第一章(承前)




      10(承前)




 すぐに電話に出たみつに、とものことはせ、現場に残された桜の花型のへんに付着していた指紋と、自分が採取した指紋とを照合できるかを問うた。
「やっぱり先生はすごい。もうそこまで……やります、やらせていただきます。その辺りは何とでもしますから。いやー、それにしても驚きです。久しぶりにそうちました。ご覧に入れられないのが残念なくらいです」
 電話を切るとけいろうは、
「鼻息どころじゃなかった」
 そうらしてすみを見た。
「そりゃそうよ。奇跡的な偶然によって一気に事件に関与した人間、ううん、ほぼ犯人が特定されるんだから。新聞記者としてスクープ中のスクープになるわ」
「君まで鼻息を荒くしてどうするんだ。ああ、どうして僕は、事件に深入りしてしまうんだろう」
 まだ握り続けていたスマホをテーブルに置く。
「私も事件なんていやだわ。でも、いま思ったんだけど……やっぱり言わない」
 と澄子がソファーから立ち上がろうとした。
「おいおい、言いかけたんなら途中でやめないでくれよ。精神科医の気持ちを乱してどうする」
 澄子は座り直し、
「慶さんの使命なのかもって、光田さんとのやり取り聞いていて思ったの」
 と慶太郎を見詰める。
「大げさだな。僕の仕事は心の不調を改善してあげることだよ。警察官や弁護士とはちがってね」
 妻の言葉が照れくさく、慶太郎は足を組み直した。
「犯罪の加害者も被害者も、その家族たちも、もっと言えば通りすがりの目撃者さえもみんな心が傷ついてるって、慶さんは思ってるんでしょう?」
「事実、そうだからね」
「犯罪を中心に慶さんが救ってあげたい人がうごめいてるのよ。裏を返せば、そこに助けてほしい人が集まってる」
「そこに引き寄せられているってことか」
 澄子が使命という言葉を使った本意が分かった。
「被害者に関心が向いているのは、警察が犯人を逮捕するまでだわ。加害者が判明すれば、いずれ世間の人は事件そのものを忘れてしまう。加害者の家族に至っては、はなから考えの中にないわ。傷ついているのに。でも、そこまで気配りするのがもとみや慶太郎じゃないの?」
「そう言ってくれると動きやすいよ」
「それもこれも、クライエントがたくさん来院してくださるからよ。みなさんの悩みだって事件なんだから」
 とウインクして、澄子はスケジュールの調整をすると言って、診察室を出て行った。

 その日の診察を終えた後、大手を振って友美のことを調べることができると、慶太郎はおおの『さいとうこころのクリニック』に電話をかけた。
 運よく斎藤院長につながり、二十年前にうつ症だと診断された女子高生のことを問い合わせたが、やはり年月の壁は厚くカルテは処分したという返答だった。
 ここで引き下がっては澄子の言う使命を果たすことができない。当時の担当医が分からないかと食い下がると、斎藤は前院長に聞いてみると言ってくれ、電話をそのまま保留に切り替えたようだ。保留になったことが、すぐに分からなかったのは、音が聞こえない程の静かな始まりのエリック・サティの「三つのジムノペディ」第一番だったからかもしれない。
 嫌いではない曲に耳を傾けながら、どこかで友美が人を突き落とすことなどできるはずがないし、何かの間違いだと思っていた。その一方で加害者をも救わねばならないとなれば、これからのカウンセリングの難しさに身震いせざるを得なかった。
 音楽がプツッと切れると、
「お待たせしました。前院長の斎藤いちに代わります」
 という声が聞こえた。
「前院長が直接?」
「ええ。私の父です。隣の自宅におりますんで」
「そうですか。助かります、よろしくお願いします」
「もしもし、斎藤です。本宮先生、テレビで拝見しました。いやー面白かったです」
 ゆったりとした話し方でかすれ気味の声から、七十代に思えた。
「お恥ずかしい限りです、諸先輩を差し置いてテレビでカウンセリングをするだなんて」
「私はいいと思いますよ。心療内科への理解が広がるんじゃないかな」
 慶太郎がコーナーの初回で、最近のテレビに多いじょうな演出やおふざけができないふんかもし出した、と斎藤は評価してくれた。
「そう言っていただけると、番組を続けていく価値もありそうです」
「ぜひ、ぐちを広げてください」
「恐れ入ります。それでですね、ご子息にもお伝えしたんですが、クライエントであるぼり友美さんの過去の病状を調べておりまして。もし覚えておられたらと連絡させていただきました」
「その件ですが、カルテは五年で処分しています。ただ私は毎日、日記を付けてましてな」
 その習慣は、医師となって患者をはじめて診察した日から一日たりともれてはいないのだそうだ。
「それは凄いですね。僕も日記は付けていますが、気の向いた日だけで」
「まあくせになってるんで、書かないと眠れんのです」
「では、そこに古堀友美さんのことも?」
「ええ。近くクリニック開業の歴史をまとめようと昔の資料をひっくりかえしていたとこでしてね。なんせ本宮先生からの問い合わせだ、慌てて探しましたよ」
 斎藤は大きな声で笑った。
 クリニックを開院したのが二二年前で、まだクライエント数が少ないこともあって、友美の名前は容易に見つけ出せたそうだ。
「本宮先生みたいに人気があればいいんですが、開院当初は火の車でしてね」
「いや、うちもテレビのお陰で何とか回り出したって感じです。その古堀さんですが」
 慶太郎は現在の友美の状態、同居する弟の世話を見るほど回復していたが、今年四月頃よりよくうつ傾向を示し、自室へ引きこもり日常生活にもしょうをきたしていることなど、かいつまんで話した。その上で、この問い合わせが診療目的の医療情報に当たり、個人情報保護の観点にのっとっているむねを確認し、後に正式な書類を提出する用意があることを伝えた。
「いやいや、かたくるしい書類は結構です。カルテのかいでもありませんしね」
「ご協力、感謝します。彼女が来院したときの様子は分かりますか」
 慶太郎はメモ用紙の上でボールペンを持ち直す。
「日記を読んでいるうちに、何となく思い出してくるもんですね。気になる患者の一人だったようだ。私は五十前で、さっき出た息子が医大に入学し、下に娘がいるんですが、これが十七歳。娘に近い年齢だったから印象に残ってるのかもしれません。日記にはこうあります。『四月十一日、初診。母記述の初診カードに、自分の体を傷つけるというもんごんあり、要注意。クリニックには母親が無理やり引きずってきた印象。学校に行かない、ご飯を食べない、部屋から出ない、何を聞いても返事をしないと、母親が興奮気味でまくし立て、当人はうつむき沈黙、終始無表情。世間話の後、ようやく引き出した当人の言葉は身体がだるくて動けない』」
「傷は手ですか」
 二十年前に今のようなニードルでようもうを突くフェルト手芸がっていたとも思えない。となると刃物で切る行為だろう。多くは手首から腕にかけてになる。
「それに関して初診では確認してないみたいです。十八日の二回目の診察で『親指に傷あり』と記してますからね。さらに『顔色悪し。母に問えば、食事をらず、昼夜逆転の暮らし。昼寝をしているとき大きな声で叫ぶこと数回あり』と」
「悪夢を見ていた可能性もありますね」
 たかあきが夜中に聞いた友美の叫び声と同類のものなのだろうか。
けんたいかんに悪夢、それに三回目の診察でこんな話が出た。『母親、父親を極端に毛嫌いすることにこんわく。家族がバラバラになっている。当人、自分は悪い子だから、いなくなったほうがいいと漏らす』」
「お父さんを毛嫌いしていた、というのは弟さんからも聞いてないですね」
「それで、めっにやらないんですが、個別面接を行ったんです。すると表情が少し変わったみたいだ」
 電話の向こうでページをめくる音がして、斎藤は続ける。
「記憶が鮮明でないところは日記を引用させてもらいます。『母親と別にされた娘は、通常は一人にされたことに不安を覚えると思うが、彼女はむしろホッとした顔つきになった。そして母親の待つ待合室を見る目に冷たいものを感じた』」
「なるほど、気になる反応ですね」
「さっきも言いましたが、娘がいます。思春期の女性の冷ややかな目というものに、私自身が敏感になっていたんで、気づけたんだと思います。この後にそのようなことをつづってますんでね。そもそも娘が、私に対して距離をとり始めた時期と重なったために、日記で詳しく触れたんです。得てして身内の精神状態のほうが判断しにくいもんですからね。ただ、娘と明確に違う点としてしょう行為がありました。登校拒否、男親へのけん、抑うつ症状、さらには母親への冷たい視線から、あることを疑った」
 斎藤が息をき、
「父親からのぎゃくたいです」
 と重い口調で言った。
「それは性的な暴行という意味ですね」
 確かめるのも嫌な言葉だ。孝昭からまったく得られていない情報だが、慶太郎は驚かなかった。たとえ、そんなことがあったとしても、友美は姉としてそれを弟に言えるはずがなく、孝昭が知らないのも当然のことだからだ。
「得てして父親からの暴力を受けている女性は、それを止めてくれない母親に失望するものです。で、母娘の間に冷たい風が吹く。しかしながら本人からは聞き出せなかったので、事実は分かりません。その前のりつせい調ちょうせつしょうがいでの入院も、一種のとうではなかったかと考えられます」
びょうだとおっしゃるんですか」
ちょうこうはあったんでしょうが、入院するほどではなかったのかもしれないですね。母親が言うには、退院してきてから引きこもりが始まったようですから」
 トラウマから逃避できていたのに、退院して元に戻ったことがしんてきがいしょうストレス障害を悪化させ、うつ病へと移行したと斎藤は診断した。
「それで薬物療法を?」
「ええ。迷ったんですが、自殺されては困るんでね。リフレックスをしょほうしました」
「一五ミリグラムを一回ですか」
「いや、二回で一回は就寝前と記録してますね。それが徐々に増えていて最終的には四五ミリまでになってしまったようです」
「効果は、いかがでした?」
 十七歳以下ではそれほど効果は認められていない薬だ。そればかりか、眠気や倦怠感といった副作用に注意が必要になる。場合によっては、さらなるねんりょしょうじさせることもあるのだ。
「自傷行為はんだみたいです。ただ、だんだん診察のインターバルが空いていきました。そのうち通院しなくなったようです。この患者に関して、日記で触れているのは三月から五月くらいまでの三カ月間で、それ以降はまた別のクライエントについて書き込んでます」
「通院をやめてしまうリスクについて、説明されなかったんですか」
「開院以来、来る者はこばまず、去る者は追わずというスタンスでやってきましたから。自分ので受診してもらわないと良くならないですからな」
「別のクリニックを受診したかも分からないってことですね」
「それもクライエントの自由意思です」
 斎藤の自信を持った言い方が引っかかったけれど、
「あの、登校拒否のほうですが、まったく学校に行かなかったんでしょうか」
 と慶太郎は質問を変えた。
「ええっと、こんな記述がありますね。『時折登校するが、昼前には帰宅。弟の手前、それは隠している』。ほとんど通学してないことは、弟さんに話してないんじゃないでしょうか」
「先生のクリニックに通院しなくなってからは、学校に行ってないことを両親も隠さなくなったようです。弟さんも知ってましたしね。学校やそれ以外かもしれませんが、誰かから優秀だとめられたという話が出たことはありませんか」
「褒められたこと? こうていするようなことは、たぶん聞いてないですね」
 そう言ってから少し間が空き、
「そんな話、やっぱり書いてないようだ」
 と斎藤が言った。
「では、優秀と書かれた花型の紙に心当たりはないですか」
「優秀と書いた……そんなのがあったら、必ず日記に書いてるでしょうな。とにかく当時は父による虐待、それを止めてくれない母への怒りで、彼女の心は壊れている状態だった、と診断してます」
「つまり心的外傷後ストレス障害によるうつ状態だと」
 慶太郎は再度、診断結果を口にした。
「ただ本宮先生、私は今、安心もしています。だって、そうじゃないですか、トラウマを抱えながらも、その後二十年間せず生きていてくれたんですから」
「……確かにそうです。貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。大変参考になりました。今後の治療に役立てていきます」
「また何かあったら電話ください。時間が合えばいっこんかたむけましょう」
「ぜひ」
 慶太郎はまた礼を述べ、電話を切った。
 友美が父親からの性暴力を受けていたとすれば、斎藤の診断もうなずける。
 ただ、もしそうならよし神社の事件との関係に変化が出てくる。うらむべきは父親であり、しまざきではない。島崎に優秀の紙を渡す意味もなければ、突き落とす動機もなくなる。無関係であったものを、新聞を捨てた行為だけでごういんに結びつけてしまったのかもしれない。
 慶太郎は、デスクの上の紙の花を手に取る。
 孝昭は友美がこの紙の花を所持していたところを目撃している。裏に優秀の文字としゅいろの二重丸まで一致しているのだ。似たものが現場に残されていたのが偶然だ、とは思えない。だから、友美の指紋を採取しようとしているのではないか。
 親子関係については、孝昭を含めてヒアリングしなければならないと考えていたが、父娘関係を優先して探らねばならなくなった。まずは斎藤の見立てが正しかったかを見極める必要がある。トラウマを抱えていたとしても、十六歳の少女にいきなり薬物治療は早計だ。
 リフレックスは、注意すべき様々な副作用がある薬だが、それ以上に急な服用中止のほうが危険なのだ。ことに希死念慮をいだく患者は、中止を機に最悪の場合、命を絶つ恐れがある。
 父親からの性的暴力を疑っているならば、なおさら追跡の必要があった。少なくとも母親には治療中止のリスクを説明しておくべきだ。
 友美のトラウマからすれば、去る者は追わずは無責任だと言わざるを得ない。
 慶太郎は立ち上がると、まりこういんにも持ち込んでいるぼくとうを手にした。せいがんから上段に構えを変え、仮想の相手のめんを打った。木刀の風を切る音が診察室内にひびいた。




      11




 連日の診療とカルテの整理で疲れ、すいみんどうにゅうざいの力を借りないと眠れなくなっていた。そのせいもあって友美のおうしん、慶太郎にしては珍しく朝寝坊をした。
「目覚まし鳴った?」
 着替えて洗面所から出ると午前九時を指す壁時計をにらみ付け、リビングテーブルに着く。
「鳴ったけど、すぐに自分で止めたみたい。音がすぐにやんだから起きてくると思ってたら来ないし、心配になって見に行ったわよ。いびきかいてた」
 澄子が吹き出す。
「起こしてくれればいいのに」
「日曜日だし、いつもと同じ時間に起きなくていいと思ったの。往診の時間にさえ間に合えばいいんでしょう」
 澄子はサラダとトースト、コーヒーをテーブルに置いた。あさの香りで、お腹の虫が鳴った。
たけるは、道場か」
 テーブルに付属するマガジンラックから朝刊を引っ張り出す。
「道場だけは文句言わずに行くわ」
「先生の教え方が上手だからじゃないか」
 自転車で五、六分のところにある剣道場のはんもろおかけんという警察OBだ。七十歳を超えてなお、かくしゃくとしていた。尊の入門時に会ったが、物腰がやわらかく表情もにゅうな印象だ。見学したけいでも、褒めて育てる指導方針らしく好感を持った。加えて澄子には内緒だが、指導を手伝う諸岡の孫娘がアイドルはだしのよう姿で、男女を問わず練習生に人気があるようだ。練習の合間に、彼女を中心にくるまができる。
「あのおじいさん先生、優しそうだものね。私はついガミガミ言っちゃうから反発するんだろうけど、笑ってばかりはいられないし」
 澄子は慶太郎の前に座って、ハーブティーをマグカップに注いだ。ローズマリーとハイビスカスのあまっぱい香りが食卓に加わる。
「この頃、相手をしてやる時間、本当になくなったもんな」
 澄子に言われる前に、予防線を張ったけれど、尊はもうプラモデルよりも異性のほうに興味を持ち出しているのかもしれない。成長したと慶太郎は喜びたいが、澄子は複雑だろう。
「仕方ないわよ。こんなこと今だけだから」
「かもね」
 慶太郎はポテトサラダを食べ、新聞を広げる。大方の読者がやるように、大見出しにサッと目を通し新聞記事の全体像をとらえ、興味ある記事だけ本文に目を通す。
「うん?」
 視点を止めた。
「どうしたの?」
「吉田神社の事故の記事、小さいけどってる。転落した弁護士の顔やちゃく、現場のりゅうひんからかん対策用のスプレーの成分、オレジン・カプシカムが出たことを公表したんだね。で、事故から事件捜査に切り替わったみたいだ。捜査本部が設置されたとある。それに、まだ関連は不明としながら、島崎さんにかかってきた女性からの電話について着目してるって」
「殺人犯は女性って言っているようなものね。例の花型の紙のことは?」
 澄子もサラダを口に運ぶ。
「まだ、報じられてない。助かった」
 そんなものが新聞に掲載されて友美が目にでもしたら、ほっ的に何をしでかすか読めない。たとえ島崎の事件に関与していないとしても、友美に花型紙片に秘められた過去があることは確かなのだ。散り散りに破り捨てるだけの動機がある以上、良い思い出であるはずがない。
「光田さんのように口の堅い記者だけじゃないでしょう?」
 光田が重要証拠の花の紙を聞き出したように、他の記者も知る可能性がある。
「痴漢対策用スプレーもテレビに漏らした者がいるからね。その場合の用意もしておかないといけないな。古堀さんに連絡して、往診の前に少し話をするよ」
 慶太郎は新聞をたたみ、トーストをほおばった。

 慶太郎は、孝昭のアパート近くにあるファミリーレストランで打ち合わせをしてから、友美に会うことにした。
 店内は日曜にもかかわらずそれほど混んでおらず、二人は壁際の話しやすい席に座った。ドリンクバーを注文して慶太郎はコーラ、孝昭は紅茶をテーブルに運ぶ。
きたかみ先生のほうの企画はどうですか」
 慶太郎はおしぼりで手をぬぐいながらたずねた。
「企画書への反応はいいです。先生に監修をしていただくことになりそうなので、そのときは上司と正式な書類を持ってクリニックにうかがいます」
「それはよかった。歯科クリニックの準備のほうは進んでいますか」
「そっちはまだ二つの候補地で迷ってらっしゃいます。私が見た感じでも、こうおつつけがたいですね。もうちょっと悩まれるかも」
「いずれにしても古堀さんがリフォーム案を作成されるんですね」
先生はそのつもりのようで」
 孝昭は照れ笑いを浮かべ、すぐにおしぼりで顔を拭った。
「カウンセリングの前にごそくろういただいたのは、二、三伺っておきたいことと、ないみつな話がありまして」
 と慶太郎は、静かに切り出した。
「こちらこそ、ご配慮に感謝します」
 慶太郎は、まず以前通院していた『斎藤こころのクリニック』の、友美を診た当時の医師と話したことを伝えた。ただし、性的虐待については孝昭が小学生だったことをこうりょして伏せた。
「友美さんが登校拒否となった原因の一つに、親子関係があるのではないか、と斎藤医師はみていました。お姉さんとご両親の関係はどうでした?」
「私も子供でしたので、よく分からないんですが、姉が入院するまでは普通の家族だったと思います。普通っていうのがどんなものかと聞かれると困りますけど」
「そうですね、お互いがある程度本音で話し、本気で怒ったり、笑ったりできる家族を普通だと定義して、それでどうだと思います?」
「それなら、母親に怒られるのは私のほうです。姉が叱られているのを見たのも、やっぱり入院してからですね。しゃんとしなさいって」
「お父さんはどうですか」
「姉は怒られたことないと思います。前にも言いましたが優等生だったし、何より父のお気に入りです」
 孝昭の言い方にはジェラシーを含んでいる風に感じた。
「入退院の後も、ですか」
「変わらなかったんじゃないですかね。斎藤先生は、どうして姉の病気の原因を親子関係にあると思われたんでしょうか。そこが分かりません」
 と孝昭は、ようやくカップからティーバッグを取り出した。コーヒーのように濃くなった紅茶をすする。
「理由については二十年も前のことですからはっきりしません。虐待を疑っていたという以外は」
「虐待だなんて、何を馬鹿な」
 孝昭が声をあららげ、カップをソーサーに乱暴に置いた。
「落ち着いてください、古堀さん。あくまで当時の斎藤先生の見解です」
「す、すみません。あり得ないことだったから」
 孝昭は肩で息をしながら、うつむいた。
「不登校になる前に、すでに相当なトラウマを抱えていた。そう判断した結果、斎藤先生が導き出したものです。お姉さん自身が虐待されたと告白したんじゃない。むしろ登校拒否や引きこもりの理由が見当たらなかったんだと僕は思っています。ですが、まったく根拠のない診断も下しません。だからあえて古堀さんに伺っているんです」
 さいなことでいい、家族として何か違和感を覚えたことがないか、といた。
「厳しい人です、父は。曲がったことが嫌いで、正義感は人一倍強い。虐待は絶対にありません」
 そう言い切った孝昭は涙目をしていた。
「分かりました。この件は忘れましょう」
「先生……」
「当時小学生だったあなたにこくな質問でした。本当の原因を見つけるためだと思ってお許しください。もう一つ、お話しすべきことがありまして。先日、花型の紙のことを話題にしました。お姉さんに関係がある場合、きちんと話すと言いましたね」
「やっぱり何か」
 孝昭は新しいおしぼりを袋から出した。はやる気持ちを抑えようとする行為だ。つまり紙片のことを話してから、ずっと心にひっかかっていたのだろう。
「本当はきちんと調べた上でお話ししようと思っていました。しかし、今日の朝刊を見て、それではさらに大変なことになりそうだと判断したんです」
「朝刊に載ってましたね。姉はまだ気づいてません」
 今自分が持ち歩いている、とかたわらの黒い鞄に目をやった。
「そこにあった情報は、テレビですでに知っていた内容だったでしょう?」
「ええ、スプレーの成分名がはっきりしましたけど」
「先走った記者によるリークで、テレビに流出したんです。もう新聞社も隠す必要がなくなってしまった」
「じゃあ本来は伏せておくべき情報だったんですね」
「そうです、現場に残された重要な証拠になり得るかもしれないですから。とんでもない記者がいたもんです。今後も同じことが起こる可能性があります」
 そんな裏事情をこんにしている新聞記者から聞いたと話し、
「その記者から、遺留品に関し精神科医としての見解を求められている。それがこれなんです」
 と、慶太郎は花型の紙片をテーブルの上に出した。
                       〈つづく〉