創価学会学生部員と『世界宗教の条件とは何か』を語る

第2回 日露交渉を切り拓いた池田・ゴルバチョフ会談

第2回 日露交渉を切り拓いた池田・ゴルバチョフ会談

佐藤優に石つぶてを投げなかった公明党と創価学会

佐藤 私の人生の中で一番苦しかったのは、鈴木宗男疑惑に連座して、2002年5月に東京地検特捜部に捕まって逮捕されたことでした(※背任と偽計業務妨害容疑で逮捕。512泊513日の東京拘置所生活を送る)。あのときはさまざまな政党が、国会で私を名指ししてメチャクチャに攻撃したものです。でも公明党議員も創価学会も、一度も私のことを攻撃しませんでした。
鈴木宗男さんは02年6月に逮捕されたものの、その後、民主党政権下で新党大地議員として与党入りし、09年9月に衆議院外務委員長に就任します。そのとき公明党の赤松正雄さん(衆議院議員=当時)は、国会の質問でわざわざ私の名前を挙げて、次のように言ってくださいました。

〈鈴木宗男という一人の代議士の生き方というものを見て大変教えられるところが多いというか、本当に自身の信ずる道を懸命に生きておられるなということを強く感じている〉
〈佐藤優さんとそれから鈴木宗男代議士との何といいますか例えようもない友情というか、そういうものを、さまざまな著作を通じて、一生懸命読ませていただいて、教えられるところが多い〉
(09年11月18日、衆議院外務委員会の議事録より)

赤松さんと私は、直接的な接触はそれまで何もありません。でも縁(えにし)はあるのです。なぜ私がそう感じるかというと「たしかに国家に捕まりはした。この人が何らかの強い信念をもっていたから、このようなことになったのだ」ということが、赤松さんには直観的にわかったのでしょう。
赤松さんをはじめ公明党の人たちは、世間の色眼鏡や偏見で人を見ることがありません。なぜか。公明党の価値観は、「偏見で人を判断しない」という創価学会によって支えられているからです。創価学会員の強さはそこなんですよ。

日露外交を救った池田・ゴルバチョフ会談

佐藤 1990年7月25日、自民党の櫻内義雄・衆議院議長がソ連を訪問してゴルバチョフ大統領と会談し、桜の花が咲くころに日本に来てもらおうと考えました。「櫻内」という名前に合わせて桜の季節(春)に話をまとめようと思っていたら、「どうも櫻内さんは北方領土の話をゴルバチョフにしないらしい」と外務省が察知したのです。そこで「北方領土のことについて厳しく触れてくださいね」と櫻内さんに念押ししたところ、彼はネジを巻きすぎちゃいました。

DSC_0106★

佐藤優氏と学生部メンバーの語らいは多岐にわたるテーマで進んでいく

会談の冒頭でいきなり「北方領土の返還を解決してください」と言ったところ、ゴルバチョフ大統領は「話はそれしかないのか。その領土を『南方領土』と呼んでもいいんだからな」と言って、表面上は会談時間が15分だったことになっていますが、実際の会談は7分くらいで打ち切りになっちゃったのです。

その2日後(1990年7月27日)に、池田大作先生(創価学会第3代会長)とゴルバチョフ大統領の会談がモスクワで実現しました。そこで当時モスクワの大使館にいた外務省の枝村純郎という大使が、池田先生に橋渡しをお願いしたのです。でも池田先生は躊躇された。どうしてかというと、これは政治のド真ん中の話だからです。「私は文化・教育交流のためにモスクワに来ているのだ」というのが池田先生のお考えでした。
でも池田先生は、そこでこうも考えてくださったのです。「ゴルバチョフ大統領が日本に来るのは、日ソ関係のみならず世界平和に貢献する重要なことである」。池田先生はこうおっしゃいました。「ただし外務省が言うとおりには言いませんよ」。ここが重要なのです。
池田先生はゴルバチョフ大統領との会見の場で「春の桜の季節か、秋の紅葉の季節に日本にいらっしゃってください」。どうして2通りの選択肢を示したかというと、日本で行われる首脳会談は、あらかじめ宮内庁とすり合わせて宮中行事、すなわち天皇の日程を取らなければいけません。天皇主催の宮中晩餐会や会談がありますからね。
天皇の日程を軽々に動かすことはできませんし、モスクワにいる出先の大使が勝手に変えることもできません。池田先生はそのことをわかっていたのだと思います。「私は日本政府の使いではない」という思いが先生にはあったのでしょう。特に天皇の日程を基準にして、ゴルバチョフ来日を考えるわけでは決してない。だから日本政府が想定し、宮内庁とすり合わせていた「桜の季節」という選択肢とは別に、「秋の紅葉」とおっしゃったのだと私は思います。

池田先生との会談の場で、ゴルバチョフ大統領は桜の季節に日本に来ることを約束しました。こうしてゴルバチョフ大統領は桜の季節に日本にやって来て、海部俊樹首相と一緒に「日ソ共同声明」を発表するのです(1991年4月18日)。「日ソ共同声明」では「1956年」という年号が出されました。
日本とソ連は、1956年に「日ソ共同宣言」を結んで国交を回復しています。ただしこのとき、北方領土問題については棚上げされました。以来ソ連は「北方領土に関する問題は我が国には存在しない」というかたくなな立場を取っています。

「日ソ共同声明」では次のように書かれています。
〈日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦が戦争状態の終了及び外交関係の回復を共同で宣言した1956年以来長年にわたって二国間交渉を通じて蓄積されたすべての肯定的要素を活用しつつ建設的かつ精力的に作業するとの確固たる意志を表明した。〉
それまで35年間にわたって停滞していた北方領土問題が、「日ソ共同声明」をきっかけに初めて外交交渉のテーブルにのりました。池田・ゴルバチョフ会談によって1991年春のゴルバチョフ来日が決まらなければ、北方領土問題は交渉のテーブルにのることすらなく遅れていたのです。

池田先生が舞台裏でどんなご苦労をなさっていたかを、当時モスクワで外交官をやっていた私はつぶさに観察していました。池田先生の振る舞いをモスクワで目の当たりにしながら、私は「宗教人であって日本人である。なおかつ世界平和を第一に考えている。宗教人としての道を究めたからこそ、外交の最も難しい問題も解決できるのだ」。そう痛感しました。
ただし、このやり取りは外務省の記録には残っていません。当時モスクワ大使館にいた大使は「この件は本省に報告するな」と言いました。どうしてかというと、日本政府の外交が大失敗して、一宗教団体の代表者にすべてを委ねたことになるわけでしょ。それは日本政府としては非常にカッコ悪い。「だからなかったことにしよう」と記録を揉み消しちゃった。
もし私が鈴木宗男事件で捕まらずいまも外務省にいたら、きっとどこか小さな国の大使をやっていたでしょう。いま皆さんに申し上げた話は誰にも言わず、墓場までもっていって一生を終わっていたと思います。なぜ私が鈴木宗男事件に巻きこまれ、逮捕・投獄されて外務省を去ることになったのか。もしかするといまのお話を証言する使命があるから、私はあの事件に巻きこまれたのかもしれません。

1 2 3
top
Copyright © 2015 USHIO PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved.