第二章

 光満ちる六畳間で、緊張に身を固くしながらもじゅうごろうは茶筅をふるった。作法通りに茶を練り上げ、目の前に端座している師匠、そうきゅうの前に置いた。しばし手に取った黒茶碗の風景を楽しんだ宗及は、縁に口を近づけ、喉仏を上下させた。
 黒茶碗から口を離し、薄く微笑んだ宗及は、目を何度もしばたたかせて十五郎の顏と茶碗の底を見比べている。口元を懐紙で拭うと、ようやく穏やかな声を発した。
「茶の練りを相当修業なさったようやな。お見事でおます」
 茶筅の先を懐紙でき終えた十五郎はゆっくりと頭を下げた。
 宗及から茶を教わるようになって早半年。最初の二月は戸の開き方が不遜である、畳の目を踏んではならぬ、と口酸っぱく叱られ、結局茶を練るところまで教えてもらえなかった。だが、一つ一つ新たなことを覚えていくうちに、細かく定められた所作の一つ一つに意味があるのだと呑み込めてきた。茶碗の中に相手への尊敬や気遣い、もてなしの心を盛り込むものなのだと気づいてからはしくじりも減った。
 宗及は微笑を湛えたまま続ける。
「もちろんわしとておべんちゃらを言うことはありますけど、若殿様の上達ぶりはほんまに素晴らしいもんや。このまま腕を磨かれれば、天下の茶人に至ることもできますえ」
「ありがたいお言葉です」
「まだまだ油断したらあきまへん。まだ若殿様は半年分の席しかやっておらへん。茶は春夏秋冬、一年の変化をも茶碗の中に織り込むもんやさかい」
 十五郎は、教わることが山ほどあることに喜びを感じていた。
 この前の正月で十五郎は十二歳になった。相変わらず武芸にはまったく身が入らず、うままわりがしらの内藤からさじを投げかけられているが、その代わり、茶と古典の学びは日々充実している。万葉集より始まったさとむらじょうの和歌教授は新古今和歌集まで進んだ。幹に当たる古典の勉強は終わり、ここから枝に相当する数々の歌集を修めてゆけばいい、と紹巴は言っていた。最近では自作の和歌を詠むようにもなり、筋の良さを褒めてもらっている。
 このまま、勉強三昧で暮らしてゆければいい。そんなことを思わぬでもなかった。
 だが、そうはいかぬのは世の常――。
 静寂の中にあった茶室に、突如として現実が鎌首をもたげてきた。
 障子の外から十五郎を呼ぶ声がする。開いている、と声を掛けると、障子が少し開き、つましちろうひょうえが隙間から頭を突っ込んだ。
「若様、殿が今すぐ来るようにと」
「今すぐ、か。もう少し宗及殿とお話がしたいのだが」
「いけませぬ」
 強く言われてしまっては、十五郎も頷くしかなかった。
 慌てて立ち上がると、宗及が鋭い声を上げた。
「あかん。所作がだいなしやで。まだまだ、修行が足りまへんな」
 渋面を作る宗及に詫びを入れ、十五郎は茶室を後にした。
 廊下を先導する七郎兵衛に十五郎は問いかけた。
「で、どこに行けばいい」
「本丸の奥書院にて」
 昼間だというのに薄暗い廊下では、何度も家臣とすれ違う。十五郎と行き当たる度、膳や寝具、行李を運ぶ家臣たちが足を止めて頭を下げてくる。
 やがて、奥書院へと至った。
 十畳間の中には、既にこれつねないとうさぶろうもんといった十五郎付の家臣、そしてあけみつひでその人が座っていた。心なしか、惟恒や内藤の表情が明るい。何かいい知らせでもあったのだろうかと小首をかしげつつ光秀の前に座ると、地味な色の肩衣姿の光秀も心なしか口角を上げていた。
「おお、来たか」
 光秀の発した言葉は、いつもに比して明るかった。
「聞いて驚け。実はな、京で馬揃えをやることになったのだ」
 馬揃えというのは大名家が時折行なう閲兵儀礼のことだ。
 十五郎の代わりに、惟恒が疑問の声を発した。
「なぜ馬揃えを京で? この前安土で行われたばかりではありますまいか」
「ああ。何でも、禁裏からの御要請であられるらしい」
 安土で開かれた馬揃えは、下向していた某公卿のぶりょうを慰めるためのものであったらしい。これにいたく感激した某公卿が、この馬揃えの壮麗なる様を禁裏内で説明し、京で馬揃えをできぬものだろうかと諮ったらしい。もともと雅なもの、珍しいものに目のない公卿たちは一も二もなく信長公に馬揃えの京開催を要請してきたらしい。
 七郎兵衛が声を上げた。
「もしかしたら、帝もご覧あそばされるやも」
「そうなのだ。そして、その馬揃えの用意を、信長公は我ら明智にとご指名なされたのだ」
 奥書院は歓声で沸いた。
 宮廷儀礼が絶えて久しい中、この馬揃えは事実上の宮廷儀礼となり、信長はその儀礼を一手に担うということになる。禁裏と織田の蜜月が天下に宣言されるに等しい。さらに言うなら、そんな大一番の差配を任された明智もまた、織田家随一の家臣であると、お墨付きを得たということにもなる。
 いつしか、光秀の声は小刻みに震えていた。
「信長公はこうおっしゃられた。〝大戦に当たるつもりでことに当たるがよい〟と。武士にとってこれ以上の誉れがあるか」
 惟恒も声を弾ませた。
「いやはや、祝いでござる、祝いでござる」
「これこれ、そなたの悪い癖ぞ。まだ用意すら始まっておらぬというに」たしなめる光秀の声音は、常にないほど明るい。
「そなたらを集めたのは他でもない。わしはこの馬揃えで十五郎を披露したいと考えておる。わしとともに先頭に立ち、明智の跡継ぎここにあり、と触れねばならぬ。ゆえ、十五郎、しばし、馬の稽古をせよ。帝の前で落馬などしては目も当てられぬ」
 そう来たか。十五郎は暗澹たる思いに襲われた。
 武芸一般があまり得意ではない十五郎は、馬の扱いにも慣れていない。この前内藤ととおを走らせたものの、駿馬を宛てがわれた十五郎が内藤の鈍馬に追い越され、結局坂本城に戻る頃には一刻ほどの差がついてしまったほどだ。次の日、内腿が痛み、まともに胡坐あぐらさえかくことできなかったのは言うまでもない。
 光秀のに、下座に座っていた内藤が我が意を得たりとばかりに白い歯を見せた。
「この内藤、若殿様にみっちり馬をお教えいたしまする」
 内藤の顔を見て、げんなりとする十五郎がいた。
 それからしばらく、坂本城下の外れにある広い馬場で、内藤と共にひたすら馬を走らせる日々が続いた。
「人馬一体、それが馬の極意でござる。馬の腹を股でしっかり挟んで、太腿で馬の鼓動を感じるのです。さすれば馬の思いが分かるようになり申す」
 言われた通りに股に力を込めても、筋骨優れた馬の背はたやすく十五郎の足を跳ね返す。手綱を引っ張ってやっても、何も応えようとしない。何度か手綱を引いて、ようやくしぶしぶといった様子で駆け出すような有様だ。
「若殿は馬を信頼しておられませぬ。馬は、鞍に乗った人間の心に呼応いたしまするゆえ、たとえ恐ろしかろうが、馬を信じてやることが大事なのです」
 言葉も通じない生き物をどう信じろというのだろう。今日の馬は機嫌が悪いようで、殊更に尻を浮かして歩く。一歩一歩歩く度に尻が浮いて鞍に打ちつけられる。
「若様、お気持ちを強くお持ちくだされ」
 つくづく己は馬に嫌われている・・・。そう独り言ちたその時、馬が突然暴れ出し、十五郎は地面に投げ出されてしまった。
「お怪我はございませぬか、若様」
 馬上の内藤は鞍に乗ったまま手を伸ばしてきた。随分身を乗り出しているはずだが、まるで下半身が馬に縛り付けられているかのように内藤の体は馬になじんでいる。これが人馬一体というものか、と驚きながらも、十五郎はその手を取り、立ち上がった。袴を叩きながら、
「やっぱり、馬は苦手だ」
 とぼやいた。
 先ほど十五郎を振り落とした馬は、先ほどまでの癇癪を忘れたかのように、下草を黙々とんでいた。


 穏やかな風が吹き、屋敷の垣を超えて伸びる枝に咲いた花が揺れている。
 その年の二月、ついに京での馬揃えが開かれた。
 十五郎は禁裏の東側にある陣中という空き地の入り口近辺に構えられた小さな陣幕の真ん中で、いくさひたたれに身を包み、床几に腰かけていた。周囲には隠岐惟恒や妻木七郎兵衛、内藤三郎右衛門といった十五郎付の家臣達の姿があるが、表情は一様に浮かないものだった。中には内藤のように、あからさまに不満げな顔をしている者すらある。平服でよいと伝えてあるのに、あえて真新しい具足を着込んでいる辺りに内藤の屈折が見て取れた。
 この馬揃えには、十五郎も居並ぶはずだった。光秀自身がこれを十五郎の披露目とすると息巻いていたのだ。だが、どうしたわけか話は流れてしまい、結局十五郎とその家臣団は馬揃えの露払いや野次馬の整理といった雑務に回されることになってしまった。
 気分を変えたくなって、十五郎は陣幕から外に出た。
 陣内周囲は既に人でごった返している。具足姿の明智家の徒武者たちが京の野次馬たちの前に立ち、その背後では騎馬武者がしきりに駆け回り、野次馬に威圧を与えていた。野次馬たちは身を乗り出しながら今や遅しと主役がやってくるのを待っているようだ。
 己の陣幕に戻った十五郎は「父上のご様子を見てくる」と口にした。すると、青い戦直垂姿の妻木七郎兵衛が後ろについてくれた。
 番方の武士が警固する陣中の中を歩き、馬揃えを今や遅しと待つ諸将のいる空地へと至った。そこにも野次馬が大勢いたが、禁裏前のそれとは比べものにならぬほど少ない。それこそ織田家が誇る家臣や一族連枝が揃っている。それにしても、家中によって馬揃えへの考えが違うのが面白かった。戦の臭い残る傷だらけの戦具足をそのまま着て胸を張る一団はしばごんろくかついえの軍であろう。かと思えば、金ぴかの具足を纏う一団は、信長公の三男、きたばたちゅうじょうのぶかつのそれだ。
 だが、馬揃えに並ぶ全員の胸にもれなく桜の枝が差してあり、綾を添えている。
 これを提案したのは十五郎だ。武骨一辺倒の馬揃えもよいだろうが、それでは見飽きるしむさ苦しい。それに全体の統一感も出したい。ならば、茶室に生けられた花のように、さりげなく花をあしらうのはどうだろう。そう考え、光秀に提案したところ、そのまま話が通った。十五郎は家臣たちと共に桜の枝を折り、千を超える桜の枝を集めた。
 薄い朱色の花を胸に咲かす武士の一団の横を歩くうち、やがて、目的の一団へと達した。
 この一団だけは桜の枝ではなく、紫紙で折った桔梗の花を胸に差している。
 最前列にまで回ると、具足姿で馬にまたがる光秀の姿が目に入った。近づくと、十五郎に気づいた光秀は馬上でぎこちなく頷いた。
「おお、十五郎か」
「警固についてはお任せください。家臣たちがしかと守ってくれておりますぞ。父上、桔梗の花、実にお似合いでございます」
「そなた発案の桔梗の折り紙もなかなかよい趣向ぞ」
 明智家だけ桔梗の折り紙を胸にあしらおうというのも、十五郎の提案だった。桔梗は明智家の家紋にも使われている花だ。明智家の晴れの舞台を示すには、これ以上ない趣向だ。光秀も喜んでくれているらしい。表情に乏しいところのある光秀も、胸の花を触りながら、笑い皺を寄せている。
 だが、ふいに光秀は顔を曇らせ、声を潜めた。
「すまぬな」
 言葉の意味が容易に理解できただけに、十五郎は軽く頷くに留めた。晴れの馬揃えに加えることができぬことを謝っている。
 父子の間に滑り込んだ据わりの悪い沈黙を破ったのは、光秀の後ろに控える馬上武者だった。緑の復古調おどしよろいに身を包み、豪壮なひげを蓄える光秀とそうよわいの変わらない武者は、光秀の家老を務めるさいとうとしみつだ。
「殿、晴れの舞台でござる。若様も、主家への最初のご奉公でございますれば、お二人とも胸を張られませ。男ぶりが台無しでござるぞ」
 利三は顔をほころばせ、白い歯を見せた。
 あっけらかんとした言だけで、淀んだ場を明るくした。これが憂い多い明智家の筆頭家老たる利三の面目躍如といったところだ。
「父上、お気張りください」
 晴れ晴れと十五郎が声を掛けると、光秀は、虚を突かれたように笑った。
「はは、そなたもどんどん大きくなっていくな」
 やがて、この場にを纏った騎馬武者が駆けてきて、馬揃えの開始を告げた。
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
 十五郎が頭を下げると、丁度明智の番がやってきた。
 脇に退いた十五郎は、馬上にある父親の姿を見上げていた。あまりに眩しい。晴れがましく真新しい鎧を光らせながら、威儀を正して馬を歩かせる父の姿は、天下一の武将そのものだった。後ろに続く家臣も、皆光秀の背を惚れ惚れと眺めつつ、馬を歩かせている。斎藤利三は槍を掲げて野次馬たちの歓声に答え、その後ろにいる、同じく光秀付き家老のみぞしげともは常の通りに胸を張り、淡々と駒を進めている。
 そんな明智家の行列の中、ある馬上武者が目に留まった。
 明智の一軍を率いるその将は、胸にあった桔梗の折り紙を引きちぎり、地面に捨てていた。
 何も言わぬまま、その男は陣内の表舞台に向かって行ってしまった。
 あれは――。脳裏に刻まれた馬上の武者の姿を思い出し、何度も何度も顔を思い浮かべた。
 あけまのすけだ。元は浪人であったそうだが武勇を買われて明智家家臣に迎え入れられた。十五郎の姉の亀を妻に迎えたことで明智姓を与えられ、今では家老兼御一門衆筆頭という重責にある。文武に優れた若き名将の名は、織田家だけではなく、全国の大名に轟いている。
 折り紙を捨てたのが気になったが、己にもお役目がある。
 陣幕に戻った十五郎は、禁裏の門に吸い込まれてゆく織田家の家臣達の姿を見遣っていた。明智衆の中には、与力として参加しているながおかふじたかただおきの姿もあった。胸の桜の枝を春風に揺らし、胸を張って馬を歩かせている。つつじゅんけいの姿もある。鎧の上に金色の袈裟を纏い、白頭巾をしたなりだ。また、御一門衆の筆頭としてのぶただが他の一門衆を率いる形で禁裏へと門の中へ行進してゆく。武骨一辺倒のしばかついえ一行が陣内に現れた時には、この日一番の歓声が上がった。精鋭部隊の母衣騎馬武者が眼前を駆け回るたび、京雀たちはけたたましく口笛を鳴らした。
 陣幕の中から馬揃えの様子を眺めながら、十五郎は一人、袴の腿の辺りを強く握った。
 正直に言えば、馬の稽古は進まなかった。内藤にも「このままではまずいですぞ」と面と向かって言われてしまうほどだった。馬揃えに出なくてよくなったと聞かされた際、ほっとしたという思いがどこかにあった。だが、今、こうして馬揃えを眺めているうちに、別の思いが浮かび上がりつつあった。
 袴を握り過ぎたせいで、変な皺がついてしまっている。
 なぜ、拙者は馬揃えに参加できぬのだろうという自問が浮かんでは消える。
 震える右手を左手で押さえながら、ひたすら十五郎は華やかな行軍を見遣った。
 悔しい。己の内側に、どす黒い思いがひたひたと満ちてくる。
 そう齢の変わらぬ忠興すらも参加している。筒井順慶の姿もある。子供の頃から言葉を交わしていた信忠などは一門を率いるようにして禁裏の門に消えた。まるで、皆に見捨てられ、置いて行かれたような心地さえした。
 気づけば、拳骨を作り、左の手に何度も当てていた。
「若様」
 振り返ると、七郎兵衛が首を横に振った。まつげを伏せ、痛ましげな顔をして。
 正気に戻って振り返ると、家臣たちも一様に同じ顔をしていた。惟恒も、内藤も、他の家臣たちも、皆、表情を変えることもなく、淡々と華やかな行軍を見送っている。
 あそこに立ちたかったのは、お前だけではない。
 そう詰られているような気がしてならなかった。
「すまぬ」
 すべてが終わった後、撤兵が始まった。禁裏の門の正面脇に陣を張る十五郎は、宿所である妙覚寺に帰還する諸将を見送った。将の中には今日の十五郎の警固を労う意味か、いちいち歩みを止めて頭を下げてくれる者もあった。織田信忠などは、
「今日の警固、ご苦労であったな」
 とわざわざ周囲に聞かせるような大音声を発し、馬上から軍扇を手渡してくれた。
 最後に禁裏の門から信長が現れた。十五郎たちは陣幕から出て、主君の帰りを見送る構えを取った。
 漆黒の鎧を纏いおに鹿の馬に乗る信長は、前方をぼうっと眺めているばかりだった。周囲の家臣たちが十五郎を指して何事かを語りかけている。今日の警固の者でございます、何かお声をおかけくださいませ、とでも言っているのだろう。十五郎は首を垂れ、信長から声がかかるのを待った。
 だが、結局信長は十五郎の前を素通りした。
 首を垂れる十五郎の耳には、信長の鬼鹿毛の駒音が遠ざかるのが聞こえるばかりだった。
 思わず、十五郎は顔を上げた。だが、信長の背は、胡麻粒ほどに小さくなっていた。


「いやはや、いつ来ても絶景でありますな」
 里村紹巴が海風を前に、満面に笑みを湛えた。紹巴の視線に寄り添うように海に目を向けると、凪の海の向こうにある内湾に、世にも珍しい砂浜の橋が架かっている。松の群生する細い砂浜が、弓なりの海岸線に弦を張ったかのようななりで延びており、その砂浜に堰き止められる形になっている内湾は半月型を為している。
 鏡のように平らかな凪の海に、十五郎は目を細めた。
 旅先ということもあり、肩衣姿に太刀を穿いただけの軽装である光秀も、ほうと息をついた。
「思えば、見るのは初めてだ」
「左様ですか」紹巴は光秀から視線を外し、十五郎を見据えた。「若様、ここが日本三景の一つ、あまのはしだてでございます。しっかり見て置かれますよう」
 内湾の入り口にできた陸橋という奇観は、海沿いでは今一つ実感できない。だが、いくつもの歌集で繰り返し歌われてきた地だ。今後和歌を学ぶ際の肥やしとなろう、と考えることにした。
「それにしても・・・」光秀は独り言ちた。「藤孝殿の数寄好みも善し悪しだな。まさか、かようなところに城を造ってしまうとは」
 十五郎たちは今、天橋立のある宮津にいる。
 きっかけは、明智家の与力に組み込まれた長岡藤孝からの誘いだった。文に曰く、丹後の平定をほぼ終え、ようやく宮津に城を構えることができたゆえ、その様を日向守殿にご覧に入れたい。ついては五月頃、宮津の穏やかな海を肴に酒宴を開き、歌でも詠もうではないか・・・。この文を持ってきたのが、里村紹巴であった。この要請を受け、光秀、十五郎を始めとして、百人ほどの一行が宮津へと発したのである。
 みちゆきを思い出しながら、多少なりとも馬の訓練をしておいてよかった、と十五郎は胸を撫で下ろしていた。坂本から宮津まで結構な距離がある。まず、京に出てから丹波の亀山城へと向かい、そこから宮津へ至る街道を北上することになるのだが、いかにも急峻な道を行かねばならない。途中、紹巴が「あそこがあの有名なしゅてんどうの大江山ですよ」と左手側の山を指した時には驚いた。古の人々が鬼の棲む山と恐れた山のさらに奥に宮津があるのだ。自ら馬を走らせることができないまでも、誰かに手綱を引いてもらえば十分乗れる。おかげでさほど苦しむことなく宮津へと至った。
 十五郎は海から目を離し、宮津の町を見遣った。
 宮津は驚くほどに開けていた。
 もともとは漁師町なのか、海沿いに舟屋を備えた長細い家々が軒を連ねている。少し奥の方には街道沿いに蔵や大きな屋敷が並び、さらにその奥には田畑が広がっている。扇のような狭い平野を最大限に用いているようだ。
 目的地である宮津の城は町の東、海沿いにあった。
 宮津街道の終着点に建てられた宮津城は、海を後ろに配し、川を堀に見立てた平城だ。鼠色の瓦と白亜の漆喰が海の青によく映える。まだ普請すべてが終わったわけではないらしく、櫓のいくつかには竹の足場が掛かったままになっているが、最も高い台座に築かれた四層の天守は既にその威容を誇り、十五郎一行を見下ろしている。
 この城の様子には、光秀も目を見張っている。
「ささ、参りましょうぞ」
 紹巴の誘いのままに、一行は赤く塗られた大手橋を渡り、白の表門をくぐった。
「ようこそ、お越しくださいましたな」
 くぐってすぐ、覇気のこもった声が十五郎のを叩いた。
 大手門からすぐの広場に、一人の男が立っていた。
 青っぽい直垂姿だが、その男の上背と盛り上がった筋骨を隠さない。昔、暴れ牛を膂力だけで抑え込んだことがあるという俄かには信じられない話もあながち嘘ではないのかもしれぬ、と思わせるほどだ。だが、恵まれた体格の持ち主でありながら、あまり武の気配は感じられない。切れ長の目といい、調えられた泥鰌ひげや白いものの混じる髪といい、むしろ智の閃めきが前面に出ている。年の頃五十ほど、年齢はほとんど光秀と変わるまい。
 十五郎が頭を下げると、その大男は相好を崩した。
「何でも、この前の馬揃えでは警護に当たられたとのこと。久しいな、十五郎殿」
「はっ。長岡侍従殿におかれましてもご健勝のご様子、何よりでございます」
「よくできた挨拶だの」
 軽く手を叩くこの男は長岡侍従藤孝、長岡忠興の父である。元は名族細川氏の一族だが、度重なる京の政変に翻弄され、一時は困窮の日々を送っていた。織田信長が尾張から京に進出した頃、将軍家臣の形で臣従し、のちに信長家臣に列したことで、今や丹後を任される一国一城の主にまで返り咲いた男である。
 恵まれた体格はまさに生まれながらの武士だが、むしろこの男は風雅の道の人として知られている。武家でありながら熱心に和歌を学び、歌の古今伝授を受けるまでの学識を誇っている。古今伝授は金で買えるものでも、権勢を笠に得られるものでもない。藤孝の学識が知れ渡っていたからこそ、しょにんがこの伝授を認めたのである。
「さて、立ち話、失礼したな。天守に一席ご用意致しましたゆえ、お上りくだされ」
 藤孝自らの案内で、本丸の天守にまで至った。
 未だ三の丸や二の丸の建物は完成していない。だが、堀や石垣、本丸御殿はほぼ完成していた。大工や諸職人たちの活気ある声を聞きながら本丸御殿を横目に天守台への道を歩いていると、ふいに光秀が口を開いた。
「そういえば、たまは息災にしておるかな」
 玉。光秀の娘で、忠興の許に嫁にやった娘だ。十五郎から見れば姉に当たる。
「元気にしておるよ。かの嫁は倅にはもったいない女人よ」
「過ぎた言葉、痛み入る」
「なんの」
 藤孝と光秀の間には、遠慮のない親密さが滲んでいる。二人は互いが困窮していた頃からの知り合いらしい。その頃、『もしも互いに落魄の身から抜け出せたならうちの倅にそなたの娘を』と約束していたらしく、玉と忠興の祝言はその約束を果たしたものだという。
 藤孝の誘いのままに、天守に足を踏み入れた。
「おお」
 光秀や惟恒を始めとする家臣が、感嘆の声を上げた。
 十五郎もまた、天守の大門をくぐった瞬間から、あることに気づいていた。
 天守の本義は櫓で、攻めてきた敵の陣を見渡すための、戦用の設備だ。ゆえに、普段は封印して物置として使っている場合が多い。実際、十五郎が住んでいる坂本城でも、暮らしの場はあくまで本丸御殿であり、天守の門は鍵を掛けている。だが、この天守は違う。入るなり、虎の襖絵が出迎える。履き物を脱いで襖を開くと、天守にありがちな黴臭さには無縁の、明るい大広間が一行を出迎えた。
「家臣の皆様はこちらで待たれるよう」
 藤孝の言に従い、惟恒たちは明るい大広間に遺される。そして、光秀や十五郎といった連枝はさらに上へと誘われた。
 何回か緩やかな階段を上ると、ようやく最上階に至った。
 そこは、光に満ち溢れた、まさに天上の世界だった。
 外と部屋を仕切る壁は取り払われており、等間隔に並ぶ柱だけが中の二十畳ほどの板の間と外の欄干とを危うげに分け、屋根を支えている。見れば、部屋の隅に木製の板が何枚も立てかけられている。普段はあれで周囲に蓋をするのだろう。欄干越しに、宮津の湾、そして遠くに天橋立を望むことができるという仕組みになっている。
 人数分の膳が置かれた場に、既に一人の男が座っていた。
 瞑目しながら膳の前に座していたのは、長岡忠興その人だった。気配に気づいたのか、ゆっくりと目を開くと、光秀たちに頭を下げた。
「これは、見事な趣向だ」
 光秀がそう唸ると、心なしか藤孝は小鼻を膨らませた。
「これがしたかったのよ。丹後を拝領すると伺ったとき、何が何でも宮津に城を普請しようとな。天下三景の一つを望む城。これ以上ない城であろう」
 何という数寄の極致であろうか。十五郎は驚きを隠せずにいた。
 古典を学び始めて一年にも満たないところだが、それでも古人たちが歌い継いできた天橋立のことは、夢に見るほどだった。名だたる歌人が詠み込んだ天橋立とはどんな光景なのだろう。歌詠みならば誰もが思い描くであろう光景を、この男は己の居城から毎日のように眺めることができる。これを数寄者の極致と言わずして何と言おう。
「さあ、連歌と洒落込もうではないか」
 藤孝は一座を見渡し、天橋立を背後に置いてそう宣した。
 この場にいるのは十五郎も含め、全部で六人。長岡藤孝、忠興親子に明智光秀、十五郎親子、連歌師の里村紹巴に、明智の名乗りを許された明智左馬助だ。
 だが、ある男が異を唱えた。
「申し訳ございませぬが、拙者は下がらせていただきまする」
 主君の返事すら碌に聞かずに階段に向かって行ってしまったのは、明智左馬助であった。
 この連歌の亭主となるはずの藤孝は困惑を隠さなかったが、光秀は肩をすくめた。
「あれは風雅に通じぬゆえ、許してやってほしい」
「なるほど。そういうことならば、仕方なかろう」
 かくして、連歌が始まった。
 連歌は会を開いた亭主と連歌を記録する執筆、連歌に通じた宗匠と客からなるが、この場には和歌の古今伝授を受けた藤孝と、連歌の第一人者である紹巴がいる。どっちを宗匠とするかも微妙な問題だ。どうするのだろう、と亭主の藤孝を眺めていると、嫌味な十五郎の視線をあざ笑うかのごとくに、
「此度の会はいっそのこと、ままにやりましょうぞ」
 と、連歌の堅苦しい決まりから脱するように持ち掛けたことで自然な形で始まることになった。
 思えば、連歌会に参加するのは初めてだ。
 これまで、里村紹巴と連歌の勉強をしてきた。連歌は上の句と下の句を交互に読んでゆくもので、上の句を読む場合は前の下の句との間で一つの短歌になるように、下の句を読む場合は前の上の句との間で一つの短歌になるように詠む。出来ることなら、前に出来上がった短歌の雅趣を踏襲しつつ、少しずつその世界を広げてゆくのがよいとされる。
 まずは光秀がほっを詠み、次に忠興が下の句を合わせる。発句に対応する下の句を脇の句と呼び、発句の言わんとするところを読み取り、ふくらみを持たせるように詠むのがよいとされるが、忠興はその約束を見事に果たした。光秀が詠んだ初夏の寿ぎを、目の前の天橋立の奇景に絡めてみせた。
その後、脇の下の句を玩味しながら、紹巴が三の句を詠んだ。連歌においては発句・脇・三の句の三つ物からなるとされ、この三の句の広がり方次第で連歌会の成功が決まる。
 脇で紹巴の三の句を聞きながら、十五郎は膝を打っていた。
 紹巴はあえて三の句で冬の天橋立を描き出した。それによって、初夏の天橋立という現実の光景から連歌を切り離して見せたのだ。
 三つ物が終わればあとはひら、即意即妙の切り返しや古典籍の知識が問われる個所となる。順番がやってきた十五郎は、紹巴から教わった和歌集を思い起こしながら、先に句を詠んだ者の意図を踏まえつつ、少しずつ流れを変えるべく力を尽くした。
 正直、何を詠んだのか思い出すことはできない。だが、時折光秀が驚きとも呆れともつかない表情を浮かべていたのを僅かに覚えているほどだった。
 そうして気づけば挙句、最後の句へと至り、連歌会はすべて終わりを告げた。
「ふむ・・・」
 亭主兼執筆の藤孝は、連歌を書き留めていた巻物を見返しながら嘆息した。
「日向殿や紹巴殿についてはもはや何も言うことはないが・・・。十五郎、そなた、相当和歌を勉強した様子だな。特に二十八句の切り返しが素晴らしい。ただの〝恋すてう〟を本歌取りした上の句に、たいらのかねもりの〝しのぶれど〟の本歌取りをぶつけてくるあたり、実によい機知であったと思う」
 紹巴もしみじみと頷いている。
 正直、詠んでいる最中は精一杯だったがゆえに記憶がない。だが、〝恋すてう〟と〝しのぶれど〟は天下一の歌合と名高い天徳内裏歌合で真正面から戦った名歌だ。きっと、紹巴から耳にした知識を思い出し、咄嗟の返しとしたのだろう。
「どうやら、十五郎には風雅の才があるようだ」
 古今伝授の主である藤孝に褒められた。
 初の連歌会は晴れがましさの中で終わりを告げた。


 その日の夜、明智一行をもてなす酒宴が開かれた。
 長岡の家臣はなかなか面白い者が多かった。主君が風狂の人だからてっきり部下も風雅の道の者が多いかとばかり思っていたが、そんなことはない。酒宴の会場となった大広間、そこに面した庭先に十枚の的を用意し、火のついた矢を弓で射るという芸当を見せた者がいた。一本当てる度に大椀の酒を飲み干し、次々に的に当ててゆく。八枚頃にはへべれけに酔っているはずなのに手元を狂わすことなく、的を的確に燃やしてゆく。そうしてすべての的を落とした武士は、真っ赤になりながらも主賓の光秀に優雅に頭を下げた。
 酒を飲んでの矢射りといういかにも武張った出し物にも拘らず、まるで下卑たところがない。
「さすがは風雅の長岡よな」
 出し物の合間に、光秀がそう舌を巻くほどであった。
 宴会も盛り上がりを迎え、長岡家臣も明智家臣も酔い始めた頃、ふいに十五郎の前に影が差した。見上げると、そこには満面に笑みを湛える長岡藤孝の姿があった。理由は分からないが、十五郎の背に怖気が走った。だがなぜ? 理由も分からずに戸惑っていると、藤孝は光秀にその顔を向けた。
「日向殿。茶でも一献いかがかな」
 盃を口元に近付けていたその手が止まった。
「なるほど、悪くない」
 歌うように述べた光秀は、自らの前に置かれた膳の上に盃を置き、ゆっくりと立ち上がった。既にかなり飲んでいるはずだが、まるで酔ったところはなく、足取りもしっかりしている。藤孝に誘われ、光秀は奥に消えた。
 一人、主賓の場に遺された十五郎はしばらく一人で膳のものに口をつけていた。喧騒をどこか遠いものとして聞きながら。
 しばらく一人でそうしていただろうか。やがて、十五郎に声を掛けてくる者の姿があった。
 見たことのない顔だ。明智の家臣ではあるまい。紺色の肩衣姿で腰に小刀を帯びているが、足取りがおぼつかない。見れば顔はすっかり赤ら顏になっており、目も充血している。かなり飲んだのだろう。
 捨て置いていると、その侍は口を開いた。
「明智の若様は馬にも乗れぬと噂がありまするが、まことのことでございますか」
 酒臭い息を吐きながら、節をつけるように述べた侍はその場にへたり込み、へっへっへ、と力なく笑った。
 なおも捨て置いて香の物を齧っていると、その侍は眉根を寄せた。
「侍の子ともあろう者が馬に乗れぬでは、家臣はさぞ居たたまれぬことでしょうなあ」
 この頃には、妻木七郎兵衛を始めとした明智の家臣たちが異変に気づき、己の席から立ち上がり始めていた。宴会場の奥では、長岡衆の数名がこちらを見てにやにや笑っている。この酔っぱらいをけしかけた連中だろう。
 酒を飲むと人はなぜこうも無謀なことをしてしまうのだろう、と十五郎は疑問に駆られていた。まだ十五郎は酒の味を知らずにいる。だから、酒宴の何が楽しいのかも分からず、たまにこうして無謀な飲み方をした者が不快なことをするばかりという印象しかない。
 閉口している十五郎の前で、いよいよ侍は大虎になった。
「ええい、何か言わぬか、へっぴり侍めが」
 これにはさすがに七郎兵衛を始めとする明智家臣が色を成した。
 だが、次の瞬間、辺りには別の緊張が満ちた。
 鞘音が部屋の中に響き渡り、どん、と重いものが落ちたような音がした。一瞬のことゆえ、何が起こったのか分からなかったものの、次の瞬間には事態を理解した。大虎になって十五郎の前に座っている長岡家臣の前に、一振りの太刀が突き刺さっている。青白く光る刀身が長岡家臣のすぐ近くにある。やはり何が起こったのか分からなかったのだろう。件の家臣はとろんとした目のまま、上を見上げた。
 そこには、太刀を逆手に握り、太刀などよりもはるかに冷たい目をして家臣を見下ろす長岡忠興の姿があった。
 ひいっ、と短い悲鳴を上げる家臣に忠興は刃筋を傾ける。
「酒の上のこととはいえ、無礼が過ぎたな」
「え、いや、あの・・・」
 刃を眼前にした家臣は広間の奥の方にいる仲間たちに向かって目を泳がせたが、類が及んではたまらぬとばかりに目を背けた。いよいよ、件の家臣は色を失った。
「血であがなえ」
 忠興が柄を強く握ったその時、十五郎が声を上げた。
「お待ちください」
 忠興の目がまゆづきのように細くなったかと思うと、その瞳孔が家臣の首筋から十五郎へと移った。
「何か」
「酒の上でのことであることはこの明智十五郎、十分に承知しております。一言の詫びさえ頂けるのであれば水に流しましょうぞ」
 正直をいえば、こんな些細なことで血を見たくはなかった。
 だが、忠興は次の瞬間、目を大きく見開き、口角を上げた。白い歯を見せつけるような、そんな笑みだった。瞳孔はすっかり開き切り、そのどす黒い目の奥には混沌が横たわっている。
「ならぬな」
 次の瞬間、忠興の刀の刃が、家臣の体に吸い込まれていった。音もなく、悲鳴すら上げず、その家臣は畳の上に転がった。遅れ、じわりと体の回りに広がる赤黒いものが、家臣の運命を雄弁に物語っていた。
 十五郎は、懐紙で刀身に掛かった血を拭き取る忠興を睨んだ。
「なぜ、なぜ殺したのですか」
「心得違いをしてはならぬな、十五郎」
 忠興は赤く染まった懐紙を捨てた。ひらひらと宙を舞う赤い蝶は、やがて赤黒い湖の中に落ち、沈んでいった。
「そこな家臣は明智の家臣ではない。あくまで長岡の家臣よ。その生殺与奪は我が父と、嫡子であるわしのもの。そなたにはない」
「されど・・・」
「明智ならば、鷹揚な態度が取れよう。されど我ら長岡衆はそうはいかぬ」
「それは、どういう」
 鼻を鳴らした忠興は白刃を鞘の中に収めると、呆然としている家臣に死体の始末を命じた。そして本人はと言えばつまらなそうに己の席に座り直し、白身魚のおつくりを口に運び、酒を呷り始めた。それはまるで、戸板で運ばれ、血の始末をしている家臣たちの働きを肴に酒を飲んでいるかのようだった。
 すぐに死体は運ばれて替えの畳が張られた。だが、の臭いは、しばらくの間残っている。
 呆然と立ち尽くしていると、横に立ち、腕を組んでいた男が声を上げた。
「見事。長岡家はただの風雅の家ではないようだ」
 横を見やると、そこには明智左馬助が立っていた。
 どういうことだ、と問いかけると、左馬助は落ちついた声で続けた。
「処断は大名の腕の見せ所でござる。その点、与一郎殿の処断は実に見事でござった。ここで許してしまえば、今後、他家を侮る家臣ばかりになってしまう。その目を最小の手数で詰んでしまわれた。お見事という他ない」
「一人、人が死んだぞ」
「何、安いものでござる。あそこで不心得者を処断したことで、今後の長岡の信用に繋がりましょう。そのことを、誰よりも与一郎様は理解しておいでであった」
 黙々と酒を呷り、魚の煮つけに箸をつける忠興の姿が目に入る。
 左馬助は息をついた。
「拙者は風雅には通じぬゆえ、この長岡行きにはあまり乗り気ではありませなんだが、今日はよきものを見させていただきましたぞ。若様、もしも明智を栄えさせんとお思いならば、与一郎殿の爪の垢を煎じて飲まれるがよろしい」
 反論しようとしたものの、既に左馬助は踵を返していた。どこへ行くかと問うたところ、これからこの一部始終を光秀に説明に行く、と口にし、大広間を後にした。
 十五郎は、腹の底でふつふつと怒りが湧いてきたことに気づいていた。
 元より左馬助とは馬が合わない。やることなすことをすべて否まれているような気がする。それに、時折、あの男から発される視線に、侮りや呆れの色が混じっているように感じることすらある。
 なんなのだ、あの男は――。
 十五郎とは違い、恵まれた筋骨を誇るその大きな背中を思い出していると、ようやく惟恒や七郎兵衛といった近臣が十五郎の許にやってきた。
 お怪我はございませぬか、見苦しいことになってしまいましたな――。二人から浴びせかけられる労わりの声も、今の十五郎には届かなかった。
 結局、初日に起こった刃傷沙汰のこともあり、その後の天橋立行はあまり盛り上がることもなく終わってしまった。数日の宮津遊行は、後味の悪さを残したまま日程を終え、明智一行は本貫地である丹波へと戻った。


 天橋立から戻ってしばらくは、穏やかな日々を過ごしていた。津田宗及から茶を習い、里村紹巴から和歌を学んだ。相変わらず武芸の方はあまり上達しなかったものの、他家の侍に侮られることが癪で、馬と槍の修練だけは力を入れるようにした。そのおかげか、温厚な馬ならば十二分に乗りこなすことができるようになり、時には坂本城から琵琶湖沿いを走るようになった。きらきらと光る湖面を眺め、流れてくる涼しげな風を浴びながら、こんなに馬乗りは清々しいものなのか、と驚かされた。
 そんな八月のある日、坂本城にある報せが飛び込んできた。
「なんと」
 話を耳にした十五郎は、居ても立ってもいられず光秀の私室である奥書院へと続く廊下を急いだ。
「父上」
 襖を勢いよく開くと、いくつもの視線が十五郎を見上げた。
 奥書院の中には、明智左馬助、斎藤利三、溝尾茂朝が居並んでいる。いずれも明智家中の中でも重臣に列している者たちが、光秀の前に控えている。
 何かあったのだろうか、と訝しく思っていると、光秀は、おお、と声を上げた。
「よいところに来た。実は、信長公よりいなの遠征を命じられてな。しばひでよし殿の与力というのが業腹だが、よき機会よ。そなたは丹波亀山城に詰め、その上で我ら前線の援護を頼みたいのだ」
 そのあっけらかんとした口ぶりが、ことさらに十五郎を傷つけた。言いたいことは山ほどあったはずなのに、喉から口にまで上ってこない。拳骨を固めてその場に立っていると、ようやく何かに気づいたのか、光秀は小首をかしげた。
「何かあったのか」
 そう問われて初めて、肚の内で混沌としていた思いがようやく形になった。
「叔母上が、危篤であられる由」
「聞いておる」
 光秀は瞑目して、短く息を吐いた。
 安土城の明智屋敷に詰めている家臣からの連絡だった。数日前より伏せていた妻木殿の体調が日に日に悪化し、かなり衰弱しているらしい。今日の夜が山であろうと届いた文は告げていた。
 しばらく何も言わず、顎を撫でていた光秀であったが、やがて目に見えぬ何かを振り払うようにして、口を開いた。
「それがどうした。信長様のご命令があるのだ。」
「何をおっしゃるのですか、妻木殿は母上の妹君であられましょう」
「分かっておるわ」
「父上は何も分かっておられませぬ。妻木殿は父上のことを」
 言いかけ、思わず十五郎は口をつぐんだ。
 光秀が、これまで見たことのないような表情をしていたからだ。まるで、大皿にひびが入ったような、そんな表情だった。それが、父親の感情の奔流だと気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。
 目尻を指で弾きながら、光秀は続けた。
「関係あるまい。今はただ、因幡討伐の用意をせねば」
「父上は、人の心がないのですか」
 ついて出た言葉が、奥書院の障子を揺らした。居並ぶ重臣たちも、ある者は瞑目し、またある者は呆れ顔を浮かべている。
 能面のような無表情に変じた光秀は、ぽつりと言った。
「お前がないと思うのならば、わしに人の心などないのだろう」
「しからば父上。丹波亀山城へ行けという父上の下知には従えませぬ」
「なんだと」
「これより、安土へ向かいます。叔母上の最期を看取りとうございますゆえ」
「――勝手にせい」
 父親の冷たく響く声を背中に受け、十五郎は奥書院から下がった。
 安土に行く――。この宣言を受けた十五郎付家臣たちは皆一様に反対した。惟恒は『ここは殿のおっしゃることに従ってくだされ』と顔を青くして言上し、内藤は『武士の本懐は戦場での働き。これは家族への孝行などよりもはるかに尊いものでござる』と述べた。そんな中、唯一賛成してくれたのは妻木七郎兵衛だった。
「若様、行きましょう」
 凛とした答えに救われる十五郎がいた。
 坂本城と安土城を繋ぐ船は光秀の許しがなければ使えないゆえ、馬で安土へと向かうことに決した。
 大手門を出て、琵琶湖を左手に南下してゆく。船で行けば大した道のりではないというのに、馬を使うとぐるりと迂回することになる。馬のたてがみの中に顔を沈めながら、震える手で手綱を握っていると、左横を走る七郎兵衛にたしなめられた。
「若様、馬に乗っている時に気もそぞろでは、何かあった時に即応できませぬ。お気を強くお持ちくだされ。必ずや、叔母上は若様を待っていてくださるはずです」
 十五郎は気づいた。いつもはひょうひょうとしている七郎兵衛の唇がわずかに震えているということに。七郎兵衛にとっても、妻木殿は叔母に当たる。
「すまぬ」
「謝られることはございませぬ」
 七郎兵衛は左手に見える琵琶湖に、そっけなく目をやった。心なしか、七郎兵衛が長い影を背負っているような気がした。
 数刻の馬乗りを経て、ようやく安土城に到着した頃には日が傾きかけていた。
 安土城内の明智屋敷に向かった。届いた文によれば、妻木殿は数日前から明智屋敷に下ろされているらしい。屋敷の縁側の前に立ち人を呼ぶと、家臣の一人が奥から現れ、ひどく狼狽した様子で十五郎と七郎兵衛の二人を迎えた。妻木殿に面会したいと述べると、あからさまに困惑の色を隠さず、若様にもしものことがあっては・・・、と難色さえ示されたが、押し通った。
 通されたのは、屋敷の一番奥の部屋であった。日の光が届かない、裏庭に面したその部屋は夏の終わりだというのにひんやりとしていた。
 障子を開いた瞬間、夜具にくるまる女人の姿が目に入った。
 黒々とした髪を散らし、額には紫の鉢巻きを巻いている。白い襦袢一枚というなりで身を横たえ、その上に真っ赤な夜具を被っている。白襦袢などよりもはるかに白い顔をして、いつの間にか骨相が浮かぶほどにまで痩せてしまっている女人があの綺麗だった叔母だと理解するのに、しばしの時間がかかった。
「叔母上?」
 声を掛けると、その女人は目をゆっくりと開いた。
「ああ・・・。十五郎ではありませぬか・・・。おや、そちらには七郎兵衛もいるのですね」
「参りましたぞ、叔母上」
 部屋の中に入ろうとすると、妻木殿は鋭い声を発した。訝しく思うほどに、その声は大きかった。
「部屋に入ってはなりませぬ。あなたたちはこれからの明智を支える大事な身。わたしの病を移すわけにはいきませぬ」
 空咳を繰り返す妻木殿の傍らに死神が佇んでいるのを十五郎は目の当たりにした。もはや、咳をするときに口に手を当てようともしない。垂れ流すように、不快の思いのままに咳をしているばかりだった。一つ、また一つと咳をする度に、命の削れる音がした。
 廊下に佇む十五郎は、死穢の側に引きずり込まれようとしている女人の姿を、ただただ眺めているばかりだった。
「十五郎・・・」
「拙者はここにおります」
 縁側に座り込み、部屋の中に横たわる妻木殿を見遣った。もう、目を開けているのもおっくうなのか、さきほどまで見開いていた目は閉じられていた。
「わたしは・・・、役目を全うできたのでしょうか」
 もはや、うわ言のようだった。
「信長公の側室としてずっとここにありました。それはすべて、姉上の婚家である明智家のため。そして、明智と縁を結んだ妻木家のため・・・。わたしは、明智の、妻木のために・・・」
「叔母上」七郎兵衛は声を震わせた。「もしも叔母上がいらっしゃらなければ、今日の明智家の繁栄はございませぬ。叔母上は、十分すぎるほどお役目を果たしてくださいました」
 七郎兵衛の言葉はもう、妻木殿には届かないらしかった。妻木殿は夜着から腕を出すと、天井に向かって手を伸ばした。その細腕は、枯れ木のように細く、くすんだ色をしていた。
「ああ、日向様はどう思われますか。りくは、しっかりお役を果たすことができましたでしょうか」
 目の前の叔母の真の名が、陸であるということを初めて知った。
「あなたのお言葉一つで、陸はよいのです。他には何も要らぬのです。日向様のお言葉が聞こえませぬ。日向様、日向様、日向様・・・」
 伸ばしていた手が落ちた。妻木殿の口から、苦し気な寝息が聞こえ始めた。気づけば妻木殿の目尻からは、一筋の涙が流れていた。
 今日はこのくらいで・・・。家臣にそう止められ、この日の面会はこれで打ち切られてしまった。
 結局これが、最期の目通りとなってしまった。
 次の日の朝、妻木殿は死んだ。あまりに突然のことであったという。妻木殿の体を清めようと女中が手ぬぐいをたらいに浸したわずかな間に、かれてしまった。誰にも死にゆく様など見せたくない、そう言いたげな最期だった。
 十五郎は妻木殿の死に顔に会った。死神が去った後の表情は、不思議と思い出の中にある綺麗な叔母そのものだった。
 穏やかな妻木殿の死相を見下ろしながら、叔母の人生とは結局何だったのだろう、と自問した。明智の為、妻木の為。そう口にして、様々なものを諦め、こうして一人死んでいった叔母の人生とは何だったのだろう。
『一家がみんなひとつ屋根の下で暮らしていけるなら、本当に幸せなことよ。でも、今、そんな暮らしができる者はいない。守りたいもののために、自らのことを大なり小なり擲っているの。みいんなそうよ』
 生前、妻木殿が口にしていた言葉を何とはなしに思い出し、穏やかに眠る妻木殿に問いかけた。
「それで、よかったのですか。叔母上」
 だが、妻木殿は十五郎の問いに応えることはなかった。
 光秀の因幡攻めは、一月ほどで終わった。坂本城に戻ってきた光秀に、妻木殿の死を伝えると、
「そうか」
 とだけ答え、旅の疲れを引きずりながら、御殿の奥へと消えた。
 反感を覚えながら、十五郎はその背中を見送っていた。(つづく)