第6話 理髪店の娘・後

 しょうの様子が妙だった。
 表情が冴えないというか、沈んでいるというか。
「どうした、翔太君、浮かない顔をして」
 げんな思いで声をかけると、
「僕は大きな勘違いをしてたかも……」
 掠れた声で翔太はいった。
「勘違いって、ひょっとして、向井むか い理髪店のなみちゃんのことか」
 嫌な予感が裕三の胸をよぎった。
 翔太と二人でいずみレコードに行き、向井理髪店の再生のために協力してほしいとだけいって、一人娘の美波のあれこれをななから聞いた帰りだった。あれから翔太の様子がおかしくなったのだ。
「喫茶店にでも入って、コーヒーでも飲むか翔太君」
 優しく声をかけると「はい」と素直に翔太は裕三の言葉に従った。
 以前、七海もまじえてパン職人のたけふみと話をした『ジロー』へ裕三は翔太を誘った。
 運ばれてきたホットコーヒーをひとくち飲み、裕三は翔太を見つめながら明るすぎるほどの声を出した。
「美波ちゃんに関する話のなかで、何か七海ちゃんはまずいことでもいったのかな。翔太君が落ちこむようなことを」
「ええ、まあ」
 あいまいな言葉を出した。
「俺にはそれほど、翔太君が落ちこむような話はなかったように思えるんだが……」
 いいながら裕三は、七海が口にした美波のあれこれを頭に思い浮べる。
「ひとつ違いの下級生だったから、それほど美波さんのことを知っているとはいえないですけれど」
 とカウンターのなかで七海はこう前置きして、
「一言でいうと、目立たないおとなしい子でしたね。かといって頭が悪いわけでもなく、ネクラというわけでもなく――妙な表現ですけど、片寄りのないちゅうよう。それでありながら、我が道を行くというような」
 首をひねりながらこういった。
「随分、わかりづらい子なんだな」
 裕三がぽつりというと、
「そういわれれば、そうですね。まあ、普通の大学じゃなく、美大に行くような子ですから、わかりづらいのも当然といえばそうかもしれません」
 七海は宙を見つめ、何かを考えているような表情をしてから、
「そういえば美波さんは中学二年のとき、いじめにあっています。何が原因なのかはわかりませんが、クラスをぎゅうる数人の女の子たちから、シカトをされていたはずです」
 こんなことを口にした。
 シカトは数カ月続いたという。
 苛めの中心がクラスを牛耳る女の子たちということは、その他のほとんどの女子たちもそれに従ったということになるのだが、そのときの美波の態度が際立っていたという。
 無視されようが意地悪をされようが何をされようが、美波はここでも我が道を行くを貫き通した。泣きごともいわず文句もいわず、ただひたすら淡々と毎日を過していたようだったと七海はいった。
 これにはシカトを続けている側も拍子抜けだったらしく、やがて苛めは自然消滅的になくなっていき、美波の毎日は通常に戻った。これ以後、美波は周りから一目置かれるようにもなったという。
「よほど強い意志を持った子だったんだな、美波ちゃんという子は」
 裕三は感心したようにいい、「それで、美波ちゃんには友達は?」といた。
「そういう性格だったから多くはいなかったはずですけど、何人かはいたようです」
 笑いながら七海は答える。
「すると、まったく孤立していたというわけでも、なかったんだな」
 独りでうなずきながらいう裕三の言葉にかぶせるように、
「そのさっきの強い意志云々ということなんですけど。何かよほどの自信というか優越感というか、そんなものを美波さんは心の奥に持っていて、その裏返しのようなものだとはいえないですか」
 ちらっと七海の横顔に視線を走らせ、一気に翔太がいった。
「自信とか、優越感……」
 七海の表情に、とまどいの表情が浮ぶ。
「たとえば、容姿とか……」
 また、ちらっと七海の横顔に視線をやる。
「容姿とかといわれても、私には人の容姿のことは。そんなことは、ちょっと……」
 いいづらそうに七海は口に出し、困惑の表情を浮べたところへ、店の客が中古レコードのことでカウンターにやってきた。それをきっかけに裕三は翔太をうながして小泉レコードを後にした。これで美波の大体の性格は把握できたはずだ。難しい性格ではあったけれど、翔太なら何とか。

 裕三は手にしていたカップを、そっと皿に戻す。
 しかし翔太の落ちこんでいる理由が、この美波の性格だったとしたら――。
「確かに美波ちゃんは変った性格の持主ではあると思うけど、決してへそまがり的な人間ではないと俺は思うが――もし、それを心配しているのなら」
 と裕三がいい終えないうちに、
「そういうことでは、ないんです。そういうことでは」
 翔太が悲痛な声をあげた。
 そういうことでなければ、いったい。
 ぽかんとした表情を裕三は浮べる。
「最後に僕が美波さんの容姿を口にしたときの、七海さんの言葉です」
 低い声でいって、翔太はコーヒーをごくりと飲みこんだ。
「七海ちゃんは人並以上の容姿を持った子だから――そんな七海ちゃんが人の容姿をあげつらうことなどは。それはやっぱり失礼というか何というか。よその女の子の顔形をけなすようなことは……」
 声をひそめていう。
「そこなんですよ、問題は」
 突然翔太が高い声を出した。
「七海さんの言葉を聞いて、ぼりさんもやっぱりそう思ったわけでしょ。美波さんは決して美人じゃない。いや、むしろ不細工な女の子じゃないかって」
「それはまあ、そうなんだが。それが何か困ったことにつながってくるのかな」
 裕三は怪訝な面持ちを翔太に向ける。
「だから、大きな勘違いなんです」
 翔太は大きなためいきをもらした。
「美波さんのお母さんが美人で可愛かったという話を、ご主人の向井さんや独り身会のみなさんの口から聞いて、僕はてっきりその娘さんである美波さんも、美人で可愛い子なんだと思いこんでいたんです」
 一気にいう翔太の話を聞きながら、どうにも何がいいたいのか、裕三にはその主旨が見えてこない。仮に美波の顔が普通より劣っていたとしても、それがいったい何に影響してくるのかさっぱりわからない。
「僕の考えていた、美波さんに向井理髪店の跡を継がせるという計画が根底から崩れてしまうんです。だから……」
 妙なことをいい出した。
「翔太君の考えていた計画って、それは。まだ教えてもらっていないので何ともいえないが、その計画って」
 裕三は身を乗り出し、
「ここいらで、その計画というのを教えてくれないだろうか、翔太君」
 きっぱりとした口調でいった。
「それは……」
 翔太はちょっといいよどんでから、
「一言でいえば、看板娘作戦ともいうべきものです」
 ぼそっといった。
「看板娘って――俺たちの若いころ、のいい娘さんを店頭に出して客引きの目玉にしたという、あの看板娘のことなのか」
 あっにとられた口調でいう。
「そうです、その看板娘です。美波さんのお母さんの絹代さんがそうだったように、僕はその子供である美波さんを、今度は看板娘に仕立てあげる作戦を展開しようと思っていたんです。昭和の時代の床屋さんのように、僕は看板娘を軸にしたサロンのような空間を創りあげたいと頭に描いていたんです」
 まくしたてるようにいう翔太に、
「サロンのような、床屋か――それはいい、実にいい。文字通り、昭和そのものの床屋の風景じゃないか。向井さんの店にも、この商店街にも、まさにぴったりといった情景じゃないか」
 裕三も、まくしたてるようにいう。
「ですから……その情況を実現させるためには、うそはっぴゃくを並べたてないと」
 また、妙なことを口にした。
「美波さんは向井さんに、私は絵が描きたいし床屋には先がないといって跡を継ぐのを断りました。これを打破するためには――」  
 といって翔太は自分の計画を話し出した。
 まず、美波が看板娘として店に立てば男たちが集まってきて繁盛し、相当の収入増が見こまれ、おまけに美波自身もこの町のスター的存在になることができる。さらに自営業だから時間も自分でつくり出すことがいくらでも可能で、絵も落ちついて描くことができる等々――こういったおいしい話を言葉巧みにどんどん美波にぶつけてその気にさせ、とにかく向井理髪店の跡を継がせる。
 翔太はこんなことをいった。
「それで美波ちゃんを、納得させられるんだろうか」
 裕三が疑念を挟むと、
「大丈夫です。必ず何とかなるはずです。美波さんも女の子ですから、おいしい話には興味を示すはずです」
 翔太は小さくうなずいて後をつづけた。
 これが成功したら、次に看板娘としての美波の伝説を創りあげる。単なる可愛い子ではなくて、ここにくるまでには様々なドラマチックな話があったのだと。これにはやはり、ネット活用が一番だと翔太はいった。
「ネットでいったい、何をやろうとしていたんだ、翔太君は」
 怪訝な思いで裕三が口を開くと、
「美波さんの前身を、地下アイドルに仕立てあげるつもりでした」
 地下アイドルといわれても、裕三にはぴんとこない。
「テレビなどに出ているアイドルじゃなくて、女の子たち数人が集まってバンドを結成し、あちこちのライブハウスなどで演奏してお客を楽しませるグループです」
 きっぱりとした調子でいった。
「俺たち年寄りにはよくわからないが、何にしたって美波ちゃんにそんな過去はないんだろ。それをどうして……」
「日本中の地下アイドルの演奏風景をピックアップして、それをコンピューターでうまく加工し、さらに美波さんの顔を合成して絵づくりをするつもりです。もちろんそこには、苦労話や恋愛話、そして失恋話や挫折話やらも盛りこんで、男たちが歓ぶようなストーリーを加えながら」
 とんでもないことをいい出した。
「そんなうまい具合に、絵づくりができるものなのか」
「絵づくりと画面加工には自信があります。きっと成功するはずです」
 力強く翔太はいう。
「しかしそれは。何といったらいいのか、要するにうその情報というかだましというか」
 恐る恐る口にすると、
「そうですね、端的にいえばまがい。そういうことになります。この映像創りにしても、その前段階の、美波さんにあることないことを吹きこんで、その気にさせることも。すべては嘘八百、本来なら、やってはいけないことです。でもこれが向井理髪店を存続させる、たったひとつの対処法なんです」
 以前、翔太は独り身会の集まりで、ひとつだけ対処法があるが、これは使ってはいけない方法、間違った方法なのだと奥歯に物が挟まったようないい方をしていたが――こういうことだったのだ。
 ううんと裕三はうなった。
「あとは補助手段として、再生向井理髪店の新聞チラシや徹底的な口コミ作戦を駆使しながら、看板娘をアピールしていくつもりだったんですけど……」
 翔太の語尾が掠れた。
「美波ちゃんの容姿問題で、翔太君の思わくはみごとに外れたというわけか。しかしまあ、いろんな相談のなかにはうまくいかないこともあって当然だから。もともと身内の問題なんだから、もしこれが駄目なものなら向井さんに正直に話して、諦めてもらうより仕方がないさ」
 いたわるように裕三はいう。
「それは、そうなんですが」
 歯ぎれの悪い言葉を翔太は出した。何だかまだ、この問題を諦めきれない様子がありありと感じられた。変だった。
「それにしても、この問題に関して翔太君は一生懸命すぎるほど、熱心だな。詐欺まがいのことまでして、美波ちゃんを看板娘に仕立てあげようとしていたんだから」
 裕三は真直ぐ翔太の顔を凝視し、
「何か向井理髪店に対する特別の思いこみというか――翔太君自身が個人的にこの店を応援したいという理由というか。ひょっとしたら、そんな感情があるような気もするんだが、これは俺の穿うがちすぎだろうか」
 思いきって疑問点をぶつけてみた。
「それは……」
 翔太は一瞬絶句してから、カップに残っていたコーヒーを一気にのどの奥に流しこんだ。
「あります」
 吐息をついて黙りこんだ。
 あとは待つだけだ。待っていれば翔太は必ず話し出すはずだ。
「単なる町おこしじゃなく、僕自身が看板娘のいる、サロンのような床屋さんを創ってみたかったんです。僕の抱く夢のようなものなんです」
 しばらくして、翔太はぼそぼそとした声で、こんなことをいって肩を落した。
「看板娘のいる、サロンのような床屋は翔太君の夢のようなものなのか、昭和大好き少年の翔太君の」
 少し驚いた声をあげる裕三に、
「以前、何かの写真雑誌で昭和の風景の特集をやっていて。そのなかに小さな子供から若い人、それに大人たちやお年寄りたちが床屋さんに集まって、一心不乱にテレビを見つめている場面が載っていたんです。そのとき僕は、ああいいなあと理屈も何もなしで、むしょうにうらやましさを感じたことがあったんです」
 ぽつぽつと翔太は話した。
「昭和の時代で、みんなが床屋に集まってテレビを観るとするなら、スポーツだな。力道山のプロレスに始まって、ファイティング原田の世界タイトルマッチ、恒例の巨人―阪神戦から、相撲ならはくほう時代。どういうわけか、家にテレビがある者も床屋に集まってきて、子供から年寄りまで、みんなでワイワイがやがやと……いやあ、いい時代だったなあ、楽しかったなあ」
 裕三の口から、言葉が湧き出すようにあふれ出た。
「やっぱり、楽しかったですか」
 羨ましそうに翔太がいった。
「あの一体感――といっても年齢も境遇も貧乏人も、その日暮しも金持ちも、みんな一緒くたになっての観戦だったから、寄せ集めのばらばらの一体感ともいうべきものだったけど、それでも楽しかったな。いや、ばらばらだったから、そのときだけは余計に親近感が増して、ドキドキしたのかもしれないな」
 裕三はしゃべり終えて、遠くを見るような目つきで翔太を見た。
「できれば僕は、それを実現させたかったんです。もちろん、僕もその仲間に入れてもらって、何もかも忘れてワイワイがやがやと、叫びながら怒鳴りながら。人間の汗のにおいというか肌のにおいというか。そんな乱雑なサロン――いえ、たまり場をつくりたかったんです」
 いつのまにか翔太の目は輝いていた。
「そうか。サロンじゃなくて、たまり場か。いいな、それはいい、実にいい。そして、そこに翔太君も加わりたいんだ」
「僕は小さなころから……」
 ぷつりと言葉が途切れた。
「小さなころから母一人子一人の淋しい生活で、いつも一人ぼっちでしたから。周りに、ひといきれを感じる生活をしたことがなかったから」
 翔太はようやく後をつづけた。
「そうか、翔太君は一人ぼっちだったか。そういうことか」
 何気なく口に出して翔太の顔を見ると、輝いていた目が潤んでいた。
「小学生のころ、お母さんが死んだら僕はこの世の中で、たった一人っきり。たった一人で縮こまって生きていかなければならない。そのときは、草を食べて生きていこう……こんなことを泣き出しそうになりながら、いつも思っていました」
 翔太の目の潤みは消えていた。
 優しい目だった。
「草を食べて――」
 裕三は思わず口に出し、
「それは草食動物のことを考えて、そんなふうに思ったんだろうか」
「そうかもしれませんが、本当のところはわかりません。とにかく、ずっと草を食べて生きていこうと思っていました」
 恥ずかしそうに笑った。
 翔太が、すんなり独り身会に入ってじんでしまった理由が、わかったような気がした。
「よしっ」
 と、裕三は叫び声をあげた。
「そういうことなら簡単に諦めずに、もう一度、向井理髪店の看板娘作戦をじっくり考えてみよう。こうなったら嘘八百だろうが、法律を犯そうが、手が後ろに回ろうが知ったことじゃない。何でもありの作戦を考えてみようじゃないか」
 裕三は翔太の夢をかなえさせてやりたかった。だが、たとえ何らかの方法でこの看板娘作戦が実現されたとしても、あの昭和の床屋特有の自由奔放なたまり場の実現は無理なような気がした。それでも、それらしきものをつくってやりたかった。
「それなら、これから隣町へ行こう。そして、じっくり観察してこよう。この時間なら、おそらく美波ちゃんは、まだコンビニでバイトをしているはずだ。店名は向井さんから聞いてわかっている。まず、実物を見てみよう。作戦はそれからだ」
 どやしつけるようにいって、裕三は立ちあがる。
「そうですね。まず美波さん本人を見ないと始まりませんね」
 上ずった声でいって翔太も立ちあがる。
「ところで、その翔太君が見た写真雑誌の床屋のテレビに映っていたのは、何のスポーツだったんだ」
 何気なく口にした。
「高校野球の夏の甲子園大会の決勝と、説明文には書いてありました」
「ああっ――」
 と溜息のような声を出し、裕三は伝票を手にして店のレジに向かった。

 時計を見ると四時少し前。
 そろそろ翔太がくるころだ。
 喫茶店ジローの奥の席。今日も裕三は翔太と待合せて、看板娘作戦のアイデアを二人で練るつもりだった。
 少しして翔太が顔を見せ、注文したホットコーヒーがテーブルの上に置かれてから裕三は本題に入った。
「何かいいアイデアは出たかな、翔太君は」
 翔太の顔を真直ぐ見ていうと、
「ええ、何とかひとつだけ。それが通用するかどうかは未定ですけど」
 遠慮ぎみに翔太はいった。
「ひとつでも出れば立派なもんだ――実は俺のほうでも、ひとつだけ。これはけっこう現実的な解決策だと思う。というより、昨日美波ちゃんの顔を見てから、いくら頭を絞ったとしてもこれしか方法はないだろうと確信してたから」
 首を振りながら裕三はいった。
 昨日――。
 あれから裕三と翔太は隣町のコンビニに出かけ、つぶさに美波の顔をその目で見てきた。一度は正面切って美波と話し合いをしなければいけないため、できる限り相手に気づかれないほうがいいだろうと素知らぬふりをして、さりげなく。若い子には珍しく、美波はほとんど化粧をしていなかったので顔の造りはよくわかった。
 美波はやはり、母親似ではなかった。
 鼻の形はまあまあだったが、低かった。口のほうは可もなく不可もなくといったところで、ごく普通といったかんじだったが、問題は目だった。
 細い目だった。これが完全に美波の印象を悪くしていた。おまけにりょうほおがふっくらしているため、一言でいってしまえば典型的な、おかめ顔だった。
 裕三と翔太は肩を落してコンビニをあとにした。
「あの目を何とかして、あとは厚化粧でごまかせば、何とかなると俺は思って」
 裕三はコーヒーで唇を湿らせてから、
「これはもう、整形しかないと」
 大胆なことを口にして翔太を見た。
「整形って、それは小堀さん!」
 ぜんとした表情で翔太の体が固まった。
「申しわけないですけど、それは極めて私的なことで他人がとやかくいえることじゃありません。それを思い立って、それを決めることができるのは本人だけです。それから、何のためらいいもなく人の心の奥にずかずかと入りこむのは、昭和生まれの中年以上の男たちの悪いくせのような気がします」
 翔太は一気にいってから、
「すみません、生意気なことをいって」
 そっと頭を下げた。
「いや、翔太君のいう通りだ。これはまったく他人が口に出すべき事柄じゃなかった。申しわけない、というより恥ずかしい限りだ。本当に恥ずかしい」
 裕三はそういって素直に頭をたれ、
「いわれてみれば、俺たち昭和生まれの中年族は自分の気がつかないところで、相手を傷つけていることがけっこうあるかもしれないと、今ふと思ったよ。翔太君のおかげで目からうろこの思いだ。以後気をつけるよう、肝に銘じておくよ」
 情けない声で後をつづけた。
 「すみません――さらにいわせてもらえば」
 と翔太は掠れた声でいい、
「昨日僕は七海さんに、美波さんの我が道を行くという意志の強さは優越感の裏返しじゃないかといって却下されましたが、これはまったく逆で、あれは劣等感の裏返しだと今では考えています。小さいころから絵を描くのが好きで美意識に秀でた美波さんは自分の顔を客観的に見て、子供心にも、なるべくおとなしく生きよう――そう決心したんじゃないかと。そうすれば目立つことはなく、誰からも顔の悪口をいわれることはない……これは一種の悟りのようなもので、美波さんが今でも化粧っけのない顔で仕事をしていたのが、その証しのような気がしてなりません。美意識と自意識に秀でた女性の悲劇。そんなふうに思えてならないんです。あの人はある意味、とても女らしくて可愛らしい女性なんです」
 悲しげな顔で笑った。
「なるほどな。しかし、小学生や中学生ほどの、まだ子供の女の子が、そこまで考えるものなんだろうか」
 疑問に感じたことを、裕三は遠慮ぎみに口にした。
「考えますよ、女の子だからこそ。それに美波さんは、絵描きだから――そして、例の中学のときの苛めを我が道を行くで乗りこえたのが、この決心をさらに強くしたともいえますし」
 これでこの論争は終りになった。
「それで、翔太君のほうのアイデアというのは――」
 裕三は矛先を翔太に向けた。
「実はあれこれ考えているうちに、ある人の顔を思い出したんです。あの人ならこの難題に、ひょっとしたら答えを出してくれるかもしれないと」
「ある人って、それは」
 裕三はテーブルの上に体を乗り出す。
「テキヤのやましろ組の、さえさんです」
「あっ」と裕三は高い声をあげた。
げんジイが七変化といっていた、江戸の昔から香具の家に代々伝わっているという、愛敬芸か」
 愛敬芸とは、自分の気持を顔の変化によって見る者に伝えて即座に納得させる、香具師の術ともいえるものだった。
 怒りの顔、悲しみの顔、淋しさの顔、困惑の顔等々……そして極めつけは口上を述べながら相手の心をわしづかみにして商品を買わせる、可愛らしさの顔。香具師の娘の冴子は、そんな顔を思い通りに表わすことのできる愛敬芸の達人だった。
「冴子さんに指導してもらって、美波さんに可愛らしく変身してもらおうということか。しかしあれは冴子さんにしかできない、特別な芸じゃないのか。そんなことを美波さんにやれといっても」
 裕三はうなり声をあげる。
「ですから、それを確かめるために、これから冴子さんの事務所に行こうと思っています。そのためにここにくる前に向井さんのところに寄って美波さんの写真も借りてきましたし、冴子さんにも電話を入れて行くことを伝えてあります」
 もう、すべて完了しているのだ。
 翔太の本領発揮だ。

 裕三と翔太はヤクザ映画に出てくるような山城組の古い和風の事務所に入り、さんしゅう の土間を歩いて隅にある応接コーナーの長椅子に腰をおろした。
 二人の前には冴子が笑いながら座っている。
 なりみやが盆の上にお茶をのせてやってきて三人の前に置き、一礼して戻っていった。
「話は翔太君から大体うかがいました。でも昭和の看板娘の復活って、面白そうですね。私もできる限りのことはさせてもらいますけど、その美波さんというお嬢さんを仕込む時間はどれぐらいあるんですか」
 単刀直入に訊いてきた。
「そうですね。あまり長くても双方共に大変でしょうから、毎日一時間として十日ほどというところですか」
 裕三がこう答えると、
「じゃあ、ひとつですね。それ以上覚えるのはちょっと無理ですから」
 うなずきながら冴子はいった。
「ひとつだけで、看板娘になれるんですか」
「充分ですよ。女性の最大の武器は笑顔。そのとっておきの笑顔さえ身につければ、充分に看板娘になれるはずです」
「やっぱり、笑顔ですか」
 翔太が納得したような声をあげると、ふいに冴子の顔がくしゃりと崩れた。
 それから冴子は、顔中で笑った。そう、顔中で笑ったのだ。目も鼻も口も、そしてまゆも唇のしわも産毛までも。冴子の顔のすべてが笑っていた。可愛かった。いとしかった。胸が躍った。冴子の周囲の空気までが笑っていた。そんな気がした。
 裕三は大きな吐息をもらした。
「いつもながら、みごとですね」
 本当にそう思った。
「これさえ会得すれば、確実に看板娘にはなれるはずです」
 冴子の顔から笑いは消えていた。いつもの素直な顔に戻っていた。
「あのう……」
 それまでぜんとした顔で冴子を見つめていた翔太が、遠慮ぎみに声をかけた。
「相手の女性の顔写真です。この人でも大丈夫ですか」
 ポケットから美波の写真を出して、テーブルの上に置いた。冴子は美波の写真をちらっと眺めて、
「顔なんて、どうでもいいんです。女の子が本物の笑顔を浮べれば、男はみんな可愛いと心を打たれるはずです。世の中の女性の顔は、すべてそういうようにできているんです。ほとんどの女性が気がついてないだけで」
「あのう」
 と、また翔太が遠慮ぎみな声をあげた。
「すごく失礼ないい方ですけど、どんな不細工な子でも本物の笑顔を浮べれば、可愛くなれるということなんですか」
 すぐに冴子が反応した。
「芸能界を見渡してみれば、そんな子はけっこういます。かんぺきでないにしても、そういった笑顔を浮べて可愛い子の仲間入りをしている子が」
 胸を張って冴子は答えた。
「コツは顔中のすべてで、笑うことなんですか」
「顔中だけではなく体中もです。ただし、体のほうは控えめにしないと芝居臭くなってしまいます。体中で控えめに笑って雰囲気をつくり、顔中で笑って可愛らしさをつくるんです。すると相乗効果でそこに華が生まれ、全体が輝いて見えるはずです」
「華ですか――」
 ぽつりと裕三は口に出した。
「華は生命力であり、生きている証しであり、心の叫びであり――つきつめていえば、赤ちゃんの可愛さそのものです」
 訳のわからないことを冴子はいった。
「その女性の笑顔なんですが、それは男性にも当てはまることなんだろうか」
 首をかしげながら裕三はいう。
「残念ながら笑顔は女性の特権で、男性には当てはまりません。男性の華は一心不乱に何かに打ちこんでいるとき。それが一番輝くときだと私は教わっています」
 冴子がまた笑った。
 気持のいい顔だった。
 やっぱり、華があった。

 それから三十分ほど話をして、裕三と翔太は山城組を後にした。
「すごい人ですね、冴子さんという女性は」
 肩を並べて歩きながら翔太がいった。
「確かにすごい。源ジイもすごいが、冴子さんもすごい。二人共、神がかっているから、理解のしようがないが、それが現実だから何の文句もない」
 笑いながら裕三はいう。
「でも、美波さんに会うとき。一緒にきてくれることを承諾してくれたので、ほっとしています」
 論より証拠ということで、美波の前でその笑顔を見せてやってくれませんかという翔太の頼みを、冴子は快く引き受けてくれたのだ。
「そうだな、あの笑顔を見れば美波ちゃんも看板娘になれることをリアルに実感するだろうから、余計な嘘八百は並べなくてすむな」
 ほっとしたように裕三はいってから、
「それよりもまず、美波ちゃんが向井理髪店の跡を継ぐことを承諾してくれなければ話にならないが、そのあたりは大丈夫なんだろうか、翔太君」
 心配そうな面持ちを浮べた。
「それは大丈夫だと思います。美波さんは家の仕事に、まだ愛着を持っているはずですから。その証拠に、例の店のなかに飾ってあるはいきょの絵ですけど。あの廃墟、よく見ると周りの草に隠れるように理髪店の印でもある青と赤と白の三色ポールが描かれていますよ。恥ずかしそうに、ほんのちょっとだけ頭をのぞかせて」
 少し得意そうに翔太はいった。
「すごいな翔太君も――そんな細かいところまできちんと見てるなんて。そうか、美波ちゃんは三色ポールを描いていたか。しかも、恥ずかしそうに。それならまあ、何とかなるか」
 ほっとした表情でいう裕三に、
「あとは、嘘八百を並べたてて美波ちゃんをおだてあげれば、この件は丸く収まって落着です」
 うれしそうに翔太はいった。
「やっぱり、嘘八百は並べたてるのか」
「並べたてますよ。跡を継いでくれなければ話になりませんから」
 当然だというように翔太はうなずく。
「例のあの、地下アイドルの件も実行するのか、詐欺まがいの」
 恐る恐る裕三が口に出すと、
「あれはやめます。そこまでやらなくても、 勝算は見えてきましたから」
 きっぱりとした調子で翔太はいった。
「そうか、それを聞いて安心したよ。実のところ、手が後ろに回るのはかなり抵抗があったから」
 裕三は大きく伸びをして息を吸いこんだ。
 空気は冷たかったが、気分はよかった。
「あの、冴子さんの特別の笑顔を見て、美波ちゃんはいったいどんな顔をするんだろうな。俺はそれが楽しみでな」
「僕だって楽しみですよ。がらりと雰囲気が変って、可愛らしさ抜群になるんですから。きっと呆気にとられて、物もいえない状態になりますよ」
「そうだな、何たって華だからな」
 高い声を裕三があげると、
「結局、あの冴子さんのいう華って何なんでしょうね」
 翔太が頭を大きく振った。
「華は華さ――それ以外の何者でもないさ」
 ぽつりと答えて裕三は視線を上げた。
 れいな夕焼けが一杯に広がっていた。(つづく)