雪解けのカクテル



ばんとうにしては寒い日のことだった。
 おれはえりに肩をうずめながら、きらびやかな街の中を歩いていた。行き交う人々の足どりは早い。けんそうの中にあって、自分だけがひとり取り残されてしまったような、そんなふうに感じる夜だった。
 不意に一杯飲んでいきたくなったのは、まだ街にしがみついていたかったからに他ならない。
 おれは手頃な店を探しはじめ、やがて地下につづく階段に一軒のバーを見つけると、足早に夜のすきへとすべりこんだ。
 店のドアをくぐると、ほんの少し暖かい空気に包まれた。
「いらっしゃいませ」
 白いシャツにグレーのベストを着た店主が、静かに迎え入れてくれる。
「お召し物をお預かりいたしましょうか?」
 そう言われたが、おれは脱ぎかけたコートをまたって口にした。
「いえ、ちょっと寒いようなので……」
「申し訳ございません。当店には冷気が必要なものでして」
「はあ……」
 店主の言葉はよく分からなかった。が、上着があれば寒さは気になるほどではなく、わざわざ店を変える理由にはならなかった。
 カウンターに腰掛けると、おれはあたりを見回した。
 他に客のいない薄暗い店内には、黄色い灯りが揺れていた。ギミックかと思っていたが、ながめるうちに、どうやら本物のろうそくらしいことが分かる。
 何かに似た雰囲気だなと思っていると、直後、それが何かに思い当たった。
 まるで、かまくらに入ったみたいな店だなぁ――。
 そんなことを思っていると、店主がそっと近づいてきた。おれは迷わず、お気に入りの定番カクテルの名前を口にした。
 しかし、店主から返ってきたのはこんな言葉だった。
「恐れ入ります、じつはそちらは取り扱っておりませんで」
 店主はつづけた。
「冬の間、うちは一種類のカクテルしかお出ししていないんですよ」
「一種類?」
「ええ」
 そんな店は初めてで、おれはすっかりまどった。
 店主は、さらにつづけた。
「ですが、お客様にぴったりのメニューですよ」
「どういうことですか……?」
「それはお飲みになってから」
 なぞめいた微笑ほほえみを浮かべる店主に、おれはいつの間にか返事をしていた。
「では……そのカクテルでお願いします」
「かしこまりました」
 店主はいくつかのびんを手に取って、リキュールらしきものをシェイカーに次々とそそいでいった。美しい所作にれていると、彼はシェイカーをすっと構えた。
 しゃかしゃかしゃかと、心地よいシェイク音が店内に響く。
 やがて彼は動作を止めて、ショートグラスを用意した。そしてそこにシェイカーを傾けようとしたのだが――その腕の高さに、おれは目を見開いた。店主はめいっぱい腕を伸ばし、かなりの高さから中身を注ごうとしていたのだった。
 瞬間的に、おれは思った。超絶こうで、高いところからグラスに酒を注ごうとでもいうのだろうか。
 しかし、待ち受けていたのは、それよりもさらに目を疑うような光景だった。
 店主が傾けたシェイカーからは、液体が流れ落ちてくることはなかった。
 変わりに落ちてきたもの――それは白い雪のようなものだったのだ。
 おれの見ている目の前で、シェイカーからはたくさんの白いものがふわりふわりと舞い降りてきた。そしてそれは、吸い込まれるようにグラスへ向かって落ちていく。
 次第にグラスは、その白いもので満たされていった。
 やがて縁まで平らに積もると、店主はシェイカーを切って下におろした。
「お待たせしました」
 細いストローを差し、彼はグラスをすっと置いた。
「メルティーホワイトです」
 おれはその一杯をまじまじ眺めた。まるで、グラスに雪が降り積もったようだった。
「あの、これは……」
「まあ、まずは召し上がってみてください」
 おれはグラスをそっと持ち上げ、ストローに口をつけた。
 おずおずそれを吸ってみると、瞬間、ひやりとした液体が口の中に入ってきた。次に上質な水のようなほのかな甘みが舌を転がり、すっきりとした香りが鼻を抜ける。
 おれは二口、三口と口に含んだ。
 飲むたびに、身体も少しずつ火照りはじめた。なんだか胸のあたりが温まるような感覚にもなってくる――。
 顔を上げると、笑顔の店主と目が合った。
「いかがです?」
 とっに、美味しいです、というへいぼんな言葉しか出てこなかった。
「それはよかった」
 店主はつづけた。
「グラスに積もっているのは、お酒でできた雪でして。その雪が解けていくところを味わうのが、このカクテルの趣向なんです。ところで、お客様、本日は何かお話しになりたいことがあってお越しになったのではありませんか?」
「えっ?」
 唐突に言われ、何のことだか分からなかった。
 店主は微笑む。
「いえ、時間はたっぷりありますから、ごゆっくり。何なら、もう一口、召し上がられてからでも構いません」
「はあ……」
 言われるまま、おれはストローでカクテルを含む。その冷たさとは裏腹に、身体の熱は増していく。
 気がつけば、おれはこんなことを口にしていた。
「……父親と、ずっとうまくいってないんです」
 自分でも、どうしてそんな話をしはじめたのかは分からなかった。考えるよりも先に、言葉が出ていた。
 店主は、おれが話しだすのを静かに待っていてくれた。
「……物心がついたときから、父親とはあまり反りが合いませんでした。昔から私が何かをしようとすると、いつも決まって反対するのが父親だったんです。それはダメだ、やめておけと、事あるごとに顔をひそめて言われたものです」
 おれは、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「それでも、小さい頃はそんな父親のことも受け入れていました。そういうものなんだと、無条件に思いこんでいたんです。
 ですが、だんだん友達の家の話が耳に入ってくるようになって。うちの父親だけがそんな感じなのだと知り、次第に反発するようになっていったんです」
 言葉は次から次にあふれてくる。
「中高生のころはケンカの絶えない日々でした。そしてそのピークがやってきたのは、大学受験を控えた高三のときです。難関校に合格しようと必死でがんばっていた私に対して、あるとき父親はこう言ったんです。絶対に無理だからやめておけ。もっと身の丈にあったところを受けなさい、と。
 そのときでした。私の中で、何かが決壊してしまったのは。
 なんでそんなことが分かるんだよ、人の人生を勝手に決めつけるなよ。そんなことをこっちが言えば、これまで誰が養ってきたんだ、そんな口をきくのなら今すぐ出ていけと父親は言って。争っているうちに気づけばつかみ合いになっていて、止めに入った母親を振り切って、私はそのままひとり部屋にこもりました。くやしくて悔しくて、涙が止まらなかったのを覚えています。
 結局、それが父親と言葉を交わした最後になりました。
 志望校に受かったときは、スカッとしたものです。ほら見たことか、だから言っただろ、と。ですが、私は父親に何も言わなければ、父親からも何の言葉もありませんでした。そうして一言も話さないまま、私は母親に送りだされて故郷を離れたんです。
 それ以来、実家に帰ったことは一度もありません。母親とはときどき連絡を取っていますが、父親とは、もう何年も顔を合わせてすらいないんです。
 ……その父親が倒れたと連絡を受けたのは、少し前のことでした。
 幸い命に別状はなく、退院後にリハビリをすればよくなるだろうと母親からは聞きました。ただ、そのときに、こう言われたんです。もう父親と仲直りをしたらどうか、と。自分たちも、そんなに先は長くないんだから、と。
 こんなことも言われました。父親があなたに厳しくしていたのは、親心ゆえのことだったんだと思う。たしかに昔から言い方が下手な人だったけど、あの人なりの優しさはちゃんとどこかにあったはずだ。そんなこと、あなたも分かっているでしょう、と。
 私はあいまいに言葉をにごしたまま、結論は出さずに今に至ります。
 自分がどうすべきなのか……いえ、そんなことは分かってるんです。ですが、どう切りだしたらいいのか、どう話したらいいのか……もやもやと悩むばかりで、ひとつも前に進まないんです」
 そこでおれはハッとして、言葉を切った。そして、すぐに店主に向かって謝った。
「こんな身の上話を聞かされても困りますよね。お恥ずかしい限りです。すみません……」
 しかし、店主はゆっくり首を振った。
「いいえ、話しづらいことをお話しくださって、ありがとうございました」
 店主は言った。
「じつは、うちはお客様のような方がいらっしゃる店なんです」
「私のような……?」
「ええ、心に何かがつっかえている方のためのバーなんですよ。このメルティーホワイトには、不思議な力がありましてね。雪が解けていくように、心の中のわだかまりをすぅっと解かしてくれるんです」
 おれは無言で、声に耳を傾ける。
「大丈夫ですよ」
 店主の口調は、穏やかだが力強い。
「心の中のつっかえは、すでになくなっているはずです。ひるむことなどありません」
「そうでしょうか……」
 なおも弱気なままのおれに、店主は言った。
「そうですとも。もしかすると、今すぐに切り替えることは難しいかもしれません。ですが、冬は必ず終わるんです。その証拠に、ほら。グラスの中を見てみてください」
 言われておれは、そちらに目をやる。
 瞬間、あっ、と思った。
 目の前のグラスには、まだまだ白い雪が残っていた。が、その隙間から、いつの間にか何かがちょこんとのぞいていたのだ。
「ね? 大丈夫です、こうしてカクテルにだって春がやってきたんですから」
 店主は、いっそう微笑んだ。
 グラスの中では、黄緑色のフキノトウが力強くいていた。
                         (完)

 インスパイアを受けた方
  ・かしましゅふさん
  (お題「バーテンダーの雪」)