第二章    過 去




      1




 たかあきは、の目を見詰めながら返事を待った。
「分かりました」
 と八恵はスマホを取り出し、父親に夕方からのしんりょうを休みたいと連絡を入れた。
「先生、すみません。私のために……」
 孝昭は電話を切る八恵を待って頭を下げた。
「いいんです。徐々に手伝うひんを下げていかないと、と思っていたので」
 入れ替わりに勤務する歯科医師が決まっていて、その人も娘がうろうろするとやりづらいだろうから、と八恵が微笑を浮かべた。
 孝昭は礼を言って、窓を開けたままの状態でエアコンのスイッチを入れた。
 防音のかべざいがないからか大きく聞こえるどうおんとともに、ほこりとカビの臭いが吹き出した。臭いが気にならなくなるまで待って、静かに窓を閉じた。
 じょうどおりを走る車の音やけんそうが消えると、孝昭のせきばらいが風呂場にいるようにだまする。
 窓際からパイプ椅子へ戻るわずかな間にも、やはり事件のことをこうがいしていいものか、孝昭はしゅんじゅんした。今は一人ではえられない。その気持ちが言わせたごういんな要求だったけれど、彼女と少しでも長く一緒にいたいのは本心だ。そばにいてくれるだけで気丈夫だというのもあるが、何もかもぶちまけてしまいたいしょうどうられてもいた。
 だが、それが八恵なら受け止めてくれるという甘えだとすれば、彼女にとってこれほど迷惑な話はない。男としても情けないではないか。
もとみや先生、電話で何と?」
 座ってから黙っている孝昭に、八恵が優しい口調で聞いてきた。
 く言葉が出てこない。
「お姉さんがどうかされたんですね」
 八恵の質問に、孝昭は何度もうなずき、
「その前に、さっきは八恵さんだなんて気安く呼んで、すみませんでした」
「いいんですよ、そんなこと。それより話してください」
「大変なことになってしまった……」
 と言うとすぐ、深呼吸した。
 事件にれざるを得ない、と覚悟を決めた。八恵の人柄を信じるしかない。
「私はおくびょうものです。男のくせに怖がりです」
「強がるだけの男性は好きじゃない。だから話してください」
 八恵が孝昭の目をじっと見た。
 孝昭はさっきよりも大きな深呼吸をする。
「先月のことです。五月七日によし神社でテレビのコメンテーターなんかをやってるしまざき弁護士が、かぐおかしゃの石段から転落死しました」
「その事故、新聞や週刊誌で騒いでますね。事故死なのかどうかって」
「今から言うことは、おおやけになっていないことなんですけど」
「えっ、分かりました。私、絶対にごんしません」
 八恵は、孝昭のを理解してくれたようだ。
「事故死ではない、と判断できるものが残されていたんです」
「事故でないとすれば……」
 八恵が口をつぐんだのが分かった。
「現場に残されていたのは」
 孝昭は桜をかたどったへんだったと言った。
「その紙に……優秀と書いて、しゅいろで丸がつけられていたんです」
 孝昭は横を向き窓を見た。八恵の顔を見るのが怖かったのだ。何も言わない八重が気を悪くしたのかと、彼女のほうを向くと目が合った。
「それがさっき話してた優秀のメダルのことなんですね」
「そう、です」
 事故の記事が掲載された新聞が、ともの病状を悪化させたきっかけではとの仮説から、本宮医師はおうしんかたわら事件の調査にも乗り出してくれた。そして新聞記者を通じて、現場に残された紙片に友美のもんがあるかを調べたのだ、と孝昭は説明した。
 エアコンがいているはずなのに、汗がき出す感覚が背中にあった。
「それは心配ですね」
 彼女にあわてる様子はない。
「八恵先生は驚かないんですか」
「驚きました。でもそれより、ぼりさんのお姉さんが事件に巻き込まれているのが気の毒だと思って」
「いや、先生、巻き込まれたんじゃなくて……」
 姉の犯行かもしれないのだ、と言おうとした言葉を、八恵がさえぎるように、
「本宮先生からの電話では、現場のものと、お姉さんがずっと保存していたものが一致したってことですか」
 と尋ねてきた。
「結果は言ってくれませんでした。今晩九時にクリニックで会ってから話すと」
「お姉さんの指紋があったら、現場にいたことが証明されるということですね」
 八恵は手に目をやる。自分の指紋を確認しているようだった。
「もうのがれようがありません。姉の指紋がなかったのなら、本宮先生は電話でそう言うはずです。何も会って話すことはない」
 ぎゃくてきな笑いをらしてしまった。とことん追い詰められると、泣き笑いのようなこっけいなことをやる。姉のことで交際相手と別れたとき、シャワーを浴びながらそんな顔つきの自分が鏡に映っていた。おそらくそのときと同じ顔をしているだろう。
 孝昭は天井を見た。これ以上八恵に情けない顔をさらしたくない。
「殺人現場に落ちていた桜型の紙、優秀メダルにお姉さんの指紋が残っていたとします。確かにお姉さんがその紙片に触れたのかもしれません。けれど、殺人を犯したと決めつけるのは、どうなんでしょうね」
 八恵は妙におだやかに話す。そのあまりの緊張感のなさにひょうけし、
「……どういうことです?」
 と孝昭は顔を突き出した。
「お姉さんと、亡くなった弁護士の島崎さんとは知り合いだったんですか」
「分かりません。島崎さんは神戸の人で、姉はおおから出ていませんし。勉強を教わったことはなかったと思うんですが、桜型の紙は確かに、姉のゴミ箱にありました」
「同じ紙を持ってたのに接点が分からない。ちょっと待ってください、島崎さんのプロフィールを見てみますね」
 八恵はスマホで検索し、
「島崎やすかず、四十四歳。神戸市生まれ、京都市在住。弁護士、K大法学部教授、テレビコメンテーター。小学四年生のときに両親が離婚し、新聞配達などで母親を助け、神戸大学在学中は昼夜を問わず数種のアルバイトをこなした。そんな多忙な中でも日本けんぽう部に所属し、文武両道にいそしむ。大学院生時代、二十七歳で司法試験に合格。大学の講師時代にはすでに先輩弁護士と共同で、法律事務所を開設。苦労する母親を助けてくれた弁護士にあこがれてみずからの進路を決めたという島崎氏は、弱者への支援の気持ちが人一倍強く、路上生活者や難病の子供の学習支援、犯罪被害者などの支援活動に参加していた。ことに性犯罪加害者へのげんばつ論は専門家から批判を浴びたもののマスコミ受けし、多くの番組のコメンテーターをつとめる」
 と声を出して読んだ。そしてスマホから目を離して言った。
「お姉さんはお幾つでした?」
「三十五歳です」
「島崎さんとは九つちがい。古堀さんが、ゴミ箱に捨てた桜型の紙を確認したのはお姉さんが……?」
 八恵が少し顔をかたむけていた。
「十五です」
「島崎さんは二十四歳、たぶん院生だから、大津の女子中学生との接点、普通はないですね。次に事件の当日の接点を考えましょうか」
「事件の夜のことは分からないんです」
 先日本宮医師からも訊かれ、いろいろ思い出していたのだが、ゴールデンウィーク直後は遅い帰宅が続いていたようだった。
「夜といっても何時頃だったのかしら」
「それもはっきりしていないみたいです。たいが発見されたのは翌朝だったから」
 新聞には死後数時間としか書いていない。
「島崎さんが神社に行った時間も分からないということですね」
「そういうことになります」
「現場は、お姉さんのよく知る場所ですか」
「散歩コースでした」
「島崎さんも知っている場所なんですよね?」
「報道では、外出前に誰かから電話があったと」
「はじめ転落事故とされていたのは、どうしてです?」
 八恵は、まるで歯科もんしんのようにすらすらと質問してきた。
 深刻にならずくったくのない八恵の質問に答えているうちに、あんたんたる気持ちがやわらいでいくのを感じていた。その理由は分かっている。会ったこともないのに友美を信じていると思えたからだ。
「その神楽岡社は石段を上っていったところにほこらがあるんです。急な石段で、その下で島崎さんが倒れていたためです。ちょっと前に本宮先生が現場を見ておきたいとおっしゃったんで、ご一緒しました。そのときも上から確認したんですけど、石段の途中で足を踏み外したくらいじゃあで済むかもしれませんが、一番上から転落すれば……」
「死んでしまう。それで当初は事故死だと思われたのが分かりました」
「本宮先生は、殺意はなかったんじゃないかと」
 もし桜型の紙片を持参し、殺害目的で島崎を呼び出したとすれば、持参した紙片を回収しなかったことが不自然だ、と言う本宮医師の見立てを孝昭は口にした。
「電話で呼び出したのがお姉さんだとします。何年も連絡をとっていなかったら、自分だって分かってもらえるかどうか心配ですよ。だって声だけですから。何か確実に分かるちょうでもないと」
 夜に誘うのならなおさらだ、と言ってから、
「それが桜型の紙なのかしら」
 と付け加えた。
「電話でそれを、伝えたとおっしゃるんですか」
「そこなんです。実は私も臆病なところがあって、どうも電話が苦手なんです。これは父にしか言ってないんだけど、長年の悩みで。そのことを本宮先生に相談しようかなと思ってた」
「先生が? そんな風にはとても」
「顔を見ないで話すと、相手の話し方に神経質になって」
 ちょっとしたの変化、アクセントのちがいが気になって、話に集中できなくなるのだそうだ。
「二倍も、三倍も疲れちゃう。だから何でもメールで済ませてしまうんです。私は苦手意識が強いんですけど、多かれ少なかれ初めての番号に電話するのって、緊張するんじゃないでしょうか。もし、島崎さんと会うとなれば、それなりにおんみつ行動をとらないとなりませんから、余計に」
 友美の気持ちの負担が大きくなっていたはずだ、と説明して八恵は続けた。
「五月の七日より前、お姉さんの行動で変わったことはなかったですか。そう、例えばあなたの行動を気にするような、探るような」
「姉が私をですか……そんな風に考えたことがなかったんで」
「あなたのスケジュールを、お姉さんに伝えてました?」
「遅くなるときは出勤する前に言ってました。でも事前に分かるときだけで、外回りは相手先次第ですんで、時間のゆうずうがきかないから」
「となると、殺人の計画は難しいですよ。やっぱり何かの拍子の事故じゃないかしら。それにしたって古堀さんの目を盗んで電話して、神社にまで行かないといけない。相当なプレッシャーですね」
 事前におかしな行動が見られたはずだ、と八恵は強く主張した。
 孝昭はしばらく考えたが思い当たることがない。事件翌日からの友美の行動ばかりに気がとられていた。
「思いつかないですね」
 孝昭はうなった。
「そうですか。暮らしの中で普段しないようなことをしたとか、ないですか」
「そう言えば、ケーキ」
「ケーキ?」
 八恵がまぶたをパチパチさせた。
「姉はお菓子が好きで、近所のコンビニで買ってくることがあるんです。確かゴールデンウィーク明けに、どこだったか有名な店のシフォンケーキを買ってきたんです」
 孝昭は本宮医師に送ったメールをスマホでチェックした。
「ありました。『五月に入ってから、またふさぎ込み出し、よくうなされるようになりました。ゴールデンウィーク開け、姉がシフォンケーキを買ってきていて〈有名店のだから美味しいよ〉というメモがテーブルにありました。一緒に食べようと言いましたが、姉は部屋から出てきませんでした』。間違いないです」
「どこのお店か分かりますか」
「いえ、店名までは。でもそんなことが、変わったことになりますか」
「普段行かない場所に行くのには、何か理由があると私は思います。本宮先生なら、その何かに気づかれるかも」
 八恵は腕時計を見た。
「古堀さん、もう時間が」
 慌てて孝昭も時間を確かめた。午後八時半になっていた。
「食事もせずに、お付き合いさせてしまって。本当にすみませんでした」
 椅子から立って、深々とお辞儀した。
「いえ、お役に立てたかどうか。古堀さん、さっき臆病者だと言いましたよね。でも私に話したくないことまで話してくれました。その決心、勇気のいることだわ。勇気のある人を私は臆病とは思いませんから」
「八恵先生、ありがとうございます」
「あの、先生はやめてください。さっきみたいに八恵でいいです」
 八恵も立ち上がり、
「きっと大丈夫ですよ」
 と右手を差し出す。
 孝昭は握手した。
 八恵は柔らかな手で、しかし力強く握ってきた。




      2




つらい報告になりましたね」
 午後八時過ぎ、クリニックの診察室に姿を見せたみつが、けいろうの顔を見るなり言った。
「ええ、古堀さんもさっしたでしょうし」
 慶太郎は苦笑した。
「結果を告げないことで、指紋が付着していたと言っているようなもんですものね」
「お忙しいのに無理を言いました」
 慶太郎はソファーに腰掛けるよううながし、
「電話で伝えて、そのまま帰宅させたら事態がさらに悪化しそうに思ったんで、こくでしょうがいたし方なかった」
 と自分もテーブルに着いた。
「こっちは、びっくりしたかんしき係官が説明しろとうるさくて、今は言えないと逃げるのが精一杯でした」
 光田は、慶太郎から受け取ったポリ袋を知り合いの係官に渡し、桜型の紙片に残されたいくつかの指紋との照合を頼んだ。その際には、島崎氏に近い人物のものだとしか告げなかった。そして、親指の指紋が九十八パーセント符合するとの結果が出た瞬間、係官の顔色が変わったという。
「結果によっては、たとえニュースソースであっても包み隠さず話すというのが、指紋しょうごうの条件だったんでね」
 長い付き合いだが、あんなに興奮した鑑識係官を見たのは初めてだったらしい。それだけ捜査があんしょうに乗り上げていて、そうした捜査課の空気は鑑識課にもなんとなく伝わっていたにちがいない、と話す光田の視線も熱をびている。
 スクープを目の前にして、おあずけ状態でとどまってくれている光田に感謝すべきなのかもしれない。
「第一級の証拠ということですね」
「島崎氏のほうの、考えられる関係者指紋はすべて調べてるって言ってましたし、私の持ち込んだ指紋の主こそ、当然ながら最重要参考人ということになります」
「大学の方々の指紋も?」
「学部の先生から事務職、可哀想に法学部専攻の学生たちまで指紋をさいしゅされたようです」
 取材したから間違いないと光田は手帳を手にし、
「そうだ、事件当夜に電話を受けた事務職員の話も聞けたんです。このところ警察関係者も冷たい態度でしたし、学内ではかんこうれいがしかれたみたいで、苦労しましたよ」
 とページった。取材者の文言を伝えるときは正確を期するのを基本にしているのだそうだ。
〈女性からの電話は午後七時半頃にありました。広報課から島崎研究室に回されてきたんですけれど、様子がおかしくて。島崎先生はいらっしゃるかという声が、の鳴くようでして。広報課からの連絡はいつもテレビ局関係からで、もっとハキハキしてるんです。すると、しゅうの件でどうしても話があると言ってもらえれば分かりますと言うんです。せっまった感じが伝わってきて、学籍番号と氏名も聞かず先生に取り次ぎました。こんなことになるなんて思ってもなかったから〉
「この研究室の女性も、卒論でゼミの先生に泣き付いた経験があったそうで、同情して取り次いだけれど、それが間違いだったと落ち込んでました。彼女が妙に思ったのは島崎さんの反応だったようです。〈学生からの電話にはほとんど出ないので、無理だろうと思いながら先生の部屋に行き、女子学生が補習の件でどうしても話があると言ってきてますが、とお伝えしました。そしたら補習、とあんがおで何度も繰り返して、うん分かった、こっちに回してと〉。普段は休講のこうすらやらないらしく、ましてや学生からの補習に応じるなんて考えられないんだそうです」
「それなら、変に思っても不思議じゃないですね。彼女の証言からすると『補習』という言葉が島崎さんの興味を引いたようだ」
「符丁ですかね。古堀さんとの合言葉みたいな」
「いや、それなら思案顔で何度も繰り返したのがせません。あらかじめ示し合わせた符丁なら、周りに違和感を与えるようなことはしないでしょう。理解するまでのほんの少し間があったのは、思い出すのに必要な時間だった」
「やっぱり、過去からやってきた女性?」
 光田は軽くしたくちびるんだ。
「それが友美さんだったと指紋が言っています。だけど、どうしても接点の問題が残ります。にんで調べられる際、そこを中心に質問されるでしょう。それを僕はでもけたいんです」
 補習という言葉と、桜型の紙に書かれた優秀と朱色の丸は、一連の記憶だと想像できる。そしてそれが二十年の時間を越えて、二人を動かす力を持っていた。精神の深い部分でくすぶり続けたトラウマである可能性が高い。
 傷を負った時代、場所、出来事への回帰は、精神科医でも慎重を要するのだ。刑事の事情ちょうしゅや取り調べでの強引なかいが、精神を破壊することもあるからだ。
「これからどうされるおつもりです」
「まずは弟さんをコントロールしないといけない」
「どうすればいいんですか」
 光田が時計を気にした。三十分ほどで九時になる。
「光田さんから指紋ががっしたことを話してください。僕も古堀さんとはじめて聞いたようによそおいます」
「先生も知らないんですね」
「そうです。光田さんが誰にも話さず、一番に僕たちに伝えた印象を与えたい。それで光田さんを信頼のおける人間、つまり味方だと感じてもらいたいんです」
「私も味方……」
 光田のまゆが動いた。
 彼は記者という職業が、常に良心的ではない側面を持っていることを分かっている。慶太郎の思う正義と、記者のごうとのはざで光田も闘っていると感じた。
「光田さん、この指紋の検出によって、殺意の有無にかかわらず古堀友美さんが島崎さんの死に関与していることは明らかとなりました。しかし僕は友美さんの主治医として、逮捕、こうりゅうは避けたい」
 慶太郎は力を込めて言った。
「まさか先生……」
 眼鏡越しでも、光田の目が鋭くなったのが分かった。
「お察しの通り、弁護士を通じてしんしんこうじゃく、場合によっては精神しっかんを強調して心神そうしつを主張しようと考えてます」
「それには反対です」
 すぐさま光田が声を張りあげた。
「そう言うだろうと思って、事前に来てもらったんです」
「どうあれ、人が亡くなっているんです。友美さんが島崎さんの命をうばったのなら、それ相当のつぐないをすべきだ。現状の法律でさばかれ、刑にふくすしかありません。島崎さんには奥さんも娘さんもいるんですよ、先生」
 光田は一気にしゃべった。
「もちろん分かっています。奥さんやお子さんのねんを考えれば、僕も胸が痛い。その方たちの心も絶対に壊してはならないから」
 光田は腰掛けたまま、にじり出て、
じゅんしてます。むろん罰をしても被害者の気持ちが晴れるわけではないかもしれない。なのに刑法三十九条で逃げられたら、ふんりどころがないじゃないですか」
 と言うと、視線をらし誰に言うでもなくつぶやいた。
「正義は、どこにいくんですか」
 小声だったけれど、ずしりと胸に響いた。
「相手は、男性で体格で勝り、格闘技の経験者です。明らかに女性に不利だ。いくらかん防止スプレーがあっても。ものや他の凶器なら殺意があると認めますが」
 現場を見たでしょう、と慶太郎は訊いた。
「ええ、何度も」
「僕も実際に現場の石段を見て、危険な高さだと思いました。しかしそれは、双方ともの危なさに変わりありません。となると、やっぱり体格差などを考えて、返り討ちにあう確率のほうが高くなる。呼び出したのがどちらであれ、様々な偶然によって起こった出来事だった。つまりは事故だったと僕は解釈したい。もっと言えば、正当防衛の可能性だってある」
「正当防衛、いいじゃないですか。そうお考えなら、それは裁判で争えばいい。何も刑法三十九条なんて持ち出さなくても」
 が語尾を強めた。
 光田が「刑法三十九条」にアレルギー反応を示すのは、社会正義を担う新聞記者として当然だろう。
 慶太郎とても、同じ思いだった。
 まだ病院勤めをしていたとき、殺人犯の責任能力の有無をみる起訴前かんていで、先輩の精神科医を手伝ったことがある。犯人は女子大学生で「ただ人が死ぬところを見たかった」という理由で、アパートの大家の妻の頭部をかなづちおうし殺害した上に、浴室で解剖までしようとしていた。
 頭部MRIやスペクトという脳の血流量測定など、医学的検査では異常は認められなかったけれど、かい体験尺度において解性同害を疑うスケールを示した。
 また面接の最中に、七歳のモモ、成人男性のゆう、十五歳のホモセクシャルが姿を現した。さらに両親への手紙に殺害した相手のことを「一人暮らしにれない自分を気遣い、娘のように何かと世話を焼いてくれている」と書き、友人にも「いい人で、第二のお母さんのようだ」とらしていたとの捜査資料から、解離性同一性障害と診断し、犯行時の人格においては、心神喪失状態、すなわち当人が認識、あるいはせいぎょすることはできなかったことをもってべんしき能力(責任能力)なしと先輩医師は結論づけた。
 慶太郎は先輩医師の断定にしょうふくできなかった。なぜならしゃがあまりに器用に人格を変化させた点と、実家に送りつけていた段ボールの中に解離性同一性障害を扱った小説があった点が引っかかったからだ。
 慶太郎はびょうの可能性を主張したが、聞き入れられず鑑定書は提出された。しかし検察側が求めた精神鑑定で、詐病がばくされたためこうはんが始まった。
 慶太郎の判断が正しかった。そう思っていたある日、公判中の被告人のげんどうがおかしく、まともに意思つうはかれないとの理由で、再び鑑定入院の後に入院となったのだ。
 負けしみではなく、いまだに被告人の詐病を慶太郎は疑っている。もし詐病なら、多重の人格を生み出した原因だと被告人自らが話した、父親によるたびかさなるぎゃくたいも事実かどうか分からない。家族面接で、そんなことしてません、と涙ながらに訴えた父と母の顔も瞼に焼き付いている。精神鑑定は周辺の人々を巻き込むがゆえに、慎重をさねばならない、と慶太郎はきもめいじてきた。
「光田さん、僕だって本当は辛いんです」
                       〈つづく〉