第4話 健康美顔パン・後

 たけふみがいなくなって三日が過ぎた。
 依然何の連絡もなく、むろんケータイに電話を入れてもまったく通じない。いったい丈文は、どこで何をしているのか。
 店の開店まで、あと六日。少なくとも開店の前日には戻っていないと、仕込みができなくなって次の朝、商品を店頭に並べることが不可能になる。
 昼食をすましたゆうぞうは板敷の塾の真中に座りこみ、頭を抱える。
 みんなの前で、あいつは必ず戻ってくる、だからぎりぎりまで待ってみようと声を張りあげたものの、その自信が徐々に薄らいできているのも事実だった。そろそろ、塾を再開しなければならないのだが、とてものことにそんな心の余裕はなかった。
「帰ってくればいいですけど、もし帰らなかったら大事ですよ――私たち推進委員会の者は商店街のみんなから袋たたきですよ」
 かわはこんなことを口にしたが、その通りだと裕三も思う。もしそんなことになったら、その先、宝パンをどうすれば。
 大きな溜息を裕三はもらす。
 そのとき、ポケットのケータイが音をたてた。慌てて取り出して画面を見ると、丈文ではなくげんだった。
「どうじゃ、丈文から連絡はあったか」
 源次の野太い、それでも心配そうな声に、
「ない。まったくない。一人で部屋の真中に座りこんで、頭を抱えているところだ」
 裕三は情けない声を口から出す。
「そうか――一人で頭を抱えているのか。ということは、まだ塾は開けてないということなんじゃろうな」
 源次は独り言のようにいい、
「そんなときに悪いんじゃが、裕さんの塾をちょっと貸してくれねえかな」
 申しわけなさそうにいった。
「塾を?」と理由をいてみると、
しょうのいっていた通り、腕自慢の男が勝負を挑んできてよ。だから、その場所をよ、貸してほしいと思ってよ」
 野太い声、そのままで源次はいった。
 今朝のことだという。
しんきゅう いん』に丁寧な口調で電話が入った。
 男はやなまもると名乗り、マスコミの記事を読んで源次の活躍に感動した。ついては、一手御教授を願いたいがどんなものかと訊ねてきたという。道場破りのきまり文句ではあるが、いきなりの押しかけではなく、電話でまず承諾を得てくるところが律義といえば律義、現代的といえばそうともいえた。
 さらに梁瀬は、まだリングには立っていないが自分は総合格闘技のプロであるため、一切の手加減は無用と口にし、源次の古武術と思う存分に闘いたいというのが本心で他意はないともいった。源次はこれを承諾した。
「それでな。多分塾は開いてねえだろうと勝手に決めて、裕さんところでやることにしたんだが、迷惑だったら……」
 語尾を、むにゃむにゃと濁した。
「迷惑じゃないさ。前からここを使って道場を開けとすすめていたくらいだからな。それに、丈文君のことで気が滅入っていたところだから、気分直しにもいいかもしれん」
 裕三の本音だった。
「そういってくれるだろうと、その男には四時にそこへ行くようにいってあるから、よろしくな」
 ほっとした口調でいう源次に、
「わかった。しかし大丈夫なのか。そんな総合格闘技のプロだという男とやりあって、勝てるのか。何たって相手はプロなんだろう」
 心配そうな口振りで裕三はいう。
「相手が総合格闘技のプロなら、わしは殺しのプロじゃからよ」
 ドスの利いた声で、物騒な言葉を源次は口にした。
「そうか――それなら、腕自慢がくるのを楽しみにしていた翔太君と、これも源ジイの大ファンのひろたかゆきを同席させてもいいか。いろんな意味で勉強になるだろう」
 弘樹と隆之が同席すれば、源次自身にも刺激になるはずだ。裕三は一刻も早く、源次に道場を開いてもらいたかった。
「いいべ。それなら、あとでな」
 それだけいって電話は切れた。
 あとは弘樹と隆之、それに翔太への連絡だ。三人とも喜び勇んでやってくるだろう。

 四時ちょっと前――。
 いつもの姿で源次は現れた。
 塾内に入ったとたん、拍手が鳴り響いた。弘樹と隆之、それに翔太までが盛大に手を叩いている。
「拍手で出迎えとは、何とのう気恥ずかしくなるのう」
 本当に恥ずかしそうに、源次は雀の巣のような髪の毛をきまわして裕三たちの前に座りこんで胡座あぐらをかく。
「先生、大丈夫なのか。相手は総合格闘技のプロだって聞いたけど」
 身を乗り出すようにして弘樹がいうと、
「そうだよ。相手は多分、熊みたいに頑丈なやつに決まってるから。そんなやつと闘って、本当に勝てるのか」
 追いかけるように隆之が、まくしたてた。
「さあ、どうなんじゃろうなあ」
 源次は太い首を左右に振って、
「勝負は時の運じゃからの――運がよければ勝てるが、悪ければ」
 ぷつんと言葉を切った。
「負けるんですか、源次さんが」
 腰を浮かしぎみにして翔太が口を開いた。
「負けるなあ……そして、負ければ、ここで道場を開くというのも駄目になるなあ」
「そんなの、いやだよ」
 叫ぶように隆之がいった。
「そうだよ。勝っても負けても、道場は開いてくれないと、俺たちこれから生きる望みがなくなっちゃうよ」
 大げさなことを弘樹が口にしたが、両目が潤んでいるのがわかった。隆之にしても同様だ。今にも泣き出しそうな顔だ。そんな二人を、驚きの表情で源次が見ていた。どうやら二人の本気度を、ようやく思い知らされたようだ。
「そりゃあ、おめえ。まあ、とにかくよ。わしも勝つようには頑張ってみるから、そこんとこはよ」
 源次には珍しく、しどろもどろになって答えた。
 そんなやりとりをしていると、玄関のチャイムが音をたてた。
「丈文君の代りに道場破りか……」
 裕三は独り言のようにつぶやいて立ちあがり、来訪者を塾内に招き入れるため玄関口に向かった。
 大きな男だった。身長は百八十センチをこえ、体重のほうも相当あるような体形だったが、全身は筋肉質で硬く締まっているように見えた。これが梁瀬だ。年はまだ若いようで、二十代後半に見えた。
 男は板敷の真中に正座する源次の小柄な体にちょっと驚いたようだったが、それでも緊張した面持ちでこれも対面に正座をし、きちんと両手をついて頭を下げる。翔太たちはすでに、壁際に下がっている。
「梁瀬といいます。本日は羽生先生に教えを乞うためにやって参りました。ご多忙中とは存じますが、何とぞよろしくお願いいたします」
 まるで時代劇のワンシーンのような口調でいった。
「これはご丁寧に。当方こそ、よろしゅうにお願い申しあげる」
 源次も格式張った物言いで答え、
「ところであんた。えらく礼儀作法に厳しい人のようじゃが、何か武道でもやってた人かいの」
 いつものように、ざっくばらんな口調に戻していった。
「小学生のころから柔道をやってきました。インターハイ、国体にも出場して、何とかこの道で身を立てたいと思い、総合格闘技の門を叩いて今に至り、段位は講道館五段を頂いております」
 緊張した表情が幾分柔らかくなり、恥ずかしそうな口振りで梁瀬は答えた。どうやら源次同様に武術の類いのようだが、根はおとなしそうだ。顔は丸顔で普通だったが激しい寝技のせいなのだろう、両耳がみごとにつぶれていた。
「ほう、小学生のころから柔道を。道理で礼儀正しいはずじゃの。しかも高段位の五段とは、これはなかなか侮り難いお人がきたもんじゃのう」
 低い声でいう源次に、
「自分の得意技は投げなんですが、近頃の柔道は、なかなか容易に組ませてはもらえません。が、しかし組んでしまえば」
 梁瀬の眼光が、ふいに鋭くなった。
「必ずや、投げ落してみせます」
 りんとした声でいった。
「なら」と源次はくぐもった声を出し、
「わしも組打ちで、お相手しようかの」
 何でもない調子でいった。
 五分後――。
 柔道衣に着がえて、両側がすり切れた黒帯を締めた梁瀬と作務衣姿の源次は板敷の中央でたいした。
「いざ、組打ってそうろう」
 古風な言葉を源次は口にし、両手を広げて梁瀬に近づいた。梁瀬も両手を広げ、源次を迎えるように前に進む。
 両者が、がっちりと組んだ。梁瀬の右手は源次の左襟、左手は右袖――むろん、源次の両手も同様だが、見る者にしたら、大人と子供の勝負のようにも映る。源次は百六十センチそこそこの小兵だった。
 鋭い気合が響いた。
 体を密着させた梁瀬の右足が、源次の足に飛んだ。
 の背負い投げだ。
 が、奇妙なことがおこった。
 宙に浮くはずの源次の体は、石になって固まったように動かない。びくともしない。突っ立ったままだ。
 梁瀬の顔に驚きの表情が浮び、そしてそれは朱に染まった。そこから二度三度と、梁瀬は足を跳ねあげたが、やはり源次の体は動かない。まるで根が生えたように。
「参る――」
 そのとき源次が低く叫んだ。
 襟を握っていた源次の右手が開いて、すうっと下がった。水月の位置ではぴたりと止まった。同時に源次の体がわずかにしなった。
 瞬間、梁瀬の大きな体が崩れ落ちた。
 失神した。
 裕三たちの間から、どよめきがあがった。
「源次さん、いったい何がおきたの!」
 翔太が立ちあがって叫んだ。
 みんなが源次のそばに駆けよった。
「まずは、手当てをの」
 源次は崩れ落ちた梁瀬を抱えおこして後ろにまわり、掌でどんと肺活を入れた。梁瀬は三度目の肺活で目を覚ました。
「あっ、自分は、自分は……」
 周りをきょろきょろとうかがう。
「当て身を、ちょっと入れてみた」
 ぼそっといった。
「当て身って――そんな様子はまるで」
 狐につままれたような顔をする梁瀬に、
「わしの右の掌が梁瀬さんの水月の部分にぴたっと張りついてな。そこで全身を撓わせて、生の力を梁瀬さんの体に注ぎこんだんじゃよ」
 源次はんで含めるようにいう。
「掌を体に張りつけたまま、相手を倒すほどの強い力を注ぎこむって、そんなこと物理的には……」
 翔太がすっとんきょうな声をあげるが、
「まあいいのか。源次さんのやることだから、どんな奇妙なことがおきたとしても」
 何とか納得したようで、小さくうなずく。
「不思議な術じゃが、全身を脂肪でおおわれた人間や、梁瀬さんのように筋肉のよろいをかぶった者には打撃技の当て身はね返されて、効かんこともあるからの。そういうときにこの技なら、力が脂肪や筋肉に浸透して入っていくから、まさに効果はてきめん――これを押し殺しの術という」
 源次の言葉にみんなの口から「押し殺し!」という言葉が同時にあがる。
いちほうげんりゅうの古武術には、そんな技も伝わっているんですか」
 週刊誌ででも読んだのか、梁瀬はこんなことを口にするが、源次の技は鬼一法眼流に流の忍法を加えたものである。
「それからもうひとつ、自分には理解できないことが」
 梁瀬は不思議そうにいう。
「自分は何度も羽生さんの足をすくいあげたんですが、羽生さんはまるで石になったかのようにまったく動きませんでした。あれは……」
「あれは、わしが四つんいになってたからじゃよ。だからな」
 妙なことを源次は口にした。
「つまりじゃな。あのときわしは両手で梁瀬さんの襟と袖をつかみ、両の足で板敷を踏んでおった。梁瀬さんの体はそのとき、わしから見て板敷に同化したんじゃよ」
 ぐるりと周りを見回した。
「要するに、わしは腰を少し落して体のしんを垂直に保って固定させ、両手は力を抜いて梁瀬さんの体にゆだねた。その結果、板敷と梁瀬さんの体はわしにとって水平同然となり、わしは四つん這いの格好であの場に立っていたということにの……いくら攻撃しても四つん這いの人間を倒すことはな。最初から倒れているも同然の格好なんじゃからよ」
 源次は、わかるようなわからないようなことを口にしてから、
「梁瀬さん。柔道の投げ技と、古武術の投げ技の一番の違いは何かわかるかの」
 ぎろりと目をくが「それは」と梁瀬は首を左右に振る。
「柔道は相手を背中から落すが、古武術は頭から落す。それが根本的な違いじゃよ――つまりは死物狂い。もっとも今ではそんなことはせんがな」
 穏やかな顔に戻して源次はいった。
 とたんに「ああっ」と梁瀬はうめいて、その場から飛び退さがった。額を板にすりつけた。
「自分を、羽生先生の弟子にしてくれませんか。お願いします。どうか……」
 絞り出すような声を出した。
「いや、それは、何といったらいいのか、わしはその、弟子はまだというか」
 とたんに源次がうろたえた。
「俺たちも、お願いします」
 今度は弘樹と隆之が額を板にこすりつけた。
「あっ、それはどうしたもんか、なあ、裕さん」
 おろおろ声でいって、源次は裕三に助けを求めた。
「そうだなあ」
 裕三はひとつからせきをしてから、
「俺も塾の終ったあと、ここを使って道場を開けと口が酸っぱくなるほどいってるんだが、なかなかこのジイサンは人づきあいが苦手というか。しかし、近頃では徐々に源ジイの気持も道場を開くという方向へ傾いているようだから、近い将来、必ずな」
 にまっと笑った。
「おい、裕さん、おい……」
 すがるような声を追いやるように、
「その節は、何とぞよろしくお願いします」
 怒鳴るような梁瀬の声が響き渡って額を板にこすりつけた。すぐに弘樹と隆之の二人がそれに倣う。
「そういうことだ、源ジイ」
「それはまあ、そういうものというか……」
 蚊の鳴くような源次の声に、
「よし、一件落着――まずはめでたい」
 大時代的ないい方で裕三はひざを両手で叩き、この場はこれで収まった。
 しばらくして梁瀬は帰り、弘樹と隆之にも「これから、大事な話があるから」といってその場を立たせ、塾内は裕三、源次、翔太の三人だけになった。
「道場破りというから、どんな怖い男がくるかと心配したが、素直な人間でよかった」
 笑いながら裕三がいうと、
「確かに、あの梁瀬という若者は素直だの。何とのう、わしの若いころを思い出させるというか――世間からはちょっと外れた、武術莫迦というか何というか」
 うれしそうに源次は答えた。
「まさに、源ジイの後継者にはうってつけ。そうじゃないか、なあ、源ジイ」
 凝視するように裕三がいうと、
「それはまあ、うってつけといえば、そうではあるけどが――そんなことより、問題は丈文じゃ。今になっても何のおともないということは」
 話題を変えるようにいうが、それはそれで源次のいう通り大変な問題ではあった。
「そうだな。何といってもあの店には、町内会から改装用にと百五十万の金が出ている。今更、パン職人がいなくなったではすまない。このまま丈文君が戻らないようであれば、早急に替りのパン職人を探さないと」
 吐息をもらすように、裕三はいう。
「もし、替りのパン職人が、見つからなかったら」
 ぼそっと源次がいった。
「丈文君を、宝パンに引き入れたのは俺だ。だから、町内からの百五十万は俺が肩代りするつもりだ」
「莫迦なことをいうな。その場合は推進委員会の連帯責任じゃ。みんなで等分に分割して払えばいい」
 怒鳴り声を源次があげた。
「しかし、丈文君は俺が……」
「しかしも、へったくれもねえ。それとも、裕さんところは、百五十万をぽんと払えるほどもうかってるのか」
 じろりとにらみつけた。
「儲かってはいない。食べていくのが、ぎりぎりの毎日だ」
 低い声でいった。
「なら、連帯責任でいい。というより、それが筋というもんじゃ。そのための推進委員会であり、独り身会でもあるはずじゃ」
 源次の手が裕三の肩をそっと叩いた。同時に翔太が声をあげた。
「あの、僕はいくらほど……」
「何を莫迦なことを」
 今度は裕三が怒鳴った。
「翔太君はまだ、未成年なんだから。金のことを心配する必要なんぞない。それを考えるのは俺たち大人の役目であって、そのために俺たちはいるんだから」
「すみません。いつも甘えっぱなしで」
 弱々しい声を出す翔太に、
「頭のいいおめえに甘えているのは、頭の硬いわしたちのほうで、おめえじゃねえ。まったくおめえは抜群の頭をもっているくせに、情に弱いというか優しすぎるというか――もっともそういうところが、おめえの最大の長所だとわしは思っているんじゃけどよ」
 発破をかけるように源次はいって、翔太の肩を軽く叩いた。
「ところで、裕さんは丈文が帰ってくるかどうか――本当のところは、どう思っているんかのう」
 のぞきこむように裕三の顔を見た。
「正直なところ、近頃になって心が揺らいできていることは確かだが……しかし、帰ってきてほしい。俺の今の心は、この一言につきるなあ。そういう源ジイはどうなんだ。どう思ってるんだ」
「俺は頭が悪いから、はっきりいってようわからん。だが心情のほうは裕さんと同じじゃよ。帰ってきてほしい。帰ってこんと収拾のつかんことになる。そういうことじゃな」
「よくわからんか。じゃあ、翔太君はどうだ。これで三日がたって連絡なしの状態だけど、どう思ってるんだ」
 裕三は何かにすがりたい思いだった。このままでは大変なことになってしまう。へたをすれば、推進委員会は解散ということにもなりかねない。そして、その多くの責任は丈文を起用した裕三にあるのだ。
「僕は――」
 やけに澄んだ声を翔太は出した。
「きっと帰ってくると信じています。でもこれは残念ながら理屈ではなく、みなさんの話をいろいろ聞いたあげくの絞りカス――いえ、エキスのようなものです。はなはだ心許ないものですけど、僕のなかではそれが妙に光って残っていますから」
 淡々と翔太は述べた。
「心許ないエキスのようなものか。しかし、それは光っているのか。いや、嬉しい言葉だな。これで胸のつかえが少しは、おりたような気がするよ」
 正直な気持だった。それほど裕三の気持は、切羽つまっているといってもよかった。ほんの少しだったが、生き返る思いだった。
「いずれにしても明日が内装工事の終りの日で、午後には引き渡しということになるんじゃろう。いうなれば、明日は大きな節目ということで、ひょっとしたら丈文のやつも帰ってくるかも……」
 低い声で一気にいう源次に、
「そういうことだ。明日は俺たちにとっても丈文君にとっても、大きな節目であることは間違いない。それに期待しよう。引き渡しは午後の四時になっている。もちろん、源ジイも翔太君もくるんだろう」
「もちろん、行くさ」
 源次が野太い声をあげ、翔太もそれに大きくうなずいた。が、そのあと、
「あの、ちょっとというか、かなりというか。僕には気になることがあって」
 神妙な顔をして二人を見た。
「チラシの件です。五日ほど前に新聞折りこみで、この辺り一帯に二千枚ばらまいた開店セールの」
「ああっ――」
 翔太の言葉に、裕三は絶望的な声をあげた。
 そうだった。新生宝パン工房の開店売出しセールで、当日の先着百名に『健康美顔パン』を一斤無料贈呈するという――これは丈文のアイデアで、翔太がデザインとコピーを担当して、割安料金で近所の印刷屋に二千枚刷ってもらい、それを新聞販売店に持ちこんで朝刊に入れてもらった。
「これを、どう処理したらいいのか……」
 かすれ声でいう翔太に、
「逆に翔太君は、どうしたらいいと思うんだ」
 裕三は胸騒ぎを覚えつつ訊いた。
「僕はもう、どうしようもできないと」
 翔太はくぐもった声を出し、
「数が多すぎますから、一軒一軒まわるわけにもいきませんし。かといって、丈文さんが帰ってくるかもしれないということで、訂正のチラシを作って入れるわけにもいきません。正直いって打つ手は……すみません」
 裕三と源次に向かって頭を下げた。
「そうか。そういうことだな。打つ手はないな。残念だけど、そういうことだな」
 溜息まじりに裕三がいうと、
「謝ればいいんじゃよ。もし丈文が帰ってこなかったら当日の朝、店にきてくれた人に誠心誠意、心をこめて謝れば、みんな許してくれるさ。というか、それしか策はねえだろう。なあ、翔太」
 真面目そのものの顔で源次が答えた。
「源次さんのいう通り、それしかないですね。ただ、開店できない理由だけは決めておいたほうがいいですね。悪い連中がらみかもしれないと口に出せば、いろんな意味で後々に響いてきますから。ここは大雑把に、ちょっとした事故があってというくらいで。何の事故だと突っこまれたら、パン職人が入院中でと。満更、まったくのうそでもないですから、これぐらいで通せば、あとでつじつまのほうも何とか合せられるはずです」
 困った表情で翔太はいった。
「そうか。曖昧な言葉を並べておけば、あとでどんな事態になっても、辻褄は合せられるか。政治家の答弁と同じだな。――真面目一方だと思っていた翔太君も、けっこう悪知恵のほうも働くんだな。いや、感心したよ」
 本当に感心したようにいう裕三の言葉を聞いて翔太のみみたぶが赤く染まった。
「よし、そういうことにして、明日みんなに俺のほうから知らせておくよ。しかし――」
 裕三は天井を仰ぐように見て、
「これじゃあ、文字通り、めんといった状態に陥ってしまったようだな」
 すとんと肩を落した。  

 くすんでいた店内は見違えるように、れいで明るくなった。これなら清潔感一杯で、誰が見ても文句の出ようのない仕上がりといえた。引き渡しは短時間で終了した。
 引き渡しに同席したのは、推進委員会の四人と翔太にきり。それにいずみレコードのななも駆けつけたが、丈文はとうとう姿を見せなかった。
 このとき七海が近所の人から聞いたといって、ある情報をみんなに伝えた。
 それによると丈文はしっそうする前日。裏通りの隅で目つきのよくない男二人に挟まれて小突きまわされ、何の抵抗もしないで青くなっていたという。
「二人の男は、この商店街の人間ではなく、よそからきた人間らしかったと、その人はいってました」
 と七海はみんなの顔を見回した。
「それだな、失踪の原因は」
 みんなを代表するようにほらぐちがいい、
「要するに丈文君はこの商店街で、昔の悪い仲間と偶然出会った。その連中と丈文君との間には何らかのトラブルがあり、その件で脅されることになって姿を消すことにした」
 裕三が要領よく経過をまとめた。
「その、トラブルっていうのは何なのでしょうかね」
 川辺が疑問点を口に出し、
「それがわかりゃあ、苦労はしねえべ」
 と源次から一刀両断された。
「その手がかりがあるかどうかは、わからないけど」
 桐子が突然、挙手をした。
「一度、丈文君が暮していた二階も、調べてみたほうがいいんじゃない。机の上にメモがあったというだけで、詳しくは調べてないんでしょ」
「プライバシーっていうこともあるから、ざっと表面的に見ただけではあるけど。それに、本格的な引越しは改装後ということでもあったし、丈文君が二階にいたのは、ほんの少しの間で仮りの引越しだったから。それほどいろんな物があるとは思えないが」
 裕三の言葉に桐子は、
「でも、若い男の子って仮りの引越しだったとしても、けっこう大事な物は肌身離さず持ってくるんじゃないの」
 とってつけたようなくつを展開した。
 どうやら桐子は若い男の部屋というのにきょう津々しんで、ただ単にそれが見たいだけというようにもとれた。
 丈文がこの店の二階で寝泊まりをするようになったのは、店舗の改装が始まる数日前だった。機械の調子も見たいし、改装のしんちょく状況も見たいという丈文の要望で、きゅうきょ実家から最低限度の荷物を運びこんで二階に住みついた。
 その日から数日、丈文は朝から晩まで機械の調子を見て、試し焼きなどを何度も繰り返していた。「どんな機械にでも、癖というのはありますから」と納得のいくまで、機械の調整をしていたようだ。その試し期間が終って改装工事が始まり、そして丈文は姿を消した。
「桐子さんのいうように、二階にあがってみるのもひとつの手かも」
 と桐子の意見に賛同したのは、七海だった。
「ほらね。やっぱり、女は女同士。物事の本質をちゃんと見抜いている。男どもには、こうした繊細すぎる気配りは到底、わかりっこないんだから」
 ちょっと胸を張ってから、桐子はさっさと二階につづく階段をあがった。裕三たちも仕方がないという表情で後につづく。
「何、これ!」
 丈文の使っていた六畳間はがらんとして、家具の類はほとんど見当たらなかった。あるのは、例の小机と洋服タンスぐらいで何もなかった。まさしく仮りの引越しという言葉にぴったりの部屋だった。
「小机のなかは見たけど、めぼしい物は何もなかったよ」
 という裕三の言葉に、
「じゃあ、洋服タンスのほうは」
 と桐子が訊く。
「見ていないな。俺が見たのは、メモの載っていた小机だけだ」
 すぐに桐子が洋服タンスを開けるが、季節の服が数着かかっているだけで他はなし。下の引出しにはTシャツの類が少し――入っているのはそれだけだった。が、その奥を探っていた桐子が高い声をあげた。
「奥に、お菓子の小箱がある」
「そりゃあ、丈文君だって菓子ぐらいは食うだろうから、菓子箱だってあるだろう」
 呆れたようにいう洞口の言葉を右から左に聞き流し、桐子は菓子箱を引っ張り出す。ふたに手をかけて無雑作に開けにかかる。
「ひゃっ」
 というかん高い声が、桐子の口から飛び出した。
 みんなの視線が菓子箱に集中する。
 箱のなかに一万円札が重ねてあった。
「おい、これは」
 しゃがみこんだ洞口が一万円札を取り出し、数え出した。
「きっちり、三十万ある」
 のどにつまった声でいった。
「ということは、丈文君はあの金を持ち逃げしたわけじゃなかった。そういうことになるのか」
 裕三の押し殺した言葉に、
「つまり丈文は、この金にだけは手をつけてはいかんと自分にいい聞かせ、空身でここを抜け出して金策にいった。そういうことなんじゃろうな」
 源次が解説するようにいった。
「よかった……」
 泣き出しそうな声を七海があげた。
 その場に、ぺたりと座りこんだ。
「何とまあ、律義というか」
 川辺の言葉にかぶせるように、
「丈文は帰ってくるぞ。きっと帰ってくる。これだけ根性のあるやつが、店を放っておいてトンズラするはずがねえ。あいつは開店までに必ず帰ってくる。わしは丈文を信じる。この金を見れば、そんなことはすぐわかる」
 怒鳴るように源次がいうと、
「帰ってくるにきまってるじゃん。メロスだって、ちゃんと帰ってきたんだから」
 桐子がぽつりと口に出した。

 開店日になった。
 十時開店だったが、裕三たちと七海は八時前に宝パンに集合していた。
 みんな焦燥感のにじんだ顔つきだった。
 店の奥の部屋に座りこんで、客が集まってくるのを待った。誰もが無言で声をあげようとはしなかった。
「すみません、本当にすみません」
 突然七海が立ちあがって、座っている裕三たちに額が膝に着くほど頭を下げた。
「七海ちゃん、いいよ。七海ちゃんのせいじゃないんだから、頭をあげて」
 裕三が優しい声を七海にかける。
 あれから二日たち、三日たっても丈文は帰ってこなかった。
 一時は必ず帰ってくると、みんなに期待を抱かせたが結局丈文は姿を見せず、宝パンは開店の日を迎えた。当然パン皿の上にもウィンドーのなかにも商品はなく、空っぽの状態だった。
「さあ、七海ちゃん、座って」
 再び裕三は声をかけ、七海は泣き出しそうな表情でイスに腰をおろした。
 客が集まってきたのは、九時を過ぎたころからだった。十時まで並んで待つつもりで訪れた客の一人一人に、「すみません。ちょっと事故があって、開店は後日ということになります」とみんなで声をかけた。
 なかには「何の事故?」と質問する客もいたが「パン職人が入院中で」としか答える術はなかった。
 十時近くになって、大勢の客が押しかけてきた。とても一人一人に声をかけられる状態ではなくなり、裕三たちは大声をあげて開店延期を説明した。
 そんなさなか、「ああっ」という悲鳴に近い声を桐子があげて、通りの一点を指差した。
 誰かが歩いてくる。
 力のない足取りだった。
 ふらついているようにも見えた。
 丈文だ。
 ようやく丈文が帰ってきたのだ。
「すみません、みなさん。今日は無理ですが、明日には必ず店を開けますから」
 叫ぶように声をあげる丈文の顔は、ひどれあがっていた。暴行のあとだ。あざになっている部分もあった。
 その顔を見て、客たちは声を失った。
「明日には、必ず店を開けますから」
 また丈文が叫んだ。
「丈文、おめえ、病院を抜け出してきたのか。駄目じゃねえか、いくら軽い交通事故だっていってもよ」
 源次が叫んだ。
 機転を利かした言葉でもあった。
「交通事故だって、しようがないよね」
 こんな声が客のなかから聞こえ、その間を縫って丈文は店の入口に向かって歩いた。すぐに七海が丈文に寄りそい、二人は一緒に店のなかに入った。
「みなさん、そういうことで開店は明日からになります。もちろん、サービスの健康美顔パンはお渡ししますので」
 推進委員会の面々が声を張りあげ、去っていく客の姿をすべて見届けてから裕三たちは店のなかに入った。
「丈文君、大丈夫か。いったい何があったんだ」
 奥のイスに座りこんでいる丈文に、裕三はたたみこむようにいった。
「すみません。昨日は帰るつもりだったんですけど、ちょっとイザコザがあって足止めをくらってしまいました。本当にすみません、本当に……」
 湿った声で丈文はいった。
「それはわかったが、イザコザの原因はいったい何なんだ」
 裕三は丈文の前に座りこんだ。
「それは……先日いった通り、もう少し待ってください。もう少したったら、すべてを話すつもりですので」
 丈文はぎゅっと唇を引き結んだ。
 両目が潤んでいた。
「僕からもお願いします。丈文さんのいうように、もう少し待ってやってください。もう少し待てば、きっと話してくれるはずですから。こんなにぼろぼろにされても、ちゃんと帰ってきた人なんですから」
 翔太が思いきり頭を下げた。
「私からも何とか、もう少し」
 つづいて七海が頭を下げた。そして、
「丈ちゃん、あなた明日から店を開くっていってたけど、本当にできるの。というより、口に出してしまったんだから、ここはもう、死んでもやるしかないのよ。わかってるの」
 睨みつけるような目で、丈文を見た。
「わかってる。そのつもりで帰ってきたんだから、死んでもやる。這いずってでも、パンを焼く」
 あえぐような声をあげ、
「クズにはクズなりの意地があるから。というより、クズを卒業するために、今日から頑張るから。だから、ごめん、迷惑かけて」
 丈文の目から涙がこぼれた。
「泣いてる暇なんかない。丈ちゃんはとにかく、命を削ってでもパンを焼きなさい。死んでもいいから焼きつづけなさい。涙はそれがすんでからにして」
 七海が怒鳴り声をあげた。
 初めてだった、七海のこんな態度は。
 そんな二人の様子を凝視するような目で、翔太が見ていた。
 翌日、宝パン工房は約束通り開店した。
 苦難の道のりの始まりだった。(つづく)