第七章

 
 「今年もよろしゅう頼んます」
 四畳半の茶室の中で、そうきゅうみつひでに向かい、気さくに話しかけた。
 むらむらと湧き起こった腹立ちをまのすけは抑え込む。宗及の振る舞いは礼を欠いているが、以前、当の光秀にたしなめられてからは目をつぶるようにしている。宗及はのぶながにも茶を教えている天下第一の茶人で、光秀の茶の師でもある。宗及はそういった、武家の論理とは異なる序列でもって光秀と対峙しているのだと無理矢理理解した。
 てんしょう十年正月、左馬助は坂本にいた。
 正月の光秀は特に忙しい。づち城にやってくる諸大名の取次を果たさねばならないからだ。特に気を遣ったのは、大和のつつじゅんけいだ。正式に信長に帰参した時期が遅いため、万が一のことがあってはならぬと意気込んで信長との橋渡しに努めた。結局たいなく取次の役目を終えて安土城から下がると、息もつかずに本拠である坂本へと帰還し、部下たちの正月の挨拶に当たった。そんな光秀の手伝いとして控えている。
 堅苦しい挨拶ばかりの日々の中、光秀より茶会に出るようにとの指示があった。本来は茶の道に通じているさいとうとしみつの役目だったのだが、利三は別の仕事――ちょうの使者との折衝――に忙殺されてそれどころでなくなってしまい、左馬助にお鉢が回ってきたらしい。だが、左馬助は茶の作法をまるで知らぬし、そもそも茶や連歌といったものを軽蔑してすらいる。己には不適任と一時は固辞したが、他に人がおらぬと言われてしまい、結局は受けた。
 何も言わず、地蔵のように四畳間の端で口をつぐんでいると、部屋を見渡した宗及が感嘆の声を発した。
「それにしても、ええでんな、今日の工夫は。特にあそこの花差しは見事なもんや」
 梁にかかる花差しには、一輪の花が咲いた梅の枝が差してある。
「ああ、今回の茶室のあつらえはせがれに任せました」
「ほう、じゅうろうはんが。なるほど、腕を上げられましたなあ。今度、褒めておかなあきまへん」
 茶の約束事などまるで知らぬ左馬助からすれば、梅の枝の良し悪しなどわからないばかりか、この茶室で飾られている梅の花などは、少々嫌味な気がしてならない。どうせなら満開の枝を切ってくればよいものを、五分咲きで、しかも一輪しかない枝をわざわざ選んでいる辺りに取り澄ました感がある。これを良しとする茶の美意識とやらに馴染めない左馬助がいた。花といえば枝をたわませるほどに咲き乱れた姿が至高だろう、と反感を抱く左馬助など初めからいなかったかのように、宗及と光秀の会話は重ねられてゆく。
かまはじめにお呼びいただき、恐悦至極や」
「いえ、師匠を呼ばぬわけには参りますまい」
 光秀が応じると、それまで黙りこくって宗及の横にあった、連歌師のさとむらじょうが口を開いた。
「ご相伴にあずかり、ありがたい限りでございます」
「いえ、お二方は常々当家のため、うちの倅のために力を尽くして下さっております。ありがたい限りでござる」
 宗及も紹巴も、ともに十五郎の師匠だ。
「ときに」宗及の目が光った。「もしかして、ここんところ、織田はんは戦を起こそうとしてはるんやないかと思うんやけど、光秀はん、何かご存じやあらへんやろか」
 光秀は小さく首をかしげて答えとしたが、紹巴がなおも疑問を発した。
「ここのところ、耳に入ってきますな。近く戦があるのではないか、と」
 宗及は堺の大商人であり、紹巴は連歌師として様々な大名家や公家とも親しい付き合いがある。どちらも独自に情報網を持っており、馬鹿にはできない。
 だが、光秀はなおも首を横に振った。
「さて、まだ、拙者は話を聞いておりませぬがな」
 しれっと嘘を述べた。
 なぜ嘘とわかるかといえば、左馬助は光秀と共に、信長の意思を耳にしているからだ。
 この正月、信長は拝謁に臨んだ光秀たちに対し、こう宣言した。
『今年、武田を滅ぼすつもりぞ』
 天正三年のながしのの戦を境に、武田は少しずつ求心力を失っている。近隣くにしゅうの離反、有力家臣の没落を経て、かつて天下に存在感を示していた大大名は、岬に迷い込んだ老いた巨鯨のように出口を失い、時の波間に浮かんでいた。
その間、信長は機会を待っていたのだろう。武田の内部で何か大きな動きが起こったその時を――。いや、信長のこと、あるいは武田家内部に何か楔を打ち込んだのかもしれない。
『用意を怠るでないぞ』
 信長の言を直に聞いていた左馬助からすれば、何も知らぬとばかりに白を切る光秀の腹芸に舌を巻くばかりだった。なおも何か言いたげにしている両人を前に、光秀は薄く微笑んだまま茶を用意して二人の前に差し出した。茶を前にあれこれと言葉を並べるしつけを思ったのだろう、二人は同時に茶碗を手に取った。
 口をつけたのち、ほう、と紹巴は声を上げた。
「結構なお手前で――」
 だが、宗及の顏は浮かない。
 茶碗を音もなく床に置き、口を懐紙で拭うと、宗及は、あきまへん、と口にした。
「光秀はんの今日の茶には迷いがあられますなあ。常々、ご注進しておることや。『茶会の場に表での悩み事を持ち込むことなかれ、茶に己の苦悩を混ぜ込むことなかれ』ってな。この光秀はんの茶には、わずかな雑味がある」
 紹巴は空になった己の茶碗と、茶の残る宗及の茶碗を見比べた。
「そんなことまでおわかりとは、さすがは宗及殿」
「己の得意にはうるさいもんや。紹巴はんも連歌のことになれば、これくらいのことは分かりますやろ」
 まあ、確かに、と頷いた紹巴を横目に、宗及は光秀をきっと見据えた。その透徹した目は、部屋全体を包む。逃げ場がない。
「光秀はん、色々とお悩みのようやな。あえてわしは何も聞かんけど、茶に向かう時くらいは忘れたほうがええ」
「申し訳ありません」
「いや、謝らなくてもええんや。光秀はんの問題なんやから」
「そう言っていただけますと、心が晴れまする。――今年もなにとぞご教示をいただけますれば」
 苦い後味を残して、天正十年の釜始めは終わりを告げた。
 宗及たちが退出した後も、光秀は茶室の中で茶を練っていた。ちゃせんで茶碗の中身をかき回し、釜から湯をすくい出して一服の茶に仕立てる。ただそれだけのことを何度も繰り返し、何度も何度も吟味している。それはまるで武芸者が剣術の型を体に沁み込ませている姿と重なり、ようやく左馬助は茶の何たるかを知ったような気がした。
 そんな最中、茶碗の縁から口を離した光秀は、左馬助に曰くありげな顔を向けた。
 何か用があるのかと構えると、光秀はぽつりと言った。
「左馬助、武田攻めの際、我らは何が何でも功を挙げねばならぬぞ」
「は? それは一体――」
「何も言うてくれるな」
 光秀は孫でも慈しむかのように手に持っている茶碗を腹に当てて撫でていた。ややあって、痛む腹を抱えているのだということに気づいた。
「殿、お体が悪いのですか」
「五十を過ぎれば悪いところなどいくらでも出てくる。気にするでない。されど、時がないのは事実であるな。今すぐどうこうという話ではあるまいが、老境に至るということは、いつ死んでもおかしくないということでもある」
 瞑目した光秀は、絞り出すように声を発した。
「老い支度をせねばならぬな。出来る限り、急いで」
 光秀の言葉は、いつまでも左馬助の耳の奥で響いていた。


 武田征伐は、結果として明智家中に軍功をもたらすことはなかった。
 武田が内紛を起こしたのを知った信長は、それに介入する形で進軍を始めた。だが、先発した織田のぶただ隊が瞬く間に武田を追い詰めてしまった。これには信長も「余り急いで攻めるな」と書状で注意を与えたらしいが、それでも信忠隊が進撃を緩めることはなかった。結局、信長本隊が武田攻めに出立した頃には武功らしい武功は残っていなかった。
 信長について下向した光秀たち明智衆は、信忠隊の通った道を進むばかりだった。わずかな小競り合いはなかったわけでもないが、比較的緩やかな軍旅であった。
 信長は信州法華寺にて武田攻めの仕儀を見届けることと決し、光秀たちもそれに従い、同じく法華寺に逗留することとなった。
 遠征とは思えぬほど穏やかな日々の中を過ごしていた左馬助であったが、ある日、光秀と共に信長に呼ばれた。
 光秀と共に、信長の私室として使われている法華寺講堂の間に足を踏み入れると、仏壇を背に座る信長が、物憂げにきょうそくに寄り掛かっていた。小姓衆やうままわりの姿はない。大きな庇のおかげで日の光が一切差し込まぬ部屋の中は、まるで夜のように暗く、ひんやりとした風がとぐろを巻いていた。
「光秀か」
 信長の声は乾き切っていた。
「はっ。御用でしょうか」
 光秀と左馬助は下段に座り、同じく平伏をした。すると信長は、わずかに口角を上げた。
「この戦、貴様の倅は来ておらぬのか」
「は、はあ・・・。十五郎には上方の留守居を任せておりますゆえ」
「そうか。まあよいわ」
 信長は脇息に肘をついたまま、まるで投げやるように言葉を放った。
「互いに、歳を取ったな」
「は・・・?」
 光秀はなんと述べたらよいものか逡巡しているようだった。その間にも、信長は楽しげに続ける。
「そう構えるな。当たり前のことを申しておる。わしも貴様も年を取った。ただそれだけのことぞ」
 目の前の信長は、ここ数年で随分老いた。結っている髪にも白いものが目立ち始めており、一本一本の髪の毛が痩せ始めている。思えば皺も増えた気がする。だが、それだけに大きな鼻と意志の強そうな強い眼光だけが目立つようになった。それに、これは軍旅のゆえかもしれないが、かつては好んで着ていた片身替わりではなく、穏やかな茶色のかたぎぬというなりだ。
 信長とは何度も相対しているが、何度顔を合わせても、この男の理路を掴むことができない。この老人の口から何が飛び出すか、と構えていると、信長は薄く口角を上げたまま、こう口にした。
「貴様の隠居を認めてやろうと思うてな」
まことでございますか」
「ただし、二年後ぞ。やりかけの仕事を残したまま、隠居はならぬ」
「と、いうと――?」
 信長は鼻を鳴らした。当たり前のことを聞くな、と言いたげだった。
「長宗我部の件ぞ。もうにも我が織田家にもよい顔をするとは、あれはまさに蝙蝠であったな。この問題を解決せい。でなくば隠居は許さぬぞ」
 光秀は絶句した。
 長宗我部の織田・毛利両属問題は、出口が見えない。この取次を担当している斎藤利三は、ここのところ顔色が悪い。目の下に隈を作り、青白い顔をしてぶつぶつと呟きながら御殿の中を歩いている姿を坂本城でも見た。今、斎藤は上方に控えており、何か動きがあれば知らせてくるはずだが、何もやってこないということは、長宗我部との交渉がはかばかしくないのだろう。
 光秀は息を呑み、頭を下げた。
「畏れながら」
「なんぞ。申してみよ」
「目下、長宗我部は気炎を上げたままでございます。とても交渉に応じるとは――」
「ならば、仕方あるまいな。取次に当たった者の首を落とし、長宗我部を攻めるしかあるまい」
 光秀の顏から血の気が失せた。
 取次に落ち度があった際に死を以てあがなわせるのは、広く行われている慣習だ。だが、今の信長は一般論を述べているわけではない。こうであり筆頭家老の斎藤利三を処断するとほのめかしている。
「それはできませぬ。斎藤利三はこれ以上なく明智家、ひいては織田家のために力を尽くし――」
「黙れ」
 信長は一喝した。
「わかっておらぬな、きんか頭。力を尽くしていると貴様は言うが、わしが求めているのは忠勤ではない。成果ぞ。それとも何か、貴様は飯が食いたいとき、火を起こすのが下手な余りに芯の残った飯を供した料理人を許すのか」
「そ、それは――」
「成果を示せ。さもなくば、出奔でも自死でも選ぶがよい。それが織田家中であろうが」
 天正八年のことだから、かれこれ二年ほど前のこと、信長はその働きぶりが怠慢との理由から、のぶもりはやしひでさだといった譜代の老臣たちに折檻状を送り付け、追放したり出奔に追い込んだりしている。誰よりも家臣たちに苛烈な態度を取る信長の姿を目の当たりにしているのが光秀であるはずだった。だが、この日の光秀は、その現実を受け入れられずにいるようだった。
 御意、と力なく述べ、光秀は立ち上がった。左馬助も遅れて立ち上がろうとしたその時、信長はそっけなく、声を発した。
「明智左馬助であったな。そなたは残れ」
「は・・・?」
「残れと言っておるのが分からぬか」
 光秀は恐ろしいものを見るように信長を見据えた。陪臣のみを謁見の場に残るように口にする。異例極まりないことだ。
「早う下がれ、光秀」
 追い立てられるように謁見の場から光秀が退出するのを見遣っていた信長は、ややあって、ふむ、と小さく声を発した。
「明智左馬助。貴様の武勲はよう聞こえておる。明智のため、そして織田のために力を尽くしておるな。常々、のぶずみからも話を聞いておるぞ」
 左馬助は深々と平伏した。あえて何も言葉を発することはなかった。なんとなくきな臭いものを感じていたからだ。先ほど、光秀に向けて放っていた固い言葉から打って変わり、信長の言葉に柔らかみが増している気がする。だが、左馬助は犬ではない。突然でつけられて身構えないほど、警戒が弱いわけではない。
 信長はくすりと笑った。
「貴様はどうやって、この戦国の世を渡ってきた」
「大して面白みのある話はできませぬが」
「よい。面白き話ならばとぎの者で間に合っておるわ」
 請われるがまま、ぽつぽつと、左馬助は己の来し方を話した。ろくな半生ではない。没落した国衆の息子で、一旗揚げようと親の許を飛び出した時には、従う郎党はわずかに一人という有様だった。最初は陣借りの日々だったが、出る戦出る戦負け続きで、碌に功を得ることができなかった。時には追いはぎで腹を満たし、落ち武者狩りで農民どもと利を分け合ったこともある。だが、そうした流浪の日々の中、少しずつ持ち前の勇猛さで名が知られるようになり、やがて抱えたいと言ってくれる国衆や大名も出てきた。そして、様々な大名家の許を転々とするうち、生涯の主君である明智光秀に出会った。
「ほう、あのきんか頭が、それほどよいものか」
「少なくとも、これまで出会った主君の中ではましなほうでござった」
 ふと、光秀が言っていた〝きょうの旗を振る〟という話を思い出していた。きっとあれは、光秀の実感であったことだろう。
「なるほど」
 膝を打った信長は後ろ頭を掻いた。
「のう、左馬助。少し、わしの話を聞いてみぬか」
「は?」
「貴様に頼みがあるのだ」
 初めて、信長の威圧で背中が震えた。この時、確かに左馬助の目には見えていた。信長の背後にうごめき、大きな口を開く化け物の姿が。


 四月の武田攻めは、武田当主かつよりの死を以て終結を迎えた。信長は子の信忠に、主を失って混乱する関東の平定を命ずると、上方へと戻ることに決した。信長本隊と共に、明智衆も上方に戻ることになった。結局この大戦で明智衆は特段の戦に巻き込まれることもなく、結果として戦功を挙げることもできなかった。
 左馬助は福知山に戻った。そして、これまでのように城代のふじと共に民政に当たる日々が戻ってきた。
 だが――。
「いかがなされた」
 福知山城の書院の間、机を並べて座っていた藤木から声を掛けられた。肩衣姿の藤木の手には、既に左馬助が確認し、署名をした書状があった。
「この書状、間違ってござるぞ」
 受け取ってみてみると、本来左馬助の名を記すべきところに、間違えて「明智光秀」と書いてしまっている。
「ここのところ、しくじりが多うござるぞ。どうなされた」
「疲れておるのやもしれぬな」
 左馬助は目を揉んだ。しかし、脈動と共にうずく痛みは、しつこく目の奥にこびりついている。
「ならよいが」藤木は心配げに顔を覗き込んできた。「あまり無理はなさるな。以前倒れた拙者が言うことではないが、政は長い目でやらねばならぬこと。短い間に根を詰めて当たることではないぞ。今日は拙者がすべて受け持つゆえ、今日はもう休まれるがよい」
 一度は固辞したが、結局は藤木の厚意に甘えることにした。
 左馬助の屋敷は、城を出て直ぐのところにある。城代という立場ならば城に住んだところで一向に構わないのだが、君臣の別をつける意味でも、あえて城外の屋敷に住んでいる。
 屋敷に戻った左馬助は、ある部屋を訪ねた。南向きの一番広い部屋で、縁側からは調えられた庭を望むこともできる。この屋敷でも唯一格天井を張り、華麗な花鳥図を配したこしだか屏風や四季折々の花を飾らせた絢爛の部屋だ。その縁側で、独り物憂げに庭を見遣っていた女人は、左馬助の姿を見るなり目を輝かせた。
「お帰りなさいませ、今日はずいぶん早くいらっしゃるのね」
「今日は早めに帰らせてもらったのです」
 横に座ると、女人は微笑んだ。その笑顔は、今は亡きつま殿とよく似ていた。
 この女人は、左馬助に下賜された光秀の娘、亀である。
 むらむらしげの子に輿入れしていたが、村重が謀反を起こしたのに際し実家に帰され、こうして左馬助の妻となった。
『くれぐれもあれを頼む。不幸せな結婚をさせてしまった』と光秀に頼まれてからというもの、光秀からの預かり物と心得、何よりも誰よりも大事に扱っている。今でも妻ではなく明智の姫様として扱っている。実際、亀とは二十ほど歳も離れている。親子ほども年の離れた夫婦は珍しくないが、主君の大事な預かり物という意識もあって、結局枕を交わしてはいない。
 そんなままごとの如き妻は、悲しげに微笑み、縁側に伏せてあった団扇を手に取った。
「今日もお疲れさまでした」
 仰ごうとしたのを押し留めた。
「なりませぬ。姫様とあろうものが左様なことをなされては」
「――そう」
 亀は、縁側にあった貝合わせを指した。
「やりませぬか」
「申し訳ございませぬ。拙者はこうした遊びをやったことがなく・・・」
 生まれて初めて、みやびごとを遠ざけてきた来し方を恨んだ。
 少しうろたえた亀は、ややあって、こう言った。
「ここのところの父上のご様子を教えてくださいませぬか」
 お安い御用だった。福知山に戻ってもなお、光秀の様子はたびたび寄越される書状からも窺い知ることができる。
 京に戻った光秀は、織田信忠と共に武田を攻めた同盟者の徳川家康を歓待するという御役目につき、みぞや明智十五郎などを安土城に呼び、その準備に当たらせているという。
「まあ、十五郎が」
「なんでも、堺で料理の食材探しに精を出しているとのこと」
「あの子、昔はおどおどしていたけれど、すっかり立派になったようね」
 亀は目を細めた。十五郎は弟に当たる。口ぶりから察するに、仲の良い姉弟であったのだろう。
 十五郎も、家臣たちをうまく用いて食材を集めて回っているという。溝尾の文には、これで明智も安泰、と嬉し気に書きつけていたが、その文句を見た瞬間、胸を押されたような圧迫感に襲われた。
「そういえば――」亀は心配げに眉をひそめた。「父上は大丈夫なのですか」
 問いの意味がわからずにいると、亀は続けた。
「いえ、こんな噂があったものですから」
 信州法華寺でのこと。武田の討伐が滞りなく終わりを告げ、信長や家臣一同が居並び喜ぶ中、光秀の発言が物議を醸した。『これで我ら家臣の骨折りが報われるというもの』と感慨深げに述べた光秀に、信長が激高した。『いつ、貴様が骨を折ったというか。言うてみよ、きんか頭が』。そう叫び、光秀の襟をねじ上げ、そのまま縁側にまで引きずり回すと、寺の欄干に光秀の頭を何度も打ち据えた。徳川家康のとりなしもあってその場は収まったものの、光秀は頭から血を流す怪我をしたという――。
「左様なことがあるわけありませぬ」
 即座に左馬助は否定した。もしこんなことがあれば、ほぼ常に光秀についていた左馬助の耳に入らぬわけがないし、信州にいる時分に噂になっているはずだ。だが、変に信憑性があるのも気になった。信長は時折光秀のことを〝きんか頭〟と呼ぶ。光秀の頭頂が薄くなり、つきやきが広く取られていることに対する信長なりのあだなのだが、この呼び名がしっかりこの話の中にも織り込まれている。
 どこでその話を? そう聞くと、亀は答えた。
しば家中から贈り物が届きました折、同道していた羽柴のお侍から話を聞きました」
 羽柴秀吉は毛利征伐の最中で、武田討伐には参加していない。贈り物を届けてきたという羽柴の家臣は安土城下の屋敷に詰めている者だろう。ということは、安土城下では既にこの噂が飛び交っているということになる。
 しばらくして、左馬助はあることに気づいた。
 なぜ、羽柴家から我が家に贈り物がなされるのだ、と。
 左馬助が陪臣身分に過ぎないにも拘わらず、これまで何の往来もなかった羽柴家から突然付け届けがなされた意味について考える。だが、いくら思いあぐねても、考えうることはただ一つ、武田攻めの際、信長から申し渡された話がどこかから洩れているとしか思えない。あの話はまだ誰にも話していない。光秀に対しても、あえて嘘をついた。己の中で整理がつかなかったがゆえでもあるし、下手に光秀に説明すれば、最悪誅殺される恐れもあった。
 ふと左馬助は、どんどん己の囲いが狭まってゆくような気配に襲われていた。
「いかがなされましたか」
 亀が心配げに覗き込んでくる。
「いえ、なんでもございません。姫様にご心配をかけ、申し訳ございませぬ」
「何を言うのですか」亀は少し語気を強めた。「わたしは姫ではありませぬ。左馬助様の妻でございます」
 何度も亀に言われてきた言葉だ。だが、今、この言葉にほだされるわけにはいかない。
 左馬助はその場で頭を下げた。
「姫様、拙者は光秀様に恩を受け、今は家老格にまで引き立ててもらいました。拙者はそれ以上を望みませぬ」
「何を言っておられるのですか」
「何も問わずに聞いてくだされ」
 左馬助は仏様にそうするように、己の罪を口にした。
「拙者は今、不忠と宿願の際に立ってござります。もし、姫様が拙者の妻とおっしゃるのならば、明智家に対して不忠を働く拙者を許さねばならなくなります。姫様をようなお立場に立たせるわけには参りませぬ」
「何をおっしゃっているのかはわかりませぬが」亀ははっきりと述べた。「わたしは左馬助様の妻でございますれば、必ずや地獄の底までもお付き合いいたしましょう」
「なりませぬ」
「いいえ。そうさせてください。前の婚家では果たせませなんだ妻の役目を、全うさせてくださいませ」
 この姫は荒木村重の子に嫁いだ。本来なら荒木家と運命を共にするはずであったが、村重たちの配慮により明智家に帰された。男からすれば、村重の取った行動は寛大な態度そのものだろう。だが、女から見た時、善意によってなされたこの行動が残酷な仕打ちに映っているのではないか、ということに初めて思いが至った。
「嫁ぐにあたって、わたしは明智の名を捨てました。けれど、前の婚家ではわたしを実家に帰しました。結局わたしは、荒木家にとっては客人に過ぎなかったのです」
 だから、と亀は言った。
「わたしを、左馬助様の妻にしてくださいませ」
 こんな時、己が武芸一辺倒に生きてきたことを悔やむ。もしも少しでも言葉を用いるすべを知っていたならば、心の中で渦を巻き、満ち溢れている思いを形にできるのではないか、と。だが、こつものには粗忽者なりに言葉を探し、己の思いを形にしてみようとした。
 だが、左馬助のささやかで重大な試みは、部屋の中にやってきた小姓によって阻まれた。
 一大事でございます、と足音高くやってきた小姓に、左馬助は苛立ちをぶつけた。
「何ぞ、騒々しい」
 申し訳ございませぬ、と謝る小姓は顔を真っ青にしている。
 何かあったか、と身構えると、小姓は首を垂れた。
「殿より早馬でございます。至急、安土城に上がるようにと」
「なんだと?」
 招集自体は珍しくはない。だが、その場合、余裕を持った日程を提示するのが光秀流だ。だが、この早馬では至急とある。
 亀と目が合った。亀はゆっくりとかぶりを振る。わたしのことはいい、と言いたげだった。
「申し訳ございませぬ、姫」
 頭を下げた左馬助は、縁側から立ち上がり、亀の居所から飛び出した。


 安土城下の明智屋敷はすっかり沈み込んでいた。門番からして陰鬱な表情をしており、門からは陰気な気配が漏れている。やはり何かあったかと訝しみながらも、左馬助は草鞋を脱いだ。
 旅の垢を落とすのもそこそこに、左馬助は屋敷の奥にある謁見の間へと向かうと、既に上段の間に光秀の姿があった。肩衣姿の光秀は、胡坐を組んで腰を折り、床を力なく眺めていた。その座り姿はまるで老人のようだった。いや、これまでの光秀の溌溂とした姿こそが異常だったのだと考えなおす。光秀は五十を越している。むしろ、鎧兜に身を包み大音声を発するあの姿のほうが異常であったのだと思い知らされた。
「参りましたぞ、殿」
「――早いな、左馬助」
「〝いざ鎌倉〟は家臣の心がけでございましょう」
「そなたらしいな」
 力なく笑う光秀をよそに、左馬助は下段に腰を下ろした。
「いかがなさいましたか」
 問うと、光秀はぽつりと答えた。
「家康殿の饗応役を外された」
 多少は驚いたが、それがどうした、というのが左馬助の本音だった。お役目を下ろされたこと自体はくじたるものがあるだろうが、折々の事情もある。長い奉公の間に理不尽な配置の変換や任の変更などいくらでもあっただろう光秀が道理をわきまえていないわけはなかった。
「何があったのですか」
「・・・話さねばなるまいな。饗応の途中、信長様に呼び出された」
 少々饗応の内容が豪華すぎ、家康との膳が同格であることに不満を示したものの、信長は光秀の取り仕切りに一定の評価を示した上で、毛利と戦っている羽柴秀吉から援軍要請が入ったため、明智衆を向かわせることとした、と通告してきた。
「それ自体はよかった。たんを治める我ら明智衆が、羽柴殿の救援に当たるのは当たり前。そして、軍事に専心するために饗応役を外されるのも、また当然のことよ」
「何があられたのですか」
「十五郎を、饗応役の後添えにと願ったのだ」
 光秀は信長に、十五郎の働きぶりを説明した。堺に逗留し、、自ら食膳の内容を改め、家臣を差配している旨を述べ、あの息子ならば、饗応のお役目を十分に果たすはず、と力説した。
 光秀からすれば、今一つ覚えめでたくない息子を引き上げようとしたのであろう。
 だが、信長は首を振った。
「信長様はこうおっしゃられた。『ならば、貴様の倅は切腹ものであるぞ。わしの食膳の鯛が腐っておったのだ。貴様のこれまでの武勲に免じて胸に秘めておったが、貴様の息子ならば容赦せずとも好い』とな」
 そんなことはあり得ない。仕入れの段階で鯛が腐っていたとしたら、料理人や毒見役がそれに気づくはずだ。どう考えても鯛が腐っていた云々は、信長の空言であろう。
 無論、それに気づかぬ光秀ではなかった。『なぜ信長様はこうも十五郎をお嫌いになられるのですか』と問うた。
 光秀は憂いの色を深くした。
「信長様は、こうおっしゃったのだ。『貴様の倅は孵らぬ卵である』とな」
「孵らぬ卵――」
「信長様は、こうおっしゃった。『わしは、力なき者を家臣に置くつもりはない。貴様を傍に置いたのは、忠勤ぶりを買ってのことではない。毎回、わしが望む以上の成果を挙げてきたからぞ。わしの役に立ちさえすれば、泥棒であろうが不忠者であろうが構わぬ。だが、力なき者だけはいかぬ。左様な者を近くに置いておくほど、わしは甘くはない』とな」
 ようやく、信長という男のことを呑み込めた気がした。
 信長は才能、才覚を愛している。門閥や家系などは一切考慮に入れない。ただ、己の覇道の役に立つ者たちを欲しているだけだ。思えば、信長の周りには、門閥や家系に恵まれぬ者も多い。たとえば津田信澄は、かつて信長に背いた信長の弟の子だ。その経歴を嫌い遠ざけるのが常だろうが、信長は信澄を愛し手元に置いた。それはひとえに、信澄が優秀であったからだ。それに、羽柴秀吉もそうだろう。あれはもともと足軽、それどころか農民の子であったという噂さえある。本来なら大名の近臣としてこうできるような立場ではない。確かにしばかついえながひでという譜代の者はいるが、彼らはおしなべて優秀な者たちだ。功を挙げぬもの、己の地位に安閑としている者は容赦なく追い詰め、出奔するに任せた。
 そもそも、浪々の身同然であった光秀を抜擢し、ここまで重く用いたのは、ほかならぬ信長だ。
 光秀は首を振った。
「信長様はさらにこうおっしゃった。『十五郎に明智、そしてこれとうの家督は継がせぬ。今後、惟任の名字は京一帯を守る家臣に与える号よ。貴様が隠居した暁には、惟任の名字は返納してもらう。そうだな、次は長岡の倅あたりに与えればよかろう』と」
 惟任は元来、九州の名族の名字だった。だが、信長はまったく違う運用を考えていたらしい。畿内の静謐を保つ責任者に与える一種の称号として使い、一般の名字のように、子孫末代まで与えるつもりはなかった。
 光秀の目が、白刃がひらめくように光った。
「こうもおっしゃられた。『明智の家督は明智左馬助に継がせる』とな」
 その瞬間だった。謁見の間の障子が開き、抜身の刀を握った武者たちが下段の間に雪崩れ込んできて、左馬助を取り囲んだ。もしも手元に槍があったなら戦えもしただろうが、あいにく左馬助の手元には刀が一振りあるばかりだった。
 切っ先を左馬之助に向ける武士たちの波間の向こうで、光秀は苦しげにあえいでいた。
「信長様から聞いておる。そなたに、その打診がなされていたそうだな。武田攻めの際に」
 あの日。信州法華寺で光秀と共に信長に謁見したのち、二人きりになった時に信長にこう言われた。
『貴様に明智の家督を与えよう』
 と。
 理屈の上では不可能ではない。左馬助は光秀の娘を妻に迎えているし、明智の名字も賜っている。
 その際には回答を避けた。だが、そんなことをしてはならぬ、という自制心の波間に、己が本音が頭をもたげてくるのを我慢することができなかった。出世をしたい、一国一城の主になりたい。独り槍を立てた時に何度も念じてきた思いが左馬助を縛った。
 今も、板挟みに遭っている。
 明智家への忠義か。
 それとも、乱暴で素朴な出世心か。
 いつしか、左馬助は身動きが取れなくなっていた。
「答えよ、左馬助。お前は、明智家を食らうつもりか」
 上段に座る光秀の顔は、夜叉のように歪んでいた。
 光秀という男は、明智家が全てだった。この主君は、名族氏の末、明智家を自らの手で盛り立て、次代に伝えるのを己が役目と心に決めていたのだろう。
 夜叉のような顔、と思ったが、間違いはなかった。光秀は夜叉だった。夜叉は子が死んだのを嘆いた女が悲しみのあまりに変じた鬼であるとされる。光秀は、らくはくしていた明智家が生み出した、一人の夜叉であったのだ。
 人が化け者にかなうはずはなかった。
 左馬助は己の刀を帯から引き抜いた。周囲の侍たちがざわつく中、その刀を己の前に離して置き、短く口を開いた。
「拙者は光秀様の刀でござる」
 それで十分だった。
 光秀は扇子を掲げた。すると、取り囲んでいた侍たちが囲みを解いた。
「そなたの気持ちはわかった。すまぬな、左馬助」
「いえ。当然のことでございます」
 苦しい。
 本来なら、なりふり構わず光秀の座っている上座へと至りたかった。天下でも知られた大大名の直臣として生きてみたかった。だが、いつだって左馬助の前には目には見えぬ壁がそびえている。
「これから、どうなさるのですか」
「どうもこうもあるまい。信長様の命に従い、羽柴殿の救援に向かう。功を挙げ、翻意を願うしかなかろう」
 うまく行くとは到底思えない。これから十五郎が信長好みの才子に成長するわけもない。
 前途は暗かった。


 五月の中旬、左馬助は京の西にある愛宕あたごやまにいた。
 戦勝祈願の名目で、明智家の主だった家臣が参詣している。その中には、不安げにしている溝尾の姿や、顔を青くしてやつれた顔をしている斎藤の姿もあった。
 斎藤に声をかけると、力なく応じた。
「長宗我部を説得しているのだが、いかぬ」
 なおも反抗的な態度を取る長宗我部に業を煮やし、信長は五月に四国攻めを行なうことを決めた。織田のぶたかを総大将、丹羽長秀を参謀に据えた一団は摂津にいて、渡海のための準備を進めているところだという。一万を超える軍勢が海を渡るという状況であるというのに、長宗我部は相変わらず同格の同盟が云々と言っているらしい。
「このままでは戦となる。そして――」
 取次としての責任を問われ、斎藤は処罰されることだろう。
 励ましの言葉が見つからない。小さく首を振り、斎藤から離れた左馬助は宿所から出た。
 愛宕山の頂上は清浄な気で満ちている。大きく息を吸い込み、木々の間から覗くきょうこうに目をやった。赤く燃える日輪は、辺りに漂っていた靄を払った。
 左馬助は自然の雄大さを思った。人がこんなにも苦しんでいるというのに、日は当然のことのように昇り、世をあまねく照らす。
 もはや、明智家をめぐる状況は風前の灯火だ。
 明智家の特権であったはずの畿内大名の取りまとめ役も光秀一代のものとされるばかりか、明智家そのものの家督も十五郎ではなく左馬助に相続させるつもりであると明言されている。この件はまだ光秀と左馬助しか知らぬことだが、いつかは明るみに出るだろう。
 この状況をどうにかしようとしたとしても、長宗我部の問題が足を引っ張っている。このまま戦となれば、取次の斎藤どころか斎藤の主君である光秀にも類が及びかねない。
 かといって、この度の救援で功を挙げることも難しかろう。いな救援の際に見た秀吉の戦振りは、できる限り正面衝突を避けつつ、敵勢の志気と戦力を挫く兵糧攻めを取っている。小規模な競り合いはあるだろうが、いくら小さな戦いを積み上げたところで、長宗我部一件の失態を取り戻し、家督の件を翻意させるような大功にはならない。
 そもそも、功を挙げたところで結局は光秀の宿願は果たされない。
 どうしたものか――。
 一人物思いに沈んでいると、小姓がやってきた。光秀が左馬助を呼んでいると告げるとすぐに去っていった。
 明智家が宿所にしている宿坊の客間に、光秀は座っていた。
 ゆったりとした姿で座っている光秀の姿に、ふと左馬助は首を傾げた。
 異様なまでに、光秀の顏は穏やかだった。あの告白があってから、光秀の顔はずっと浮かなかった。愛宕山参詣のための山登りの際にも、心ここにあらずといった様子で、危うく崖から足を踏み外しそうになっている場面すらあるほどだった。だが、目の前にいる光秀は、気が満ち溢れ、顔も晴れ晴れとしていた。背の重荷をすべて脱ぎ捨て、清々としているようにも見えた。
「いかがなされたのですか」
 何か吉報があったのか。訝しみながら座ると、光秀は口を開いた。
「百韻の最中に、事態を打開する手を思いついたのだ」
 先ほどまで光秀は連歌会に参加していた。明智十五郎や里村紹巴も参加したもので、左馬助も参加するようにと要請されていたが、文の心得がないからと断った。
「百韻で、何かあったのですか」
「ああ。連歌の発句を任されたのだがな、こんな句を詠んだ」
 短冊を渡された。そこには、
 時は今 天に下しる 五月かな
 と記してあった。
 訝しく思った。そもそも左馬助には和歌の素養はない。
 光秀はまるで子供のように稚気を見せながら、短冊を指した。
「何の気なしに詠んだのだ。あくまでたびの救援が成功するようにとな。意味も、この五月に天下が穏やかになるという予祝よ。だが、己の詠んだこの句を眺めているうちに、別の意味に見えてきてな」
 光秀は扇子の先を、『時は今』のところで止めた。
「この〝時〟を、〝土岐〟と読み替えたらどうなる」
 土岐というのは明智氏の先祖とされる名族土岐氏のことと考えたとしたら――。
 左馬助は目をみはった。
 土岐氏である己が、天下を平定する五月である。
 そう読めはしないだろうか。
「あくまで、最初はそんなつもりがなかったのだ。だが、この五七五を眺めているうちに、わしは思うたのだ。その手があった、と」
「その手?」
 問うと、光秀はずいと左馬助に顔を近づけ、小声を発した。
「今、畿内には誰もおらぬ。最も近くにいるながひで殿も、摂津で長宗我部攻めの用意をしておる。羽柴殿は毛利攻めの最中、柴田殿は越前で上杉と対陣中、滝川殿は関東の仕置に追われておる。今、畿内にいる大勢力は、わししかおらぬのだ」
「まさか――」
「信長様を――、いや、信長を攻める」
 光秀は言い放った。
 明智家の状況は八方塞がりだ。このままずるずると何もせずにいるよりは、いっそのこと博打を打ったほうが、まだましだという考えも成り立つ。
 そう、博打だ。もし信長を討ち漏らした日には、逆賊として討伐の対象となる。だが、確かに勝てる目の多い博打であることに変わりはない。いつもなら信長の近くにつき従う丹羽長秀が、不在というのも大きい。仮に信長を討ち取ったとしても、即座の反撃をしてくる者がいないのだ。その間に畿内、殊に近江と京を固めることができたなら、この謀叛も成功の目が見えてくる。
「されど、うまく行きましょうか」
「成算はある。信長を一気呵成に討ち取り、首を挙げれば必ずや近隣の大名はなびく。長岡殿と筒井殿は必ずや馳せ参じてくれるはず。どちらも我らに恩義を感じてくれている。信長の首さえ挙がればな。そのためには、いくらでも譲歩もしよう」
「そうまでしても、若様のために、明智を残したいのですか」
 思わず左馬助は問うていた。
 虚を突かれたような顔をしていた光秀であったが、やがて小さく頷いた。
「ああ、子にできることは、ただそれだけだからな」
 その時に見せた光秀の笑みはあまりに自然で、左馬助の息が詰まった。
 結局、血の繋がりには勝てぬと知った。また、見えない壁が光秀との間に立ち塞がる。
 光秀は信長との間に立ちはだかる見えない壁を打ち破ろうと決めたのだろう。己の宿願のため、そして己の息子のために。だが、左馬助には、己の目の前の壁を突き破るための強い思いなどどこにもない。ただ漠と「出世をしたい」という野心がくすぶっているだけだ。
 だが、それでもいい、と思った。
 結局左馬助は、この主君の思いを踏みにじることはできない。
「殿、お願いがございます」
「なんぞ」
「此度の挙、拙者に一番槍をお命じください。必ずや、敵の御首を挙げて見せましょうぞ」
「わかった。そなたの願い、しかとこの光秀、胸に刻んだぞ」
 ようやく、亀姫を心から己が妻として迎えることができるかもしれない。そんなことをふと思った。


 そうして運命の日――。
 夜半に丹波亀山城を出立することになった。
 寝間着姿の十五郎は目をこすりながら馬上の光秀に声をかけている。
「ご武運を」
 そう述べる声には何の屈託もない。
 亀山城の大手門を出た明智軍は、東を指して兵を進める。しばらく進むうちに将の中から疑問の声が上がる。我らは毛利を攻めに行くはずではありますまいか、だとすれば、なぜ西ではなく東に向かうのです、と。いちいち答えるのは面倒だった。そうして疑問の声を発して近付いてくる部下たちに、
『密命である』
 という言葉を与え下がらせた。
 左馬助の声に怯えるように肩を震わせ、将たちは己の列へと戻っていった。
 此度の件は、ほとんどの者が全貌を知らない。すべてを知るのは、光秀と左馬助を除けば斎藤利三と溝尾しげともくらいのものだ。ほとんどの者たちは、羽柴の救援に向かうものと信じている。
 これから、信長の首を取る。
 武者震いしていると、横で馬を並べ走っていた斎藤が声をかけてきた。数日前まではこの世の終わりとばかりに悲嘆に暮れていたが、今は晴れやかな顔をして馬にまたがり、勇壮な鎧に身を包んでいる。それはそうだろう。もはや長宗我部の件などどうでもよくなってしまった。あの件は織田家の家臣であるうちは大問題だが、今となっては些末な問題に過ぎなくなった。それどころか、長宗我部との同盟の目も出てきた。
 斎藤は鎧越しに左馬助の肩を叩いた。
「これから大勝負だ。そなたがしくじることはよもやあるまいがな」
「共に、力を尽くしましょうぞ」
「ああ。そういえば――」
 斎藤は顔をしかめ、懐からある文を出した。
「皮肉なこともあるものだな。実は昨日、長宗我部から文が参ったのだ」
 それは、愛宕百韻を終え、家老に謀叛の意思が伝えられた日の夜のことだった。斎藤の許に長宗我部の文が届いた。その文に曰く――。
「織田に降るとのことであった」
 これまでの無礼を平に謝し、毛利と縁を切ることを約束するものだった。間違いなくこれは、渡海を辞さずに自ら兵を発するという織田側の宣告と、斎藤の必死の説得工作のおかげであったろう。
 つまり、斎藤の首は皮一枚を残して繋がったことになる。
「この件、殿にはご報告は」
「した。だが、笑って首を振られた。もう、必要ないとな」
 今更長宗我部を翻意させたところで明智の功とはならず、織田家中での立場は苦しいまま、という判断をしたのだろう。
 そんな告白を挟みつつも、明智衆は京へと達した。
 手筈はこうだ。明智軍を二手に分ける。今、京には信長とその子の信忠が本能寺と妙覚寺に分宿している。それぞれを同時に襲い、片方の攻めが終わり次第、もう一方に加わるというものだ。
 左馬助は本能寺の先鋒を任された。光秀は左馬助の申し出を受け止めてくれた。
 眠りに落ちた京の町には、寄せ手を遮る者はない。今出川通を一気に駆け、手勢で本能寺を囲った。あえて鬨の声は上げない。きゅうへいたちに命じ、火矢を射かけた。弓なりの軌道を描いた火矢は次々に本能寺を囲む壁を越えて中に飛び込み、やがて、黒煙と炎が上がり始めた。
 粗忽者の一人が惣門の脇の通用門から飛び出してきた。手筈通りその者を斬り捨て、中に兵を入れ、惣門のかんぬきを外させた。門が開いたのを見計らうと、左馬助は槍を掲げた。
「恐れず果敢に攻めよ。拙者に続け」
 馬の腹を蹴り、左馬助は寺の中に雪崩れ込んだ。
 既に寺の中は紅蓮の炎に満ちていた。火の回りが早すぎる、と訝しく思っていると、炎上していた右横の倉が爆発を起こし、辺りに火の粉を振りまいた。信長は大の鉄砲好きだ。もしや火薬の類を、かなりこの寺の中に持ち込んでいるのではないか――。そう気づいた瞬間、寺域内にある他の建物も次々に爆発を起こし、地響きを立てて崩れてゆく。
 味方衆が尻込みをしている中、左馬助は叫んだ。
「何をしておるか、敵はここにあり、皆奮起せよ」
 左馬助は炎の熱に焼かれながらも、ただ一人の人を探す。打ちかかってくる織田方の小姓を槍で突き、逃げまどう坊主たちを後ろから刺し抜きながら。
 本能寺本堂の裏手に達したとき、思わず左馬助は息を呑んだ。
 そこには、壮麗な建物が建っていた。寺には不似合いな武骨な建物の縁側に、数人の近習に守られた白無垢姿の老人がいた。弓を持っていたものの、丁度矢が尽きたところだったらしく、薙刀に持ち替えたところだった。その男の冷え冷えとした目が、左馬助の姿を捉えた。
 怒号と物の焼ける音、建物が崩れ落ちる轟音の中でも、その男の甲高い声は左馬助の耳に確かに届いた。
「左馬助、か」
 間違いなかった。そこにいたのは、織田信長その人だった。
「信長様」
 思わず様付けで呼んでしまった。この期に及んでも、覇王は覇王の気を纏い、そこにあった。
「なるほど、貴様がここにおるということは、光秀が裏切ったか」
 信長は声を上げて笑った。
「それでこそよ。主に背くは有能の証。見事なり、光秀」
 おじが走った。今まさに殺されようとしているのに、目の前の男には、まるで危機感がない。むしろ、今この瞬間を楽しんでいるようだった。
 信長は薙刀の切っ先を左馬助に向けた。
「さあ、貴様はどうだ、左馬助」
 追い立てられるように、左馬助は馬を走らせ、信長に迫った。近習を馬で蹴散らし、槍先を信長に繰り出した。だが、槍先はわずかにそれ、信長の左腕を傷つけるにとどまった。
「ふん――」
 血の流れた右腕を見やりながら、信長は唸った。そして、あざけるように口角を上げた。白い歯が、闇の中で浮かんでいる。
「躊躇したな、左馬助」
 薙刀をその場に捨てた信長はくるりときびすを返し、建物の障子を開いた。奥には深い闇が広がっている。顔だけ振り返った信長は、吐き捨てるように言った。
「貴様に明智の家督をくれてやると言ったが――。あれはわしの見込み違いであったわ。貴様も所詮、孵らぬ卵に過ぎなかった」
「どこへ行く」
 問うても信長は答えなかった。
「光秀に伝えよ。貴様の選んだ道は正しかった。謀叛を起こさねば、どの道明智は断絶となっておったろうとな」
 まるで闇に吸い込まれてゆくように、信長の姿は屋敷の中に消えた。そしてすぐ屋敷の中から黒煙が上がり、やがて火が立ち始めた。
 信長自身が火をかけた。
 そうさせるわけにはいかない。なんとしても信長の首が要る。そうでなければ、仮にこの謀叛が成功しても、いつまでも信長は生きているとささやかれ続け、その亡霊に悩まされることになる。
 馬ごと突撃しようとしたその時、信長の入っていった屋敷から大きな爆発が起こった。あらかじめ火薬を撒いていたのか轟音を立てて燃え盛る炎は一気に屋敷全体に回り、ぎい、と嫌な音を立てて屋根がかしいでいった。まごつく左馬助を前に、壮麗な建物は一気に崩れ落ちた。
 本能寺の戦が終わった。
 手筈通り、大方の戦を終えた左馬助は兵の一部を本能寺に残し、信忠の討伐に加わった。
 本能寺に残した兵たちは、必死で信長の死体を探した。だが、巻き上がる炎に焼かれてしまったのか、骨一つに見出すことはできなかった。
 首を挙げることができなかった。絶好の機があったのに、生かすことができなかった。焼け跡の残る本能寺を見遣る左馬助は、信長が述べた「孵らぬ卵」という言葉を思い出し、一人震えた。
 だが、やらねばならぬことは、これからいくらでもある。
 安土城を接収し、近江を支配下に置かねばならない。謀反は時との勝負だ。反発する勢力が攻め上ってくるまでにどれほどの優位を築いておくかで成否が決まる。あの火事だ。信
長が死んでいないはずはない。一度謀叛を起こしてしまった以上、もはや、水が高きところから低きに流れるように、物事は移ろっていく。
 所詮己は孵らぬ卵であった。見えない壁が確かに己の眼前にそびえている。だが、左馬助は首を振って、命運を己に預ける兵とともに近江の平定へと向かった。(つづく)