第一章(承前)
4(承前)
注意しないといけない、慶太郎は心中で自分を戒めた。
「私も百万遍の近くで警察官の姿を見たわ。あれもその弁護士さんの事故を調べてたのかしら」
「かもしれない。事故と決まったわけじゃなさそうだしな」
「そうよね、一週間近くも捜査するのは変だもの。弁護士さんが亡くなったことを調べてるとすれば、やっぱり事件かも」
「事故でも事件でも弁護士の死が、自分のよく知る場所だった。もし、かつて入院していた病院で誰かが死んだとすると……」
「友美さんに、入院中の嫌なことを思い出させたってことね。そうなると二〇年近く前に、病院で何があったか、それが鍵になるわ」
「友美さんの病気の寛解には、彼女の過去を調べる必要があるだろうね」
澄子は立てた人差し指を慶太郎に向けた。
「じゃあいいの? 彼女の治療のためにいろいろ調べても」
「乗りかかった船、いえ慶さんはもう乗っちゃってる。それにクライエントゼロよりはいいわ」
鞠小路院の今後は、恭一が言ったテレビの力を信じるしかない、と澄子が天井を仰いだ。
「テレビ、か」
とつぶやき、慶太郎は孝昭からのメールの続きを読み始めた。
さて姉の変化について、日を追って思い出せるだけ書き連ねます。
四月からおかしくなったと思っていたのですが、自分の手帳を見るとはっきり十日から急変したことが分かりました。
四月十日、部屋に閉じこもり、一度も顔を見せませんでした。新規契約祝いをしようと、友人から飲み会に誘われ、私の帰宅は十時を回っていました。連絡しなかった後ろめたさから、姉の好きな和菓子を買って帰り、一緒に食べようと声をかけましたが返事なし。具合が悪いのかと問うと「放っておいて」と強い口調で言われました。和菓子屋の領収書がありましたので、日付は確かです。当然弁当も作ってくれなくなりました。
それからしばらくして、姉は図書館に行くと言ってパーカーにマスク、サングラス姿で出かけたことがありました。
戻ってきた姉の手には段ボールがあり、それを使って窓という窓を塞ぎ始めました。理由を聞くと、不審者から守るためだと答えました。何かやることがあると落ち着くのか、こちらの言葉に反応できるようでした。
姉の自室には、覗かれていると言って、以前から厚手の遮光カーテンがかかっています。
昼間なのに暗くて気が滅入り、半日我慢しましたが、僕は段ボールを剥がしました。言い合いになる覚悟をしていたんですが、姉は何も言いませんでした。拍子抜けしたのを覚えています。
ただ、その日あたりから、姉は目がうつろで動きが緩慢になってきたような気がします。
その後、久しぶりに居間で食事をしたとき、ずっと呪文のように独り言を繰り返していました。何を言っているのか尋ねたんですが「あんたに関係ない」と一蹴されました。たぶん、「悪いのは私」というような言葉だったと思います。
四月二十五日、姉の機嫌がよく、一緒に上等の和菓子を食べました。給料日だから奮発した甲斐があったとメモに書いています。
五月に入ってから、また塞ぎ込み出し、よくうなされるようになりました。
ゴールデンウイーク開け、姉がシフォンケーキを買ってきていて「有名店のだから美味しいよ」というメモがテーブルにありました。一緒に食べようと言いましたが、姉は部屋から出てきませんでした。
五月八日、やはりこの日です、姉の寝言が始まったのは。先生の誘導ではなく、あの吉田神社で弁護士が死んだというニュースが報道された日の夜からだと、はっきり言ってもいいです。
夜、新聞を読もうとしたんですがどこにもありません。辺りを探すと、すでに古紙回収の袋に八日付けの夕刊が入っていました。姉はこれまでも、気まぐれに掃除をして、まだ私が読んでいない新聞を捨てることがありましたから、気にとめませんでした。しかし思い返すと、その日の新聞の一面が、吉田神社で起こった転落事故を報じたものだった気がしてきたので、図書館で調べました。やはり、トップ記事に『大学教授で弁護士、島崎氏死亡。K大学近くの神社で遺体発見される』という見出しで、丸窓で抜いた弁護士さんの顔、現場となった神社の写真と吉田神社の境内図が掲載されていたんです。境内図を見たとき、以前何度か姉と訪れた場所だと分かりました。
私でもゾッとしたくらいですから、姉が怖がったとしても不思議ではありません。
記事を添付しますので、参考にしてください。
慶太郎は添付された画像を開く。画像は夕刊の記事をそのまま写真に収めたものだった。
孝昭のメールにあった大見出しに続き、小見出しには『前夜にひとりで現場へ』とある。
八日の午前六時一〇分、京都市左京区吉田神楽岡町の吉田神社境内で、男性が頭から血を流して仰向けに倒れているという一一九番通報が入り、現場に急行した救急隊員によって一一〇番通報された。男性はすでに死亡しており、死後数時間経過していることが分かった。京都府警によると男性が所持していた免許証などから京都市在住の弁護士で大学教授、島崎靖一さん(44)と判明。島崎さんが倒れていた場所は、吉田神社の境内にある神楽岡社の石段のすぐ下で、府警は誤って転落したとみている。ただ前夜ひとりで現場へ向かったことや、転落状況などに不自然な点もあり、事故と事件の両面から調べを進めている。
島崎さんは、大学教授としてK大学法学部で教鞭をとりながら、弁護士として活躍。テレビのコメンテーターとして歯に衣着せぬ辛口のコメントで人気を博していた。市内には今年三月に引っ越してきたばかりだったという。
記事は現場の神社の紹介、島崎を知る学者やテレビタレントの証言と続いていたが、慶太郎はタブレットの画面から顔を上げ、前に座る澄子を見た。
「まずいな。やっぱり誘導してしまったかもしれない」
「弟さん、お姉さんの容態の変化は、弁護士さんの事故のせいだとすっかり思い込んじゃったんだ」
「うん、たぶん。これを」
とタブレットを差し出す。
澄子は背もたれから体を起こして受け取ると、黙読する。そしてすぐ、こちらを見た。
「誘導したのかどうか、分からないわよ」
嫌なものを自分の目の届くところから消し去ってしまいたい気持ちで、友美が夕刊を捨てたのだとすれば、弁護士の事故が精神的なダメージを与えた証しではないのか、と澄子は主張した。
「古堀さんの記述を読む分には、そうかもしれない。けど、はじめに事故ありきの思い込みだったらまずいよ。彼自身が鋳型に填めていってしまうからね。確証を得るためのデータが欲しいな」
「事故があったのが八日の早朝だから、夕刊は第一報よね。明くる日とか二日後に関連記事がなかったのかしら。ちょうどバタバタしてた頃だったから、ゆっくり新聞を読む暇なかった」
「調べてみるか」
「家、本院に戻らないとダメだわ。ここではまだ新聞購読してないし」
「じゃあ今夜戻ってから、古堀さんにメールしよう」
「うちにも全部残ってないかも」
クリニックの本院は、澄子の実家、坂下家の敷地に建っているため、留守が続くと義母の鈴子が掃除しにくる。義母は学研都市総合病院の外科病棟の看護師で、非番の時間をやり繰りし昼間にやってくることが多い。家もクリニックもピカピカになるのはありがたいが、プライバシーは守れない。小学校高学年の尊もそろそろ義母を煙たがっていた。いずれやんわりと言うつもりだが、鞠小路院で実績を出さないと聞き入れてもらえない雰囲気があった。結婚前から分かってはいたが、澄子と鈴子は仲がよく、世間で言う一卵性親子だ。それは結婚して尊が生まれても変わらず、子離れできない親だった。
外科病棟の看護師が相当なストレスを抱えていることは、よく知っている。その解消のために娘夫婦の家の清掃を選んだのだとすれば、厄介だ。ストレス軽減の代替案が必要になるだろう。
「彼に頼むか。正確な情報が必要だから」
慶太郎は、光田のケータイに連絡する。
光田はすぐに出た。
「先生直々の電話なんて珍しいですね。何かありましたか」
「いま話しても、いいですか」
「ええ、社内で原稿がまとまらなくて格闘中でした。ちょうどブレークできてよかった。あっと、すみません。先生の話が息抜きだと言ったんじゃありませんので」
「吉田神社で弁護士の島崎さんが亡くなった事故の記事について、調べて欲しいことがあるんです」
「ほう、あれに興味を持たれたなんて。ひょっとしてまた、クライエントがらみですか」
光田の声のボリュームが上がった。
「何かを期待してるみたいだけど、その質問に答えられないことは、お分かりでしょう?」
「なるほど、それが答えと言うわけですね。いいですよ、先生のお役に立てるのなら何でも訊いてください、事件のこと」
「事件? やっぱり純然たる事故じゃないんですね」
目潰しスプレーの成分が検出された話を聞いた、と慶太郎が言った。
「ああ、あれですか。どっかのサツ回り記者がフライングして、テレビなんかに出ている元刑事に漏らしたみたいですね。あんなことされると警察関係者への取材に影響が出る。まあ表に出てしまったものは仕方ないですけど。その件もありますが、他に犯人の遺留品と思われるものがあったんです。府警は事故だとは思っていません」
「そうなんですか、事件ですか。つまり殺人事件?」
「そうなります。ただその情報はまだ解禁されてないんで、詳しいことは記事になってません。先生は何を調べて欲しいんですか」
「事件そのものじゃないんです。この弁護士さんの死について『京都日報』が、いつどれだけの記事を掲載したかを、正確に知りたいんです」
「事件そのものじゃない? しかもうちの新聞社の記事でもない」
光田は気の抜けたような声を出した。
「申し訳ないけど」
「ほんとうに遺留品のことも聞きたくないんですか」
「少なくとも、いまは」
「むしろ私のほうが先生に相談したいくらいの代物なんですがね。いや、電話をもらったのも何か運命的なものを感じているのに」
「調子いいなあ。で、相談って?」
慶太郎はちらっと澄子を見る。彼女はタブレットを読んでいた。
「犯人の遺留品だとしたら、それから目的や人間像、心理状態まで分かるかもしれないでしょう。もちろん凡人には無理ですが」
光田だけが懇意にしている刑事から聞き出した証拠品で、いまはきつく口外は禁じられているものなのだそうだ。
「じゃあ僕も聞かないほうがいいじゃないですか」
「先生から漏れる心配ないですからね。知恵貸してくださいよ、本物のスクープにするために。見て、感想だけでも」
「見るって、証拠品なんて見られるんですか」
「蛇の道は蛇です。近いうちに伺います」
「新聞記事の件は?」
「簡単に分かります。知り合いもいますしね」
「助かります。事件の第一報が八日の夕刊だったことは分かっています。知りたいのはその後の記事です」
「島崎氏の記事が、クライエントの症状に関係あるってことか。そっちの件も話せる段階になったら教えてくださいよ」
「それは期待しないでください」
「遺留品の分析のほうは、期待してます」
光田が笑い、
「そうだ、テレビレギュラーの件、改めてお礼を言います」
毎朝新聞の関係者も大いに期待しているのだ、と言った。
「沢渡が一番はしゃいでますよ。では、新聞記事の件お願いします」
と、電話を切った。
「変なこと相談されたでしょう?」
澄子が唇を尖らせた。
「持ちつ持たれつだから」
「優先順位さえ守ってもらえば、私は何も言いません。これ見ると往診以後、友美さんはずっとフェルトの猫を作っていて、弟さんとの接触が減ってるみたいね」
澄子がタブレットを返してきた。
「何とか次のカウンセリングにこぎ着けないとな。テレビ放送の後くらいに実現できればいいんだけど」
慶太郎は、どうせテレビ出演するなら、放送というメディアを利用してみようと思い始めていた。
「澄子、フェルトのブローチってあったよね。どこかのバザーで買った猫の」
「ふくろうでしょう。へちゃむくれだけど、そこが可愛いって買った」
「それだ。それをテレビ出演のとき付ける」
澄子はびっくり眼になり、
「かっこ悪い」
と眉をひそめた。
5
「姉ちゃん、テレビ観ないか」
孝昭は襖越しに声をかけた。返事を待つことはもうない。少し襖に顔を近付け言葉を続ける。
「本宮先生が出てるんだ」
午後三時放送の『関西ウエーブ』をあらかじめ録画しておいたものだ。できれば友美に見せて欲しいと本宮医師から言われていた。
そこにどんな意図があるのかは分からないけれど、治療の役に立つのだろう。
「ほら、あの動物好きの心療内科医の本宮先生だ」
どう言えばいいのか迷い、友美も知っていることをわざわざ口にした。
「先生が番組の中で視聴者の相談を受けるんだって」
苦笑しつつ、テレビのリモコンのスイッチを入れる。代わり映えがしないタレントが画面に現れ、けたたましい笑い声が部屋中に響いた。
友美の気配を耳で探る。ごく小さな咳払いがしただけだった。
孝昭はテレビのハードディスクの録画メニューを開き、『関西ウエーブ』を選択した。
CMの後、琴の音が耳に残る独特のジングルが流れ、男性タレントと女性アナウンサーが満面の笑みを浮かべて挨拶する。
番組は関西のグルメスポットや、頑張る企業人などをお笑い芸人が訪ねるレポートの後、家計節約術、簡単料理レシピ、便利グッズ紹介と主婦向けの話題が続き、なかなか本宮医師は出てこない。
この番組は、政治や事件などの話題には一切触れないのが特徴だと聞いていた。陰惨な光景を映した映像、殺伐としたニュースを取り上げないのは、友美の神経に障らなくていいが、孝昭は何度もあくびをこらえなければならなかった。知らず知らずの間に、刺激的なニュース映像に馴らされているようだ。
結局孝昭は、本宮医師のコーナーまで早送りした。
長目の髪の端正な顔が現れたところで、再生ボタンを押す。画面は和室の診察室のソファーに座った本宮医師を映し出した。濃紺のスーツ姿で胸にふくろうらしきフェルトのブローチをしていた。
「このコーナーはスタジオとクリニックを結んでお送りします。では、一回目の相談者をお呼びしましょう」
MCの男性がそう告げると、磨りガラスの向こうに人影が現れ、用意してある椅子に腰掛けたようだ。服装のピンク、長い髪を掻き分けるしぐさのシルエットから女性であることが分かる。
「相談者は広島県在住、二〇代後半の女性、仮名きららさんです。きららさんは長らく摂食障害で入院されていたそうです。また入院したいのですが、その必要はないと断られているということで、毎日不安が募っている、そうですね」
「はい、とても」
ボイスチェンジャーの声は妙に甲高く、孝昭は好きではなかった。
「先生、本宮心療内科クリニック鞠小路院の診察室にいらっしゃいます、本宮慶太郎先生」
「はい、本宮です、今日はよろしくお願いします。カウンセリングに入る前に、確認したいことがあります」
「はい、どうぞ」
そう言いながら、一瞬男性MCは戸惑いの表情を見せた。それを隠すように画面を本宮医師に切り替えた。
「きららさん、初めまして本宮です」
二元中継となって画面が左右に分割された。左にきらら、右が本宮医師だ。
「よろしくお願いします」
きららの髪が上下に揺れた。
「きららさん、カウンセリングは対面で行うのが本則です。その意味から僕にだけきららさんの顔が窺えるようにしてもらっています。また僕の姿も、きららさんには見えるようになっている。しかしテレビカメラは、直接話すときの空気まではとらえることができない。したがって実際の診察とまではいかないんです。ただ、この番組をきっかけに、きららさんと僕との間に信頼関係が築けたら、僕はあなたの町まで出かけて、継続診療をさせていただきます。その場合は放送後、スタッフに告げてください。よろしいですか、きららさん」
本宮医師の言葉に力がこもるたび、胸のブローチが揺れた。
そのフェルト細工は、友美のためのものではないか、と思えた。
「……分かりました」
少し間があったが、きららは頭を下げた。
スタジオに戻ったカメラが、待ちきれない様子の女性アナウンサーをとらえた。
「では、先生よろしくお願いします」
と彼女は番組を進行させた。
「きららさん、入院のきっかけになった症状はどんなものですか」
本宮医師が静かに訊く。
「過食して、吐いて、また食べての繰り返しでした。それが情けなくなって、もう辛くて……」
「それは辛いですね。いつ頃から、そんなしんどいことになったんですか」
「高三の夏くらいから」
「進路で悩んでいる頃ですか」
「真剣に受験勉強を始めたのが、夏で、夜遅くまで勉強してると母が夜食を作ってくれたんです。いくら食べてもお腹が膨れなくて」
「満腹感が得られなかった、それで食べ過ぎた。それは誰にでもあることです。では、入院してどうなりました?」
「過食をしなくなったから吐くこともなくなりました」
「病院生活があなたに合ったのかもしれません」
「だから、また入院しないと元に戻ってしまいます。それが怖くて入院をお願いしたんです。なのに」
「医師から、その必要はないと言われた」
「はい。分かってもらえなかったみたいです」
「では、入院してよかったと思う点を教えてください」
「大食いしなくなりました」
「病院食は量が決まってます。それを守ったんですね、偉いですよ。その他には?」
「えーっと、吐かなくなった」
きららの声が明るくなったようだ。
「じゃあ入院生活は楽しかったですか」
「いえ、それは……」
「辛いこともあった?」
本宮医師の口元もほころぶ。
「食事が不味くて、食べる時間も自由にならなかったから」
「時間の制約は仕方ないとしても、確かにきついですよね。食べたいもの、食べたいときはその日の体調によって変わります。また人によっても違う。それを一律に決められるのは辛いことです。でも改善されたから退院という運びになったんですね。退院後はいかがですか」
「自由に食べられるから、食べ過ぎないようにもの凄く注意してて……」
「でもやっぱり食べてしまうんですか」
「食べたくないんですけど、このままじゃダメになってしまう」
「吐いてしまった?」
「私、元に戻ってしまったんです、先生。過食と嘔吐を繰り返す毎日はもう嫌です。何とかしてください」
きららの機械を通した声は、一段と高くなり耳をつんざいた。
そこでコマーシャルが入った。早送りでCMを飛ばそうと思ったがやめ、孝昭は買ってきた缶コーヒーを開けた。
背後の襖を一瞥すると、隙間が空いているのが分かった。そこから友美が覗き見ているにちがいない。
友美が本宮医師に興味を持っているのは確かなようだ。
コマーシャルが終わり、番組が始まった。
「では再び、相談者のきららさん、本宮先生お願いします」
画面は女性の声をきっかけに、二元中継となった。
「きららさん、あなたは辛い時間を過ごしてきました。それが病院という空間で、強制力をもった時間の制約の中で回復したんですね。しかし制約されるのも実は苦痛だと感じている。結論から言いますと、再度入院という縛りは必要ない。はっきり言えば、僕は入院に反対です」
「ど、どうして、ですか。治りたいんですよ、私は」
怒声に近い声だった。
「食べることは生きることです。けっして蔑ろにしてはなりません。ただ一日中、食べることを考えるというのも、貧しい。どうですか、入院中も退院してからも、常に食べることと闘っていたのではないですか」
本宮医師の話す内容は厳しいのに表情は優しかった。
孝昭の脳裏に琵琶湖の水面を走る帆船が浮かんだ。船は父が家を建てるときに使った材木の端材でこしらえたものだった。それを浮かべるとき、水の怖さを教えてくれた父の顔を思い出した。友達と喧嘩して、くさっていた小学五年生の春だ。
陽が傾き、それでもなお湖面がキラキラと輝いていて、水に鮎の匂いを感じた。
孝昭はテレビの本宮医師を凝視した。父親とは似ても似つかぬ顔だった。どうして重なったのか不思議だ。
きららはしばらく黙っていた。そして、
「ずっと食べ物のことが頭にありました」
と吐き出すように言った。
「自由に食べても、制限されても、食べることを考える時間は同じだと思います。食べていないときも、食べ物のことを考え続けているんです」
「なんだか、バカみたい」
「バカバカしいでしょう? 過食、拒食を治すことだけを目標とするのはつまらないことだ。それを解決するだけの生き方をやめることから始めませんか」
「治すことを目標にしないんですか」
「ええ、人生はそれだけのためにあるんじゃないということを知るべきです。自分の家で、自由な時間を使って」
「どうすればいいんですか」
「あなたの一日の中で、食べることを思う以外の時間を作るんです。やってみませんか」
本宮医師は思い切って暮らしを変える勇気をもとう、とたたみかけた。
「できますか、私に」
「大丈夫です。どうすればいいのか一緒に考えましょう。食べることの素晴らしさを、ほんとうの意味を知るために、食べないときの過ごし方、時間割を決めていきます」
本宮医師が微笑みかけ、続けた。
「時間割といっても強制的なものではありませんから安心してください。あなたの好きなもの、好きなことを教えてください」
と彼は視線をきららから外したのが分かった。そして言った。
「ここからはプライベートな領分ですから、テレビカメラを止めてください」
「えっ、先生それは」
MCの二人が顔を見合わせた。
〈つづく〉