第一章

 白い砂浜に腰をかけたあけじゅうごろうは、もてあそばれる前髪を風に任せたまま、寄せては返す波を眺めていた。
 は日ごとに違うかおを見せる。鏡のように穏やかな日もあれば、荒れ狂う獣のようにきばく日もある。すい色をした日もあれば、黒曜石に似た暗褐色に沈む日もある。だが、姿を変えながらもいつでもここにあり、水面をのぞき込む十五郎を見返してくる。
 この日は穏やかな波の日だった。青く澄んだ空に千切れ雲が流れ、晩夏の日の光を反射して、湖面が銀色に輝いている。ふと遠くを眺めれば、湖面の向こうにづちの町の様がよく見えた。
 横には無言で控える、小姓のつましちろう兵衛ひょうえ、そして弟のじゅうろうの姿がある。何も言わず、目を伏せて砂浜の上にひざまずく七郎兵衛は、十五郎の視線に気づいたのか、穏やかな丸顔を少し緩めた。二歳年下の十次郎は先ほどまで相撲を取ってやったせいか、砂浜の上に横たわり、寝息を立てている。
 十五郎も弟にならって砂浜に寝転び、目をゆっくり閉じる。
 眠りの淵へ沈んでいこうとしていたその時、頭上から声が掛かった。
「若様、何をなさっておいでなのですかな」
 冷や水を浴びせられたような心地がして、思わず十五郎は体を起こした。
 振り返ると、そこには見慣れた男二人が立っていた。
 年の頃は五十ほど、立派な老人だ。白髪の頭の上にさむらいをかぶり、緑青色の直垂ひたたれに身を包んでいる。枯れ木のような姿だが、鋭い眼光と腰にいている立派な太刀が、目の前の老人が武の人である、と思い出させてくれる。この老人はろう兵衛ひょうえこれつねといい、十五郎のもりやくだ。
 もう一人の男は、叡山えいざんの山門に立つ仁王のように全身に筋肉をよろう年の頃三十ほどの男で、武骨な顔を真っ赤にしている。こちらはないとうさぶろう右衛門えもん、十五郎の守役であると同時に武芸の指南役でもある。
 しどろもどろになりながら、十五郎は応じた。
「いや、あの・・・。ちと考え事をな」
 内藤が今にも泣き出さんばかりの声を放った。
「若様、拙者のけいがそんなに嫌でございますか」
 この剣幕には、先ほどまで眠りこけていた十次郎も目を覚ますほどだった。
 その通りだったが、口には出さない。内藤の稽古は驚くほど手厳しく、終わった後には体中にあざができるほどだ。ここのところ、稽古をいかに休むかを考えるようになったが、仮病が通じなくなってしまった。
 無言でいる十五郎に助け舟が入った。十五郎の脇に控えていた妻木七郎兵衛だった。
「内藤殿、申し訳ございませぬ。拙者が若様をそそのかしてしまいました」
「なんと、お前はいつもいつも」
 内藤は不満げに今年十七になった七郎兵衛をしかりつけている。殊勝に頭を下げたふりをしながら、七郎兵衛は十五郎に笑いかけてきた。
 七郎兵衛は母の兄の子、つまりは母方の従兄いとこに当たる。その縁でずっと十五郎に仕えてくれている。家臣というよりはともがきのような間柄で、こうして琵琶湖畔に連れ出してくれたのも、武芸の稽古を嫌い、弟と遊んでやりたいと願う十五郎の意をんだものだ。
 内藤が七郎兵衛を叱りつける横で、惟恒は鋭い眼光を十五郎に向けた。
「あまり感心しませんな、若様」
 すべてを見透かしたような口調で、惟恒は短く言った。
 惟恒とは付き合いが長い。誕生したその時から十五郎の守役についているらしいから、既に十年余り一緒にいることになる。
 惟恒は疑わしげな眼で十五郎をった。
「これから殿への御目通りがあること、忘れてはおりますまいな」
「もちろん。しかし、何の話であろうな」
「さあ。何でございましょうかな」
 実際に惟恒は何も知らないらしい。
 十五郎は、西に広がる町方から目を離した。町の東には琵琶湖畔に寄り添うように、白亜の城がそびえている。二重三重に塀が張り巡らされ、物々しいやぐらが隅に立ち、真っ白な天守閣が十五郎を見下ろしていた。十五郎が暮らす、坂本城だ。
 十次郎と引き離されて坂本城へと戻るや、飯事ままごとの人形のように着替えさせられた。それまで着ていた普段着の直垂から総絹の青いかたぎぬに改められ、髪も結い直された。さらに小の刀もじょう用の金金具のさやに差し替えられてしまった。
 坂本城本丸は、しんと静まり返っていた。廊下に点々と座る番方の武士たちは目を伏せ、息を殺している。惟恒と共に薄暗い廊下をしばし行くと、謁見の間の前に達した。
 胸が高鳴る。期待しているわけでも、楽しみなわけでもない。ただただ気後れするばかりだった。
 惟恒がふすまを開くと、十五郎の目に光が飛び込んできた。
 目が慣れて最初に目に飛び込んできたのは、鶴と亀が配された、金色の吉祥絵だ。開け放たれた障子の向こうには、手入れの行き届いた庭も見える。普段本丸はこの城の主の為に開いていない。十五郎といえども、本丸に足を踏み入れる機会はそうはない。
 思わず本丸謁見の間の華麗さに目を奪われていると、上段の声にたしなめられた。
「これ、十五郎。いつまでそうしておるか」
「あ、ち、父上」
 十五郎は声を震わせてその場に座り、上段に向かって頭を下げた。
 まさか、既に謁見の間にいるとは思ってもみなかった。
 上目がちに上段に座る男を見遣った。
 きょうそくに寄りかかる男の姿があった。いくさひたたれのままというなりで十五郎を見据えている。気品ある細面は都人のようだが、深く刻まれたしわ、白いものが混じる髪、そして隠し切れない鋭い眼光が柔らかな顔立ちに緊張感を与えている。己の父ながら、相対すると思わず背が伸びる。
「御父上様、ご無事で何よりでございます」
 十五郎が声を掛けると、上段の男はまゆ一つ上げずにうなずいた。
「変わったことはなかったか」
「はっ。隠岐五郎兵衛を始めとする留守居の者たちの助力もあり」
 後ろで、ぐす、と鼻を鳴らす音がした。惟恒はなんだかんだで単純だ。
 部屋の隅に座っていた十五郎はしっこうして上段の男の前に座り直した。そしてまた平伏をすると、惟恒に教わった口上を口にした。
「父上、この度は丹波の攻略、まことにおめでとうございます。さぞ骨折りのことでございましたでしょう」
 上座の男は、わずかに眉を上げた。馬鹿にするな、と言いたげだった。
「長岡殿の要請で向かったが、このあけ日向ひゅうがの敵ではなかったわ」
「これで、しばしごゆるりとできますね」
「いや、殿より大任を命じられた。これからも城を空けることが多かろう」
 まるで、弓のつるを限界まで引き絞ったかのような言に、十五郎は震えた。
 老境にも差し掛かろうという上段の男は、十五郎の実の父、明智日向守みつひでだ。若い頃のことはよく知らぬし本人もあえて語ろうとはしないが、長いこと流浪の日々を送った後、縁あって織田家に仕官し、織田家の伸張に伴って出世を繰り返しておう坂本城の主、織田家家臣の中でも五本の指に数えられるまでに至ったという経歴の持ち主だ。今や、京を中心とする近畿一帯を監督するべく、近隣の大名との折衝役も務めている。それゆえだろうか、暗い影のようなものが父の背にこびりついているように十五郎には見える。十五郎がむすの立場で眺めてきた明智光秀は、いつもちんうつな顔をして、人を寄せ付けない不穏な雰囲気をまとっている。
 この日もそうだった。親子の会話だというのにまったくくつろいだところがない。背中に冷たいものが走るような心地さえした。
 上段の光秀は、何度も扇子を閉じたり開いたりしてもてあそんだ。ばち、ばち、という乾いた音が部屋中に響くたび、話の穂を継がなければと十五郎は焦る。だが、いつまで経っても見つからずにいるうち、いつしか庭に目を向けていた光秀が、ぽつりと口を開いた。
「十五郎。元服せよ」
 出し抜けのことに、思わず変な声が出た。
 これには、下座にはべっていた惟恒が異議の声を上げた。
「殿、御言葉ながら、若様はいまだ十一。元服にはちと早いかと愚考いたしますが」
「決めたことだ」
 主君にきっぱりと言われてしまっては、惟恒もすごすごと引き下がるしかないようであった。光秀はいつしか十五郎に目を向けていた。
「これより元服の儀に取り掛かる。それが終わったら安土城に上る。すぐに支度せえ」
「かしこまりました」
「以上ぞ。下がれ」
 光秀はそっけなく口にすると、庭にまた目を戻した。
 十五郎は頭を下げると、謁見の間を辞した。
 暗い廊下を行く十五郎は、心中のどうに身を焦がしていた。
 元服の二文字は重い。戦に参陣することができるようになり、一人前の存在として扱われるようになる。確かに、十一歳での元服はあまりに早いが、例がないわけではない。不安で胸が押しつぶされそうになりながらも、十五郎は一人、ようやく父のために働くことができるという喜びに胸を膨らませていた。


 大手門から安土城を見上げた隠岐惟恒は、げえ、とかえるつぶれたような声を上げ、しわだらけの顔をしかめた。
「いやはや、急な階段ですな」
 惟恒の言う通りだ。琵琶湖東岸の安土城は山の上に築かれた城だが、蝸牛かたつむりのような道行きをひたすら登らされる普通の山城とは異なり、頂上に向かって大階段が一直線に延びている。
「何度見ても、この城はめんようですな。城の用をなしておりませぬ」
 額に玉のような汗を浮かべる惟恒によれば、このようなつくりでは攻められた時にひとたまりもなく、即座に落とされてしまうだろうとのことだった。
「もっとも、この城に攻め入られるなどと、のぶなが公はお考えにもならないのでしょうがな」
 石段を一段ずつ登りながら、十五郎は惟恒の言に頷いた。
 安土は近江東部の琵琶湖畔にある。現在この近辺、えちぜんやましろを平らげているゆえ、この城が戦に巻き込まれることなどありえない、というのが信長の考えなのだろう。
 安土城にやってきたのは、十五郎の元服披露のためだ。本当は光秀も共に参上するはずだったが、たん平定の褒美として与えられたたんまつりごとに手が離せないということで、十五郎の近臣を随行させるに留まった。
 軽い足取りで石段を登っていた十五郎はくるりと振り返った。ひいひいと肩で息をしながら登って来る惟恒や七郎兵衛といった近臣、その後ろに続く荷物持ちのともまわりたち、石段の両側に並ぶ織田家武将たちの屋敷、そして大手門前にまで迫ってきている琵琶湖の湖面が眼前に広がっている。鋭い八月の日差しが十五郎の肌を差し、未だに元気な蝉の声が耳をつんざく。
「頑張れ。そろそろ行くぞ」
 家臣たちに声を掛けると、また十五郎は石段を登った。
 しばらくすると、階段が絶えて平らな広場が現れた。安土城の二の丸へと続く門前に大屋敷が配されており、屋敷のかぶもん前にはかがりかれている。滞在しているという証だ。遅れて登ってきた惟恒は、この篝火を見遣ると頷き、顔じゅうの汗を懐紙でぬぐって肩衣を調えると、十五郎の前に立って門前の屋敷の冠木門をくぐった。
 惟恒が何事かを呼ばわると、直ぐに屋敷の家臣が現れ、十五郎一行を部屋に通してくれた。その部屋は南向きの客間で、かれさんすいの庭を望む明るい部屋であった。
 部屋の中には先客がいた。
 体の大きな、黒い肩衣姿の若武者。さかやきり上げ、口元にはじょうひげを生やしている。年の頃は十代半ば、ほぼ十五郎と同世代だろう。十畳ほどの部屋の真ん中に端座しているものの、りんとした刀のような近寄りがたさがある。
 助け舟を出すように、ついてきていた惟恒が声を上げた。
「おお、これは与一郎様ではございませぬか。ごいたしておりますな」
 与一郎、と呼ばれたその青年は、顔だけこちらに向けた。ついしょうわらいすらせず、わずかに首をかしげた。
「ああ。明智の若殿とその守役の。久方ぶりでござる」
 口ぶりには、年齢相応の幼さはない。冷ややかさすら覚える声に、十五郎は肩を震わせた。だが、ようやく十五郎は口を開くことができた。
「ご無沙汰いたしております、うえ
 目の前の男は長岡与一郎ただおきという。元は名族細川の名字を名乗っていた一族だが、織田信長の命令によって長岡に名乗り替えしている。忠興の父親であるふじたかは光秀と古くから往来があり、その縁で光秀の娘で十五郎の姉である玉が忠興の許に輿こしれしたことで、忠興と十五郎は義理の兄弟になったのである。
 忠興はろくに十五郎に返事をしなかった。わずかに座る場所を譲っただけで、忠興は黙考に沈んでいる。不安げな顔をする惟恒を尻目に、十五郎は忠興の横に座った。
「義兄上、なぜここに」
 問うと、ようやく忠興はおっくうそうに口を開いた。
「ああ。我が父が丹波に新城を築くことになったゆえ、父のもくだいでその報告だ」
 惟恒が次の間へと向かったのを見計らうと、十五郎はさらに忠興に声を掛けた。
たびの丹波平定、誠にめでたいことにて」
「――めでたいことなどあるか。結局我ら長岡衆独力で平定できなんだのは大きな失敗しくじりよ。果たしてうちの風流狂いはそこまで考えておるのやら」
 とげどころかいがぐりのような言葉たちに、思わず十五郎は二の句を継ぐのを忘れていた。
 実を言えば、この義兄のことがあまり好きになれない十五郎がいる。根本のところであいれぬところがあるような気がしてならぬが、己のことを可愛がってくれた姉の嫁ぎ先だ。あまり邪険にもできない。
 何を口にしても皮肉と棘で返してくる忠興に辟易しながらも、しばし話しているうちに会話も絶え、二人して無言で時を潰していると、やがて障子が開き、廊下から一人の男が現れた。
「おお、与一郎に十五郎か。久しいのう」
 現れたその男は二十歳そこそこの若殿であった。ちゃせんまげに結い上げた、細面の顔立ち。謹厳さよりも親しみを感じさせるのは、常に目尻が緩んでいるからだろうか。朱色の羽織に墨染めのはかま、さらには裸足はだしというくつろいだなりで現れたのは、この屋敷の主であり、織田信長の嫡子である織田のぶただだ。
 二人して平伏すると、信忠は「よい」と口にし、忠興たちの前にどかりと腰を下ろした。
「よくぞ予に逢いに来てくれた。礼を言う」
 この前まで、己のことを『わし』と呼んでいたはずだが、父親の口調にならったらしい。
 信忠はやや稚気の残る表情のまま、忠興に笑いかけた。
「丹羽の制圧、ご苦労であったな。我が父も喜んでおる。もし不足あらばこの信忠に言うがよい。父に取り次ぐゆえな」
「ありがたきお言葉にて」
 底の見えぬ冷ややかな声音でもって応じた忠興に苦笑を浮かべながらも、信忠は十五郎に向いた。
「そなたの父の活躍もかねがね聞いておる。見事なものであったそうだな。父も大層そなたの父の働きを褒めておったぞ。必ずや何らかの形で報いることになることだろう。して、今日は日向殿はいらっしゃらぬのか」
「実は、この度ここにやって参りましたのは、殿様に元服披露をするためでございます」
「元服、ほう、そなたがか。そういえば、前髪を落としたのか」
 安土城に出立する直前、坂本城で前髪を落とし、月代を剃った。まだ頭に直接風が当たる感触が慣れずにいるが、大人の仲間入りをしたという喜びでいっぱいだった。
「名乗りはどうする」
「はっ。明智十五郎みつよしといたします」
「なるほど、光慶、か。よき名乗りだな。我が父も喜ぼう」
 そう言って白い歯を見せる信忠と知己になったのは、二年前のことだ。
『そなたが、明智の嫡子か。頭の良さそうな面構えぞ』
 光秀と共に安土城に登った際、控えの間で手持無沙汰にしている十五郎に声を掛けた――、正確には子守をしてくれたのが、信忠だった。兄という存在がいたとするなら、こういうお人なのだろうか。そんなことをたまに思う。七郎兵衛なども似た立場だが、己を小姓と思い定めているのか、君臣の別をつけ、一歩引いている。信忠のように遠慮なしに可愛がってくれる者はない。
「ありがたきことでございます」
 得難い信忠との対談のひと時を終え、最後に織田信長との面会というところで、事件が起こった。
 二の丸を過ぎ、本丸に至る門前に至った時、突然門番に制止された。
「なぜぞ。数日前、確かに信長公より登城せよとの仰せを頂いたぞ」
 惟恒が一行の門前で声を張り上げたが、門番はただ一言、『信長公ご不例により』と口にした。不例、すなわち体調が悪いということだろうが、面妖なことに、遅れてやってきた長岡忠興の一行は門を通されている。このことがなおのこと惟恒に火をつけた。
「なぜ長岡殿を通して我らを通さぬのだ」
 顔を赤くして惟恒が怒鳴りかけても、門番はばつ悪げに首を横に振るばかりだった。
 この膠着を破ったのは、十五郎一行の一人、妻木七郎兵衛だった。
 十五郎の刀を拝持していた七郎兵衛は、同僚に刀を預け、なおも何かを言い募ろうとしている惟恒の肩をたたく。振り返った惟恒は、なおも怒り心頭のあまりか目尻をり上げているが、七郎兵衛は揺らぎもしない。
「ご不例の中、無理にお目にかかるは無礼というもの。後日に期しましょう」
 七郎兵衛は辺りを見渡した。怒りのあまり周りが見えなくなっているようであったが、安土城の番方の武士たちや、門を行き交う様々な家中の者たちが十五郎一行に白い目を向けていることに気づいたのか、惟恒はせき払いをして、弱々しく、門番に向かい口にした。
「また参りましょうぞ」
 これを見届けた七郎兵衛は十五郎の列――、十五郎の前に戻った。
「すまぬ、七郎兵衛」
「構いませぬ。若様」
 七郎兵衛は薄く、何てこともないように笑った。武家勤めが長いからか、七郎兵衛はあしらいに長けたところがある。
 七郎兵衛のおかげで混乱は収まり、すごすごと来た道を戻る一行であったが、ふと十五郎は寒気を覚えた。まるで刺すような視線が浴びせられたような気がして、思わず天を仰いだ。
 視線の先には、安土城が誇る天守がそびえ立っていた。五重の高い塔で、下から四重目は朱色に塗られ、五重目は金色に照り輝いている。見る者の心を奪う、壮麗な建物だ。城の櫓といえば遠くを見るための物見でしかないはずだが、天守はさながら宝塔のような輝きを放っている。
 そんな天守の五層目、金色の欄干に、一人の男が立っている。
 後ろ手に手を組み、茶筅髷にし、萌黄もえぎと朱の片身替わりの長着に袴を合わせる男。あまりに遠くてそれ以上のことは見て取れなかったが、あの場所に立つことができるのは、ただ一人しかいない。
 十五郎はまだ目通りしたこともない。
「あれが、織田信長公・・・」
 金色の欄干に照り輝く主君の姿を目に留めた十五郎は、見てはいけないものを見てしまったような気分に襲われ、ぶるりと身を震わせた。


 それから数日、安土の明智屋敷に滞在したまま、信長公への謁見の機会をずっとうかがっていた。だが、何度要請を発しても『ご不例の為ならず』との答えに至ってしまった。最初は顔を真っ赤にしていた惟恒も、気づけば顔面蒼白になっていた。
 信長と謁見するのが初めての十五郎からすればこれが何を意味するのか分からなかったが、周囲の者たちの反応を見るに、異例のことだというのは透けて見えた。
 十五郎は何かしなくてはならないと気がくばかりで、何一つ手を打つことができずにいた。そんな中、妻木七郎兵衛の手によって、事態が打開される運びになった。
 安土城二の丸の謁見の間、その中段の間に十五郎は平伏していた。
 遠くで蝉の声が聞こえる。
 どれくらい待ったことだろう。緊張にてのひらを濡らしていると、しばらくして、縁側から衣擦れの音がした。足音は部屋の中に入ってくる気配があり、やがて上段でんだ。
 しばしの沈黙が痛いほどに胸に刺さる。
 上段に座る男が、その沈黙を破った。
「面を上げよ」
 烏帽子がずれそうになるものの、ゆっくりと顔を上げて堪えた。
 目の前には、謁見だというのに脇息にひじをかけて背を丸める男の姿があった。
 朱と萌黄の片身替わりに黒のはかまを合わせるというなりで、羽織すらまとっていない。これでは普段着もいいところだ。いくら家臣の子に面会するとはいえ、これはいささか礼を失している。
 まるでねめつけるように十五郎の顔を見遣るその男は、日輪の如くに鋭い眼光を放ちながら名乗った。
「織田信長である。名乗れ」 
 上段の間の奥に描かれた竜の絵を背負うように、信長は口にした。十五郎はふと、奥の竜の絵と話しているような錯覚にさえ襲われた。それほどまでに、信長の纏う気は大きかった。
「明智日向守光秀が嫡子、明智十五郎光慶と――」
「つまらぬ、な」
 気後れしながらも口にした十五郎の名乗りにかぶせるように、ぽつりと口にした信長は、脇息を乱暴に倒して立ち上がった。
「これで終わりぞ。予は忙しいゆえな」
「お待ちください」
「待たぬ。これで十分であろう。予は貴様の名と顔を覚えた。それで十分であろうが」
 吐き棄てるように口にした信長は、十五郎の制止も聞かず、縁側から飛び出していってしまった。
 一人、部屋にのこされた十五郎は、あっに取られていた。
 謁見とはあんなに短いものなのか。いや、そんなはずはない。惟恒によれば、二三の言葉が交わされた後、祝いの目録が手渡され・・・などのやり取りがあると聞いていた。
 謁見の間の寒々しいまでの広さに、十五郎は震えた。
 その後、困惑気味の信長小姓の手によって続きがなされたものの、一方の主役が不在の謁見は、どこか空々しい飯事に終始してしまった。
 信長との謁見を終えた後、十五郎は二の丸の客間へと向かった。そこには既に妻木七郎兵衛が詰めている。この日の七郎兵衛は肩衣姿で、やや表情がぎこちない。部屋を取り囲む、天下の絵師のうえいとくによる水鳥たちのふすまは、見る者に癒しを与えるどころか生きることのれつさを突き付けてくる。
 しばし七郎兵衛と共に落ち着かぬ八畳一間で待っていると、やがて部屋の襖が開いた。
 奥から現れたのは、一人の女人の姿だった。
 赤い打掛を腰に巻いて、涼やかな白の小袖姿を露わにするという夏の装いで現れたその女性は、にこりと相好を崩し、すいはつを揺らしながら部屋の中に入ってきた。部屋の中に続こうとする老女や侍女たちに次の間で待つように命じたものの、老女が納得しない。どうやら若い男二人と部屋の中で過ごすという外聞の悪さを気にしたようだが、女人がそれを一笑に付した。
「何を言うかと思えば。二人はおいですよ、間違いなどあろうはずがありませぬ」
 襖を閉じ、二人の前に腰を下ろした女人は、柔らかい笑みを作った。
「ごめんなさい。なかなか、今の立場だと、いろいろと差し障りがあるのよ」
 四十に至ろうという年齢だが、まるで衰えた様子を見せない。髪はつややかで黒々としており、整った顔には小皴一つない。美人、というよりは、親しみを感じさせるようなそんな顔だ。
 真っ白なほおに手をる女人に、十五郎は頭を下げた。
「叔母上、この度は信長公謁見の為に力を尽くしていただき、誠にありがとうございました」
 七郎兵衛も頭を下げると、女人は小さく首を振った。
「お役に立てて、うれしいわ」
 この女人――妻木殿は、織田信長の側室である。
 十五郎の亡き母の妹、つまりは十五郎や七郎兵衛からすれば叔母に当たり、今は織田信長の側室となっている。今回の信長公との謁見は、七郎兵衛に事情を聞いた妻木殿が信長公を取り成したことでようやく成ったものだと十五郎も聞いている。
 七郎兵衛は深々と頭を下げた。
「叔母上、誠にありがとうございました」
 七郎兵衛の顔は、妻木殿とよく似ている。丸顔で、人を包み込むような優しさを秘めている、そんな顔だ。思えば亡き十五郎の母もそんな顔立ちだった。
 妻木殿はその親しみやすい顔を、わずかに伏せた。
「織田家に入る時、決めたのよ。わたしは明智家と織田家のためのかすがいになろうって。これくらい、お安い御用よ」
 妻木殿はゆっくりと真っ白い手を伸ばし、十五郎の頬に手を当てた。ひんやりとした感触が十五郎の頬に走った。
「それにしても、十五郎、お前は日に日に御父上に似てきますね」
「本当ですか」
「ええ。妻木の顏ではありませんね。利発そうなところなどは、本当に日向守様にそっくり」
 目を細める妻木殿の表情には、愁いと諦めのようなものが混じり合っていた。
「十五郎。あなたはこれからの明智家を支える大事なお人。であるからには、文武に力を抜いてはなりませぬよ。父上のためにも、これからも力を尽くしなさい」
「はい。かしこまりました」
 大人は子供を侮るからこそ、子供の前ではあけすけに振舞う。だが、子供も木石ではない。子供だからこそ見えるものがある。
 妻木殿は父上を思慕しているのではないか――。それが、十五郎の見立てだった。
 光秀のことを口にする時の妻木殿の言葉、表情。そして、十五郎を前にした時の目。妻木殿は十五郎を見ているわけではなく、十五郎越しに光秀の面影を追っているということに気づいたのはいつのことだっただろう。もしかしたら、最初から気づいていたのかもしれない。
 七郎兵衛は咳払いをした。
「叔母上、また、参ります」
「ええ。今度はゆっくりとおいでなさいな。その時には、茶でもゆるりとてましょう。十次郎にもよろしく伝えてくださいね」
 この日の面会はそれで終わった。
 二の丸を辞す時、ふと十五郎は気づいた。もしかすると、己は妻木殿に母を見ているのかもしれない、と。
 母の温もりを感じることなくここまで来てしまった。もしかすると、妻木殿が十五郎越しに光秀の体温を感じているように、十五郎もまた妻木殿を通じて亡き母のまなざしを感じていたのかもしれなかった。
 光秀と、妻木殿、そして自分が一緒に暮らす、そんな姿を想像してみた。だが、いくら考えてみても、今一つうまく行かず、空しさばかりが増した。


 曲がりなりにも主君、信長との面会を終えた十五郎であったが、それからすぐ、父、光秀から呼び出しがあった。
 坂本城の二の丸書院。ここはいつも光秀が坂本城に戻った際、執務室代わりに使っている辺りだ。家臣に対しては表書院の間に通すのが通例だが、この日、十五郎が隠岐惟恒と共に通されたのは、奥書院の間だった。ここは事実上、光秀が奥、つまりは私室として用いている辺りだ。
 襖を開くと、八畳の書院の南向きの縁側に向かうように光秀は座っていた。貧乏生活が長かったからか、光秀はあまり華美な装いを好まない。儀礼や歓待の場面を除いては古着で通しててんとして恥じないところがある。この時もそうだった。今にも穴が開きそうなほどに使い古した紺の長着に袴という、京を闊歩する浪人のような形をしていた。
 だが、十五郎は父の姿にある種の犯しがたさすら覚えた。
 誰の目もないのに背をしゃんと伸ばしている。背中越しにうかがうと、づくえを引き出して書き物をしていた。いついかなる時でも、気を抜くつもりがないらしい。
 恐る恐る声を掛けると、ようやく十五郎たちの存在に気づいたのか、光秀は筆を文机に置いて振り返った。
「来たか」
 立ち上がった光秀は、何も十五郎に説明することなく、
「ゆくぞ」
 と口にした。
 十五郎は縁側に飛び出した父の後を追う。光秀が何も説明することなく事を運ぶのはよくあることだ。今回も父上のなさりようだ、と独りちながら、足早に縁側を進む父親の背中を眺めていた。
 しばらく歩くうち、光秀の足は縁側沿いのある部屋の前で止まった。そこは客人を通す控の間だ。
 光秀が戸を開くと、中の様子が露わになった。
 客間と雖も、上段と下段を備えた十畳ほどの部屋となっている。その下段に、二人の男が座っていた。一人は頭の上に頭巾を乗せ、黒のじっとく姿すがたの中年男が控えめに目を伏せていた。もう一人は僧形に身を包んだ男で、何か楽しいことがあるのか、やってきた十五郎を見遣るや笑みを向けてきた。
 光秀は上段に、十五郎は下段の筆頭にそれぞれ座り、惟恒が下段の脇に腰を下ろしたところで、ようやく光秀は座を見渡した。
「元服したそなたに家臣をつける」
 これまでは守役や小姓が数人当てられていただけだった。だが、光秀は元服を機会に二百人ほど家臣を融通してくれるつもりらしい。
「だが、ほぼ今まで通りよ。隠岐はそなた付きの年寄格、内藤はうままわりがしら、妻木七郎兵衛は小姓頭とする」
 ほっとしたと同時に、少しがっかりもした。これでは以前と何も変わらない。
 眉一つ動かさずに上段にある光秀は話のさきを変えた。
「これよりそなたには、文を学んでもらう。後ろにおる二人は、これよりお前の師となる。誰も彼も父と思い、修行にまいしんするがよい」
 咳払いをした光秀は、後ろに座る茶人に目を向けた。
「この者は知っておろう。そうきゅう殿よ。以前、この坂本城でも茶を点ててもらったことがあるゆえ、知っておろう。宗及殿は大変お忙しいゆえ、月に一度程度の指南となるが、みっちりとやっていただく予定になっておる」
 宗及は控えめに長いまつげを伏せ、あいさつに代えた。
 知っているも何も、織田信長にも重用されている茶人の一人で、信長を亭主とした茶会では茶匠として、よく場を切り盛りしている。
 最後に、光秀は宗及の横に座る僧形の男に向いた。
「このお人はさとむらじょう殿。連歌の大名人よ」
「よろしくお願いいたしまする」
 紹巴はやはり快活に挨拶し、つるりとした頭をでた。
 三者を紹介し終えた光秀は続けた。
「そなたは元服したとはいえまだまだ子供。しかと学べ」
 光秀の言葉に不満があった。
「父上、御言葉ながら。拙者は父上のお役目を手伝いとうございます」
 十五郎の心中には、安土城で出会った織田信忠や長岡忠興の姿があった。信忠は十も違うからあまり参考にはならないかもしれないが、四歳ほどしか違わない忠興は、既に父の藤孝について丹波攻略に出て、しかも父親の代参という形で信長にお目見得までしている。元服の挨拶、しかもほんの一瞬だけの目通りで済まされてしまったことが、今でもじくたる記憶として残っている。
 十五郎も自分なりに考えた。信長が自分を粗略に扱うのは、まだ何の功績も上げていないからだ、と。なら、一刻も早く戦に出るなり政で成功するなりして信長に認めてもらうしかない、と。
 だが、そんな十五郎の考えを、光秀は一言で否んだ。
「ならぬ」
「なぜでございますか」
「ならぬものはならぬゆえ、ぞ。父に盾突くは許さぬ」
 かくして、不承不承ながら、二人の師による教授の日々が始まった。
 惟恒や七郎兵衛によれば光秀は大和国の混乱を収めるべく兵を率いて向かってしまったらしい。それが終われば、新たに拝領した丹後国の領地を見て回るようだ。もし己を連れて行ってくれたなら実地で勉強できるはずなのに、と思わぬことはなかったが、父の言いつけとばかりに、教授に向かいあった。
 最初は嫌々だったが、やがて楽しくなってきた。少なくとも、武芸の稽古よりは肌にあったようで、きゅうきょ宗及が坂本城を訪ねて来てくれたおかげで武芸の稽古が中止になった際にはあからさまに喜んでしまい、武芸の師である内藤を嘆かせた。
 津田から教わる茶の歴史、紹巴から教わる古歌の来歴を耳にする度、京の都は悠久の歴史を揺蕩たゆたってきた笹舟のようなものなのだと思い知らされ、妙な感動を覚えた。
 一つを知ると、さらに多くの疑問が出てくる。十五郎は疑問の山を前にして楽しいと心から思える子供だった。それゆえに、津田の茶筅さばきの一つ一つにも質問をし、紹巴の詠んだ和歌について何度も何度も意見を交わした。
 気づけば、父の役目を手伝いたいと申し出ていたことさえ忘れるほどだった。


 この年の十二月、数か月ぶりに坂本城に戻ることとなった光秀から、文が届いた。
「なんと、つつじゅんけい殿がお越しとな」
 坂本城二の丸謁見の間、下段の上座で、隠岐惟恒が皺だらけの顔に手を当てた。惟恒を前にしながらも、妻木七郎兵衛はなおも続ける。
「我ら坂本の衆に支度せよとの仰せでございます」
「なんと、そうかそうか」
 惟恒がうれしそうなのは無理もない。十五郎が元服をしてからというもの、明智家中の内部では十五郎が明智家の家督を継ぐであろうと公然とささやかれるようになった。惟恒の将来は約束されているも同然だ。此度の文も、十五郎配下の家臣たちを試したいという殿のご計算もおありなのでしょう、と七郎兵衛は無感動に述べた。
 家臣たちの協議によってすべてが決まってゆく。己はただ座っていればいい。脇息に肘をかけ、議論の行方を見送っているうちに、家臣たちの話題は他に移っていった。
 ある時、馬廻頭に登ったばかりで得意満面の内藤の口にした言葉に引っかかった。
「それにしても、養子とは随分急な話だな」
 それまで心ここにあらずとばかりに座っていただけに、思わず身を乗り出してしまった。
「何のことだ」
 応じたのはわずかに眉を上げた惟恒だった。
「おや、先ほど説明いたしましたぞ。十次郎様を、順慶殿のご養子に、という話がござる」
「な、なんと・・・」
 居ても立ってもいられなくなって、即座に立ち上がり、屋敷の奥へと駆けていった。制止の声が聞こえたが、なりふり構ってはいられなかった。
 十次郎の部屋は、坂本城二の丸の一室にある。中庭に面した明るい十畳間の一つがそうだ。十五郎は急き立つ心を抑えながら、声も掛けずに戸を開いた。
 部屋の中には木馬や木剣といったおもちゃが転がっている。そんな部屋の真ん中で、十次郎は侍女にやっとうを仕掛けている。
 兄がやってきたのに気づいた十次郎は、手に持っていた木剣を投げ捨てると、十五郎めがけて駆け寄ってきた。
「兄様、十次郎と遊んでくだされ。藤宮が遊んでくれぬのです」
 不平を述べる弟は頬を真っ赤にして、困惑を隠さない侍女を指した。
 十五郎はそれどころではなかった。次の正月にようやく十になるところの弟が、大和に連れて行かれてしまう。夜に一人でかわやに行けず泣き出すこの子が、だ。
 だが、ここまで来て、ようやく十五郎は気づいた。何をすればよいのだろう、と。
 どこかに連れていく? そんなこと、出来るはずもなかった。
「兄様、相撲を取りましょう」
「そうか、それもいいな」
 呆然と応じ、何度も相撲を取った。手心を加えて負けてやる。「兄様、弱い」ときゃっきゃと声を上げ、満面に笑みをたたえる弟を前に、十五郎はただただぼうぜんとしていた。
 それから数日後、光秀一行と連れ立ち、筒井順慶が坂本城の大手門をくぐった。
 やってきた最初の夜、隠岐惟恒を主宰とする酒宴が開かれた。もう十二月、空を見上げて酒を飲むにはいささか寒いゆえ、二の丸大広間の襖を取り払い酒宴場とし、明智家と筒井家の家臣が並ぶようにした。
 この日、青い肩衣に身を包む十五郎はこの酒宴の場にいた。上段で酒を酌み交わす光秀たちのすぐ近く、下段の間の一番の上座に座らされている十五郎は、酒宴がたけなわになるのを、膳の上の魚をほじりながら、ずっと待っていた。
 十五郎は待っていた。目的の人物が一人になる機を。
 酒宴が始まり一刻ほどで、その時がやってきた。
 それまで調子よく酒を飲んでいた光秀が中座した。今、目的の人物は一人でいる。
 気づけば酒宴の場は歓声に包まれている。筒井と明智の家臣が肩を組みながら歌を歌っているようで、部屋の中はけんそうに満ちていた。
 華やいだ空気に圧されるように、十五郎はある人物の前に立った。
 その男は、酒宴の席には不似合いな僧形をしていた。
 黒っぽい絹の法衣に金袈裟を纏い、頭を剃り上げている。ぱっとみたところではどこかの大きな寺の若い住持といった雰囲気だが、近付いてみれば武の気配が満ち、脇には僧の差料には不似合いな太刀が転がっていた。供された魚には手をつけず、野菜の煮つけや豆腐の皿ばかりが空になっている。青白い顔をしたその男こそ――。
 十五郎はその青年の前に腰を下ろした。
「筒井順慶殿、ですね」
「いかにも。そういう貴殿は、確か日向守殿のご子息の――」
「十五郎光慶と申します。以後良しなに」
「ふむ――。で、何用でございますかな。どうやらお手にははんにゃとうもお持ちでない様子」
 言葉の意味が取れなかった。ゆえに、己の言いたいことをそのまま口にした。
「順慶殿は、我が弟を養子に望まれていると聞きました」
「ああ、いかにも。それが何か」
「取り消していただけませぬか」
 あの弟はまだ幼く、家族と離れ離れになるのは忍びない。あの子は夜、厠に行けぬと泣くのです。いつも、拙者の後をついて歩くのです・・・。言葉を尽くして順慶の前に並べた。
 しかし、どんなに口にしても、十五郎は焦るばかりだった。それは、目の前の男がまるで表情を変えなかったからだろうか。同情するでもがるでもない。ただ、無表情。いくら水を注ぎ込んでもすべて吸い取ってしまう砂地のように、十五郎の言葉をすべて呑み込んでしまう。それゆえに、まだ足りぬのかとばかりに言葉を継いでしまう。
 のどが渇いてきて、声がかすれてきた。
 言葉が途切れたのを見計らうように、順慶は盃を差し出してきた。
「若君、般若湯を一献」
 銚子を差し出してきて初めて、般若湯が酒のことだと思い至った。
「まだ飲んだことがないのです」
 正直に言い固辞する十五郎を前に、順慶は銚子を引っ込めて、くつくつと笑った。何かおかしなことを言っただろうかといぶかしく思ううちに、順慶はなたのように重く荒々しい言葉でり込んできた。
「明智の跡取り殿は、あまりに甘いですな」
 先ほどまでの穏やかそうな声音と打って変わり、まるで熊がうなるような威圧を秘めた、そんな声音をしていた。
「幼い、あまりに幼い。明智のそうりょうむすがこれでは、先が思いやられますな」
「どういう意味でございますか。ろうなさるのなら承知――」
「しないと申されますか。愚弄しているのはどちらとお思いか。もしあなたの言が明智家の総意だというのなら、それがしは今ここで、日向殿を斬らねばなりませぬ。されど、これは酒宴の上のこと。十五郎殿の言葉も、某の言も、酒の上の冗談と水に流しましょう。よろしいですな」
 口ではいんぎんを装い、盃をあおっている。だが、太刀の柄の近くで空いた手が遊んでいる。さすがにおじを覚えた十五郎は、すごすごと引き下がるしかなかった。
 酒宴が終わった後、十五郎は光秀に呼び出された。
 あんどんさえ灯らぬ書院の間に入るなり、十五郎の頬に激痛が走った。衝撃と共に畳に体を叩きつけられた段になって、ようやく誰かに頬を殴られたのだと理解した。
 目が慣れ、部屋の中にいた人物の姿が露わになった。
 拳骨を固め、目尻を吊り上げて十五郎を見下ろしていたのは――、光秀だった。
「そなた、十次郎の養子の話をなかったことにするようにと順慶殿に頼んだらしいな」
 今まで見たことのない父親の剣幕に、十五郎は何も言えずにいた。どうやら口の中を切っているようで、鉄の臭いが口の中じゅうにあふれている。不思議と痛みはなかった。
「そなたの言が、土岐の名族明智家の命運、そして明智家についてきてくれている家臣たちの命運を決めるのだぞ。そなたにはその重みが分からぬか。分からぬなら、今すぐ腹を切って祖霊にびよ」
 そう言い放つや、光秀はばつの悪そうな顔を浮かべ、廊下に続く襖を開いた。ぴしゃりと襖が閉じた後、一人取り残された格好になった十五郎は、闇の中、じんじんと響く頬の痛みといつまでも戦っていた。


「そんなことがあったのねえ」
 妻木殿は頬に手を当てた。青い打掛を纏った姿はやはり絵になる。
 順慶が坂本城から去ってから数日の後、なにがなんでも妻木殿と話したくなって、居ても立ってもいられなくなってしまった。毎月のように妻木殿や明智屋敷の者たちの物資を運ぶ船便が坂本城から安土城まで発されていることを知り、自ら願い出る形でこの船の監督を願い出た。
 案の定、安土城二の丸にいる妻木殿は面会に応じてくれた。
 そして、数日前にあった一部始終をすべて説明した。
 未だに順慶の言葉の意味も、父の拳骨の意味も分からない。もしかしたら、妻木殿なら分かるかもしれない――。そう思ったればこそのことだった。
 妻木殿はくすくすと笑った。まるで小娘のように、柔らかで邪気のない笑い方だった。
「日向守様は案外子育てが苦手でらっしゃるのね」
「どういうことですか」
「十五郎。あなたは筒井順慶殿がどんなお立場なのかを、まったく考えておらぬのです」
 筒井順慶は大和やまとの国守であるものの、周囲を三好氏やまつながだんじょうといった大名に囲まれ、織田信長の大和介入によって、ようやく曲がりなりにも大和を支配する大義名分を得たところだ。
「だから、ここで養子の話が出てくるのです」
「どういうことですか」
「順慶殿としては、信お気に入りの家臣である日向守様のお子を養子に迎えることで、織田家との関わりが持てるでしょう。そうすれば、信にできない。それに、日向守様からすれば、我が子を筒井家に送ることで親戚関係になるでしょう。親戚の方が話を通しやすいのよ。だから、この養子の話は誰にとっても良い話なの」
 理屈はそうかもしれない。でも――。
「まだ不満、って顔をしているわね。まあそうでしょうね。でもね、これは、感情の話じゃなくて、損得の話なの」
「分かってます。でも、損得で子犬みたいに人があっちこっちに――」
 目の前の女人はあからさまに明るい声を発した。
「ここに、信長公との関係をよくするために、信長公の許に側室に入った女がいるわよ」
「あっ・・・」
 十五郎が口をつぐんだのを機に、妻木殿は真面目な声音を取り戻した。
「確かに、一家がみんなひとつ屋根の下で暮らしていけるなら、本当に幸せなことよ。でも、今、そんな暮らしができる者はいない。守りたいもののために、自らのことを大なり小なりなげうっているの。みいんなそうよ」
「みんな? 父上も?」
「ええ、日向守様も、順慶殿も。私や十次郎もそう。きっと、あなたも」
「わしも?」
「ええ、きっと、いつか、私の言うことの意味が分かる」
 妻木殿は両手を伸ばし、十五郎の顔を優しく包んだ。この前光秀に殴られた跡がひりひりと痛んだものの、妻木殿の冷たい手が気持ちよかった。
 目の前の女人は何を擲っているというのだろう。
 父上は、何を擲っているというのだろう。
 そして、己は、これから、何を擲つというのだろう。
 見えるはずのない未来をにらみながら、十五郎はただただ震えていた。
 妻木殿はくすりと笑い、十五郎の頭を優しくでた。
「大丈夫。今に分かる。だってあなたは、あの日向守様のお子なのですから」
 かくして、その日の妻木殿との面会は終わった。


 それから十日ほどのち、坂本城に筒井から十次郎を迎える遣いがやってきた。
「健勝であれ」
 奥書院の上座に座る光秀は、眉一つ上げることなく、十次郎にあれこれと心得を与えている。下座に端座する、いつもより華やかな装いに身を包む十次郎は、まるで仏様のように力なくほほみ、時折こくりと頷いて答えとしていた。
 忌々しいまでに天気がいい。縁側から降り注ぐ柔らかな日を睨んでいると、ふいに光秀が十五郎に声を掛けてきた。
「十五郎。十次郎を筒井殿の遣いのところまで案内せよ」
「かしこまりました」
 本来、そんな役目は家臣のものだ。だが、反対する理由はなかった。立ち上がった十五郎は、光秀と目を合わせることなく十次郎を縁側に誘った。
 二人して、連れ立って縁側を行く。これまで、弟がいなくなるなどと考えたこともなかった。それまでは実感のなかったはずの現実が、土壇場になって明確な形を持つようになった。先導する十五郎は目頭が熱くなるのを自覚しながらも、庭の松や枯山水に目をやって堪えた。
「兄様」
 ふいに、十次郎から話しかけられた。
 振り返りもせずに促すと、十次郎は穏やかな声音で応じた。
「これまで、御世話になり申しました。これからは、筒井家の養子として、二家のかすがいとなるべく、粉骨砕身いたします」
 驚いた。一月余りの間に、小さいとばかり思っていた十次郎が、一つ大きくなっていた。親元を離れて他家の養子に入ることになったということが、十次郎に変化を与えたのだろうか。
 思わず振り返った。後ろにいた十次郎は、今にも泣きそうな顔をしてそこに立っていた。
 もう、いくら泣いても厠に一緒に向かうことはできない。
 お前も、大事なもののために擲つのか?
 そうこうとして、やめた。
 代わりに口を突いて出たのは、おどけの言葉だった。
「お前、そんな堅苦しい口上を言えるようになったのか。勉強したなあ」
 十次郎は目をぱちくりとさせて口をあんぐりと開けていた。だが、ややあって、肩をゆするようにして笑い声を上げた。
 十五郎はできる限り優しい声を発しようとした。だが、少しだけ声が震えていた。
「十次郎、もし、何か困ったことがあったら拙者を頼れ。文で知らせてくれれば、必ず返事を寄越す。お前は、何も擲たなくていいんだ。もしどうしようもなくなったら逃げてくればいい」
 気休めであることは、十五郎にとて分かっている。だが、言わずにはいられなかった。
「かしこまりました、兄様」
 十次郎の目尻にきらりと光るものがあったのは、十五郎の気のせいだったろうか。
 その後、十次郎の引き渡しを終えた十五郎は、大手門を望むすみやぐらへと登った。城の西に位置するこの櫓は街道や叡山の荒法師たちを監視するために人の出入りがあるようで、物置になっている他の櫓と比べれば格段に整理されていた。急な階段を上り、三階の窓から外を見やると、丁度十次郎を連れた筒井の一行が大手門をくぐっているところだった。
 窓枠に肘をつきながら、十五郎はいつまでもその列を眺めていた。
 雨も降っていないのに、弟を連れた華やかな行列はにじんで見えた。(つづく)