第一章(承前)




      9(承前)




「直接じゃないですが、私は先輩から……いや、それはいいとして、お父様には紹介された男はシスコンだったって、言ってもらえればいいんです」
 くちびるを半開きにしたままこちらを見て、水で口を湿しめらせると、
「紹介か。参ったな」
 とつぶやいた。
「私だって参りました」
 おしぼりでひたいの汗をぬぐう。
「ご兄弟がおられるんですか」
 と小さな声で尋ねてきた。
「ええ、姉が」
「仲がいいんですね」
「まあ、いいんでしょうね、の姉弟が狭いアパート暮らししてるんだから。それだけでもシスコンだと言われれば、確かにそうなのかもしれません。交際を断る理由として十分だと思います。本当に私のほうは大丈夫ですから、お気遣いなく」
 一気に言うと、気持ちが楽になった。
「同居しているだけで、そんな風に言うもんじゃないわ」
「もう話してしまいますが、それだけではないんです。以前、姉とのことが原因で、恋人に愛想を尽かされたこともあるんです。しょうがないんですよ……」
 病気なのだからともが悪いのではない。心中でたかあきはそうつぶやいた。
「お姉さん思いなんですね。ちょっと確かめていいですか」
 八恵は今にも、口を大きく開けて、と言って歯の治療を始めそうなくらい顔を近付けてきた。
「なんでしょうか」
 孝昭は身を引き、聞き返した。
「たぶん大変な誤解をされているようです」
「誤解じゃなく、社内でシスコンといううわさがあることを知って、なるほどなぁ、とある意味納得してるんです。だって、いくら違うと言い訳しても、恋人より姉を優先させたことは事実ですからね。なら、もうそれでいいやって」
 投げやりな言い方になってしまった。
「そっちの誤解じゃないんです。ぼりさんがシスターコンプレックスかどうかは、むしろどうでもいいんです」
「そ、そうですね。はなからタイプじゃないって言えば済むことですよね」
「ああーもう、どう言えばいいのかな。その紹介とか、見合いとかが誤解なんです。私は何も聞いてないんですからね」
「えっ、ご存知ないんですか」
「だから尋ねてるんです。私がさっき、父が無理なお願いをしてないかって伺ったのは、御社とは長い付き合いだから、大幅な値引きを強要してるんじゃないかってことなんです」
「……値引き」
「ええ、無理な値引き」
 ツーンと耳鳴りがしてラウンジにいる客たちのざわめきが遠のいていく。血の気が引く、というのはこのことだと孝昭は初めて知った。
「値引きの指示は、ないです、ありません」
 のどがカラカラで言葉が引っかかる。
「よかった。これで一つ私の懸念は解消しました。で、もう一つ」
「すみません。私の勘違いです。みんな忘れてください」
 孝昭は勢いよく頭を下げた。
「父が、私のお見合いをかくさくしたんでしょうから、古堀さんがあやまることじゃないです。むしろこっちのほうが……ごめんなさい、嫌な思いをさせてしまって」
 テーブルを挟んで、互いが頭を下げている妙な格好となった。
「てっきり先生はご存知だと思い込んでしまって」
 そう言って孝昭が顔を上げる。
「困ったものだわ、父にも。この件、御社の先輩にも迷惑がかからないよう考えてちゃんと処理しますから、心配しないでください」
 いつまでっても過保護だから、父と距離をとりたくて別の場所で開業しようとしているのに、と八恵は苦笑してみせた。
「距離をとるための独立開業なんですか」
 会社としてはありがたいけれど、と孝昭は付け加えることを忘れなかった。話がこじれてしまっては、元も子もない。
「あなたがカミングアウトしてくれたから、私も白状するんじゃないけど、どうも私、ファーザーコンプレックスみたいなんです」
 八恵は、初対面の男性に何を告白しているんだろう、と両手でほおおおうようにして、軽く二度叩いた。
「そうなんですか」
 シスコンだと自分は認めているわけではないけれど、文句は飲み込んだ。
「私だって、何人かとお付き合いしたんですよ。でも、つい父と比べてしまうから、くいかない。過保護って言ったけど、全力で私を守ろうとしてくれているのは感じてるんです。父のような無償の愛を求めても、結局は青い鳥ですから」
「他人ではちできないでしょうね」
「なんだか皮肉でしょう? 父の望みをかなえるために、父と離れなきゃいけないなんて」
 八恵が寂しそうな顔でほほむ。
「なかなか上手くいかないものですね」
「古堀さんもお姉さんと離れてみたらどうかしら。あ、すみません、余計なこと言って」
「いえ、それができればいいんですけど」
「簡単じゃないみたいですね。さあ仕事の話に戻りましょう」
 八恵は、候補となっている物件を見てくれないか、と言った。

 八恵が案内してくれた物件は、京都駅から徒歩で七、八分くらいのところに建つ四階建てのビルだった。一階が美容院で、その横の階段を使って二階へ上がる。
き出しで何もないんですけど、前は喫茶店だったって聞いてます」
 不動産屋から借りているキーをドアに差し込みながら、八恵が言った。
 中に入ると内装ががされ、コンクリートの壁や柱が露出ろしゅつしていた。
「自由にリフォームしてもいいんですか」
 孝昭は壁に沿って歩く。
「ええ。そこが気に入ったんです」
「広さは、ざっと見て十五坪くらいですから、ユニットは三台が限界でしょう。しん専門とおっしゃってましたけど、当然治療もされますよね」
 ユニットとはデンタルチェアを中心にして、ライトや歯を削るタービン、きゅういんバキュームなどと、それらを操作するパネル、器具を置くテーブルやうがい用のスピットン一式の設備のことだ。
「ええ。審美専門のクリニックにしたいと言ったのは、父の医院との差別化を図るための大義名分です」
「となりますと、レントゲンも必要だし、審美のための独立したカウンセリングルームもあったほうがいいですね」
 孝昭は方眼紙のノートを出して、エントランスには受付、待合室にトイレ、診察室に入るとすぐ左手にカウンセリングルームとレントゲン室、奥に向かって歯科ユニットを二台並べ、もう一台を向きを変えてどうにか設置した手書き図面を作成した。機械室とスタッフ用トイレは診察室の外に持って行くことで、狭さをカバーするプランだ。リフォームそのものから提案するとなると自然に力が入る。工務店を継ぐために、おやから設計の勉強をさせられたことが無駄にならなかった。単に設計するだけでいいなら、工務店に残ってもよかったのだ。しかしあとを継いだとうりょうが、高所恐怖症では示しが付かない。
「こんな感じですかね」
 孝昭はノートを八恵に見せた。
「古堀さん、すごいですね。ササッと図面が描けるなんて」
「ちょこっと設計の勉強したんです。空気清浄機とか衛生設備って本当に充実させるとなると、リフォームになってしまうんですよね。だから、そこまでできる今の会社に入ったんです」
「それにしても大したものだわ。うまく納まるものですね、三台も。きゅうくつさは感じないし、カウンセリングルームまでもうけられるなんて」
 そう言いながらも八恵の表情はどこか晴れない。
「先生、ご要望があれば何なりと言ってください。別のプランを提案させていただきますので、遠慮なく」
「父の医院は四十坪以上で、ユニット七台です。多い感じはするんだけど、窮屈さはない。でも、最近何人かの患者さんがパニックほっを起こしたんです。パニック障害の方は、歯医者さんにも来られないんです。だからそれなりの工夫をしてたのに」
「パニック発作?」
「ええ、へいそくかんに耐えられない方もいらっしゃるんです」
「圧迫感のないライトとか、弊社でも扱ってますけど」
「椅子に座っていること自体が、よくないみたい。でも治療を受けてほしいんです、私は」
 歯を白くしたり、歯列きょうせいで歯並びが整うと笑顔が増え、自信もつく。少しでも気持ちが前向きになることでパニック障害もかんされないだろうか、と八恵が言った。
「それなら知り合いの心療内科医に相談してみます」
 もとみや医師の顔が浮かんだとたん、言葉が口をついて出ていた。患者への思いに共通する温かさを感じたからだ。
「ほんとですか」
 八恵の顔に明るさが戻った。
 それを見て、孝昭の心もおどった。姉以外の女性との会話は久しぶりだったからだろう。
「テレビにも出てる先生で、本宮けいろうっていうんです」
「あの先生とお知り合いなんですか」
 八恵も本宮医師の出演した番組を見ていた。司会者を困らせた印象も新鮮だったが、患者へのはいりょに感心したと八恵は感想を口にした。
「お忙しいでしょうが、たぶん相談に乗ってくれると思います」
「結局、父に感謝しないといけないのかな。いい人を紹介してもらったって」
 八恵がはにかみ、小さな八重歯があるのに今気づいた。歯医者の娘なのに八重歯を抜いていないことに、なぜか親しみを覚えた。

「すみません、お昼休みに押し掛けてしまって」
 孝昭は本宮医師の顔を見るなり謝罪した。話を聞いてほしいと電話すると、昼休みなら時間がとれると言ってくれたのだ。
「いえいえ、バタバタして連絡せずに申し訳ありません。メールでは、言葉は交わしてないが、落ち着いているとのことでしたが、それは変わりないですか」
「ええ、相変わらずです」
「そうですか。まあ、どうぞ召し上がってください」
 テーブルには孝昭の分のサンドイッチとコーヒーも用意してくれていた。
「こんなことまでしてもらって、いいんでしょうか」
「遠慮しないで」
 と、さらに勧めてくれた。
「では、いただきます。実はお腹ペコペコだったんです」
 孝昭は玉子サンドをほおった。だし巻き玉子を挟んだ京風のサンドイッチは好物の一つだ。
「話というのはお姉さんのことではないんですね」
「あっ、はい。そうなんです」
「なぜ分かったのか、という顔ですね。表情が明るく、どこかはなやいでいる。お姉さんは相変わらずなのだから、お姉さんの話ではないと推察したんです。何かいいことありました?」
「参ったな、先生には。いや取り立てていいこと、というのでもないですが。大きな仕事になりそうなので興奮気味なのかもしれません」
 孝昭は、きたかみ八恵とのことを含め、設備関係の一切をうことになった経緯を話した。
「パニック障害対策ですか。それはいいですね。拘束されているような気分になる場所に行くと過呼吸やどう、めまいなどの症状が出ます。治療どころの騒ぎじゃない。歯の型を取るときが一番発作が起きやすいんです。じっとしていなければならない上に、息苦しいですから。パニック発作をもったクライエントが治療できるようにしてあげることは、実は歯医者嫌いのごく普通の人にも有効なんです。いいところに目を向けられました、北上先生」
「そう言っていただけると思ってたんです。そこで歯科医院用の圧迫感軽減ユニットを先生と一緒に開発できないか、と思いついたんです」
 衛生関連商品の開発には、大学で化学や生物学を学んだ研究者が当たる。販売部門はそれを売るのが仕事だ。攻めの営業とはいえ、商品については受け身といっていい。しかし医療従事者と直接話をする営業マンにしか分からない商品への不満もある。フィードバックしても改善されることなど数えるほどだ。
「私、ずっと商品開発に関わりたいと思っていたんです。協力していただけませんか。本宮先生のネームバリューがあれば、社の上の者を説得できます」
「僕が開発までやるんですか」
「企画が通ればの話です。そのときに監修代は相談させてください。まずは企画書に先生のお名前を使用するきょだくをいただけないかと」
「積極性が出てきたことは、いいことです。お姉さんのことを考えない時間も絶対に必要ですからね」
「八恵先生の前で、シスコンだって言ったら、急に気持ちが楽になりました」
「そうですか。十分あり得ることです。あなたは自分のウイークポイントをよく知っている。これまでの経験から、シスコンだと陰口をたたかれ、噂になることを恐れてきた。そうならないよう、人一倍頑張ってきた。お姉さんのせいで営業成績が落ちたと言われたくなかった。知らず知らずのうちに重荷になっていくが、それ自体を認めたくない。事実お姉さんが好きだからね」
 本宮医師にしては珍しく断定的な言い方だ。
「先生、それじゃ本当にシスコンみたいじゃないですか」
「シスターコンプレックスの定義はさまざまです。恋愛感情などかいざいせず、一日の大半、お姉さんの心配をすること、また、自分のことや交際相手より優先順位が常に高い状態のことだ、と言う学者もいます。古堀さんの場合はお姉さんが病気という条件付きですが、おおむね該当するんじゃないですか。けれど、大切なのは、学者の定義なんかじゃありません。そこをウイークポイントだと古堀さんが思っている事実です。ややこしいですが、その自覚そのものを、シスコンと言ってもいいんですよ」
「そんな……」
 反論できなかった。
「だから北上先生の前でそれを認めてしまうような発言をしたとき、他人に隠すべきウイークポイントではなくなったんです。悪いことではありません」
「やけくそでそう言っただけで、実際には自分をシスコンだとは思ってないんですけど……距離を置いては、と八恵先生から言われました」
「いいアドバイスですよ。きつい言い方ですが、お姉さんの病気の何割かは、古堀さん、あなたが作り出している可能性がある」
「私が、ですか」
 孝昭はしゃくをとめた。自分のアパートに友美がやってきたときから生じた、心の奥底にしまっておいた優越感を見透かされたと思った。
 友美は、起立性調節障害になるまで、運動もできたし成績もよかった。自慢の姉だったのだ。ところが七つのとき、友美への気持ちに小さなとげが生じた。原因は、孝昭のために父が作ったよせざいの正六面体パズルだ。
 友美は苦戦する孝昭を見て笑った。それならやってみろ、と差し出したパズルを姉はあっという間に分解し、そして組み立てた。そのときの父の悲しげな表情に悔し涙が止まらなかった。父の跡取り息子としての期待を裏切ってしまったと受け取ったからだ。
 病気で入院していた友美を毎日見舞ったのも、優越感を味わう気持ちがなかったといえば嘘になる。
 そんな自分を小さな人間だ、とした時期もある。ずっと「棘」を忘れようとしてきたのに、友美が再び目の前に現れた。
「すみません、気分を害しましたか」
 本宮医師が声をかけてきた。
 サンドイッチを味わうふりをして、
「そんなことありません」
 とコーヒーを飲む。
「責めているのではありませんよ。依存関係というものは、片一方だけで成立しないということです。僕の治療の方向も、まさしく北上医師の提案と同じです。でも、だからといってやみくもに距離を置くと、それこそ共倒れですから、そこは慌てずやっていきましょう」
 本宮医師は、おしぼりで手を拭い、タブレットのスリープ状態を解除した。
「往診ですが、今度の日曜日の午後はいかがです?」
「先生がよろしければ、私のほうは大丈夫です」
「では、午後一時に伺います」
 本宮医師は立ち上がり、デスクの上にある例のブローチを手にした。
「これを持って行きます。体調を見てお姉さんに手直しをお願いしようと思ってます。なので終わりの時間が読めませんが、古堀さんのご都合はいいですか」
 そう言ったとき、デスクの端からひらひらと紙切れが舞うように落ちた。
 桜の花の形に切った白い紙だった。へんには、優秀の文字に二重丸が見えた。
「先生も、お子さんにそれを?」
 懐かしさに、つい訊いてしまった。
「いえ、うちの子供のではありません。古堀さんの子供時代には、こういったものを先生が使ったんですか」
 拾い上げた紙片をテーブルに載せ、本宮医師がソファーに座り直す。
「私にではなく姉がもらってたんです。たぶん中学校の頃だったと思います。もっと小さなサイズで、ピンク色の折り紙でしたけど」
「ピンク色……それにもこんな文字が書かれていたんですか」
 本宮医師が紙片をきちんと広げて文字を示した。
「ええ。優秀に朱色のペンで二重丸。それと同じですが、どうかしました?」
 孝昭は、本宮医師のあまりに真剣な目が気になった。
「中学校で使っていたんですね」
「だと思います。ただ私は姉がゴミ箱に捨てていたものを見ただけなんで、詳しく分かりませんが」
 それを見たのは、子供部屋で友美と机を並べていた時期だから、小学四年生くらいだったはずだ。ふと彼女のゴミ箱をのぞくと何枚ものピンクの花が目に入った。いろいろなものを作る姉だったから、おおかた失敗作だろう、からかってやろうと拾い上げたのだ。
「でも、きれいな桜の形でしたし、中に優秀と書いてあったんで、なんで捨てちゃうんだろうと不思議に思って、それで覚えているんです」
「どうして捨てたのか、お聞きになりましたか」
「ええ。訊いたら、こんなもんうれしくないって言って、手でちぎって粉々にしてしまいました」
「何枚もあったんですよね。それを全部?」
「たぶん。私なら、優秀だなんて書いてあったら捨てずにとっておきます。あまりめられなかったもんで」
 と笑ってみせたが、本宮医師の表情はほぐれなかった。
「生徒を褒めるのに、大津市の中学校ではっていたことなんですかね」
「いや、そんな記憶はないです。私も同じ学校ですけど、見たことないですね」
「お姉さんのクラスだけってことか」
 本宮医師はひとりごち、
「お姉さんがまだ持っている可能性はありませんよね」
 と質問した。
「ないとは思いますが、あのう先生、その紙の桜と、姉の病気とに何か関係があるんでしょうか」
 そもそも本宮医師が、どうして紙の桜を持っていたのだろうか。いや、友美の治療に関係があるから用意していたのではないのか。
「いえ特には。別件で気になることがありましてね。偶然、こんなものを使った人のことを調べていたもので」
 本宮医師にしては歯切れが悪かった。
「学校の先生ですか」
「ええ、まあそんなところです。このことはお姉さんには確認しないでください。不用意に過去を思い出させてもいけませんのでね。あなたが四年生なら、お姉さんは十五歳くらいということになります。不登校になった時期に近いですし」
「やっぱり何かあるんですね」
「いえ、もし治療に関係があれば、包み隠さずお話ししますから。先ほどの話ですが、企画のも承知致しましたし、北上先生にもできるだけのことは協力させていただきます、とお伝えください」
 本宮医師は、話を打ち切る合図のようにパンを口に放り込んだ。




      10




 慶太郎は自分の作った紙の桜を手に取り、じっと見詰めていた。
 皿やカップを下げに来たすみが、
「それ、治療に使うの?」
 と話しかけてきた。
「話してなかったけど、こんなものがよし神社の事故現場で発見されているんだ。それも被害者が握りしめていたんだって」
 みつからの極秘情報で、実際はピンク色の紙で一回り小さい、と説明した。
「やだ、どっぷり事件に首突っ込んでるんじゃない。もうそんな暇、ないんだからね」
 澄子がドシッと音を立ててソファーに座った。
「まあ聞いてくれ。何だか妙な具合なんだ。ここだけの話として、澄子にも聞いてほしい」
 慶太郎は、光田のもたらした花型の紙片の情報と、そこから推測される被害者と犯人との関係を澄子に話した。
「もらった瞬間は悪い気しないけど、大学生なら幼稚な感じがして嬉しいとまではいかないんじゃない?」
 澄子は紙片をひらひらともてあそぶ。
「で、さっき来た古堀さんが、それを見た。同じものを友美さんが中学生のときに持っていたというんだ。友美さんもうれしくないってゴミ箱に捨てたらしい」
「ちょっと待ってよ、慶さん。そんな偶然ってある?」
 澄子が手の紙片を突き放すようにテーブルに置く。
「それは僕がコピー紙でこしらえたものだから」
「分かってるけど、ゾッとしたわ。被害者の弁護士さん、神戸の人だったわね。なら、やっぱり偶然ね。友美さんは嬉しくなかったかもしれないけど、他の中学生なら喜ぶかもしれないし、そんなに珍しいものじゃない」
「むろん事件現場のものと同じであるわけはないと思う。だけど澄子同様、僕もとりはだものだった」
「慶さんのさっきの様子だと、変な想像してたんでしょ?」
「分かるか、やっぱり。もの凄く馬鹿げたことだから口に出すのもはばかられる」
 ある人物の死亡を報じた新聞を捨てる行為の説明として、矛盾しない仮説だった。
「それはたんらく過ぎるわ、慶さん。往診の大義名分を事件の解決だとしたい気持ちが、ごういんな仮説を生み出すんだわ」
 危険よ、と澄子は強い口調でいましめた。
「分かってる。だって友美さんは、中学生のときに粉々にして捨てているんだから、残っているはずがない」
 すべてを捨てたとは言い切れないことを分かっていながら、慶太郎は言葉にした。安易な解答に飛びついてはならない、と自分に言い聞かせるためだ。
「ねえ、慶さん」
 澄子の声は低くドスがいていた。
「何だよ? 怖いな」
「はっきりさせておいたほうがいいと思う。光田さん、遺留品からは複数の指紋が検出されているって言ってたんでしょう? なら、次の往診で友美さんのもんが付いたものを持って帰ってくればいいわ」
「澄子、お前……」
「疑うなって言っても、想像はどんどんふくらんでいく。それはそれで友美さんが可哀想だし、失礼な話だとも思う。それなら科学的に証明してしまうべきよ」
「言う通りだけど……僕がやるってのがな」
「じゃ、誰ができる?」
 そう言われると慶太郎に言葉はない。
「そうと決まれば、日曜の往診の後、すぐに指紋の照合ができるように手配をしておいたほうがいいわよ。どっちみちクライエントを疑ってたら治療なんてできやしないもの。光田さんに連絡しなさいな、ハイ」
 と澄子は、陸上競技のリレー選手のバトンのように慶太郎のスマホを差し出した。
「光田さんの鼻息が聞こえてきそうだよ」
 慶太郎は深呼吸して、スマホの画面に表示された光田の番号をタップした。
                       〈つづく〉