第四章

 天正十年六月二日夕方。薄雲が空を覆っていた。
 たん亀山城二の丸御殿の書院の間で、じゅうろうは眠い目をこすりながら書状に目を通していた。
 いくら主たる家臣たちが戦に出ているとはいっても、まつりごとの手を止めることはできない、ささいな水争いや訴訟がきっかけで一揆が発生することとてあり得る、とこれつねに釘を刺されてからは、どんな書状でも、とりあえず目を通してから印を捺すようにしている。
 それにしても――。掠れ目をこすりつつ、十五郎はぼやいた。なぜ、父上の軍はあのような刻に出立なされたのだろう、と。
 この日、あけみつひで率いるしばひでよし救援軍が亀山城を発した。だが、問題はその時刻である。深更に出立したのである。朝になるのを待ってもよいはずであったし、そもそもこの援軍は火急のものではないと光秀自身が述べていた。あえて深更に出る理由を問い質したものの、光秀をはじめ、さいとうとしみつみぞしげともあけまのすけの三家老は一切答えようとしなかった。
 だが、考えて何がどうなるでもなかった。己の仕事を果たしてしまおう、そう決めた。この丹波の地は明智家の平定から時が経っておらず、未だに反抗的な態度を取るくにしゅうも多い。光秀がいないからと手をこまねいていてはそれらの者どもの離反を招きかねない。政もまた戦を防ぐ大事な御役目と心定め、書状の山と格闘していたその時、突如、締め切っていた障子が勢いよく開いた。
「何事ぞ、騒々しい」
 外の明るい日差しが中に降り注ぎ、十五郎の目を焼く。づくえから顔を上げると、そこには惟恒とつましちろうひょうないとうさぶろうもんの三人の姿があった。
 すぐに三人の立ち姿からただならぬ気配を感じ取った。惟恒は血の気を失い茫洋と立っている。七郎兵衛は深刻げに眉をひそめ、そして内藤は心なしか鼻息荒く口角を上げていた。
 三者三様の家臣の有様に不穏なものを感じた十五郎は、文机をどけて三人に向き合い、
「何かあったのか」
 と問うた。
 十五郎の言葉に応えたのは、顔を青くしている惟恒だった。見れば、折烏帽子が傾いているのに気づいている様子もない。
「殿が、謀叛を起こされた由」
 耳を疑い、思わず出た言葉はわずかに震えていた。
「何を言っておるのだ。父上は今、もうの討伐に向かっておるはずではないか」
「それが・・・。京からの報せによれば、羽柴殿の許に向かうはずであった明智の軍が京に現れ、のぶなが公、そしてのぶただ公の滞在なさっておられる宿所を突如攻めたとのことで」
 目の前が真っ暗になった。
 父が謀叛? 信長公と、信忠公を襲った? 俄かには信じられない。信長の顏は思い浮かばなかったが、信忠の豪放な笑みが蘇る。そして、その顔を二度と見ることができないということに、十五郎は打ちのめされていた。
「なぜ、父上がそんなことを」
「今、早馬を殿に送りました」愁いを帯びた顔で、七郎兵衛は続ける。「しばし、ご返答まで時を頂く必要がございましょう」
 七郎兵衛は顔を伏せた。どうやら、三人は誰も光秀の心の内を知らぬらしい。それはそうだ。息子の十五郎にさえ、逆心があることを打ち明けていなかった。
 なぜ? なぜ? なぜ? 疑問が渦を巻く中、なぜか口角を上げている内藤が口を開いた。
「今にして思えば、謀叛の機としては絶好でござろうな」
 織田信長の有力家臣は今、皆京近辺から離れている。たきがわかずますは武田討伐の後始末のために東国におり、しばかつかついえは上杉との戦線を維持するため越前に釘付けになっている。羽柴秀吉は毛利との戦に足止めされており、もっとも京に近いところにいるながひでも、四国のちょうを攻める用意で摂津に滞在中だ。ついでに言うなら、信長の同盟者であるとくがわいえやすも、微行で堺に逗留しているに過ぎない。さらに、信長の近辺には周囲を守るわずかな供回りの他には手勢はほとんどない。つまり、京近辺にはほとんど織田方の兵がいないことになる。そこを突いたのであろう、というのが内藤の弁だった。
「情勢を聞いているのではない。なぜ父上は左様なことを、と聞いておるのだ」
「拙者は殿ではございませぬゆえ分かりませぬ。しかし、今はやるべきことがあるはず」
 声を弾ませながら、内藤は、戦でござる、と口にした。
「これより戦仕度をしなくてはなりますまい。殿、訴え文を読む暇などございませぬぞ。この内藤に下知を。戦支度を全軍にお命じくだされ」
 威圧に押し切られる形で十五郎が頷き返すと、内藤は軽い足取りで縁側を駆けて行ってしまった。
 その背中を忌々し気に見やりながら、七郎兵衛は口を開いた。
は武辺者ゆえ、戦となると血が騒ぐのでしょう。ご安心くだされ、我らでもって内藤は抑えまする」
「——父上は、拙者を信じておられなかったのだな」
「そんなことは・・・」
「あるだろう。もし信じていたのなら、事前にこの話を教えてくれておったはず。あるいは、なおも拙者のことを子供扱いしておるか。そのどちらかぞ」
 十五郎の心中は千々に乱れていた。己を蚊帳の外にしてばかりで、いつまで経っても己を子ども扱いしてばかりの父に対する怒りが心中を黒一色に塗りたくる。
「若様・・・」
 二の句を継げずにいる七郎兵衛の顔には、「お前の言う通りだ」と書いてあるように見えて仕方がなかった。
「しばし寝る。一人にしてくれ」
 二人を下がらせたのち、体を丸め、足を抱えるようにして、午睡に入った。瞼が重いはずなのに、まるで眠れずに、悶々とした時を過ごした。
 夜になって、早馬がやってきた。
 その者から受け取った折紙には、ゆえあって謀叛を起こしたこと、信長の宿所である本能寺を炎上せしめ、信忠が立てこもった二条御所を焼き討ちにしたこと、数日の内に二人の首級を挙げ、天下に号令するつもりであること、十五郎は変わらず亀山を守備してほしいという願いが見慣れた癖字で書かれていた。案の定、文の末尾には光秀の名が付されている。
 光秀の字にはまるで乱れがない。長らく父の手蹟を見てきたからこそわかる。この文をものした時の父は、明鏡止水の心持だろう。まるで名筆の筆跡をそのまま写したような力強い文字を見るにつけ、なぜか十五郎は父に突き放されたような心地に襲われた。
 やってきた早馬に、十五郎は折紙の文を託した。
 なぜ、このような謀叛を起こしたのか。十五郎が知りたいのはただそれだけだった。
 だが、一日が経ち、二日経ってもなお、光秀からの返事はなかった。七郎兵衛は落ち武者狩りにでも遭ったのかもしれませぬと述べたが、それが気休めの類であることは百も承知だった。
 京で起こったことの詳細は、戦火から逃げてきた町人たちからも聞けるらしい。嬉々とした様子で報告してくる内藤の言をまとめるなら、謀叛から三日が経ってもなお、信長の首級は挙がっていないという。信長が宿所に用いていた本能寺は寺域内に城と見紛うような御殿があり、鉄炮の為の火薬を備えていたという噂もあった。その火薬に引火したのだろうか、本能寺は驚くほどよく燃えたらしい。
「これはまずうございますな。このままでは、信長公がお亡くなりになった証がないということになり申す」
「何が問題なのだ」
「たとえば、この後、殿と誰かが盟を組むとしましょう。されどそれは信長公が死んだことを前提としたものになるはず。もし万が一信長公が存命であられ、名乗り出られようものなら、盟そのものがご破算になりかねませぬ」
「つまり、信長公の首が挙がらねば、父上はおちおち盟を組むこともできぬ、と」
「少なくとも、しばらく諸将は様子見となりましょうな」
 内藤と血生臭い話を繰り広げながら、気づけば己が現状に慣れかけていることに気づかされた。
 それから数日後、驚天動地の報せが飛び込んできた。
「何? 羽柴秀吉殿が毛利と和睦? 今、京目指して進軍中、だと」
 その報せをもたらしたのは、内藤が放った斥候であった。
「真のことか」
「間違いございませぬぞ」
「俄かには信じられぬが」
 思わずそう呟いていた。
 毛利と羽柴秀吉は長らく戦ってきた宿命の相手だ。こうも容易く和議がなるはずはないのは事情を知らぬ若造でさえ察しうるところだ。光秀も秀吉が毛利と手を組む日が来ると見通していなかったがゆえに、謀叛を起こしたはずなのだ。だが、羽柴秀吉はその不可能を可能にした。
「どうする」
 亀山は丹波の中心地、すなわちは京を目指す道筋の一つだ。当然羽柴軍がこの城を襲ってから京に向かうことも十分に考えられた。
「籠城しかありますまい」内藤は力強く答えた。「京の入り口の一つを塞ぎ、守り切る。我々に定められた役目はまさしくこれでありましょうぞ」
 羽柴軍が丹波でなく摂津に回ったと報せが入った頃、光秀から文が届いた。
「なんだと・・・」
 あまりの内容に、十五郎は声を失った。
 光秀の文には、到底承服できぬことが書いてあった。
 城兵のほとんどは丹波亀山城に遺した上、十五郎と近臣は京に向かって負傷している明智みつただを迎え、近江おうみの坂本城へ戻るべし。亀山城での籠城すらできない。近臣のみ、ということは、戦力として期待されて坂本城に戻るわけではない。
「父上は、どこまでもわしを子供と思っておいでなのか」
 折紙をくしゃりと丸め、十五郎は呟いた。
 命令を無視するわけにもいかなかった。惟恒、七郎兵衛、内藤の他、数名を自らの手勢とし、残りは亀山城の守備に当てると、十五郎は京目指して馬を走らせた。十名にも満たぬ微行であったが、その道行は比較的穏やかなものだった。京へ向かう途中にあるくつかけで落ち武者狩りに出くわしたが、始終不満げにしていた内藤が、自慢の大槍を振るって追い払ってくれたおかげで無傷で京に達することができた。
 京の町は、異様なしょうに満ちていた。
 あれほど闊達であった下京の賑わいは、まるで火が消えたように絶えている。昼間だというのに表通りの家々は雨戸を閉じており、見れば、どの雨戸にも足で蹴破られたような穴が開いている。乱暴狼藉の跡だ。道を歩く者もまばらで、時折明智のきょうもんを胴にあしらった足軽たちを見かけるほかは、あばらの浮いた野良犬がとぼとぼと歩いているくらいだった。
 これが花の都なのかと落胆しつつも今出川通りを北上して上京に向かう途中、焦げたような臭いが風に運ばれてきた。
 通りから、屋根が落ちている黒焦げの建物の姿が見えた。あれは間違いない、本能寺だ。
「見に行かれますか」
「ああ。あそこに行けば、光忠のおられるところも分かるだろう」
 七郎兵衛の促しに乗って、今出川通りから離れ、本能寺のほうへ馬を進めた。
 近づけば近づくほど、本能寺の崩落ぶりが明らかになってゆく。かつては寺域をぐるりと囲んでいた版築の塀は、何か所か崩れ落ちて中の様子が露わになっている。相当な火事であったようで、植えられていたのだろう木々も、幹だけを残して消し炭のようになり、戦場に取り残された旗指物のように立っていた。本堂に目をやれば、火が回ってしまったのか屋根の中央が崩れるように半壊しており、かろうじて立っている柱も、風が吹けば倒れてしまいそうになりながらも、重みに耐えていた。もう少し進むと、開け放たれた寺の正門が見えてきた。柱や扉には未だに刺さったままの矢が数多く残されている。嵐のような矢玉に晒されたのが目に見えるようだった。
 本能寺の周囲には、桔梗紋の旗印をはためかす騎馬武者たちや、桔梗紋の胴を纏った足軽衆が陣を張り、どこから湧いて出たのかわからぬ野次馬たちを槍で牽制している。京の町人たちも怪我をしてはつまらぬとばかりに遠巻きにしている。
 そんな中、十五郎たちはあえて野次馬の前に出た。
 本能寺前にたむろしている足軽たちが十五郎一行に気づいてやりの穂先を向けてくる。一瞬躊躇したものの、後ろに控えていた七郎兵衛が声を上げた。
「拙者たちは明智十五郎様の一行である。ここの頭は誰ぞ」
 ややあって、寺の中から陣羽織に戦直垂姿の将が現れた。見覚えがある。亀山城での年始挨拶の際、大広間の後ろの方で頭を下げていた男だ。向こうもこちらの顔を覚えていたらしく、煤で汚れた顔を袖で拭い、その場に跪いた。
「光忠小父はどこにおられる。お怪我をなされたとのことだが」
 本能寺を囲む頭は、ここから程近い寺の名前を告げた。
 寺に向かう道すがら、十五郎の手綱を引く七郎兵衛が顔を曇らせた。
「本能寺にあれほど人が残っているということは、まだ信長公の首級は見つかっておらぬことになりますな」
「と、いうことは・・・」
 盟が成らぬやもしれぬ。いつぞやの内藤の言を思い出し、背中に冷たいものが走った。
 十五郎は振り返り、焼けた本能寺の方角を見遣った。その方角には嫌な雲が垂れ込めている。
「行きましょう。若様」
 不安を振り払うように、決然と七郎兵衛は口にした。
 光忠が運び込まれたという寺は、今出川通りを挟みつつも、本能寺から程近い中京にあった。戦の被害はなかったようで、門といい、伽藍といいまったくの無傷だった。
 外から呼ばわると、白いひげを蓄えた老住持が現れた。だが、名乗った後も歓迎してくれるような風は一切なかった。近所の檀家を迎えるような態度で十五郎一行を迎え、寺の中を案内した。
「明智様方の怪我人を受け入れましてなあ」
 本堂の戸を開くと、うめき声が十五郎の耳に届いた。しばらくするうちに目が慣れてきて、奥の仏像の穏やかな笑みが見えるようになった頃には、足元に広がる地獄絵図もまた露わになった。本堂の中はほとんどがらんどうになっており、血染めの晒を巻かれてうめいている男たちが芋虫のようにうごめいていた。どう見ても死期の近い人々に、若いうんすいたちはしきりに声を掛け、口に匙を運んでいる。
 抹香の香りと共に、血と膿の匂いが鼻についた。
 見れば、本堂の隅、仏画が描かれた屏風で区切られた一角には、ぴくりとも動くことなく筵の上に横たえられ、顔に白い麻布を掛けられた者たちの姿があった。足軽なのだろう、粗末な服に身を包んだそうしんの男の肌は黒く色を変じ始めており、枕元に置かれた小さな香炉が煙を吐き出していた。
 思わず口を押さえる。
「必ず、この恩義には報いるゆえ・・・」 
十五郎を眺めながら、老住持は穏やかな口調で続けた。
「必要ございませぬ。ただ、御曹司殿にご覧いただきたかったのです。貴殿らがこの地獄をこの世に現出させたのだと」
 胸を射抜かれたような痛みが走った。
 後ろで内藤が殺気を発したものの、手で制した。
 ふむ、と鼻を鳴らした老住持は、奥の部屋へと十五郎たちを招き入れた。
 北に面したその部屋は、八畳ほどの小部屋だった。だが、本堂で雑魚寝させられている者たちよりははるかに待遇もよい。夜着も用意され、枕元には水の張られたたらいに血染めの手ぬぐいが浸してあり、慈母のごとき目つきで夜着の中に包まる者を見遣る若い雲水の姿があった。だが、十五郎たちの姿に気づくや、雲水はまつげを伏せ、席を外した。
 部外者がいなくなってから、十五郎は声を発した。
「光忠小父」
 夜着がごそごそと動いた。もう一度声を掛けると、横たわっている人物は夜着を自らの力で剥がした。
「よくぞ生きていらっしゃいました」
「あ、ああ」
 小さくなった。それが、光忠の印象だった。
 かつてはもう少し福々しく、智の香りがした。だが、今の光忠からは色濃い暴の香りが漂っていた。見れば、えりをからげた左肩を晒で巻いており、血が滲んでいる。
「どうなさったのですか」
「ああ、しくじってしもうたわ」
 光忠がたどたどしく口にするところでは、本能寺を焼き討ちにした際、寄せ手として兵を率いていた最中、功に逸って炎上する本能寺に突入し、織田方の手ひどい反撃に遭ってしまったのだという。近くにいた家臣数名は死に、光忠も左肩に矢を受けた。
「膿んでしもうたようでな、しばし、熱に浮かされておった。ようやく熱も下がったのだが・・・。高い教授料であったな。物事を広く捉えよと説教しておきながら、わし自身がこの体たらくであるわ」
「ご無事で何よりでした。――ところで光忠小父、なぜこんなことになったのでしょう。なぜ、父上は信長公を攻めたのでしょうか」
「わからぬ」光忠は首を振った。「信長公を攻めたと聞かされたのは、実はこの寺に運ばれてからのことであった。それまで何も知らされなかったゆえ、徳川三河を攻めたのだと合点しておったくらいぞ」
 光忠の言が正しいとすれば、ごくごく近臣の者にさえ、今回の謀叛の内実を説明していないことになる。光忠は御一門衆の中でもかなり席次が上のはずなのに知らされていないとなれば、光秀直近の家老くらいしか事態の真相を知らぬという可能性さえある。
 そこまで思い至った時、どこかほっとする十五郎がいた。だが、結局のところ、それは父に疎まれている我が身を慰めるための材料を探しているだけだと気づかされ、そんな心根で光忠と相対している己に嫌気が差した。
「光忠小父」努めて冷静に十五郎は言葉を紡いだ。「父上より、光忠小父を坂本城までお連れするようにと命じられております。御具合が悪いのは承知の上。ついてきてくださいますな」
 光忠は、天井を見上げた。しばし、遠い目をすると、短く嘆息をした。
「ああ、よかろう。我らは既に使えぬ石でしかない。ならば、戦の盤面から離れるのが吉というものであろうよ」
 次の日、十五郎一行は、光忠を戸板で運びつつ、坂本城を目指した。寺に遺した負傷兵たちのうめき声は、いつまでも十五郎の耳の奥に響いていた。
 京を離れる時、西の空が途端に暗くなり、遠雷の音が響いた。
「これは大雨になりますな。降られぬうちに道を急ぎましょうぞ」
 惟恒に促されるがまま、逃げるように東へと急いだ。


 久方ぶりの琵琶湖は、空の色を映し、灰色に濁っていた。心なしか波も高い。
 胸騒ぎを覚えながらも坂本城に入った頃には、夜も近付いていた。
 門をくぐったその時、家臣たちから歓迎の声が上がった。見れば、懐かしい顔の者たちもいる。亀山城に連れていくことのできなかった家臣たちは、久々に故郷に戻ってきた子供を迎える親のような顔をして十五郎一行を出迎えてくれた。
 雲が渦を巻く悪天の中、坂本城の五層の天守は白亜の無垢さを湛えたままで屹立している。東の安土城、西の坂本城と謳われた近江の双璧を成す名城は、雲行きの怪しい天気の中でも、その威容を誇り続けていた。
 旅の垢を落とし、人心地ついた頃には夜になっていた。
 白無垢の寝間着に身を包み、書院の間のきょうそくに寄りかかった頃には、外はすっかり真っ暗になり、雨が降り始めていた。
 下座にある惟恒は、皺だらけの顔をしかめ、縁側の外の雨模様を見上げていた。
「これは、大雨、ですなあ」
 ひさしから滝のように雨水が落ち、庭先の地面を穿っている。縁側はすっかり濡れ、闇の中、ぬらぬらと行燈の光を滲ませていた。
 十五郎も頷いた。
「ああ。父上が心配であるな」
 相変わらず、いくらこちらから送っても、光秀から文が戻ってこない。だからこそ、自らの家臣を用いて周辺の情勢を調べるしかなかった。その点、内藤は大変役に立つ。
 現在の情勢を知れば知るほど、惨憺たる気分にならざるを得なかった。
 唯一の救いは、柴田勝家と滝川一益が動けないということだろうか。越前に陣を張っている柴田は上杉と対陣しており、わずかにでも隙を見せれば噛みつかれる。一方で東国にいる滝川は武田びいきであった国衆が反乱を起こしているらしく、畿内へ引き返すことができずに立ち往生している。
 当座の敵は、羽柴秀吉であるといっていい。だが、敵もさるもの。摂津の織田恩顧の大名を糾合したのみならず、四国に向かうはずが変事に際して摂津から動くに動けなくなっていた丹羽長秀をも味方に引き入れ、今や、羽柴秀吉を中心とする反明智軍は数万の威容を誇っている。
 一方の明智陣営はかなり苦しい。
 与力のながおかふじたかつつじゅんけいはどちらも動かない。光秀からすればこの謀叛において必ずや助力してくれると見込んでいたはずだ。しかし、実際のところはといえば、藤孝は息子のただおきともども剃髪をして信長への弔意を示し、さらには忠興の正室である光秀の娘、玉を幽閉したことで、自らの立場を鮮明にした。一方の筒井順慶は再三の勧誘にも応えようとせず、大和から出馬する様子がない。
 さらに――。
のぶずみ公が、しょうがいされた由』
 部下の報告を聞いた際、十五郎は思わず感嘆の声を上げてしまった。
 本能寺で変事が起こった際、信澄は丹羽長秀とともに堺にいた。ところが、信澄の妻が光秀の娘であることを理由に、丹羽が謀殺を図ったようであった。恐らく、信澄は何も知らされてはいなかったろう。もし事前に光秀の逆心を知らされていたなら、何かしら行動を取ったはずだ。丹羽と共に進退窮まり、手をこまねいていたというのが何より信澄の置かれた状況を物語っている。それを知りつつ謀殺という愚行に走った丹羽長秀へ怒りを一瞬だけ覚えたものの、十五郎は首を振った。そもそも、このような事態をしゅったいさせたのは、己の父の行ないのせいだった。
 周囲の情勢を調べるということは、見知ったものたちの死と向き合うことでもあった。その中には、二条御所で奮戦し、切腹して果てた織田信忠の最期も含まれている。謀叛人の子という立場では弔うことはおろか、偲ぶことさえ許されないような気がして、坂本城の本丸仏間にある仏壇に手を合わせようとしてめた。
 近しい人の死に揺らぎそうになりながらも、十五郎はなおも天下の情勢を頭の上に思い浮かべた。
 摂津の大名衆を糾合した羽柴秀吉は、淀川を北上し、京へと進軍してくる構えだ。迎え打つ光秀たちは京への入り口を扼する山崎天王山近辺に陣を張り、対陣を張った。態度をはっきりさせない筒井順慶は結局明智軍に合流することなく、傍観に回った。純粋な数は羽柴軍のほうが多いが向こうは寄せ集め、一方の明智軍はほぼすべてが自らの手勢だ。さらにこの雨では、どちらが勝つものか、容易には測ることができない。
「父上は、凍えておられぬだろうか」
 なぜか、雨の中、鎧を纏って南を睨む父親の姿が思い浮かんだ。
「すまぬ、忘れてくれ」
 投げやりにそう述べ、雨降りしきる庭の外へと目をやっていると、廊下から足音が聞こえてきた。その遠慮のない音はどんどん此方こちらへと近づいてくる。
「若様」
「どうした、珍しいな。そなたがそんなに慌てるとは」
 襖を開いたのは七郎兵衛であった。挨拶もそこそこに部屋に入ってくるなり、七郎兵衛は十五郎に耳打ちをしてきた。
 すべてを耳にした十五郎は、思わず七郎兵衛の顔を覗き込んだ。目の前にある七郎兵衛の顔は、ここ数日の間絶えて見ることのなかった、屈託のない笑みそのものだった。
「真か、それは」
「はい、間違いありません」
 召し物を着替え直し、しばらく書院の間で待っていると、やがて縁側から一人の少年が現れた。旅の垢を落としていたのだろうか、頬がわずかに濡れ、服も藍色の羽織に折り目の正しい袴に代えられている。すっかり見違えた。二年前に別れた折には、互いにまだ分別の利かぬ子供だった。年子だから、今年で十二歳になる。だが、既に前髪は落とされていた。
 躊躇なく下段に座った少年は、ゆっくりと頭を下げた。
「ご無沙汰いたしております、兄上」
「息災であったのだな、じゅうろう
 目の前に現れたのは、筒井順慶の養子に出されていた、弟の十次郎だった。
「だが、なぜここに」
 筒井順慶が傍観に回っているという知らせを聞いた時、二度と会えぬと覚悟を決めていた。戦がどう転んでも、他家の養子であった子の運命は暗い。それだけに、無事に戻ってきたことが奇瑞のように思えてならなかった。
「それが――」
 筒井家内部で、謀叛人光秀の次男坊の処遇が大問題となった。一時はくびを斬り落とし光秀に送ればよいという過激な意見も台頭し、長岡藤孝が嫁である玉にしたように、幽閉すればそれでよいのではないかという穏便な意見もあった。そんな中、筒井順慶はこう述べた、らしい。
『坂本城にお送りして差し上げろ』
 かくして、わずかな供回りと共に、十次郎は坂本城への帰還が成った。
「おお、順慶殿には感謝せねばなりませぬな」
 話を聞いていた惟恒は、今にも泣き出さんばかりに声を震わせた。だが、当の十次郎本人が首を横に振った。
「恐らく、義父順慶は、明智との関わりを煩わしく思われたのでしょう。ゆえに、玉虫色の解決を図ったのではないでしょうか」
 声変わりすら怪しい高い声で、十次郎は朗々と続けた。
「手元に拙者を置いていれば、もし羽柴殿が勝った際、妙な疑心を抱かれかねませぬ。されど、拙者を坂本城に返せば、どちらにも言い訳が叶いましょう。羽柴に対しては〝縁を切るために坂本へ返した〟、明智へは〝大和では御身が危なかったゆえ、一時坂本に避難させた〟と言い逃れできますゆえ」
 筒井順慶の深謀遠慮を見たとともに、弟の姿に目をみはっていた。
 養子生活の労苦が目に見えるようだった。きっと、筒井家臣団の冷たい視線に耐え、周りの人々の顔色を窺うがごとき日々だったことだろう。二年余りの間に見違えるほどに成長した弟に感嘆を隠せずにいるうちに、そういえば、と十次郎が口を開いた。
「順慶殿より、兄様へ伝言がございます。〝これでそなたの願い通りになったな〟とのこと。十次郎にはなんのことか分かりませぬゆえ、このままお伝えいたします」
 二年前の記憶が蘇る。弟を連れていかないでくれと順慶に頼んだあの日。順慶は間違いなく、あの日のことを言っている。
 だとすれば。
「皮肉なお人だ」
 苦笑いを浮かべるしかなかった。
 弟が帰ってきた。そのことは嬉しい。だがこれが、明智家という巨船のもやいが一つ外れ、沖に流されつつあることを意味していることがわからぬほど、十五郎は子供というわけではなかった。そして、漕ぎ手をなくした巨船は、やがて大きなうねりに巻き込まれるであろうことも。
 雨はまだ、降り続いている。なおも止む様子はない。


 次の日の夜、坂本城に悲報がもたらされた。
 明智軍、敗北。
 早馬は、明智家の命運を非情に告げた。破れを背負い、無数の矢傷が体中に走る武者は、絞り出すように京郊外の山崎で開かれた戦の大敗を語った。
 この報を惟恒、七郎兵衛、内藤、そして十次郎とともに聞いた十五郎は、もたらされた話を呑み込むのにしばしの時を要した。
 先日より雨の中対陣していた両軍であったが、この日の夕方、先端が開かれた。織田信長の弔い合戦を期した摂津衆の活躍により明智方は甚大な被害を受け、しょうりゅう城へと退却した。もっとも、羽柴方の受けた被害も相当なものであったようで追撃の手は緩かったようだが、明智方の兵たちは負け戦を悟り次々に逃散、もはや明智方の兵はほとんど残っていなかった。俄かな立て直しは不能と悟った光秀は、わずかな手勢と共に勝竜寺城を脱出、今のところ行方はようとして知れない・・・。
 これ以上ないほどの敗北と言わざるを得ない。光秀は持ちうる限りの兵力を率いていたはずだが、総崩れになってしまった。つまり、もう明智家側には打つべき石が一つも存在しないことになる。
「どう、なさいまするか」
 諦めの色を隠さない惟恒は、ぽつりと問うてきた。
 上段に座っていた十五郎は脇息に寄りかかり、ごうてんじょうを見上げたものの、容易に答えは出てこない。真っ白になりそうな頭に無理矢理今の状況を押し込んで、思考をやめまいともがき続ける。
 羽柴秀吉の許に参上し、命を乞う? 馬鹿馬鹿しい。謀叛人の子だ。間違いなく首を刎ねられてしまう。坂本城の城兵を集めて糾合し、秀吉相手に一戦仕る? 坂本城にいるのは後方にいる守備兵、戦いに行くなどという心構えのできておらぬ者ばかりだろう。一つずつ取りうる道を塞ぐうち、結局坂本城に拠る者たちには一つしか行く先がないことに気づいた。
「籠城、しかあるまいな」
 堅城を恃み、城に籠る。それしか採りようがない。
 だが、ふいに廊下側の襖が開き、奥から反対の声が上がった。
「石が利いておらぬな」
 左手を吊った、光忠だった。陰鬱な表情を隠さない光忠は、右腕に碁盤を抱えている。ふらふらとした足取りで縁側に向かい、雨がちの空を見上げながら、碁盤に石を並べ、ぶつぶつと何事かを口にしている。誰かに話しかけているというよりは、己の夢に引きこもっているようだった。
 光忠の声が念仏のようにも聞こえ、陰鬱な評定の場をさらに沈ませた。
 十五郎にとてわかっている。籠城は愚策中の愚策だ。
 籠城が効力を発揮するのは、他の城や本拠地との連携が取れている場合だ。本拠地を守るための壁として、あるいはどこかからやってくる救援に期待するのなら、籠城はこれ以上ない策だと言えるが、敵が京、摂津を掌握し、丹波との連携が断たれた今、この坂本城はどんづまりの城になってしまう。ここで籠城したところで、時を無駄に稼ぐばかりでいずれは負ける。光忠の言う『石が利いていない』というのは、これを指したものだろう。
「光忠様のおっしゃる通り。ではやはり、打って出ましょうぞ」
 内藤が前に出て頭を下げる。だが、七郎兵衛が十五郎との間に割って入った。その声音には鋭い怒りが滲んでいる。
「内藤殿、坂本城の城兵で、左様なことができると思われるか」
「できずともよい。武士として、華々しく死ねるのならこれ以上なく本望よ」
「馬鹿な。頭を冷やされよ」
 七郎兵衛の尖った声に顔をひくつかせた内藤は、無造作に拳骨を握り、七郎兵衛の頬を殴りつけた。止めようと割って入った惟恒や、騒ぎを聞きつけて部屋に入ってきた家臣たちを殴りつけながら、内藤は怒鳴り散らした。
「俺は、天下の明智の旗印の下で戦える日を待っていたのだ。だというのに、連歌に茶三昧の若様の御守りなんぞやりとうなかった。天下の大戦で名を上げたかったのだ」
 ようやく内藤の本音を知ることができた。だが、喜びはない。むしろ、落胆が十五郎の肩にのしかかってきた。
「内藤」
 十五郎の口から、冷たい声が出た。十五郎自身が面食らうほどに冷え冷えとした声は、部屋の中に満ち、殊更に響いた。
 あれほど暴れ、周囲の侍たちを殴りつけていた内藤も、十五郎を見やるや息を呑み、正気を取り戻したように肩を落とした。その機を見計らい、十五郎は穏やかに言葉を発した。
「すまなかった。拙者の御守り、さぞつまらぬ日々であったろう。今更詫びても手遅れかもしれぬが」
 十五郎は上段で頭を下げた。
「堪えてくれ。頼む」
 家臣からすれば仕え甲斐のない主君であったろう、と十五郎は心中で独り言ちた。既に元服も済ませているというのに戦に出ることなく、毎日のように茶や和歌にうつつを抜かしている。天下一の大名家であった織田家の重臣明智家に仕官した者からすれば、戦で大功を立て、立身を果たしたいと考えるのは自然なことだ。己が不甲斐ないせいで、家臣の望み一つ叶えることができず、こうして無理を命じることになっている。
 惟恒の襟を掴んでいた内藤は、手を放し、周囲の侍たちの手を振り払うとその場にどかりと座った。床を殴ることでやり場のない怒りを示し、ついには泣いた。虎の咆哮のような泣き声が部屋に満ちる。
 男泣きの声が部屋にこだまする中、七郎兵衛が十五郎に問いかけてきた。
「これから、どうなさいましょうか」
 逃げる選択肢があることは、十五郎も気づいている。家臣の多くをこの城に遺し、近臣たちと共に秀吉の手の届かぬところまで逃げ切ることができれば、命だけは助かるかもしれない。だが、父が戦に負け、明智の名は地に落ちた。再起もままならぬ中、逃げたところで何の意味もない。
 ならば――。十五郎は決めた。
「籠城を取るべし」
 秀吉を最後まで手こずらせてやろう。最期の最期まで抵抗して、明智は敵ながらあっぱれであったと言わしめよう。
 十五郎の覚悟を読み取ったのか、七郎兵衛は強く頷いた。
 次の日から、坂本城では籠城の準備が始まった。守備兵や近隣の町人を徴発し、町や城に土塁を作り、敵方の侵入に備えさせた。天守に登り作業の様子を見下ろしていると、ふいに違和感に襲われた。多くの人々が駆り出されているはずなのに、活気がまるで伝わってこない。死人が土塁を積み、丸木柵を立てているようにさえ見える。
 死の迫る城は、このような貌を見せるのか――。十五郎は、勝てるあてのない戦に臨まんとしている城を見下ろしながら、一人ため息をついた。


 昼過ぎになって、奇貨が十五郎の許にもたらされた。
 坂本城には山崎の戦での敗残兵が合流してきている。あの戦では槍を合わせる機会のなかった兵たちが十五郎たちの動きを知り、もう一戦戦うべくつどっているようだ。そんな中に、十五郎は見慣れた顔を見つけた。
「無事で何よりぞ」
 書院でこれまでの労苦をねぎらう。だが、目の前の男―-明智左馬助は、濁った眼をうつろに十五郎に向けるばかりだった。
 明智左馬助といえば、明智主従の中でも一二を争うほどの猛将のはずだった。
「これまで、何をしておった」
 思わず、そう問わずにはいられなかった。
 埃っぽい戦直垂姿の左馬助は、言葉少なに語り出すところでは――。
 本能寺の焼き討ちの際には率先して働いた。それからは、近江の平定に動き、安土城の接収などに従事していたものの、山崎の戦での明智軍敗北の報に触れ、安土城を放棄した。
「あの城では戦えぬと判断いたした。あの城は、あまりにも防御に向かぬし、もうを始めとした近江衆の動きも気になった。ならば、坂本城のほうがまだ籠城できると断じ、ここまで参った次第」
「ありがたい。左馬助が来てくれれば百人力というもの」
「百人力などあったところで、焼け石に水でございますがな」
 力なく左馬助は笑うばかりだった。
 そしてもう一人、坂本城に重臣が舞い戻ってきた。
 家老の一人、溝尾茂朝だった。
 目通りをした際、思わず声を失った。着ている戦直垂は枝葉や刀傷でところどころが破れてほつれ、小具足姿で烏帽子はいつの間にか失われている。藪を漕いだのか、顔には無数の切り傷がついている。そして何より、顔からは覇気が失われていた。明智の三家老として名を馳せ、見送りの際には馬上で胸を張って全身から自信を漲らせていた名将が、わずかの間に二十は年を取ったように感じられた。
 十五郎の顏を見るや、溝尾は畳の上に突っ伏し、泣いた。
 なにがあったのだ、と何度も問うと、震える声で溝尾は口にした。
「若様、拙者を手討ちにしてくだされ」
「どういうことぞ」
「拙者は、みすみす殿を見殺しにしてしもうたのです」
 溝尾が言うには――。
 山崎の戦で敗北し、勝竜寺城からも脱出した光秀一行は、一路本拠地の坂本を目指した。その中に溝尾の姿もあったのだが、京の東、近江に向かう途上にあるぐりの山道を抜けている最中、落ち武者狩りに出合ってしまった。そこで致命傷を得た光秀は己の再起不能を悟り、溝尾に介錯を命じた。溝尾は首を抱えて坂本城まで落ち延びんとしたのだが、落ち武者狩りの追及が厳しく、首を泣く泣く道中の藪の中に隠し、こうして一人、坂本城まで戻ってきた。
「なんと」下段で話を聞いていた惟恒が声を尖らせた。「ご家老は、殿の首級をお捨てになられたというのか」
 やめよ、とたしなめ、十五郎はなおも平伏したままの溝尾を見下ろした。その体は小刻みに震えている。
「面目次第もございませぬ。若様、なにとぞ、なにとぞ」
「そなたを殺せというか」
 溝尾は顔を上げた。その顔は、涙でくしゃくしゃになり、目は赤く充血している。
「殺さぬ。そなたの命を取ったとて、父は帰ってこぬ。むしろ、よくぞ父の最期を伝えてくれた。礼を言う」
 溝尾は糸の切れたぐつのように首を垂れた。
 目通りを終えた十五郎は、戦直垂に身を改め、茶室に籠った。
 客などいない。ただ、己の為に茶を点てる。
 火も自ら用意した。炭をかけてやってしばらく待っていると、茶釜がすんすんと音を立て始めた。蓋を開いてやると、気泡が二つ三つ、虫が走るように湯の中を泳いでいる。宗及の極意によれば、小さな気泡が茶釜の中で踊るくらいの熱さの湯が、最も茶葉の甘さを引き立てるという。
 匙で抹茶を茶碗に入れ、杓で湯を掬うと、ちゃせんで茶を練り始めた。辺りに青々しい葉の香りが満ちてゆく。ようやく練れたところで、もう一度杓で湯を掬って茶碗の中に注ぎ、二回ほど茶筅でかき回すと、誰も座っていない差し向かいの席に茶を勧めた。
 これまで光秀に茶を献じたことがなかった。そんなことを思い起こしながら、今度は己の為の茶を点てるべく、茶碗を手元に引き寄せた。
 光秀が死んだ。
 覚悟はしていたはずだった。山崎の戦で明智軍が大敗を喫したと耳にした時から、こうなることは頭では分かっていたはずだった。だが、現実として己の前に示されると、また別の思いが浮かんでくる。
 目の前の茶は、混ぜ方がよくないのか、になってしまっている。いくらかき回しても消えることがない。仕方なく、湯を足して四回ほどかき回し、一気に呷った。苦々しい味が時々舌に乗り、びりびりとした感触を残す。
 茶の香りだけは、いつものように辺りに満ちている。何もかもが、終局に近づいているというのに。
 六畳一間の茶室。その床の間には、菖蒲の花が描かれた軸がかかっている。
「時は今 あまが下しる 五月かな」
 ふと、愛宕あたごやまでの連歌会での光秀の発句を思い出した。
 天が下しる。〝天下が平らかである〟という意味とも取れるが、読みようによれば〝天下を平らかにする〟とも解釈できる。である、と、する、では大違いだ。もし、あの時の光秀が、する、という思いを込めてあの句を詠んでいたとしたら――? 思えば、「時は今」の「時」も気になる。あれはまさか、「」を掛けてはいなかったか。明智家は美濃の名族土岐氏を名乗っている。だとすれば、あの上の句は、土岐氏である己が天下を治める五月、と解釈できはしないだろうか。
 この句を詠んだ時の光秀の反応も思い出される。直前まで物憂げにしていた光秀は、百韻を終えた後は妙に晴れやかではなかっただろうか。
「父上」
 聞きたいことは山ほどあった。だが、もう、光秀はどこにもいない。
 父親のために供えた茶は、いつしか湯気が立たなくなっていた。
 その日の夜、七郎兵衛から報告を受けた。
「内藤殿の放っておられる斥候の報告によれば、羽柴軍の一部が坂本に向かっているとのこと。明日には、坂本にまで達するとの見通し」
 冷たい感触が背中に走った。これまで目を背けてきた死の一字がのしかかる。
 行燈一つつけていない書院で脇息に寄りかかり、月一つ見えない空を見上げながら促すと、七郎兵衛はわずかに声を詰まらせながら、続けた。
「近江の織田恩顧の大名たちも気炎を上げている様子でございます」
 これも容易に想像がついた。安土城近辺を始めとする近江一帯は、信長の近臣の領地として分配されていた。本能寺の焼き討ち近辺では浮足立ち、その機をついて左馬助が安土城を奪っていたから大きな叛乱はなかったが、光秀が死んだ今、近江衆は大っぴらに動くことができる。
「城兵の様子はどうなっている」
「それが・・・次々に逃散をいたしており」
「だろうな」
 天守の上から眺めた兵の様子から、察しはついていた。誰だって命は惜しかろう。逃げられぬのは、あくまで主君の都合であって、下々の者には関係がない。
 十五郎はゆっくりと立ち上がった。
「いずこへ」
「夜の琵琶湖を眺めとうなったのだ」
「夜の一人歩きは危のうございます」
 眉をひそめる七郎兵衛を前に、力なく、十五郎は笑った。
「どうせ、明日には儚くなる身よ。もしよい消え失せるなら、それはそれでわしの命運だっただけのことではないか」
 腰に太刀を佩き、戦直垂の上に陣羽織を纏った十五郎は、何も言えずにいる七郎兵衛を残して城を出て、一人、琵琶湖畔へと向かった。
 月明り一つない夜、ほとりに立った十五郎は、寄せては返す波音を聞いていた。
 坂本で生まれ育った十五郎にとって、琵琶湖の波音は子守歌だった。波濤の歌声に耳を傾けるたびに、さまざまな記憶が蘇る。死に別れた母のわずかな面影、嫁に行った姉たちの寂しそうな顔、そして妻木殿の最期。そのすべてが波間に刻まれている。
 白い砂浜に腰をかけ、十五郎は目を凝らした。だが、月明り一つない中では、闇がすべてを呑み込まんと口を開いているばかりだった。
 風が頬を撫でてゆく。
 しばらく闇に目を向けていると、後ろで枯れ枝を踏んだような音がした。
 恐ろしくはなかった。波風に身を洗っているうちに、恐怖もこそげ落ちてしまったようだ。ゆっくりと立ち上がり、腰の太刀に手をやることもなく振り返る。
 そこには、見慣れた人物が立っていた。
「左馬助殿」
 明智左馬助だった。夜だというのに小具足を外すことなく、謹厳な顔を崩そうともしない。腰には飾り気一つない太刀を佩いている。夜のとばりのせいで、顔色を測ることができなかった。
 どうなさいましたか、と声を掛けると、左馬助は無感動に口にした。
「溝尾殿が、腹を召され申した」
「左様か」
 あまり驚きはしなかった。
 死なせてくれ、手討ちにしてくれ、とうわ言のように繰り返していた溝尾のことを心配し、あてがった部屋の外には人を配していた。だが、家臣の目をかいくぐり、己の腹に刀を突き立てたのだろう。溝尾の魂が救われることを、今はただ祈っていた。
「そういえば、斎藤利三殿はどうなさったのであろうな」
 三家老の一人で、唯一行方知れずになっている。
「さあ。皆目見当もつきませぬ。が、あの男には期待しても仕方ありますまい。死んでいても生きていても、この籠城に間に合うとは思えませぬな」
 砂浜に落ちている小石を拾い上げた左馬助は、真っ暗な水面に向かって石を投げた。ぼちゃん、という音だけが辺りに満ちる。
「明日が、いよいよ最期の刻でござる」
「ああ」
 喉の奥がかすれて変な声になってしまったが、左馬助が気にしている様子はない。
 明日、この城は囲まれる。城を支えるべき兵は満足な頭数を揃えることができぬばかりか逃散すら起こり、家老の内の一人が戦う前に腹を切ってしまうような内情の城に、だ。もし戦となればひとたまりもあるまい。
 砂浜に腰を落とした左馬助は自分に言い聞かせるように口を開いた。
「拙者には、家老としての責がござる。武運拙く、明智家は負け申した。敗軍の将として、晩節を汚すことはできませぬ。拙者は、武門にある者として従容たる死を選ぶ所存でござる」
「そうか。よき心がけぞ」
 もはや逃げ場はない。父が死んだ。もはや明智家の命運は風前の灯火。そんな中で生きていようとも思えない。ならば、華々しく散り、明智家の最期を飾るのも一興かもしれない。天下に知られた名将明智光秀の息子が、無様な死に様を晒してはならぬだろう――。そんなことをつらつらと考えていると、左馬助は予想だにしないことを口にした。
「されど、若様には、お逃げいただきますぞ」
「なんだと?」
 一門衆格とはいえ、家臣である左馬助が散華すると言っているのに、光秀の嫡男が逃げるわけにはいかない。それがわからぬ左馬助ではないはずだ。
「なぜだ。生き恥を晒せと」
「はい。それが、殿の思いゆえ」
「父上の?」
 思わず頓狂な声を上げると、左馬助はぽつりと続けた。
「殿はいつでも、若様のことを案じておられた。であるからこそ、殿はあのようなことをしでかしてしまわれたのです」
「どういうことだ? 拙者の為に謀叛を起こした? 拙者はそんなもの、何一つ望んでおらなんだぞ」
「ええ、若様は望んでおられなかったでしょう。されど、恐れながら、若様はあまりにお若いがゆえ、見えておらなんだものがあまりに多い。殿は、若様の目には映らぬ危難から、若様を守る心づもりだった」
 以前、光忠にも似たようなことを言われたような記憶がある。広い視野を持て、と。
 もしや――。
「何か、拙者に大きな見落としがあるというのか」
「然り」
 痛いほどに、波の音が耳に響く。
「なんだというのだ。なぜ、父上は謀叛など起こされたのだ」
「お話しいたしましょう。されど、どこからお話ししたらよいのやら。殿が謀叛をご決心なされたのはごくごく最近のこと。されど、今にして思えば、随分前から謀叛への道筋ができていたように思えてなりませぬ」
「話してくれ」
 重ねて頼むと、左馬助は、かしこまりました、と口にした。
「いつからお話しするのがよろしいか。きっと、若様が前髪を落とした、三年ほど前から話を始めなければなりますまいな」
 かくして、左馬助は、己の見た光景をとつとつと口にし始めた。
 波が寄せては返す。まるで、左馬助の語る物語を、波間に呑み込まんとしているかのようだった。そして左馬助は、己の物語を波に刻むように、ゆっくりと言葉を紡いだ。十五郎はただ、そんな左馬助の言葉に耳を傾け、静かに己の身と心を寄り添わせた。
 いつの間にか、琵琶湖の波音が遠くなった。(つづく)