第一章(承前)
12(承前)
緊張して手の汗を拭う孝昭に反し、本宮医師は閉まった襖に向かって、平然と聞く。
「さっき孝昭くんと漫画の話をしていたんです。僕は手塚治虫が好きでした。友美さんはどんな漫画を読んでました?」
言葉が返ってくると思っていないのか、表情は変わらない。今度は質問を変えた。
「友美さんが小学校に入学した頃じゃなかったですか、『ちびまる子ちゃん』がテレビに登場したの。家内がコミック本で読んでて、アニメになったのを嬉しそうにしてましたよ。単純な線の漫画だけど、それだけに作者の……?」
本宮医師が小首をかしげ、孝昭の顔を横目で見る。
「さくらももこ、ですか」
と探るように、孝昭も本宮医師に目をやる。
「そう、そう、そのさくら、さくらももこのデッサン力は凄いんだって言ってました」
そこで本宮医者が一拍おいて、
「家内も絵を描くのが好きなほうなんで」
と補足し、孝昭にはどんな思い出があるかを聞いてきた。
「『ちびまる子ちゃん』が始まったのは、小さかったから覚えてないですが、小学生になるとずっと姉と見てました。その後の番組『サザエさん』とセットで」
孝昭が答えた。
「孝昭さんが一年生のときは、友美さんは六年生ですね」
「姉はどうか分かりませんが、まるちゃんあたりは大丈夫ですが、『サザエさん』のエンディング曲が流れると、あーあ、もう日曜日が終わってしまうって気持ちになりました」
「『サザエさん』の歴史は長いですからね。あのエンディングに当時の憂鬱さを思い出す者が多くいますよ。僕もその一人です。『サザエさん』を観るのを楽しみにしてた分、終わってしまうと余計に寂しくなって。改まった言い方すると、自由な時間がある日曜日から学校に縛られる窮屈さへの嫌悪ですかね。特に月曜日の時間割に苦手科目があって悲しくなったもんです」
本宮医師は社会科が苦手だと言って、照れ笑いを浮かべた。
「私は体育とか図工以外、みんな苦手科目だったから」
「友美さんの得意科目は?」
友美は何も言わない。
「姉はオールマイティです。全部得意科目だったんじゃないですか」
「勉強もできてその上、絵心もある。でないと、こんなリアルな猫作れませんから」
友美には見えないのに、本宮医師はテレビ台に置かれたフェルト細工に目を向けながら言った。
「でも、実際の猫をよく知らないとここまで忠実なものになりませんよね。猫を飼っていたんですか」
本宮医師の質問は、孝昭に向けられた。
「うちにはずっといましたね。飼うという意識はなく、工務店の周辺にいる野良が大工さんになついて、そのまま居着いちゃうんだって聞いてます。倉庫の前には空き地がありましたしね」
「なるほど、それで今にも動き出しそうな猫が作れるんですね。やっぱり友美さんは、猫が好きなんですね」
「動物はみんな」
友美が低い声を出した。
本宮医師が素早く座り直す。
「鳥も?」
「人間以外は好き」
「人は嫌いですか。家族も?」
孝昭は返事が気になった。自分のことはともかく、両親への気持ちを探る本宮医師の意図が分かったからだ。
「……孝昭には感謝してる」
「ご両親は?」
「いまは、好きじゃない。ダメ?」
「いいえ。みんな家族と上手くいってたら、僕の仕事の八割くらいはなくなるんじゃないかな」
本宮医師は目を細め、さらに襖に顔を近付けて続ける。
「僕も、家内の母親が煙たいときがありますよ」
本宮医師は声をあげて笑った。それが孝昭にはわざとらしく見えた。
「煙たい?」
友美が聞いた。
「うちには小学六年生になる息子がいましてね。義母からすれば孫です。彼を可愛がるのはいいんですが、我が家にしょっちゅうやってくる。まあ僕に甲斐性がなく、家内の親の土地を借りてクリニックを開いたからしょうがないんですが。立場、弱いんですよ」
「私、結婚が幸せだとは思わない」
という友美の言葉を聞くと孝昭は、
『両親は縁談話をしきりに勧めていたみたいです』
そう卓上の広告にペンを走らせ、本宮医師に見せる。
本宮医師はうなずいてみせた。
「幸せのかたちは人それぞれです。みんなそれを探している。そして誰もが幸せになる資格を持っている。ちょっと青臭いかもしれないけど、そんなことを馬鹿正直に僕は信じているんです」
「私には、資格、ない」
「なぜそう思うんですか」
「愚か者だから」
「あなたが?」
「私なんて、いてもいなくても同じ……いえ、いないほうがいい」
手のひらで畳を叩くような音がした。
「そんな風に思う人のために、僕がいるんです。みんな幸せになるために存在する、と信じる医師として」
本宮医師はまた座り直し、友美がいるかのように襖に向き合う。
「私のことなんて知らないくせに」
時折、孝昭にぶつけてくる言葉だったけれど、投げやりな言い方には聞こえなかった。反発ではなく、冷静に考えながら話している感じがする。
「そうですね、まだよく知らない。だから知り合えれば、力になれると思います。と言っても、僕にはそれほどの力はない。一緒に考えて、あなたの心が少しでも軽くなる方法を見つけるくらいしかできません」
「軽くなるなんて絶対、無理。無理だと思う」
「そうでしょうか」
「私は……悪いことをしたんです。もう取り返しがつかない……」
孝昭は、手だけでなく額に汗が出ているのを感じた。シャツのボタンを外し、立ち上がって台所の換気扇を回した。部屋にこもった熱気を排出したかった。
「取り返しがつかない?」
「私がいなくなれば、いいだけかも」
「友美さんがいなくなれば、解決することなんですか」
「助かる」
「いなくなれば、助かるなんてあり得ない」
口調が強くなった。
「先生には分からないし、もう言いたくない」
「分かりました、これ以上は聞きません。どうです、ブローチはできました?」
「はい、できてます」
と襖が開くまで少し間があり、隙間から伸びてきた手にはポリ袋があった。
「ありがとう、袋に入れてくれたんですね。いやー凄い。見れば見るほど完璧な猫ちゃんです」
「それ付けて、テレビに出てくれる?」
「もちろんです。代金はいくらですか」
「いりません」
顔半分だけを見せて、友美が言った。
「そんなわけにもいかない。それじゃ孝昭さんと相談しますね。番組スタッフもきっと驚きます。収録が待ち遠しいな」
「あの、さっき言ってた漫画だけど、私も『サザエさん』の終わりの曲で変な気分になった。学校、行くのが嫌なわけじゃないけど」
友美が片目をしょぼつかせているのが、孝昭の座っている場所からも見えた。
「小学校は楽しかった?」
「あの頃だけ」
「とても優秀な、小学生だったんですものね」
「優秀……」
襖がもの凄い勢いで閉まった。そして、
「もう帰って」
と友美の甲高い声がした。
「大丈夫ですか? では、もう帰りますね。このブローチを付ける僕を、今週の金曜日観てください。今日はほんとうにありがとうございました」
本宮医師は孝昭に目で合図を送ると、立ち上がって玄関に向かう。
「先生」
「古堀さん、今日はこれで」
本宮医師が表に出た。
「姉ちゃん、ちょっと送ってくるね」
と襖に向かって声をかけ、孝昭も急いで玄関を出た。
13
外は天気も良く、午後三時の太陽が眩しく真夏を思わせる。六月の半ばに入って、気温が三十度近い日が増えてきていた。
「古堀さん、吉田神社に行ってみませんか」
アパートの前に駐めた軽自動車の前まで来ると、慶太郎は孝昭のほうを振り返った。
「いいですけど、姉は大丈夫でしょうか」
急に態度が変わったから、と孝昭はアパートを振り返る。
「反応の程度からみて、衝撃は受けたでしょうが、発作には繋がらないと思います」
「それなら、独りにしても」
「ええ。今日はよく話をしてくれましたしね。自分というものを見詰めようとしている態度も垣間見られました。車はここに置いて歩きましょう」
慶太郎は、友美と一緒に行く神社への散歩ルートを通ってほしいと孝昭に頼んだ。
春日通りを東に歩き、そこから北に進路を変える。そのまま進むと京都大学関連の建物が林立した場所に出た。さながら大学構内を歩いているように錯覚するほどだ。ここからは北の東一条通りを目指して行けば神社の表参道に着く、と孝昭はルートを説明してくれた。
地理に疎い慶太郎には、ただ吉田神社に向かって東に歩いているとしか分からない。
「古堀さん、さっきお姉さんの態度が急変したのは、僕の言った『優秀』という言葉を聞いたからです」
慶太郎は、並んで歩く孝昭に言った。
「やっぱりあの紙の桜は姉のものだったということですか」
「それは指紋の照合ではっきりするでしょう。それより優秀という言葉に過剰な反応を示した事実のほうが重要です」
「といいますと?」
「優秀という言葉を嫌っている。それは優秀と言われたことと、トラウマとなった経験が結びついている可能性を示しています」
「言葉と嫌なこととがリンクしているってことですよね」
「そういうことです」
と言ってふと慶太郎は前方を見る。突き当たりに朱い鳥居が見えた。
「あれが吉田神社ですか。散歩としては良い距離ですね」
「歩いて十五分くらいで着きますし、さらに境内を散策すれば結構いい運動になります」
買い物をしたり、ときには登録有形文化財に指定された吉田山荘という建物の中にある「真古館」という喫茶店に寄ったりして、半日外出することもあったと言う。そう話す孝昭の表情は楽しげだ。
「そんなことができるまで回復されてたんですね」
「ですから、てっきり良くなったものだと思い込んでました。それなのに今年の桜の咲く頃から元に戻ってしまって」
孝昭の表情も元に戻り、曇り出した。
「古堀さん。さっき、さくらももこの名前を出すとき、わざと桜を連想するように、さくら、さくらももこという言い方をしたのを覚えてますか」
「ええ。ああ、あれはわざとだったんですか。私はてっきり、ど忘れされたのかと思いました」
「いえ、あれも一種のテストみたいなものです。あのとき『桜』という言葉に反応はなかった。ですが、その後『優秀』という言葉を投げかけたときは、回避ともいうべき状態になりました。もう帰ってほしいと」
「先生に失礼な態度で、すみません」
「そんなことは構いません。すべて僕の責任におけるカウンセリングですから。そのお陰で、お姉さんは多くのことを教えてくれた。態度で語ってくれたんです」
「そうなんですか」
「あのときの桜に対しての無反応は、桜そのものには嫌な思い出はないとみていいでしょう。桜から連想するものとして学校や入学式などが考えられますが、いずれにも嫌な思い出はなかったようだ。さらに、小学校は楽しかったか、という質問に『あの頃だけ』と答えました。優秀という言葉と桜は、お姉さんの中でそれほど強く結びついていない印象を持ちました。しかし優秀という言葉が、今現在のお姉さんのトラウマと結びついていることは否定できません。ただ……」
「ただ、何ですか」
「何らかのトラウマ体験があった。それを思い出すトリガー、引き金が優秀という言葉だとします。しかし、優秀と書かれた桜の紙片が現場にあったことは、事故を報じる新聞紙面のどこにも書いていません。つまり友美さんと事件を結びつけるものは何もなかったはずです。なのに新聞を捨てた」
「やったことを隠したいからではないですか」
「それもあるかもしれない。事故の記事が掲載されている日の新聞を選んで処分する。ただ記事を見つけ出す行為は、現場に立ち戻るような怖さを伴います。なのにそれをしたのは、事件を把握したいという衝動からだと思います」
慶太郎は、孝昭が後々受ける衝撃を和らげようとしていた。友美の反応から、もはや事件に関わっていないとは言えないからだ。
「お姉さんが事件に関与していたことは間違いないでしょう。ですが、あなたが言ったように隠蔽工作なら、罪を免れたいという気持ちがある証拠です。おかしな言い方ですが、それは助かりたい、生きようともがくのと同じ意味です。希死念慮から脱する精神状態でもある。それは改善の兆しです」
慶太郎は自分は精神科医であり、警察官ではない、と今一度強調した。
「もがくことが、マイナスではないってことですか」
孝昭はそうつぶやいた。
「そういうことです。だから多少取り乱したとしても、いまの状態は心配ない、と判断しました」
話しながら二人は、朱い鳥居をくぐった。そこはまだ境内ではなく駐車場で、十数台の車が整列している。
「遠くにも鳥居が見えますね。あそこが境内への入り口ですか」
車列の向こうのこんもりとした森の緑を背景に、朱色が生える鳥居に目を懲らす。
「先生、吉田神社は初めてですか」
「実は市内はまだ慣れてないんですよ」
クリニックの本院がある精華町もそれほど詳しくはない。
「今くぐったのが一の鳥居と呼ばれるもので、あれが二の鳥居。で、他にもたくさんの鳥居があるんです」
「へえーそうなんですか」
「ここは広大です。それにたくさんの社があって、それらを回るだけで一時間以上はかかります」
孝昭は、少し考え、ざっと神社の説明をしてくれた。
吉田神社は、吉田山が京都の鬼門の方角にあることから、八五九年に春日大社の四柱の神を勧請したことから始まった。室町後期に吉田兼倶という人が吉田神道を創始して、全国の神を祀る大元宮を建て、江戸時代には全国の神社の神職任免権を持つほどの権威を誇ったようだ。主祭神は「建御賀豆智命」「伊波比主命」「天之子八根命」「比売神」の四神で、奈良の春日大社と同じなのだそうだ。『徒然草』の著者、吉田兼好は、この神社の神職だった卜部兼顕の子供だという。
「全国の神々を集めたというだけあって、その他に摂社、末社がいくつもあります。珍しいのではお菓子や料理にまつわる神社も。その中の一つが、事件現場の神楽岡社です」
「新聞の境内図では、外れにある印象でしたが、お二人はそこで散歩をしていたんですね」
「四神を祭ったメインの本宮は、人が多いんです。良くなっていたとはいえ、まだ人混みは苦手だったんで、もっぱら摂社、末社を巡ってました」
目的が参詣ではなく、気分を変えることと体を動かすことだからと孝昭は言った。
「なるほど。それで神楽岡社は馴染みの場所だった」
「姉は、さっき言ったお菓子の神社、菓祖神社と雷除けの神楽岡社とが気に入ってました」
駐車場を過ぎ、参道に敷き詰められた白石を踏みしめながら、「二の鳥居」をくぐり抜ける。そこからは緩やかながら長い石段が伸びていた。
石段を上り切ると広い境内に出る。すれ違う人は多くなかったのに、境内は思いのほか参詣客で賑わっていた。
「左に本宮とか社務所があります」
確かにほとんどの人が左方向へと歩き、そのまま本宮に入っていくようだ。
「私たちはこちらに」
鳥居からすぐを右に折れた。
少し方向を変えるだけだが、うっそうとした木々に囲まれているせいで、涼風が心地いい。
「あの石段です」
「割と近いですね」
境内図ではもう少し距離があるように見えた。
「菓祖神社はもう少し外れにあります」
「初夏の昼間はいいですが、夜に待ち合わせする場所じゃないな」
慶太郎は前方の茂る緑を見ながら、先を歩く孝昭に言った。
「怖い、と思います。そもそも境内までの長い石段は心細くて上りたくないですよ。真っ暗になりますから。懐中電灯でもなければ、いま通った境内を突っ切ってここまで来るなんて無理です。本殿も社務所も閉まってるし、大の大人でも嫌でしょう」
初詣か節分祭など特別な行事でもない限り、駐車場の周辺などを除いて、夜は闇に包まれるのだそうだ。
「懐中電灯でも心許ないな。女性ならなおさらだ」
「そう、そうですよ、先生。考えてみれば、人一倍怖がりの姉がこんなところまで来られるはずないです」
孝昭が立ち止まり振り返る。
「その通りです、とは言えないのが心苦しい」
慶太郎はうつむき加減で言った。
「どうしてですか」
「恐怖を乗り越えるだけの何か、たとえばより怖いことから逃げるためとか、怒りや恨みに支配されている場合には、周りが見えなくこともあるからです。すみません、不安になるようなことばかり言って」
「先生、もし、現場で発見された桜型の紙に姉の指紋が付いていたら、姉はどうなるんですか」
孝昭が再び歩き出す。
「重要参考人として、任意での取り調べを受けるでしょうね」
「そんなことになったら、それこそ姉の心は持ちません。そうでしょう、先生」
孝昭が慶太郎を見上げた。
「指紋を照合するのは、私の知り合いの新聞記者です。その結果を警察に知らせる前に僕に相談してくれます。だから先回りして手を講じるつもりです」
慶太郎は、精神疾患を理由に、通常の取り調べを行わないよう働きかけるつもりでいた。
「そんなことができるんですか」
「きちんと方針を固めた上で、あなたに話すつもりだったんですが」
と断って、慶太郎はゆっくり歩きながら、友美を守るために考えられる方策を話すことにした。
「何かと問題の多い刑法第三九条ですが、友美さんの場合には心身耗弱を理由にひとまず守ろうと思っています。幸い大津の『斎藤こころのクリニック』の前院長も友美さんの精神状態について覚えているし、カルテそのものはありませんが、日誌に記録してくれています。齋藤先生と僕、二人の精神科医が証明すれば精神鑑定に持ち込めるはずです。むろん弁護士さんとも相談して」
「万が一指紋が一致しても、酷い目に遭うことはないんですね」
「以前にも言いましたが、友美さん自身の治療は続けます。悪化させたくない」
慶太郎はポリ袋が入っている鞄を手で摩った。
「よろしくお願いします」
孝昭は神社の石段下で立ち止まった。
「ここに、姉が……」
と孝昭が見上げる石段は、それほどの高さはないにもかかわらず、そそり立つように見えた。幅が狭く勾配が急で、手すりがないと横からも転落しそうな気になる。
「島崎さんが倒れていたのはこの辺りですね」
慶太郎は新聞に掲載されていた説明図を思い出しながら、石段の直下の地面に目をやる。そこに砂利の黒ずみを見つけると、島崎氏の血の跡ではなかろうかと思ってしまう。
「息が詰まりそうになります」
孝昭が大きく息を吸う。
「大丈夫ですか。気分が悪くなったら言ってください」
繊細な孝昭には、強いストレスがかかり続けている。
「いや、大丈夫です」
「人が亡くなった場所ですから、畏怖する気持ちが湧き出る。正常な人間の反応です」
慶太郎は地面に向かって手を合わせ、
「上ってみようと思うんですが」
と孝昭に声をかけた。彼も合掌している。
「はい、緊張してますけど」
孝昭は手すりを握る手に力を込めて石段に足をかけた。
上り始めるとさほどきつい石段でもなく、さっと上り切れた。社の前で振り返り、石段の下を見た。
「ずいぶん高く感じますね」
他の建物の屋根を見下ろし、慶太郎が声をあげた。
吉田神社の境内そのものが丘の上にあり、そこからは市内が望めるため、実際よりも高所にいる感覚になる。
「初めてここに上がったとき姉も、そう言って驚いてました。でも、ここから見る風景が気に入ったようです」
「それほど苦労なく、鄙びた森に身をおき、この石段を上ると劇的に目線が変わる。急速な変化で気が晴れたのかもしれません。しかしどういう経緯でここまで散歩するようになったんですか」
十五分はそれほど長い距離ではないが、引きこもっていた友美からすれば相当な難関だったはずだ。玄関までの距離ですら障壁になるケースを幾人か診てきた。
「あのアパートは会社の先輩が住んでいたんです。その方は京大出身で、散歩には吉田神社がいいぞって教えてくれたんです。で、姉を外に出す口実に、お菓子が神さんの神社があるって言ったら興味を持ってくれまして」
「菓祖神社でしたっけ」
「ええ。フェルト細工でケーキとかパフェを作っていたときもあって、外出の呼び水になるかなと思ったんです」
「それが巧くいったというわけですね。お菓子、か」
「お菓子が何か?」
「お姉さんが興味を持っていることを知っておきたいんです」
そう言って、慶太郎は数歩前に出て石段の下を覗き、
「うーん、ここから突き落とせば……人が死ぬと思ってもおかしくはないか」
と独りごちた。
〈つづく〉