事はいいかげんで朝食は抜き、夕食はありあわせの惣菜かソースかけごはん。たまに冷凍のハンバーグなどが食卓に出ることもあったが、そのときの母親は目つきが悪かった。今考えれば、多分あれは万引き商品。そんな気がした。
あとは苛めだ。
哲司は春物と冬物、服を二着しか持っていなかった。春物は秋夏兼用であり、冬物だけがその季節のものだった。洗濯もたまにしかしてもらえず、同じ物を毎日着てすごした。
このため女子からは「臭いから、あっちへ行って」と鼻をつまんでいわれ、男子からは「貧乏がうつるから、あっちへ行け」と仲間外れにされた。哲司はいつも一人ぼっちだった。救けてくれる人間は一人もいなかった。
ちょうど、六年生の卒業式を数日後に控えた日。夕食の食卓にハンバーグやカレーライス、サイコロステーキにスパゲッティ、それに鶏の唐揚げ……といった豪華な料理が並んだ。唐揚げだけは違うようだったが、あとはすべて冷凍食品だった。にしても豪華すぎる献立てだった。
「これは全部、ちゃんと買ってきたものだからね」
イミシンなことをいう母親の鈴子に、
「どうして今日は、こんなにいろいろあるの、お母さん」
と哲司は呆気にとられて訊いた。
「たまにはちゃんとした物を、沢山食べないと大きくなれないからね」
母親は表情のない顔で答えた。
食生活のせいかどうなのか、哲司は小柄で痩せっぽちの子供だった。とても小学六年生には見えなかった。
「それに今日は、こんなちんけな生活の最後になる、めでたい日だからね。だから、お祝いのパーティなのさ」
母親は一本調子の声でこういい、哲司に料理を腹一杯食べろとすすめた。いわれるままに哲司は料理を食べた。こんなおいしい夕食は初めてだった。
「おいしいね、お母さん」
こんな言葉を出すと、母親は満足そうにうなずいた。
翌朝起きてみると、家のなかに母親の姿はなかった。帰ってこなかった。
哲司は母親からも捨てられ、中学は施設から通うことになった。
養護施設は同じような境遇の子供たちが暮す場所だったが、苛めはここにもあった。体の小さかった哲司は、そのせいで体の大きな者から苛めのターゲットにされた。
わけもなく小突かれ、殴られた。
面白半分に哲司にちょっかいを出してきて、よってたかってオモチャにするのだ。簡単にいえば、たまったストレスの発散場所――そのための捌け口として、哲司はうってつけといえた。
そんな毎日がつづいた一年ほどあと。
いつものように苛められていた哲司は、急に走り出して玄関に向かった。確かあそこにはバットが立てかけられていたはずだ。バットを手にした哲司は部屋に戻って、ぶんぶん振り回した。
苛めっ子たちは悲鳴をあげて、逃げまどった。かけつけた大人たちによってバットは取りあげられ、幸い怪我人も出なかったが哲司はこれでひとつのことを学んだ。
何かを手にすれば、人は逃げる――。
中学校でも哲司に対する苛めはつづいており、そのための対策として哲司はカバンのなかに果物ナイフを忍ばせて学校に通った。そして事あるごとにそれを手にした。哲司に対する苛めはぴたりと収まった。
哲司の生活の知恵だった。
中学を卒業した哲司は、都内の外れにある鉄工所に旋盤工見習いとして就職した。
ここでも苛めらしきものはあったが、理由は哲司の物覚えの悪さだった。何度仕事を教えてもらっても、なかなか身につけることができず、ついた仇名が、『ノロテツ』。従業員たちは普段でも哲司のことを名前で呼ばず、ノロテツといった。悔しかったし情けなかったが、ここで刃物を振り回すわけにもいかず、哲司は半年でこの工場を辞めた。
そのあといくつかの職場を転々としたものの、どこも長くはつづかず、気がつくと半グレグループの一員になっていた。
同じような境遇の、同じような程度の人間が集まるこの場所は気が楽だった。たったひとつの難点は、哲司は荒事が苦手だということだった。
生活の知恵らしきもので、バットやナイフを振り回しはしたが、あれは苦肉の策で哲司の本性ではなかった。元々は気が弱く、大きな声をあげるのも苦手で、まして本物の喧嘩など一度もしたことがなかった。が、他に哲司の居場所はなかった。ワルたちのあとからついて回るより仕方がなかった。
その哲司の、新しい居場所が見つかるかもしれなかった。しかも、それを探してくれているのが、あの冴子なのだ。それが嬉しかった。むろん、自分と冴子がどうにかなるなどとは露ほども思ってはいない。自分は女性には縁のない人間。二十歳の今まで、哲司は女性とつき合ったことが一度もなかった。分だけは、わきまえていた。ただ、冴子と関わりだけは持っていたかった。それだけだった。
哲司は、目の前のケータイを睨みつけるように見る。
鳴らなかった。
何の音も立てなかった。
ふと、いっそ鳴らないほうが幸せなのかもしれないとも思う。ケータイが音を立て、耳にあてた瞬間、「やっぱり駄目だった」という冴子の声が聞こえたら……そんな声は聞きたくなかった。そんな声を聞くぐらいなら、このまま一生、ここに座りこんでケータイの鳴るのを待っていたほうが――そんな子供のような思いが胸をよぎって消えた。
哲司は小さな吐息を、ふっともらした。
ケータイが鳴ったのは、座りこんでから二日目の朝だった。
ディスプレイには『冴子さん』の文字。
正真正銘、冴子からの連絡だ。
哲司は胸をどきどきさせながら、大きく深呼吸をひとつする。おずおずとケータイに手を伸ばし、ゆっくりと耳に押しあてると元気な声が響いてきた。
「もしもし哲ちゃん、冴子です」
待ちに待った冴子の声だ。
「はいっ」と返事をすると、
「大体、オーケイだから」
と冴子はいった。
とたんに哲司の胸がすうっと軽くなる。
「それで、この前は詳しい話はできなかったから、これから話すのでよく聞いてて」
といって、冴子はこの件の詳細を話し出した。
元々は商店街の空き家対策があり、その話に裏通りで角打ち酒場をやっている『八代酒店』が乗ってきて、今度の話になったと冴子はいった。
その角打ち酒場は常に満員御礼で、席が空くのを客が行列をつくって待っている状態がつづいていた。それならいっそ、空き家をリフォームして支店を出すのもいいかもしれないと八代酒店の主人がいい出し、その方向で話を進めようということになった。
新しい店の名前はずばり『角打ちbar』。客筋は若い連中と外国人。バーといってもカクテルなどはむろん出さず、酒はビールとウィスキー、それに焼酎を含めた日本酒の三種類のみ。ツマミのほうは缶詰めの類や乾き物、料理は旬の野菜やソーセージの炒め物といった簡単にできるものだけと冴子はいった。
だから「料理はできるの」と、先日冴子は訊いてきたのだ。ようやく哲司は納得した。
従業員は二人で、一人は八代酒店から出してもらってこの人がメイン。もう一人が補助要員で、これが哲司の役目だということだった。
「補助要員っていっても、メインの人は半年ほどで本店のほうに帰らなきゃならないからね。そうなったらもう一人店員を入れて、哲ちゃんがてっぺんということになるから、けっこう大役になるはず」
嬉しそうに冴子はいった。
「そんな、てっぺんなんて大役、自分に務まるでしょうか。何たって半グレの落ちこぼれっすよ、自分は」
不安げな声を哲司は出す。
「務まるように、びしばし教えこんでくれるはずだから。それを一生懸命覚えれば何とかなるはず」
「自分、けっこう、頭悪いっすけど」
掠れた声を出すと、
「少々頭が悪くても、こういった商売なら大丈夫、何とかなるから。そんなことよりいちばん大切なのは気配り。これがないと客商売はやっていけないから」
「あっ、気配りなら自信あります。こんなこと冴子さんにいうのは本当は嫌なんすけど、自分、けっこう人の顔色見て生きてきたところ、ありますから」
情けなさそうな顔をしながら、それでも自信をこめていった。
「そうね。それは私も感じた。だから、この話を哲ちゃんに振ったのかもしれない」
強い口調で冴子はいった。
「はいっ、よろしくお願いします」
元気のいい声を張りあげると、
「それでね。哲ちゃんで、ほとんどオーケイなんだけど。この話の責任者というか、そういう人がいちおう哲ちゃんと話がしたいというから、今日会ってほしいの。二人なんだけど、二人とも優しくていい人だから、心配はいらない」
何でもない口調でいった。
「はい、それはいいですけど」
「時間は二時。ジローって喫茶店で待合せなんだけど、知ってるかな」
「知ってます。何度も入ったことがあります」
「じゃあ、そこへ二時ちょっと前にきて、私もそれくらいに行ってるから。それからね」
といって冴子はちょっと黙ってから、
「そのとき会うことになっている人は、満更、哲ちゃんとは縁がないともいえない人たちだから」
面白そうにいった。が、哲司の心は急に不安に襲われた。
「その人たちって……」
恐る恐る口に出した。
「商店街の町おこし推進委員会の人たちで、羽生さんという人と小堀さんという人」
聞いたことのない名前だった。ほんの少し安心した。
「といってもわからないだろうけど、一人は小堀塾という私塾の先生で、もう一人は源ジイといって、白猟会との闘いのメインになった人」
冴子の言葉に「あっ」と哲司は叫んだ。
「あの、化物のように強い、ジイサン……」
思わず言葉が出た。
「そう、最後の闘いには出てない哲ちゃんでも、噂ぐらいは聞いてるんじゃないの。まあ、要するに昨日の敵は今日の友といったところかな。これだから人生は面白いよね」
冴子の声は、どこまでも屈託がない。
「それじゃあ、二時少し前にジローということで、よろしくね」
こういって電話は切れた。
不安と怖れが哲司のすべてを包んでいた。
哲司が半グレを脱けた原因は源次だった。
あの最後の闘いの直前。
源次は半グレ集団の切り崩しのため、夜の町を歩く白猟会の一人一人に声をかけてきた。哲司も声をかけられた一人だった。
源次ともう一人の男――これが多分、小堀という男だ。二人は哲司に声をかけ、暗い露地に連れこんだ。
そこで源次は金縛りという妙な術をかけ、さらに哲司の目の前で、十円硬貨を指で折り曲げたのだ。とても人間技とは思えなかった。そして、
「わしを敵に回すな、わしの側につけ」
ドスの利いた声で源次はこういい、もう一人の男が丁寧な口調で白猟会を脱けるように説得を始めた。哲司はその説得に、すぐに応じた。怖くて体中が震えていた。
源次の強さは仲間たちから聞いて知っていたが、実際の技を見るのは初めてだった。これはもう、化物としかいいようがなかった。たとえ頭数だけ多くても、こんな化物と闘って勝てるはずがなかった。哲司は最後の闘いをすっぽかして、部屋に一人で閉じこもった。
今日その二人に会えば、自分が半グレを脱けた本当の理由が冴子の言葉ではないことがわかってしまう。それだけは嫌だった。冴子に嘘をついたと知られたくなかった。冴子との縁を切りたくなかった。
しかし二人に会えば……だが、あの暗い露地でのやりとりだ。顔などはもう忘れきっているかもしれない。が、もし覚えていれば、自分の嘘は。
いくら考えても堂々巡りだった。
どうしたらいいのか。
いっそ逃げてしまえば、それとも……。
哲司は頭を抱えてうずくまった。(つづく)