第3話 健康美顔パン・前

 ゆうぞうの目が腕時計に走る。
 時間は八時十分を回っている。
「おい、どうしたんじゃ、ゆうさん。さっきから時計ばっかり気にしてよ」
 げんが野太い声をあげた。
「そうですよ。独り身会のメンバーは全員そろっているんですから、そろそろ今夜の集まりの主旨を話してくれても、罰は当たらないんじゃないですか」
 声をあげたのはかわだったが、言葉の端々が少しとがっている。これはおそらく、集まりの場所が川辺ごひいの『志の田』ではなく、商店街の中央にある居酒屋『のんべ』の小あがりになったからに違いない。
「ひょっとして、今夜の集まりには他にも誰かが参加することになっているんですか」
 しょうの声に隣のきりが賛同するように、盛んにうなずく。
「翔太君のいう通り、実は今夜は我々の他にもう一人、ここに参加する人がいるんだが。その人がいないと話が始まらないので――そろそろくるとは思うんだが」
 ちょっと困ったような声をあげたのは、ほらぐちだ。どうやら洞口は裕三同様、今夜の集まりの主旨を知っているようだ。
「誰なのよ。そのもう一人っていうのは、じっちゃん」
 きょうしんしんの声を桐子があげたところで、
「すみません。少し遅くなってしまいました。お客さんがなかなか、帰ってくれませんでしたので、それで」
 すぐ近くで、いかにも申しわけなさそうな声がした。
ななさん!」
 上ずった声を翔太があげた。
 みんなのいる小あがりの前に立っているのは『小泉レコード』の七海だった。
「いや、忙しいところを呼びたてて、こちらこそ申しわけない。さあ、こっちへ上がって七海ちゃん」
 裕三はできる限り優しい声でいって、七海を小あがりに招きいれる。ちらっと翔太の顔を見ると、ほんの少しだったが体を固くしているのがわかった。そんな様子を目の端でとらえながら、七海が洞口と川辺との間の席に座ったのを見定めて裕三は声を張りあげた。
「じゃあ、全員が揃ったところで、いちおう、いつものように乾杯をしようか」
 裕三たちと七海はビール、翔太と桐子はウーロン茶のコップを手にして「乾杯」と小さく叫ぶ。
「とにかく。まずはみんな、好きな物でも食べてくれ。今夜の主旨は、おいおいと話すことにするから」
 洞口がこういって、それぞれがテーブルの上の好きな料理に箸を伸ばす。
 しばらくの間、食べたり飲んだりしたあと、源次が豆腐の田楽でんがくをごくりと飲みこんで声を出した。
「そろそろ、話をしてくれてもいいんじゃねえか、裕さん」
 この一言でみんなのはしが止まり、視線が裕三の顔に集まる。
「実は、ちょっとした事件がおきた」
 裕三は手にしていた串カツを皿の上に戻して、低い声でいった。
「これはしゅうちゃんと七海さんにはすでに連絡ずみのことだが――たけふみ君が店から消えていなくなった」
 みんなの間からざわめきがあがった。
「丈文君が消えたって……店の開店は、あと十日ほどですよ。大事件ですよ」
 川辺が叫ぶようにいった。
「そうだ。改装工事が、あと四、五日で終り、新生・宝パン工房は十日後に開店ということになっている。そのたんで、店の主人になるはずの丈文君がいなくなってしまった。これをどうしたらいいのかというのが、今夜の集まりの主旨だ」
 困りきった顔で洞口がいう。
「どうしたらいいって、修ちゃん。丈文君がいなけりゃ、パンが焼けないじゃないですか。誰か代りのパン職人を見つけてこない限り、無理じゃないですか。それに、いったいどんな理由で、どこへ行ってしまったんですか、丈文君は」
 珍しく川辺が興奮ぎみにいった。
「そのことだが――」
 裕三が、みんなの顔を見回して口を開いた。
 今朝のことだった。
 改装工事のしんちょく状況を見るために、裕三は『宝パン工房』の現場を訪れ、そのついでに話でもしようと丈文が寝起きをしている二階にあがってみた。が、そこには丈文の姿はなく、部屋の隅にある小机に一枚のメモが置いてあった。
『すみません。訳あって姿を消します。でも、必ず帰ってくるつもりです。必ず……』
 メモには走り書きで、これだけ書かれてあった。
 裕三は何度も丈文のケータイに電話を入れたが出る気配はなく、このあとすぐに洞口に会い、そしてこの状況を七海に伝えて今夜の集まりになった。
「七海さん。丈文さんの実家は確か隣町だと聞いていましたけど、そこには」
 翔太がおずおずと声をあげた。
「このことを聞いて、私も丈ちゃんと連絡をとろうとしましたが、ケータイもラインもまったく駄目でした。それで、すぐに隣町にある丈ちゃんの実家の杉本ベーカリーに行って、お母さんと話をしてきたんですけど、丈ちゃんからは、ここのところ何の連絡もないということでした」
 七海は高校のときの丈文のクラスメートであり、今回の事業に丈文を推薦した当事者でもあった。
「杉本ベーカリーは確か七年前に店をたたんで、廃業しているということだったね」
 裕三が確かめるようにいうと、
「七年前にお父さんが心筋こうそくの発作でそのままくなり、店が立ちゆかなくなってむなくやめることに――丈ちゃんは一人息子で兄弟もいませんでしたし。そのとき丈ちゃんは高校二年でしたけど、これを境に学校を中退して働くことに。知り合いのパン屋さんで修業をして、いずれは自分の店を開くのが夢だと当時もいってたのをよく覚えています」
 申しわけなさそうにいって、七海は肩を落してうつむいた。
「メモには必ず帰ってくると書いてあったんじゃろうが、それなら帰ってくるんじゃねえのか。開店の直前ぐらいに、けろっとした顔をしてよ」
 何でもないことのようにいう源次に、
「帰ってくればいいですけど、もし帰らなければ大事ですよ。商店街の資金を使って改装までした店が、いざふたを開けたらパン職人がいなくなって開店休業では。私たち推進委員会の者は商店街のみんなからふくろだたきですよ。表を歩けなくなりますよ」
 志の田の件が頭にあるのか、今日の川辺はいつになく攻撃的である。
「それは、そうなんだが」
 ぼそりと裕三は口にして、
「この丈文君の書き残したメモを見て、翔太君はどう思う。何を感じ取ったか率直に教えてくれないか」
 翔太に意見を求めた。いつもの、苦しいときの翔太頼みである。
「率直にいえば――」
 ごくりと翔太はつばを飲みこんだ。
「メモに走り書きという点を考えれば、この文章にはうそも技巧もないと思います。すべてが丈文さんの本音で、すべてが事実に違いありません。特に気になるのが――」
 言葉を切る翔太を、みんなが凝視する。
「みなさんも感じていると思いますが、必ず帰りますではなく、帰ってくるつもりですという言葉――これは、ひょっとしたら帰れないという意味を含んでいるようにも。そして、もっと気になるのが、姿を消しますというところです、用事ができて、どこそこに行ってきますではなく、姿を消しますという言葉。僕はここに怖さを感じます。この文面には、切羽つまった怖さがあふれています」
 しゃべり終えた翔太は大きな吐息をもらした。
「怖さって何じゃ。命の危険か」
 源次が身を乗り出してきた。
「少なくとも丈文さんは、そう感じているように思えます。詳細はもちろん、わかりませんけど」
「そんな、ヤバい話なのか」
 洞口がえるような声を出した。
「確か丈文君は一時、悪い連中とつきあっていたと裕三さん、いってませんでしたか。彼からそう聞いたと」
 川辺がたたみかけるようにいった。
「詳細は語らなかったが、面接のとき、確かにそう聞いた。しかし、丈文君はそれを悔いていて、ここで念願だったパン屋をやって生まれ変りたいともいっていた。俺はその言葉を信じた。いや、この若者をここで生まれ変らせてやりたいと思った。それぐらい丈文君の態度は真剣そのもので、真情にあふれていた。俺はこの言葉は本物だと信じた」
 絞り出すように裕三はいった。
「こぼれ塾をやっているだけあって、裕さんは落ちこぼれに甘いから」
「川辺、言葉がすぎるぞ」
 源次のドスのいた声に川辺は首をすくめてうつむいた。
「要するにじゃ――」
 源次がみんなの顔を見回した。
「丈文はどこか怖いところから追いこみをかけられて姿を消した。怖いところの追いこみなら理由は金――丈文は金策に走り回ってるんじゃねえか。金策が成れば丈文は帰ってくるし、成らなければどこか遠いところへ逃げ去る。そういうことなんじゃねえのか。どうだ翔太、わしの推理は」
 ちょっと心配そうに、源次は翔太の顔をうかがう。
「おそらく、源次さんの推察通りだと思います。いったい、どれほどの額かはわかりませんが。身の危険を感じるほどの額となれば……」
 翔太の言葉に源次は太い腕をくんで、何度も大きくうなずく。
「丈文君は商店街の金を三十万ほど持っていた。俺が渡した」
 ぽつりと洞口がいった。
「パン造りに必要な細々な物と、皿やらトレイやら、そんな物を揃える資金が必要ということだったので、一週間ほど前に町内会の資金のなかから俺が渡した」
 首をたれていった。
「持ち逃げですか。それなら帰ってきませんよ。借金はおそらく数百万ほどでしょうから三十万は逃走資金で、このままトンズラですよ。警察にまず通報して、早急に新しいパン職人を探したほうが無難ですよ。といっても、たやすく見つかるとは思えませんが」
 どうも今日の川辺は、かなり気が立っているようだ。
「おい川辺。おめえ、今日の会合に志の田が外されたからといって、子供のようにねたことをいうんじゃねえよ」
 単刀直入に源次がいった。
「いや、私は、そんなことは……」
 とたんに川辺の顔がまっに染まった。
「すみません、大人げないことを並べたてて。いいすぎました、謝ります」
 蚊の鳴くような声を出して頭を下げた。
「どうか、待ってやってください。ぎりぎりまで、待ってやってください」
 ふいに翔太が叫ぶようにいった。
「丈文さんは帰ってきます。たとえ金策ができなくても、丈文さんは必ずこの町に帰ってきます。僕は丈文さんを信じたいです。ですから、ぎりぎりまで。ぎりぎりまで、待ってやって……」
 翔太も丈文同様、親一人子一人の家庭だった。それに、ひょっとしたら七海のことをおもんぱかって……。
「俺も丈文君を信じたい。彼のこれからの芽を俺はつみたくない。だから待ってやってほしい。丈文君を信じて、ここは待ってやるのが筋だと俺も思う」
 翔太の言葉に呼応するように裕三はいい、みんなに頭を下げた。
「私からも、お願いします」
 今度は七海が声をあげた。
「一時は横道にそれたこともありましたが、根はいい子なんです、丈ちゃんは。私も必ず丈ちゃんは帰ってくると信じています。あの子は死んでも帰ってきます。そういう子なんです、あの子は。お借りしたお金は――」
 といいかけたところで、洞口が声をあげた。
「よし、待とう。甘いかもしれんが、いざとなったら、みんなで責任を取ればいい。そういうことだ」
 はっきりした口調でいった。
 拍手があがった。
 桐子だ。ついで源次がそれに加わり、最後に川辺が盛大な拍手をつけ加えた。
「もともとは空き家問題が解決して、万々歳だったんだからね」
 大声で桐子はいってから、
「でも、これって――国語の教科書に載ってた、『走れメロス』にそっくり」
 首をかしげながらつぶやいた。

 桐子のいう通り、事の発端は商店街の空き家問題だった。
 長引く景気の悪さと消費者のこうの変化が重なって、どこの商店街でも店を閉めるところが多くなり『昭和ときめき商店街』もその例からもれることはなかった。
 表通りだけでも十八軒。
 活気を取り戻すためにも、これを何とかできないかという声が商店街のなかから出始めて、空き家の活用に推進委員会が動くことになった。
 再生するなら若い血の投入――裕三は商店街の集会で持論を展開して商店主たちもこれに同意し、その結果白羽の矢が立ったのが三年前に廃業した宝パン工房だった。
 年老いた夫婦二人でやっていた宝パン工房は、三年前に奥さんがまっ出血をおこして急死。これで仕事をする意欲を失ったご主人は、店を閉めることにした。ここ十年ほど客足が落ちているというのも、大きな原因のひとつのようだった。ご主人は、家を出て町田市で住居を構えている息子の家に引き取られ、宝パン工房は無人の店舗になった。
 無人ではあったが、廃業してまだ三年。そのままになっている、パンを焼く設備はまだ使えるはず――これに目をつけた裕三は、すぐに町田にいる老主人の元を訪れて、店を貸してもらえるよう掛け合った。
「ほっておいても、朽ちて崩れるだけ。ありがたい話です」
 と老主人は設備の点検と調整を早急にしてくれることを約束して、快く裕三の提案を受けいれた。
 むろん無料ではなく、なにがしかの賃貸料を払うという正式な契約だった。これでひとつの難関は突破したが、いくら廃業してまだ三年といっても内装はすすけていた。食べ物商売でこれはまずかった。
 裕三たちはこれを商店街の集会にかけ、内装と表回りを新しくすることを提案して意見を聞いた。
「一度閉めた店を、形ばかりに新しくしても客がくるはずがない」
 こんなことをいう商店主もいたが決を取って何とか承認を得、その結果、百五十万円の資金が出ることになった。リフォームは商店街の裏通りにある内装業者に頼みこみ、何とか百万円内で工事をしてもらえるよう話をまとめ、あとの五十万円は予備費に回すことにした。
 残るのがパン職人の確保だった。
 これが難航した。
 ネット募集をかけても応募してくるのは職人見習い志望で、プロは皆無だった。裕三たちが欲しいのは見習いではなく、即戦力だった。推進委員会は頭を抱えた。そんなところへ朗報を持ってきたのが七海だった。
「私の高校時代のクラスメイトに杉本丈文君というのがいるんですけど、この通称、丈ちゃんの実家がパン屋さんだったんです」
 と七海はいい、『杉本ベーカリー』が店を閉じたてんまつと、高校中退後、丈文がパン職人になるため都内のパン屋で修業をしていたが、今はそこをやめてぶらぶらしているということを裕三に話した。
 渡りに船と裕三が身を乗り出すと、
「ただひとつ、心配な部分があります」
 七海はこういって顔を曇らせた。
「丈ちゃんが店をやめた理由がよくわからないんです。友達の間のうわさでは、店の金を遣いこんで首になり、その後は悪い連中とつき合っているというのがもっぱらですが、真偽のほどはわかりません」
 七海は肩を落した。
「いいことも悪いことも若いうちには、いろいろあるさ。をやるのが、若さという名の代名詞ともいえるしね。悪いことをするのは若者の特権というと語弊があるけれど、そんな境遇から抜け出せるというのも、俺は若者の特権だと思っているよ」
 裕三はここで一息いれ、
「もし、その丈文君という子にやる気があれば、一度会わせてもらえないかな。会って話をして、そのうえできてもらうかどうかを判断してみたいから。だから、紹介してもらえれば有難いんだけどね」
 丁寧にいって頭を下げた。
「わかりました。実家に連絡をとって話をしてみます。まだ家で、ぶらぶらしているはずですから」
 七海はこういい、三日後、裕三は商店街の外れの『ジロー』という名の喫茶店で丈文に会った。
 驚いたことに七海も一緒で、二人は店の奥の席に並んで座っていた。丈文は素朴な顔の持主で体型も中肉中背――地味なかんじの若者だった。
「七海ちゃんが一緒にくるとは、思わなかった」
 笑いながら裕三がいうと、
「ちゃんとした場所に一人では心細くて。それで頼みこんで……七海さんは高校時代から、しっかり者で通っていましたし」
 ちゃんとした場所と、丈文はいった。
「そうか、七海ちゃんは高校時代から、しっかり者だったか」
 コーヒーカップを手にして、裕三は笑ったまま言葉をかける。
「それに七海さんは、僕の初恋の人ですから……ふられましたけど」
 いかにも恥ずかしそうに、それでも意を決したような面持ちで丈文はいった。両肩がつんと尖っていた。
「えっ、私って丈ちゃんの初恋の相手なの。そんなこと全然知らなかった」
 七海が驚いたような声をあげた。
「あのころは遠くから見ていただけで、意思表示はしなかったから。しても、どうせ駄目だということはわかっていたし。七海さん、けっこう、もててたから」
 ちらっと丈文は、七海の横顔に目を走らせる。かすかな期待感をにじませるように。
「それはまあ、何ともいえないけど――何にしても知らなかったことは確か」
 特段の反応を見せない七海を見て、丈文の顔に落胆の表情が浮ぶのがわかった。
「初恋なんてのは、そんなもんだよ。うまくいかないのが初恋というシロモノで、うまくいったら面白くも何ともない」
 口にする裕三の脳裏に、七海の母親であるけいの端整な顔が浮んだ。恵子は裕三を始め、独り身会の洞口、川辺、それに源次の初恋の相手でもあった。
 そして裕三は二十一年前、妻がいながら、同じように夫のいる身の恵子と事をおこした。目の前にいる七海はひょっとしたら、そのときの……わからなかった。わからなかったが、その可能性は否定できなかった。
「で、丈文君は初恋の相手で、しっかり者の七海ちゃんを用心棒代りにしてここにきた。そういうことなのかな」
 裕三は挑発的な言葉を、あえて口にした。
「いえ、それは違います」
 即座に丈文の口から否定の言葉が出た。
「僕が七海さんに一緒にきてもらったのは、証人になってもらうためです。これ以上、道を踏み外さないための」
 はっきりといった。
「道を踏み外すというのは、うわさになっている店の金を遣いこんでうんぬんという……」
「はい。でも僕は店の金は遣いこんではいません。僕がやったのは、ギャンブルにのめりこんだことです。それで深みにはまったことです」
 パン職人の修業を始めて、五年目のことだと丈文はいった。
 パン造りの技術のほとんどを身につけた丈文に、気の緩みが出た。一息いれるために、府中の競馬場へ出かけたのが始まりだった。面白かった。スリリングだった。勝っても負けても体中の血が騒いで、胸が締めつけられた。実際に目にした疾走する馬の姿は、力強かったし美しかった。丈文は休日の度に府中の競馬場へ出かけるようになった。
「そこで悪い友達もできて、深みに……」
 ぼそっと丈文はいった。
「その深みというのは?」
 裕三は思わず身を乗り出した。
「すみません。それはまだいえません。きょうなようですが、それはまだ、心の整理がついていません。だから、いずれ……」
 丈文は肩を落した。
 正直といえば正直な人間に見えた。
「わかった。それなら今はかないことにしよう――それでその、悪い友達というのは縁が切れたんだろうか。それだけは知りたいんだが」
 訊かないわけには、いかなかった。
「切れたはずです。一年ほど家でぶらぶらしてましたけど、今はケータイにも連絡は何もありませんし」
「その連中は、丈文君の実家の住所は知ってるんだろうか」
 気になったことを口にした。
「住所は知らないはずです。知っているのはここの沿線の町だということだけで、それ以外は」
 小さな声で丈文はいった。
「そうしたことも含めて、丈文君は七海ちゃんに証人になってほしかった。そういうことでいいのかな」
 念のために訊いてみると、
「はい。七海さんに立ち会ってもらって証人になってもらえば、もう莫迦なこともしないだろうと思って。多分僕にも、男としてのプライドというものがあるはずですから。いくら弱い心の僕だって。いえ、弱い人間だからこそ、七海さんに立ち会ってもらったんだと思います」
 一気に丈文はいった。
「心が弱いというより、丈ちゃんは心が優しいんです。私はそう思っています」
 七海の一言で、丈文の表情が和らぐのがわかった。
「それからもうひとつ、七海さんの前で、パン造りに対する僕の情熱を話したかったんです。駄目な部分だけではなく、僕のいい部分も知ってほしいというか……僕はこの町でパン屋をやって、生まれ変りたいんです。それを、七海さんに立ち会ってもらいたかったんです」
 どうやら丈文はまだ、七海のことを忘れることができず、初恋のざんを引きずっているようだ。
「僕には造りたい、パンがあります」
 突然丈文が、はっきりした口調でいった。
「体にもよく、美容にもいいパンで、僕はこれを健康美顔パンとひそかに名づけてみました。もちろんこれは仮の名前で、実際に売り出すときは、変えてもらってけっこうです」
 幾分胸を張っていった。
「健康美顔パン――それは何とも魅力的なパンというか」
 裕三は思わず身を乗り出す。
 いくらパン屋を開業しても、目玉になる商品がなければ客はこない。丈文の口にした健康美顔パンは、その目玉商品になり得るような気がした。
「素材は玄米で、これをベースにした食パンなんですが、僕はこのなかに雑穀のはとむぎと黒米を加えて、パンを造りあげたいと思っています」
 力強い口調でいった。
「玄米が体にいいのはわかるけど、鳩麦と黒米の働きがよくわからない。そこのところを、ざっとでいいから教えてもらえないか」
 正直なところを口にした。
「簡単にいえば、鳩麦は皮膚の栄養であるコラーゲンを増やす働きがあることがわかっていますし、黒米は成分のポリフェノールが活性酸素の働きを抑え、肌の老化を防いでくれます。だから、この二つの雑穀と玄米を合せれば、健康と美しさの二つが手に入る――そういうことになるはずです」
 丈文も身を乗り出していった。
「それはすごいな。で、そういうパンを売り出しているところは今現在、他には」
「残念ながらあります。が、まだ浸透はしていませんし、値段も高めです。僕はこれをもっと安い値段で、お客さんに提供したいんです。そして浸透させたいんです。さらに、こうした雑穀というのは……」
 こんなことを身振り手振りを交えて、丈文は裕三に懸命に伝えた。
 目を輝かせながら、丈文は語った。
 これは紛れもなく、パン職人の目だ。
 裕三はそう思った。丈文のパンに対する情熱は本物だ。
「キヌアやアマランサス、あわひえを始め、雑穀には沢山の種類があります。そして、それぞれが体によく、美容にいいことは今までの研究でわかっています。ゆくゆくは、こうした様々な雑穀を用いたパンを僕は造っていきたいんです。それがパン修業をしてきた結果といいますか、僕の夢なんです」
「味のほうは、どうなんだろうね」
 気になっていたことを訊いてみた。
「正直いって、おいしくないです。これを口あたりのいいものにするためには大量の砂糖が必要ですが、それでは糖分の取りすぎになってしまいます。だから僕は、わざと素朴な塩味にしたいと考えています。雑穀に合うのは砂糖より塩――めば噛むほど、おいしさが口中に広がっていくはずです」
 丈文のパン談議は、これから一時間近くつづいた。パンの話をしている丈文の顔は生き生きとしていた。うれしそうだった。両目が熱をもって輝いていた。
 この若者に懸けてみよう。
 裕三はそう思った。
 少々危ない部分もあったが、パンに対する情熱は本物のように思えた。健康美顔パン――これを宝パンの目玉商品にすれば、あるいは。というより、裕三はこのパンがむしょうに食べたかった。これがこのときの、正直な裕三の思いだった。
 ふと隣に目をやると、七海も丈文の話を真剣に聞いているのがわかった。丈文の素朴な横顔を凝視しながら、両手をひざに置いておとなしく。
 似合い……こんな言葉が裕三の胸をかすめた。七海は、妻子のある中年男と泥沼のあやまちを犯した。あの中年男との出来事に、七海がどう折合いをつけたのかは裕三にはわからなかったが、少なくとも七海には幸せになってほしかった。それも、年相応の男と……。
 これが今から一カ月ほど前の、出来事だった。
 そして、丈文はこの町から消えた。(つづく)