第六章

 
 づち城の天守はこの日も真っ青な空を背負い、まのすけ一行を迎えた。
 この城がのぶながの心象風景なのだと気づいたのはいつのことだろうか。だとすれば、まるでからてんじくの絵に出てくるような瀟洒な天守は、信長の似姿ということになる。
 この城が豪華絢爛であることは諸人の認めるところだし、天下の人々がこぞって褒め称えるのも分からぬではないが、防衛拠点として見た時、安土城はあまりに単純な構造をしている。特に、大手門から伸びる大階段がいけない。確かに急勾配で難儀するだろうが、敵を押し留める工夫が一切なく、まっすぐな階段を登るとすぐに二の丸に至ってしまう。これでは裸城同然だ。これもまた、信長の心象風景の反映なのだろうか。
 反感のままに、左馬助が声を上げた。
「何度見ても心もとない城ですな」
 共に石段を登る斎藤やみぞが周囲をうかがいながら、左馬助をたしなめた。だが、前を歩くみつひではかかと笑い、ゆっくりと振り返った。その顔には苦笑がにじんでいる。
「そもそも、この城が攻められる時は、織田家は風前の灯火であろうよ」
 安土城は織田の領地のちょうど真ん中に位置する。ここが攻められるとしたら、もはや抗戦は無意味、むしろこの城は儀礼のための城として整備すべし、そう割り切っている辺り、信長という男の不気味なまでの潔さを感じ取った。
 石段を軽々と登る溝尾が話の舳先を変えた。
「ところで、信長様は一体何用なのでしょうかな」
 てんしょう九年正月、左馬助は福知山城で新年を迎えた。城代の正月は忙しい。家臣たちやくにしゅうへの年頭挨拶や各種儀礼に追われる羽目になる。そんな最中に届いた文は、一月二十日までに安土のあけ屋敷にまでやってくるように、という溝尾の要請だった。左馬助はただでさえいくさで福知山を離れることが多い。これには同じく福知山城の城代を務める藤木から「さすが左馬助殿は引く手あまですな」と皮肉とも本気ともつかぬ言葉を投げかけられてしまった。
 石段を踏みしめながら、光秀は首を振った。
「分からぬのだ。信長おやかた様は事前にご説明を下さらぬからな」
 行ってみなければ分からないということか、と独り言ち、左馬助も長い石段を登った。
 この日一行が通されたのは、本丸御殿であった。
 謁見の間は、ひんやりとしていて広い。上段の背後には、岩場を闊歩するつがいのからの障壁画が飾ってある。人の背の数倍はあろうという巨大な唐獅子の姿に目を奪われているうちに、小姓を引き連れた信長がやってきた。この日の信長は赤と黒の片身替わり羽織にきんらんばかまという、やはりくつろいだ姿に身を包んでいた。
 上段の間に座った信長は、挨拶もそこそこに本題に入った。他家の者は驚くかもしれないが、織田家には虚礼は無用という暗黙の了解がある。それは、ぜいげんを嫌う信長の存在も大きい。
「そなたら明智衆に、馬揃えの取り仕切りを命じる。光秀、そなたに奉行を拝命する」
 噂は聞いている。少し前、さる公卿が安土にやってきた答礼にと、信長が家臣たちに鎧を着せ、城前の馬場に集めたと。
この勇壮な武者行列に感嘆したのか、京に戻った公卿はこの体験を禁裏で口にし、京でも行列を練らせてはいかがかと説いて回った。信長と公卿たちの協議の末、この二月、京で馬揃えが開かれることになったと信長は述べた。
 前に座る光秀をちらと窺うと、小刻みに肩を震わせている。朝廷の要請で行われる馬揃えの取り仕切りとなれば、これ以上ない誉れだ。武者震いを起こすのも致し方ないといえた。
「しかと果たせ」
 信長はそれだけ言うと、立ち上がろうとした。だが、光秀はそんな信長を呼び止めた。
「何かあるか」
 信長が冷ややかな視線を光秀に下す。外の冷たい風が入り込んだかと疑うほどに背が冷えた。だが、そんな中でも、光秀は果敢に口を開いた。
「奉行に関してのご相談でございます。拙者にこの任をお与えくださるのは実に光栄至極にございますが、奉行のお役目、なにとぞ我が長子のじゅうろうにお与えくださいませ」
 信長は口をつぐんだ。まるで猫が獲物を前に沈黙するが如くに。
 追い立てられるように、光秀は早口で続けた。
「我が子十五郎は、未だ織田家のために骨折りをしておりませぬ。これを機会に織田家へのご奉公をさせていただきますれば嬉しゅうございます。なにとぞ・・・」
 なおも何かを言い募ろうとしていた光秀であったが、信長の顔を見るなり声がかすれた。
 信長の顏から表情が消えていた。ただ、れいな眼だけが光秀を射すくめている。いつの間にか腰から引き抜かれていた扇子の両端を胸の前で持ち、力を込めて曲げ始めている。
「ほう、きんか頭、貴様はわしに意見するほど偉くなったか」
 信長は悲鳴を上げる扇子の先をゆっくりと床に差し、押し付けた。
「ならぬ。そなたの倅にはなにもさせぬ。奉行は貴様よ」
「ならば、手伝いだけでも」
「勝手にせい」
 吐き捨てるように口にして床を蹴るように立ち上がると、信長は足早にその場を去っていった。
 信長の足音が遠ざかったことで、謁見の間に安堵が満ちた。
 だが、光秀だけは様子が違う。歯噛みし、床をにらんでいる。
 左馬助が声をかけると、光秀は忌々しげに首を振った。
「なぜ、信長様は十五郎を認めてくださらぬのだ」
 信長が明智十五郎を嫌っているらしいという噂は、もはや織田家中でも公然となされ始めている。去年の正月、元服を果たした時にも御目見得は容易にならず、つま殿が必死に取りなしたことで果たされた初御目見得もおざなりなものだったという。そしてそれから十五郎には御目見得の機会を得ていない。ながおかふじたかの息子であるただおきが既に何度も信長に拝謁しているのとは雲泥の差だ。
「十五郎が認められぬでは、明智家が危うくなる。せっかく当代で得た名望を次代に伝えぬことにはこの光秀、死んでも死に切れぬ」
 この言には少し驚いた。思いのほか、古い考えをお持ちであったのだ、と。
 左馬助はせつに生きている。己一代で得た名声は、しょせん己限りのもの、と割り切っているところがある。てっきり主君もそうだとばかり思っていたのだが、その見立ては間違いであったらしい。もっとも、致し方ないことかもしれない。元は美濃の名族氏の末で、らくはくした一族を盛り立てるために浪々の日々を送り、今や近畿一帯を取り仕切る立場となった苦労人からすれば、この地位をいかに子に譲るかが最後の関心事なのかもしれない。
 ぶつぶつと独り言を口にしていた光秀は、まるで己に言い聞かせるように、言を放った。
「こうなれば、馬揃えを何としても成功させねばならぬ。そして、十五郎を信長様にお認め頂かねば」
 顔を上げた光秀は、後ろに控えている三家老たちに向き直った。
「そなたらの奮起に期待しておるぞ」
 溝尾も斎藤も深く頷いた。形の上だけ、左馬助も頷いたが、内心は複雑だった。
 主君の命令だから従わねばならぬ。だが、一方で、不満がくすぶっている。その正体に目を凝らすうち、それが光秀に対する幻滅であることに気づいた。
 立身のために様々な家中を渡り歩いてきた左馬助にとって、光秀は己の目標であったし、立身の偶像に他ならなかった。だが、そんな光秀もまた、己の一族や子に己の得た権力を譲り渡そうと奔走している。
 下克上の世と言われて久しい。力ある者が力なき上の者を打倒できる時代だ。だが、実際のところ、下から成り上がった者には目に見えぬ壁がある。ある所までは槍働きで登れるが、肝心のところで足止めされてしまう。その見えない壁の正体は、下克上などさせぬと抗う、上の者たちの抵抗だ。下克上の申し子であったはずの光秀自身がそんな壁をこさえているということが、妙に空しい。
 左馬助の顔が浮かなかったのか、光秀が声をかけてきた。
「左馬助も、頼むぞ」
「――ぎょ
 わずか二文字を口にするのにも、重い痛みを伴った。


 二月、温かな風が吹き誘う京で、馬揃えが開かれた。
 この日、左馬助は戦で実際に使っている甲冑を身にまとい、馬上にあった。中にはこの日のために鎧を新調する者もあったようだが、そんな本末転倒なことはしなかった。そもそも、よろいかぶとは着飾るためのものではない。ところどころに槍傷や矢傷の残る当世具足を着てきてしまったが、控えの場にいる武士たちの多くは新しい鎧に身を包んでおり、自分が浮いていることに気づき始めていた。
「武骨だのう、そなたは」
 声を掛けられたほうに向くと、真新しい鎧に身を纏い馬にまたがる溝尾の姿があった。
「鎧を調えられたのですか」
「ああ。一応わしは殿の補佐役であるからな、威儀を調えぬとまずかろう」
 この馬揃えにおいて光秀が奉行を拝命したものの公務で忙しいゆえ、実際に諸大名との折衝や馬揃えの順番などを決める役目を負ったのはこの溝尾であった。武士は体面の生き物だ。前を行くか後塵を拝するかで悶着があろうことは容易に想像がついたところだが、溝尾がく立ち回り、特段文句が出ることもなかったと仄聞している。
「あとは周囲の警固が心配だのう。若様がご担当であられるゆえ、わしは噛んでおらぬのだ」
 光秀は馬揃えの警固の責任者に息子の十五郎を指名した。十五郎の傍には家老のこれつねや馬廻頭のないとうさぶろう右衛もん、小姓のつましちろうひょうといった家臣が侍っており、警固のために動き回っているらしいが、十五郎付の家臣たちもこの馬揃えが信長への初の奉公となる。これまで若様の世話係でしかなかった者たちがどれほどの働きができるかも不透明だ。
 ふと視線を外して居並ぶ武者たちを眺めた時、左馬助はあることに気づいた。他家の武者たちが左胸に花の咲いた桜の枝を飾り付けている。
 溝尾は心なしか冷たい声を発した。
「ああ、あれは若様の発案だそうだ。まだ咲いておらぬ山桜の枝を手折ってきて、胸に差してはどうかと殿に言上したようだ」
「あの若様らしいご発案ですな」
「これ」
 溝尾は左馬助の皮肉っぽい言葉をたしなめたが、本気のものとは聞こえなかった。
 十五郎の評判は家中でもよくない。馬揃えの話が出て初めて馬の修練を始めたというのも家中の武士たちの失笑を買った上、相変わらず武芸は上達せず、茶道や連歌に血道を上げているらしい。しかも、光秀はそれを知りつつ黙認している。
 左馬助もまた、殿はどういうつもりでおられるのかと歯噛みする家臣の一人だ。
「おや、左馬助はつけておらぬのか」
 溝尾は己の左胸を指した。そこには、紫色に塗られた紙で折られたきょうの花が差してある。
「明智家はこれを胸に差すようにと言われておるぞ」
「初耳ですね。これも若様のご発案ですか」
「ああ。そういうことだ」
 やがて、十五郎の遣いを名乗る武士がやってきて、左馬助たちに桔梗の折り紙を押し付けてきた。最初は皆と同じく左胸に差したが、しばらくそうしているうちに違和感にさいなまれ始めた。
 桔梗の花は明智家の家紋だ。左馬助も明智の苗字を下賜されたときに家紋も拝領した。己を示す記号であるはずなのに、今はただ嫌悪しかなかった。明智家にすらある見えない壁、そしてその内側で守られている十五郎。そしてその十五郎が寄越してきた桔梗の折り紙。まるで、見えない壁を甘受しろ、お前は明智家の家臣が限り、と言われている気がしてならなかった。
 誰も見ていない時を見計らい、左馬助は桔梗の折り紙を丸めて捨てた。後で誰かに指摘されても、風に吹き飛ばされたと言い逃れできると高をくくった。
 馬揃えは始まった。次々に各家の武将や武者たちが禁裏へと続く通りに出てゆく。ついには明智家、そして左馬助の番になった。手の采配を高く掲げて部下たちに指示を出し、前に進み始める。
 沿道は野次馬でごった返していた。様々な身分の者たちがいる。職人や商人といった町人や、腰に刀を帯びた武士、坊主や貧乏公卿と思しき者の姿もある。中には菅笠で顔を隠して馬揃えを凝視している者の姿もあったが、明智家の者と思しき武士が話しかけるとその場を離れた。次々にやってくる武者行列に、野次馬たちは熱狂と歓声でもって出迎えてくる。そのたびに人々は前に出ようとしているが、一間ほどの間隔で配された人員のおかげで人の雪崩は押し留められている。
 歓声の雨を浴びながらしばし進むと、禁裏の門前にある陣幕に目が行った。桔梗紋を染め抜かれた陣幕の奥に置かれたしょうには、戦ひたたれ姿の明智十五郎が座っていた。
 最初、十五郎もこの馬揃えに加わる手はずだったが、信長の許可が下りなかった。あまり人員が増えては困ると考えたのかと思ったが、この馬揃えには長岡藤孝の子である忠興も参加している。
 やはり、何かある――。
 前を凝視する十五郎から視線を外して、左馬助は禁裏の中へ歩を進めた。
 禁裏に入った後は、所定の場所ですべての行列が終わるのを待つばかりだ。禁裏の外から聞こえてくる波のようなどよめきを耳にしながら、ただただ時が経つのを待っていた。
 すべての兵が禁裏に入り、ときの声を上げたところで馬揃えは終わりを告げた。この様を眺めていた公卿衆ややんごとなき人々は目を白黒させ、扇で衝立を作り、横の者と何かを言い合っている。その目にあざけりの色があるのを見逃さなかったが、左馬助からすればどうでもよいことだった。
 そしてその後は撤兵に相成った。武者行列は、宿所である妙覚寺や本能寺へと向かう。そんな様もまた表の野次馬にとっては、格好の見物になったらしい。先ほどの行列を見逃した者たちも詰め掛け、本番に勝るとも劣らない熱のこもった視線を投げかけてきた。
 明智衆は信長のすぐ後ろについた。この馬揃えを取り仕切った功を賞したものであろうことは容易に想像がつく。
 だが、左馬助は帰りの場で、ある光景を目にすることになった。
 それは、信長一行が禁裏の門を出て直ぐのところだった。
 ちょうどそこは、十五郎の陣幕のある辺りだった。信長一行はそこで足を止めた。何かあったのだろうかと身を乗り出して見れば、近習が馬上の信長に声をかけ、十五郎の陣幕を指差している。恐らくは近習が気を回してこの馬廻の警護役を信長に紹介したのだろう。
 警固を担当した十五郎に対して言葉の一つも投げかけるのではないか、その場で采配や軍扇を下賜するのではないかと色めき立ったものの、何も起こらなかった。馬上にある信長は、陣幕から出てきた十五郎に声をかけるどころかいちべつした風もない。それは、陣幕から出てきた十五郎が肩を落としていたところからも見て取ることができた。
 ふと、左馬助は前を行く光秀の姿を見遣った。
 顔は見えない。だが、光秀の後姿は小さく見えた。


 海猫の鳴き声が宿舎からも聞こえてくる。二日酔いに痛む頭をゆすり起き上がると、服を着替えて縁側に出た。手入れされた庭先には朝日が差し込み、海風が北から吹き付けている。
 宿舎を出て、北の海岸に向かっていった。湖かと見間違うほどの穏やかな海の向こうには、砂浜が細い橋のごとくに形成され、内湾を半月型に閉じ込めている。天下の奇景、あまのはしだてだ。とはいえ、左馬助は武芸一辺倒で生きてきた。天橋立を見て普段は沈着な主君も色めきだっていたが、ただ、内湾に細い海岸があるだけで、左馬助には大して感慨をもたらすことはなかった。
 五月、左馬助は光秀と共に、みやにやってきた。宮津城の主である長岡藤孝の招きに従った形だ。
 それにしても、昨日の宴はひどいものだった。寄せては返す波を眺めながら、左馬助は昨日の醜態を思い出していた。
 夜の宴のこと、藤孝と光秀が中座した後、一人で座っていた明智十五郎に長岡家臣が絡んたところ、長岡忠興が刀を抜いてその者を問答無用で処断した事件があった。
 あの一件の殊勲一番は忠興だ。家臣をその場で処断したことで、明智側の非難を塞いでしまった。長岡からすれば上役に当たる明智の御曹司の顔を自家の家臣が潰したとなれば、今後の仕儀にも影響が出る。あの氷のような目をした若き長岡の御曹司は、瞬時に損得を見切り、その上で刀を抜いたのだろう。
 それに比べて、十五郎のなさりようはひどいものだった。無礼を働いた長岡家臣に何ら手を打つことができなかったばかりか、一件の後体調を崩し中座してしまった。昼間の天守での連歌会とやらでは面目を施したようだが、いざという時に肝が据わらぬようでは物の役にも立たない。
 苦々しい思いで穏やかな内湾を見遣っている左馬助であったが、ふいに後ろから声がかかった。振り返ると、そこには明智光秀が立っていた。
 羽織を肩で着て、普段使いの袴を合わせているだけという略装で、足袋も履いていない。海風に羽織の裾を翻しながらやってきた光秀は、目を細めながら天橋立を眺めた。
「天橋立近くに城を造るとは、藤孝殿は本当に数寄者であられる。風流なことだ」
「左様なものですか」
 つい、言葉に棘がこもってしまった。しまった、とは思ったがもう遅い。だが、光秀は薄く笑みを浮かべたまま左馬助に近付いてきた。
「それにしても、藤孝殿の嫡子殿は見事なものよな。槍の実力も相当なもの、しかも昨日の騒ぎでも十二分に働いておる。長岡家は今後も安泰ぞ」
 いちいち頷ける評言だが、気になることもある。なぜ、光秀がそんな評を持ち出したのか、だ。
 光秀は海岸に打ち上げられていた小枝を拾うと、海に向かって投げやった。五間ほど向こうで小さな水しぶきが上がったのを見届けたかのような時機に、なおも口を開いた。
「これはまだ秘中の秘だがな、わしは、隠居を考えておる」
 驚きのあまり、光秀の顔を凝視してしまった。だが、そのぶしつけを光秀は笑う。
「不思議ではあるまい。わしとあまり年齢の変わらぬおやかた様も、今は息子ののぶただ様に家督を譲っておられる。もっとも、信長様はそれでも飛び回っておられるゆえ、あまり家臣の側も実感がないがのう」
 がくぜんとした。
 光秀は若々しい。多少禿はげが大きくなってさかやきが広くはなっているが、髪は黒々としているし顔にはほとんど皺もない。戦ともなれば鎧兜に身を包み、馬を駆って全軍を鼓舞して回っている。どこにも老いの影などないだけに、光秀の突然の告白に面食らってしまった。だが、冷静に考えれば、光秀は五十を越している。普通ならば隠居して、次の世代にすべてを任せる年代である。
「もっとも、隠居願いは出しておるのだが、信長様の許可が下りぬのだ。何度願いを出しても慰留されてしまうでな」
 口振りの割に、光秀は少し口角を上げていた。
「では、隠居などなさらずともよろしいのでは」
「そうはいかぬ。一つには、わしの目の黒いうちに、十五郎に明智家当主としての振舞を教えなければならぬのだ」
「ということは、戦を経験させると」
 結構なことだ、と思っていると、光秀は予想だにしない返事をした。
「いや。十五郎が戦を知る必要はない」
 畿内を固める馬廻としての役割を与えられた明智家が、戦に参加することはそう多くなくなる、これから明智家当主に求められるのは、戦での槍働きではなく、公卿との折衝や行事の運営といったものになってゆくだろうと光秀は語った。
「我ら明智は織田家の家宰となってゆくのだ。そのために必要なのは、禁裏との折衝や儀礼のために必要な知識ぞ。そのために、わしは息子に茶や連歌を教えておるのだ」
 ようやく、十五郎に対する光秀の態度に合点がいった。教え込もうと思えばいくらでも名人を呼べる立場なのにも関わらず武芸に関しては家臣の一人に養育を任せながら、茶や連歌に関してはこの道の第一人者を呼びつけていた。本末転倒ではないかと思っていた光秀の教育方針が、実は光秀なりの計算に基づくものであったということを知った。
 とはいえ、納得はできない。武士はやはり槍働きがすべてなのではないか、と。
 だが、光秀は続いて予想だにしない一言を口にした。
「戦はやがて終わる」
 耳を疑った。生まれてこの方、戦のない時代などひと時とてなかった。人々は日々戦におびえ、武士の家に生まれた者は毎日のようにその日に備えて修練を重ねた。
だが、己が主君は、そんな日々は終わる、と口にした。
「どういう形で終わるかはわからぬ。だが、今の趨勢をみよ。九州でも、四国でも、中国でも、畿内でも、そして関東でも、小大名を大大名が飲み込んでおる。大大名が増えれば増えるほど、大規模な戦は起こりづらくなろう。互いに大きな武力を有しているがため、己の軍の損耗を恐れて睨み合いで終わってしまうがゆえよ。――あるいは、織田家が天下を併呑するかもしれぬが、戦の起こりづらい時代がやってくるのは確実ぞ」
 光秀はいだ海に目をやりながら、続けた。
「まるで、この海のような時がやってくるであろう。少なくとも畿内はそうなりつつある。ような時代に必要とされるのは、槍ではない。この穏やかな船に乗り出すためのかいぞ」
「されど殿」左馬助はくちばしを挟んだ。「もしかしたらこれから、戦なき時代がやってくるやもしれませぬが、まだまだ先のことのようにも思われます。やはり、若様には武芸もお教えなさったほうが」
「だからこそ、そなたが必要なのだ」
 光秀は透き通った眼を左馬助に向けた。
「大将にひっの雄は要らぬ。知勇すらも要らぬ。これからわしがあの子に教えねばならぬのは、桔梗の旗の振り方よ。大将が仮に槍の名人であったとて、あくの奥におってはその才は持ち腐れよ。知勇はあってもよいが、左様なものは優れた家臣に恵まれればよい。むしろ、御大将に必要なのは、旗を掲げ、全軍を導く力に他ならぬ」
 だから、と光秀は言った。
「左馬助、そなたが十五郎の槍となってくれぬだろうか。あの通り頼りない息子に育ってしもうたが、必ずや、桔梗の旗を掲げる御大将として育てる。ゆえ、十五郎を実の弟と思うて支えてやってはくれぬだろうか」
 この言葉を聞いた瞬間、嬉しさと幻滅が同時に押し寄せてきた。
 自らの力が求められている。そのことに喜びを感じないことはない。だが、結局求められているのは、十五郎の補佐役としての力であり、結局のところ光秀にとって一番大事なのは十五郎であると宣告されたに等しい。
 見えない壁が、光秀と己の間にある。
 そのことが悔しく、何よりも哀しかった。
「御意」
 絞り出すように答えると、光秀は大きく頷いた。
「必ず、そなたには報いる」
 もしかしたら、光秀は己の言が左馬助を幻滅させていることに気づいているのかもしれなかった。ばつ悪げに海に目をやり、話の方向を変えた。
「実はな。昨日の夜、わしと藤孝殿で酒宴を中座したであろう。あの際に、今後の話が出た。藤孝殿も近々隠居を考えておられたようだ。その上で、『明智は長岡の親戚。であるからには、代が替わってもこれまで通りの付き合いをしようではないか』と明言した。わしがおらぬようになっても長岡は心配ない。そして、十次郎を送ったことで大和のつつも帰順した。筒井には貸しもある。きっとこれからも、与力として力を尽くしてくれるだろう」
 着々と光秀は己の亡き後のことを考えて手を打っている。かつては浪人同然、断絶寸前であった明智家を一代で盛り立て、日の本一の大名の第一の家臣にまで成り上がった。この天下第二の成り上がり者は一代で得た栄華を時代に残すべく、残りの人生の命数を使い果たそうとしている。
 だが――。左馬助は心中で叫んだ。俺はどうなる? と。
 左馬助は光秀の人物に惚れて家中に加わった。今の明智家にいる者たちは、大なり小なりそうした者たちだ。誰も光秀がいない明智家というものを考えたことのない者たちだ。
 溝尾は、斎藤は。そして己は。
 その日が来た時に、新たな主を盛り立てることができるのだろうか。新たな主の寝首をきたいと手がうずくことはないのだろうか。
 いくら考えても堂々巡りに至る疑問に飽いた左馬助は、海を眺めた。二日酔いの頭で眺める穏やかな海は、まるで船中にあるかのように揺れて見えた。


 八月のその日、左馬助は命令により坂本城にいた。
 琵琶湖から吹き付ける少々気の早い秋風に身を震わせながら、米俵を運ぶ家臣たちを叱咤激励していた。腰が落ち着かぬものだ、と独り言ちながら。
 光秀たちと共に宮津から戻ってきてからは、しばらく福知山の内政に当たることができた。留守中は相変わらず藤木が漏れなく任を果たしてくれていたが、その疲労のほどは尋常ではなく、左馬助が戻るなり寝込んでしまった。それから四か月余り、休みなく福知山近辺の内政を指導して回った。中にはあからさまにこちらを侮ってかかっている国衆もあったが、一人一人に膝を詰めて理非を説き、明智の仕法を納得してもらった。民の生活を富ませたいと思った時、力ずくに従わせてはいつか破綻が来る。『戦の世は終わる』という光秀の言葉を思い出しては、そんな世はつまらぬ、槍を握って死にたいものだと独り言つ左馬助がいた。
 慣れぬ内政に手を焼いていた八月初旬、光秀から遣いがやってきた。
 近々いなで戦があるらしい。その戦に参じてほしい、とのことだった。
 ようやく病から戻ってきた藤木に福知山を託し、坂本までやってきた。
 戦というのは、槍を合わせている時よりも、準備している時のほうがやるべきことが多く、また重要だ。この日左馬助が当たっていた兵糧の確認作業は、その基礎に当たる。飯が食えねば、どんなに勇猛な兵といえども戦えなくなるがゆえだ。
 米俵を運ぶ小者たちに指示を飛ばしながら、ゆうひつたちに数を確認させていると、開け放たれた二の丸の門から、騎馬が飛び込んできた。かたぎぬに袴姿で太刀を一振り帯びているだけという軽装で現れたその侍の顔に見覚えがあった。確かあれは、安土城の明智屋敷に詰めていた小姓であったはずだ。
 明智家の取り決めで、城の中で馬を走らせてよいのは主君である光秀とその家族だけと決まっており、家臣は馬に乗ってもいいが、足で追いかけても追いつくほどの速さで走らねばならぬと併せて規定されている。だが、例外もある。危急の知らせの際には、家臣も馬を駆って城に入ってよいことになっている。
 何か、あったのか。
 兵糧の計数作業を部下に任せ、左馬助は本丸御殿目指して急いだ。
 二の丸を抜け、本丸へと向かう橋を渡り、本丸御殿に入る。そして勝手知ったる城の廊下を歩いていく。目指すは光秀が私室として使っている奥書院の間だ。
 部屋の中には既に溝尾と斎藤、そして光秀の姿があった。
「おお、左馬助か」
 光秀は顔を上げたものの、表情も、声も精彩を欠いていた。
「何かあったのですか。今、早馬を見かけましたものでこうして参った次第で」
 光秀はめいもくをした。主君が何も口を開かぬと気づいたか、溝尾が代わりに口を開いた。溝尾の顏にもありありと苦悶の色が浮かんでいる。
「妻木殿がご危篤らしい」
 驚きを隠せなかった。昨年の夏、元気そうに振舞っていた姿が脳裏をかすめる。
「風邪をこじらせたらしくてな。安土の明智屋敷に下げられているらしい」
 御殿はを嫌う。御殿から下げられたということは、すなわちーー。
「しかし、妻木殿が」
 溝尾の顏は青ざめている。これまで妻木殿は信長の側室として穏然とした影響力を有し、なにくれなく明智家のために力を尽くしてくれていた。その妻木殿が危篤ということは、今後、織田家と明智の間に渡されていた太い絆が一つ失われることになる。そのことを溝尾は心配しているのだろう。
 光秀は体にこびりついた未練を振り払うように首を振った。
「溝尾、もうやめよ。妻木殿のご危篤よりも、今は大事なことがある。おやかた様より命ぜられた鳥取城攻めの手伝いをせねばならぬ」
 光秀の声はわずかに震えていた。それだけで、左馬助は光秀の本心を悟ってしまった。それは溝尾も、そして斎藤も同じらしい。二人とも小さく頷いた。
 そんな頃、大きな足音が縁側から響き、遠慮なく障子が開かれた。外の強い光と共に部屋に現れて「父上」と光秀を呼ばわったのは、明智十五郎だった。青ざめた顔をして、怯えたような目で部屋を見回している。
 おお、と光秀は殊更に明るい声を発した。
「よいところに来た。実は、信長公より因幡の遠征を命じられてな。しばひでよし殿の与力というのが業腹だが、よき機会よ。そなたは丹波亀山城に詰め、その上で我ら前線の援護を頼みたいのだ」
 先ほどまでの沈んだ顔を見てしまっているだけに、光秀の振る舞いは痛々しくてならなかった。
 十五郎は口元をわななかせている。その顔は、子供が涙をこらえているようだった。
「何かあったのか」
 光秀が穏やかに問うと、ようやく十五郎は口を開いた。
「伯母上が、ご危篤であられる由」
「聞いておる」瞑目した光秀は、ややあって口を開いた。「それがどうした、信長様のご命令があるのだ」
「何をおっしゃるのですか」十五郎の声は震えている。「妻木殿は母上の妹君であられましょう」
「分かっておるわ」
 二人の言い争いは親子であるがゆえか次第に遠慮をなくしていき、強い感情が上乗せされてゆく。義理の一族である左馬助とて、実の親子の絆のもつれに入り込むことはできなかった。
「父上は何も分かっておられませぬ。妻木殿は父上のことを」
 十五郎は途中で口を結んだ。それは、光秀が今まで見たことのない表情を浮かべていたからだ。武将のそれでもない。一家を率いる惣領のものでもない。の光秀が、き出しになっていたその表情に、十五郎も、居並ぶ家臣たちも言葉を失っていた。
 目尻を指ではじき、いつもの顔をようやく取り戻した光秀は口を開いた。
「関係あるまい。今はただ、因幡討伐の用意をせねば」
 投げやりにも聞こえる言葉だったが、十五郎は容赦がなかった。
「父上には人の心がないのですか」
 子供は時として残酷だ。大人が必死で隠しているものを、ちょくせつに刺し貫いてくる。
 光秀の顏から表情がなくなった。
「お前がないと思うのならば、わしに人の心などないのだろう」
 十五郎はこの後、父の命令には従えぬ、己は妻木殿の見舞いに行くと吐き捨てて部屋から出て行ってしまった。
 部屋の中には、沈痛な光秀のためいきで満たされた。
 だが、諦めたように、光秀はぽつりと述べた。
「大将たるもの、ぶれてはならぬ。己の果たすべき役割に徹しなくてはならないのだ。大将は皆の命運を預かっておるのだからな」
 この日の光秀は、打ちひしがれていた。
「祈るしかない。妻木殿の回復をな」
 それから二日後、進発の用意を終え、坂本城から発した光秀一行に早馬がやってきた。
 妻木殿、逝去の知らせだった。
 その知らせに際したとき、光秀たち一行は野営のために陣幕を張り、主だった部下たちと語らっているところだった。そんな中にもたらされた知らせは、清らかな水に墨汁を一滴垂らしたかのようにじわりと広がっていく。だが、光秀はそんな中でも揺るがなかった。わずか一瞬あまり呆然としていたが、すぐに気を取り直し、やってきた早馬の者に、こまごまと指示を与えた。不思議なもので、いつもよりもなお、落ち着いて事に当たっているようにさえ見えた。
 だが、それが光秀の虚勢に過ぎぬということは、左馬助も心得ていた。
『大将たるもの、ぶれてはならぬ』
 いつぞや聞いた光秀の言葉が脳裏を掠めた。
「明日朝一番、因幡に発つぞ」
 決然と、光秀は述べた。


 左馬助は陣幕の向こうに見える鳥取城を見やった。城の周りを軍勢が囲んでいる代り映えのしない風景に飽きて、陣幕にまた目を戻すと、こちらはこちらで見飽きた風景が広がっていた。
 明智の陣幕の中、横の床几に座る溝尾が、大あくびをして軍扇で口元を隠した。この日の溝尾はおりそくをつけているだけで、鎧兜の類はつけていない。武器もわずかに飾り太刀をいているだけの軽装のなりだ。
「暇だのう」
 誰にともなく口にした溝尾は陣幕の向こうにある鳥取城を眺めた。
「仕方あるまい」
 溝尾をたしなめたのは、鎧姿の光秀であった。だが、そんな光秀も、兜は木楯と床几で作った即席の机の上に置いて、太刀も辺りにいる近習に預けている。
「秀吉殿の城攻めは、暇なのだ」
 因幡の鳥取城に救援に向かうことになったのは、羽柴秀吉の救援願いを信長が呑んだことである。
 鳥取城は一度織田に降伏したものの、もうの介入によってまた反旗を翻したといういわくつきの城だ。煮え湯を飲まされた格好になった秀吉だが、無理攻めにすることなく、城を囲み、周囲の米を買い占めて高騰させるというからめを取っている。
 ただ城を囲むだけの戦は何も面白いことがない。小競り合いひとつなく、変化があれば呼べ、と前線の将に伝えておけば、危難の多くは問題とならない。
「まったく、秀吉殿はきょうで困りますな」
 茶化すような溝尾の物言いを、光秀が退けた。
「いや。なにが大事なのかを理解しておるだけであろう。戦において最も価の高いものは何か、分かるか」
「はあ、馬ではございますまいか」
「馬だけあっても戦にはならぬ。――戦において最も価が高いのは、将兵の命よ。一人死んで、替えをこしらえようとなれば、最低でも十数年の年月がかかる」
「徴発すればよろしいのでは」
「度重なる戦で、どこの国でも人の数に余裕はない。これ以上村方から徴発すれば米や作物が減ることだろう。町方から徴発すれば、商いが滞ろう。田畑の耕しも、商いも、共に戦を行なうためには必要不可欠。どちらが欠けても、戦は立ち行かなくなる」
 光秀は今、かなり大きな話をしている。溝尾はあまりピンときていない様子で、むう、と声を上げ、しきりに首をかしげている。
 構わずに光秀は続けた。
「その点、秀吉殿は何が大事なのかを分かっておられる。人の損耗を最低限に、毛利との戦を戦っておるのだ。長い戦いでかかる兵糧米は銭で買えるが、無理攻めをして失われた兵の命は金では買えぬ。毛利との長い戦を見越して、摩耗の少ない戦略を立てておるのだろう」
 実際、秀吉の戦振りは成果を上げつつある。
 鳥取城から逃げ出してきて、明智の陣近くで力尽きた足軽の体は枯れ木のように痩せ衰え、がんは落ちくぼみ、頬がこけていた。まるで病人のようななりだ。前線を支えている足軽が飢えている――。この現実は、戦の終わりが近いことを如実に示している。
「そろそろ、京へ帰れることだろう」
 光秀はそう述べて、床几を立った。
「すまぬ、これより、秀吉殿との評定がある。ここを守っておれ」
 溝尾と共に御意、と応じると、一つ頷き、光秀は小姓を引き連れて陣幕の外へと向かっていった。
 と、光秀と入れ違いのようにして、斎藤としみつが陣幕に戻ってきた。小具足姿という軽装の斎藤の顏は、困惑に彩られている。
「どうなされた、斎藤殿」
 先ほど、斎藤宛に早馬がやってきたのだが、内密の話ということで、陣幕の外に斎藤が連れ出されてしまった。その話が終わって戻ってきたのだろう。
 斎藤は短く首を振った。
「少々、面倒なことになってな」
 溝尾が嘴を挟んだ。
ちょうに何かあったか」
 斎藤といえば長宗我部、というのは明智家中での常識といってもいい。
 どかりと己の床几に腰を下ろした斎藤は、うむ、と小さく頷いた。
「ああ。長宗我部がここのところ、妙な動きを取っていてな。どうも、織田だけではなく、毛利とも裏で繋がっておるらしい」
「それは穏やかではないのう」
 溝尾は同情めいた声を発した。
 四国の長宗我部と織田は、斎藤利三を通じてよしみを持ち、互いの地位を認めて戦を構えないという緩やかな協定を結んでいる。一方、織田は中国の毛利と激しく対立しており、羽柴秀吉を派遣して毛利支配下の国衆を攻め、国を切り取っている。そんな最中、長宗我部が毛利とも誼を通じていることが発覚した。もし兵糧米や援軍などの供出があったとすれば、協定に抵触しかねない。
 それに、ただでさえ長宗我部は妙な動きを取っている。
 天正九年二月、長宗我部もとちかは土佐国守であるいちじょうただまさを追放している。信長はあくまで一条家の家人として長宗我部を追認しているに過ぎなかった。この動きに信長も危機感を持ち、三好やごうといった勢力に援助をして長宗我部の拡大を防いでいるところだ。その矢先の毛利との協定発覚はかなり痛い。
 斎藤は沈鬱な顔を見せた。
「信長様は怒り心頭であられてな。この前呼び出されて、これはどういうことだと散々怒鳴り散らされた。むろん、わしからしても寝耳に水、どう答えたらよいものかもわからぬうちに、『長宗我部に毛利と縁を切るように言え』と言われてしもうてな」
 そこで斎藤は長宗我部に文を発したのだが、答えははかばかしいものではなかった。
「『織田家との協定はあくまで直接の敵対をせぬという取り決めである。当家はあくまでこうを大事にする家ゆえ、毛利とも織田とも等しく縁を結んでおる』というのが長宗我部の答えであった」
「なっ、それは――」
 溝尾は顔を青くした。
 左馬助にも、この言葉の重大性を理解したと共に、斎藤の憂慮の理由がわかってきた。
 織田信長は禁裏と密接な関係を結び、天下の主として振舞っている。信長からすれば、未だに帰順していない大名たちは、天下人に従おうとしない討伐の相手くらいにしか思っていない。逆に言えば、帰順、支配下に入った大名は、己の威を呑み、付き従った、と考えていることになる。だが、長宗我部はさらさら織田の威に屈したつもりはない。織田とよしみを通じつつ、毛利とも円滑な関係を結んでいることにも明らかだ。長宗我部は織田も毛利も並置できるものとして考えている。端的に言えば、長宗我部は天下人ではなく一大名として織田を遇している。
 信長の怒りは、案外その辺りにあるのかもしれない。
「今、長宗我部からその文がやってきてな。とりあえず、こちらの状況を説明して、何が何でも毛利と縁を切ってもらうように働きがけるつもりではあるが・・・」
「大変ですな」
 左馬助がそう声をかけると、斎藤は小さく頷いて腕を組み、そのまま黙りこくってしまった。
 ふと、左馬助は長宗我部の行動の意味を考えた。
 長宗我部が毛利に兵糧などの協力をしていたとしたら、この鳥取城攻めはそもそも起こり得なかったかもしれぬし、救援が必要なほどの大戦にならなかったかもしれない。また、長宗我部が四国で睨みを利かせておいてくれさえすれば、毛利は二正面作戦に出ざるを得ず、兵を常に二面に割いておく必要性が生じる。いずれにしても、長宗我部が毛利と交誼を結んでいることで、中国攻めの進捗が遅れていることにもなる。
 この戦の責任は長宗我部にあり、長宗我部の取次を果たしている斎藤利三、そしてその主君である光秀の失策にある、ということになる。もちろん、戦は複雑怪奇な様相を呈するもので、誰のせい、誰の仕業と指弾しにくいものではある。だが、信長は物事の責任を過度なまでに明確にして責め立てる癖もあり、家臣団から恐れられている。
 左馬助はこれからやってくるであろう針のむしろの日々を思った。そして、その矢面に立たされる光秀のことを思うと気が気ではなかった。


 鳥取城攻めは一月余りで終わりを告げ、光秀たちは上方に帰還した。だが、信長への報告があるゆえ、光秀は坂本に戻る前に安土へと向かった。左馬助もそんな一団の中にある。
 明智屋敷で軍旅の疲れを癒す間もなく、烏帽子を被りおうを身にまとうと、信長の待つ本丸御殿へ足を運んだ。
 唐獅子の障壁画のある謁見の間で、信長への鳥取城救援の報告がなされた。
 この日現れた信長は、やはり白い羽織に金襴袴という普段着のなりで、眠たげにきょうそくに寄り掛かっていた。そんな中、素襖姿の光秀が鳥取城での戦の有様を逐一報告した。いつもなら話の途中で信長があれこれと質問をしてくるのだが、この日に限って信長は口をつぐみ、頬杖をついて光秀を上段から見下ろしている。信長の視線を浴びる光秀は、顔じゅうに汗をかき、時折言葉をよどませながらも戦の様子を語っていた。
「というのが、戦の仕儀でございました」
 すべて語り終えた光秀のよこびんから、汗がしたたり落ちた。
「ご苦労」
 信長は一言、そう述べた。
 光秀は平伏したまま、なおも微動だにしない。
 そんな中、信長はぽつりと口を開いた。
「そういえば、妻木殿の件だが――」
 信長の口から弔意が聞かれるかと思ったが、それは違った。
「以後、側室を出す必要はないぞ、光秀」
 平伏していた光秀は思わずといった風に顔を上げた。
「聞こえなんだか。側室を出す必要はない」
 主家へ側室を上げるのは、もしもの際の人質という意味合いが強い。それが無用ということは――。光秀への信頼の裏返しということになる。
 だが、続いて信長は別の話題を口にした。
「光秀。そういえば、そこな斎藤が果たしておる、長宗我部の件はどうなった」
 下座に控えていた斎藤がびくりと肩を震わせた。鳥取城攻めの際にも芳しくないようなことを言っていたが、あれから一月も経っていないのだから、事態が好転したとは到底思えない。
 肩を震わせている光秀は平伏し、頭を畳にこすりつけた。
「まだ、話が進んでおりませぬ」
「なるほど、長宗我部の無礼を咎めぬままということであるか」
 淡々とした口調が逆に恐ろしい。信長の後ろに控える唐獅子の障壁画が、邪悪な気を発して今にも光秀に襲い掛かってくるかにも見えた。
「いえ、まだ長宗我部の本心が見えてきませぬゆえ」
 光秀の釈明を塞ぐように、信長は床几を倒した。重く、鈍い音が部屋中に広がった。
 信長は口を開いた。
「もはや明白であろうが。長宗我部は織田を天下の主と認めておらぬ」
 次第に信長の声が大きくなり始め、反響のせいか障子がぴりぴりと震え始めた。
「鳥なき島のこうもりめ。随分と思い上がりが過ぎるではないか」
 信長は床を蹴るように立ち上がると、足音高く光秀の許まで降りてきた。そして、腰の扇子を引き抜くと、その先を光秀の首にぴたりと当てた。光秀は、扇子の先を、まるで刃物であるかのような目で睨み、震えている。
「長宗我部に伝えよ。毛利との縁を切らねば直接長宗我部を叩く、毛利に味方する者はすべて敵ぞ、とな」
「・・・御意」
 蚊の鳴くような、小さな声を聞くと、ようやく満足したのか信長は部屋を去っていった。
 息が詰まるような会談が終わった。
 本丸御殿から下がるとき、光秀は一言も言葉を発することはなかった。肩を落とし、憂慮に顔を歪ませながら呆然と歩いていた。
 その次の日、左馬助は光秀と共にある寺を訪ねた。安土城にも程近いその寺の裏手にある、真新しい五輪塔の墓石を見下ろす光秀は、羽織の裾を風に揺らしていた。
「――人間、死ねばこうも小さい石くれになってしまうのであるな」
 この、人の膝ほどの高さがある墓は妻木殿のものだ。
 八月に死んだ妻木殿をいつまでも弔わないわけにはいかず、安土にいる家臣に命じて弔いを済ませた。女人のものとしては盛大に開かれた弔いの場には、様々な家中の遣いがやってくる、それは盛大なものであったという。
 五輪塔の前で腰をかがめて手を合わせた光秀は、小さく溜息をついた。
「わしは、随分と妻木殿に寄り掛かっておったのだな」
「と、いうと・・・?」
「わしはこれまで、信長様にたいしておってもなにも怖いことはなかった。それは、妻木殿が信長様のお傍におって、後で取りなしてくれるという安心感があったからであった。だが、昨日の目通りで気づかされた。信長様は恐ろしいお方であるとな」
 五輪塔をいとおしげに眺めながら、光秀は続ける。
「わしは結局、己が豪胆なのだと思い上がっておったのだ。妻木殿がおらぬようになって、初めて分かった。わしは妻木殿に助けられていたのだ。身も心も」
「殿、これから、どうなさるのですか」
「決まっておろう。利三を通じて、長宗我部を翻意させるしかあるまい。とはいえ、先の信長様のお言葉をそのまま伝えるわけにもいくまい。向こうには向こうなりの体面がある。説得の形になろう。そういう意味では、鳥取城が落ちたのはよき知らせよ。あの戦の噂は諸国に轟いているというしな」
 鳥取城での城攻めは過酷を極めた。城兵たちは飢えの挙句に馬をさばき、死人の肉までも食らったという。鳥取城の戦は“飢え殺し”という修飾と共に人々の口の端に上り、織田信長、そしてこの戦を指揮した羽柴秀吉の名は畏怖と共に語られるようになった。
「悪名の類でございましょう」
「悪名もまた名よ。これで長宗我部が恐れをなし、織田に首を垂れてくれるならばこれ以上のことはない」
 思えばこの主君も悪名と共にある。信長の命とはいえ比叡山の坊主をで切りにして回っているし、信長の代理人としての苛烈な仕儀も眉一つ動かさずに果たしている。これらの行ないが明智光秀という武将への恐怖感を高め、戦において有利に働いているというのも事実だった。将兵は敵方の武将の評判やこれまでの行ないを過度に気にする。これまで確たる功のない将が相手ならばのびのびと戦うものだし、名将が相手となればどこかその動きが鈍くなるものだ。
 だが――、懸念はいくらでもある。
「長宗我部が、意を翻しましょうか」
「するかしないかではない。なんとしても、翻意させるしかない。でなくば、我ら明智は身動きが取れなくなってしまう」
 長宗我部との太い縁は、斎藤利三、そして光秀に大きな利をもたらすはずだった。だが、気づけば大きな懸念材料と化してしまった。
「難しい舵取りになっていくであろうが、やるしかあるまい」
 五輪塔を優しげに撫でた光秀は、踏ん切りをつけるように立ち上がった。
「すっかり長居をしてしまったな。行こう」
 左馬助はしばらく、小さな五輪塔を見下ろしていた。死者は黙して語らず、面影一つ今世に残すことはなく、ただ死という結果だけがそこにある。
 いつの間にか光秀が随分遠くを歩いていることに気づき、五輪塔に頭を下げると、左馬助は光秀の背を追った。(つづく)