八人のサムライ再び・後

 商店街の真中にある『のんべ』に向かって、ゆうぞうはゆっくりと歩く。
 夕方の商店街は人通りが多い。しかも以前にくらべて、数がぐんと増えている。あのせいに違いない。半グレ連中との乱闘をマスコミが大々的に報じた結果だ。好奇心が人を呼びよせ、この町の様子を実際に自分の目で確かめるために、各所から人がやってくる。
 好奇心であれ、野次馬であれ、町に人が集まるのはいいことだった。しかし問題は、この現象がいつまで続くかということだ。一通りの好奇心が納まれば、人の数は波が引くように減少する。だが、なかにはこの町の昭和レトロな雰囲気に心を打たれ、何度も足を運んでくれる人も……。
 裕三はそんなことを考えながら、のんべに向かう。雲隠れしたげんが戻ったということで連絡を取り、のんべで待ち合せることにした。昨日の今日のことなのでみんなを呼ぶのはやめにして、源次のファンであるしょうにだけ声をかけた。おりの件で、翔太の知恵を借りたいという思いもあった。
 裕三は『おおたけとうてん』のせんいちに会った帰りだった。
 のんべの戸を開けると、奥の小あがりに源次はすでにきており、その隣には翔太の姿もあって、二人で料理をつつきながら話をしていた。
 裕三もその席に加わり、早速ビールで乾杯をする。むろん、翔太はウーロン茶だが。
「どうだ、源ジイ。少しはのんびりしたか」
 と笑いながらいってやると、
「体のほうはのんびりしたが、心のほうがちょっとの」
 イミシンな言葉が返ってきた。
 何となく覇気がないようにも感じる。
「どうしたんだ。心のほうが、どうしたっていうんだ」
 裕三はげんな表情を源次に向ける。
「いや、これはぜいたくすぎる悩みというか、何というか……」
 むにゃむにゃと、源次は言葉を濁した。
「つまり、こういうことなんです」
 助け船を出すように翔太が口を開いた。
「半グレの一件が片づいてしまって、この商店街も平和そのものになり、源次さんの出る幕がなくなってしまった――それが源次さんには物足りないんですよ」
 源次と翔太は裕三が顔を見せるまで、そんな話をしていたのだ。
「商店街が平和になれば、それはそれで結構なことだと喜ばなけりゃいかんのだが。しかし、わしは、やっぱり乱世の人間だからの、忍びのまつえいだからの」
 やはり源次は暴れたいのだ。病んだ自分の命のつきる、その瞬間まで闘いたいのだ。
「当面の敵はいなくなったけど。昨日の翔太君の話では、この後、源ジイと勝負がしたいという腕自慢が現れるんじゃないかということでもあるし」
 慰めるようにいうと、
「それはさっき翔太からも聞いたが。今時、そんな物好きな人間がいるのかのう。いれば、大いに有難いことなんじゃが」
 肩を落したままいった。
「います。少数ですが、そういう人間は必ずいます。たとえ、こんな時代でも」
 ふいに翔太がえるようにいった。
「そうだ。頭のいい翔太君が太鼓判を押すんだから間違いない。源ジイが持てあますほどの、とんでもなく強い人間が挑んでくるかもしれんぞ」
 裕三も励ますように口に出す。
「そういうことなら、うれしい限りだが、そんな物騒な人間が今時のう」
 の塩焼きを乱暴にむしって、源次は口に放りこむ。もごもごとしゃくする。
 が、突然源次の口の動きがぴたっと止まった。一点を凝視している。視線の先には……。
 一人の男が源次を見ていた。
 やたらしわの多い顔の男で、そのせいなのか年のほどはよくわからない。大雑把にいえば三十代の後半から五十代……髪は裕三と同じような長髪だが、白髪は目立っていない。顔の皺を除けば、どこといって変った人物には見えないような――。
 男の目が、すっと源次の顔から外れた。
 卓子テーブルの上のコップを手にして、口に流しこんだ。飲んでいるのは日本酒だ。一気に飲んで、静かに卓子に戻した。
「どうした、源ジイ。あの男が、どうかしたのか」
 裕三の言葉に源次ののどが、ごくりと動いた。
けんのん……」
 低すぎるほどの声でいう源次の顔には、覇気が戻っていた。両目が輝いていた。
 獲物を見つけた、狩人の顔だ。
「強いんですか、あの人。知っている人なんですか」
 声をひそめて翔太がいった。
「知らねえ人間だが、只者じゃねえ。何のつかい手かは知れねえが、尋常じゃねえことは確かだ」
「ということは、翔太君のいっていた、源ジイに勝負を挑もうという腕自慢の一人か」
 裕三も声をひそめていう。
「違う。そんななまやさしい相手じゃねえと、わしの全神経はいっている。ひょっとしたら、わしより強いかも……」
 しゃがれた声を出した。
「源次さんより強い人間って。そんな人が、いるとは……」
 泣き出しそうな声を、翔太が出した。
「源ジイの勘違いじゃないのか。大体、一目見ただけで、そんなことがわかるのか。すぐそばでもないのに」
 頭を振りながらいう裕三に、
「鳥肌が立つような何かを感じた気がしたのは確かだが、さて。勘違いといわれれば、それを否定することものう」
 いいながら、源次は再び男の席に目を向ける。裕三と翔太も同じように目を向けるが、その席に男の姿はなかった。
「帰ったようだな」
 何となくほっとした気分で裕三がいうと、
「そのようだ――しかし、勘違いにしろ何にしろ、わしの体中に気力が蘇ってきたのは確かだな」
 りんとした声を出して源次は顔をほころばせた。
「それはいい。気力が蘇ったところで、あの話だが」
 裕三は串カツに手を伸ばして口に運ぶ。
「そろそろ、道場を開く件を承諾してくれてもいいころじゃないか。かつて源ジイにも会わせた、うちの塾の不良候補生であるひろたかゆきも首を長くして待っていることだしな」
 笑みを浮べて裕三はいう。
「ああ、それは」
 くぐもった声を源次は出した。
 源次は信州だにの生まれで、中学一年のときにこの町に越してきた。木曽流忍法の師は、この町に一緒に住みついた祖父のようぞうで、源次はこの祖父から役小角えんのおづぬを起源とする忍法と共に、きょうはちりゅうの剣技を物心のついたころからたたきこまれてきた。
 京八流の祖といわれるいちほうげんは源平から鎌倉時代の人で、とうを司るおんみょうだった。京都一条堀川に住み、陰陽道の他に兵法にも卓越した才を持ち一流を起こしたと伝えられるが、一方ではその異彩から、てんの化身だったともいわれるなぞ多き人物である。
「当分は鬼一法眼流を名乗れば、源ジイが忍者だということもバレないし――これならと源ジイが納得したところで、木曽流忍法の看板を出せばいい」
 んで含めるように裕三はいう。
「もう少し時間をな。何分、慣れないことではあるからよ。だからよ」
 源次は言葉を濁すようにいい、
「ところで、仙市じいさんのいう問題点というのは、一体何だったんだ」
 話題を変えるように口にした。

 つい、さっきのことだった。
 大竹豆腐店に顔を出すと、奥さんのすずは油揚げをつくっている最中で、香織は客用の豆腐を包丁で切っていた。
 裕三の顔を見たとたん、香織は包丁の手を止めてぺこりと頭を下げてきた。顔は相変らずの厚化粧だったが、大きな前掛けに長グツ姿だった。
 鈴子が大声をあげて裕三の訪問を告げると、すぐに前掛けで手を拭きながら仙市が奥から出てきた。
「病みあがりだというのに、わざわざ悪いなあ、ぼりさん」
 仙市は容体をざっといてから、裕三を近所の喫茶店に誘った。やはり、同じ家のなかでは話がしづらいようだ。
「大将、いってらっしゃい」
 店を出る仙市に、香織が声をかけてきた。どうやら香織は仙市のことを、大将と呼んでいるようだ。
 近くの喫茶店に入って裕三は、仙市と向かい合う。
「実は、香織のことなんだがよ」
 コーヒーを一口すすってから、仙市が切り出した。
「あの厚化粧だよ、あれがよ」
 仙市の話によると、店に豆腐を買いにくる一部の女性客から、香織の厚化粧への批判が出てきているという。
「いくら何でも食べ物商売なんだから、あの厚化粧は行きすぎ。見ているとケバすぎて、ぞっとする」
 これが女性客たちの大体の言い分だと、仙市は裕三に話して頭を振った。
「お客さんからの、クレームですか」
 そこまでは裕三も考えていなかった。客商売は難しいと、つくづく感じた。特に女性客ということになると、裕三にはらちがいの問題だった。
「そのことを、香織さんは」
 低い声で訊くと、
「面と向かっていわれてはいねえはずだが、薄々はよ――それであるとき、香織のやつにいってみたんだ。その厚化粧、何とかならねえかって。そしたら――」
 仙市はごくりとつばを飲みこむ。
「いくら大将の命令でも、こればっかりは駄目ですと首を振りやがった。何となく両目が潤んでいるようにも見えてよ。いくら俺でも、それ以上はよ。いつもは素直なんだが、この件に関しては妙に意地っ張りというか、かたくなというか。だから、どうしたらいいかよ」
 肩を落す仙市に、
「元々素直で素朴な顔立ちなんだから、あんな厚化粧はかえって逆効果のような気がするんですけど、本人には本人なりの考えがあるんでしょうね」
 ためいきまじりで裕三はいう。
「そうなんだ。顔も素直なんだが、あいつは心のほうも真正直で素直なんだ。根は暗えが、いい娘だと俺は思うよ。何だか急に娘ができたようで、俺も女房も毎日にハリが出てきたというかよ」
 しんみりした口調でいった。
「だけどよ。これ以上あいつにとやかくいって、じゃあ辞めますといわれるのが、正直なところ怖くってよ。とはいっても、お客さんあっての豆腐づくりというのも、やっぱり事実だからよ」
 どうやら仙市は本気で香織のことを気に入っているようだ。それだけに、仙市にとって事態は、より深刻なのだろう。
「話はよく、わかりました」
 裕三は小さくうなずいてから、
「化粧というのは本人の領分で、あまり強くいえばパワハラにとられるというのが現在ですけど、私なりに誠心誠意、香織さんに話してみることにします。ただ、わかってもらえるかどうか、そのあたりは……」
 声が段々細くなった。正直、香織を確実に説得できるかと問われれば、そんな自信はなかった。ただ、誠心誠意話すのみ。それしか考えつかなかった。
 このあと裕三は、このまま店に戻って香織に話をするのも強引な気がするので、二、三日中に説得するからといって仙市とは別れてきたのだが。
「女の厚化粧か……」
 話を聞き終えた源次が、ぼそりといった。
「あの子にゃ、あの子の言い分があるだろうし、難しいのう、これは。あんまり強要すりゃあ、裕さんのいうようにパパハラ、 、 、 、になるだろうしよ」
 太い腕をくんで天井を仰いだ。
「あの子って。源ジイ、お前。香織さんを見たことがあるのか」
 パパハラの言葉には触れず、気になったことだけを裕三は訊いた。
「何度もあるさ。わしも裕さんと一緒で自炊生活をしている身、大竹豆腐店にはしょっちゅう通ってるからよ。しかしまあ、いわれてみるまで、厚化粧云々には気づかなかったけどよ」
「源ジイのように、みんなが気づかなければ、それですんなり、すんでいくんだが。化粧というのは女性にとって、見過すことのできない領分のようだから難しい――だが香織さんに限っていえば、薄化粧のほうが断然似合うと俺は思うんだがな。素朴で素直で可愛い顔立ちの子なんだから。しかし、頑に拒絶しているようだし」
 裕三は独り言のようにいい、
「翔太君は、香織さんを見たことは?」
 矛先を翔太に変えた。
「何度もありますよ。僕も小堀さんのいうように香織さんの顔には薄化粧のほうが似合う気がしますが、そこはやっぱり、本人の思いこみの世界ですから」
 やや湿った声で翔太はいった。
「そうだな。化粧というのは思いこみの世界だから、他人が入りこむ余地など、なかなかな。それにしても」
 裕三はちょっと言葉を切ってから、
「香織さんの、あの頑さは何だろうな。仙市さんが頼んでも首を縦に振らないというのは、よほどの何かがあるんだろうが。そのあたりの理由が俺には、さっぱりわからない。どうだ、天才少年の翔太君には、この香織さんの心持ちというか理由というか。それがわかるのかな」
 まったく期待しないで訊いてみた。すると、
「わかりますよ」
 こんな答えが返ってきた。
「えっ、わかるのか、翔太君には」
 驚いた声を裕三はあげた。
 源次の秋刀魚をむしる手も止まっている。
「今までの話を総合して考えてみれば、大体のところは想像できます」
 抑揚のない声で翔太はいった。
「それなら教えてほしい。なぜ香織さんがこの問題に関して頑なのか。その理由が、ぜひ知りたい」
 思わず身を乗り出す裕三に、
「それは……」
 翔太は言葉をつまらせた。
 ほんの少し、沈黙が流れた。
「それは、できません」
 はっきりした口調で、翔太が口を開いた。
「できないって、なぜ。そんなにこれは重要なことなのか」
 呆気あっけにとられた表情で、裕三はいう。
「翔太、おめえ。勿体もったい振らねえで、ちゃんと裕さんに教えてやれよ。教えたって減るもんじゃねえだろうに」
 源次が翔太の肩を、ぽんと叩いた。
「この問題に関しては、減るんです。だから話すわけにはいかないんです」
 きっぱりと翔太はいい切る。
「減るのか。なるほど、そういうことか。頭のいいおめえが、そういうんなら、そういうことなんだろうな」
 あっさりと源次は追及を引っこめたが裕三は、そうはいかない。
「減るっていうのは、どういうことなんだろうか。そこのところをわかるように、説明してほしいんだが」
 なおも食い下がった。
「個人的すぎる問題なんです。だから、この答えは他人である僕の口からいうわけにはいかないんです。答えは香織さん本人の口から。それしか方法はないと思います」
 沈んだ声で翔太はいって、唇をぎゅっと引き結んだ。もうこれ以上は絶対にしゃべらないというように。翔太にしたら珍しい素振りだった。何かがあるのだ、きっと。翔太ではなく、香織本人から答えてもらわなければいけない理由が。
「わかった。しつっこく訊いてすまない。その点は香織さん本人から、直に聞くことにするよ。答えが出れば、対応のしようも何か出てくるかもしれない」
 軽く翔太に頭を下げると、
「すみません、わがままをいって」
 翔太も頭を下げてきた。
「それから、対応の仕方なんですが、できる限り優しく接してあげてください。香織さんにしたら、あっちこっちで拒否されて、ようやく大竹豆腐店という自分の居場所を見つけたんだと思いますから」
 また意味不明なことを翔太は口にするが、これ以上何を訊いても喋ることはないだろうと裕三はあきらめる。
「よし、じゃあこの件は、これで打ち止めということで終了だ。あとは大いに食べて、大いに飲もう。むろん、翔太君はウーロン茶だけどな」
 裕三はこういい、店の女の子に向かって右手をあげた。

 居間の掛時計を見ると、三時を少し回っている。三時半には仕事場兼自宅のここを出て、大竹豆腐店に行くつもりだった。いよいよ、香織との対決だ。
 それまでは体を休めるつもりで、裕三はソファーに全身を横たえて時間のくるのをゆっくりと待っていた。
 チャイムが鳴った。
 はて誰だろうと裕三は体を起こし、玄関に向かって歩く。ドアを開けると、塾生の弘樹と隆之が立っていた。
「何だ、お前たち。どうしたんだ」
 一週間ほど休むことは、塾生の保護者に連絡して伝えてあった。
「先生が退院したって聞いて、それでわざわざ顔を見にきてやったんだよ」
 仏頂面で弘樹がいい、後ろで隆之が盛んにうなずいている。
「そうか、そうか。まあ上がれ。俺は三時半にはここを出て、用事のために大竹豆腐店にまで行かなきゃならん。時間はそれほどないが、少しぐらいなら話はできる」
 裕三は二人を教室ではなく、居間のほうに招き入れて、ジュースをテーブルの上に置いてすすめる。
「で、調子はどうなんだ、先生」
 隆之が大人ぶった調子で訊いてきた。
「まだ大丈夫だとはいえんが、確実に体のほうはいい方向にすすんでいる。もう少しすれば塾のほうも開ける」
 裕三の言葉に、あんの表情が二人の顔に浮ぶ。
「それを聞いて安心した。何たって、ここがなくなったら、俺たちの居場所もなくなってしまうもんな」
 弘樹の言葉に隆之が大きくうなずく。
「居場所か……」
 裕三はぽつりとつぶやき、改めて二人の顔を正面から見据える。
 弘樹は中学二年生で、現在進行形の不良学生。ただ弘樹は群れを嫌って、学校の不良グループには入っていない。
 隆之は小学六年生で突っ張ってはいるが、まだまだ不良予備軍といったところだ。二人とも普通のサラリーマン家庭だったが家では持てあましぎみで、一年ほど前にそろってこの塾に参加することになった。
 年は違っても同じ要素を持つ二人は反発しあい、塾内ではにらみ合ってるだけで、これまでは口も利かなかったが、ここのところ様子が違ってすこぶる仲がいい。
 理由は源次だった。
 不良の要素を持った人間は強い人間にあこがれる。それを見越した裕三は二人に源次を会わせた。源次の繰り出す技に二人はドギモを抜かれ、すっかりそのとりことなって心酔した。そして、源次の遣うその不思議な術を習いたいと裕三にせがんだ。二人の仲の良さはその共同戦線の表れだった。
「行方不明になったさんは、帰ってきたのか」
 心配そうな面持ちで弘樹が訊いてきた。
「源ジイは帰ってきた。お前らのためにも、早く道場を開けと尻を叩いておいた」
 とたんに二人から歓声があがった。
「いつごろなんだろう、先生」
 隆之が目を輝かせていう。
「そうだな、遅くとも来年の春――俺はそう踏んでいるがな」
「来年の春か。まだまだ、時間がかかるなあ」
 溜息まじりにいう弘樹に、
「あとわずか数カ月じゃないか。決して長い時間じゃないと俺は思うぞ」
 たしなめるように裕三はいう。
「それはまあ、そうだけど……でも座ったまま、俺を片手で投げ飛ばした技はすごかったなあ。あんな技があるとは、夢にも思わなかった。びっくりした。早く、ああいう技を教えてほしいな」
 弘樹のうっとりした言葉に追従するように、
「それから、あの十円玉を指で折り曲げた技、あんなのは、人間ができることじゃないよ。羽生さんは人間以上だよ」
 上ずった声を隆之が出した。
「お前たち、よく聞け」
 凛とした声を裕三はあげた。
「座ったまま、片手で人を投げ飛ばす技や、十円硬貨を指で折り曲げる技は、とても三年や五年でできる技じゃないぞ。まず基本をじっくり覚えて、そこから地道な技をこつこつ積みあげていく。その集大成が、今お前たちがいった、凄い技につながるんだ。そこのところを忘れるんじゃないぞ」
 じろりと二人をにらみつけた。
「わかってるよ、そんなこと。俺たちだってそんなにじゃねえから。血のにじむような稽古をつづけなければ、ちゃんとした技なんか覚えられねえことぐらいは。なあ、隆之」
 やけに真面目な顔で弘樹はいい、呼びかけられた隆之も「うん」と大声で答える。
「それから源ジイは、二十歳過ぎても不良やってるやつは莫迦だっていってたから、お前たちも、ちゃんとした仕事につかないと、源ジイの道場からは追い出されることになるぞ」
 今度はおどし文句を口にした。
「俺は落ちこぼれだから、ちゃんとした仕事にはつけないかもしれねえけど、それでもバイトでもハケンでも何でもやって道場に通うつもりだから。そしてどこかに、羽生さんから習った、鬼一法眼流の道場を開こうと思ってるから。それが俺の夢なんだ」
 えらく筋の通ったことを弘樹はいい、
「隆之、お前は落ちこぼれといっても俺より頭はいい。ちゃんとした仕事について、羽生さんの道場に通いつづけろ。そして、その気があったら、道場を開け」
 今度は隆之に助言をした。
「うん、わかった。とにかく頑張る」
 隆之が元気のいい声をあげた。
 弘樹と隆之の決意と意志がどこまでつづくか今の時点ではわからなかったが、それでも二人の様子を見ていて裕三は胸の奥に温かなものがいてくるのを感じた。
「よし、それならもう帰れ。俺はそろそろ出かけなくちゃならん。弘樹と隆之の思いは、しっかり源ジイに伝えておくから」
 といってから裕三は首をかしげ、
「お前たち、学校はどうしたんだ。またさぼったのか」
 大声をあげて二人を睨みつけた。
「やだなあ、入院ボケだよ先生。今日は土曜日で学校は休みだよ」
 二人は顔をくしゃくしゃにして笑いながら、部屋を出ていった。

 三十分後、裕三は大竹豆腐店の前にいた。
 大きく息を吸いこみ、声をかけて店のなかに入りこんだ。
 仕事場である土間には誰もいず、それにつづく和室の障子が開いて、仙市が顔をのぞかせた。
「おや、小堀さん。ひょっとして、例の香織の件で……」
 声をひそめていう仙市に、裕三は小さくうなずき返す。
「ちょうどこの時間は豆腐屋の中休みでよ。俺はここで昼寝で、香織のやつは二階の自分の部屋。女房は食材やら何やらの買出しに出かけて留守にしてる」
 二階を気にしてか、仙市はぼそぼそという。
「鈴子さんは留守ですか。そんなときに、例の話をしてもいいんでしょうか」
 気になったことを訊いた。
「いいさ。俺と女房は一心同体だからよ。そんなこと、気にする必要はねえよ」
 仙市はさらっといってのけて、
「で、俺はやっぱり席を外したほうが、いいんだろうね、小堀さん」
 不安げな目で見つめてきた。
「いえ。大事な話ですから、仙市さんも同席してもらえると有難いんですが、私一人では対処できない場合があるかもしれませんので、お願いします」
 裕三は頭を深く下げた。
「そうかい。ちょっと怖いが、それじゃあ同席させてもらうよ。それで場所は、ここでいいのかい」
「ええ、ここで大丈夫です。ここに香織さんを呼んでいただければ」
「わかった。じゃあまず上がんなよ、小堀さん」
 いわれるままに、大竹家の居間である八畳の和室に裕三は上がりこむ。部屋の真中には小さな卓袱ちゃぶだいが置かれていて、おそらくここは三人の食事の場でもあるに違いない。
 裕三が卓袱台の前にそっと正座すると、
「何だか胸が嫌な騒ぎ方をするなあ。緊張するなあ、小堀さん」
 嗄れた声で仙市がいった。
「私も緊張してますよ。とにかくこれは微妙な件なので、誠心誠意――これを肝に銘じてお願いします」
 裕三は仙市に頭を下げる。
「わかった。肝に銘じてという言葉は、しっかり肝に命じておくよ」
 妙な言い回しを仙市はした。どうやら仙市も、かなり切羽つまった状態のようだ。
「それから、もし私が言葉につまるようなことになったら、フォローのほうをよろしくお願いします」
 そういってから、裕三は香織を呼んでくれるように仙市に頼んだ。
「香織っ、お前に話があるといって小堀さんがきてるから、下におりてきてくれ」
 階段につづく障子を開けて首を出し、仙市は大声で怒鳴った。すぐに「はあい」という声が下に聞こえてくる。
 しばらくして香織が階段をおりてくる音が聞こえ、障子ががらりと開いた。
「こんにちは――」
 という声とともに、香織は八畳の和室に入ってきた。セーターにジーンズという格好は普通だったが、顔の化粧はやっぱり濃いものだった。香織は仙市にいわれるままに、裕三の正面に座った。ちゃんと正座をしている。仙市自身は裕三の後ろに控えるようにして、座りこんだ。
「話というのは……」
 といったきり、裕三は後の言葉がなかなか出てこない。
「ひじょうに微妙な問題というか、個人的なこうの問題というか」
 ようやくこれだけ口にして、裕三は大きないきをもらし「誠心誠意、誠心誠意」と胸の奥で自分にいい聞かす。
「こんなことは強要することでもないし、強要されることでもないけど、そこは話し合いというか、お願いというか――つまり、何のことかというと」
 ここで裕三の言葉が途切れた。
 何といっても、あの翔太が、口に出すことはできないと断言した事柄なのだ。そう簡単にたずねることは……。
 周りを嫌な沈黙がつつみこんだ。
「化粧のことですよね」
 ふいに香織が言葉を発した。それも問題になっている言葉を。
「お客さんが、私の化粧のことをあれこれいっているのは、耳にしています。このお店に迷惑をかけていることも、よく知っています。でも、私」
 かすれた声を香織は出した。
「わかっています。化粧というのは極めて個人的なもので、他人がとやかくいえるものではないことは。しかし、豆腐づくりとはいっても店売りがある限り、客商売です。そこのところを考えてもらって、ほんの少し薄化粧というか、何というか」
 脇腹を嫌な汗が流れていた。
「薄化粧では駄目なんです……」
 ぽつりと香織はいった。
「実は……」
 裕三は一瞬いい淀んでから、
「この件に関して、私は若い友人に相談して意見を仰ぎました。まだ高校生ですが極めて頭のいい、母一人、子一人の家で育った、新聞配達をしている翔太という名前の少年です」
 大きく肩で息をした。
「その翔太君が、こんなことをいいました。厚化粧をするなら、それなりの理由がある。しかし、その理由は自分の口からはいえませんと。翔太君はその理由を察しているようでしたが、それは他人の口からではなく、香織さん自身の口から話してもらうより方法はないといいました。だからもし、理由があるのなら話してもらえれば、それなりの対応が……」
 一気にいった。一気でなければ言葉が逃げてしまうような気がした。
「翔太君っていう子が、そんなことを。自分の口からは話せない、私自身の口から話してもらうより方法はないと……」
 独り言のようにいう香織に、
「そして、香織さんには、できる限り優しく接してやってくださいと。こんなこともいっていました」
 追いすがるように裕三はいった。
「何でも、お見通しなんですね。その翔太君っていう子は。そんな優しい子が友達にいたら、私の人生も――」
 そういいながら、香織はふらりと立ちあがった。
「化粧、落してきます」
 低すぎるほどの声でいって、こそりと部屋を出ていった。
 このときになって裕三はようやく、翔太のいっていた言葉の意味につきあたった。そして、香織が厚化粧に固執していた理由も。冷静になってよく考えれば、すぐにわかることだった。だが、もしそうだとしたら、どうすればいいのか。
「おい、小堀さん。いったい何がどうなってるんだ。化粧を落してくるといって、あいつは出ていったけど、化粧を落せばどうなるっていうんだ。俺には何がどうなってるのか、さっぱり、わからねえよ」
 おろおろ声で仙市はまくしたてた。
「それは、つまり」
 答えられなかった。翔太のいうように、他人の口からいえることではなかった。香織自身の口からでないと。
 どれだけの時間が過ぎたのか。
 障子の外で人の気配がした。
 香織が戻ってきたのだ。
 ゆっくりと障子が開いて、部屋のなかに香織が入ってきた。すうっと裕三の正面に歩いて正座した。思った通りだった。
 香織の顔の左のほおの部分が青かった。
 あざだった。
 香織は、これを見られるのが嫌で厚化粧でおおい隠していたのだ。無理もなかった。痣がなければ、香織の顔は素直で素朴で、かなり可愛かった。それが……。
 その結果、香織は痣を封じこんだ。れいに見せるためでもなく、格好よく見せるためでもなく、香織の化粧の目的は、たったひとつだけ。痣をかんぺきに隠すため。そのためには何をいわれようとも、よかった。香織は、痣を憎みきっていたのだ。
「私のこれまでは、この痣との戦いでした」
 香織が口を開いた。
「この痣のために、小中高と学生時代は、毎日いじめられていました。級友からは『汚物』とか『痣エモン』とかいわれ、何も悪いことはしていないのに小突き回されたり、のけ者にされたり。でも化粧することは許されませんでしたから。私は毎日、この痣の顔を表に出して学校に通いました。悲しかったです、本当に悲しかったです。死んでしまいたいほど、嫌な毎日でした」
 高校になってから苛めは更にエスカレートし、香織は女子の不良グループに目をつけられ、そのメンバーたちの鬱憤うっぷんけ口にされたという。
「毎日、黒板ふきで顔をはたかれました。汚物を隠して綺麗に化粧してやる。そんなことをいって、不良グループは黒板ふきで私の顔を真っ白にして喜んでいました。かばってくれる人は誰も……私はそのグループの、オモチャでした」
 香織の声は震えていた。
 両目も潤んでいた。
「本当は高校なんて辞めたかったけど、私の家は父も母も変に厳しくて、高校ぐらい出ておかないと将来に差し支ると……私に将来なんか、まったくないのに。でもその反動のようなもので、高校を卒業しても私はどこにも就職せず、家のなかに引きこもりました。そんななかで、今回のお豆腐屋さんの募集をネットで見て……」
 香織が肩をすぼめた。
 卓袱台の上に何かが落ちた。
 香織の目から涙があふれていた。
「私は小さいころから、お豆腐が大好きで。風味も食感も繊細さも……でもそのころは、お豆腐の上にしょうをかけるのが嫌で嫌で。あの白い表面に醤油がかかって色が着くのが、自分の痣を連想させて。だから、醤油をかけたら、すぐにお豆腐をぐちゃぐちゃに崩して食べていました……でも本当は、あの真白で綺麗な豆腐の肌に、私はあこがれを持っていたのかもしれません」
 いい終えたとたん、香織は肩を大きく震わせた。声をひそめて泣き出した。大粒の涙が次から次へと卓袱台の上にこぼれて落ちた。
「香織、おめえ」
 仙市が泣き出しそうな声をあげた。
 裕三の前にい出てきた。
「でも私、変ろうと思います」
 強い口調で香織はいった。
「さっき、小堀さんから翔太って子の話を聞いて、私の身体のなかの何かが外れたような気がしました。もう逃げるのはよそう。隠すのはよそう。痣があろうと何があろうと、私は私。すべてをさらけ出して、これからは生きていこうと決めました」
 香織は涙でくしゃくしゃになった顔で仙市を見つめ、
「大将。私、明日からスッピンで店に出ますから」
 叫んだ。
「そんな、香織。そんなことは……」
 おろおろ声でいう仙市の言葉にかぶせるように、裕三が叫んだ。
「そんなことしなくても、薄化粧にすれば。痣は隠れないけど、目立たなくなるのは確かだから。薄い色ぐらいなら、香織さんの顔は充分すぎるほど可愛いから。元々、素直で可愛い顔立ちなんだから」
 ようやくこれだけ、いえた。
「嫌です。私はもう逃げない。スッピンで店に出て、堂々とお豆腐を売ります。もう、誰にも文句はいわせない」
 香織は声を震わせて泣き出した。
 思いっきり泣いていた。
 裕三の胸も軋んでいた。香織の言葉は本物だと思った。香織はもう逃げない。少なくとも、厚化粧はもうしない。薄化粧か、スッピンか。どちらにするかはわからなかったが、自分を隠さず、前向きに生きていこうという決心は本当のような気がした。正直いって裕三は嬉しかった。香織には幸せになってほしかった。
「駄目だっ」
 そのとき誰かが怒鳴り声をあげた。
 これは仙市の声だ。
「駄目だ、許さん」
 仙市がまた怒鳴った。
 いったい、何がいいたいのか。
「お前は今まで通り、厚化粧でいい。スッピンになどなることは、俺が許さん。これ以上もう、悲しい思いなどすることはない」
 突拍子もないことをいい出した。
「嫌です。スッピンになります。そうすれば、誰からも文句は出ません。それに、それが私自身のためにもなるんです、大将」
 香織が怒鳴り返した。
「厚化粧がどうとかいう客なんぞ、ほっておけばいい。そんなやつはうちの客でも何でもねえ。うちの豆腐を買ってもらう必要はねえ。よそへ行けばいい」
 更に怒鳴り声をあげる仙市も、泣いていた。
 鼻水と涙で、ぐしゃぐしゃの顔だ。
「お前はうちの家族だ。お前を苛めるやつは俺が許さん。そんな客は、こっちからお断りだ。クソ食らえだ」
 二人のやりとりを聞きながら、裕三はそっと立ちあがった。心配ない、これは親子げんのようなものだ。それも、飛びっきり仲のいい親子の。
 裕三は怒鳴りあう二人のそばからゆっくりと離れて、靴をはく。何があろうと、この二人なら大丈夫だ。乱暴ではあるが、非の打ち所のない、最高の家族だ。静かに戸を開けて外に出ると、かなり凍えていた。
 あんな家族がほしい。
 裕三の胸をそんな思いが、ふっとよぎった。
 怒鳴りあいは、まだつづいていた。
                       (つづく)