対談 世界で語れる「教養としての日本史」を学ぶ

第1回 世界と歴史との初めての出合い

第1回 世界と歴史との初めての出合い

北京やモスクワ、北朝鮮や韓国のラジオを聴いていた少年時代

佐藤 優 僕は小さいころラジオ少年だったものですから、短波ラジオで北京ペキン放送やモスクワ放送、韓国の国際放送KBSや北朝鮮の平壌ピョンヤン放送をよく聴いていました。ラジオを聴きながら「ああ、世界にはいろいろな国があるのだな」と関心が高じて、高校1年生のときにソ連と東欧へ42日間の一人旅に出かけたのです(詳しくは著書『十五の夏』上下巻、幻冬舎)。あの経験は、僕にとって極めて重要な世界との出合いでした。
安部龍太郎 僕の実家は福岡県黒木町(現・市)のすごい山奥にありまして、ラジオが明確に入るのは中国の北京放送だけでした。NHKをはじめ日本のラジオはガーガー雑音だらけでろくに聴き取れないのに、どういうわけか北京放送だけはすごくクリアに入るのです。
 北京放送は日本人向けに日本語で放送を流していまして「日本の労働者の皆さん!」とか「貧農・下層中農の皆さん!」と呼びかけられたのを、いまでもよく覚えています。あれが僕にとっての最初の国際経験でした。
佐藤 当時のモスクワ放送はソフトでして、アナウンサーの普通のしゃべりとほとんど変わりませんでした。1960年代なかばから70年代半ばはぶんかく(文化大革命)の真っ最中でしたから、北京放送は肩にすごく力が入っていました。それにしても、日本のラジオが入らない山奥でもクリアに聴けたとは、北京放送はものすごい出力でアンテナから電波を発信していたのでしょうね。

作家になることを決意した初めてのインド旅行

安部 僕が初めて海外旅行へ出かけたのは1983年です。28歳のとき、たまたま友人に誘われてインドへ出かけました。
佐藤 夏休みかなにかを利用して出かけたのですか。
安部 そうです。誘ってくれた友人が出版社に勤めていまして、ボーナス代わりにインド旅行券をもらったと言うのです。「半額で行けるからお前も行かんか」と誘われ、思いきって出かけてみることにしました。

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安部龍太郎氏

 当時はまだ役所(東京都大田区役所)に勤めていまして、作家になるかどうか悩みながらなかなか公務員をめられなかったのです。家族も子どももいましたから、役所を辞める決断がつかなくて1〜2年もグジグジ悩んでいました。
佐藤 専業作家になると、毎月の給料もボーナスもゼロですからね。僕も外務省を退職して専業作家になったときには、安部先生と同じ不安感を覚えました。
安部 10日か12日か休みを取ってニューデリー、ヴァーラーナシー、ブッダガヤなどを回りながら「自分はいままで、日本でしか通用しない価値観をもって生きてきたのだな」と非常に強く感じたのです。自分がこれまで縛られてきた価値観なんて、突き放して相対化してみれば、いかにちっぽけなものか。そのことに気づいた僕は、インドから帰国してすぐに役所に辞表を提出しました。
佐藤 28歳のインド旅行が「作家・安部龍太郎」誕生のきっかけだったのですね。

朴正煕・軍事政権下の韓国を訪れた大学1年生の思い出

佐藤 これはいままでほとんど原稿に書いたことがない話なのですが、同志社大学神学部1年生だった1979年、僕は韓国へ旅行に出かけたことがあるのです。19歳でした。
安部 なんでまた韓国へ出かけてみようと思ったのですか。
佐藤 大学に入って1カ月勉強したころ、5月の連休がやってきますよね。キリスト教の勉強をしながら「なんだかここは緊張感が欠けている場所だな。自分はこれでいいのだろうか」と思って、2週間ばかり外の世界を見てみようと思ったのです。
安部 79年というと、パク正煕チョンヒ大統領の軍事独裁政権下の時代ですね。
佐藤 ええ。夏休みにその韓国へ出かけました。当時の韓国のビザは、30日がギリギリの上限です。まず15日間のビザが出て、残り15日間は現地で延長を申請しました。なにしろ軍事独裁政権下ですから、いろいろ尋問されたりけっこう審査が厳しいのです。
 1カ月過ごしてみると、韓国の学生たちは非常に緊張感がある中で勉強していることがよくわかりました。と同時に、反体制派の人たちは、朴正煕政権は嫌いだけど大韓民国そのものは愛しているのです。「彼らと比べれば、僕ははるかに良い環境で暮らしているのだな。もっと勉強しなければいけない」と思って日本へ帰ってきました。
安部 朴正煕体制の韓国の街の中は、どんな雰囲気でしたか。
佐藤 朴正煕が9回目の大統領緊急措置を出して、人々の間には大変な緊張感が張り詰めていました。夕方5時になると、街じゅうの至るところにあるスピーカーから愛国歌が流れます。すると全員たいきょく(韓国の国旗)の方向を向いて、直立不動の姿勢で立ち止まるのです。
 夜の12時から明け方4時までは外出禁止令が出ていますから、夜11時になるとみんな駆けてタクシーを拾い、あわてて街から消えていなくなります。本当に人っ子一人いなくなるのです。月に1回はぼうくう演習があって、みんなが防空ごうに入って隠れる。すぐ隣の国でこんな緊張があるのかと、本当に驚きました。
 結局、大学1年生の79年に2回、大学3年生の81年にも1回韓国を訪れています。韓国では、ドイツ語と英語で書かれた神学書をたくさん買ってお土産にもってきました。当時の韓国は経済力がなく物価が安かったので、日本に比べるとはるかに安く哲学書や神学書が買えたのです。
 リュックサックにいっぱい本を詰めて戻ってきたら、旅行にかかったオカネよりも本に使ったオカネのほうが多くなっちゃった。あのときの韓国旅行は、自分の世界観を形成するうえでとても重要な経験でした。

豊臣秀吉の朝鮮出兵 朝鮮人大虐殺と「耳塚」

佐藤 韓国では8月15日の終戦記念日が「こうふくせつ」と呼ばれていまして、テレビではあんじゅうこんが伊藤ひろぶみを暗殺した話を紹介したりします。それを見た韓国人から「君は安重根を知っているか」とかれました。古代史についても「日本では任那みまな日本府(※朝鮮半島に設置されたと言われる日本の出先機関。『日本しょ』に記述があるものの真偽は不明)があったと教えているのか」と訊かれたこともあります。
安部 僕にも同じ経験があります。これは作家になってからの話ですけど、とよとみ秀吉の朝鮮出兵について調べるため、韓国のほぼ全域を取材で回ったことがありました。日本が造ったやまじろなんかを巡っていると、あちこちで「秀吉が韓国でどういうことをしたか知っているか。それについて君はどう思っているか」と尋ねられたものです。
佐藤 みみづかの話を、韓国人はみんな知っていますからね。
安部 ええ。あれはひどい話です。首をもって帰ると重いものだから、秀吉軍は殺した朝鮮人の耳や鼻をそいで秀吉のところへ届けました。京都市ひがしやま区に、その耳や鼻が埋められた耳塚がいまもあります。
佐藤 韓国人は加藤きよまさも小西ゆきながもみんな知っていますよね。
安部 二人とも朝鮮出兵の先頭に立って部隊を指揮しました。
佐藤 日本では有名な戦国武将として名前を知られていますが、韓国では彼らは悪党の代名詞なのです。かたや秀吉軍と戦ったしゅんしん将軍は、韓国では英雄として知られています。僕が韓国を初めて訪れた当時、100ウォン硬貨が李舜臣将軍でした。
安部 李舜臣将軍は鉄鋼で堅く防備したきっこうせんで水軍を編成し、秀吉の朝鮮出兵を食い止めました。
佐藤 これまた学生時代の古い話ですが、韓国の街を散歩していると、店のおじさんから「日本のLPレコードがある。とても珍しいぞ」と声をかけられたのです。ジャケットは何もかかっていなくて、レコード盤がいたんで少し波打っていました。海賊版だったのでしょう。
安部 ジャケットなしということは、やみいちみたいにコッソリ売っていたのですね。韓国では98年にキムジュン大統領が文化開放政策に踏み切るまで、テレビでもお店でも日本の音楽をかけることは禁止されていました。
佐藤 そのレコードを日本に帰ってからかけてみたら、いしだあゆみの曲でした。彼女の歌謡曲を韓国でかけることは、79年当時禁止されていたのです。
安部 韓国で日本の映画が全面的に解禁されたのは、2004年のことでした。わずか15年ほど前まで、日本軍による朝鮮半島植民地化が残した影が、そういう形で色濃く韓国全土に残っていたのです。(第2回へ続く)

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