創価学会学生部員と『世界宗教の条件とは何か』を語る

第4回 沖縄戦の記憶

第4回 沖縄戦の記憶

このほど佐藤優さんの創価大学課外連続講座をもとに編んだ新刊『世界宗教の条件とは何か』(小社刊)が出版された。同書は創価学会学生部メンバーの間で大変な反響を呼んでいる。そこで2019年11月23日、作家の佐藤優さんと創価学会学生部メンバーとの座談会が開催された。参加したのは、首都圏の大学・大学院に通う15人の代表。「佐藤優白熱教室」の模様を、全9回連載でお届けする。

久米島で沖縄戦を経験した佐藤優の母

佐藤 優 以前に創価大学で講演したときに、女子学生に、「創価学会のことをそこまで理解してくれるのだったら、メンバーになってくれませんか」といわれたことがあるんですよ。横にいた副学長の顔がひきつっていた(一同笑)。それで話をやめさせようとしたので「いやいや、ちょっと待ってください」といって私の母親の話をしました。

私の母親は、沖縄本島から100キロ離れた久米島の出身です。子どものころに小児がはやって、多くの子どもが死にました。私の母親も小児麻痺にかかって、右手の薬指と人差し指が不自由になってしまったのです。小さいころの私が見ていても気づかないくらいの障害でして、「お母さんはなんでひだりきなのかな」と思っていました。
当時の農家の女の子のキャリアパス(仕事の選択肢)というのは、農家のお嫁さんになることです。当時の久米島には水道がありませんでしたから、農家に嫁いだ女性は、毎日みずみや力仕事をしなければなりませんでした。だから右手が不自由となると、労働力として使えないから、もはや農家の男性との結婚のチャンスはないわけです。「この子はいったい将来どうなるのだろう」と親は心配していました。

母は小学校の成績が非常に良かったようです。久米島には女学校も中学校もないから、母は1943年に沖縄本島にある昭和女子高等学校という学校に進学しました。おばが那覇で小学校の先生をしていて、おじは県庁の職員だったので、そのツテをたどって協力してもらったのです。
当時、沖縄人で県庁の職員ということは、超エリートです。ほとんどの県職員がヤマト(本土)から来ている人だったからね。ちなみに私は大田まさひで・元沖縄県知事の親戚筋に当たるんだ。あの人も久米島出身なのです。
昭和女子高等学校の校長はクリスチャンだったのですが、戦時中なのでキリスト教徒だとはひとこともいいませんでした。クリスチャン系の学校だからそこに入ったわけではなく、あくまでも女子の情操教育をする女学校でした。

母が高校2年生だった10月10日、沖縄沖に留まっていたアメリカの航空母艦から大量の飛行機が飛んできて、那覇と首里を徹底的に攻撃して焼け野原にしました。沖縄では「10・10大空襲」といいます。この空襲によって、沖縄本島から久米島に帰る連絡船は全部焼かれてしまいました。
当時の女学校は4年制です。校長先生は生徒たちを全員集めて「3年生と4年生は学徒隊に入りなさい。1年生と2年生は故郷に帰るように」といいました。ところが故郷に帰れといわれても、久米島に帰る船はないから母は家に帰れません。


sekaishukyonojoken

佐藤優著『世界宗教の条件とは何か』(小社刊)

そこで困っていたら、21歳だったいちばん上の姉が助けてくれました。いちばん上の姉は当時第六二師団の「石部隊」、京都の人たちを中心に作った師団の軍医司令部に勤めていたのです。事情を話したところ、「お前さんの妹二人を受け入れてやる」ということになって、母は14歳のときに軍属の辞令をもらって沖縄戦に従軍しました。

母が体験した浦添の「前田高地の戦い」は、超激戦だったことで有名です。母親はガスマスクをもっていたので、ガス弾が投げこまれたときにすぐにつけて命が助かりました。そのときガスマスクをもっていなかった人、あるいはつけるのが遅れた人は、みんなバタバタ死んでいます。投げこまれたのは毒ガスではなく、窒息してしまうガスでした。母はそのときちょっとガスを吸いこんじゃったので、戦後にステロイド剤ができるまでは、ぜんそくでだいぶ苦しんでいました。
このように私の母親は沖縄戦の体験があるのですが、日本軍に対する見方が、ほかで沖縄戦を体験した人とは違います。『民衆こそ王者 池田大作とその時代』(第9巻「いくさや ならんどー」へん)を読むと、追いつめられた母親が自分の子をの丘から投げて、自らも身投げする地獄絵図を見たといった沖縄戦体験者のエピソードが出てくるよね。母は軍とともに行動する軍属だったから、そういう人たちと比べると心情的に日本軍寄りなのです。

「手榴弾が破裂しなかったら舌を噛んで自決しろ」

佐藤 2019年10月31日未明、沖縄の世界遺産・首里城が火災で焼けてしまいました。首里城はもともと日本軍の基地があったところです。あそこはまだ遺骨が発掘されていないため、骨がまだ相当埋まったままでしょう。だから首里城再建に当たっては、まず地下を発掘して亡くなった方の遺骨収集をきちんとするべきです。

話を戻すと、母が沖縄戦のちゅうで首里城があったあたりを渡ろうとしたとき、下士官からしゅりゅうだんを二つ渡されました。「これで自決しろ」というわけです。どうして二つなのか。一つが不発弾だった場合に備えて、念のためもう1個手榴弾を渡されたのです。母が「二つとも不発だったらどうするんですか」ときいたら「そのときは舌を噛め」といわれました。
「もしアメリカ軍に捕まったら犯されて、そのあとナイフで耳をそがれて鼻をもぎ取られて、それを見せるために目だけは最後まで残しておく。そして最後は目もえぐられて、なぶり殺しにされるぞ。お前も日本人だったら、そういうふうに殺されるくらいなら自決しろ」。母はそう教えられました。「舌を噛めるかな」と思ってちょっと噛んでみたけど、痛くてとてもることなんてできない。そんなことを思いながら、摩文仁まで歩いていったそうです。

途中で母のすぐ上の姉が弾に当たって、いちばん上の姉が介抱しているうちに、二人の姉とはぐれてしまいました。しょうがないので同じくらいの年の女性と二人で歩き、摩文仁の浜に着いたのは夜だったそうです。そこは夜なのに、昼のように明るいんだって。2〜3秒おきにアメリカ軍が照明弾を撃って照らすからね。海岸には、死んだあと風船のようにおなかが膨れた人がたくさん横たわっている状態でした。
危ないのでガマ(天然のサンゴ礁でできた洞窟)に入ったところ、そこには15人の日本兵がいたそうです。母ともう一人の女性は、日本兵と「水をみに行ったり、トイレに行くときにもし米兵に見つかったら、別の場所に逃げるか自決する」と約束しました。

摩文仁には井戸が1カ所しかありません。ある夜、死体をかき分けて母が井戸に水を汲みに出かけると、上のほうから下士官が二人来て声をかけられました。「私たちは牛島(みつる)司令官と長(勇)参謀長の当番兵だ。これから自決するから、お前たちは出て行け」。そこで母は「石部隊の藤岡(武雄)中将はどうなりましたか」とききました。「藤岡中将はすでに自決されたと聞いている」。
母が軍から最後に受けた命令は「イカダを組んで北部に渡って抵抗しろ」というものでした。ところがに米軍の船がいるから、とても渡れる状況ではありません。しかし軍の命令は遂行しなければならない。どうしようもないなか、母はそれから2〜3週間ガマの中に隠れていました。

1 2
★「潮WEB」無料アプリのダウンロードはこちら→ http://www.usio-mg.co.jp/app

関連記事

「創価学会学生部員と『世界宗教の条件とは何か』を語る」 第2回 日露交渉を切り拓いた池田・ゴルバチョフ会談

「創価学会学生部員と『世界宗教の条件とは何か』を語る」 第3回 民衆の側に立つリーダーの要件

関連書籍紹介

H1

『人生にムダなことはひとつもない』佐藤優 ナイツ 著

アマゾンでのご購入はこちら
楽天ブックスでのご購入はこちら
『いま、公明党が』カバー(帯あり)

新書『いま、公明党が考えていること』佐藤優 山口那津男 著

アマゾンでのご購入はこちら
楽天ブックスでのご購入はこちら
top
  • 連載一覧
  • 著者一覧
  • カテゴリ一覧
  • ランキング
  • facebook
  • twitter
Copyright © 2015 USHIO PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved.