第一章(承前)




      3(承前)




 けいろうがアパートを出ると、後に続いたたかあきがドアを閉め、
「先生、ありがとうございました」
 と頭を深々と下げた。
「お姉さん、よく話してくれました。そこで、お願いがあります」
 慶太郎は孝昭に顔をあげるように言って、四月からのともの変化をできるだけ細かく書き出してほしい、と頼みながら階段を下りる。
「変化……」
「難しく考えないで、歩き方がいつもより速いとか、飲み物が変わったとか、ごく小さなことでいいんです。気づいたことをじょう書きでいいので、名刺にあるアドレスにメールしてください」
 精神的に弱っている人間には、なんでもないもの、こと、情報が刺激になることがある。刺激は大きなストレスとなり、それが気分を落ち込ませる原因にもなる。きっかけが分かれば、対処法も見つけやすくなるのだ、と慶太郎は説明した。
「はい、分かりました」
「たとえば同居しているあなたの言動が引き金になることもあります。あなたとのやり取り、いさかいがあればそれも書き留めてください。その原因も含めて。だからといって過度に気をつかうことはありません」
「普段通りにします」
 孝昭は車のロックを解除し、運転席に体を滑らせた。
 続いて慶太郎が助手席に乗り込むと、
「実際のところ、姉の病状はどうなんでしょうか」
 と孝昭が改まった声、神妙な顔で聞いてきた。
「あなたとの意思のつうはできているように感じました。あなたの先輩が訪ねてきたことに対し、嫌々ながらでも自室から出て来てくれましたから」
「それには、ちょっとびっくりしています。せっかく来ていただいておいて言うのもなんですが、実は姉にはダメ元で声をかけたんです」
 そう思わせるほど、最近の友美はふさぎ込んでいたのだそうだ。
「あなたの先輩というシチュエーションがうまく作用したのかもしれません。動物好きだったことも味方してくれたようだ。初回としては、まずまずです」
 孝昭の言う塞ぎ込みと、本人も自覚している睡眠障害とが気になるものの、ただちにうつ病と判断できる症状は確認できていない。
「この先どうなるのか、まだ分からないんですね」
しゅうおびえた表情でしたから、ラポールというんですが、まだ相互に信頼できる関係は築けてません。ですが物事に何の興味も示さない状態でもない」
「興味って手芸のことですね」
「それもあります」
「他にも何か?」
たいの知れない医者、僕ですよ」
「先生?」
 妙なイントネーションで孝昭がたずねた。
「こいつは何ものか、敵か味方かといった興味です。二度ほど僕の目を見て話してくれました。これは陽性反応だと思っていい。つまりお姉さんは僕を敵ではないと思ってくれたようだ」
「それはいい傾向なんですね」
 孝昭はエンジンをかけ発車させた。じきに車はアパートの前の道から、大きな道路に出る。いまがわ通りだ。
「ええ、悪くはありません。興味があるということは、単純なうつ状態とは少しちがってきますからね。慎重にさせてください。時間がかかるかもしれませんが、お姉さん自身が解決法を見つけ出す必要があるんです。その手助けをしていくことになります」
 そう言ってから慶太郎は少し間を置いて、
「それから、お姉さんの治療の際、あなた自身の気持ちも僕に教えてもらえますか」
 と運転席の孝昭の横顔を見た。
「私の気持ち、ですか」
「そうです、一緒に暮らすあなたの気持ちも大事です。心配しないでください、僕からの簡単な質問に答えてもらうだけですから」
「はあ……」
 納得したという返事ではない。
 車の進行方向に、パトカーがまっているのが見えた。付近に数人の制服警察官の姿もある。
「もう一週間か、よし神社の事故から」
 信号で止まると、孝昭が警官たちをりながらつぶやいた。
「テレビによく出ていた弁護士さんの転落事故ですね」
 吉田神社のけいだいにある神楽かぐらおかしゃの石段下で、弁護士のしまざきやすかずの遺体が発見されたニュースは慶太郎も知っていた。島崎は二年ほど前からテレビの情報番組でコメンテーターをしていた。開院先の近くで有名人の事故死だなんて、のろわれてるんじゃないか、と恭一きょういちうれしそうに言っていたのを思い出す。
「事故と事件の両面で調べているみたいですよ」
 テレビのワイドショーや夕刊紙から情報を得ては、自分なりの推理を楽しむ同僚がいるそうで、その彼から聞いたのだと孝昭は苦笑した。
「事件の可能性もあるんですか」
「一部のテレビでは、弁護士さんの顔や髪の毛から、防犯用のスプレーの成分が検出されたと言っていたみたいですね」
 信号が変わり、孝昭は静かに車を発進させる。
「スプレーをふんしゃされて、階段から落ちたんですか」
「ワイドショーでは、そんな風に言ってました。でも、テレビですから」
 孝昭は、多くの疑惑を報じておきながら、事件解決には至らなかったドンファンと呼ばれた男性の急死事件を引き合いに出した。
「テレビは騒ぐだけ騒いでおしまい、という面がありますからね。吉田神社はぼりさんのアパートと近いですね。お姉さんはその事故のことをご存知ですか」
「たぶん。私が仕事で出ている間は、ほとんどテレビをつけっぱなしにしてますから」
 友美はよほど調子が悪いとき以外、静かすぎるのを嫌がってテレビかラジオの音をやさない。
「調子が悪いと音もないんですね。いまお邪魔したとき、音はしませんでした」
「そうなんです。せっかく先生に来てもらったのに、どうしようかと思いました。だから部屋から出てきてくれたときはホッとしました。先生と話ができたのも驚きです。吉田神社の事故が関係あるんですか」
「神社は、お姉さんの行動範囲に入りますか」
「ええ。だいぶん良くなってきていたときは、一緒に散歩に出かけることもありました。近くですし、緑も多いですから」
「では事故のあった……えっと神楽岡社にも?」
「神社の名前は覚えてないですけど、境内にあるんでしたら、たぶん行ったことがあると思いますが」
 に、孝昭が質問の意味を探ろうとしてるのを感じた。
「人は身近に事件とか、事故とかが起こると、自分には関係ないと思ってしまうものなんです。だから大雨で避難勧告が発せられても、それを自分のこととして受け取れず逃げるのが遅れてしまうんです。いつもと同じような日常、つまり正常な暮らしが続くんだと思い込むんですね。正常性バイアスというんですが」
「去年の豪雨のときに、テレビでさかんに言っていたような気がします」
「危険が迫っていても、根拠なく自分は大丈夫だと思う精神状態のことです。それだけ人は、正常な日々を大切にしているんですよ。普通の暮らしを壊される不安の裏返しです。お姉さんにとって自分が普段よく行く場所で、人がくなったことは、相当な衝撃のはずです」
「あの転落事故が……。そう言われると、姉が夜中に大声を上げ出し始めたのは、事件の後からのような気がしてきました」
「いや、結論は急がないでください。いますぐではなく、じっくり時間をかけ、冷静になって考えてください。僕の言葉がゆうどうしてしまう可能性だってありますからね」
 普段から遊んでいる公園の滑り台から、友達が転落して救急車で運ばれたのを目撃した子供がおねしょをし、救急車両のサイレンにおびえ、ゆう全般に寄りつかなくなった事例もある。
「事故や事件そのものだけでなく、パトカーや救急車、報道ヘリの音がストレスになることがあるんです。大きな事故なんかでは、報道陣が取材しにくることで現場の近所に住む方がノイローゼになることもあります」
「単純に結びつけずに、私自身が頭を冷やさないとダメですね」
「そうです」
 慶太郎はうなずき、
「念のために聞きますが、四月以降でそれ以外に身近な大きな出来事、何かありました?」
 と確かめた。
「そうですね、思い当たりませんね。近所で交通事故があったというのも聞かないですから」
「なるほど。ああこの辺りで結構です」
 まり小路こうじの案内標識が見えたところで、慶太郎は車を下り、再度変化をつづる日誌を頼んで、クリニックへと歩いていった。




      4




 五月の最終週、「本宮もとみや心療内科クリニック鞠小路院」が開院した。二日ほど前に町内会向けの内覧会を行い、評判も上々だった。
 しかし開院の今日、受付開始から一時間つが、いまだにクライエントの姿はない。
「悪の十字架なんちゃって」
 受付の中央に置かれた背もたれのないロビーチェアから立ち上がると、午前一〇時を指している壁の大きな時計を見て恭一が吹き出した。
「お前、笑い事か。新聞折り込みチラシとフリーペーパーへの広告で、初日は行列ができるかもしれないって言ったよな。宣伝はコピーで決まるとも言った」
 ロビーチェアに腰掛けている慶太郎が手にしたチラシをかかげ、
「あの心のスーパードクター、ついに京都にけんざん! 睡眠さいていしゅうなど不調をこじらす前に、いざ本宮心療内科クリニック鞠小路院へ」
 と読み上げた。
「名コピーだ」
「これじゃテレビ時代劇の惹句じゃっくみたい、となんしょくを示すすみを説得した身にもなれ」
 台所にいる澄子に聞こえないよう声をひそめた。
「まあ実際テレビ放送が始まって、我らが慶太郎先生が画面に登場するようになれば、たちまち澄ちゃんだけでは対応できなくなるさ。それまではわたりだいみょうじんが与えたもうた休養期間だと思って、感謝しろ」
「いやに強気だな」
 立ったままの腰に手をやる恭一を見上げる。
「弱まったと言われるが、まだまだテレビの影響力は大きい。ネットだって、検索ワードの上位は、結局テレビで流れた情報で占められてる」
「それがそのまま、うちの来院者獲得に結びつくかどうかは分からないだろう?」
「まあ見てろ。一回目のテレビ放送が六月六日。つまり七日から大入り満員ってことになる。覚悟しておくように澄ちゃんにも言っとけ」
 大きな口を開けて笑った。
「自分で言えよ」
「そんな喜ばしいことは、夫の口から伝えるべきだ」
 恭一は、なぜかしのび足で隣に座る。
「満員とまではいかなくても、そこそこ来てもらわないと……」
「しみじみした声、出すな。運が逃げていくぞ。何といっても人間は心意気ってのが大事だ。専門家なんだから、分かるだろう? 胸張って行こう」
 恭一が自分の胸をたたいた。
「そうだな」
「そうだ。暇なのはいまだけだ。やり残したことがあったら、いまのうちにやっつけておけ」
「少し前に吉田神社で事故があったの知ってるか」
「もちろん。情報が命のコンサルだからな。弁護士さんが神社の階段から転落死したってやつだろう? それがどうした」
「いや、事故と事件の両面で捜査してるって聞いたもんだから、ちょっと気になってな」
 と慶太郎は椅子の上の余った折り込みチラシをそろえる。
「お前が気にしてるということは、じっちゅうはっ患者がらみだな。またサービス診療やってるんじゃないだろうな」
「そんなことはしてない。れっきとしたクライエントだ。おうしん代も請求している」
「往診? そんなの初耳だ」
「初めて言うんだ」
 澄子にも言いそびれている。いつまで治療が必要か、いや治療の継続が可能なのかの見極めができていないからだ。
 友美はりつせい調ちようせつしようがいで入院してから不登校となり、その後引きこもりうつ症と診断され、加療してもめざましい改善は認められていない。京都に転地し、両親から離れたことによる開放感と弟の世話を焼くという一種の作業療法的な効果、つまり自分の役割を見つけたことによる充足感で、一旦は回復傾向にあった。この間、二〇年弱の年月が経っていることから根深さを感じるのだ。おそらく長期戦になるだろう。医師を嫌うクライエントに、前回のような世間話でなく、次からはカウンセリングを開始しなければならない。
「患者は近所に住んでいるのか」
「それは、明かせない。個人情報だ。それにしゅ義務がある」
「コンサルというのは、会社の経営陣に等しい。放っておいたら、お前は金儲けをてきする。それを俺は監視しないといけないんだ。身内だと思ってもらわんと」
「身内でもな」
「おい、それじゃ澄ちゃんにも患者のこと、隠すのか」
「澄子は看護師だ」
「澄ちゃんの次に大事なポジションなんだ、コンサルは。経営陣には知る権利がある。今後も協力したいんだよ」
 恭一は選挙の立候補者のような目をして慶太郎の手をにぎる。
「神社のすぐそばだ」
 慶太郎がため息まじりに言った。
「鞠小路院の最初の患者だな。いや慶太郎の営業力を見くびってたよ」
「そうじゃないんだ。お前も会ったことがある人のお姉さん」
 慶太郎は、飛び込み営業でクリニックにやってきた古堀孝昭の姉、友美の現状をかいつまんで話した。
「ほう、そんなことがあったのか。で、往診の結果、姉さんは回復しそうなのか」
「まだ何とも。カウンセリングもままならないかもしれない」
 友美は実家にいるときしょう行為をしたことがあると、孝昭は言っていた。しかし京都に住むようになってから、それはないという。だが、四月以降の友美のようだいは、元に戻ったようだとも彼は感じている。
 過去の自傷行為だけでは分からないが、明確なうつ状態でなくとも、ねんりょといって、自らの死を願う気持ちが強くないにもかかわらず、自殺をこころみようとする心理状態がある。死にたい気持ちの強い、自殺念慮の前段階ととらえる医師も多い。かつての自傷が希死念慮だったとすれば、また繰り返す危険がある。その辺りも、カウンセリングを実施する中で慎重に確認していく必要がある。これ以上悪化させてはならない。
「それにしても、近所で起こった事故が影響するなんてことがあるのか」
「亡くなってるからね。ともかく原因として考えられることは全部検討しなきゃならない。それに単なる事故でもなさそうだ。事件、事故の両面から調べているっていうんだから」
 孝昭から聞いたことをそのまま恭一に伝えた。
「それは、まあ、警察のじょうとうだからな。しんしょうぼうだいに、したり顔で語る無責任なコメンテーターがいるさ。亡くなった弁護士もそのたぐいだ」
 弁護士なのに法律を無視した過激なコメントが多い、と恭一は島崎靖一の印象を口にした。
「そうなのか。どんな感じなんだ?」
「そうだな、俺が知っているだけでも、凶悪事件の加害者には目には目を、あだち制度を復活させるべきだ、なんて言ってた」
「弁護士らしくないな。それで人気があるのか」
「そんなんだから人気があるんだよ。出身はこうの大学で、なんだったか格闘技をやっていて、文武両道にけているそうだ。だから秀才タイプじゃなく体育会系の物言いをするんだろう。人気があるのは、血の気が多くこわもてと思いきや、顔立ちがソフトだからだと思う。それでいてほうな若者の犯罪、いい年した中高年のれんな行為を一刀両断する。それが視聴者をスカッとさせるんだ」
 婦女暴行事件は、被害女性にとって一生の傷になるのにもかかわらず、になることが多い。それを、一生の傷を負わせたんだから男にも一生の罪を背負わせるべきだ、と島崎は主張するのだそうだ。
「一生の罪って?」
「欲望をうばう外科的手術をすればいい、と平然と言う。女性が内心思っていることを代弁するから、過激だけれど多くの女性は拍手を送るだろう?」
「不起訴だなんて、実に馬鹿らしい判断だからな」
 医師としてきんしんだと思うけれど、レイプによる女性の肉体以上にこうむる精神的ダメージを知っているだけに、島崎の乱暴な主張を完全否定できない自分がいた。裁判官も弁護士もレイプ被害者のほんとうの辛さ、苦しみを理解していない。幾人かの被害女性を診た経験から、殺人と同じ量刑でも軽い、と慶太郎は思っていた。
 一度のばんこうでも、フラッシュバックで何度も女性は身も心も傷つけられる。その痛みは何年、何十年も続くことがあるのだ。
「お前も、そう思うのか。じゃあ島崎弁護士のこと理解できるんじゃないか」
「言いたいことについては、分からんでもない。人気が出るのも」
「いいね、慶ちゃん」
 恭一が体を慶太郎のほうに向けてすわり直し、にやついた。
「ダメ、ダメ。心療内科医はそんな過激なこと言えないし、言ってはならないんだ」
 慶太郎は、テレビ出演の際に視聴者受けする言動を恭一が期待していることが分かり、慌てて釘を刺した。
「とはいえ、一回一回視聴者の記憶に残るようにしてくれよ」
「そんなことは知らん」
 慶太郎は畳の上に言葉を放り投げた。人の心をやすのに刺激的な言葉は必要ない。
 昼食に澄子が慶太郎のために用意していたサンドイッチを食べて、恭一は他の仕事に戻って行った。その日は夕方から夜にかけて電話による問い合わせが九人、結局来院者はなかった。


 夜八時看板の明かりを落とし、慶太郎は診察室のソファーで、さっきメールで届いたテレビ局の台本に目を通していた。
「あのチラシ、やっぱり、さっぱり」
 妙なイントネーションで澄子が言いながら、両手でコーヒーカップを持って診察室に入ってきた。一つを慶太郎の前に置くと、ソファーに腰を下ろし自分のカップに口をつけた。
「おう、ありがとう。まあ本院のときだって、こんなもんだったじゃないか」
 慶太郎はカップを引き寄せる。
「同じじゃダメでしょう。かいせいがテーマなんだから」
「沢渡が言うように、今回はテレビがある」
 とコーヒーをすする。やや苦かった。
「ちらっと聞こえてきたんだけど、無理して過激なこと言わないでね。わざわいの門よ、口は」
「弁護士の事故のこと、聞いてたのか」
「私に内緒で往診したことも、ね」
 澄子は両手でカップを包み込むように持ち、上目遣いで慶太郎を見る。
「往診にしても、ここでのクライエント第一号になると思ったんだ」
「それはいいの。ただ、なぜ黙っていたのかが気になる。本当にサービスカウンセリングじゃないわよね」
 慶さん、優しすぎるから、と澄子が低い声で付け足す。
「沢渡と同じ心配をするんだな。きちんと診療費のことは話してある。けど、相談はクライエント本人じゃなく古堀さんからだったから。ほら京滋きょうじエアシステムズの営業マンの」
「様子を見た、ということでしょう? ご本人に会って、最悪の場合初診料がもらえない可能性があった。だから私に黙ってたのね」
 返事にきゅうし、慶太郎が澄子の視線を避けるようにテーブルのタブレットを見ると、画面にメール着信を知らせる表示がポップアップした。
「ごめん、古堀さんからのメールだ」
 姉、友美の状態の変化を報告してくれることになっていると、澄子に言いながら再びタブレットに目を落とす。
「とにかく、隠し事はなしよ」
 と澄子がカップをテーブルに戻し、椅子の背にもたれる。
「分かった」
 小さく返事し、慶太郎はメールを読む。


 本宮慶太郎先生
 先日はお世話になりました。姉はあの後、自室に閉じこもったまま出てこなくなりました。私が用意した夕食はとらず、買い置きしていたスナック菓子とコーラ飲料で済ませたようです。心配になって何度か声をかけたのですが、返事もありません。
 トイレに立ったときにメモを手渡され、そこには「はじめからお医者に診せる気やったんやろ。なんでそんなことしたん? 信じられへん」とありました。
 次の日は、必要なこと以外口をきいてくれなくなってしまいました。どうすればいいのか、困っていました。二、三日様子を見てから、先生に相談しようとして思っていたとき、フェルト手芸に使う羊毛を買ってもいいかと聞いてきました。大きな猫を作るからキロ単位で買いたいというのです。四月からほとんどやってなかった手芸を、どうやら再開したようです。
 それがいまも続いていて、先生とした手芸の話が姉のやる気に火をつけたのかもしれません。
 ただ没頭ぼっとうするあまり、部屋にこもる時間は増えました。また食事ですが、私が家にいるときだけ一緒にとれるようになっています。これは回復のきざしでしょうか。
 まず現状はこんなところです。


「どんな状態なの?」
 澄子がメールを黙読する慶太郎に声をかけてきた。
 慶太郎は孝昭から聞いたことと、友美の初診での様子を話した。そしていま自分が目を通したところまでを読み上げ、
「共通の話題による陽性反応だ。次も話ができそうだな」
 と、うなずく。
「どうかな、お医者さんに対する恐怖心が強そうじゃない?」
「白衣恐怖があるんだろうけどね」
「入院後に不登校なんて。原因は治療、それともお医者さんなのかしら」
「総合病院の小児病棟だと、いろいろな病気の子供と接触するからね」
 じゅうとくな患者と友達になることもある。その子が亡くなった場合、痛手でうつ病を発症することだって十分考えられるのだ。
「それなら、お医者さんじゃなく、友人の死を思い出す病院そのものが嫌だということになるわ」
「だから往診なんだよ」
「でも四月くらいから変になったことの説明がつかないわよ。その頃、古堀さんが無理やり病院に連れて行こうとしたわけじゃないんでしょう?」
「うん。何が原因か見極めるために、日常の変化について書いてもらったんだ」
 タブレットを示す。
「そっか、弁護士さんの事故のことを話してたのも、その一環なのね」
「もしかして、受付でしゃべってることって、台所に筒抜け?」
「クライエントが一人もいない状態ではね」
 澄子が意味深な笑みを浮かべて、こちらを見た。

                      〈つづく〉