第一章(承前)




      7(承前)




 三〇分か、もっと長い時間がっただろうか、たかあきは付けっぱなしのテレビ画面をぼんやりと見詰めていた。食欲はどこかへ失せ、温め直した酢豚とパックご飯を少し食べただけではしが止まったままだ。
 我に返り、テレビの音量を下げた。姉の部屋かられる音に注意を払う。興奮してほっ的に妙な真似をしないか、心配になってきた。
 孝昭はスマホに手を伸ばし、メールアプリをタップする。
もとみや先生 メールで失礼します。至急ご相談したいことが起きました。不用意によし神社であった事故のことを口に出してしまって』
 本宮医師が出演したテレビの録画を見たこと、居間には出てこなかったけれどともふすますきからのぞき見ていたこと、そして久しぶりに一緒に台所に立ち、夕飯のたくをしたことを会話も含めてこくめいに記した。
『機嫌は大変よかったんです。ところが突然、自分を「アホ」だと ぎゃくするような言葉を吐き、「怖い」とおびえ出しました。それで事故のこと、新聞を捨てたことにも触れてしまったんです。私のミスです。姉はとても興奮してしまい、発作的にしょうしないか心配です。先生、どうすればいいでしょう、教えてください』
 孝昭は文章をざっと見直し、送信ボタンをタップした。
 時計を見ると九時半を過ぎている。時間外相談になることへの謝罪を書き忘れたことに気づき、申し訳なく思っている旨の一文だけをメールした。
 すぐに返事があるとは思っていない。それでも落ち着かず座卓の上を片づけてみたり、夕刊を開きながら何度もスマホを確認してしまう。自分のしたことが、どれだけ友美にプレッシャーをかけたのかだけでも知りたかった。
 卓上の片づけを終え、二度目のからきの途中でスマホのメール着信を告げる音が鳴った。本宮医師からだ。
 孝昭はきんを投げ出し、素早くメールを開いた。
ぼり孝昭様 報告、ありがとうございます。まずは孝昭さん自身が落ち着くことです。背筋を伸ばして目を閉じてください。
 お腹にある空気を出し切るイメージでゆっくり息を吐きます。吸うときは、お腹や胸を風船に見立て、それをふくらませると思ってください。自分のリズムでそれを繰り返して、目を閉じているのが苦痛になったら、目を開いて結構です。
 二人の会話など詳しく書いていただいたので、お姉さんの現在の状態をるいすいすることができます。いくつか気になる言動があるのですが、やはりお姉さんの恐怖の感情と、吉田神社の事故とには因果関係がありそうですね。また新聞を捨てた行為が、事故のことを目にしたくないための拒否反応だった可能性も高くなりました。さらに、そのことをあなたに知られたことが分かり、お姉さんは罪悪感としゅうしんで、冷静さを失っている状態だと思われます。
 自傷行為の経験があるお姉さんは、あなたが心配するように自傷するかもしれません。もし自傷行為を行ったことが分かっても、絶対に狼狽うろたえてはなりません。
 例えば痛みにうめく声が聞こえたら、声をかけてどうしたのかを尋ねるだけにしてほしい。
 あるいはフェルト細工で使用するニードルで指を傷つけていることもあるでしょう。そのときは、淡々と傷の消毒をしてあげてください。
 自傷と自殺とはまったく違います。自傷は自殺しないための防御行為だから、むしろ自殺を自分で抑止していると言っていいでしょう。つまり自傷することで生きようとしているのです。
 不安や恐怖の真の正体、実はご本人も分かっているとは限りません。いろいろなことやものがこんがらがって、つかみ所がない場合も多いんです。目に見えない敵に振り回されている。でも、自分の刺した指はどうでしょう。何度も突き刺し赤らみ、血がにじんでいる。それこそ痛みの原因だと、一目で分かりますね。自分で傷をつけることで、言葉にできない心の痛みを、目に見える形に置き換えているんです。得体の知れない痛みを、みずからコントロールすることのできる痛みに変換している。そうすることで、何とか今をしのごうとしているのだと思ってください。あるいは大声を出して暴れ、ものを破壊したいしょうどうを抑えるために自分を傷つけていることだってあるんです。
 だから、「もっと自分を大切にしろ」などの言葉をかけないようにしましょう。自分を大切にしているからこその行為なのですから。また「何しているんだ」と責めたりしないで「これ以上傷が悪くならないようにしたからね」と大事に至らなかったことを喜んであげるような態度で接してあげてください。自傷そのものを認めるのではなく、軽く済んだことを肯定的に解釈してあげるんです。
 ただし、自傷を発見できたときに限りますよ。無理に探りを入れるようなことはしないでください。大丈夫だから、僕を信じて今夜は眠ってください。何かあったらまた連絡もらえれば対応します。本宮けいろう拝』
 孝昭はメールを読み終えるとティッシュで頬をぬぐった。文章なのにまるで本宮医師がそこにいるような安心感に包まれ、徐々に気持ちが軽くなるのを感じた。
 それにしても、自傷が、さらに自分を傷つけないための防御行為だとは知らなかった。実家で友美が腕を傷つけたとき、両親が大騒ぎしたのはよくなかったのだ。部屋に引きこもって、ひたすらニードルを羊毛に突き立てていたのは、自分の身代わりだったのかもしれない。部屋中に飾ってあったフェルト作品が自傷行為の代償だったとすれば、その数だけ友美は苦痛を抱えていたということになる。
 生き延びられたのは、あのフェルトの猫やうさぎ、羊たちのお陰だった。
 孝昭はテレビの前の猫を見た。友美の部屋には、実家に劣らない数の動物が並んでいる。そして今も増え続けているのだ。
 耳を澄ます。ザクザクザクと、羊毛に金属の針を抜き刺しする音がしていた。




      8




 慶太郎は、孝昭に二度目のメールを送信した。みつが教えてくれた吉田神社の転落事故についていつまで新聞に掲載されていたかを彼に知らせ、そのすべてを友美が捨てているかを確認してもらおうと考えた。孝昭にミッションを与えることが、彼の不安や動揺を和らげるはずだ。
 光田との約束の時間まで、友美の治療方針を練ろうと、慶太郎は診察室のデスクにつきノートを開いた。
 現在の問題点は、事故を報じた新聞を捨てた事実を孝昭が本人に話したことでも、いさかいの結果、自傷する確率が高まったことでもない。それよりメールにあった、「近くで人が死んだんや。誰かて怖い。それもよく知ってる場所なら、なおさらや」という彼の言葉に対して、「違う。あんたは何も分かってない」という友美の文言がひっかかった。
 友美の「違う」という言葉は、何を否定したものだろう。
 近所で起こった人の死は、誰もが怖いということを否定したとすると、事故死そのものには特段の恐怖は感じていないことになる。それなら吉田神社での弁護士転落死を報道した新聞記事を遠ざけた意味が分からない。友美の恐怖の在処ありかはどこなのだろう。
 友美から孝昭は、何を分かっていない、と責められたのか。それが分かれば、彼女が恐れるものの正体が見えてきそうだ。
それを聞き出すい方法を考えないといけない。
 慶太郎は、テーブル上にあるテレビの撮影時に付けていたフェルトのブローチを手にした。
「やっぱり、これを使うしかないか」
「慶さん、初診の予約なんだけど、三カ月どころじゃなくなった」
 戸が開き、すみは受付室から顔だけ出して告げた。
「どれくらい先まで詰まったの?」
「受け付け終了した時点で、四カ月と一週間後の人が最後。キャンセル待ちの方は除外したとしてね」
「一度のカウンセリングで終わりじゃないからな」
「一人じゃ無理になる。でも今日電話してきた方はみんな慶さんを見ての予約だから、助っ人には務まらない」
 テレビ出演が続けばクライエント数はさらに増え、休日は返上しないといけなくなる、と澄子が目をくるりと回して見せた。
「今度ばかりは沢渡さわたりの言う通りになったね。しかし、こちらの準備ができてなかった」
「私のほうは、ナースの経験があって医療事務のできる当てがあるから聞いてみるけど、慶さんの代わりは、ね」
「考えないと、こっちが病院送りだよな。で、ナースの当てって誰?」
「私が以前勤めてた病院の後輩なんだけど、セクハラ受けて辞めちゃったってメールがあったのよ」
「産婦人科医院で、セクハラって」
 澄子は何軒かの病院で看護師経験がある。慶太郎のクリニックを手伝う前は、京都市内の産婦人科病院に勤務していた。
「世も末。彼女、そう言って辞表を叩きつけたんだって」
「泣き寝入りかい?」
「院長の息子がセクハラの張本人だから、彼女の言い分が通らなかったみたい」
「セクハラを証明できないってことか。それじゃあ出るとこに出ても勝てないな。いや、マスコミにさらし者にされてしまうかもしれない。それもセクハラみたいなものだよな」
「だから世も末なのよ。その彼女、あっ名前はあかりさんって言うんだけど、人間的には間違いない。私が保証する」
 澄子が診察室に入ってきて、ホワイトボードに後輩の姓名を書いた。
「澄子に任せる。この分じゃとても手が足りないから、できるだけ早くきてもらったほうがいいね」
「慶さん、往診はもう無理じゃない? テレビの相談者にもその旨は伝えないといけないと思う」
 もしテレビ放送の相談者、が往診を望んできた場合、出張しなくてはならない。友美の治療も合わせると、慶太郎の仕事の容量を超えている、と澄子が言った。
「いままで、自分がアルバイト先を探してたのにな。逆の立場になるなんて思ってもみなかった。沢渡に相談するしかないかな」
「絶対に慶さん一人で面接してね。人柄重視じゃないとダメだから」
「当然、そうするよ」
「じゃあ私、家に帰るね。たけるのことも心配だし」
「おさんとめてないかな」
「難しい年頃になってきたわ。大変だけど、休みには話、聞いてやって」
「ああ、分かってる」
 この頃の尊は、熱中していたプラモデルを一緒に作ってと、せがまなくなった。『戦艦大和やまと』も完成間近の状態のまま放置している。自立のちょうこうだが、気持ちが離れてしまうのはよくない。だがどうしても職業柄、父親ではなく心療内科医として分析してしまうのだ。たぶんそれを尊は見抜いている。だから慶太郎の前では本音を見せず、素直になれないようだ。
「あの子、目を見ないでしょう? それは私にも、母にも同じ」
「こっちが、医療関係者特有の冷たい目で見るからかもしれない」
「やっぱり慶さんとも目を合わせないのね」
 澄子が、あんとも嘆きともつかぬため息をついた。
「沢渡もときたま僕の目を怖がるんだ。心の中まで見ようとしてる目だって。注意しないといけないのかな。クライエントにはそんなことないと思うんだけど」
「カウンセリングのときは優しい目よ」
 と澄子が言ったとき、インターフォンの呼び出し音が鳴った。
「光田さんだ。もうそんな時間になったか」
「じゃああいさつだけして、私帰るね」

 光田が澄子と入れ替わるように、診察室のソファーに腰掛けた。
「先生、お疲れのところ本当に申し訳ありません。これ冷めてしまいましたが、たこ焼きです」
「ああ、気を遣わないでください。家内も家に帰ったんでコーヒーしかありませんが」
 慶太郎がコーヒーメーカーからサーバーを手に取ると、光田の前にあるカップに注ぎ入れた。
 クリニックの前の通りを軽自動車の走り去る音が聞こえた。澄子が運転する車だ。
「奥さんも遅くまで大変ですね。私を待ってらしたんでは?」
「いえ、予約の電話に追われてたんです。そうだ改めてお礼を言わないと」
「電話でも言いましたが、お礼はこっちがしないといけません。局に先生を推薦して鼻が高いですよ。その上スクープのお手伝いまで」
 光田が意味ありげにほほんだ。
「スクープだなんて、それはちょっと」
「分かってます。とにかくこれを見てください」
 光田はスマホを取り出し、何度かタッチした後、画面をこちらに向けた。
「現場にあったものですね」
 スマホを受け取って、画面を注視する。花の型に切った紙のようだ。大きさは一緒に並べてある煙草たばこよりも少し小さく、中心から放射線状の折り目らしきものが数本あって、何かが書かれている。画像を大きくするために慶太郎はピンチアウトした。
「全体に劣化してますね。文字は漢字で『優秀』。その文字を囲むように二重丸が描かれてるようだけど。二重丸のほうは赤色ですが、大きくしないと見えない。形は桜、かな」
 さらに画面に顔を近付け、大きくしたり元に戻したりした。
「次の写真も見てください」
「裏面、か。色せてるけどピンク色の紙ですね。やっぱり桜だ」
 慶太郎は顔を上げた。
「それが発見された場所、どこだと思います?」
「遺体のそばなんでしょう。いや、わざわざ問うくらいだから……弁護士さんの服かズボンのポケットの中?」
 と、探りながら光田の目を見て、スマホを返す。
「さすがですね、先生は。ただしポケットではなく握りしめてたんだそうです。刑事の口が堅かったんですが、粘って聞き出しました。しかも、痴漢対策用のスプレーの成分のオレジン・カプシカムが検出されている」
「犯人は、これを持っていた弁護士さんにスプレーを吹きかけ、石段の下へ突き落としたってことですか」
「やはり事故じゃないのは確実です。被害者自ら現場に向かってもいますからね」
「殺害が目的だったとは思えないですが」
 スプレーで目潰しをしたのは、抵抗できなくするためだろう。けれど石段の上から突き落としても必ずしも絶命するとは限らない。確実に死なないと、犯人のリスクはこの上なく高まる。
「確実性に欠けるということでしょう?」
「犯人にとって危険過ぎる。未遂で終われば、顔を見られていることがあだになる。残忍なことを言うようですが、なぜとどめを刺さなかったかということです。被害者の死因に不審な点はないんですよね。確実に死に至らしめるような首を絞めた痕跡とか、薬物反応があるとか」
「そのような痕跡はなかったようです。まず、これは被害者か加害者、どちらの所持品なのかが警察内部でも問題になりました」
 光田は自分のスマホの画面に目を落とし、続ける。
「警察は当初、犯人の遺留物だと色めき立ったんですが、いまはしまざき氏の持ち物だったのではないかと見方を変えています。鮮明ではないんですが、この優秀の文字の筆跡を調べた結果、いくつかのトメ・ハネの特徴が島崎氏の筆跡に似ていたというんです」
「いや、筆跡が島崎さんのものだとすれば、これは加害者が持ってきたものと考えるべきです。第一、自分で自分に優秀と書くのも変だ。おそらく受け持つ講座の生徒に対して使ったんでしょう。ただ現在の大学の授業で、紙の桜に優秀の文字を書いたものを使うとは思えません」
「そう思います。だから犯人が子供の頃というか、幼少期にもらったものじゃないかと思ったんです」
 光田は眼鏡めがねの位置を直すと、
「しかし島崎氏がきょうべんを執り出したのは七年前で、神戸の大学の講師でした。それから三年経った四年前、三十八歳の若さで准教授となっています。いずれにしてもこんなものを彼が渡したのだとしたら、相手は大学生になってしまいます」
 と肩をすくめた。
 光田の話では、島崎は二十七歳で司法試験をパスし、講師時代にはすでに法律事務所を経営していたのだというから、順風満帆の法律家人生だったようだ。
「仮に七年前の講師時代の生徒が、これを持って会いに来た。うーん、法学部の学生にピンク色の紙でこしらえた花を、ね」
「女子学生なら案外喜ぶんじゃないですか。優秀であることを示す勲章、メダルのようなものをもらって。大学一年生ならまだ十八、九ですもの、先生」
「おや、幼少期という見方を変えるんですか。ブンヤのかんなんでしょう?」
「いえ、だから先生の意見を伺いたかったんです。確信を持ちたかったと言ったほうがいいかもしれません」
 光田はいつも立っている頭頂部の髪の寝癖をで付けた。
「ひとまず幼少期でも大学生でもいいですが、加害者は優秀の証しを何年か経って、再び持参した。そして島崎さんに催涙スプレーを噴射して突き落とし殺害。しかし桜の勲章は回収しなかった……」
「そこにメッセージ性があると、先生に申し上げたんです」
 光田がスマホを、将棋の駒のように音を立ててテーブルに置いた。
「決め打ちは危険な気もします。ピンク色、痴漢用のグッズは女性を連想させるものです。いかにも、ね」
 夜なのに島崎が油断して人気のない神社の境内におもむいたことや、痴漢撃退用のスプレーを使ったことは、犯人が女性であることに矛盾はしない。しかし、それが犯人の狙いであることもある。
「だから先生のお知恵を拝借したいんです。こんなもの大切に保管していた心理、それが見えてくれば、犯人の人間像、事件の背景と動機が明らかになると私は思っています」
「これだけから……」
 慶太郎は再びスマホを持ち上げ、花型の紙片の画像を見詰める。
「そうです、これだけからです。でも貴重なかぎじゃないでしょうか」
「人をあやめる心理は、特殊な場合を除いて極限状態です。興奮した中でも、本人がことに重要だと思う事柄については、冷静な行動がとれるものです。たとえば殺害するつもりで相手とたいしているのに、わざわざ犯行の原因となる事柄について理路整然と説明したりする。死んでいく相手に思い知らせ、後悔させたいんです。そこに、こだわりをもつ」
「そのこだわりこそが、まさに花の紙片ですね」
「オレジン・カプシカムが付着していたことから、加害者のおもわくの一旦は見えますね」
「いいですね、それ」
「紙片を手渡せば、すきができるはずだと思ったんじゃないかな。島崎さんの気持ちを引きつけるものだと、犯人は分かっていた。けっして忘れてはいない代物なんだとね。驚きなのか、懐かしさなのか……」
「お互いに印象に残っているものってことか。見えてきそうですね、犯人像が」
 光田のペンがノートの上を走っている。
「そうなると、やはり幼少期か大学生なのかが問題になります。有力な遺留品であることは認めますが、それだけを見て謎を解くというのには限界がありますよ」
 慶太郎はくぎを刺しておいた。
「今すぐ、すべてを解明してくれとは申しません。捜査関係者にはない発想で、事件を追いたいんですよ。気になったことがあったら、どんなことでも言ってください。先生が頭脳で、私は手足となって調べます」
「そんなこと言われても、警察を出し抜けないかもしれませんよ。向こうは捜査が仕事なんですからね」
 今までのように診察以外に時間をけそうもない。推理をする時間がないのだ。
「受付にあるホワイトボードに貼ってあったスケジュール、見ました。ぎっしりですね。治療の合間がない感じです」
「ありがたいことです」
「先生が事件記事を掲載した新聞を気にされていたのは、患者さんがらみでしょうけど、どういった関係があるんです?」
 と光田があん顔で聞いてきた。
「何度も言ったように……」
 慶太郎は口をチャックで閉じるしぐさをした。
「いや、患者さんの治療に役立つ可能性がないのか、と考えただけです」
「それについては、まずないでしょう」
 むしろ、殺人事件だという報道がなされたとしたら、そのときの友美への影響が気がかりだ。
「そうですか、残念だな」
「仕事をこなしながら、頭の片隅においておきますよ」
 慶太郎はコピー用紙を正方形に切って四つに折り、切り込みを入れて桜の花を作った。その中央に「優秀」と書き、それを赤ボールペンを使って二重丸で囲んだ。
「うまいもんですね。よく似てます」
「こう見えても手先は器用なほうなんです」
 慶太郎は手術前の外科医がやるように、指先を上に向けてせわしなく動かした。なぜか義母と尊の顔が浮かんだ。
「やっぱり先生に相談して正解でした」
「いやいや、期待しないでください。たこ焼き、温めてきます。いっしょにつつきましょう」
 慶太郎が白いポリ袋を持ち上げた。




      9




 孝昭は営業部の先輩から紹介された女性と、京都駅に直結するホテルのラウンジにいた。きたかみ歯科医院の院長、北上ゆうの娘、だ。彼女も歯科医で、審美専門のクリニックを開業しようとしていた。衛生機器や空気清浄機など一式の提案をしろという話だった。
 それは表向きで、先輩は営業先の北上院長から娘の婚活について相談を受けていて、孝昭が選ばれたのだった。今現在恋人がおらず、年上の女性が好みだからというのが理由らしい。姉の面倒ばかり見ていて恋人に愛想を尽かれて以来、シスターコンプレックスだといううわさが部内で流れているようだ。八恵は三十九歳、友美より四歳も年上になる。見た目はずっと若く、理知的で整った顔立ちをしていたけれど、九歳も年上となると腰が引ける。
 二人を引き合わせた理由を八恵は知らないのか、会ってからの話題はもっぱら空調設備についてだった。何より、孝昭の緊張に比べて彼女には屈託がないように見えた。
「そうそう、壁紙とかフローリングで空気をきれいにするものがあるって聞いたんですけど、御社でも扱ってますか」
 アイスレモンティーのグラスを持ち上げたまま、八恵が尋ねた。
「よくご存知ですね。当社にも機能性素材のものがございます。防臭、除菌、防カビ効果でホルムアルデヒド対策もできます」
 孝昭は床に置いた大きなかばんからパンフレットを取り出し、
「お見積は、院内を見せていただいてからのほうがいいかと」
 と言ってテーブルに置いた。
「実は、まだ物件が決められてないんですよ。二、三の候補から決めあぐねてるんです。さっきも物件を見てきたんですけどね」
 八恵は微笑みながらグラスを静かにコースターに置いた。開いた唇から、きれいに整列した白い歯がこぼれた。父親が婚活を口にするほどだから、引っ込み思案な女性を想像していたけれど、長髪を後ろでまとめた顔立ちには、明るい印象を持った。
 親が知らないだけで、すでに決まった人がいるにちがいない。
「決め手にかけるんですか」
「費用もずいぶん違うんで。いいな、と思うところは相当背伸びしないと届きません。決断力がないんです、昔から」
「買い物が、買い物だけに、しょうがないですよ」
「あのう」
 八恵が言いにくそうな顔つきになり、
「父がご迷惑なことをお願いしているんじゃないです?」
 と聞いてきた。
「ご存知、だったんですね。やっぱり」
「ダメなら、ダメときっぱり断ってください。だからといって、他社に乗り換えるなんてことはしませんから」
 八恵はきつく唇を結んだ。
「先生のことを心配されているんですよ。そもそも私のほうが断るなんてあり得ません。先生のほうが、あんな男だめだって院長に断言してください」
「そんなこと、古堀さんにさらにご迷惑がかかります」
「大丈夫です、どうせ私なんかとは釣り合いません。私のほうは気にしませんが、先生が年下でもいいと思っていらっしゃるかどうかもありますから」
「年下?」
「ええ、私は今年で三十です」
「はあ……三十歳、ですか」
「見えませんか。格好のせいかもしれません」
 孝昭はスーツを下に引っ張って髪を整えた。
「若くは、見えますよ。でも、それが何の関係があるんですか」
 八恵が首をひねっている。
「なら、こう言ってください。あんなシスコン男、こっちから願い下げだって」
 と言い放った。
「シスコンって、あのすみません、父はいったい何をお願いしたんですか」
 八恵は顔をしかめて言った。
                       〈つづく〉