プロローグ

 水の匂いには敏感だ。どこをどう歩いてきたかは分からないが、気づくと目の前に川が流れていた。右手に橋が架かっていて、時折車のライトが行き交うのが見える。もっと水面に近づこうと石段を下りた。
 河原に張りつくくさむらにしゃがみ込み、布製のトートバッグからガーデニング用のレンガを取り出すと、川に向かって力いっぱい投げた。
 さび色のレンガは、ごく短い放物線しか描かずに浅瀬に落ちた。そして水底の石とぶつかったのか鈍い音を立て、見えなくなった。
 来た道を戻りたくはない。そこから少しでも離れたくて、川沿いの遊歩道を南に向かって歩く。
 五月の川風を右ほほに感じながら、つい今し方自分の身に起こったことを懸命に思い出す。すでに断片化された記憶を繋ぎ合わせようとした。


「名前を聞いただけでは思い出せなかったけど、顔を見ればすぐに分かった。変わってないね。可愛いよ。いや綺麗だと言ったほうがいいかな」
 と、あいつは笑った。おぼろ月が頼りだったけれど、私にははっきりとにやついた顔が見える。
「それにしても、合言葉をよく覚えていたね」
 あいつはがねを外し、スーツの胸ポケットにしまった。そのしぐさは昔のままだ。
「テレビ局の人間は、補習なんて言葉使わないからげんな顔をしていたよ。大丈夫、取り次いだにはうまく言っておいたから。それにしてもよく僕を忘れないでいてくれた。君だけだよ。薄情なもんさ、みんな」
 みんな、という言葉を強調したかったのか、こわいろを変えたように聞こえた。プールの水が入ったときのように鼻の奥に痛みが走り、涙が出そうになった。悪びれることなく口から出た言葉は、軽く、あざけりを含んでいる。
 いったいどれだけの人間を地獄に落とせば気が済むのだ。
 コートのポケットに手を入れた。いつも持ち歩く護身用の催涙スプレーを握りしめ、あいつが近づくのを待った。
 記憶通りなら、左手を首筋に回してくる。
「君は優秀だった。だから僕は君に肩入れしたんだ。何だ、まだ持っていたのか。いまはそんなものもらっても嬉しくないだろう。大事に取って置いてくれたのは光栄だけど。そう言えば、どんなことでも相談に乗るって約束してたね。ただ、その前に経過した時間を埋めないといけない。そうか、だからそんなものを持って会いに来てくれたんだね」
 あいつの靴が砂利を蹴る音が境内に響く。一歩、二歩と近づき、愛用の煙草タバコの臭いを感じた瞬間、顔に向けてスプレーを噴射した。
 あいつは妙な声を出した。それを止めようと、レンガをこめかみ目がけて振り回す。手首が曲がるほどの衝撃が走ったのに、あいつは倒れなかった。
 左手でこめかみを押さえ、右手で私を掴もうと闇を探っている。目が見えず、舞台でもがく役者のだんまりを見ているようだ。
 私は背後に回って、今度は後頭部にレンガを振り下ろした。
 あいつは石段を前方に回転して落ちて行った。
 辺りに誰もいないのを確かめ、石段の下をこわごわ覗く。グレーのスーツだけが地面にいびつな形で放り出してあるようにしか見えなかった。
 目をらして見る。スーツは動かない。
 耳を澄ます。いまの季節に聞こえるはずのない虫の音がないに響く。
 急いで石段を下り、倒れたあいつの横を通り抜けたとき、また煙草の臭いがした。バッグの中のマスクを出して顔にはめると、一目散に駆ける。
 大きな道をひたすら歩いた。


 草の匂いのする土手を上がり、道路に出ると車のライトが目に痛く、めまいに襲われた。息が苦しく胸が痛い。頭が割れそうだ。でも病院には行きたくない。といって、このまま死んでしまうのはいやだ。
 はやくお布団に入って眠りたい。
 帰らなければ、私の家に。戻らないと、いつもの暮らしに──。

第一章




      1




 
 「どうだこの風情、まさに京都って感じがするだろう? もとみや大先生好みじゃないか」
 そう言いながらさわたりきよういちは、木枠の古風な窓を開けた。ベンガラごう越しに家の前の通りが見える。
 恭一は高校時代からの親友で、いまは経営コンサルタントをなりわいとしていた。
「確かに紅殻格子はいいな。だけど市内の京町家なんて……」
「嫌いなのか?」
「いや、僕は好きだよ。落ち着くし、クライエントだってほっとできるだろう」
「なら、いいじゃないか」
「よかないよ。そういう問題じゃなく、お前も知ってるように俺は金欠病なんだ」
「お医者さんがかかる病気じゃないな」
「あっ、いま、笑ったな。こうなったのにはお前も一枚んでるんだぞ」
 本宮けいろうは、京都府そうらくぐんせいちように「本宮心療内科クリニック」を開設している。そこを自宅兼クリニックにすることを勧めたのは恭一だ。ところが患者が来ない。慶太郎自身が他の心療内科の病院でアルバイトすることを考えるほどだ。恭一は三年我慢しろというが、それでは看護師としてクリニックのスタッフをしてくれている妻のすみ、九歳のたけるとの暮らしが立ちゆかなくなってしまう。その上、クリニックを建てた敷地は、澄子の父親のもので、家庭内においても慶太郎の立場は弱かった。
 起死回生のアイデアがあると、恭一が持ちかけてきたのが、京都市左京区田中S町にあるきようまちで開業する案だった。所有者が高齢で、町家を維持するのが難しくなっているのに目をつけた関東資本の会社が、簡易宿泊所にしたいといっている物件だった。ところが町内の住民が猛反対したのだ。時間を選ばず出入りする客のキャリーバッグを転がす音。路地での酒盛りやゴミ出しルールを無視したポイ捨てなど、宿泊所のある隣町内で起こっている外国人観光客とのトラブルを嫌ったからだ。幾度か話し合いが持たれたが計画はとんした。幸い所有者は経済的にこんきゆうしていたわけではなく、町家の維持に協力さえしてくれればいいのだと主張した。
 そんな話を聞きつけた恭一が、心療内科クリニックならどうだと所有者に打診したというわけだ。恭一は言う。所有者を助け、近隣住民の不安を解消できるなんて、本宮慶太郎にしかできない善行だと。
「まあ心配するな。お前は一流の心療内科医だ。ここで開業すれば必ず芽が出る。『本宮心療内科クリニック、まりこういん』、名前も美しい」
「通り名も素敵だし、この家もいい感じなのは率直に認める」
「京大も近い。悩める秀才たちが多くいるはずだ」
「ああ、ニーズも高いと言いたいんだろう。けどな、どうしたって先立つ物が……それに精華町のクリニックはどうする? 元手がかかってるんだ」
 慶太郎は格子を見ながら、畳の上にあぐらをかいた。時折南に向かって車が通る。どうやら前の道は一方通行らしい。
「話、聞いてたのか? いま鞠小路院って言ったんだぞ。ただスケール感をかもし出しただけじゃない。慶太郎は週に四日、ここで診察する。残りの二日は本院。いまの患者数ならそれだけで何とかなる。アルバイトに出ることを考えてみろ。その何倍もここで稼げるって寸法だ」
 家賃などの経費を差し引いても、と恭一は強調した。
「お前のこうじようはいつもプラス思考で結構なんだが、信じてもいいのか」
 恭一は親指を立てた。分かりやすいボディランゲージだ。
「で、家賃は?」
「二〇万を切る交渉に入っている。当座必要な経費は、プライバシー保護の間仕切りの設置、診察用の椅子とか電子カルテ、レジスターなんかの設備に中古品を使うとして総額四〇〇万くらいかな。スタッフの募集はしないぞ。軌道に乗るまでは澄ちゃんに頑張ってもらう」
 恭一も慶太郎の向かいに座る。
「四〇〇万、か。痛いけど、想像していたよりは……いや、やっぱり無理だ」
 慶太郎は激しく首を振った。
ゆうずうしてもいいぞ」
 恭一が目をそらし、短い前髪をかき上げた。何かを隠すときのしぐさだ。詳しい理由を語りたくない心の表れにちがいない。
「四〇〇万円もの大金を、お前が俺に?」
 と、格子越しに外を見ている恭一の目を覗き込んだ。
「さすが親友だ、ありがたく使わせてもらうよって、どうして言えないかな。俺はクライエントじゃないんだ。その心の奥底まで覗き込むような目、やめろ」
「まさか。クライエントには優しくいつくしみの目で接してますよ、だ。お前の優しさには裏がある。さっさと吐いて楽になれ」
 慶太郎は薄目で恭一の目を見る。
「分かったから、その目はやめてくれ。いいか、患者が週に一度、カウンセリングを受けにくるとする。保険適用だとややこしいから非適用だとして考えるぞ。お前は六〇分で八千円という金額を提示しているから、一日六名診察で日に四万八千円稼ぐことになる。ここでは週四日で一九万二千円、月七六万円。精華町での診療を足しても一〇〇万円に届かない。家賃と経費をさっ引けば四〇万円ほどだ。そこから俺が返済を迫ったりしたら、澄ちゃんに怒られるよ」
 恭一は大げさに身震いしてみせた。彼は、慶太郎以上に澄子を怖がっている。香港スターのようにキリッとした目のときと、観音様のように優しいまなざしのときがあって、そのコントラストにゾッとするのだそうだ。
「なんだ、そもそも起死回生のアイデアじゃないってことじゃないか」
「いや。ここにクリニックを構えてもらって、ある仕事をお願いしたい」
「面倒はごめんだぞ」
「実は澄ちゃんに、了解を得ている」
「何だって」
 と慶太郎の発した声に慌てた恭一が、窓を閉めた。
「閑静な住宅街だ。防音設備も必要なようだな」
「ああ、すまん。ちゃんと説明してくれ」
「毎読新聞のみつからの話で、毎読テレビで『関西ウエーブ』って情報番組があるんだけれど、精神科医のコメンテーターを探してる」
 恭一は、自分の友人の部下にあたる社会部の新聞記者、光田ようへいの名前を出した。そのサツ回り記者をしている光田とは、精華町のスーパーマーケットのアルバイト従業員が自殺した事件で知り合った。彼の風貌は、将棋のよしはる九段にどことなく似ていた。
「まさか、俺に……」
「華やかな場が苦手なのはよく知ってる。しかし契約金を含めたギャラがいい。しかも週一回、ここからの中継でいいんだ」
 古都の町家に開院した心療内科医として慶太郎を売り出す、と恭一は言った。慶太郎がテレビに顔を出すことで、宿泊施設ではなく、住宅や店舗として古民家リフォームを手がける建築メーカー、住設器機メーカーがスポンサーとなるのだそうだ。
「もうそこまで話が進んでいるのか」
 座敷から見える居間を眺める。
「複数の企業のニーズと利害を結びつけるのがコンサルの仕事だ。何のおもわくもなしに、この物件に俺が飛びつくはずないだろう。澄ちゃんに楽させてやれよ、慶太郎」
 女房孝行も善行の一つに加えろ、と恭一が微笑む。
「うまくいくかなぁ」
「それはお前のやる気次第さ。何にしても、心こそ大事なんだろう?」
「意味が違う。いや、気持ちの問題は確かに大きいかも」
「決まった。ここを慶太郎飛躍の拠点にするぞ」
 恭一がハイタッチを求めてきた。
 慶太郎はそれに力なく応じた。


 さすがに古民家の改築専門業者だけあって、二週間ほどでクリニックの体裁は整った。
 玄関を入ると正面に玄関間と呼ばれる三畳間があり、右手に六畳の待合室、左手手前の六畳が受付で、奥座敷の八畳が診察室だ。そこに大きめのガラス戸をめ、庭を眺められるようにした。えんと小さな池、とうろうの周りにツバキ、ヤマボウシ、ナンテンが植えられている。緑が目に入るだけで、カウンセリング中もクライエントの気持ちを和ませてくれるにちがいない。
 ただ不便なところもある。京町家は、「通り庭」と呼ばれる土間が玄関から裏庭までを貫く構造が多い。ここもそうなっていて、慶太郎と澄子が使う分には支障はないものの、土間に台所があった。
 クリニックでは、飲み水用の浄水システムと、除菌に有効なすいをつくる電解装置が必要で、仕方なく診察室に水道を引いた。
「みるみる形になってきたな」
 恭一が嬉しそうに診察室から裏庭を眺めている。
「恐ろしいくらいだ。昨日澄子が来て、二階もなんとかしてほしかったって言ってた」
「予算がないぞ。でも、そんな悪くないだろう、古いってだけで」
「エアコンがないのがな。冬はいいけど、夏は」
「ほとんど診察室にいるんだしさ。休憩ならここでできる」
 恭一は部屋を見回した。
「澄子は今後のことを考えているんだ。将来スタッフを雇ったときの控え室は二階になるだろうって」
「気が早いな。焦らず、まずは」
「三年頑張れ、なんて言うな」
 慶太郎が恭一の言葉をさえぎるように、刀に見立てた手刀を振り下ろす。
「……おう、そうだ。お前木刀もいるんじゃないか。いつものやつ、ここでもやるんだろう」
 と恭一が話をそらすように言ったのは、学生時代剣道部に所属していた慶太郎が、クライエントに向き合う前に行うルーティンのことだ。力一杯素振りをすると、精神が落ち着き集中力が増す。ただ自慢できるような戦績はなく、大きな試合への出場経験もない。長身なだけで、すばしっこい相手に歯が立たなかった。その挫折感を無駄にしないよう心がけている。過去のマイナスをいまに生かせば、プラスに転じられると信じているからだ。現在の頑張りで、過去を変えたかった。
「忘れてたよ。ここでも、クライエントの診察をするんだったな」
 冗談口を叩いた。
 そのとき、玄関のインターフォンが鳴った。
 隣の受付室に行き、壁のモニターを見る。
 今どき珍しく髪をきっちり横分けにした若い男性だった。モニター画面では二〇歳代後半に見えた。
 返事した慶太郎に男性は、
「京滋エアシステムズの営業で、ぼりと言います」
 と胸のネームプレートを示した。そこにあったのは、間違いなく医療用空気清浄機システムで関西屈指の会社のロゴマークだ。
「ちょっと待ってください」
 慶太郎は玄関に行き、古堀を玄関間にしようじ入れた。彼は手際よく名刺を差し出し、改めて名乗り、自分は市内の丸太町通り以北エリアの担当なのだと説明した。
「外から見て、ここがクリニックだとよく分かりましたね」
 慶太郎は受け取った名刺を見ながら聞いた。まだ看板を出していなかったからだ。
「心療内科医の本宮慶太郎先生でいらっしゃいますよね」
「私をご存知なんですか」
 ジャケットの胸ポケットから名刺入れを出そうとしていた慶太郎の、手が止まった。
「いや、この業界も情報収集が鍵みたいなところがありますんで」
 そう言って白い歯を見せた古堀の手には、すでに製品パンフレットがあった。表紙には最新型という文字が大きく印刷されている。
「ちょうど空気清浄機システムを考えていたところなんですよ。グッドタイミングです」
 診察室の空気には神経を使わないといけない。人は精神的に弱ると、ほとんどの場合において免疫システムが正常に働かなくなる。そのため、普段は何のことはない細菌類によって感染症を引き起こすことがある。クライエントの健康のために空気清浄機は不可欠なのだ。
 精華町のクリニックに導入しているものと同じ空気清浄機を購入しようと思ったが、古民家であり床が畳であることを考えると、同様とはいかないだろうとちゆうちよしていたのだった。
「最新型のクリーンルームモードだと、患者さんが安心できるレベルまで除菌できます。ことに年季の入ったお屋敷には最適ではないでしょうか」
 古堀は、慶太郎の懸念を察知していたかのような目付きをして、詳しい説明をし出した。
 慶太郎は機械にそれほど詳しくない。しかし古堀という青年が誠実な人柄なのかを見極めることなら得意分野だ。
 パンフレットには手術室なみの無菌状態を実現と書いてあるが、彼は「患者さんが安心できるレベルまで除菌できる」という表現にとどめた。つまり誇張表現をあえて避けている。そもそも無菌状態など特殊な設備の元でしか無理だ。それを踏まえ、自社製品であるにもかかわらず律した。嘘をついてまで物を売るタイプではない。
 またしっかり慶太郎の目を見て話し、笑顔のとき口元だけではなく、まゆ、目、頬と顔全体を連動させて動かしている。心の中からの笑顔か、それとも訓練の賜物なのかは分からないけれど、やはり自分に嘘がつけない性格であることに間違いはない。
「古堀さん、見積もってもらえますか」
「えっ」
 説明の途中だった古堀が、言葉を詰まらせた。
 驚く古堀にかまわず、
「表の部屋が待合室で、こっちが受付と診察後の待機部屋、そして奥が診察室になってます。すべて畳部屋で、ほとんどが土壁です」
 慶太郎が受付の引き戸を開けた。
 そこに恭一が立っていた。聴き耳を立てていたようだ。
「こちらは経営コンサルタントの沢渡さんです」
 慶太郎が紹介すると、二人は名刺交換した。
「できるだけ勉強してください。本宮先生は、儲けをまったく考えない希少動物みたいな精神科医なんで」
「よせ」
「だってそうじゃないか。放っておくと患者のためにどんどん予算が膨らみ、破産してしまいかねないんだからな」
 自分がお目付役だから見積書は自分に送ってくれと、恭一が言った。
「はい、分かりました。開業前に破産はいけませんからね」
 古堀は苦笑した。




      2




 古堀たかあきやましなの本社から、五条河原町のアパートに戻ったのは午後八時少し前だった。会社から貸与されている軽自動車を駐車場に入れ、重い足取りで階段を上る。無意識でうっかり手すりを掴んでしまった。鉄製の手すりは塗料がはげて、手のひらにさびがつくのだ。洗っても残る鉄臭さに気が滅入る。
 三階の三〇一号室を見上げるが、予想通り電気はいていない。さらに滅入る気持ちを奮い立たせて階段を駆け上がった。
 わざと靴音を立てドアの前で立ち止まった。キーホルダーをせわしなく振りながら鍵を差し込み、室内の音に耳を澄ます。やはり反応はなかった。
 小さくため息をつき、ドアを開いて中に入った。
「ただいま。姉ちゃん、帰ったよ」
 電気のスイッチを押して、キッチンリビングの奥にある和室に向かって声をかけた。
 部屋が明るくなると、春になってもたつ布団はそのままで、そこに腰まで入った姉のともが、だらしなく座椅子にもたれている姿が見えた。
 リビングテーブルには食べ終わったコンビニ弁当の容器と飲みさしのコカコーラのペットボトル、スナック菓子の空袋が乱雑に放置されている。
 子供の頃の友美はきれい好きの上、几帳面で神経質だった。それだけに目の前の光景が孝昭の目には、とても荒れているように映る。
「具合はどう?」
 どうせすぐに返事はない。孝昭は、残ったコーラを冷蔵庫にしまい、弁当の容器はさっと洗って資源ゴミの袋へ捨てた。
「夕飯はまだだろう? 俺もまだだから適当に作るよ」
 と言ったものの、焼きそばを作ることは決めていた。早くて簡単で、何より友美の好物だからだ。
 高校卒業と同時に滋賀県大津市から、いまの会社に就職、以来自炊をしてきた孝昭は、料理が苦にならなかった。手際もいいほうだと思う。ただ三〇歳にして、その腕前を披露する相手がもっぱら姉だという点が問題だった。
 九年前、就職して三年が経ち、やっと仕事を覚えた頃、突然友美がここに転がり込んできた。実家の両親と喧嘩して飛び出したのだ。いさかいの理由は分かっている。
 友美は高校一年の六月に不登校となり、そのまま退学した。それから二六歳になるまで引きこもり生活を続けていた。工務店を営む父、経理事務をする母を手伝うこともあったが、だいたいは部屋でフェルト手芸をしていた。部屋中フェルトでできた猫や犬でいっぱいになっていたのを、高校生だった孝昭もよく覚えている。
 元々友美は子供の頃から体が強いほうではなかった。すぐに風邪をひいたし、中学三年のときは二週間大津総合病院に入院している。病名は「起立性調節障害」だった。その病気がどういうものなのか、五つちがいで小学四年生だった孝昭にはよく分からなかったけれど、一時は立って歩けない状態だった姉を心底心配した。もしかしてこのまま退院してこないのでは、と怖かった。
 だから友美が、自分のアパートを頼ってきたのをむげに断れなかったのだ。友美は友美で、申し訳なく思ったのか、実家での引きこもりが嘘のように、家事全般をこなし弁当まで持たせてくれた。
 少し経って、会社がスポンサーをしている女子プロ野球チームを応援しに球場へ行ったとき、ある女性と知り合った。しかし彼女は交際し始めて間もなく、友美の存在を知ると「姉弟の間に、私は入れない」というメールを残し、その後連絡が途絶えた。
 その一件で、友美との関係が傍目には異様に映っていることを思い知ったのだった。以後、誰とも交際はしていない。
 そんな友美が、また引きこもり始めた。
 家事もできなくなり、外出は歩いて二、三分先にあるコンビニエンスストアまでだけとなった。
 孝昭はキャベツを切りながら、今日知り合った「患者のために破産する」という医者の顔を思い浮かべていた。
                      〈つづく〉