バルーンケーキ



 男は町の小さなケーキ屋で働いていた。
 小さい頃から、彼はケーキ職人という職業に強いあこがれを抱いてきた。その要因は、父親の背中を見て育ったことにあったといえる。彼の父親はケーキ職人だったのだ。
 父親のケーキを買いに来る人たちの笑顔が、彼はとても好きだった。ケーキ職人とは幸せを届ける仕事なのだなと、幼い彼は理解していた。コック帽をかぶった父親の仕事着姿は、彼にとってヒーローの象徴のようなものでもあった。
 彼自身も、父親のケーキが大好きだった。中でも、特別な事があったときに作ってくれる豪華なホールケーキは、何にも代えがたい幸せをもたらしてくれた。
 たっぷりの生クリームに、イチゴやキウイやブルーベリーなどのフルーツが山盛りになっている。フォークを入れると、父親の一番のこだわりであるスポンジが口の中でふわっとける。
 男は、そのケーキを食べている時間が人生で最も幸福だった。そして、いつか自分もこんなケーキを作ってみんなに食べてもらうのだと胸にちかった。
 高校を卒業すると、男は父親の店で働く形でこの世界へと飛びこんだ。そして下積みを経て、二年後には店で出すケーキのデコレーションの一部を任せてもらえるようになった。
 しかし、ただひとつ、どうしても作業をさせてもらえないことがあった。父親がこだわりを持つ、スポンジ作りだ。彼は長年、そのレシピさえも教えてもらうことができないでいた。
「おまえには、まだ早い」
 そう言われるたびにくやしい思いをしたものだったが、それは自分の未熟さゆえだと納得もしていた。
 男の夢は、いつか父親を超えるケーキを作ることだった。そしてそれを他でもない父親に食べさせ、うならせることが目標だった。
 彼は努力をしつづけた。所帯を持ってからも、ひたすら仕事に打ち込んだ。
 だが、そのがんばりとは裏腹に、無情にも店の経営は少しずつかたむいていった。ライバル店の乱立や、町の人口が減ったことも関係していた。客がまばらな日が目立つようになっていき、売上がほとんど立たない日も出るようになり、彼らはじわじわと苦境に追い込まれていった。
 そんな折だ。父親が急な病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったのは。
 そうのバタバタが過ぎ去ると、残された男はぼうぜんとなった。ひとりになると、ひどいきょかんにもおそわれた。
 父親にケーキを振る舞う機会は、永遠に失われたのだ。自分の夢は、決してかなうことがなくなったのだ――。
 男は現実を受け入れることができないで、何日も部屋に閉じこもってふさぎこんだ。
 それでも何とか店を再開できたのは、店を守らねばという使命感があったからだ。このまま自分がダメになれば、店は存続できなくなる。そうなれば、残された最後の大切な場所さえも失ってしまうことになる。
 男は自分がやらねばならないのだと、奮起した。
 そうなると、何よりも優先してすべきなのはケーキのスポンジの再現だった。あのふわふわのスポンジの秘密を突き止め、同じものを作ることからはじめなければならなかった。
 男は父親の部屋を探すうちに、押し入れからノートのたばを発見した。中を見ると、これまで父親が考えてきたとおぼしき数々のケーキのレシピがっていた。そしてその中に、男はスポンジの作り方を記したページをついに見つけた。
 が、そこで彼は妙なことに気がついた。たしかにスポンジの作り方は書かれていた。しかし、そこにはいくとおりもの方法が書かれていたのだ。
 彼はメモの意味をつなぎ合わせ、やがて、どうも父親がスポンジを改良しようとしていたらしいことを悟った。つまり、これまでのスポンジは未完成で、父親の理想には達していなかったようなのだった。
 それに加えて、ノートの最後のページにはこんなことも書かれていた。
 ――真にふわふわのスポンジは、ちゅうかぶ――
 まったく意味が分からずに、男は首をかしげるばかりだった。
 ひとまず彼は、何通りかあるレシピのうち、最後に書かれたらしい一番新しい方法でスポンジを作ってみることにした。
 すると、だ。信じられないことが起こった。
 オーブンから焼きたてのスポンジを取りだし、型から外したときだった。男は目をうたがった。あろうことか、ふわふわとスポンジが宙に浮かびあがったのである。
 自分は夢でも見ているのかと、何度もまばたきを繰り返した。が、スポンジはたしかに調理台からわずかに浮かび、空中で静止していた。
 男は強いめまいに襲われながらも、もう一度、はじめからスポンジを焼いてみた。果たしてそれは、同じように少しだけ宙に浮かんだ。
 こうなると、現実を受け入れざるを得なくなる。
 やがて男は、こんな考えを持つに至った。
 父親は、ふわふわのスポンジを追求するうちに、ついにふわふわと浮かびあがるスポンジを生みだしてしまったのだ――。
 理屈はまだよく分からない。が、結果がすべてを物語っていた。
 しかし、目の前のこれは、父親にとっては未完成品だったという。
 その理由を、男はスポンジに生クリームをってみて理解する。生クリームの僅かな重みにえられず、スポンジは台の上に着地してしまったのだ。
 なるほど、と、ピンときた。父親が実現しようとしていたのは、きっと生クリームを塗ってもフルーツを載せても浮かんだままでいられるような、究極のスポンジだったのだろう。
 行ける、と、男は思った。そのスポンジさえ完成すれば、間違いなく話題になる。店に人が戻ってくる――。
 その日から、男は通常の仕事と並行してスポンジの研究にはげみはじめた。
 店頭で出すケーキには、まだ浮かぶスポンジは使わなかった。中途半端な状態で出しても効果が薄いと判断したからだった。きっと、それは父親も同じ思いだったに違いない。だからこそ、これまで自分も存在を知ることがなかったのだ。
 男はこうさくを繰り返した。父親の残したメモをもとに、使う材料を工夫してみたり、焼き方を調整してみたりした。
 成果が少し出ることも、大きく失敗することもあった。
 そのたびに、いっいちゆうする日々がつづいていった。
 男は寝食を忘れて研究にぼっとうした。そんな男を、妻はそっと見守りながらかげで支えた。
 出来上がるスポンジの持つ浮力は、少しずつ、だが確実に大きくなっていった。
 そして、男はついに納得いくものを完成させる。デコレーションをほどこしても、宙に浮かんだままのケーキを作ることに成功したのだ。着手してから三年の歳月が流れていた。
 バルーンケーキ。
 男は風船のように浮かぶケーキにそう名づけ、大々的に売りだした。
 はんきょうはものすごかった。
 はじめは近所の人々が、次にうわさを聞きつけた人々がこぞって店を訪れて、このなケーキを買い求めた。
 バルーンケーキは、スポンジからケーキに仕上げていく過程でもコツがいった。放っておくと勝手に浮かびあがっててんじょうにぶつかってしまうからだ。
 男はスポンジが焼き上がると、最初に重りのついたひもを取り付けることでこの問題を回避した。ホールで出す場合には中心にひとつ、後でピースにカットするものは切り分ける分に応じた数の紐をつけておく。そうして飛ばないように固定して、ケーキを仕上げる作業をするのだ。
 それが終わるととうめいの袋をかぶせて店頭に出す。無論、ショーケースの中に入れたりはしない。店内のところどころに紐で結んでおくのである。この演出も、じつに効果的だった。
 人々は購入したケーキの紐を持ち、風船を持つようにして店を出ていく。それを見た人々は、あれはなんだと注目する。写真に撮ってSNSにアップするような人もいて、自分もやりたいと店を調べて押し寄せる。
 バルーンケーキは、食べ方も独特だった。紐を手繰り寄せてケーキを近くに持ってきて、スプーンを被せるような向きで差し入れて、そのまま口に含むのだ。食べるのが下手な者は、こぼれた欠片かけらがふわりふわりと浮かびあがり、いろんなところを汚してしまうのが常だった。しかし、それはそれで失敗談として笑いを誘い、ネガティブな声は聞かれなかった。
 店は連日大にぎわいで、開店前から行列ができ、バルーンケーキは午後の早いうちには完売するのが当たり前になった。
 ケーキを買いに来るのは、単なるスイーツ好きや新しいもの好きだけではなかった。飛ぼうとするケーキにけて、やくを願うお祝い事などにと買っていく人も多くいた。落ちないケーキだということで、受験をひかえた子を持つ親にも人気が出た。
 ウェディングケーキを特注してほしいという依頼も舞い込んだ。二人の明るい未来を祈ってのことである。ケーキにゅうとうきゃたつに上がって行わねばならず大変だったが、その困難が二人の最初の試練だと、かえって受ける要素になった。
 一方で、中には新郎がよかれと思って内緒で特注したバルーンケーキが新婦のきょうを買ったというまれなケースも存在した。新郎には前から浮気性なところがあって、浮かんだケーキは何かメッセージがあるのかと新婦のげきりんに触れたのだった。新郎は、あわてて普通のウェディングケーキを注文して、なんとかろうえんの終わりまでに間に合わせて事なきを得た。これからは、地に足をつけて生きていきます。新郎は、そんなスピーチをさせられた。
 男は時期を見て、思い切って店を拡大することにした。それによってますます多くの人にケーキが渡り、話題はさらに広がった。
 しかし、いくら売り上げが上がろうとも、いくらメディアに取りあげられようとも、男がおごることは決してなかった。昔からの客を大切にし、スポンジもすべて自らの手でていねいに焼き上げた。
 弟子入りを志願する者もたくさん店を訪れた。中には秘密を探ろうとする同業者もいたようだったが、男はこばむことなく受け入れた。スポンジのレシピこそすぐに明かすことはなかったが、骨のある者たちにはゆくゆく伝授しようと思っていた。ケーキが広がっていくことこそ、男が目指すところだった。
 男はいそがしい合間をって、地域の幼稚園や保育園にバルーンケーキをしょうで提供したりもした。ふわふわ浮かぶケーキに夢中になる園児を見ながら、彼は思う。いつかこの中から、未来のケーキ職人が現れてくれればいいな、と。かつての自分のように――。
 バルーンケーキは一過性のブームで終わることなく、新しいケーキの形として少しずつ世間に根付いていった。男の弟子が順調に育ち、独立して各地でバルーンケーキ作りに励むようになっていったことも大きかった。
 そのうちの一派がやがて創作バルーンケーキのコンテストを立ち上げた。お題にそって、職人たちがその技術を競いあうような大会だ。
 たとえば、「空の島」というお題が出されたとすれば、職人たちは思い思いの「空の島」をケーキで表現するという具合だった。砂糖菓子で樹木を作ったり、色とりどりの花を作ったり。
 競われるのは作品性だけではない。すべてのデコレーションを終わった段階で支えになっている紐が切られ、そのときに浮かび過ぎずしずみ過ぎず、大会規定の空域に浮かんでいることが条件なのだ。コンテストを通じて浮力の調整技術にいっそうみがきをかけた職人たちは、通常のケーキ作りにそれをかんげんするのだった。
 コンテストの出品作は、コストが見合えばそのまま商品化することもあった。あるいは、ゆうそうがパーティー用にと特注したりもした。
 夕暮れのサバンナ。ペンギンの群れる北極の流氷。車が空を飛ぶ未来都市。
 様々なバルーンケーキが作られて、そのときどきで話題になった。
 その頃になると、バルーンケーキのレシピはもはや秘伝のものではなくなっていた。しかし、男にとってはそれでよかった。



 歳月は流れ、男も相応に歳をとった。
 今年で、父親の十三かいを迎えもした。
 その父親の命日にあたる日のことだ。彼は店を休み、長年温めてきた計画を実行に移すため、朝から気合を入れていた。そして彼はちゅうぼうで、ひとつのバルーンケーキを作り上げた。
 父親を超えた、とは決して思ってはいなかった。が、ここ最近、ひとつの区切りの時が来たのではないかと考えるようになっていた。
 男はひとり店を出ると車を走らせ、やがて父親のぜんに立った。
 その手には紐がにぎられていて、先端にはバルーンケーキがふわりふわりと浮かんでいる。生クリームがたっぷり塗られ、フルーツが山盛りになっている特別なホールケーキである。
 と、男はおもむろに、紐をつかんだ手をゆるめた。
 その瞬間、ケーキは宙へと浮かびあがり、天に向かってゆっくりゆっくりのぼりはじめた。
 どうか、天国の父のところにまで届きますよう――。
 彼はそんなことを願っていた。
 果たして、自分のケーキは父親を唸らせることができるだろうか。はたまた、まだまだ未熟だとチクリと言われてしまうだろうか。
 いずれにしても、楽しみなことには変わりない。


 天へと向かうホールケーキには、砂糖菓子で作られた人型の二つの細工があしらわれていた。
 ひとつは、銀色のボウルとあわだて器を手に持った、コック帽を被った男性だった。
 そのとなりで手元をのぞきこむように置かれているのは、目を輝かせる少年である。
                       (完)

 インスパイアを受けた方
  ・林一さん
  (お題「漂うケーキ」)