第一章(承前)




      13(承前)




「先生は、それを確かめたかったんですか」
 けいろうの横に並んで、たかあきも下をのぞく。
 しゃしょのほうがにぎやかになってきているのが、人の流れで分かる。
「加害者の気持ちになって考えてみたんです。殺害するのが目的でここに呼び出したのだろうか、とね」
 慶太郎は、加害者が「とどめ」を刺さなかったことへの疑問を孝昭に話した。みつとのやり取り以降、心の中にわだかまっていたことだ。りきな女性がかんげき退たい用のスプレーを使い、この石段から突き落とした。もし被害者がまだ生きていたとしたら、すぐに自分のわざだと分かる。罪をまぬかれたければ、必ずせいを確かめるはずだ。
 しかし、犯人にとってめいてきな証拠を残したのは、転落後の被害者にれなかったからだとしか思えない。
「石段の下に倒れたしまざきさんを見てどうてんし、いちもくさんに逃げた。島崎さんに対してさつはなかった」
 慶太郎はすいを語った。
「……姉が呼び出した。いったい何の目的で……」
 と孝昭はほおを引きつらせた。
「お姉さん、夜に外出されることはありますか」
 気持ちがたかぶっているのが分かったので、それをちんせいさせるために、あえて質問をする。
「コンビニくらいは、一人でも行けるようになっていました」
「一人で買い物に行けていたんですから、あの夜も外出していたかもしれないですね」
「好きなお菓子を買うために、電車に乗って出かけたこともあります。私も仕事で遅くなることもたびたびだし、監視してるわけじゃないですから」
「ではお姉さんが、あなたに知られずに、島崎さんをここに呼び出すことは可能だ」
「私に隠れて、姉があのへんを持って、ここに来た」
 孝昭は、後ろのほこらを振り返り、そのまま続ける。
「そして、島崎さんの顔にスプレーをふんしゃし、突き落とした」
 と、石段ギリギリのところまで踏み出し、前のめりになった。
「十分、考えられることです。ところで、ぼりさん。どうして島崎さんは、こんなところまでやってきたんでしょう?」
「それは、呼び出す際に、桜型の紙片のことを持ち出されたからですか」
「そうでしょうね。お姉さんの目的はそれを島崎さんに渡すことだった。そう考えると彼には、桜型の紙片そのものが大きなネックだったということになる。それを分かっていて、お姉さんは呼び出した。殺意がなかったとは言いきれなくなる」
「先生、そんな」
 孝昭が悲しい声をあげた。
「ただし、証拠になるようなものを持ち帰らなかった事実が、必ずしも不利に働くとは限りません」
 ファミレスでもげんきゅうしたようにしんしんこうじゃくぼうしょうになる、と孝昭をなぐさめた。
「やっぱり姉が……ここに呼び出して人を……」
 孝昭のつぶやきを聞きながら、ともがこの場所を選んだということに何か引っかかりを覚えた。いくらスプレーを持っていたからといって、女性が指定するには危なすぎる。紙片が島崎のネックであるならばなおさらだ。
「人が増えてきましたね」
 慶太郎が石段下に目を向けた。
 若者たちがうれしげに石段の下にたむろし、手にしたスマホを現場に向け出した。その数が徐々に増えてくる。友美が人混みを嫌って散歩に選んだ場所だけれど、今はそうではないらしい。
 二人は、うまの勢いが収まりそうにないのを見て、他の場所に移動することにした。ひとがきうように石段を下り、来た道を神社の駐車場まで戻る。
「いったい何なんですかね。人が亡くなった場所をるなんて」
 とりの前まで来たとき、孝昭がかいそうに言った。
「あのはしゃぎようは、不気味でさえありますね。まるでパワースポットでもあるかのようだ」
「こっちは気が気じゃないっていうのに」
 孝昭が鳥居を見上げる。
「あそこにいた人たちにざいあくかんがないとは思いたくないですがね。自分一人なら気持ち悪くてけたい場所なのに、集団心理が手伝って素直にほんを出せず、友達に合わせて平気をよそおっているんだろうと。ただ現代人のしょうにんよっきゅうがとても強くなっているのは感じます。人から認められず、フラストレーションがたまっているんでしょう」
「そんなの、みんなたまってますよ」
 孝昭が地面に向かって言葉をいた。
「確かに、承認欲求は誰にでもありますから」
「人が死んだ場所の写真で欲求が満たせるんですか」
「ありきたりの石段下の写真であっても、テレビで有名な弁護士が転落死した現場だと言えば、すごいじゃないか、と思ってもらえる。それをSNSにアップすれば、中には『いいね!』をつける者がいますから、承認欲求を満たせるようですよ。ですが、手っ取り早く欲求が満たされると、充足感も持続しないものです。そのうちもっと刺激的なものでしか満足しなくなる。何事においてもたいせいができるんです、人間は。いっぱいめられないと、だんだん味気なくなっていきます。そうなると撮るものも過激にならざるを得ない」
「………」
「念を押しておきます。僕は、古堀さん姉弟のサポーターです、ずっと」
 これに孝昭は応えず、何もしゃべらなくなった。家に帰って友美の顔を見るのがつらいのだろう。
 重い足取りにさせてしまったのは気の毒だが、それは慶太郎のもくみの一つでもあった。友美のもんけんしゅつされれば、残念ながら殺意のにんていにつながるであろうことが現場を見て実感できた。殺人事件のしゃとしてたいされるきょくめんがやってきたとき、友美以上に孝昭の精神がもたない。そうなる前にさっき言った耐性を付けておきたかったのだ。
 自宅への道すがら沈黙しているのは、迫りくる友美逮捕の恐怖をひしひしと感じているからだろう。そのときの友美のようだいの心配もあるが、殺人容疑で逮捕された姉をもつ弟の立場、そして両親の驚きと悲しみなどが彼のきょうちゅううずいているはずだ。それらはおうおうにして、最悪をそうていする。そこを見せることが耐性につながってほしい。
 一旦引いていた汗が、再びくびすじあたりを湿しめらせてきたとき、アパートの前の駐車スペースにある軽自動車が見えてきた。
「指紋の結果は、真っ先にお知らせします。そのとき、たいしょほうを考えましょう。いま古堀さんが心配しているようなことにならないよう、あらゆる努力をするつもりです。だから、難しいかもしれないですが、いつも通りの生活を心がけてください」
「やってみます」
 孝昭は、しぼり出すように言った。




      14




「どうしたんです」
 の声が耳元で聞こえた。孝昭は自分が、き出しのコンクリート壁の前に突っ立っているのに気づいた。
「あ、先生、すみません」
「とても疲れていらっしゃるみたいですね」
「いえ、気の早い夏バテみたいなもんです。このところ暑いし、湿しっは多いし」
 もとみや医師とかぐおかしゃの石段を上ってから二日間、ほとんど眠れていない。うつらうつらしたと思うと、夢に友美が人をあやめる場面や刑務所に入っている姿が出てきて、飛び起きてしまうのだ。それからはもんもんとし、何度もがえりを打っているうちに朝を迎える。頭痛と吐き気をこらえながら、出社していた。有給をとって眠りたいけれど、今は、ひとときでも友美といたくなかった。
 幸いなことに、本宮医師の見立て通り友美は落ち着いている。必要最小限の言葉しか交わさず、閉じこもっている部屋からは、断続的にニードルをようもうに突き立てる音が聞こえ、夜中は二、三度せいを発しているが、ほっを起こしている様子はない。
「それにしてはしんどそうだし、顔色だって悪いですよ。ちょっときゅうけいしません?」
「はい」
 孝昭は壁から離れ、不動産仲介業者が用意しているパイプを二脚まどぎわに置いた。部屋に入る前に買っておいたペットボトルのお茶を手にすると、
「先生もどうぞ」
 とすすめた。
「ありがとう」
 八恵が椅子に腰掛けるのを待って孝昭も座り、上着をぐと背もたれにかけた。
「ここはほぼ正方形で、前見た物件よりリフォームしやすいですよ。それほどこうはかからないと思います」
 茶を飲んで、孝昭が部屋を見渡す。
 八恵が迷っている二つ目の物件のリフォーム計画を立てていた。
 京都駅から地下鉄で一駅のじょう駅で下り、地上出口から二、三分の商業ビルの二階だ。元はせん関係の会社の事務所だったそうだ。そこを美容院が借りようとリフォームしていた最中にとんし、中途半端な状態でほうされていた。
「本当に、どうしたんですか。目もじゅうけつしてますよ」
「そんなにひどい顔ですか」
 孝昭は冗談めかして言いながら、両手で顔をさする。八恵は笑わなかった。
「どこか悪いんですか」
「いえ、ちがいます。実は姉のことで、ちょっと」
 八恵には、シスターコンプレックスであることを知られているから、姉を出しても冷やかされることもなく、奇妙な目で見られることもない。
けんした?」
「そう、喧嘩です。それも大喧嘩」
 うそした。事件に触れるわけにはいかない。どのみち殺人犯の弟となれば、仕事を失い、八恵とも話す機会さえなくなってしまうだろう。せめて友美が逮捕されるまでは、仕事の上だけでも八恵と会っていたい。
「そうだったの。あらしが過ぎるまでしんぼうね」
 ようやく彼女の白いが見られた。
「辛抱するしかないですよね。どうも私は女の人の気持ちが分からないようです」
せいってあるから、しようがないわ。分からないことって、例えば?」
 八恵が大きな目で見詰めてきた。
「例えば……そう、よくできる子がごほうでもらったメダルを、ゴミ箱にポイって捨ててしまうとか」
 しまった。
 桜型の紙片に付いた指紋のことが頭から離れず、余計なことを口走った。
「メダルを?」
「いや、昔の話です。本物ではなく紙で作ったような」
「よくできましたって、先生がくれる花丸みたいなものね」
「そ、そういうものです」
 汗がき出し、孝昭は窓を全開にした。室内がし風呂状態だったために、生温い風でもすずしく感じる。
「私ももらったことありますよ。確か、まだとってあるんじゃないかな。母が何でも残してるから」
 賞状はもちろん、幼稚園の頃描いた絵から小学校時代の作文や工作、いま見るとせきめんするほど下手くそなものまで保管している、と八恵が苦笑した。
「先生は優秀だったんでしょうから、しゅうしゅうがあったんでしょう」
 ハンカチで汗をいて、椅子に戻る。
「とくに文章の下手さは逆に才能があるかもって思うくらいなんです。だから理科系科目を頑張って、算数の先生からたくさんの花丸をもらいました」
 八恵が、孝昭の話を聞いて思い出したと、なつかしげに言った。その教師が花丸を描いてくれたノートも残っているのだそうだ。
「ノートに花丸、はげみになるでしょう?」
「私は、ね」
「ということは、嬉しくない子もいたんですか」
「ええ。もちろんその子、成績はよかったんです。でも先生が嫌いで、あいしょうが悪かったんでしょうね」
「褒めてもらってるのに」
「そこが感情の生き物なんですね。嫌いだと、いくら褒められても嬉しくない。いえ、変に褒められるのを嫌がってました。その子、親が厳しかったから先生に反発して成績を落とすようなことはできなかったんで、私より花丸をもらってた。なのにノートを親に見せなかったんです」
 きちんとノートをとっているかを確認するために「見ました」と親から確認のサインをもらう宿題が、定期的に出るのだそうだ。
「じゃあ宿題を提出したことになりませんよね」
「だから自分で親の字をて、提出してた。そこまで嫌いだったのよ」
「理由はなんですか」
 嫌うのには、何か理由がある。
 友美が桜型の紙片を捨てたのも、くれた人間、つまり島崎を嫌っていたのかもしれない。いや、好きも嫌いも、それどころか二人の接点すら見当たらない。
「女の子特有の、ちょっかんみたいなものだった」
「これといった理由がなく、単なる印象で嫌いになっちゃうんですか」
「そうでもない。目がいやらしいからって」
 小学五年生ともなればせいびんかんになる。ことに八恵の友人はそうじゅくで、クラスの男児から女性的な体の変化をからかわれていた。そのせいもあって、その子も神経質になっていたのだそうだ。
「八恵さんはどうだったんですか」
「私はおくだったから」
 照れくさそうな表情をして、八恵は茶を口にした。
「いえ、そういう意味じゃなく、お友達にそそがれる目がいやらしいと思ったんですか」
「そういうことね。言われればやたらその子を当てたり、そばに寄って顔を覗き込んだりしてた気もする。それはその子がよくできるからだ、と思ってた。私がどんかんで、気にしてなかっただけかも」
 頬を赤らめてほほむ八恵は、歯科医師ではなくどうじょに戻っているようだった。
「嫌いな人から褒められても、嬉しくないんですね。私は褒められること自体が珍しい子供だったから、誰からでも単純に喜んでしまいますんで」
 それが、友美と自分の決定的な違いかもしれない。友美にとってゴミ箱の桜は、けんかたまりのようなものだった。一枚残らずまつしたい、という思いだったのではないか。
 もし現場に残されていた桜型の紙片が友美のものなら、そんなものをずっと保管していたことになる。
「あれ、どうしてこんな話になったのかしら。そうか、お姉さんとの喧嘩の原因の話からね。お姉さんがメダルを捨てたことで、めたんですか」
 八重歯を見せながら、聞いてきた。
「ええ、まあ。メダルの話は、大昔のことなんです。私がそれにわだかまりを残してて、それを持ち出したから悪いんです。でも先生の話を聞いて、嫌いな先生からもらったメダルだったのかもしれない、と思いました」
 孝昭はつじつまを合わせた。
「大昔って、いつ頃の話なんです?」
「私が小学四年生で、姉が中学……そんな昔のことを気にしてるなんて、やっぱりシスコンですね」
 孝昭は自分をあざけるように言った。
「そうじゃないんです」
 八恵はぴしゃりと言って、
「捨てたのはいつです? もらってすぐとか、ずいぶんってからとか」
 と真剣な目を向けてきた。
「よくは分かりません。でも、何枚も一緒に捨ててたから、少しめておいてから、ひと思いにゴミ箱行きとなったんじゃないですかね」
「貯まるまで、ある期間はとってあったのか」
 八恵が天井にあるくう調ちょうの吹き出し口を見上げる。
「エアコンいれましょうか。まだ生きてるはずなんで」
「えっ、ああいいんです。お姉さんは急に先生が嫌いになったんだなって思って。たぶん嬉しくて貯めていたんです。なのにある日、突然すべてを捨ててしまいたいしょうどうられたとしたら、きっと何かあったんですよ。可哀想だわ」
 友美の身になって考えてくれていたのだ。どこか本宮医師と共通する温かさを感じた。
「そのことが、ずっと古堀さんの心に残ってるのは、おさなごころに何かあると思ったからじゃないかしら。それに、これは私の想像なんだけど、本宮先生とお知り合いなのは、もしかしてお姉さんのことで相談をしているからではないですか」
「ど、どうしてそう思うんです?」
「古堀さんがお姉さんのことを話すとき、いつも……回りくどい言い方をされるんです。これは悪い意味じゃなく、気をつかってるというか、しんちょうな物言いになる気がして。割れ物にさわるような。つまりお姉さんは壊れてしまいそうな人なのかと」
 それとしんりょうないとが結びついた、と八恵は言った。
 本宮医師との共通点がもう一つ見えた。するどさだ。彼女をけむに巻くほどのりきりょうを、孝昭は持ち合わせていない。
「姉は、高校に入学してすぐ、うつ症にかかって、引きこもってました」
 九年前に突然家を出て、孝昭のアパートで同居することになったこと、ずいぶん改善していたのに四月頃に悪化して、営業先だった本宮心療内科クリニックの本宮医師に相談したことを話した。
「ただ、はっしょう当時もお医者にかかっていたんですが良くならなかったこともあって、病院嫌いになってて、本人にはカウンセリングだとげず、本宮先生におうしんしてもらってる状態です」
「そうだったんですか。それは大変ですね」
 八恵が声を低め、
「でも、当人がしんりょうだと分からず、カウンセリングってできるものなんですか。治りたいという気持ちが大事だって聞いたことがあります」
 と言った。
「可能なのかは分かりませんけど、しんになって話を聞き出そうとしてくださってます。そばで見ていて先生のしんには頭が下がりますよ」
 こうしている間にも、知人の新聞記者に情報を聞いているかもしれない。カウンセリングは時間制なのに、友美のために多くの時間をついやしてくれている。
「姉だけじゃなく、いつも私のこともづかってくれて……二人のサポーターだって言ってくれてます」
「古堀さん、いつも立ち会ってるんですよね」
「ええ、自宅ですから」
 質問のを八恵の目の中に探した。
 本宮医師と話すようになって、人の目を見ることが増えた。
「ケアラーって言葉があるそうなんですが、ご存知ですか」
「いえ、聞いたことないです。でも言葉の意味からすれば、ケアをする人のことですよね。ちがいます?」
「そうです。古堀さんも、お姉さんのケアラーだということになります」
「姉には介護は必要ありませんよ。そこまで悪くないです」
「そう言うと思いました」
 口元がほころんだ。八恵の広めのひたいにうっすら汗が光っている。
「え、ちがうんですか」
「父の手伝いで、高齢者とか障害者のケア施設に訪問治療したことがあって、そこで出会った方に聞いた話だと、ケアラーというのは心や体に調ちょうがある方を、しょうで世話をする人すべてをさす言葉だそうです。無償、つまり親兄弟、親戚、友人知人みんなケアラーなんですって。だから古堀さんも立派なケアラーです」
「なんかピンときませんね。どうしてもケアは、私なんかより大変なかいをイメージします」
 無償であることは確かだが、ひとくくりにされることにも違和感をいだく。毎日の介護でへいした人たちに申し訳ないとも思った。少なくとも友美は日常生活において自立してくれている。
「言葉については、それぞれ受け止め方があるでしょうけど、そのケアラーを支えるNPOがあるんだそうです。ケアされる人もケアする人もなまの人間なんですから、大切にしないとダメだというのがしゅで。でも古堀さんには、本宮先生がいらっしゃるから大丈夫ですね。たぶん往診は、お姉さんだけのためじゃないと思って」
「そういうことですか。私も、そう感じてます」
 無償であることがケアラーの条件ならば、孝昭にとって本宮医師はケアラーになる。それどころか、カウンセリング以外に事件の調査まで無償で取り組んでくれている。
「お目にかかりたい」
 八恵が、孝昭の顔からゆかに目を落とした。
 悲しげな顔に見え、孝昭はいた。
「心配事でもあるんですか。お父さんのこととか」
「いえ、何もないです。まあ私も人並みの悩みはありますけどね」
 と八恵は無理に笑ったように見えた。
 いつでも紹介します、と言おうとしてやめた。指紋の件がはっきりするまで、本宮医師の手をわずらわせたくない、という理屈からではない。いまえた本宮医師へのしっからだと孝昭ははっきりと認識していた。
「あら、いけない。古堀さんをケアしなきゃという話をしてるのに、余計なことを言って、私ってダメですね。古堀さんとてもお疲れの様子ですし、本当に大丈夫ですか。喧嘩になるほど、お姉さんの具合がよくないんでしょうけれど」
「いや、それはもう」
「古堀さん、あまり思い詰めず、自分の時間を作るべきです」
 そう言ってからいっぱくおき、
「自分らしくいられる時間」
 と八恵は言い換えた。
「それなら仕事です。こうして先生のクリニックのために協力している時間が、一番自分らしくいられるんです」
「そう、なんですか。私は嬉しいけど」
「先生と話してると」
 姉のことを忘れられます、と言おうとした、そのとき床に置いていたバッグから、スマホの着信音が鳴った。
「古堀さんの電話」
 八恵が椅子から立ち、バッグをとって手渡してくれた。
 孝昭はバッグからスマホを取り出し、さっきまで見ていたコンクリート壁のほうへと移動する。
 電話は本宮医師からのものだ。
「はい先生、古堀です」
「古堀さん、今日の夜、クリニックに来られますか」
 本宮医師の声は暗くないけれど、よくようがなかった。
「もしかして、分かったんですか」
 孝昭は、八恵に顔が見えないように向きを変え、スマホを持ちかえた。
「いや、結果は僕も聞いてません。夜に光田という記者が来ることになっています。一緒に聞いたほうがいいだろうと思いまして」
「分かりました。で、何時頃にうかがえばよろしいですか」
 手が震えた。スマホを両手で持つ。
「彼が来るのが九時頃。それ以降で出てこられる時間で結構です。無理なら、結果は僕のほうから電話しますが」
 やはり本宮医師の話し方は淡々としていた。
「では九時に」
「お姉さんの容態はいかがです」
「相変わらず、閉じこもってます。でも悪くはなってないと思います」
「それはよかった。すみませんでした、仕事中に」
「先生、本当に結果を聞いておられないんですか」
 光田記者から連絡を受けたとき、きっと指紋の有無について話し合ったはずだ。万事しんちょうな本宮医師が、あらかじめ結果を知らずに孝昭と会うはずはない。
「古堀さん、僕を信じてください」
「教えてください。覚悟がいります」
 結果が悪い、と決めつけている自分がいた。
「では、今夜九時に」
「先生、本宮先生」
 孝昭は叫んだが電話は切れていた。
「本宮先生からですね」
 八恵が聞いた。
 孝昭は八恵の質問に答えず、スマホの時間表示を見た。九時まで五時間以上もある。
「顔が真っ青です」
 八恵が近寄る。
「八恵さん、お願いがあります。いまから時間とっていただけませんか」
 孝昭の声が打ちっぱなしの内壁に反響した。
                       〈つづく〉