第三章

 縁側から庭に降り立ったじゅうろうは、屋敷の屋根越しにそびえる煌びやかな五層の天守を見上げ、小さくため息をついた。時折吹く冷たい北風が十五郎の羽織を揺らし、安土山を越えてゆく。
 てんしょう十年の正月、十三歳となった十五郎は、父の光秀とともに安土城にあった。信長への年始挨拶のためである。
 光秀が安土城本丸に登っている間、十五郎は明智屋敷に留め置かれている。十五郎に対しては、本丸への昇殿許可が下りなかった。元服してから早二年になるが、正式の拝謁が叶ったのはわずかに一回。話によればながおかただおきなどは既に何度も信長に謁見し、様々な贈答を受けているという。
 どういうことだろう。屋敷の中に戻り、部屋の中で脇息に寄り掛かって悶々としていると、縁側からつましちろうひょうが声を掛けてきた。
「若様、そろそろ行きましょう」
「ああ、分かった」
 ただ明智屋敷で無為に過ごしているのも馬鹿馬鹿しい。七郎兵衛やこれつねの勧めもあって、安土城にいる武将たちへ挨拶回りをすることにした。
 青い素襖に着替え直した十五郎が目指したのは、二の丸前にある織田のぶただ屋敷であった。もちろんこの日も門前には篝火が焚かれている。
 事前に約束をしておいたゆえ、特段の混乱もなく奥の客間に通された。柔らかな日の光に照らされる庭で枝を伸ばす梅の花を眺めしばし待っていると、奥から華やかな千鳥柄の羽織に金襴袴姿の信忠がやってきた。
 ここのところ、とみに信長公に似てきた、と囁かれるようになった。元より細面な点は一致しているが、おおたぶさに結い上げ泥鰌ひげを生やし、信長公好みの派手な装束に身を包む様は、似ている、というよりは似せている、というほうが正しいのだろうというのが諸将の見方だ。
「おお、明智の。久しぶりであるな」
「ご無沙汰いたしております、今年も何卒よろしくお願いいたしまする」
「うむ。昨年の馬揃え、そなたの警固は見事であった。あれほどの大きな催し物で、さしたる混乱もなかったのは、そなたら明智衆の骨折りがあったゆえのことよ」
「ありがたき、御言葉にて」
 信長公とは一度だけ拝謁しただけゆえ、詳しいことは分からないが、噂は聞こえてくる。信長公は人を人と思わず、気分次第で人を責め、怒鳴りかけているという。事実、大きな活躍が見られない重臣たちを譴責し、出奔や切腹させるところまで追いつめた例がいくつもある。それと比べれば、信忠の振舞いは仁愛に満ちていると言っていい。
そうきゅうから聞いたが、坂本城での茶会はなかなかよい会だったそうだな」
「誰から聞いたのですか」
「決まっておろう。宗及よ。しきりにそなたのことを褒めておったぞ」
 数日前、坂本城で釜開きが行なわれた。
 津田宗及を主賓に据えたその茶会の準備を任されたのは十五郎だった。張り切って新春の花を揃え、茶器を磨いた。だが、何より気を払ったのは茶室の掛け軸だ。
 信長幕下では、茶会を開くには信長によるお墨付きが要り、明智家は既にその許可を得ている。どんなに小さな茶会でも織田信長の許可を得ていることを客に示す必要があるため、信長から拝領した掛け軸を床の間に掛けることにし、茶道具もできる限り信長からの拝領品で揃えた。
 もちろん、客である津田宗及はその趣向はすぐに見て取ったようだ。その上で、
『花差しの梅がよろしい』
 と、こまごまとした工夫を褒めてくれた。
「そなたの茶会の話は安土城でも持ちきりよ。あの宗及が褒めておる茶会にぜひ加わりたい、とな」
 安土城に上ってからというもの、茶を所望する客がやけに多かったのはそういうことだったか、とようやく納得した。
 上機嫌そうだった信忠だったが、はたと顔をしかめた。
「そういえば、そなた、父と拝謁できぬようだな」
「なぜそれを」
「当然知っておるさ。今は予が織田家を取り仕切っておるゆえな。父上がどういうつもりでそなたと会わぬのかは分からぬが、明智は我が織田家にとって重要な家臣であることは間違いがない。その惣領息子を粗略にするのはあまり好ましくない」
 ありがたい言葉だ。平伏すると、信忠は家臣を呼ばわり、やってきた家臣に何事かを耳打ちした。
 しばらくすると、その家臣が一人の若侍を連れてきた。
 黒い肩衣に身を包むその青年は、やはり細面で、なぜか信忠と面影が重なる部分があった。しかし、天性の陽性を誇る信忠とは違い、陰鬱な影を背負っているためか、まったく違う印象を持つ。部屋の中に入ってきたその男は、十五郎からしても顔見知りだ。
「ご無沙汰いたしております」
「久しゅうござる」
 無感動にそう返してきたのは、津田のぶずみだ。
 織田信長の弟・のぶかつの子であるが、父が謀反を起こしあえなく殺されたことで、津田氏に預けられた。ところが、信長は反逆の弟が遺した甥っ子を可愛がり、今では信長の側近として政を一手に総攬する地位にある。信長の信任の程は、安土城で与えられている屋敷が信忠屋敷よりも近い場所にあることからも窺い知ることができる。
 信澄とは、一度だけ顔を合わせたことがある。
「姉上はお元気ですか」
「ああ、貴殿と会うと言うたら、よろしく言っておいてくれと言われたぞ」
 信澄の妻は十五郎の姉、つまり、信澄と十五郎も義理の兄弟ということになる。
 信忠はなおも話をしようとする十五郎たちを制するつもりか、咳払いをした。
「今日は他でもない。津田殿を呼んだのは、何とか父上と十五郎を面会させてやれないかという相談のつもりだったのだが。津田殿、何か聞いておるか」
 その促しに、信澄は首を傾げた。
「いえ、特には。大殿様は常々お考えになられることを口にはなさいませぬ。家臣一同、これには辟易しているくらいで」
「なるほど、分からぬ、ということか」
「面目ございませぬ」
 信澄が頭を下げるのを、信忠は鷹揚に手を振った。
「やはり、だとすれば、父上は未だそなたに初陣の経験がないがゆえ、ないがしろにしておるのやもしれぬな」
「ああ」信澄も手を叩いた。「ありえますな」
 初陣。その言葉を耳にしたその時、胃の腑が縮む心地がした。
 だが、そんなことに構わず、信忠はなおも続ける。
「父上はああ見えてずっと戦の中にあられたがゆえ、戦に出ぬ者、戦で役に立たぬ者を歯牙にかけぬところがある。もし、そなたが戦で功を上げれば、きっと覚えめでたくなることだろう」
「し、しかし」十五郎は口を挟んだ。「戦など、起こるのですか」
 すると信忠は、白い歯を見せて十五郎に顔を近づけた。その表情には何の屈託もない。
「ある。ここだけの話だがな」
 信長は甲斐の武田を攻めるつもりでいるらしい。数年前のながしのの戦の大敗からこの方、武田は徐々に勢いを失っていき、境を接する他の大名たちにやり込められ、さらには内紛騒ぎまで起こっている。攻めぬ手はない――。信長は、三月をめどに兵を発し、武田の息の根を止めんと考えている・・・らしい。
「実はな。武田討伐の総大将は、予だ」
 信忠は気を漲らせながら、そう述べた。
 事実上、信長は織田家の家督を信忠に譲った格好になっている以上、当たり前のことだ。だが、十五郎は意外の念を抱かざるを得なかった。
 信忠もまだ若い。二十歳代の半ばといったところだ。そんな若武者が数万の兵を率いる御大将になる。信忠の活躍を見れば見るほど、元服したというのに行軍すらしたことのない己に嫌気が差す。馬揃えの時にも感じた疎外感がまたぶり返した。
「津田殿、どうだろう。今度、父上に、それとなく十五郎を予の与力として初陣を飾らせるべく諮ってはくれぬか。無論、予も父上に言上するゆえ」
「かしこまりました」
 津田も頷いた。
 目の前で、己の初陣の日程が次々に決まってゆく。
 嬉しくないと言えば嘘になる。武士にとって戦は誉に他ならない。だが、一方で不安もある。もちろん周りには七郎兵衛や惟恒、内藤といった家臣たちがいる。だが、ふと、いやな想像をしてしまう己がいる。敵方に打ち崩され、恃みにしていた家臣と切り離されて単騎になった己に迫って来る、死に物狂いの武田武者の姿が――。
 信忠は快活に笑った。
「安心せえ。予も初陣の時は怖かったが、やがて慣れるものよ。ここは予に任せるがよい」
 信忠の笑い声を耳にしながら、十五郎は期待と不安で胸を一杯にしていた。


 三月、十五郎はたんの亀山城にいた。
 穏やかな川を堀代わりにした平城は、広い盆地の中に抱かれた亀山の地を代弁するかのような穏やかな相をした城だ。水の中に佇む白鷺のように優雅ななりをしている。
 そんな城の二の丸で、十五郎は鬱々とした日々を過ごしていた。
「若様」
 掛けられた声に思わず顔を上げると、さとむらじょうが心配げに十五郎の顔色をうかがっていた。
「大丈夫ですかな。先ほどから筆が進んでおらぬようですが」
 左手に短冊を、右手に細筆を握っている様子が目に入る。まどろみから醒めた時のように、ようやく今、里村紹巴から和歌を紐解かれ、句を詠んでみるようにと促されていたことを思い出した。短冊は未だに真っ白で、何のとっかかりもなかった。もし何か言葉が書いてあればそこを足掛かりにもできるのに、と悔しい思いをしたが、ないものは仕方がない。
「すまぬ」
 声を掛けると、紹巴は剃り上げた頭をゆっくりと振った。
「構いませぬ。乱れた心で和歌は詠めぬもの。今日はこれくらいにいたしましょうぞ」
 紹巴は墨染の法衣の裾を払って立ち上がると、うやうやしい手つきで障子を開いて、部屋から出ていった。
「乱れた心、か」
 十五郎は筆を筆箱に置き、短冊を文机の上に置くと立ち上がって縁側へ続く障子を開いた。うららかで温かな風が白砂の敷かれただけの殺風景な庭から流れ込んでくる。
 結局、武田討伐における初陣の話は流れた。
 確かに信忠の言うように、二月の半ば頃から武田を攻めるという話が明智家中に流れ、三月には明智家でも兵を調えて討伐に向かうことになったのだが、十五郎が加えられることはなかった。
 光秀にも直訴をしたが、受け入れられることはなかった。信忠からは、己の力ではどうにもならなかったという詫びの手紙がやってきた。そうして光秀を始めとした錚々たる家臣が武田討伐に向かうのを見送った後、十五郎は父の言いつけに従い、丹波亀山城に入ったのであった。
 縁側に座って溜息をついていると、遠慮のない足音が聞こえてきた。
「おお、十五郎か。そなた、暇をしているようだな」
 声の方に向くと、そこにはこの城の城代を務める明智みつただが立っていた。年の頃は四十ほど。笑みを絶やさず、白い歯を見せる光忠は、の乗った碁盤を抱えている。
 にかりと笑い、光忠は十五郎の横に碁盤を置いた。
「一局、やらぬか」
「小父上、そんな気分ではないのです」
「だからこそ、やらねばいかんよ」
 のんびりとした口調でそう口にした光忠は、いそいそと黒の碁笥を十五郎の脇に置き、差し向かいの形で腰を下ろした。
「一局だけですよ」
「ああ。頼む」
 人の良さそうな笑みにほだされ、ついつい碁を打つことになってしまった。
 光忠は光秀の従弟に当たる。
 明智家は係累が少ない。美濃の名族氏の流れを汲むらしいが、戦乱の世となってから一族が離散し、光秀の代にはわずかな土地と小さな居館が遺されるだけにうらぶれてしまった。他の武将と違い、一族郎党の少なさは否めず、光秀の妻の実家である妻木家を御一門扱いすることで、一門衆の穴を埋めようとしているくらいだ。そんな中にあって、明智家の血を引いている光忠は、正真正銘の一門衆とも言える立場を有している。
 だが、この通りの昼行燈ぶりだ。武将というにはあまりに茫洋としており、戦が起こった際にはこうして城の留守を預かることが多い。
 十五郎はこの小父が嫌いではない。武将としてはどうだろうと思わぬことはないが、一人の人として見た時、付き合いやすい人ではある。
「十五郎から打ちなさい」
「しからば」
 定石通り、黒の石を、端から三、三の筋の交差する点に置いた。
「ほう、これは手堅い」
 光忠は離れたところに白い石を置いた。穏やかな顔そのまま、我関せずの石と言えよう。
 それから、無言で石を置き続けた。十五郎は黙々と己の領土を囲い続ける一方、光忠は漠然と、何の考えもなく石を配しているようにすら見える。戦うつもりがおありなのだろうかと訝しく思っているうちに、盤面は中盤戦へと差し掛かっていた。
 いまのところ黒が優勢だ。十五郎の右手前四分の一ほどは、ほとんど十五郎の石が圧倒している。
 碁盤の目を覗き込みながら、光忠は薄く笑った。
「うむ、これはわしの勝ち、かの」
 かちんと来た。黒い石を盤上に置き、問うた。
「拙者のほうが優勢でしょう」
「そうかのう」
 光忠は淡々と盤上に白い石を置いた。
 その瞬間、十五郎は目の前が揺らいだような気分に襲われた。目をこすり、盤面をもう一度見据える。だが、この揺らぎはいつまで経っても収まることがない。気持ち悪さを覚えながら、碁笥から石を取り上げて張った。だが、この手がお見通しであったかのように、光忠は次の石を置いた。こんなやり取りが十手も繰り返された頃には、盤面は大きくその色が変わっていた。優勢を誇っていたはずの右手前の盤面は切り崩され始め、他の部分の盤面は白が着実に手を伸ばしつつある。
 何が起こった? 訳が分からずに目を見張っているうちに、盤面はもはや十五郎にはいかんともしがたいほどに形勢が決してしまっていた。
「・・・参りました」
 十五郎は頭を下げた。
「左様か」
 勝ちを誇るでもなく、そっけなく光忠は応じた。
 石をつまみ上げ、碁笥にしまってゆく光忠に、思わず十五郎は問いを発していた。
「どんな技を使われたのですか。どうやれば、あんな碁が・・・」
 しばし下顎を撫でていた光忠だったが、ややあって、応じた。
「わしは何もしておらぬ。十五郎、そなたがあまりに一つの局面に気を取られすぎておるのよ」
「どういう、ことですか」
 さらに問うと、光忠は、淡々と言葉を重ねた。
「そなたの第一手の三、三だがな。あの手は確かに手堅い。されど盤面全体への利きに乏しい。もし碁が六筋の盤面であったなら三、三に打つのは正解だろうが、広大な十九筋の盤面にあっては、あまりにその手は利きが小さすぎる」
「利き、ですか」
「ああ。もちろん、広く利く手が最上の手とは思わぬ。広く薄い手は、結局利かぬからだ。だが、やはり、三、三は少々小さい」
「では、どうすればよかったのですか」
「そうさな」しばし考えた後、光忠は続けた。「大きく盤面を見ればいいのではないかな。そなたにとっては小さな局面が大事なのであろうが、実際には、大きな盤面によって物事は決まってゆく。それが碁と心得れば、もっと強くなることであろう」
 もっとも、と光忠は言った。
「一つの局面しか見えぬは若いがゆえよ。きっと、歳を重ねるごとに見えてくるものもあろう。今日のわしの勝ちは年の功というものぞ」
 すべての石を仕舞い終えた光忠は、碁盤を抱いて屋敷の奥へと消えていった。
 一人取り残された十五郎は、ふと庭を見遣った。白砂が朱に染まっている。気づけば日が傾くような頃になっていたらしい。何の飾り気もない庭先を眺めながら、先ほどの光忠との対局を思い出していた。
 確かにあの時の己は、右手前に作り出していた自らの優位にしがみつき、全体を眺めるということをしていなかった。気がつけばがちがちに囲まれて、もはやそこから打って出ることさえできなくなっていた。
 確かに、もっと物事を広く見てもよいのかもしれない。そんなことを、ふと思った。


 三月から四月を鬱々と過ごしていた亀山の十五郎の許に、父の光秀から文が届いた。
 速やかに安土にまかり越し候。
 何かあったのだろうか。近臣を引き連れ、亀山から京に出て、安土へ向かった。本来なら二日ほどの道のりだが、急なことであれば一大事と朝から晩まで歩き通し、安土の明智屋敷に到着したのは深更のことになっていた。
 明智屋敷では、寝間着姿の光秀が迎えてくれた。
「早かったな」
「取るものとりあえず参りました。父上も、武田征伐、お疲れ様でございます」
 甲斐の虎、武田が滅んだ。この知らせは東海道を伝って京にまで聞こえ、亀山にまでももたらされた。武田といえば最盛期には数か国を支配していた大大名だ。ひっくり返るはずのない天地が逆転したような心地がした。十五郎ですらそうなのだから、世の人々の驚きは、それ以上のものであったろう。京の町は信長の壮挙を祝う祭りで浮かれているというし、公卿たちもこの征伐の成功を喜び、歌会や連歌会を開いているとは、里村紹巴の言であった。
 立役者の一人は間違いなく、織田家でも五指の指に入る将である光秀のはずだが、当の光秀の顔は浮かない。
 深更に叩き起こされたがゆえのものだろう、と十五郎は気にも留めず、声を掛けた。
「父上、すみません、起こしてしまいましたな。また明日、ご挨拶を」
「よい、眠れなかったのだ。それに、この話は早いほうがいい。実は、そなたに頼みたいことがある」
「拙者に、でございますか」
「ああ。実は、徳川三河殿の饗応を仰せつかってな」
 長らく武田と境を接し、たびの武田討伐において格段の働きがあった徳川三河守家康が信長の招きで京に上って来るという。何でも、陣中で開かれた徳川三河の歓待に信長がいたく感激したことに端を発するものらしいが、信長はこう口にしたらしい。
『徳川殿に、織田の饗応を見せてやれ』
 光秀は口を震わせている。
「武田を滅ぼされた殿は、既に天下に手をかけておられる。実はこの陣の最中、一緒に戦を視察しておったこのさきひさ卿がおられたのだが、殿は前久卿を呼び捨てになさったのだ」
「真ですか」
「聞き間違えるはずはない。確かに、〝前久、大儀である〟と馬上から声を掛けておられた」
 深更だというのに、光秀の瞳は興奮のあまりに輝いている。いつしか光秀の頬は赤くなっていた。
「前久卿は口答え一つせず、頭を下げるだけであったぞ」
 近衛前久といえば関白左大臣や太政大臣を務めた公卿の中の公卿で、若い頃から様々な大名や寺社勢力とも渡り合ってきたその声望は帝をも凌ぐとさえ噂されている。その前久を呼び捨てにしたとなれば大問題になるはずだ。だが、前久は無礼を咎めもせず、言われるがままに首を垂れた――。その意味の重大さは、十五郎にとて分かる。
「殿が、天下の主になられるということですか」
「少なくとも、わしはそう見た。我らが殿が、帝をも凌ぐ権勢をお築きになられるは今ぞ」
 天下一の権勢人が命じる饗応。それはすなわち、天下第一の饗応ということになる。
「そなたには饗応を手伝ってほしい。徳川殿が上洛なさるまで時はない。そなたは摂津や丹後へ向かい、材料の買いつけに走って欲しい。金に糸目はつけぬ。極上の魚や貝、野菜を集めよ。出来るか」
「もちろん、やらせていただきます、父上」
「うむ。頼んだぞ」
 熱のこもった父親の言葉を浴びるのは初めてのことだった。総身に力が満ちるような錯覚に襲われながらも、十五郎は頷いた。
 次の日から、徳川三河を歓待するための用意が始まった。
 津田宗及、里村紹巴といった風流人や実際に料理を手掛ける料理人を集め、協議が行われた。会場となった安土城明智屋敷の大広間には、重臣たちが遠巻き見守る中、料理人や風流人たちが口から泡を飛ばし議論を重ねている。
「我らが目指すは、天下一の饗応である」
 開口一番、光秀がそう口にしたことで、臨席する者たちの目に炎が灯った。里村紹巴は古のうたあわせなどの典籍を引いてこうすべしと意見を発すれば、料理人は平安の昔に比べて使ってよい魚の幅が広がったため古典籍は参考にならないでしょうと口を挟み、ではむしろ今様の侘び寂びを取り入れた食膳とするべきなんやないかと津田宗及が応じた。喧々諤々の議論に重臣たちは冷や汗をかいているものの、上座にいる光秀は、むしろそれを楽しんでいる様子だった。
 一昼夜に渡る議論の末、ようやく料理人の提案を素地にした案で決した。
 その上で、十五郎は己の役目である食材の買いつけに走るべく、料理人によって用意された材料一覧を有筆に書き写させ、己の重臣に配った。
「皆の者、ここが正念場であるぞ。料理人によれば、最高級の小鯛は宮津にあるという。内藤、そなたは宮津に走れ。長岡殿への文は拙者が書く。残りの面々は摂津堺に行き、食材の調達に走れ」
 家臣たちに下知をして、十五郎本人は堺の津田宗及屋敷に滞在することになった。
「ほんに、大変やなあ。お侍さんていうんは」
 家臣たちへの〝陣頭指揮〟を終え、縁側で一人座っていると、屋敷の奥にいた宗及に声を掛けられた。
「暇やさかい、茶でも一献いかがでっしゃろ。紹巴はんも飲みたいって言うてはりまっせ」
「ああ、頂きます、師匠」
 部屋の中には、既に里村紹巴が座っており、目の前でくつくつと音を立てている茶釜を見遣っていた。紹巴の横に座ると、縁側近くに立っていた宗及がゆっくりと茶釜を挟んで二人の前に座り、茶をて始めた。
 茶杓で湯をすくい、抹茶の入っている碗に注ぐ。その後、茶筅で練り上げた後、また茶杓で湯を掬ってより良い味に調える。茶とはこれだけの作業の中にすべてを込める作業だ。十五郎から見ても、師匠である宗及の手さばきは真似できるものではなかった。
「どうぞ」
 差し出された茶碗の景色を楽しむ暇もなく、茶をすすった。
 茶の清涼な香りが鼻腔をくすぐる。遅れ、茶葉の甘さが舌に伝わってくる。温かさもちょうどいい。咽喉を鳴らして飲んでも差し支えないほどの温かさが、茶碗越しに十五郎の細い指を温める。
 気づけば、幸せな吐息をついていた。
「やはり、師匠のお手並みは別格ですね」
「嬉しいお言葉をいただいてしまいましたなあ」
 にこりともせずに宗及は言った。
「はは、宗及殿は嘘がつけぬご様子。されど、茶の道はそれほど峻厳な道なのでしょうなあ」
 けらけらと笑う紹巴も、結構なおまえ、と口にして茶碗を畳の上に置いた。
 ふと、十五郎は気になったことを口にした。
「そういえば、なぜお二人は、明智のお手伝いをして下さるのですか。お二人はお忙しそうであられるのに」
 堺にやってきて二日になる。その間、宗及も紹巴も、毎日のように出払っていた。こうして三人が揃って屋敷にいるのは珍しい。
 目を丸くした紹巴は宗及と顔を見合わせ、ぷっと噴き出した。つられるようにして、宗及も密やかに笑う。きょとんとする十五郎の前で、紹巴は続けた。
「まあ、これまでのお付き合いがあるから、と答えるのが一番でしょうな。されど」
 紹巴の言を、茶碗を仕舞い、茶筅の先を懐紙で拭う宗及が引き継いだ。
「それだけではありまへん。明智殿は、風流のことがお分かりになられはる。そういうお人が出世してくらはると、わてらのような立場の人間は楽なんや。何にも言わずとも、風流の大切さを分かってくらはりますからな」
「されど、それは信長公とて――」
 宗及の鋭い視線が、十五郎を捉えた。
「若さん、ここからする話、内緒にできまっか」
 威圧におされ、小さく頷くと、宗及は続けた。
「織田信長いうお人は、風流人かどうかようわからなくなることがあるんや。あのお人のお城は確かに色んなもんに溢れとる。のうえいとくの襖絵、幸若舞の為の舞台、茶室に連歌会が開けるような大広間。本当に何でもありや。確かにあの人は風流なもんに囲まれている。でもな、あん人は、風流に頭を下げるつもりなんかないいうのが、わての見立てや」
「どういう、ことです」
「言葉のままや。風流人いうんは、風流に骨抜きにされて、一生を風流に捧げようとする人のことや。数寄者いうんは、風流のたかさを知っている者のこと。だとすれば、信長公はどちらでもない。その点、明智殿や若さんは、風流の貴さを知っておられる。そやから、肩入れするんや」
 言っていることの意味は分からなかった。だが、信長という人間のことを否んでいることはなんとなく理解ができた。だからこそ、この場限りで忘れよう、そう決めた。
 事実、宗及の言を聞いていた紹巴はこれ見よがしに顔をしかめ、広げた扇で顔を覆った。
「いや、そこまでおっしゃるとは。宗及殿は怖いもの知らずですな」
 茶化すような口調が、部屋の中に満ちていた不穏な気を追い出した。


 饗応の日がやってきた。
 食材をすべて揃え、料理人に引き渡した。これまで様々な饗応に当たってきた料理人も、こんなによい食材が集まるとは思ってもみなかった、と目を見張っていた。金に糸目をかけず、ときには売り手が決まっているものを横取りするような形で買い入れた甲斐があったというものだ。短期間ですべての食材を用意したのには、光秀も意外だったのだろう、お褒めの言葉を頂戴した。
 すべてのお役目を終えた十五郎は、安土城の明智屋敷にいた。
 本当は父と一緒に饗応役として本丸に上がりたかった。だが、光秀に「それはならぬ」と言われてしまった。食材の買い付けなどの雑務をさせておいて、晴れの舞台に立たせてくれぬのか。初陣を逃しに逃してきて、頭角を現すよい機会だというに、父はそれすらも踏みつけにするのか、と不満ばかりが心中にくすぶっている。
 饗応は昼から始まると聞いている。部屋から縁側に出て空を見上げると、お天道様は高く昇っている。そろそろ饗応が始まる時分であろう。気づけば十五郎は日輪に向かって手を合わせていた。
 その日は落ち付かない時を過ごしていた。気を紛らわそうと紹巴から頂戴した歌論書を読んでも内容が入ってこない。茶を点てようと茶碗を外箱から取り出そうとしたものの、手が震えて紐が上手くほどけない。よしんば取り出せたとしても、こんな手では茶碗を割りかねぬと諦め、一人、縁側に腰かけ、柱に寄りかかりながら枯山水の庭を見遣っていた。
「若様」
 気付けば眠ってしまっていたようだ。いつの間にか目の前の庭には夕闇が迫っていた。鉛の鉢巻きが巻かれているかのような重みを頭に覚えながらも声の方を見上げると、心配げにこちらを見下ろす七郎兵衛の顔があった。
「殿が、若様にお話があるとかで」
「父上が?」
 両の頬を軽く叩いて眠気を追い出し、光秀の待つ書院へと向かった。
 書院の上段には、既に光秀が座っていた。夕日の日差しが差し込む部屋の中はなんとなく薄暗い。十五郎は遅れた旨を謝り、下段に座って平伏した。
「お呼びでしょうか、父上」
 そうして顔を上げたその時、十五郎は声を上げそうになってしまった。
 上段にある光秀の顔には、憂慮が色濃く滲んでいる。朝、天下一の饗応ぞ、とはしゃいでいるようにすら見えた父の顏とは思えぬほどだった。日の加減のせいだろうか、と訝しく思い目を細めても、父の顔はすっかり窶れ、疲れ果てている。
「いかがなさったのですか、父上」
 重ねて問うと、たどたどしい口ぶりで、光秀は述べた。
「これより、戦に向かうことになった」
 いつもより数段口数の少ない光秀の言を繋ぎ合わせたところでは、饗応の途中、安芸の大名、毛利と戦っているしばひでよしから救援願いがやってきた。幾度目になるか分からないというその文を目にした信長は、徳川三河へ饗応をしているところである光秀に、
日向ひゅうが、これより貴様は、毛利討伐に向かってもらうぞ。三河殿の饗応役は他の者に引き継がせるゆえ、安心せい』
 と言い放ったのだという。
 まさか――、十五郎は血の気が引くのを自覚しながらも問うた。
「何か、しくじりがあったのですか。それで殿からお叱りを頂きこんなことに――」
「いや、左様なことはない。〝少々饗応が豪華すぎる〟とお叱りは受けたが、機嫌を損ねたことはない。だが――」
「だが、何なのです」
 光秀は黙りこくってしまった。今にも涙を流さんばかりに顔を歪めて。
 ただ事ではない。ここまで光秀がやり込められているのを見たことがなかった。途中で饗応役を外されたことが堪えたのだろうか。だが、大きなしくじりをして更迭されたならまだしも、光秀自身が大過なく役目を果たしたと言っている。饗応役から戦陣への転身は、むしろ武将としては誉れなのではないか。
「安芸の毛利がよほど強いのですか」
「いや、そんなことはない。今、あそこを攻めておるのは羽柴秀吉殿。文では苦戦しておるだのと書いておるが、実際には救援など必要あるまいよ」
 羽柴秀吉といえば、今や光秀と双璧を為す外様武将の筆頭だ。百姓上がりとの噂もあるが、あれよあれよの内に出世を果たし、いまや対毛利戦線を支える総大将にまで上っている。一度、無理攻めをして煮え湯を飲まされてからというもの、堅実な戦いぶりで敵を少しずつ消耗させるという戦略を取っている。そのおかげか、秀吉軍は総じて士気も高く、兵力の欠けもほとんどないという。
「ではなぜ、羽柴殿は援軍を願うのです」
「今、羽柴殿はちゅう高松城という要衝を攻めておる。大方のところ、この戦が終わりそうなのであろう」
「終わりそうなのに、援軍を?」
「落城するところを援軍に見せつけるつもりなのだろう。文を送って戦果を報告するより、遥かに験がある」
 将の立場にならぬと見えぬ綱引きがあるのだろう、ということはかろうじて理解ができた。曖昧に頷いておくと光秀は忌々し気に己の腿を叩いた。
「とにかく、これより、我らは戦の用意をしなくてはならなくなった。十五郎、そなたに頼みがある」
 十五郎は身構えた。初陣を飾れ、今度こそそう声を掛けてくれると信じたればこそだ。
 だが、そんな十五郎の期待は粉々に砕かれた。
「そなたは丹波亀山城に入り、遠征軍の支援に回って欲しい」
 思わず、十五郎の口から恨み言が飛び出した。
「拙者を初陣させてくれぬのですか、父上は」
「言うな」
 光秀は首を振って話を打ち切ろうとした。だが、この日の十五郎は違った。
「なぜ、拙者だけが子供扱いなのですか。もう既に元服も済ませたではありませぬか。だというのに、なぜ戦に連れて行ってくれぬのです。馬にも乗れるようになりました。槍の修練も人並みには済ませております。父上のご迷惑にはなりませぬゆえ、なにとぞ、この十五郎を戦へ連れて行ってくださいませ」
 もはや哀願だった。
 だが、光秀は結局首を縦に振ることはなかった。
「いかぬのだ」
 不機嫌そうに眉根をひそめて席を立つと、光秀はそのまま十五郎を残して縁側に消えた。
 一人、明けの色に染まる書院に取り残された格好になった十五郎は、己の心中に吹き荒ぶ問いの嵐に襲われていた。
 なぜ、なぜ、なぜ。
 だが、その答えが、どうしても見つからない。


 十五郎たちは亀山城に戻った。
 家臣たちの反応は様々だった。文句をあけっぴろげに口にする者はなかったが、内藤などは不満げな顔を隠そうとせず、戦場となれば誰よりも活躍してみせるのに、と言わんばかりに、庭先に飛び出してたんぽ槍を振り、槍で鍛えた体を持て余していた。内藤の思いは家臣皆、大なり小なり同じらしい。日々のこまごまとした雑務に身を粉にする惟恒も、十五郎の身の回りの世話をする七郎兵衛も、浮かない表情を顔に張り付けている。己だけは、と笑顔を作ってみても、亀山城内の沈んだ空気を前にしては、その意気もしぼんでしまう。
 やることはたくさんある。丹波や近江に散らばる明智家の領地から、ここ亀山に兵が集まる。その受け入れの用意だ。惟恒に命じて城の長屋の掃除を徹底させ、本丸御殿の枯山水も調えさせた。
 やがて、続々と部将たちがやってきた。さいとうとしみつみぞしげともが早かった。だが、なぜか斎藤も溝尾も顔が浮かない。さしもの猛将たちも戦を前に武者震いしているのだろうかと小首をかしげるうち、沈鬱な顔をしている明智まのすけもやってきた。明智三家老の顔が揃って浮かないのにはさすがに閉口し、茶に誘ったものの、三人からは示し合わせたように謝絶の返答がやってきた。
 亀山城に鎧の札の音が響くようになってしばらくした頃、里村紹巴が十五郎を訪ねてきた。
「連歌会、ですか」
 十五郎がそう口にすると、紹巴は恭しく頷いた。
「へえ。戦勝祈願ということで、日向様も是非とも連歌会を開きたい、と」
「場所はどこで」
愛宕あたごさんにて行なう手はずになってございます」
 京都愛宕山といえば、京の盆地にあって最も高い山で、火除けの権現様でも知られる愛宕権現の総本社がある。なぜそんなところで、と疑問にも思ったものの、紹巴の弟子が愛宕神社の末寺の何某というところの住持で、その縁で実現した連歌会であるという。
「よろしいのではないでしょうか。父上も神頼みをしたいこともあるでしょう」
 どこか突き放したような物言いになってしまったことを後悔した。だが、紹巴は十五郎の微妙な機微に気づいた様子もない。
「他人事ではございませぬぞ。若様にもこの連歌会に参加していただきます。日向様もそれを望んでおられますゆえ」
 行かぬ、とは言えなくなってしまった。
 亀山城は惟恒と内藤に任せ、七郎兵衛だけを供にし、愛宕山に登ることになった。
 愛宕山は京の外れに位置している。そこまで行くのも一苦労。馬を用い、何とか人が二人すれ違える程度の崖路を進むうち、渓谷に抱かれるようにして建つ一の鳥居が見えてきた。隅の塗装が剥がれ、木目が露わになっている鳥居には、愛宕権現の額が掛かっている。
 五月の終わりだというのに肌に触れる風は冷たい。
 馬を近隣の村の者に預け、参道を登っていった。
 参道と聞いていたから、てっきり道が踏み固められているとばかり思っていたのだが、実際には獣道に毛が生えたような道のりだった。杉や山毛の梢で薄暗くなっている、足元もおぼつかない山道を、先導する末寺の遣いと共に上っている。
「たまには山登りもいいものですな」
 紹巴はのんきなことを言うが、既に十五郎は息が上がっていた。太ももから膝にかけて熱を持っている。いちいち滑る足元を凝視しながら登るうち、背中まで凝ってきた。横を歩く七郎兵衛も同様のようで、時折着物の衿をばたつかせ、顎の下にたまっている汗を拭いている。
 倒れた大木の下を通り、崖迫る山道を滑らぬように通り登っているうちに、少し開けたところに出た。木々の間から京の都の様が見える。白い光に包まれるように広がるその姿は、手に収まってしまうのではないかというほどに小さい。疲れを忘れ、しばし見遣っていると、
「ここが丁度折り返しのところですぞ」
 と紹巴が余計なことを口にしたおかげで、どっと疲れがぶり返した。
 やがて、獣道同然であった道の様子が変わってきた。山道は明らかに人の手によって調えられ、並べられた石が段を成している。しばらくさらに進むと、石工の丁寧なのみあと残る石段が現れた。
 やがて、真黒に塗られた大門が見えてきた。深緑の中にある黒門はよく目立つ。思わず声を上げてしまった。
「もう少しでございますぞ」
 涼しげな顔をした紹巴の言う通り、そこから頂上まではすぐだった。
 最後の階段を登り切ると、石灯籠の並ぶ参道が一行を出迎えた。七郎兵衛などはあからさまにほっと息をついている。しばらく進むと、社務所や末寺、末社の並ぶ一角が見えてきた。
「ここが、今回の連歌会の場でございますぞ」
 紹巴はある末寺の前で足を止めた。
 思わず嘆息してしまった。必要なものを七郎兵衛に持たせて登っても辛いみちゆきだったこの山の頂上に、どうしてこんな壮麗なものを作れるのか・・・と訝しく思うほど、目の前の建物はその威容を誇っている。建てられてしばらくの時が経っているのだろう、かぶもんの柱の色は黒く色を変じており、塀の上の屋根には苔むしている箇所もある。
「明日、連歌会を行ないますぞ。本日は旅の垢を落とし、ごゆるりとお過ごしくださいますよう」
「父上は、どうなさっておられるのであろう」
「これから山を登られるはずでございます」
 饗応役を下ろされ、毛利討伐を命じられたあの日から、十五郎は光秀と顔を合わせておらず、あの日の激しいやり取りを謝ることもできてない。ここ数日の亀山城での戦支度、そして愛宕山を登る間にも、少しずつ思いが変わりつつある。
 父上が望むのならば、いっそ亀山城の留守居でもいいではないか、と。
 十五郎は、とにかく光秀と話がしたかった。
 だが、その機が訪れることがないまま、その日は暮れていった。


 次の日、十五郎一行が宿泊した末寺の書院の間にて、連歌会が開かれた。
 亭主はこの寺の住持で紹巴の弟子という行祐なる者が務めることになっている。一番の下座である亭主の横には光秀付の家臣であるあずまゆきずみが座っている。亭主の横に座るのは、連歌を書き留める執筆という役目を仰せつかっているしるしだ。会場に足を踏み入れた時、東と目が合った。目礼を返すと、若い執筆役は恭しい礼を返してきた。
 席は二列差し向かいになるように用意されているようだ。下座に腰を下ろし、しばらく待っていると、やがてぞろぞろと今日の連歌の参加者たちがやってきた。里村紹巴は主賓の差し向かいである第二の上座に腰を下ろした。そこは連歌会の流れを決める宗匠の席次だ。まっとうな人選であると言える。また、紹巴と一緒にやってきた者たち、紹巴の弟子だろう――、は、主賓席を避け、各々己の席に腰をかけた。
 主賓がやってくるのを待つ。
 紹巴は薄く目を閉じ、空いたままの主賓席を見遣っている。他の連歌師たちは隣の者に耳打ちをしたり、何かざれごとでも話しているのかくすくすと笑い声を上げていたが、ややあって、足音が近づいてくるに従い、皆、しゃんと背を伸ばして前を見据えた。
 襖が開いたその時、皆が頭を下げた。
 ややあって顔を上げたその時、思わず十五郎は目を見張った。
 開かれた襖の向こうに立っていたのは、まぎれもなく父、光秀に他ならない、はずだった。だが、十五郎は、本当にあれが父だろうかと疑ってしまうほど、そのなりは様変わりしている。
 連歌師たちがざわついた。また、連歌の輪から外れ、次の間に控えている七郎兵衛も目を見張っている。さすがに亭主の行祐と宗匠の里村紹巴が落ち着き払っているのはさすがだが、場が浮足立ったのは致し方ないともいえた。
 黒の素襖に身を包み、折烏帽子をかぶった光秀は、幽鬼のようだった。肌は土気色に変じ、皺を浮き立たせている。虚ろな目の下には真黒な隈があり、口はへの字に結んでいる。そのくせ口の端は半開きになっており、黄色い歯が覗いている。そのたち姿すがたには覇気がなく、がくりと肩を落としているようにも見えた。
 一座をゆっくりと、まるで老人のように見渡した光秀は、ぽつりと言った。
「すまぬ。遅れてしもうたようだ」
 おぼつかぬ足取りで光秀は主賓席に腰を下ろした。
 かくして、連歌会が始まりを告げた。
 こうした連歌会においては、発句を詠むのは主賓、つまりは光秀の役目となる。
 皆の視線が光秀に集まる。
 光秀は肩を落としながら、長考に入ってしまった。普通、主賓として呼ばれたのなら、発句を事前に考えてくるのが通例だ。座が少しずつ白けてゆくのが十五郎にも見て取れた。いつもならばこうした座の機微に通じているはずの光秀が、まるで動こうとしない。我関せずのつもりか、それとも周りのことが目に入らぬほどに他のことに気を取られているのかは分からないが、この日の光秀は周りをやきもきさせても恬として恥じないところがある。
 どうなさったのですか、父上。
 思わず、そんな言葉が口から出かかった。
 いったいどれほどの時がかかっただろう。やがて、光秀は一句、ひねり出した。
「時は今 あめしたなる 五月さつきかな」
 だが、光秀は首を振り、訂正した。
「時は今 天が下しる 五月かな」
 戦勝歌の発句として、これ以上のものはない。
 今はまさしくこの世は五月である、と表面上は当たり前のことを言っているようであるが、天には雨が掛かり、雨の季節である五月を関連付けている。それに「天が下しる」という語も、「天下を治める」、「天下を平らげる」という風に解釈したのなら、毛利討伐成功の予祝にもなる。「なる」から「しる」への変更は、かけことばの多い「しる」が適当だと考えたのだろう。
 これほどの秀句をひねり出したというのに、光秀の顔はなおも浮かない。それどころか、痛みに耐えるように顔をしかめている。
 ただならぬものを感じながらも、連歌会は脇句へと進んでいく。
 亭主である行祐が、矢継ぎ早に詠んだ。
「水上まさる庭の夏山」
 光秀の上の句を受け、五月雨の降りしきるこの季節では、庭にあるつきやまにはさぞ水が溜まり、漲っていることであろう、と返している。これも、戦勝歌として理解するなら、ただの勝利ではなく、圧倒的な大勝ちを収めるであろうという寿ぎを水嵩に例えているとも取れる。これ以上ない脇句だと言える。
 この時、光秀の表情に変化が訪れた。
 何かに気づいたように目を見開き、目の前に置かれていた短冊に何かを書きつけている。そして、穴が開くほどにその短冊を見据え、わなわなと口を震わせている。
 そして、第三句は、宗匠である紹巴の役目だ。
 しばしの黙考の末、ぽつりと紹巴は口を開いた。
「花落つる 池の流れを せき止めて」
 そこかしこから嘆息の声が上がった。
 十五郎はこれまで教わった和歌を思い起こすうち、千載和歌集ののういんの和歌である「桜散る 水の面には 塞き止むる 花のしがらみ 掛くべかりけり」が思い起こされた。第三句はこの能因の句を本歌取りにしている。
 不満がないこともない。例外はいくらでもあるが、発句、脇、第三句までは季語を揃えるのがよいとされているが、紹巴は季語を夏から春に転換した。もちろん、他の約束事が守られているからこそ許される逸脱だし、何より描き出した光景があまりにも雅だ。この場にいる者で、季語のねじれを気にする者など誰もいない様子だった。
「はは」
 笑い声が上がった。
 皆の視線が声の主に集まる。
 この日の主賓、明智光秀に。
「いかがなさいましたかな」
 紹巴は目を大きく見開き、光秀に目を向けた。
 光秀は、顔をほころばせていた。土気色に変じていた顔色もすっかり良くなり、苦悶の表情もどこかに消え失せていた。憑き物が落ちたかのように穏やかな顔を取り戻した光秀は、訥々と口を開いた。
「秀句でございますな、紹巴殿」
「これを秀句と認めうるお方ゆえ、某はあなた様とこうして連歌を詠んでおります」
 なおも光秀は笑った。
「なるほど。歌とはおもしろいものでござるな」
 それからの連歌会は、当初の危うい雲行きに反し、第四句からは紹巴一門の連歌師たちの遊び場となった。ある者が古歌の本歌取りを披露すれば、また他の者は別の本歌取りで切り返し、ある者が技巧を凝らした句を披露したかと思えば、次の者はわざと技巧に乏しい句を返す。目の前で繰り広げられる連歌は、まるで槍の試合を見ているかのようだった。連歌は智慧の試合なのだ、と改めて気づかされる。目まぐるしく句の情景が変わっていき、新たな意味が加わってゆく。十五郎は一流の連歌師たちが描き出す情景の奔流にしばし身を横たえていた。
 そして、瞬く間に九十九句目がやってきた。
「色も香も 酔を勧むる 花の下」
 花見の宴会を描写した上の句であるとともに、連歌の締めくくりである挙句を意識したものであるともいえる。特に今回の連歌は戦勝の為の奉納連歌だ。最後の締めくくりには、寿ぎの文句が来なければならない。
 最後の句を誰が詠むか――。この場にいる皆が、紹巴を見据える。
 だが、当の紹巴はゆっくりと首を振った。
「ここは、まだ一句も詠んでおられぬ若様に詠んでいただくのがよろしかろう。ですな、行祐殿」
 紹巴は亭主である行祐に目を向けた。だが、行祐はこの寺の住持とはいえ、紹巴の弟子筋だ。まさか嫌とは言えまい。実際、行祐は紹巴の意見に賛同した。
 だが、このお役目が回ってくることは、なんとなく悟っていた。
 連歌において重要とされるのは、一から八までの句と、最後の挙句だ。連歌の終わりを告げる挙句については、主賓に近しい立場の者が詠むのが通例だ。この会の場合、光秀の家臣である東行澄も該当するが、行澄は既に第八句を詠んでいる。
 恐らく、紹巴は最初から己に挙句を詠ませるつもりだったのだろう。目を向けられてもなお表情を変えることなく前を向いているばかりの紹巴から目を離し、十五郎は最後の句をひねり出した。
「国々はなほ のどかなる頃」
 先の句も受けていると同時に、光秀の詠んだ発句も踏まえている。戦勝歌として詠まれた連歌は、挙句でも戦勝歌として終わるのが収まりもいい。この討伐が行なわれることで天下が平らかになり、国々はなおのどかになるであろう、という願いでもある。
 紹巴は小さく頷いた。どうやらしくじりはないらしい。
 かくして、愛宕山で開かれた連歌会、愛宕百韻は終わりを告げた。
 連歌会が終わってすぐ、皆で愛宕神社へと参詣に向かった。満面に笑みを湛える光秀を筆頭に神前に手を合わせ、皆でおみくじを引いた。十五郎は末吉、他の者たちもまちまちの結果であるようだった。だが、光秀はもう一度、さらにもう一度神籤を引き直し、三度目の正直でようやく満足したようだった。
「どうされたのですか、父上」
 そう呼びかけると、光秀は快活に答えた。
「ああ。一回目の籤が凶、二回目が末吉であったゆえ、大吉が出るまで引くことにしたのよ。三度目で出た。なかなか引きが強いと思わぬか」
 光秀の手には、大吉と記された神籤が握られていた。
 やはり、父はおかしい。
 具体的に何が、とはいえない。だが、普段の父とは何かが違う――。
 すると、目の前の光秀は、ぽつりと言った。
「十五郎、そなただけが頼りだ。きょうもんを背負うのは、そなたなのだ」
 光秀は踵を返し、紹巴たちのほうへと向かって行ってしまった。
 結局、十五郎はこの光秀の言葉の意味するところを聞きそびれてしまった。(つづく)