第一章(承前)




      5(承前)




「何?」
 声を上げたのは、たかあきだった。画面からテレビスタジオのあわてぶりが伝わってきたからだ。それが演出ではないことは、冷静でいなければならないはずのアナウンサーの表情で分かる。
 背後のふすまがガクッと音を立てた。アクシデントが起こったことをともも知ったようだ。
「先生、それは放送はここまで、ということですか」
 画面は女性アナウンサーと本宮もとみや医師とを映し出す二分割に切り替わり、彼女が言葉を探るような口調で本宮医師にたずねる。
「そういうことです」
「視聴者のみなさんも、もうちょっと先生のりょうに関する話をお聞きになりたいと思うのですが」
「先ほど、食べることは生きることだと言いました。つまりせっしょくしょうがいは命に関わるいとなみに体が拒否反応を示しているとも考えられます。また、ちょっと専門的な言い方をすれば、脳のしょくよくちゅうすうは愛情中枢と近い場所にある。えーっとあなたは……」
 本宮医師は手許の書類に目を落とす。
大貫おおぬきです」
「失礼しました。大貫さんも、親しくなりたい人とは一緒に食事をしたいと思いませんか」
「それは、そうですね」
 大貫は恥ずかしそうに微笑ほほえんだ。
「お隣のかめさん、ですね」
「あ、はい、ピンチポンチの亀野です」
「気になる女性を食事に誘うこと、あるでしょう?」
「それはもう、しょっちゅう。あっちゃー、えらいこと言うてしもた。女房が見てるんですよ、先生。これが生番組の怖さや」
 スタジオに笑い声がれる。
「それは食事と愛情が密接な関係を持っているからです。それを本能的に知っているんですね、人間は」
「なーるほど、本能なら仕方ないですね。人間の本能やから」
 亀野が笑みを浮かべながら、カメラの向こうの妻に念押しするかのように言う。
「それだけ根が深いものなんです。人の顔かたちが違うように、誰にでも有効だという対処法はありません。だから、きららさんの育った環境、経験などから治療方針を立てていく必要があるんです。そんな個人情報をテレビで流すのは問題でしょう」
 本宮医師の目は真剣だった。
「ごもっともです」
 と大きくうなずいて見せた亀野に続き、
「では、番組としての相談はここまでということで、先生ときららさんはこのまま個別相談という形にさせていただきます。それでよろしいでしょうか」
 きららと本宮医師がほぼ同時に返事し、そこでコマーシャルに入った。




      6




 カメラマンなど中継スタッフが、礼を述べて「本宮心療内科クリニックまり小路こうじいん」からてっしゅうしていった。彼らの表情は一様に硬く、言葉も少なかった。
けいさん、お疲れ様でした。結局きららさん、出張診療を希望したんでしょう」
 すみが盆におしぼりと無糖炭酸水のペットボトルを載せて、診察室に入ってきた。
「うん。彼女自身はそう希望していた」
 きららの本名はしばで、年齢は二十六歳だ。住所をはじめ家族のことなどは聞けず、メールアドレスだけの交換となった。
「両親の許しが必要みたいね」
「成人女性なのにな。テレビカメラを回していても、それほど突っ込んだ話にはならなかった。結果的にあれでよかったんだと僕は思っている」
 けいろうは髪をき上げた。
「あれでいいわ。慶さんらしいと思った」
 澄子は立ったまま、盆をテーブルに置いた。
「台本では、対処法を言い渡すとなっていたんだ。快刀かいとうらんつごとくってト書きまで書いてある」
 慶太郎は一旦台本を持ち上げ、
「狙いは分かってたけど、芝田さんの表情を見ていたら、そんな簡単じゃないって思った」
 とテーブルの上に放り投げた。乾いた音を立て、そのまま天板の上を滑って畳の上に落ちた。
「心の治療に、快刀乱麻だなんて」
 澄子が台本を拾い上げ、ソファーに座る。
「芝田さんのほおけてて、前歯にすきが目立っていたんだ」
「退院して太ったって言ってたわよ、彼女」
「あれで太ったとしたら、入院時の状態は相当悪かったことになる。逆に太ったと言うのは彼女の思い込みとしても病状はよくない。歯の溶け方からして、摂食障害は重い部類に入るんじゃないかな」
「ほとんど改善されてないかもしれないってことね」
「うん。なのに彼女をた医師は入院りょうの必要を認めないんだ。たぶん入院中に問題行動を起こしたか、もしくは親が反対したかだろう」
「で、慶さんは彼女の摂食障害の原因は、親なのかもしれないと踏んだのね」
「愛情不足が後の摂食障害を起こすこともあるからね。それを聞き出すには、幼少の頃の親子関係に触れざるを得なくなる。MCの二人には悪かったけど、ああするしかなかったんだ」
「かえって慶さんの真面目な性質がきわだって映ったんじゃないかしら。どうしたの、暗い顔して」
 澄子が炭酸水を慶太郎の目の前へ差し出した。
「とはいえ、司会進行の二人の慌て方を考えると、番組を台無しにしてしまったような気がしてね」
 ひねったペットボトルのふたから、勢いよく炭酸がれる振動しんどうが慶太郎の指に伝わる。口に運ぶと、熱っぽい口中に清涼感が広がった。
「台無しってことはないわ。そもそもクライエントへのカウンセリングで、台本通りに運ばせようとしたのが間違いなのよ」
「しかし、仕事として受けたんだから……事前に言っておくべきだったな」
「実際にクライエントの顔を見るまで、病状は分からないわ。だから仕方ない」
 澄子がきっぱりと言い切った。
「そう思ってくれるのは澄子だけだよ」
 もう一口炭酸水を口に運ぶと、慶太郎のケータイが鳴った。画面に表示されたのは「悪友」という文字だ。
沢渡さわたりさんね?」
 と察知した澄子にうなずき、電話に出た。
「お前、やってくれたな。開いた口がふさがらんぞ。放心状態で電話もかけられなかった。どういうつもりだ」
 いきなりきょういちがまくしたてる。
「成り行きだ」
「それも最悪の、な」
 彼の背後から音響式信号機の電子音が聞こえた。
「お前いま、移動中か」
「タクシーの中だ。いま信号で停車しただけ。とりあえずそっちに向かってる」
 ぶっきらぼうに答えた。
「わざわざ来なくていいよ」
「そっちがよくても、こっちはそうはいかん。コンサルとしては、今後の対応を考えなけりゃならんのだからな」
 番組が終わった直後に、テレビ局のプロデューサーと電話で話したのだと、恭一は言った。
「やっぱり怒ってたか」
「怒る? 相手は大人だ。こつに感情を出すことはない。それだけに怖いんだよ。とにかく電話ではまずい。いいか、クリニックから出るなよ。往診おうしんとかなんとか言って雲隠れするんじゃないぞ」
 電話が切れた。
「聞こえてた」
 澄子が肩をすくめた。
 半時間ほどして、恭一がやってきた。ドタドタと足を鳴らして診察室まで上がり込むと、応接セットのソファーに座り、足を組んでおしぼりで顔をいた。おしぼりと一緒に出した炭酸水を勢いよく一口飲んでむせかえった。彼のせわしない動きに、きょうまちの風情は一気にかき乱された。
「まあ、落ち着け」
「これが落ち着いていられるか。あの後もスポンサーへの謝罪で大変だったんだ。こっちにはまだ何も言ってきてないか」
 恭一がそう言って受付のほうを向き、耳を澄ます格好をした。するとタイミングよく電話の呼び出し音が鳴り響く。
「ほらな。おそらく新聞社と放送局との間に入ったみつだろう」
「いや、彼ならこっちにかけてくるはずだ」
 慶太郎は自分のケータイをデスクから応接テーブルに移動させた。着信れきはない。
 さらに耳を澄ます。よろしくお願いしますと、澄子のよそ行きの声が聞こえてきた。彼女が受話器を置くとすぐ、呼び出し音が鳴った。
「これはクレームだな。ネットで電話番号を調べて直接番組への文句を言ってきているにそうない」
 開院のときいたチラシ同様、時代劇の台詞せりふのような言い回しだ。
「沢渡、お前楽しんでないか」
「そんなわけなかろう。親友のきゅうなんだ。いや、コンサルの契約者がへまをしでかしたんだぞ」
「目が笑ってるように見えるのは錯覚さっかくか」
「自分が失敗しておいて、素直さまで失うとは、泣けてくるよ。どうした我が本宮慶太郎先生よ」
「失敗とは思っていない。ただ番組の制作者への配慮はいりょがなかった点は、反省してる。多くの人に迷惑をかけてしまったよな」
「何よりも光田の顔をつぶしたな。それとスポンサーだ。で、次からの放送だけど」
「打ち切りか」
 いたたまれず先回りした。
「一回きりで結論は出さない。今後の視聴率によっては、どうなるか分からんけどな。局にクレームがどのくらい入るかだな」
「それによってクビってことか」
 こうしている間にも、電話がれることはないようだ。対応している澄子が可哀想だった。
 慶太郎が受付室にそそぐ視線を見て、
「澄ちゃん、ここしばらくはクレーム対応に追われるな」
 と恭一が言った。
「それは困る、診療にも差し支えるし」
「患者がいれば、だろ。テレビはかいせいののろし、クリニックのプロモーションになるはずだったんだ。あんな中途半端なカウンセリングを見せられれば、興味を持っていた患者も敬遠してしまう。マイナスイメージがついたな」
「マイナス、か」
「局が望む快刀乱麻を断つ心療内科医だって評判が立つところだったんだぞ。でもあれじゃ、患者から逃げたって思われる。つまり、これだ」
 恭一はバンザイをした。お手上げだと、言いたいのだ。
「これからどうすればいい? スポンサーから何かいてきたんだろう?」
「次からのことだが、もっとカウンセリングの様子を見たいんだそうだ。そして患者の変化が分かるような演出がほしいと言っている」
「それは無理だ」
「待て待て、そうかたくなになるな。あくまで演出だ。俺だって、テレビでお前のお説ははいちょうしたんだ。だからそんなに簡単なもんじゃないって分かった。変化したなと思わせる言葉を引き出せばいいんだ」
「そんなことできない。テレビ局がカウンセリングの実態とその成果を撮りたいのは分かるが、スポンサーがなぜカウンセリングの成功例のようなものを望むんだ」
 慶太郎のコーナーは、らく建設株式会社が筆頭スポンサーだった。カウンセリングそのものと、それほど関係があるとも思えない。
「和楽建設のマークは、家族の笑顔。その笑顔の条件の一つに健康をげている。健康住宅を標榜ひょうぼうしている会社として、いくつかの健康番組のスポンサーになってるんだ。心療内科に関する番組にお金を出すのは今回が初めてだった」
 それだけに期待していた、と恭一が担当者から嫌みを言われたのだそうだ。
「そう言われても……」
しょうふくできないのか」
「そうじゃないんだ。クライエントのプライバシーに関わる部分は絶対公開してはいけない。その他のことは割り切っているつもりだ。番組を混乱させないためにも、次からは事前に相談者の詳しい情報がほしい」
「その点は、プロデューサーと相談する。当初から、初対面の緊張感を視聴者に伝えたいってことだったからな」
「それはいいんだ。詳しい情報さえもらえれば」
 テーブルの上のケータイが鳴った。
「光田さんだ」
 そう言って慶太郎は通話ボタンを押した。
「先生、いま話していいですか」
「ええ。光田さんをいたばさみにしてしまって」
「何ですか、それ」
「せっかくチャンスをもらったのに、あやまります」
 慶太郎は背筋を伸ばす。
「何を謝るんです? 現場からの連絡がありましてね」
「たいそうりっぷくされていると思います。改めて謝罪に伺います」
「だから、どうして先生が謝らないといけないんですか」
 光田は笑っているようだ。
「カウンセリングの途中で撮影を中止したから、制作サイドはかなり怒っているんでしょう?」
「それがよかったんじゃないかって、現場は騒いでました。さっき視聴率が出まして、あの時間帯の二位だったんだそうです。それは番組が始まって以来のことだといいます。瞬間視聴率が最も高かったのが先生の相談コーナーなんですって」
「本当ですか」
 光田の言葉が理解できなかった。
「本当もうそも、事実相談者が殺到さっとうしてきているんです」
 すでに相談したいと言ってきた人数は一〇〇名を超えたという。
「〆切を番組終了後三〇分以内としておいてよかったって、スタッフは言ってますよ。でないと、次回の相談者の人選にかなり時間を要しますからね。まあ局としてはうれしい悲鳴ではあるんですが。私も正直ほっとしています」
 光田もおうおうしているMCを見て、これはまずい、と思ったらしい。普段から一般人相手のレポートなどで、数多くのハプニングに遭遇してきたMCたちの狼狽ろうばいぶりに驚いたというのだ。
「しかし、それが臨場感を生んだと現場の人間は分析しているようです。何より先生の誠実さが、悩みを抱えている方たちの心に響いたんじゃないですか。コーナー新企画は大成功です。改めて先生にお礼を言います。これから沢渡さんにも報告しようと思います」
「沢渡なら、ここにいますよ。代わりますね」
 妙なことになっているようだ、と告げてケータイを恭一に差し出した。
「そ、そうみたいだな。そいつの声、でか過ぎる」
 恭一はバツの悪そうな表情で電話に出た。
「俺もあれ見て飛んできたんだ。まずまず狙い通りってとこかな」
 慶太郎の視線から逃げるように立ち上がり、恭一は裏庭の見える大きな窓のほうへ移動する。すべて見通していて、慶太郎がくやってくれると信じていたなどと適当なことを並べ、自分の手柄のように胸を張り出した。
「報告ありがとうな。じゃあ先生様に代わる」
 ケータイを返す態度も大きい。
「先生、時間かかってしまってすみません。例の件ですが」
 光田の声の調子が変わった。
「新聞の事件報道は、五月八日付けの夕刊での第一報の後、翌九日の朝刊、その日の夕刊には何もなく、次の日十日朝刊、さらに十三日の朝刊に関連する記事が掲載されています。ただ警察の思惑おもわくからんでいて、リークされる情報量はどんどん少なくなっている関係上、記事の扱いも小さくなってます。PDFで先生にメールしますね」
「ありがとうございます。お手数をおかけしました」
「例のりゅうひんですが、やはり重要な証拠となりそうでしてね。担当係官からいっそうの規制がかかりましたよ」
「僕の興味を引こうとしてますね」
「見てもらえば、さらに興味が湧くことけ合いなんですが……」
 幼少期をする極めて特徴的なものなのだ、と光田の言葉に熱がこもったのを感じた。
「幼少期、か」
 きららこと、芝田里代の摂食障害と重なった。殺人事件だとして、その犯人が幼少期を示唆させるものを現場に残したとすれば、そこに強いメッセージを感じざるを得ない。
「いかがです、先生」
「気には、なります。しかしお役に立てるかどうか」
「前も言いましたが、警察の事件捜査の観点より精神医学的なアプローチが必要な気がしてるんです。私のブンヤとしてのかんですが。今夜、そうですね、遅くてもいいのでお目にかかれませんか」
 テレビ出演で疲れているだろうが、どうしても会いたい、と光田の意志は固そうだ。
「ちょっと待ってください」
 慶太郎は電話を持ったまま、診察室から出て受付室にいる澄子をのぞく。澄子は受話器を首で挟み、予約を書き込むホワイトボードに向かっていた。
 いつもは一つか二つ、予約が入っていればいいほうだった。だが、いま見ているホワイトボードには本日三つ、明日以降は午前に三つ、午後三つのペースで三週間先までクライエントの名前で埋まっているではないか。初診ばかりだから、時間がかかるにちがいない。とても定時の午後九時に終えられそうもない。カルテを整理する時間も必要になる。
「光田さん、十一時でもいいですか」
「もちろんです。夜行性なもんで、ありがたいくらいです」




      7




 孝昭はテレビを見終わり、夕食の準備のために台所に立つと、襖が開いた。
 居間に現れた友美が、
「あの人、変」
 と孝昭の背中に言葉を投げてきた。
「あの人って?」
 そうざいで買った酢豚を増量しようと、タマネギを切りながら孝昭は尋ねた。むろん答えは分かっている。
 立ったままの友美は答えなかった。
「本宮先生のこと?」
 友美はうつむき、まばたきする。そんな動作のときはイエスのリアクションだと、孝昭は受け取っていた。
「テレビに出たの見てたんや。確かに変わってる。司会者が困ってたもんな」
「違う」
「えっ、本宮先生のことと違うんか」
「そうやけど変なんはブローチ」
 友美は一息で言った。
「ああ、付けてたな猫」
 やはり友美は、本宮医師の胸のフェルト細工に目がいったようだ。
「ふくろうや」
「よう分からんかったけど、あれ、ふくろうか」
「下手くそ」
 ピクッと友美のまゆが動いた。
「そらそうや、猫かふくろうか分からへんのやからな」
 ガスレンジにフライパンを載せ、火を着けた。
「あんなん付けて、テレビに出るやなんて」
 友美が酢豚の入ったトレーのラップをがしてくれた。
「ありがとう」
 友美が手伝ってくれたことに驚いた。これだけ会話が成り立ったのも、ここ最近はなかったことだ。
「ふくろうが好きなんか」
 と、友美が食器棚から皿を取り出す。
「さあ、どうやろ。聞いとくわ」
 友美が瞬きをして、続けた。
「きららさん、よかったなぁ」
「相談者の女の人が?」
「うん」
「どうして?」
 と聞き、フライパンにタマネギを入れるのやめ、火を弱めた。油のぜる音が小さくなる。
「お母さんのせいやって、口に出して言わなくて済んだんやもん」
 襖の隙間からなのに、ちゃんとテレビを観ていたようだ。
「姉ちゃんは、きららさんの病の原因を彼女のお母さんだと思っているんやな」
「そんなん決まってる。本宮先生が言ってたやろ、食事と愛情が密接な関係を持っているって。子供の頃に何かがあったんや。お母さんを信じられなくなるようなことが」
「お父さんかもしれへんよ」
「孝昭には分からへん。一番裏切られたらあかん人は母親しかおらへん」
 友美は、信じられないくらいの強い口調だった。
「姉ちゃん……もしかしてお母ちゃんに裏切られたことがあるんか」
 孝昭が反射的に言った。聞いてはいけないこと、だったかもしれない。
「それはない。うちやのうて、知ってる子のことや」
「そうか、よかった」
 孝昭は火を強めて、くし形のタマネギをフライパンでいため、酢豚を入れる。酢豚の酸っぱい香りが部屋中に充満した。
 台所の窓を開く。
「段ボール外したんや」
 友美が煙の出て行く窓を見た。
「ごめん、暗かったから」
 外したことには気づいていなかったようだ。
「うち、アホみたい」
 友美は居間の座卓の座布団の上にしゃがみ込んだ。
 火を止め、孝昭も居間に行き、友美のかたわらにひざをついた。
「なんでアホなんや。そんなことないから」
「うち怖い。怖くてしょうがない」
 友美の両手の指が座布団をわしづかみにした。
「分かってる。吉田よしだ神社の事故のことやろ?」
 もう聞いてしまうしかない、と孝昭は奥歯をんだ。
「た、孝昭、あんた、何でそれを……」
 驚きの目を向けてきた。座布団を掴んだ手が震えている。
「近くで人が死んだんや。誰かて怖い。それもよく知ってる場所なら、なおさらや。だから新聞を捨てたんやろ? みんな分かってる」
 孝昭は、落ち着かせようと背中をさすってやりながら言った。
「違う。あんたは何も分かってない」
 友美が孝昭の手を払った。そして立ち上がると襖の奥へ姿を消した。
「姉ちゃん」
 孝昭の幾度かの呼び掛けに、
「もう放っといて」
 と言ったきり、友美からの返事はなかった。
 失敗──。あせりすぎた。本宮医師の助言を待つべきだったのだ。
 孝昭は唇を噛んで、閉じられた襖を見詰めるしかなかった。
                       〈つづく〉