最終章

  
 寄せては返す琵琶湖の波音が、まのすけの過去に引きずり込まれていたじゅうろううつつに引き戻した。
 目をしばたたかせると、闇の中から今が浮かび上がる。
 しっこくの琵琶湖、暗い砂浜、そして、目の前に立っている、今にも泣き出さんばかりの顔をしている左馬助・・・。これこそが、十五郎が面している今に他ならなかった。
「今までの話は、真なのか」
 小さく、けれどはっきりと左馬助は頷いたが、戸惑いを隠せなかった。
 十五郎のために反旗を翻したなどと到底信じられるものではなかった。これまで、みつひでといえばいつも沈鬱な顔をして、十五郎を遠ざけているようにすら見えた。
 左馬助は琵琶湖に目をやった。だが、その視線の先にはすべてを呑み込んでしまいそうな闇が控えているばかりで、目を凝らしても何も映りはしなかった。
「殿は、何にも増して若様を気にかけていました。拙者のことよりも、はるかに」
「証はあるか」十五郎は思わず叫んでいた。「父上がわしを案じていた証はあるのか。でなくば、到底わしは、父の思いを信じることができぬ」
 十五郎にとっての父は、苦しそうな顔をして廊下ですれ違うだけの人でしかなかった。目の前にいる十五郎のことなど目に入らないように遠くを眺め、土気色の顔をしかめて溜息をつき、足早に去っていく。そんな父親の背に何度傷つけられたか、数えてすらいない。
「ならば、これはいかがでしょうか」
 左馬助は懐から一枚の文を取り出してきた。開いてみても、薄暗い中ではわずかにしか見えない。目を凝らし、指で墨をなぞりながら文を読む。
「これは、ながおかふじたか殿宛ての殿直筆書状でござる。挙の直後、拙者のゆうひつが清書して藤孝殿にお送りし、原本が手元に残りました。のぶなが亡き後、手を取り合って政を果たしてゆこうという内容でござる」
 信長の死後、長岡藤孝、ただおきの親子は共に剃髪した上、忠興の妻に収まっていた光秀の娘・たまを幽閉し、光秀の謀反に加わらぬという意思を表明した。その後、いくら書状を送っても、いくら使者を遣わしても、長岡親子があけに馳せ参じることはなかった。信長の首を挙げることができれば必ずや長岡は明智になびくはずという光秀の予想は外れたことになる。
 その書状は、長岡親子が剃髪をしたことについて一時は怒りを覚えたが是非もないと述べ、この挙への協力を重ねて頼んでいる。光秀はこの文の中で長岡家に摂津を与えると明言するばかりか、もしわかたじが欲しいというのなら考え、さらに他に約束があったなら必ずや履行する、と下手に出ている。そして、この挙を起こしたのはいちろう、つまりは長岡忠興を取り立てるためのものであったとおためこがしまで付している。いつ書かれたものかはわからないが、この文の書き手である光秀のろうばいが目に見えるような書状であった。
 だが、十五郎はある一文に目を奪われた。
 五十日、百日の内ニハ、近国之儀可相堅候間、其以後者十五郎、与一郎殿なと引渡申候て、何事も存間敷候、委細両人可被申候事・・・。
 五十日から百日の間に近隣諸国の混乱を収めた暁には、その後は十五郎と与一郎殿に引き渡し、あとは二人に任せる。光秀はそう書いている。
 与一郎は長岡忠興だろう。問題は十五郎だ。十五郎を名乗る者は数多いが、光秀が呼び捨てにできるのはただ一人、息子の十五郎だけだ。
「殿は、最後まで若様のために動いておられました。恐らく、殿は最後の最後まで、若様のことを案じておられたでしょう」
 思わず、十五郎はその場に膝をついてしまった。その拍子に砂が鳴いた。
 父はずっと自分のことを案じてくれていた。そして、自分のために己の得た栄華を残そうとしてくれていた。だが――。
「なぜ父上は、わしに何も言ってくれなかった」
「若様も、殿のご気性をご存じだったでしょう。あのお方は、一人ですべてを抱え込んでしまうお人だった。あのお方は、ずっと一人で耐えていらっしゃったのでござる」
「されど、父上がおらぬようになってしまっては、元も子もないではないか」
 絞り出すように口にした十五郎の言葉は波間に溶けることなく、しばし辺りに漂っていた。
「真に、そうですな」
 左馬助は湿った声を発した。
 書状に残る光秀の筆跡は、わずかに震えていた。謀反を起こし主君を討ち取ったというのに遅々として近隣の掌握が進まないばかりか、しばひでよしが京目指して進軍しているという知らせも既に耳に入っていただろう。恐怖もあったろう、逃げ出したくもなったろう。震える手を抑え、この書状をものしたのだと思うと、目の前の光景がじわりと歪んで見えた。
「この書状、貰っても」
「構いませぬ。もう、拙者にとっても意味のないものでござる。それに、その文は若様こそ持つにふさわしい」
 左馬助は微笑みかけてきた。だが、その笑みの端に、一抹の悲しみがこびりついているのを十五郎は見逃さなかった。本当ならば何か声をかけてやりたかった。だが、どんな言葉を口にしたところで嘘に聞こえてしまいそうだった。
 ややあって、十五郎の口から飛び出したのは、これからのことだった。
「これからわしはどうしたらいい」
「わかりませぬ。むしろ、大事なのは、若様がこれからどうなさりたいか、これに尽きると思います」
「どういう、ことだ」
「既にお話ししたと思いますが――。殿は、大将は旗を振るのが役割だとおっしゃっておられました。そして、その振り方を若様に教えたい、とも。若様のお仕事は、この城にいる者たちに、己の意思を告げること。そして、大将としてやらねばならぬことを考えねばなりませぬ。これは、家臣ごときには思いもよらぬこと。これを決めるのは、見えない壁の中におられる、若様のお役目でござる」
 昔語りの中で、左馬助は見えない壁の話をしていた。だが、左馬助の言葉に非難や冷笑の色は一切なかった。
「これは、若様にしかできませぬ。きょうの旗を振るのは、桔梗の人である若様だけでござる」
 一つ頭を下げた左馬助は、きびすを返し、闇の中に消えた。
 あの男は死ぬだろう。それが証か、左馬助の背には、陰鬱な影がこびりついていた。悲壮な覚悟だけが、あの男を突き動かしているのだろう。明智家の家臣として生き、明智家の家臣として死ぬ、そう決めた、左馬助の覚悟が。
 では、己はどうだろう。十五郎は自問したが、答えは出なかった。
 思えば、坂本城までやってきたのは、光秀の導き――、左馬助の言を借りれば、光秀の振った旗に従っただけだった。だが、今光秀はにもいない。
 これからは、己の手で桔梗の旗を振らねばならない。
 だが、どうやって?
 琵琶湖はただそこにあって波の音を立てるばかりで、十五郎の問いに答えてはくれなかった。
 しばらく波音に耳を傾けているうちに、城の方角にあった木陰から一つの影が現れた。
「若様、遅いので心配いたしましたよ」
 やってきたのはつましちろうひょうだった。あからさまに安堵の顔を浮かべると、十五郎の手の書状を指した。
「それは?」
「いや、なんでもない」
 懐に文を収めた十五郎は思わず、七郎兵衛に問うた。
「わしはどうすべきなのだろうな」
 七郎兵衛は首を横に振った。
「すまぬ。愚問であった」
 父もこうして一人、答えのない問いに煩悶していたのだろうか。そんなことを、ふと思った。
 波音だけが、辺りを包んでいた。


 結局その日は城に戻っても一睡もできなかった。
 朝、櫓に上り、外の景色を眺めた。夢であって欲しかった。だが、今にも雨が降りそうなほど分厚い雲の下、おびただしい旗指物や馬印が立ち並び、精強そうな騎馬武者たちが坂本城の周りを囲っている。
 敵陣からときの声が上がり始めたのは、丁度十五郎とじゅうろうの二人であさを食べている時だった。こんな時でも腹が減るのかと半ば呆れながら飯をかき込んでいると、男どもの咆哮が聞こえ始めた。
「兄上、恐ろしゅうございます」
 十二郎が箸を取り落とし、肩を震わせ始めた。昨日再会したときに随分大人びたと思っていたが、齢十一の子供であることには変わらない。大丈夫ぞ、この城には精兵がおる、と慰めても駄目だった。やがて部屋で配膳をしていた女中たちにも不安が伝播しついに泣き出す者が現れてからは、歯の根を鳴らして震える弟の背を撫でることしか十五郎になすことはなかった。
 朝餉を終え、着慣れぬいくさひたたれを纏い二の丸の謁見の間に向かうと、既にそこには主だった家臣たちが詰めていた。もはや十名ほどしかいない。皆一様に不安と興奮で張り裂けんばかりの顔をしていた。その中には、これつねないとうろうろうの姿もある。一人一人、家臣の顔を心に刻み込むようにして眺め、十二郎とともに上段の間に腰を下ろした。
 下段の間の筆頭に座るのは、武骨なよろいかぶとに身を包む明智左馬助であった。
「皆、朝早くご苦労であるな」
 謹厳な言葉が、謁見の間に満ちる。
「皆も既に承知のことと思うが、羽柴方の武者どもがこの城を囲っている。もはや逃げ場はない。この城にはかなりの備蓄があるが、長い籠城戦とはなるまい。今、この城には兵が千もおらぬ。いくら大城といえども、兵がいなければ守ることすらおぼつかぬ。それに、秀吉からすれば、この城をいつまでも囲っておく意味がない」
 既に〝謀反人〟光秀は死に、坂本城に集う者たちは残党に過ぎない。秀吉からすれば、この城は路傍の石も同然、無理攻めをしてでも早めに取り除こうと動くだろう、というのが左馬助の言だった。
「さて――。つまり、もうこれが最後の機でござる。今からでも遅くはない。不忠をそしることもせぬ。もし、我が身が惜しいという者がおれば、今から逃げてもよい」
 十名あまりの重臣たちは、皆目が据わっている。逃げるつもりだったのなら、もっと早く逃げている。そう言わんばかりだった。
 座を見渡し、左馬助は頷いた。
「皆、ここで戦ってくれるか。ありがたい。――次に、取りうる戦い方だが」
 だが、あれほどらんらんと目を輝かせていたはずの家臣たちが、一様に下を向いてしまった。もはや勝てる見込みのない戦に策も何もあるまい。
 そんな中、声を上げた者がいた。さらしを巻き、左手を肩で吊っている明智みつただだった。
「もはやこの盤面は詰んでおる。ならば、あとは綺麗な盤面を残し、明智の名を汚さぬよう振舞うべきであろう」
「と、いうと」
「武士の誉れ。強敵に真っ向挑んで花と散ろうではないか」
 他の重臣たちからも、おお、と声が上がった。華々しく戦い散る。勇者の死は、何百年経っても語り継がれてゆく。それを知ったるからこそ、光忠の提案は甘い響きを以て響く。
 評定の間の意見は突撃一色に染まってゆく。
 そんな中、左馬助は上段の十五郎に向いた。
「若様はどうお考えですか」
 左馬助の目が聞いている。この一晩、何を考えてきた? 桔梗の旗をどう振るのか、考えたのではあるまいか、と。
 だが、十五郎は首を振った。
「わしは未だ、結論が出ておらぬ」
 正直に述べた。
 家臣たちが白けているのは下段の間から聞こえてくる非難がましい溜息からもわかる。だが、今の十五郎は、己のしゅんじゅんをそのまま口にすることしかできなかった。
「昨日一晩、いろいろ考えたのだ。そなたら勇士をあたら失うのは惜しい。いっそ、わしの首を以て皆を許してもらおうとも考えた。だが、光忠のご意見もまた、一理あると揺れておる。ゆえ、今、ここに至ってもなお惑うておる」
 家臣たちの顔にあからさまな不満がのぞいている。当たり前だ。散華の酒に酔っている相手に水を差すようなことを言ったという自覚もある。
 十五郎の態度に噛みついたのは、家臣たちの熱を背にした光忠であった。
「そなたは明智の後継ぎであろう。だというに、優柔不断な態度を取りおって。草葉の陰でお父上も泣いておろうぞ」
「わかっております。されど、あまりに桔梗の旗は重すぎます」
 明智の旗の下には今、千名ほどの家臣の命がある。千の人生が、十五郎の持つ明智の旗の振りように委ねられている。一時はその十倍近い人々の命を背負い、旗を振るっていた父の大きさがようやく理解できた。そして、その苦悩をも。
「泣き言を言うでないわ」光忠は声を荒げた。「そなたにも、そしてわしにも責任がある。名族明智家最後の一人として、晩節を汚さずに死なねばならぬのだ」
 そこに、左馬助がくちばしを挟んだ。
「お待ちくだされ、光忠殿。仮にも上段にあるお方を恫喝してはなりませぬ」
「恫喝などしておらぬ、わしはただ道理を申しておるだけぞ」
「では、こういたしませぬか」
 左馬助の提案がなされた。
 一つ、秀吉方に使者を発し、くだるか降らぬかの瀬戸際にあるように匂わせ、攻撃を延期させる。
 一つ、正午にまた評定を開き、その上で家中としてどう動くかを決める。
 要は先延ばし策であったが、光忠をはじめとする家臣たちは不承不承ながら呑んだ。
「では、一時お開きとしましょう」
 左馬助の宣言で、家臣たちは下段の間から一人、また一人と去っていった。家臣の多くが、十五郎に蔑むような眼を向けたままで。そうして評定の間には、十五郎を支えてきた妻木、隠岐、内藤の三家臣と左馬助、そして十五郎と十二郎が遺された。
 重苦しい場の中で、惟恒が口を開いた。
「それにしても、まさかあの光忠殿がああも強硬な態度を取られるとは」
 十五郎も思うところだった。これまで十五郎が眺めてきた光忠は穏やかで人当たりがよく物静か、悪く言えば覇気のかけらもなく、毒にも薬にもならぬようなお人だった。それが今、最前に立って強硬なことを述べる不思議を思う。
「いや、逆でしょうよ」内藤が冷ややかに評した。「あのお人は明智一族であるというところに己の軸を置いておられるお方だ。明智家と共に生き、明智家と共に死ぬという発想しか湧かないのだろうよ。もっとも、俺は光忠殿のご意見に賛成だがね」
 ぎょっとする家臣たちの前で、内藤は、だってそうだろう? とうそぶいて見せた。
「武士は死して名を遺すもんだ。あれほどの大軍を前に派手に暴れ回れば、己の名はいつまでも残ることだろうよ」
「やめぬか」
 惟恒は内藤を押し留めた。
 皆の視線が十五郎に集まる。
 上段にある十五郎は、一人、重圧と戦っていた。様々な人々の思惑が絡まり、息をするのさえ苦しいこの場で、経験も何もない己が何をすればよいのか、わかろうはずもない。人々の思いが頭上に覆い被さり、潰されていく感触に襲われている。
 息が詰まる。目がかすむ。頭がぼうっとする。
「若様」
 妻木七郎兵衛の声が遠くに聞こえる。
 とにかく苦しい。
 そんな中、十五郎はこう口にするので精いっぱいだった。
「すまぬ。茶室に行ってもよいだろうか。一人になりたい」
 下段の家臣たちは顔を見合わせた。しかし、七郎兵衛が、
「かしこまりました。ただし、何かあったらお呼びいたします」
 と、誰よりも早く口にしてくれた。
 十五郎は立ち上がり、縁側に出ようとした。その時、呼び止められた。
「若様」
 振り返ると、声の主が左馬助であることに気づいた。左馬助は何も言わず、小さく頷いた。分かっておりましょうな、そう念押ししているようにも見えた。
 小さく頷き返した十五郎は、足早に縁側へと飛び出した。


 十五郎は一人、二の丸の隅にある茶室に籠った。
 すんすんと音を立てて湯気を発するはっかくがまを見やり、信長から拝領したという黒茶碗を見下ろしながら、鳥の鳴き声に耳を澄ましていた。だが、楽しげに歌っていた鳥たちは、秀吉方の鬨の声を聞くとぎゃあぎゃあとけたたましく鳴いて空へと逃げていってしまった。
 しゃくで湯を取り、抹茶を入れていた茶碗に注ぎ、ちゃせんでかき回す。緑の渦が今世の一切合切を呑み込んでゆく。床の間には信長から拝領した掛け軸が部屋に彩を与え、信長より下賜された茶釜が湯気を立てている。もうこの世にいないはずの旧主の気配が狭い部屋に満ちていた。悪い気はしなかった。使い込むうちに、茶道具は新たな主になつくようになる。もはやここにある茶道具たちは、まるで忠実な番犬のように、何も言わずに十五郎の顔を見やってくるばかりだった。
 渦を眺めながら、ふと、十五郎は己を形作ってくれた師匠たちのことを思った。
 どうそうきゅうはどうしているだろう。連歌師のさとむらじょうはどうしているだろう。信長よりは光秀の方が風雅の道を尊重するだけまし、と笑っていた二人の面影が蘇る。あの二人は特に光秀と懇意にしていた者たちであるだけに、この後の風当たりが強くなるだろう。一人になると、他人のこれからをおもんぱかるだけの余裕が出てくる。
 己のための茶を点てる。だが、呑む気にはなれない。
 どうしたら、よい。
 左馬助は若様自身で決めるべき、と言っている。だが、今の十五郎は、他人の思いに覆い被さられて、己の気持ちがまるで見えなかった。それはまるで、煮立った湯でてた茶のようだ。熱湯の湯気のせいで茶碗の景色や茶の緑色まで見えなくなっている。
 十五郎は特に乾かぬ口に、無理矢理茶を流し込んだ。だが、久々に点てた茶は苦いばかりで、旨味も甘みも消え失せている。どこにも答えはない。
 一人逍遥としていると、入口の戸が開いた。
 廊下に立っていたのは、弟の十二郎だった。
「兄上、ご一緒してもよろしいですか」
「ああ。入るといい」
 頭を下げた十二郎は茶室に入ると、下座に腰を下ろした。
「茶を点てよう」
「お願いいたします」
 十五郎は念じるように茶を練った。
 よく、津田宗及が言っていた。人は簡単に死ぬ。そやさかい、これが最後の茶と思うて茶を点てなければあきまへん、と。その意味がわかるほど、十五郎は大人ではなかった。だが、子供なりに色々な人々の死に触れた。妻木殿、織田信長・のぶただ親子、津田のぶずみ、そして父の光秀。確かに宗及の言う通り、人は余りにやすく死んでゆく。死のせんに飲み込まれてゆく。茶碗の渦を眺め、十五郎は螺旋の中央に空いた穴について思った。
「どうぞ」
 練り上がった茶を十二郎にすすめた。すると十二郎は作法通りに茶碗の景色を楽しんだのち、ゆっくりと茶をすすった。
「十二郎、そなた、茶を学んでいたのか」
「はい、つつじゅんけい殿より教わりました」
 若き僧形の大名の姿が頭をかすめ、少し心が痛んだ。もう、順慶と逢うこともない。
「筒井殿は、よき父であったか」
「はい、間違いなく。まるで実の弟のように可愛がってくださいました」
 十二郎の言葉は硬かった。
 十五郎は首を振った。
「十二郎、未だにわしは、惑うておるのだ。どうしたらよいのか、わからぬのだ」
 ややあって、十二郎が訊いてきた。
「なぜ兄上は、惑うてらっしゃるのです」
 穏やかな問いが、十五郎の胸を刺し貫いた。
「なぜ、とは」
「もしもご覚悟が決まっているのなら、そちらに流されていることでしょう。けれど兄上は一歩を踏み出せずにいる。兄上の心中は、この城の者たちとは全く違うところにあるということではありませぬか」
 言われて初めて気づいた。もしも己に考えがないのなら、光忠の意見に乗っていたはずだ。光忠の散華案に乗らなかったのは、その意見に反発した己がいたからだ。
 そう気づいた瞬間、目の前のもやが一気に晴れた。
「兄上」
 十二郎が問いかけてくる。その声は、優しく響いた。
「わしは――。生きたいのだ」
 光秀は山崎の戦での大敗を経てもなお、坂本へ帰還しようとした。それは、何が何でも生きてやろうという、死への反骨ではなかったろうか。ならば、その旗を継いだ己は、この桔梗の旗を残すべく、桔梗の人として生き抜くしかない。
 それに、十五郎はなおも茶や連歌への未練を手放すことができずにいた。天下の宗匠たちに認められつつあった己が惜しい。それもまた、包み隠さぬ十五郎の真実だった。
 茶の香りが十五郎の目を覚ました。
「いや、わしらは、生き残らねばならぬ。名族明智の血を残すため、生きてゆかねばならぬ。それが父上の願いであろうし、わしの望みでもある」
 ようやく、己の答えを得た。
 だが、これからどうするのかが問題だった。


 正午の評定の際、開口一番に十五郎は己の意思を家臣たちに伝えた。
 予想はしていたが、光忠から猛反発があった。下段の間の床を殴りつけ、口から泡を飛ばしながら十五郎を睨みつけた。
「言うに事欠いて、十五郎、そなたは名族明智の名に泥を塗るつもりか」
「名を残して何になるのです。いくらさんぜんたる名が残ったとて、人が残らねば何にもなりますまい。わしは、生きるため、この場を離れまする」
「許さぬぞ。明智の名のため、ここでそなたには死んでもらわねばならぬ」
 光忠の目は血走っていた。
「十五郎、わしは、そなたの父のおかげで、らくはくしていた明智家再興の夢を見ることができたのだ。もはや、再びの落魄など見とうないのだ。わしには見えるぞ。山の中に庵を結び、雑草とわずかな米でこしらえた雑炊で腹を満たし、名を変え身分を偽り、仕官したいと歩き回る、そなたの姿がな」
 それはきっと、明智を再興させようともがいていた頃の光秀の姿なのだろう。
「もう、明智の盤面は詰んでおるのだ。潔く諦め、散華せえ」
「まだ、明智は終わりませぬ。明智の旗を継ぐものがある限り」
 いつまで経っても、光忠との言い争いは平行線をたどる。それもこれも、わかっていた。光忠には光忠のこれまでの人生があり、思いがある。十五郎ごときの言葉で翻意できるのなら、とうの昔に考えを改めているはずだ。
 だから、十五郎も辛抱強く己の思いを話すしかない。
「光忠小父。わしは、ここを生きて出て、何が何でも明智の旗を残さねばなりませぬ。いえ、明智の旗を残すのが己の天命であると定めたのです。小父には小父なりのお考えがあるとは思います。されど、拙者には拙者の考えがあり申す」
「何を言うか、青二才が」
「青二才と申されますが、それでも、この城の主でございます」
「屁理屈を申すでないわ」
 光忠はついに立ち上がった。血走った目で十五郎を睨みつけるや脇に置いていた刀の柄を手に取り、すばやく刀を抜き払った。
 突然のことに家臣たちはとっの行動を取ることができなかった。
 その間にも、光忠は足音高く上段の十五郎に迫り来て、刀を大上段に構えた。
 十五郎は頭上できらめく白刃を前に、すくみを起こしていた。最初、まるで現実感がなかった。だが、その剣先がわずかに揺らいだその時、恐怖が腹の底から湧き起こってきた。
 死にとうない。死の逃避が頭をかすめたものの、体が動かない。
 思わず十五郎は目を閉じた。
 悲鳴が耳に届く。
 恐る恐る、目を見開いた。痛くはない。体をまさぐっても怪我ひとつない。なにが起こった――? 己の体を改めた十五郎が、目の前を見た瞬間、そこには両腕を大きく広げ、立ちはだかるように仁王立ちする男の姿があった。
 戦直垂など似合わない。白髪混じりの髪を覗かせ、顔だけ十五郎に向け、口元から血を流しながらも薄く微笑むのは――隠岐惟恒であった。
「間に合い――ましたな」
 惟恒は枯れ木が倒れるように、その場に崩れ落ちた。
「惟恒!」
 十五郎が叫んだその時、左馬助が大音声を発した。
「光忠殿ご乱心である、捕えよ」
 左馬助の一喝によってようやく気を取り直した家臣たちが光忠に向いた。光忠はと言えば、顔を青くして、血にまみれた刀を手に握り、呆然とその場に立っていた。だが、他の家臣たちが光忠を捕らえようとしている構えを見て取ったか、あざわらうように見渡した。
「無用よ」
 そう言い放つや、光忠は刀の刃先を己の首元に当て、一気に引いた。
 鮮血があたりに飛び散り、光忠はうつ伏せに倒れた。
 あまりのことに、事態は騒然となった。左馬助ですら目を泳がせている。他の家臣たちはあてどもなく隣の者と目配せをし、意味のない言葉を口にしている。
 だが――。
「黙れ」
 十五郎の一喝が、場のざわめきを払った。仰向けに倒れている惟恒を抱きかかえながら、呼びかける。
「惟恒、惟恒、惟恒・・・」
 大きく開いた傷からは、とめどなく血が流れ続けている。その顔からは血の気が引き始め、唇は青い。強く抱きしめて何度も話しかけると、ようやく惟恒は眠そうな目を少し開いた。
「若様――。すっかりご立派になられましたなあ」
「惟恒、気をしっかり持て」
「思えばこの隠岐惟恒、ずっと若様の許におりましたが、家老として、若様に何もして差し上げることができなんだ。凡庸な我が身を悔いておりました。されど、ようやく、若様のお役に立て申しましたな」
「何を言うか」
 惟恒は、物心ついた頃からずっと共にあった。光秀が父ならば、惟恒は祖父代わりだった。
「本当なら、若様とともに、ここを抜け出た後も生きとうござった。されど、ここでおさらばのようでございますな。――若様、ご武運を」
 手を伸ばし、十五郎の頬に触れた惟恒であったが、その手が落ちた。惟恒の呼吸が止まり、瞳孔が開き始めた。瞳が黒く染まっていくのを押し留めるすべはもはやない。
「惟恒――。すまぬ」
 十五郎はその場に惟恒を寝かせ、瞼を手で閉じた。
 顔を上げると、うつ伏せに倒れたままの光忠の姿が目に入った。目を大きく見開いたまま血の池に沈む光忠の傍には、その姿を覗き込む左馬助の姿があった。目を合わせると、左馬助はゆっくりと首を振った。
 惟恒と光忠を運び出すように家臣に命じた。だが、二人が退場してもなお、二人の残した鮮血はその場にある。血の匂いの満ちる部屋の中で、左馬助が口を開いた。
「このことは他言無用ぞ。もし、生き残った者があったとしても、光忠殿の名誉を守るため、誰にも話してはならぬ。光忠殿は自刃。それでよいな」
 周囲をねめつけるように見渡した左馬助は、呆然としていた十五郎に向いた。
「若様、これからいかがなさいましょうか」
 なおも、十五郎の思いは変わらない。
「わしは、明智の血を残したい。父上もそれを望んでいらっしゃるはずぞ」
「ならば、拙者に策があります」
 左馬助は、光忠の残した鮮血を隠すように、四畳はあろうという大きな城図面を部屋の真ん中で広げた。諸将たちが坂本城の図面に目をやる中、左馬助は続けた。
「皆も知っての通り、この坂本城は東に琵琶湖を擁しておるゆえ、三方を守ればそれでよい。されど、今の城兵では、三の丸まで手が回らぬ。それゆえ、繋いである舟をすべて壊した上で、三の丸を放棄する」
「打って出ないのか」
 内藤の問いに、左馬助は応じた。
「すぐに打って出ることはしない。――内藤、妻木の両人に頼みたいことがある」
 突如指名された形となった七郎兵衛は、不思議そうな顔をして左馬助を見やっている。
「どんな方法でもいい。内藤が言うように、突撃して陣を抜けてもよいが――。必ず生きて囲いを抜けろ」
 これには、内藤、七郎兵衛ともに意味を取りかねているらしい。左馬助はなおも続けた。
「大事な役目だ。必ずや生きて帰り――。若様の墓を作れ」
 これには七郎兵衛が噛みついた。
「どういうことですか。まさか、左馬助殿も、ここで若様が死ぬべきと考えておるのではありますまいな」
 左馬助は鼻を鳴らした。
「いや、違う」
 左馬助の言うところはこうだった。
 この戦が終われば、必ずや羽柴方は十五郎の首を探すことになる。だが、十五郎が生き延びれば首は絶対に見つからない。もちろん首が見つからなくとも不自然でないように細工をするが、それでもしばしの間は十五郎の捜索を行なうことだろう。そんな最中、もし、羽柴方が明智家家臣の建立した十五郎の墓を見つけたら、どうだろう。明智家家臣がわざわざ墓を建てたということは、十五郎が死んだと確信するはずだ。
「墓の下に、何もなかったとしても、ですか」
「ああ。なくともよい。もしも余裕があれば、若様ととしかっこうの似た偽首を仕立てて、拾ってきて埋めてもよいな」
「つまり、目くらましのための墓ということ、ですか」
「ああ。そこまで分かっていれば、上々だな」
 得心したように頷く七郎兵衛の横で、内藤が目を暗く光らせた。
「つまり、七郎兵衛が生き延びて、墓を建てればそれでよい、ということだな。たとえば、七郎兵衛を逃がすために、俺が一人で敵軍に突っ込んで死んでもいいってことか」
 まるで想定済みの問いであったかのように、左馬助は頷いた。
「ああ。どのように囲いを脱出するかは二人に任せる。もちろん、そなたが言ったようなやり方でも文句は言わぬ。だが、そうして妻木を逃がしたとて、落ち武者狩りに遭う危険はある。二人で協力して危難を払った方がよいとは思うがな」
 不満げに頷いた内藤を前に、左馬助は手を打った。
「あともう一つ言いそびれておったわ。いかなる方法を取ってもよいと話したが――。琵琶湖を泳いで渡るなどということはせんでくれ」
「なぜですか」
「なぜなら――」左馬助は十五郎と十二郎に向いた。「このお二人を琵琶湖からお逃がし奉るつもりゆえだ」
 左馬助の言うところはこうだ。今日の夜、本丸にある渡しに係留されている小舟を用い、二人を脱出させる。もちろん既に対岸の安土は羽柴方の勢力域になっているだろうが、小舟一つならばそこまで目立つことはあるまいとのことだった。
 その話を聞きながら、なぜ左馬助が三の丸の船を破壊すると言い出したのかが分かった。船が敵の手に渡り、湖上を封鎖されてしまってはおちおち逃げることもできないからだ。
 七郎兵衛は問うた。
「いつ、出ればよいですか」
「そうだな。夕方頃、羽柴方に使者を出そうと思うておる。その後ならば、いつでもよい」
 家臣の一人から声が上がった。我々はどうしたらよいのですか、と。
 左馬助は無感動に頷いた。
「若様が城をお離れ遊ばされるまで動いてはならぬ。万が一敵方が動いた際には、防戦に努めよ。わしが合図を出す。それ以後ならば、そなたらの随意に動くがよい。敵方に打ち掛かるなり、防戦に努めるなり、好きにしろ」
 御意、とその家臣は頷いた。
 顎に手を遣りながら、ろくな策になりませぬな、と力なく笑った左馬助は十五郎に頭を下げた。
「ざっと、このような策でござる。いかがでござろう、若様」
 文句などあるはずはなかった。諸将が浮足立つ今この場にあって、一人、氷のように冷徹に断を下す左馬助は恐ろしくも美しかった。あの信長が一時は惚れ込んだことだけはある。そして、もしも左馬助のような男が明智の跡取りであったなら、と思わぬこともなかった。
 己の不甲斐なさを必死で飲み込んだ。
「すまぬ。皆の者、桔梗の旗を残すは亡き父、光秀の宿願ぞ。そのための礎になってくれ」
 座を見渡した。中には内藤のように不満げにしながらも頷いている者もある。だが、これが旗を振る者だ。家臣たちの思いをすべて受け止め、その上で己の意思を通さねばならない。家臣たちの痛みを知りつつ、あえて見て見ぬふりをしなければならない。
 歯噛みしていると、ふいに左馬助は十五郎に話しかけてきた。
「ときに、若様に一つお願いがございましてな」
「なんぞ」
「それは――」
 左馬助が口にした願いは、少々解せぬものであった。


 十五郎は、鉢巻きをぎゅっと締めた七郎兵衛の姿を見やった。
 小具足に戦直垂という軽装で、腰には太刀をき、なぎなたを携えている。己の役目は戦うことにあらず、と述べた七郎兵衛は、鎧を着込もうとはしなかった。戦わず、生きて任を果たすという七郎兵衛の覚悟がほの見えるかのようだった。それとは対照に、の感触を確かめるように指の曲げ伸ばしを繰り返す内藤は、豪壮な鎧兜姿に身を包んでいる。
 二の丸の大手門がそびえ立ち、今から旅立とうとしている二人を見下ろしている。既に明智方は三の丸から退去している。どうやら羽柴方はまだ城の中に侵入はしていないようだが、それでももはや羽柴方の影響域ということになる。
「二人の武運を」
 内藤はそっぽを向いてしまった。もはや主君として立てる必要がないと考えているようだ。
 だが、七郎兵衛はなおも主君と思ってくれているらしい。
「若様、若様こそ、何卒ご無事で」
「七郎兵衛、これまで、世話になった。明智家再興の日には必ずやそなたを迎える」
 七郎兵衛の目に、涙が溜まっている。いつの間にか馬を二頭曳いてきた内藤が、今にも泣き出しそうな顔をしている七郎兵衛の肩を小突いた。
「そんな場合じゃない。俺たちには務めがある。そうだろうが」
「すみませぬ」
 不機嫌そうな顔のまま、馬にまたがり槍を背負った内藤の姿は、本当に良く映えた。これまで、己の目付け役として飼い殺しにしていたことが惜しい。
「内藤」十五郎は内藤の背に声をかけた。「本当にすまなかった。わしは、不甲斐ない主君であった」
 馬上の内藤は、何も答えなかった。槍を背負ったまま、空を見上げているようだった。厚い雲が垂れ込める空を見上げる内藤の目には、何が映っているのだろう。
 ややあって、内藤は開門と声を発した。門番は大手門のかんぬきを抜いて、大きく開け放った。門の向こうの三の丸は、まるで別の世界を見るかのようだった。
 内藤は、ぽつりと言葉を放った。
「世の人が不甲斐ないと謗ろうと、御主君は御主君。この内藤四郎次郎の御主君は、十五郎様お一人よ」
 馬の腹を蹴った内藤は、そのまま駆け出して行ってしまった。慌てて馬の鐙を踏んでまたがった七郎兵衛は、恭しく一礼し、馬の腹を蹴って内藤の後を追っていった。
 大手門に再び閂がはめられた後、本丸へと戻る道すがら、十五郎は長持に棒を渡し運ぶ一団とすれ違った。長持だけではない。一畳ほどあろうかという桐箱や、屏風と思しき包みを運ぶ者もある。
 羽柴方に明智家の重宝を引き渡そう、と左馬助は言い出した。おかげで明智家に下賜された名物茶碗や茶道具もすべて手放すことになった。先の左馬助の頼みとは、まさにそれだった。いなとはいえず、先ほどまで用いていた茶釜や、信長公から下賜された掛け軸や花入れ、茶杓や茶入れに至るまで、すべてを左馬助に預けた。未練がないではなかった。二度とあれほどの茶器に出会うことはあるまい。
 本丸御殿に戻ると、ふすまの一つ一つに至るまで家臣たちに外すように指示を出し、げきを飛ばす左馬助の姿があった。十五郎の姿に気づくと、左馬助は頭を下げた。
「いやはや、兵たちのよい気晴らしになりますな」
「茶道具や軸を残すのはわかるが、襖絵まで渡す必要はあるのか」
 襖絵はあくまで消耗品だ。十五郎の疑問に気づいたのか、左馬助は大きく頷いた。承知の上、と言わんばかりだった。
「時を稼ぐことができますでな。わしはそもそもみやびごとに通じておりませぬゆえ、茶道具に何の価値があるのかわかりませぬ。ただ、殿があれほど大事になさっておられたものゆえ、尊重するばかりでござる」
 左馬助らしい、とも思った。
 と、左馬助は薄く笑った。
「実は、安土城を接収した折、あの城の襖絵を描いた狩野永徳が怒鳴り込んできましてな。己の描いた絵をあたら危険な目に逢わせぬでくれ、と。拙者は雅事には通じませぬが、その時、気づいたのです。拙者のような武辺者が功を大事にするように、雅事を大事にする者には、その者なりの理路がある、と」
 襖絵が取り除かれ、風通しがよくなった謁見の間の真ん中で、左馬助は目を伏せた。
「これで、あとは夜を待つばかりでござる」
 そう左馬助が口にしたその時、縁側に女人の姿があることに気づいた。老女や二女を引き連れ、白い打掛をまとってしずしずと歩いている。久方ぶりに見える家族の姿だった。
かめあね様」
 近寄って呼びかけると、女人――亀姫は薄く微笑んだ。
「おや、十五郎ではありませぬか」
「よくぞご無事で。ここにおられたのですね」
三年ほど前、荒木家から出戻ってきてしばらくは坂本城で暮らしていたが、すぐに左馬助の妻となって福知山城へ行ってしまった。本能寺の変が起こった際にも福知山城にいたらしいが、城代の藤木なにぼうが気を回し、坂本城まで送り届けてくれたらしい。顔も思い浮かばぬ家臣の働きに感謝をしたものだった。
「まさか、生きて逢えるとは思ってもみませんでした」
「本当に。これから姉様はいかがなさるのですか」
「天守へ向かいます。そこで、左馬助様をお支え申し上げます」
「一緒に逃げましょう」
 がらんどうになっている謁見の間に立ち尽くしたままでいる左馬助の顔を気にしながら、十五郎は言った。だが、亀はなぜか満足げに首を横に振った。この顔は何だろう、といぶかしく思っていると、亀は口を開いた。
「わたしのことはよいのです。あなたにはあなたの思いがあるように、わたしにはわたしの思いがあります。己の思いを周りに大事にしてほしいなら、あなたも周りの人の思いを大事にしなければなりませんよ」
 そんなことはわかっている。けれど、その先に待っているのは――永の別れだ。
 にわかに答えが出ることではなかった。
 だが、一緒に育った姉弟だからこそ、通じ合うものもある。
「おさらばでございます、姉様」
「ええ。出来ることなら、白髪姿になったそなたにまみえたいものです。あ、けれど、父上は髪が薄くてらっしゃったから、もしかしたら禿げたそなたがわたしの前に現れるやもしれませんけれど」
 くすくすと笑い、袖で口元を隠した亀は、少し離れたところに立っている左馬助に向かって声を発した。
「お前様、先に天守へ向かっております」
 すると、左馬助は頷いた。その顔は、これまで見たどんな左馬助の顏とも違った、満たされ切った表情をしていた。
「ああ、拙者もすぐ行く」
 すると亀も満足げな表情を浮かべ、天守目指して歩いて行ってしまった。
 亀の後ろ姿を目で追っていると、左馬助は縁側に出てきて、十五郎の肩を力強く叩いた。
「拙者たちは、ここでよい。若様たちは、どこまでも逃げてくだされ」
 左馬助もまた、天守へ続く縁側を、ゆっくりと歩いていった。
 手筈通り、十五郎は十二郎と共に夜を待った。その間、羽柴の兵たちが攻めてくる様子はなかった。左馬助の交渉の結果だろう、と考えながら、ふと、内藤と七郎兵衛の消息を思った。だが、いくら考えても仕方がないと考え、十二郎と昔話をしながら時が経つのを待った。
 日が暮れ、辺りが薄暗くなってきたころ、一人の侍がやってきた。すいすれば、左馬助の家臣であるという。その家臣に言われるがまま、二人が向かったのは、本丸の東にある桟橋だった。そこにはいつもは係留されている大船は影も形もなく、四人乗りの小さな舟が一つ、小波にゆらめいているだけだった。
 この舟で行きまする、と侍は言った。既にこの城にあった船はこの一隻を除きすべて壊してある。仮に羽柴方が感づいたとしても、追いかけるすべはない。また、このような小舟であっても、なぎの琵琶湖ならば十分渡ることができる、ということであった。
 十二郎と共に乗り込んだ瞬間、小舟は大きくかしいだ。こんな舟で本当に大丈夫なのか、と思わぬこともなかったが、口をつぐむ。
 侍が舟のともに立ち、櫂を漕ぎ始めた。波に負けることなく、少しずつ舟は城から遠ざかってゆく。そうして、半町ほどの距離に至ったその時、横に座っていた十二郎が、城を指した。
「城が、城が」
 天守から煙が上がり始めている。だが、瞬く間に爆発が起こり、そこから大蛇のように炎がうねった。あれよあれよの間に、安土城と並び称された大天守は一つの巨大な火柱となった。
 左馬助は、十五郎の死体が見つからなくても怪しまれぬように手を打つと言っていた。それが、これだった。風にあおられ姿を変える炎を眺めながら、ふと、左馬助と亀のことを思った。二人はあの中で手を取り合っているのだろう、そんな気がした。
 これを望んだのもまた、十五郎だった。もしも己と十二郎の首を羽柴方に差し出せば、このようなことにはならなかった。すべては、桔梗の旗のため。光秀の旗を継いだ、桔梗の人であるがためだ。
「行ってくれ」
 侍に櫂を漕ぐようにかした。十五郎の言に応じて頷いた瞬間、侍はうめき声をあげ、湖の上に落ちた。
 見れば、先ほどまでいた岸に、羽柴の旗を翻した侍衆たちがおり、弓衆が前に出てこちらに向かって弓を射かけてきているところだった。
 向こうに舟はない。離れればこちらの勝ちだ。
 十五郎は流されそうになっていた櫂を取った。櫂を操るなど生まれて初めてのことだった。耳元をかすめてゆく矢に心胆を冷やしながらも無我夢中で手を動かすうち、こつを覚え始め、舟はゆっくりと前に進み始める。見れば、十二郎は恐怖のあまりか胸の前で手を合わせ、ガタガタと震えている。
「安心しろ、十二郎」自らも恐怖に呑まれそうになりながらも、十五郎は努めて明るい声を発した。「琵琶湖はわしら兄弟を育くんだ湖ぞ。悪いようにはなさるまい」
 その瞬間、十五郎の背に痛みが走った。あえて後ろは見なかった。なにが起こったのかくらいわかっている。だが、ここで痛みのあまりに櫂を手放すわけにはいかない。息を調え、怖がる十二郎に笑みを向けると、なおも櫂を漕ぎ続けた。
 それからは、矢の雨がしばし続いた。釘を打ち付けるかのような音が絶え間なく十五郎のを叩く。気づけば小舟の上は矢で剣山のようになっている。だが、弓なりに飛んできた矢の威力など大したことはない。何とか二町ほどまで離れた頃には、矢のにわかあめは止んだ。
 手を伸ばせば届きそうなせいしんの輝きを見やって息をつき、荒い息を調えた十五郎は十二郎を見やった。
 あれほどの流矢の中、十二郎は傷一つなかった。まるで、矢のことごとくが十二郎を避けているかのようだった。
 小さく、十五郎は笑った。己がなぜ、今こうしてここにいるのか、わかった気がした。
 櫂を舟の上に引き上げると、その場にへたり込んだ。
「あ、兄上」
 心配げに十二郎が声をかけてくる。背の激痛に悶絶する。痛みは一ヶ所や二ヶ所ではなかった。気をまぎれさせたくて、十五郎は空を見上げた。
 真っ暗な空の上には満天の星が輝いている。昼間は天気が悪かったというのに、随分と間の悪いこともあったものだ――。己の悪運を思いながらも、十五郎は弟に語り掛けた。
「以前、言ったっけな。お前は何もなげうたなくてもいい、って」
 小さく、十二郎は頷いた。
「わしも、何も擲ったつもりはない。でも、気づけばいろんなものを擲ってきた。生きたい、そして明智の血を残したい。ただそれだけのために、何もかもを失った気がする」
 ついに、座っているのさえ辛くなってきた。前のめりに倒れた。顔から床にぶつかったが、不思議と痛みはなかった。
 十二郎は声を失っている。それはそうだ。きっと、矢の剣山となっているだろう十五郎の背中を見てしまったのだろう。
 十五郎はうつぶせになりながらも、十二郎に向かって手を伸ばした。
「十二郎、生きてくれ。生きて、明智を残してくれ。明智はかくあった。明智がこの天下に生きたという証を、そなたが遺してくれ。生きてくれ、皆の分も」
 十五郎の手を、十二郎が取った。十二郎の手は、ひどく温かい。それとも、己の手が冷たくなっているのか。
 もはやどちらでもよかった。
 十五郎はゆっくりと目を閉じた。
 薄れゆく意識の只中で、光秀の残した文を十二郎に渡しそびれたことを思い出した。だが、それはそれで構わないか、と思わぬことはなかった。あの文は、己のためのものなのだから、と。
 琵琶湖の波の音だけが十五郎の耳に届く。その音すらも遠ざかり、ついには消えた。


 せっしゅうむらに、かいうんという寺があった。
 なんごくぼんけいという変わり者の高僧が開いたこの寺は、江戸期になると岸和田に移されて本徳寺と改称され、今に至っている。それゆえに、過去のことはあまり伝わってはいないのだが――。
 嘘か真か、秀吉が天下人として君臨していたころ、鳥羽村にさる噂が流れた。
 羽柴秀吉が四国征伐を終え、禁裏から豊臣の姓を下賜されたそんなころ、住持の梵桂の許に一人の侍が訪ねやってきた。素襖、腰に太刀を帯びるといういかにも古風な形をしたそのお侍は、すげがさを取ることなく海雲寺のお堂に上がり込んだ。仏様の御前で笠を脱がぬのは不遜であるはずだが、梵桂は察するところがあったのか、それを許した。だが、そんな不遜な態度とは打って変わり、その侍の態度は実に慇懃で、折り目正しいものであったという。
 その侍は、ある掛け軸を梵桂に渡し、
「これを供養していただきたい」
 と頭を下げた。
 中身を一瞥するなり、まるで何かはばかりがあるかの如くに手早く軸を巻き直し、梵桂は快諾した。ありがたい、と短く述べた侍は、もう話すことはない、とばかりに席を立った。
 これからどちらに? 梵桂はそう訊くと、その侍はこう答えたという。
「桔梗の花を植えとうござる」
 雅なことを、と合の手を入れると、侍はいささか固い声を発した。
「拙者は桔梗の人なれば、かつて大輪の桔梗の花が咲いていたと語り残さねばなりませぬ。そのために、この日の本に、桔梗の花を根付かせねば。そして、桔梗の旗の振り手として、生きてゆかねばならぬのです」
 大変な旅となることでしょうが、息災であられますよう。梵桂はそう伝え、侍に路銀を渡して送り出した。侍は「これからは東へ行こうと思っております。徳川にでも仕官できればよいのですが」と言い残しつつ。
 この話には後日談がある。どこから噂を嗅ぎ付けたものか、豊臣秀吉の遣いを名乗るさぶらいしゅが鳥羽村にやってきた。一人や二人ではない。百人余りの侍衆を擁し、素肌武者とはいえ手には弓や鉄砲といった飛び道具や槍や薙刀といったながを携えた一団は、普段のどかな鳥羽村に波乱をもたらした。
 そんな一団は海雲寺の梵桂を訪ねた。
「この前、訪ねてきた侍がどこに行ったか知らぬか」
 梵桂はこわもての侍衆を前にも動じず、こう答えた。
 確か、これから西国へ向かうと言っておられたような。
 嘘をついてはおらぬな、もしも嘘であったなら容赦せぬぞ。そんな恫喝もどこ吹く風、梵桂はしらを切り通した。
 その時梵桂が受け取った掛け軸は寺宝と共に残され、海雲寺が戦火に遭い、寺号を変え岸和田に移されてもなお、半ば死蔵される形で残されていた。
 そんな本徳寺には、一幅の掛け軸が伝わっている。
 明智光秀の肖像画とされる座像である。
 今日、唯一の光秀像と知られるこの軸に描かれた光秀の姿は、どこか線が細く、物憂げな表情をしている。あるいは若い頃の面影を映したものなのかもしれない。
 明智光秀は摂州にはあまり縁のなかった人物である。彼の本貫地である美濃、長らく過ごしていた近江、領地であったやましろや丹波ではなく、なぜ摂津に唯一の肖像画があるのか。もはやこの謎は、忘却と歴史の波に洗われ、もはやだれにも解くことのできぬ謎になってしまった。
 切れ長の目をした光秀の肖像画は、ただ見る者を冷ややかに見つめ返すばかりである。(完)