対談 世界で語れる「教養としての日本史」を学ぶ

第2回 乱世を生き延びるための「史観」

第2回 乱世を生き延びるための「史観」

「源平の合戦」と「南北朝の騒乱」を東アジアから考える

安部 日本史を注意深く見ていくと、日本が大きく変わる契機は貿易の影響であることが多いのです。平安時代の終わりに起きたげんぺいの争乱(1180〜85年)は、にっそう貿易によってへいが経済的な力をガンとつけたことによってぼっぱつした内戦でした。14世紀に勃発した南北朝の騒乱は、にちげん貿易の影響です。
佐藤 中国大陸で元が退潮し、みんという高度国防国家が新たに誕生しました。日本は明とどう付き合っていけばいいのか、東アジア地域の大きな秩序変化の中で南北朝の騒乱は起きています。
安部 中国大陸には強大な権力を握る皇帝がいて、日本は力が弱い周辺国です。中国の体制に変化が起きれば、日本はもろにその影響を受けました。戦国時代には、なんばん貿易による経済構造の変化が騒乱の原因となっています。幕末にしても現代にしても、日本史は常に周辺諸国からの影響にさらされながら変化を繰り返してきたのです。
古墳時代以後の日本史を見渡すと、外国との貿易が盛んになることによって、国内に経済構造の変化が起こっていることが一貫して見て取れます。経済の発達によって国内に「もてる者」と「もてない者」の格差が広がる。日本に根づいてきたりつりょうせいと農本主義的な体制が、重商主義的な体制へと変わっていくのです。
佐藤 農業や漁業中心の社会に商業が入ってくれば、社会構造は根本から変わりますからね。
安部 その変化が日本社会の騒乱を生んできました。外国との貿易が盛んになればなるほど外圧的な要因が増し、国内の政治経済が変わっていく。こうした変化の流れは、日本史の中で背骨のように一貫してつながっているのです。まずそれを理解するだけで、日本と世界の関わりがどれだけ深いかがよくわかるでしょう。
佐藤 いまのシベリアにあたる地域を考えてみても、おおみなと(青森県の港町)からのネットワークは古代からずっとありました。
安部 そのとおりです。ちょうど僕は、鎌倉末期に起きた安藤氏(津軽の豪族)の乱を歴史小説に書き終えたばかりなのです(『太平記 十三の海鳴り』集英社)。安藤氏が津軽地方でなぜあんなに強大な力をもっていたかというと、北海道に住んでいるアイヌの人たちとの北方交易があったからでした。
アイヌの交易圏は、ユーラシア大陸のアムール川の流域まで広がっています。そこから入ってくる海産物やたかの羽など、いろいろなものを京都や鎌倉へもっていくと、ものすごく高く売れるのです。「交易から見た日本史」という視点で歴史を眺めると、歴史の見え方がダイナミックに変わってきます。

織田信長の火縄銃の火薬は輸入品

佐藤 江戸時代というと、みんな「日本は鎖国していた」という固定的なイメージで見ています。でもまつまえくち(北海道南西部)とオホーツク海は、鎖国の間もアイヌの交易路が生きていました。長崎の対馬つしま口と朝鮮半島には、朝鮮通信使による交易路が開いていたわけです。
長崎のじまにあった長崎口では、明やしんとの交易路が開いていました。さつ口(りゅうきゅう口)と明との間には、琉球使節による交易路が生きていたわけです。

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佐藤優氏

「鎖国」を現代の言葉で訳すならば、「日本の安全保障上脅威がある国との関係を断った」というだけの話でしょう。鎖国政策を取りながらも、当時の日本のサイズとして必要かつ十分な対外関係は依然として続いていたのです。
安部 おっしゃるとおりです。鎖国中にすべての外国と断交していたわけではなく、あれは日本が生き延びるための一種の外交政策でした。
僕は常々「戦国時代を鎖国史観で語るべきではない」と主張しています。「のぶながは鉄砲で天下を取った」とは教科書にも記されていますが、そこには「信長は火薬となまりの弾をどこから調達したのか」という視点がスッポリ抜け落ちているのです。
戦国時代の黒色火薬は、硫黄いおうしょうせきと木炭を原料として作られていました。硝石は日本では産出しない鉱物です。やがてかいこふんを使って硝石を作る方法が見つかったわけですが、信長の時代には蚕の糞だけでは火薬作りが全然間に合いません。だから信長の軍が使っていた硝石は、ほぼすべてが輸入品なのです。
佐藤 知りませんでした。戦国時代の真っただ中に、そんなに大量に武器を輸入していたのですか。
安部 最近の研究では、弾の原料でもある鉛の70〜80%は輸入品だと言われています。20年にわたって全国の古戦場から鉛弾を集めて成分分析して、どこの鉱山で掘られた鉛か徹底的に明らかにした調査があるのです。
佐藤 輸入元はどこが多いのですか。
安部 国内産が4分の1、朝鮮半島が4分の1、残りは東南アジアからの輸入品です。鎖国史観で語られた戦国時代史には、南蛮貿易による「軍事物資輸入」という視点が抜け落ちています。
そこを理解せずに「信長が強かった」だのと「たけしんげんが強かった」だの議論したところで、議論そのものが成り立ちません。だって火薬や鉛玉の輸入ルートをもっていなければ、戦争で鉄砲を使えなかったのですからね。

戦国大名と現代の会社経営者との共通点

佐藤 個人の武勇を比較するだけでは、戦国武将が手がけた仕事の本質を正確に説明できません。諸外国との外交能力と総合マネジメント能力もなく、ただ戦争をやっているだけでは戦いには勝てなかったのです。
安部 つまり戦国大名は、いまの会社の経営者とまったく一緒なのです。
佐藤 だから会社経営者は、戦国時代が好きなのかもしれませんね。企業経営者が好きな戦国武将は、いつも織田信長か豊臣秀吉とよとみひでよしとくがわいえやすの3人にしゅうれんしちゃう。「いやあ、私はもうもとなりみたいなリーダーが好きですね」なんて言うと、ちょっと変な人だと思われちゃう。
安部 でも弱ったことに、信長・秀吉・家康の3人がやったことでさえ正しく理解されていないのです。信長は、天下を取ってからいったい何をやろうとしたのでしょう。彼の明確な国家ビジョンは、いままでちゃんと説明されてきませんでした。信長のビジョンを秀吉がどう受け継いだのかも、きちんと説明されていません。やっと近ごろになって「信長が目指していたのは公地公民制だ」と言われるようになりました。
佐藤 「公地公民制」とは、土地も民衆も全部国家の所有物として接収し、「私有」という概念を認めない制度です。公地公民制は、大化の改新(645年)のときに提唱されました。
安部 信長は「日本は大化の改新が目指した律令制度に回帰するべきだ」と考えたのです。なぜか。土地の私有権をそれぞれの大名なり部下のしょうみょうが主張している限り、戦はいつまでってもなくなりません。だから信長は、全国統一した暁には、しんの始皇帝のような律令体制を日本につくろうと考えました。
日本全国で検地を進め、土地台帳を作って税収の安定と効率化を図る。城割りと後に行った秀吉が刀狩りによって武装解除し、「私」による抵抗を封じ込める。そのうえで、整然とした官僚制、中央集権国家を完成させようと信長は考えました。そのビジョンが、やっと20年ほど前から歴史学者の間で語られるようになったのです。
佐藤 「未来としての過去」を実現する。復古維新的なビジョンです。信長の時代から300年の時間を置いて、そのビジョンは明治維新によって実現しました。
安部 信長の公地公民ビジョンは、明治維新よりもずっと徹底的でしたけどね。
佐藤 明治維新では、華族制という形で大名を大地主として残しちゃいましたからね。
安部 信長のビジョンを受けた秀吉は、重商主義的な中央集権体制をつくりました。ところが秀吉は暴走し、朝鮮出兵をして失敗します(1592〜98年の「ぶんろくの役」「けいちょうの役」)。
その失敗を踏まえて、従来の体制どおり中央集権体制と重商主義で行くのか。それとも地方分権と農本主義体制に戻すのか。秀吉に続く家康は「地方分権と農本主義体制に日本を戻そう」と判断し、幕藩体制をつくりました。
このように、信長・秀吉・家康には、三者三様異なった歴史的役割があるのです。
佐藤 「重商主義から農本主義への転換」という視点は、戦国時代と江戸時代を読み解くにあたって非常に重要です。この点については、後ほどじっくりと語り合いましょう。

物資補給経路がないまま戦争に突き進んだ日本軍

安部 歴史を一面的にしか見ることができないと、肝心なこと、いちばん大事なことをコロッと見落としてしまいます。戦時中の日本軍がまさにそうでした。物資を前線まで確実に運ぶためのへいたん線をきちんと考えない。補給経路を考えない。ロジスティクス(兵站)がないという信じられない状態で、日本軍は戦争を戦って自滅しました。
日本陸軍が作った日本戦史を見ると「おけはざの戦い(1560年)は奇襲によって勝ったのだ」という解釈が書かれています。陸軍の幹部候補生が学ぶ陸軍士官学校では、そのとおりの史観を教官が教えました。だから陸軍士官学校を卒業した幹部が、好んで奇襲作戦をやるようになったのです。
佐藤 奇襲作戦によって、短期決戦で戦いを制する。でも奇をてらったもくが、毎度うまくいくわけがありません。
安部 その奇襲作戦には論理的な積み上げはなく、戦略的な積み上げもない。「自分の決断と指導力と直感だけで、我が軍は戦いに勝てるのだ」という精神論の指導者を育ててしまう。歴史教育を誤ると、あとでものすごい弊害が表れます。
佐藤 戦時中の日本のロジスティクスを振り返ると、日本海軍は輸送船をもっていませんでした。輸送船をもっていたのは、なんと広島県・くれにある日本陸軍の船舶司令部です。
ミッドウェー海戦(1942年6月)のざんぱい以降、日本海軍は「航空母艦はできる限り温存する」という政策を採りました。航空母艦がちゃんと守ってくれないものだから、陸軍がもつ輸送船はどんどん沈められ、日本軍はさらに窮地に立たされていきます。
これは本当に不思議なことなのですが、日本陸軍はなぜか「あきつ丸」など航空母艦を3隻ももっていたのです。「航空母艦」という名前を陸軍が大っぴらに使うわけにはいかないので、「揚陸艦」と呼んでいました。海軍は陸軍となかたがいして協力してくれないので、陸軍は1942年から飛行機も独自開発しています。
安部 そんなとっ散らかった体制で、日本が戦争に勝てるわけがありません。
佐藤 そのとおりです。結局は実戦にほとんど参加することがないまま、陸軍がもつ「揚陸艦」はみんな沈められて終わりました。縦割り行政の中で「陸軍が航空母艦をもつ」という異常なことをやっていた。これが戦時中の日本のとんでもない実情なのです。
アメリカ軍はレーション(ration=携帯食糧)をいっぱいもっていて、その中にはビスケットやチョコレートといったお菓子まで入っていました。パッケージの中に小さな日本語会話帳が入っていて、捕虜になったときのために「助けてください」とか「お水をください」と言えるようにしておいたわけです。
かたや日本軍は現場の兵隊に「軍票」を渡して「必要なものがあれば現地で調達しろ」と命令しました。
安部 「軍票」なんて日本軍の中でしか通用しない紙幣ですから、海外に出かければまさに紙切れに等しい無価値なものです。
佐藤 「現地調達」ということは、要するに「そこに住んでいる人から略奪しろ」という意味です。これでは日本軍が入っていったあと、現地との関係がうまくいくはずがありません。最低限、軍は自分たちで食べる分を本国からもっていくなり補給しなければ、現地の人たちから協力を得られるわけがないのです。

海外で役立つ教養としての『源氏物語』

佐藤 この対談の第1回で話題にのぼったとおり、海外に出かけると日本について語らなければいけない場面がたくさんあります。僕が少年時代にソ連・東欧を旅行したときも、必ず日本のことをかれました。異文化の中に飛び込んだとき、自分が生まれた国の歴史についてまったく知らないと、恥ずかしい思いをします。
安部 こちらから海外へ出かけなくとも、異文化と接する機会はしょっちゅうあります。いまや日本を訪れる外国人は、年間4000万人に迫ろうとしていますから。
佐藤 彼らはガイドブックをよく読んでいますし、日本の歴史に詳しいですよね。話しかけられて質問を受けると、日本人のほうが説明できず困っちゃうことがよくあります。
安部 翻訳版の『げん物語』を読んでいる外国人もよくいます。僕が友人を訪ねてイタリアに出かけたとき、『源氏物語』にすごく詳しい人がいて、こっちがタジタジになったことがありました。そういうとき古典や日本史についての知識が豊富にあれば、外国人との話がおおいにはずみます。
僕は歴史小説を書きながら、教養とは、①知的な情報量 ②日本史と向き合う体験 ③その上に生まれる発想力、この三本柱だといつも思うのです。この三つがなければ、歴史小説はまったく書けません。歴史を知らなければ書けないし、歴史と向き合って格闘した経験がなければ書けない。その格闘経験を基にした自分なりの発想が生まれてこなければ、歴史小説は書けないのです。
佐藤 おそらく歴史学者は②の格闘を重視するのでしょう。③の「発想力」は、歴史小説を書かれている作家ならではの視点です。受験勉強は記憶力プラス情報処理能力しか重視しませんから、「歴史との格闘」はまったくようせいされません。
格闘した経験がないから、大学受験が終わった瞬間、日本史や世界史の知識がコロッと頭から抜け落ちてしまうのです。
安部 ただ機械的に記憶してテストの点数を取ろうとばかり考えていると、歴史を自分の問題として受け止められませんからね。歴史と格闘した経験がなければ、目の前に広がる新しい事態に対処するための能力は育ちません。日本の学校教育において、あるいは日本人そのものにいちばん欠けているのは①②③に裏打ちされた教養だと思います。
佐藤 特に②と③が欠けていますよね。歴史が私たちに伝える教訓とは何なのか、情報をしゃくしたうえで格闘する。そのうえで、現代の地政学的変化に目をやりながら考えをめぐらせる。残念ながらいまの日本社会では、②と③がほぼけつじょしてしまっています。
安部 自分のお父さん、おじいちゃん、ひいおじいちゃんのその向こうには、ほうじょうな歴史が広がっています。その歴史に目を向けなければ、地に足をつけて自分の生き方とアイデンティティを確立できません。自分そのものが何者かすら、よくわからなくなってしまいます。
佐藤 父母だけであればたった2人ですが、祖父母は4人、さらにその前の代は8人、16人、32人……と家系図をさかのぼっていけます。5代、6代と先祖をたどれば、自分が生まれた家のルーツとなる樹形図がうんと広がります。その人たちそれぞれに人間同士のネットワークがあり、無限のネットワークからき出る歴史と情報は、我々一人ひとりの体内に流れ込んでいる。
安部 おっしゃるとおりです。その歴史を教養として身につける大切さを、僕は声を大にして皆さんに訴えたいのです。(第3回へ続く)

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