第5話 理髪店の娘・前

 
 師走しわすの夜は冷える。
 ゆうぞうしょうと二人、駅裏にある『志の田』に向かって早足で歩いていた。推進委員会に町内の理髪店『バーバーむか』から相談に乗ってほしいという要請があり、その帰りだった。
 そのとき店主である向井から、話を聞いてくれるのは誰でもいいが、そのなかには翔太を必ず加えてほしいという希望があって、今夜の訪問ということになった。
 足元から北風が吹きあげた。
「向井さんの話、どう思う」
 寒さに首を縮めながら、裕三は翔太にいた。
「残念ながら、打つ手はちょっと」
 ぼそっと答える翔太に、
「そうだな。打つ手はないよな。向井さんにしたら、天才少年の翔太君なら何か名案がという思いで名指ししたんだろうけど、やっぱり無理か」
 くぐもった声を裕三はあげた。
「相談の内容が内輪すぎるというか、シンプルすぎるというか、これはちょっと他人の手には負えません」
 申しわけなさそうにいう翔太に、
「仕方がないな。とにかく、志の田に集まっているみんなに詳細を話して意見を聞いてみよう――ところですずらんシネマの年末年始のし物の件は、先方から承諾を得たんだよな」
 念を押すように訊いた。
「はい。あつきよしさんのとらさんシリーズのうちの三本ということで。寅さんシリーズには年末年始に絡んだ作品もけっこうありますから、そのなかからセレクトして」
 こちらはかなり、自信ありげな口調だ。
「寅さんはいいなあ。ハラハラ、ドキドキは少ないが、ているだけで心が和んで気持が優しくなるのを感じる。できればあんな毎日を送りたいが、これも無理な相談だな」
 独り言のようにつぶやいて裕三は、さらに足を速める。前方に志の田の店先にぶら下がる、赤い提灯ちょうちんが見えてきた。
 店のなかに入ると、
「いらっしゃい。もう皆さん、お待ちかねですよ」
 とカウンターの向こうから、さとが愛想のいい声をあげる。
 裕三は「お世話をかけます」と里美に軽く頭を下げ、翔太と一緒にみんなの集まっている小あがりの奥に向かう。
 おでんを盛った大皿を囲んで集まっているのは町おこしメンバーのいつもの顔ぶれで、ほらぐちかわげん、それにきりの四人だ。裕三と翔太はみんなの間に座りこむ。
「外は寒い、年寄りにはこたえる」
 両手をこすりあわせながらいう裕三と翔太の前に、カウンターから熱いオシボリとコップを盆の上にのせた里美が立つ。
「すぐに温かい、おでん持ってきますから」
 オシボリを渡してカウンターに戻り、皿に取りわけたおでんを持ってきて裕三と翔太の前に置く。
「ごゆっくり」
 ふわっと笑って戻っていった。
「川辺、やっぱり里美さんはれいだな」
 熱いオシボリを顔にあてながら、裕三が声をかけると、
「あっ、そういってもらえるとうれしくて。ありがとうございます」
 本当に嬉しそうに川辺がいう。
「おい、なんでお前が嬉しがって礼をいうんだよ。常連中の常連ではあるだろうが、お前の恋人ってわけじゃねえだろう」
 面白くもなさそうな顔で、すかさず洞口が声をあげた。
「それはまあ、そうなんですが。やっぱり嬉しいものは嬉しいということで」
 顔はまだ、にやけたままだ。
「それに、おめえよ。綺麗っていったら、やっぱりいずみレコードのけいちゃんが一番じゃろ。少し年は取ってるけどよ」
 野太い声は源次だ。源次はいまだに恵子一筋らしく、少年のころの思いを色濃く引きずっているようだ。
「源ジイは、偉い」
 ふいに桐子が声をあげた。
「この性根の腐ったおっさんたちに較べて、源ジイの心はぴっかぴっかの、ままじゃん。男たる者、やっぱりそうでないとな、なあ翔太」
 隣の翔太の背中を、どんとたたいた。翔太がうっと声をあげる。
「まあ、くだらない話はそれぐらいにして、向井理髪店のことだが、いったいどんな話だったんだ、裕さん」
 裕三のコップにビールを注ぎながら、洞口がいう。
「翔太君を指名するほどですから、かなり難しい話だったんでしょうね。やっぱり、顧客の減少という切羽つまったことですか」
 こんにゃくほおりながら川辺がいう。
「それは違う。確かに客は減ってはいるものの、それでも家族が食べていけるほどの収入はあると向井さんはいっていた」
 裕三の言葉に「ほおっ」と洞口が安心したような声をあげる。
「それなら、なんで翔太を指名したんだよ。つじつま合わないよ」
 ハンペンをつまんでいた桐子のはしが止まる。
かなわぬときの神頼みとでもいうのか。向井さんにしたら、頭を抱えることが出てきたんだよ……後継者問題という」
 最後の言葉に力をこめて裕三はいう。
「それなら翔太君の領分だ。あのおおたけ豆腐店のときのようにネットを駆使して募集をかけ、そのなかから裕さんが吟味して――多分、大竹さんから、そのあたりの事情を向井さんは聞いたんじゃないですか」
 川辺はごくりとこんにゃくをのみこみ、満足そうな表情を浮べる。
「向井さんって、まだそれほどの年じゃなかったんじゃないか。確か俺たちより三つぐらい下の六十二歳ほど。まだまだ十年は頑張れるんじゃないか。それほど頭を抱えることじゃないような気がするが」
 げんそうな表情を見せる洞口に、
「向井さんには持病があるそうだ。心臓が弱っていて不整脈も近頃はひどいといっていた。あそこは奥さんも八年前に心筋しんきん梗塞こうそくで亡くしているから、よけいに不安がつのるんだろうな。本人の言葉を借りれば、いつ死んでもおかしくないと――もちろんこれは、大げさだとは思うが、満更うそでもないような気がするのも確かだ」
 重い口調で裕三はいった。
「おい、それはまずいぞ」
 すぐに洞口が反応した。
「あそこは昭和レトロの見本のような店で、あの店がなくなるということは、昭和ときめき商店街の看板がなくなるも同然で、それこそ昭和黄昏商店街になっちまうぞ」
 洞口のいう通り、バーバー向井は昭和レトロの見本のような店だった。
 正面は昭和の代表ともいえるデザインが施されて、緑と黒の総タイル張り。扉は頑丈な木枠で、なかには極彩色のステンドグラスがめこまれ、窓ガラスも同様だった。
 店内に入ると天井からぶら下がっている灯りは、凝った造りではないがカットグラスのシャンデリア風。壁には五尺の樫材の羽目板が引き回してあり、真白な天井はしっくい塗りだった。まさに、昭和そのものといった店の造りになっていた。
「そういえば、あそこのイスはいまだに昔の物を使っていて、黒の革張りですよ。手入れがいいのか今も、つやつやで」
 川辺が思い出したようにいう。
「そうだべ、そうだべ。あんな骨董こっとうひん級の店をなくすわけにはいかん。なくすにはもったいなさすぎるべ」
 妙ななまりで源次がいう。
「それならすぐに、ネットを駆使して若者に募集をかけ、後継者を募らないと。なあ、翔太君」
 すがるような目を洞口は翔太に向ける。
「それは無理です」
 ぼそっと翔太はいった。
「この二十年間で日本中の理髪店は激減しています。毎年毎年、多くの理髪店が廃業しているんです。その状況で募集をかけても、いい人材が集まるとは、とても」
「しかし、大竹豆腐店の例もあるじゃないか。豆腐屋にしたって日本中から消えていっているのは事実だろ」
 なおも洞口は食い下がる。
「豆腐は特別な食材です。日本の食文化の代表ともいえるもので、この独特の味と食感に愛着を持っている人は少なくありません。穿うがったいい方をすれば、豆腐オタクです。じゃあ、理髪オタクという人たちがいるかといえば、首をかしげざるしか……むろん、皆無とはいいませんが、それは砂浜に落した針を探すようなものです」
 一気にいって、翔太は大きな吐息をもらした。
「それに、理髪店を継ごうとすると、国家試験を受けなければならない。二年の専門学校に通うか三年の通信教育を受ける。それでようやく国家試験を受ける資格がとれる。それを経て国家試験を受け、理髪師になれるかどうかの合否がきまるということだ――そう向井さんはいっていた」
 裕三もしゃべり終えて、大きな吐息をついた。
「そんなに面倒なのか、床屋をやるっていうことは。俺は親方のもとで修業すれば、自然に国家試験は受けられるものだと、ずっと思っていたが」
 ぜんとした口振りで洞口もいう。
「そういったことから、向井さんには別の思わくがあってな」
 ぽつりと裕三が口に出した。

 向井の許を訪れた裕三と翔太は昭和レトロそのものの店内を抜けて、奥の茶の間に通された。
 ここはごくごく普通の下町風の六畳間で、床はむろん畳敷である。小さな卓袱ちゃぶだいの上に出されたお茶を前にして、裕三と翔太は向井から話を聞いた。
 向井は理容業界の今の状況と自分の体のことをざっと話してから、
「実は、後継者の件なんです」
 と本題に入った。
「先ほどもお話ししましたように、理容師になろうとすれば、かなりの時間がかかります。でも、それよりも何よりも、今は若い人のなり手が激減しているんです。ここ何年かの間、美容院のほうは相当数増えていますが理容室の数はかなり減っています。つまり、美容院に人気をさらわれてしまって理容室のほうは、なり手が……これが一番の問題なんです」
 向井はお茶を手に取って、ごくりと飲みこみ、
「かといって、この店を私の代で終らせるには後悔が残るといいますか、気が引けるといいますか。それだけは避けたいというのが私の本音です」
 そっと茶碗を卓袱台に戻した。
「実は私、ここの入り婿なんです」
 情けなさそうな顔で笑った。
 四十年ほど前――。
 当時隣町に住んでいた向井は、たまには違う床屋でという軽い気持で日曜日の午後この町を訪れ、たまたま目についたこの店にふらりと入った。
 他の床屋とはちょっと違う雰囲気を漂わせる店内の隅のソファーの端に座り、何気なく客の髪を切っている女性に目をやって、向井の体は固まった。
 客の髪を切っているのは白衣を身にまとった、若い女性だった。大きなふたまぶたの目に、形のいい鼻。唇は厚めだったが小さく、あごの線がすっきりと柔らかだった。
 心臓が音を立てて騒いでいた。
 ひとれだった。
 ふと周りを見るとけっこう客は混んでいて、みんな若い男だった。そのとき別のイスで髪を切ってもらっていた客が終り、「次の人、どうぞ」と店主らしき白髪頭の男が声をかけた。
 ソファーのいちばん向こうに座っていた男が口をへの字にして立ちあがった。嫌そうな雰囲気丸出しで、白髪頭のイスに向かった。
 この店の客は、ほとんどあの女性目当て。
 そう思ったとたん、向井の体が、ぶるっと震えた。ライバルは多い――女性に目をやるとやっぱり可愛かわいかった。際立っていた。
 この女性が向井の奥さんだったきぬで、白髪頭の男がその父親のしんろう。この日から向井の戦いが始まった。
「お恥ずかしい限りですが、その日から私は三日おきにこの店に通いました。平日はなるべく早く、仕事を終えるようにしまして」
 頭をきながらいう向井に、
「三日おきですか。それは髪を切るほうも困ったでしょう」
 裕三はあきれ顔でいう。
「当時はひげをあたるだけの客もいましたから、せっせと無精髭を伸ばして通いつめるのに専念しました。そしてまず、彼女に顔を覚えてもらい、次に話をしてもらう。とにかく一生懸命でした。その甲斐がありまして」
 と向井は目を細める。
 一年ほど後には絹代と結婚の約束を取りつけるまでになったが、父親の新次郎から二つの条件が出されたという。
 一つは入り婿となって、この家に住むこと。二つめが理容の技術を覚えて、この店を継ぐことだった。それまで向井は隣町から都心に通うサラリーマンだったが、それをきっぱりすててこの条件をのんだ。絹代は一人娘だった。
 向井は義父となった新次郎から散髪の技術を学び、それこそ寝食を忘れて懸命に修業に励んだ結果、この後、国家試験にもみごとに合格して絹代をほっとさせた。
すごいですね……」
 話を聞いていた翔太が、初めて口を開いた。
「一目惚れをして、そこまでやるなんて、凄いとしかいいようがありません。頭が下がります。本当に頭が……」
 かすれた声でいった。
「いや、昭和の男なんて大体がそんなものです。こうときめたら一直線。特に私は純情そのもの、子供のような性格でしたから。それに……」
 といって向井は天井をちらっと眺めてから、
「初めて見た絹代の白衣姿は綺麗でした。息をのむほど新鮮で可愛かった。今でも目を閉じると、あの日の光景が。しかし、その絹代も今は」
 ずずっとはなをすすった。心なしか両目が潤んでいるように見えた。
「あのころの床屋さんは、みんな長い白衣をつけてましたからねえ」
 当時を思い出すようにいう裕三に、
「今ではそれもなくなって、みんな、おしゃれなユニフォームのようなものを着けるようになって。何かにつけて、いい時代でしたねえ、あのころは。何もかもがゆるんでいたといいますか、遊びの部分が大きかったといいますか」
 しみじみとした口調で向井はいった。
「緩みと遊びですか。まさに言い得て妙――確かに今は何もかもがきっちりめこまれて、息をつぐ部分もないような時代ですから」
 裕三は独り言のようにいい、
「ところで大体の背景はわかりましたが、向井さんはそれで、我々に何をしてほしいとおっしゃるのでしょうか」
 茶碗を手にして、ごくりとのどを鳴らした。
 今ひとつ、向井のいいたいことがわからなかった。
 とたんに向井が背中を、ぴんと伸ばした。
「娘です、娘に、この店の跡を継がせたいと思いまして」
 はっきりした口調でいった。
 ああっと裕三は胸の奥でうめいた。
 かつだった。確かにここには女の子が一人いたはずだ。あの子は……。
「向井なみといいます。この春、四大を卒業した二十二歳。妻の絹代と同じ、我が家の一人娘です。私は何とか娘にこの店をやってもらいたいのです。何とか美波に」
 絞り出すような声をあげた。
「その娘さんは今?」
「思い通りの就職口がなかったのか、最初から就職をする気がなかったのか、今はコンビニでバイトをしています」
「四大を出て、コンビニでバイトですか」
 不審な思いで訊いてみると、
「実は、美波は小さいころから絵を描くのが好きで、そのために、どうしても美大へ行きたいといい出しまして。そこで油絵をずっとやっていました」
 意外な答えが返ってきた。
「美大で油絵を――」
「はい。ですから今も時間を見つけては、油絵をせっせと描いています――でも今ではそれが幸いしたのではないかと。私にはそんな気がしてなりません」
 妙なことを向井はいった。
「どこでもそうだと思うんですが、油絵をやりたいから美大へ行きたいといわれて、諸手を挙げて賛成する親は多くはありません。私もむろん、反対しました。大学に行くのなら、普通の学科を選べと。でも娘は頑として、私の意見を聞きいれませんでした。というより、聞く耳を持たない様子でした。昔からこうときめたら一直線という、私によく似た一面も持っていましたから」
 ほんのちょっと苦笑いを浮べ、
「そこで私は一計を案じて、美大に行くのを許す代りとして、一つの条件をつけたのです。美大へ行くのはいい。しかし、同時に理容専門学校の通信教育を受けろと。手に職をつければ、もしものときの助けになるからと」
 だから向井は、今ではそれが幸いしてという言葉を出したのだ。
「美波さんは、それを承知したんですか」
 翔太が身を乗り出した。
「承知しました。そして美大へ入学したあとも、私のいった通り理容学校の通信教育を受け、三年間でみごとに資格を習得しました。国家試験のほうはまだ受けてはいませんが」
 少し残念そうな声を出した。
「散髪の技術のほうは、美波さんは」
 気になったことを裕三は訊く。
「通信教育でも実技の時間はありますし、それよりも何よりも美波が中学生ぐらいのときから、将来は家を継いでもらいたいという気持もあって、折りがあればはさみを握らせて一通りのことは私が教えこみました。ですから、即戦力とはいかないまでも」
 向井が裕三の目を真直ぐ見た。
「少し練習すれば、物になるはずだと――そういうことなんですね」
「門前の小僧、習わぬ経を読むのたとえ通り、こと理容に関しては美波はみこみが早く、私のほうも教え甲斐がありました」
 嬉しそうに口に出す向井に、
「要するに推進委員会に対する向井さんの要望は、美波さんが店を継ぐように説得してほしい――そう理解していいんですね」
 念を押すように裕三は、はっきりした声でいって向井を見る。
「はい。極めて内輪の話で恐縮なんですが、何とか美波を説得してもらえればと」
 頭を下げる向井に、翔太が声をかけた。
「僕たちに説得してほしいということは、向井さん自身が美波さんの意向を訊いて拒否されたということなんですね」
「はい」とうなずく向井に、
「そのとき美波さんは、どう答えて拒否したんですか」
 やけに真剣な表情で翔太は訊いた。
「私は絵が描きたいし、理髪店には先がないしと――何度か訊きましたが、返ってくる言葉はいつもこれでした」
 向井はいって、うなだれた。そしてすぐに顔をあげ、
「何とかなりませんか。天才少年とうわさの高い翔太君なら、何か方法があるんじゃないかと思って、きてもらったんですけど。もちろん、どんな方法を取ってもらっても、かまいません。何か策があれば」
 すがるような口調で、向井はいった。
「考えてはみます。考えてはみますが、かなり難しいことは確かです。人は理屈では動きません。人が動くのは何らかの行動を見て、心が揺さぶられたときしかありませんから。でも、とにかく考えてみます」
 翔太は淡々と言葉を出した。
 向井は卓袱台に額がつくほど、頭を下げた。

「そういう思いで、翔太を呼んだのか。なるほどなあ。しかしまあ、頭のいいおめえのことだから、何とかはするんだろう」
 源次が野太い声で楽天的なことをいった。
「それは……」
 といって、翔太はあとの言葉をつぐんだ。どうやら、何かを思案しているようでもある。
「絹代さんとの条件つきの結婚といい、美大に行くなら理容学校の通信教育を受けろという条件といい、向井さんところは親子二代に渡って条件がつづくなあ」
 洞口はぼそっといい、
「向井さんとしては入婿の自分の代で、あの店を廃業には絶対にしたくないんだろうな。亡くなった絹代さんのためにも」
 残っていたコップのビールを、一気に飲みほした。
「私もよく向井理髪店には行ってましたけど、その絹子ちゃん――向井さんがいうように、かなり綺麗というか、可愛らしい子でしたね。男の客には人気抜群でしたよ」
 川辺は当時を思い出したのか両目をそっと閉じ、
「顔りなんかするときは、オッパイの膨らみが肩なんかに当たったりして、ちょっと目を開ければ可愛い顔がすぐ上にあって、いい匂いがして」
 うっとりした顔でいった。
「川辺のおっさん、キモい。男ってみんなそんな気持で床屋さんに行ってるの。キモいを通りこして、いやらしさ全開の最低」
 顔をしかめて桐子がいった。
「いや、お前、そんなことはないぞ。俺もあそこの床屋に行って絹子さんによく髪を切ってもらっていたが、そんなことを考えたことはないぞ。一度もないぞ、絶対にないぞ」
 名指しもされていないのに、突然洞口がむきになったような声をあげて、一瞬周りが静かになった。
「とにかくじゃ。里美さんの店で、そんなことを口にするのは言語道断。いったい、お前の頭のなかは、どうなってるんじゃい。単なるエロジジイかい、お前はよ」
 その場の空気を断ち切るように、源次が川辺を一喝した。とたんに川辺がしょげた。耳のつけ根まで真っ赤にして、ちらりとカウンターをうかがうが、里美は何か用事でもあるのか奥に引っこんだようでいなかった。
「すみません。失言でした。どうも今夜は私、浮れているようで」
 里美がいないのに安心したのか、ほっとした表情で頭を下げた。
「まあいいけど、川辺のおっさんのいやらしさは前からわかってたことで、珍しくも何ともないし」
 桐子は川辺を一刀両断してから、
「そんなことより、翔太。どうなんだ。さっきから頭をフル回転させてるような坊さん臭い顔をしてるけど、この件に関して何かいいアイデアでも思いついたのか」
 矛先を翔太に向けた。
「桐ちゃん、それは無理だ。いかに翔太君でも今回の件は個人的すぎる。美波さんを説得するのは、やはり向井さんの役目で、他人の翔太君には酷な話だ。それに、ここまで話が家族内のことになると、推進委員会が乗り出すようなことじゃない気もする」
 頭を振りながら裕三がいうと、
「いえ……」
 掠れた声を翔太が出した。
「ひとつだけ、対処法があります」
 これも掠れた声だった。
 とたんに周りがざわついた。
「ひとつだけあるって、それは本当のことなのか。あるとすれば、推進委員会としても有難いことなんだが」
 洞口が翔太の顔を凝視した。
「あることはあるんですが、本来こういう方法は使わないほうがいいというか、使ってはいけないというか、そんな間違った方法というか」
 奥歯に物が挟まったようないい方を、翔太はした。
「間違った方法って――いったいそれはどういう方法なんだ。話してくれれば、みんなで検討して、いいか悪いかを判断することはできるが。ざっとでいいから、ここで教えてくれるかな」
 勢いこんで裕三は声をあげる。
「それはちょっと待ってください。僕の性格からいいますと、これは極めて汚い方法ということになりますから。もう少し考えさせてください」
 珍しいことに翔太は拒否の言葉を出した。いや、珍しいというより、翔太のこんな態度は初めてのことだった。
「ちょっと、翔太」
 桐子がかんだかい声をあげた。
「あんた、もしかして。美波さんをさらってきて、どこかに押しこめ、むちでビシバシやるつもりじゃないだろうね」
 しごく真面目な顔で、とんでもないことを口にした。
「いくら何でも桐ちゃん。それでは犯罪になってしまうから、確実に警察に連れて行かれることになるから。だから、そういうことでは決してないから」
 笑いながら首を横に振る翔太を見て、さすがにきまりの悪そうな顔でそっぽを向く桐子に、
「あっ、いや。ひょっとしたら、桐ちゃんのいうように法律ぎりぎりのところかもしれない。運が悪ければ訴えられるかも。でも、向井さん自身が、どんな方法を取ってもらってもっていってたから、大丈夫だとは思うんだけど」
 翔太自身が物騒なことをいい出した。
「わかった」
 突然、裕三が大声をあげた。
「向井さんは、早急に美波さんに会ってほしいといってたけど。そういうことなら、その前に美波さん自身のことを、もう少し知っておいたほうがいいんじゃないか、翔太君にしたら」
「それはもちろん。美波さんの人となりをよく知っていたほうが、作戦は立てやすいといえます」
「それなら、七海ちゃんの意見を聞こう。七海ちゃんなら小中学校が美波さんの一級下だから、情報もいろいろ手に入るんじゃないかな。それを元にして、その作戦とやらを立てたほうがより確実だと思うんだが。もし翔太君の予定さえつけば、明日の夕方にでも一緒に小泉レコードに行ってみるというのは」
「もちろん、そのほうが助かります。ぜひ、お願いします」
 翔太はぺこりと頭を下げた。
「まあとにかく。結果は先延ばしになったけど、ここはいちおう一件落着というか翔太君からの連絡待ちということで。ところで、美波ちゃんって子は、いったいどんな絵を描くのか誰か知ってるか」
 周りを洞口が見まわすが、みんなは黙ったままだ。
「ゴッホ風の絵です。オレンジと黄色をベースにした」
 答えたのは、なんと翔太である。
「今日、向井さんの店に入ったとき、お客さんが待ち時間に座るソファーの上に十号ほどの油絵が一枚かかっていました。それが今いった色彩のはいきょの絵でしたから」
 何でもないことのようにいう翔太に、
「凄いな、翔太君はやっぱり。見てないようで、いろいろ細かいところまで観察してるんだな。俺はまったく気がつかなかった」
 感嘆の面持ちで裕三はいった。正直いって驚いた。
「あっ、いえ。ごく自然に目に飛びこんできただけで、誉めてもらうことなどでは」
 翔太は照れたように顔の前で手を振り、
「それより、美波さんて人は美人なんですか。どんな顔立ちの人なんですか」
 妙なことを口にした。
 みんなが一斉に首を傾げるなかで、いきなり桐子が立ちあがった。
「何それ、翔太。あんたも、このおっさんたちとつきあってて、天才エロ少年に染まってしまったっていうこと」
 唇をとがらせていった。
「いや、そういうことじゃ」
 という翔太の言葉にかぶせるように、
「おい川辺。おめえ、さっきからずっとおとなしいが、どうかしたんかい」
 源次が川辺を見つめて声をあげた。
 そういえば川辺はさっきから、一言も言葉を出してはいない。ただひたすら身じろぎもしないで、じっと一点を見つめて。その視点の先には――。
 背中しか見えないが、中年らしき男が親しげに里美と話をしていた。里美はカウンターから身を乗り出すようにして、男の話を聞いている。
「あれは誰じゃ」
「一カ月半ほど前から、この店にくるようになった客で、名前は確かしいとか……何をやっている男なのかは全然知りませんが、けっこう里美さんとはよく話をしています」
 苦しそうに口に出し、
「ひょっとしたら、私のこいがたき……」
 川辺にしたら、低すぎるほどの声で答えた。(つづく)