第一章(承前)




      2(承前)




 次の日の午前中、「もとみや心療内科クリニック」に導入する空気清浄機システムの見積もりを作成すると、それをたずさたかあきは会社を出た。
 医療機関のリフォームや設備投資は、人々が休んでいるときに行われることが多い。ゴールデンウイークまでに契約を済ませ、連休中に設置を完了するのだ。先週、それらの処理を済ませ、いつもの新規まわりをしていて飛び込んだのが本宮医師のクリニックだった。
 内科や外科に比べると、心療内科で孝昭の勧めた最高レベルの除菌や滅菌に予算をかけるところは少ない。けれど本宮医師の空気清浄への意識は高かった。患者のことを大事にしていると思えたし、コンサルタントだというさわたりの言葉も頭から離れなかった。
 見積書自体は、その沢渡に送ることになっていたのだが、本宮医師を訪ねることにした。姉のことで相談したかったのだ。
 まりこう付近の百円パーキングに車をめ、大きなかばんを手に持ちクリニックに向かう。
 昨日とはちがう緊張感で、インターフォンを押す指がかすかに震えた。
「はい」
 女性の声がした。スタッフだろうか。
 小さくせき払いをしてから、孝昭は名乗り、用件を告げた。
「ちょっとお待ちください」
 ややあって木製の引き戸が開く。そこには本宮医師が笑顔で立っていて、
「どうぞお入りください」
 と迎え入れてくれた。
「お邪魔します」
 上がりかまちでスリッパにき替えると、受付の間、さらに奥の診察室へ通された。
「コーヒーでいいですか」
 ソファーに座るよう促しながら、本宮医師が聞いた。
「どうかお気遣いなく」
「遠慮しないでください。僕も飲みたかったところなんです。付き合ってください」
 そう言うと台所のほうに「すみこ、コーヒーを二つね」と声をかけた。
 女性は看護師ではなく、身内のようだ。
「さっそくですが」
 と孝昭は、鞄から見積書を取り出しテーブルの上に置いた。
「これ、沢渡のほうには?」
 本宮医師は封筒を手に取り見積書に目を落とす。
「いえ、まだ」
「よかった。沢渡、彼は高校時代の友人なんですが、何かとうるさいんで。先に拝見できると都合がいいんですよ」
 本宮医師が笑った。
 うるさいと言いながら、沢渡を本当にうとんじている感じは受けなかった。
「どうしようかと迷ったんですが、先生にそう言っていただけて、ほっとしました」
 一台当たり十七万円の空気清浄機を診察室は当然のこと、受付と待合室に各一台、計三台で五十一万円。そこに台所用とトイレ、スリッパ除菌用の小型機を提案していた。
「ご契約していただければ、そこからこれだけは値引きいたします」
 孝昭はタブレットに呼び出した見積書に、マイナス七万円と手書きで書いて本宮医師に見せた。
「しめて五十八万円ですか……」
「畳の部屋ですし、あくまで大事をとってのご提案です。先生がこれはいらない、と思われれば別のご提案もさせていただきますので」
「いえ、見積書に不満はないです。むしろ台所は僕も気づきませんでした。土間ですから確かに必要だ。ただ沢渡と妻をどう説得しようかと考えていただけです」
 本宮医師が台所を一瞥いちべつしたとき、大きな目が印象的なすらっとした女性が、コーヒーカップを盆に載せて診察室の戸を開いた。
「お世話になってます。本宮の家内でクリニックの看護師をしています」
 コーヒーをテーブルに置くと丁寧にお辞儀をして、彼女は名刺を差し出した。
 孝昭は慌てて立ち上がり、見積もりさせてもらうまでの経緯を早口で説明しながら、名刺を交換する。
「除菌シートとか衛生用品もお申し付けくだされば、すぐにお持ちいたしますので」
 名刺の裏に記された業務内容を見詰めるすみに言った。
「畳の上をこのスリッパで歩くのが、あまり気持ちがいいものじゃないんですよ。でもクライエントの中には、夏場裸足はだしの方も診察に来られるでしょうしね。布製スリッパを考えてるんですけど、取り扱ってますか」
 澄子が自分の足元を気にしながら聞いてきた。
「抗菌素材の物があります。使用したスリッパは回収して交換するシステムとなります。それでよろしければ、またお見積もりいたします」
「ぜひお願いします。あっ、いけない、コーヒーが冷めてしまいますね。お邪魔してすみません」
 澄子がねるように診察室から出ていった。
 戸が閉まり、澄子の気配が再び台所へ移動するのを待って、
「先生、ご相談があるんですが」
 と孝昭は切り出した。
「相談、ですか。悩んでおられることがあるんですね。ぼりさんが時折見せる表情から、何か問題をかかえているのではないかと感じていました」
「えっ、ほんとうですか」
 孝昭は自分でもおかしいと思うような奇声を発してしまった。
「人の心を常に気にするのが僕の性質なんです。だから精神科医になった。古堀さんが笑顔になる一瞬前に、下唇のはしがごくわずかですが下がる。笑うために勢いをつけているんだと思った。つまりそうしないと笑顔になれないんだと。それはひとときも忘れ去ることができない悩み、悲しみを抱えた人に多く見られるサインなんです」
 本宮医師は、孝昭の営業トークに誇大な表現がないことから真面目さを感じ取った。それゆえに悩みの解決に糸口が見えないときは、さらに苦痛が増大することを気にしていた、とも言い、
「お話を伺いましょう」
 とほほんだ。
「先生、診察代は?」
「治療が必要かどうかは、お話を聞いてから考えましょう」
「よろしいんですか」
「治療したほうがいいと判断すれば、初診料が発生しますが、それこそよろしいですか」
「もちろんです。ただ、診察してもらいたいのは私ではないんです」
「では、お身内?」
「ええ、姉です」
「分かりました。お姉さんのお名前と生年月日を教えていただけますか」
「古堀とも、昭和五十九年三月十二日生まれで、三十五歳。私とは五つ違いです」
 実家は滋賀県の大津市だけれど、現在は東山のアパートで同居して九年がつことを話した。
「姉は、高校一年生の六月頃から不登校になって、そのまま学校を辞めてしまいました。その後も部屋に引きこもって……地元の心療内科を受診したら、うつ症だと診断されました。で、お薬を処方されたんですが、かえって悪くなったみたいで、すぐに病院には行かなくなりました」
「お薬、ですか……」
 本宮医師は表情を曇らせ、
「そのときの様子ですが、あなたから見てどんな感じでした? 五歳違いということですから、あなたは小学校四年生くらいですね。見たままを教えてください」
 と言った。
「眠たいのか、だるいのか分からないけれど、体が動かないんだって言ってました。だからすぐに横になってました」
「なるほど。薬の副作用の可能性がありますね。ずいぶん経ちますが、病院と医師の名前は分かりますか」
「大津駅前にある『斎藤こころのクリニック』です。現在もクリニックはありますが、担当医がいらっしゃるかどうかまでは」
「必要となればこちらで調べます。カルテが残っていればいいんですが。九年前に京都へ引っ越してこられたということですが、それからはどこの医療機関にも行かれてないんですか」
 本宮医師は卓上の製薬会社のロゴマークが入ったメモ用紙を引き寄せ、ボールペンを走らせる。
「よほど病院はりたみたいで、毛嫌いしてます」
 病院という言葉を出しただけで、まるで子供のように機嫌をそこねるくらいだ、と言いながら、まるで娘を持つ父親みたいな物言いで、自分でもおもはゆかった。
「病院を好きな方のほうが、珍しいですからね」
「まあ姉の場合、その前に大きな病院で三週間も入院した経験があるんで、無理ないかもしれません」
「少し長いですね。そのときの病名は分かりますか」
りつせい調ちようせつしようがいだと聞いています」
「それは何歳のとき、どこの病院ですか」
「たしか中三の夏、入院先は大津総合病院の小児病棟です」
 相談するために、姉のことを整理しておいた。
「中三の夏に起立性調節障害で入院して、高校一年生の六月に不登校ですか。うつ症ではなく、起立性調節障害そのものが再発したのかもしれませんね」
「ただ、学校を辞めたので、私が中学生になった頃には、家の手伝いができるようになってました。うちは工務店をいとなんでいて、家にいるなら事務を手伝え、と父が言い出したんです」
 強引だったけれど、自室から引き出すことで徐々に回復したように見えた。孝昭が高校卒業する頃には、朝九時からお昼まで事務所で母を手伝うことができるようになっていたのだ。
「起立性調節障害が改善しているということですね。その頃のお姉さんの表情はどうでした。引きこもる前のお姉さんと比べて」
「相変わらず引きこもりがちで、部屋ではフェルト手芸ばかりをしてましたけど、顔を見せるときは昔のままの姉に見えました」
「京都に出てこられた理由は何ですか」
 当時の様子も併せて尋ねられた。
「親とめたようです。見合いを勧められたのが原因だと言ってました。アパートに来て一週間ほどは引きこもっていたときと同じ感じだったんですが、その後は元気になって、私の世話を焼くようになりました」
 交際していた女性があいを尽かすほどだった、と口をついて出てしまった。たまっている感情を吐き出させる雰囲気を本宮医師はもっている。それが心療内科医だからなのか、それとも彼の人間として魅力なのかは分からない。しかし面と向かって話していると、ますますこの医師なら、友美も心を開いてくれそうな気がしてくる。
「なのにお姉さんは元気を失っている。そうですね」
「先月の初め頃から、ふさぎ込むようになりました。でゴールデンウイーク前にはとうとう……」
 居間の奥に六畳の部屋があって、そこが友美の部屋だ。そこも実家と同様フェルトのマスコットだらけになっていた。そこからほとんど出てこなくなったのだ。
「元に戻ってしまったんですね」
「感覚的なことですが、悪くなったように思います」
「悪い?」
「四月からは毎晩夢にうなされているようで寝言もいってました。それに、この十日ほどは突然大声で叫び出すんです」
「ほう。それで寝言は聞き取れますか」
「不明瞭でよく分かりません。ごめんなさいとか、許してといった感じで、誰かに謝っているのかな。そんなニュアンスは伝わってくるんですけど」
「叫び声はどのような?」
「そうですね……ただ、わーっと声を張り上げる感じですね」
 友美が転がり込んできて以来、居間を寝室にしている孝昭が、毎夜びっくりして目を覚ますほどの声だ。隣の住人にも聞こえているのではないかと心配している。
「悪夢を見ているのかもしれないですね。高校一年生のときに何か変化はなかったですか。そうですね、親友とちがう高校に行ったとか、そりの合わない友人か先輩がいた、もしくはいじめがあったとか」
「私は小学生でしたから、姉の学校のことは分かりません。何も言ってくれないんで」
 どうしたのか、と何度か尋ねたことはあった。そのたびに男の子には分からないといつしゆうされている。そのうち聞くこともなくなった。
 孝昭の同級生が友美の中学校の卒業アルバムを見てあこがれをいだいたらしく、そのことを話したときにとても嫌がった記憶だけはある。
「そのとき、失恋したのかなって思いました」
「思春期には失恋からうつ症におちいることがありますからね。ただ、いまの容態の原因をそれだとするには期間が長すぎます。分かりました、では訪問診療がいいと思いますが、どうでしょう」
 メモを見ながら本宮医師が言った。
「往診、していただけるんですか」
 心療内科の往診は話に聞いたことはあるが、孝昭の担当するエリアにはなかった。
「保険でも三割負担で、七千円ほどかかりますが」
「大丈夫です。お願いします。このままだと体も壊してしまいそうで……いえ、壊れてもいいと思っているふしがあるんです」
 食生活が乱れていて、ファストフードや糖分の多い飲料ばかりを口にしていると言った。
しよう行為をされたことはありますか」
 本宮医師がさらりと聞いてきた。
「実家にいたときは何度か手首を切ったようです。こちらに来てからはありません。ただ最近、妙なことを言うようになりました」
「妙なこと? できるだけ正確に、教えてください」
 と、本宮医師が居ずまいを正し、ペンを握り直すのが分かった。
「『自分がいなくなるのにはきちんと理由がある、発作的じゃないからね』。毎回そう言うんです」
 意味を問うが、いまは話せない、と言うばかりだった。
「気になる言葉ですね。友美さんの心のおもを突き止め、うまく対処できる方法を見つけましょう。それはお姉さん思いの古堀さん、あなたも同じです。あなたの健康を守るためにも、はやく元のお姉さんに戻ってもらわないとね」
 本宮医師は優しく微笑んだ。
「先生……」
 言葉が詰まった。




      3




 けいろうは、鞠小路院開設直前の土曜日、迎えにきた孝昭の車で彼のアパートに向かった。夕刻のほうが友美の調子がましだと聞き、午後四時の往診となった。
 鞠小路からは、ほんの十五分でアパートの駐車場に着き、
「ご本人には僕が来ることを伝えているのですか」
 と車を降りる前に孝昭に尋ねる。
「お医者さんが来ると聞くと、部屋から出てこなくなるんで、会社の先輩が訪ねてくるんだと言いました。すみません」
 孝昭はハンドルが邪魔できゆうくつそうに頭を下げた。
「いいですよ。人生の先輩であることは確かです」
 階段を上がり、先に部屋に入った孝昭が、
「姉さん、ただいま。いま先輩が一緒なんだ」
 と玄関から声をかける。
 返事はなかった。
 孝昭が用意してくれたスリッパをき、
「お邪魔します」
 奥にいるだろう友美に向かって言いながら、ダイニングキッチンへと上がった。
 床には、コーラ飲料の空になったペットボトルが何本も散乱し、シンクにはコンビニ弁当の容器が放置されていた。それは普段の暮らしぶりを感じ取りたいから、清掃せずそのままにしておいてほしい、と頼んでおいたからだ。奥へ進みながら足元にあるゴミ箱をのぞく。プラスチックや紙類、生ゴミも分別されることなく一緒に入っていた。
 居間のちやだいの前に用意された座布団に座る。目の前にテレビがあって、その台にフェルトで作った猫が丸くなっていた。本物かと見紛うほどキジトラ文様がリアルだ。よく見ると閉じていると思っていた目が僅かに開いていて、美しい青い目が覗いている。安眠を邪魔されたような表情に思えた。乱雑なキッチンからは想像できないみつな手作業だ。フェルト猫からは、根気があってちようめんな性格がにじみ出ている。
 奥の部屋から小さな咳払いが聞こえた。それまで気配さえしなかった。おそらく友美も息を詰めてちんにゆうしやの様子を耳で探っているのだ。
 拒絶ではなく興味を示しているとすれば、悪い傾向ではない。
「すみません。こんなものしかありませんが、どうぞ」
 孝昭が先ほど駐車場で買った缶コーヒーを卓袱台に置いた。
「かまわんでくれ。その猫、生きてるみたいだね」
 先輩らしくざっくばらんな言い方をした。むろんふすまの向こうの友美に聞こえるように大きめの声で話す。メモ用紙に「自然な対話をしましょう」と書き、孝昭に見せた。
「これ、姉が作ったものです」
「これをお姉さんが。どこかで買ったものかと思った。家内がぬいぐるみとか人形が好きなんだ。この猫薄目で、こっちの話を聞いてる感じがする。いや、これはリアルだよ。お前の姉さん、プロでもやっていけるよ」
「僕もそう思います。羊毛を針で何万回もつついてフェルトにするのだって僕には無理です。そんな根気ないですもん」
 昔はフェルト状の布に綿を入れてマスコットを作っていたが、いまは加工されていない羊毛のかたまりから、いろいろなものを形作っているのだ、と孝昭が説明した。
「で、今日お姉さんは?」
「おりますが」
「ほんとうに。ご挨拶したいな」
 慶太郎は目配せし、小さくうなずく。
「ちょっと待ってもらえますか」
 孝昭は、襖越しに声をかけると、返事を待たずに友美の部屋に入った。
「大事な先輩なんだ。俺を助けると思って顔を出してよ」
 中から聞こえる声を聞きながら、慶太郎はテレビ台のフェルト猫を手に取った。近くで見ても本物の猫にそっくりで、重量が軽いというほかは手触りもこくしている。
 慶太郎は子供の頃、近所に住むおばあちゃんの飼う猫を可愛がっていた。両親も猫に限らず動物好きだったが、母にアレルギーがあったから飼えなかったのだ。いまは、息子のたけるに猫アレルギーがかくせい遺伝していて、やはり家に猫はいない。だが、昔でた毛の手触りはしっかり覚えている。
 隣の部屋では、しばらくやりとりが続いている。二人の話し声は、慶太郎の耳に届かないくらい小さくなっていた。
 顔さえ見せてくれれば、こいつがなんとかしてくれる。慶太郎は、手の中にすっぽり収まる猫の顔を凝視した。
 突然、襖が開いた。
 孝昭の隣に友美が立っている。孝昭よりもずいぶん背が低く、五歳年上に見えなかった。
「急にお邪魔してすみません。初めまして、本宮と言います」
 慶太郎は立ち上がってお辞儀した。
「姉です」
 何も言わない友美に代わって、孝昭が紹介した。
 友美は白いTシャツ、ブルーのジャージパンツ姿で、小さくしやくした。肩には届かない不揃いの髪の毛が揺れる。
 襖に手をかけ、きびすを返そうとする友美に、慶太郎が手に持っているフェルトの猫を示しながら、
「いまも孝昭くんに言っていたんですが、これすごいですね。他にも作品があるんですよね」
 見せてほしい、という言葉をわざと省略する。すると相手がその先を想像し、慶太郎の思いを補完するのだ。元々言葉に出していない要求だからずうずうしさはなく、それどころか相手が主導権を握った気になる。
「……ありますけど」
 友美の声は小さいが、高音だったのでかろうじて聞き取れた。
「僕、動物が好きなんですが、家では飼えないんですよ。これを撫でてると本物と変わらないくらい、やされます」
 優しく猫を撫でる。その慶太郎の手に友美の視線がそそがれているのを確かめた。
「姉ちゃん、見せてあげたら」
 横で立つ孝昭が援護射撃をしてくれた。
「猫でいいですか」
 うつむいたまま友美が答えた。
「わー、うれしいな」
 笑顔で言って、孝昭と共に座る。いったん閉まった襖だったがすぐに開き、たくさんの猫を竹かごに入れて居間に現れた。
 友美は襖を背にして、はすを向いて卓袱台につく。いつでもすぐ、安全地帯に逃げられる位置を選んだようだ。一度も慶太郎の目を正視しない点からみて、警戒心は強い。
「友美さん、実は僕、孝昭くんの会社の先輩じゃありません」
「えっ」
 友美がおびえた表情になり、奥の間のほうへさらに体を傾ける。
 孝昭もげんな顔で慶太郎を見た。
「孝昭くんの会社の製品を使わせてもらっている者です」
 孝昭には悪いが彼のついた嘘を利用することにした。自分に注がれる二人の視線を感じながら、慶太郎は続ける。
「いや、お姉さんが昔から熱心にフェルト手芸をされてると聞いて、ぜひ見せてもらいたいと思いましてね。ただお姉さんの体調が優れないようだというので、会社の先輩と言ったほうが気兼ねがなくていいんじゃないかと。だますつもりはなかったんです。お気を悪くしないでください」
 小さな秘密の暴露によって信頼関係を作る、心療内科面接のテクニックのひとつだ。
 友美はしきりにまばたきをしている。状況が飲み込めないための反応だった。
「これも、これも丁寧に作られていますね。どこかで習われたんですか」
「いえ、本で」
「独学で、ここまで」
 いつわりのない感想だ。どの猫も、呼吸していないのが不思議なくらいだった。
「集中力がいる作業でしょう?」
 と質問を畳み込む。
「ええ、まあ」
「時間もかかるんでしょうね」
「時間を忘れて没頭できます」
「お姉さんは、根を詰めすぎるタイプじゃないですか」
「……かもしれません」
「体調が優れないのは、そのせいかもしれませんね。目や肩に疲労がたまるとよくないから」
「…………」
「申し遅れましたが、僕は心療内科医なんです。孝昭くんには空気清浄機でお世話になってて」
「お医者さん、なんですか」
 友美が両手を腹の前に引っ込め、五指を急速に曲げてこぶしを作る。さらに背中を後ろの襖に押しつけた。
 不安や恐怖を感じたときの仕草だった。医師に対する拒否反応がいちじるしい。それが分かっただけでも、一回目の面接としては上出来だ。これ以上追い詰めては、元も子もなくなる。
「長時間同じ姿勢でいると血行が悪くなりますし、運動不足だと眠りが浅くなる傾向があります。どうですか、眠れてますか」
「あまり」
 ぶっきらぼうだが、友美はきちんと答えてくれた。
「いけない、いつもの診察のくせが出てしまって。もっとこの子たちを見せてもらわなくっちゃ」
 慶太郎はもう一匹の猫をやさしく手にとり、顔を近づけた。
 その後は、羊毛をどれだけ針で突けば思うような形になるのかとか、目を入れるときの難しさはどこにあるのかとか、もっぱら手芸の話に終始した。
 友美は手芸に関しては、徐々に言葉数も増え、慶太郎が帰る頃、二度ほど目が合ったのだった。
                      〈つづく〉