漫画家ちばてつやを生んだ「屋根うら」の戦争体験

漫画家ちばてつやを生んだ「屋根うら」の戦争体験。

漫画家ちばてつやを生んだ「屋根うら」の戦争体験。

一生を決めた満州の原風景

 真っ赤に染まった夕焼けの空。遠くの地平線に夕日が落ちようとして、大きく広がった空はオレンジ色とのグラデーションにもなっている。漫画家ちばてつやさんが思い浮かべる故郷の空だ。
 東京で生まれて間もなく、両親とともに満州ほうてん(現在の中華人民共和国りょうねいしょうしんよう)へ渡ったちばさんは6歳までをそこで過ごし、終戦を迎えた。
「満州の夕焼けっていうのは独特でね、真っ赤って言ったらいいか、オレンジというか、独特の赤い空になるんです。当時はいまとは違って道路も舗装もされてないから砂埃もすごかったし、犬や動物のふんどころかじんぷんさえ転がってる時代。そういういろんなものがふんじんになって舞ってた影響もあるんじゃないかな。大人になって中国を訪れるたびに、街の匂いをかぎながらあの夕焼け空を見ると、『ああ、故郷ふるさとに帰ってきたんだ』ってホッとする」

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ちばてつや氏

 奉天には、父が勤める印刷工場があった。3メートルもの高いれんべいで囲まれた印刷工場の敷地のなかに、ちばさん一家が暮らした社宅とともに、日用品が買える商店や、大きな入浴施設などもあり、日本人専用のコミュニティがつくられていた。幼いちばさんにとって、その塀のなかが「日本」だった。
「ぼくは放浪癖ほうろうへきのある子でね、塀の外に何度か抜け出して中国人の街をフラフラしてると、『ホラ、これ食べな』って食べ物をもらったりした。ところがいつの頃からか、周りの人たちが冷たい雰囲気になっていったのを感じたんです。いままで優しくしてくれてた中国の人たちが、のら犬でも見るような眼で『あっちに行け!』って言ったり、日本兵とすれ違った後、小さな声で『日本リーベン鬼子グイズ』(中国語で日本人をべっした呼び方)って言いながら、後ろ指を差すような姿を見たりして、なんだか雰囲気がおかしいなって」
 1945(昭和20)年、満州を事実上支配し続け、アメリカやソ連とも戦争を拡大させていた日本の戦況が行き詰まり、中国人の間には日本の敗戦色が濃厚であることが徐々に伝わっていた。そして8月14日、ついに日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日に戦争終結が発表された。戦争や日本支配からの解放と、それまでの日本人に対する反発もあり、奉天の街のなかで暴動が起こり始めた。
 当時六歳とまだ幼かったちばさんには、日本の敗戦という事態が飲み込めなかった。煉瓦塀の外でお祭りのように爆竹が鳴り、暴徒と化した中国人たちが叫んでいる。そして暴徒たちは、こんぼうや鎌を持って3メートルもある煉瓦塀をよじ登って、印刷工場のなかに入ってきた。真っ赤な夕日を背にした暴徒たちの様子を、社宅の外でボーッと眺めていたちばさん。それを見つけた母は、慌ててえりくびをつかんで家のなかに引き入れたという。
 数日後、父が印刷工場の仲間たちと相談し、中国人たちが寝静まった頃合いを見計らって、社宅を抜け出すことにした。より安全な居場所を求めての真夜中の逃避行。ところが、安全なところがなかなか見つからない。警察署、駅の構内、ホテル、工場跡地、日本人学校の校舎……夜中になると安全な場所を探して歩き、あちこちで夜を明かした。社宅を出発して数日後、ちばさん一家は、印刷工場の一団とはぐれてしまう。そんな時、暗闇のなかで父の友人であったじょしゅうせんさんと遭遇した。
「徐さんは親父おやじの工場で一緒に働いていた中国人。昔から親父と気が合ったみたいで、何年も前からウチに遊びに来て一緒に食事したり、出掛けたりしてたんですよ。二人とも競馬と酒が好きだったから、一緒に遊びに行ってたんだろうね。本を貸しあったり、漢詩を読みあったりもしていたようです」
 そんな徐さんと偶然再会し、しばらくの間、徐さんの自宅の物置の屋根裏にかくまってもらうことになった。
 明かり取りの小さな窓だけがある狭い屋根裏部屋。父は徐さんの仕事を手伝うため日中は不在。母とみ子の末弟、遊び盛りの二人の弟とちばさんは、この部屋でしばらく過ごした。父の影響で本を読むのが好きだったが、逃避行のなかで社宅から持ち出せた本は2冊だけ。すぐに読み飽きてしまった。弟たちも退屈のあまりぐずり出す毎日。困った母は「てつ、あんたが何かお話ししてやりなさい」と、ちばさんに言いつけた。
 そこで、絵を描くことが得意だったちばさんは、いままで読んだ多くの物語を適当につなぎ合わせてオリジナルの物語を作り、それに合うさしを描いた。これに弟たちは大喜び。次の作品をせがまれ、何度か同じように物語を作って絵を描く。目を輝かせて熱心にリクエストしてくる弟たちの姿を見ていると、ちばさんはますます彼らを楽しませてあげたいという気持ちが募り、薄暗い屋根裏部屋で、次から次へと新しい物語を生み出していった。
「弟たちが喜んでくれるのを見ているとね、人に喜んでもらえるのは本当に楽しいもんだなって感じましたよ」
 この屋根裏部屋での体験が、ちばさんの漫画家としての原点となる。ちばさんが自らの満州体験を初めて描いた『のろテツ奮戦す 屋根うらの絵本かき』(1973年)という短編作品は、この時の思い出をもとに描かれている。ラストシーンでちばさんは、「満州でとじこめられた間の生活が、僕の一生を決めてしまったように思える」とつづった。

自伝漫画で伝えたかったこと

 その後、再び印刷工場の一団と合流したちばさん一家は、徐さんと別れ、満州から日本への引き揚げ船が出港しているとう市の港まで移動することとなる。およそ300キロ、そのほとんどが徒歩での移動だった。
 奉天を出るころ、季節は冬になっていた。長い道のり、食べ物はほとんど手に入らない。疲労はたまり、体力はどんどん衰える。力のないものは移動の途中で脱落していく。ちばさんの目の前で亡くなった人や、果てしない逃避行の絶望感から自殺する一家もいた。友だちとの悲しい別れも経験した。

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満州からの過酷な引き揚げを経験した無数の母子たちをイメージし、特別な色紙を描いて下さったちばさん

ちばさんたち兄弟は皆、栄養失調になり、一番下の弟は失明寸前だったという。ようやく葫蘆島港に到着したころ、季節は夏になり、ちばさんは7歳になっていた。終戦からおよそ1年後、ようやく引き揚げ船に乗り、一家は6人そろって日本へ帰国することができた。 
 現在のちばさんは、この時の体験を伝えるべく精力的に活動している。とくに近年はコラム、イラスト、漫画などで立て続けに自伝的作品を出版してきた。現在もコミック誌で『ひねもすのたり日記』という自伝漫画を連載中である。
「中国にいたころのことだって、実際にはすべてを覚えているわけじゃないんです。ぼんやりと覚えていたことを、日本に帰ってから思い出したり、大人になって勉強して初めて意味がわかったり・・・。それが幼いころの淡い記憶と重なって、やっと『あの時はこういうことが起こっていたのか』って理解できた」
 7歳で帰国したちばさんも、79歳になった。漫画家デビューして今年で62年、代表作『あしたのジョー』は、連載開始からちょうど50周年を迎えた。創作活動には体力も気力もいるし、自伝ともなれば、正確な歴史的背景を伝えるために、ぼうだいな資料にも目を通す。
「それでも残していかないとっていう思いがあるんです。戦争って、ちょっとしたボタンのかけ違いや意地の張り合いみたいなところからすぐ起きてしまう。ところが、一度戦争が起きてしまうと、世界中が巻き込まれて、加害者も被害者もない、みんな『犠牲者』になってしまう。昨日まで優しかった中国の人が鬼のようになってしまう。何日も食べる物がなく、骨と皮になった人々の群れが足をひきずって荒野を歩き続ける。私はそういう体験をしてきた人間だからこそ、そんな地獄を伝え残す使命がある」

グレーなところに面白いことがある

『ハリスの旋風かぜ』『おれはてつぺい』『のたりまつろう』など、ちばさんの描く漫画のなかには、しばしば一般社会から少しはみ出たようなキャラクターたちが登場する。『あしたのジョー』で描かれている、いわゆる「ドヤ街」の住人たちもそんな人々だ。これは、ちばさんが満州からの引き揚げ後に長く暮らした、東京の下町の風景がモチーフとなっている。

色紙(追加)

ちばさんが描いてくださった色紙

「ぼくが住んでいたのは、墨田区の向むこうじまというところ。その向島の対岸には「さん」という社会から取り残された人たちが吹き溜まりのように集って暮らす独特の地域があってね。昔はいまと違って隅田川も汚かったし、ドブ川みたいに臭かった。『あしたのジョー』(オープニング場面など)のなかでも描いたけど、手足のもげた人形とか新聞の切れ端とか、コンドームなんかもよく流れてたな。橋の下や路地裏や公園の隅には真っ昼間っから酒を飲んでいるオジさんとかいるんですよ。そういうところにだんぺいがいて、ジョーがいて、サチがいて、いろんな人たちが暮らしてる」
 戦時中や引き揚げの体験があるからこそ、ちばさんは現代の日本が豊かな社会だと実感する。それは、そこで暮らす私たちが、それぞれの立場を理解し互いの自由を認め合うからこそ実現しているのだ。だからこそちばさんは昨今、社会のなかで多様な表現が規制されつつある風潮や政治的な動きに対して、強い危機感を抱いている。
「枠のなかの真ん中がとても綺麗な真っ白だとしたら、そこから少し外れたところがグレーになってて、もっと外側は真っ黒。全部真っ白だったらつまらないですよ。グレーなところに面白いことがある。あやしげで、暗くて、イヤラしくて、ドロドロしている・・・そんなところに人間の人間らしいドラマがあるし、本当の面白さがあるってことを、若い人たちにも知ってほしいな」
 そう語るちばさんには、満州時代の忘れられない思い出がある。
「満州にいたころ、一度だけ家族で旅行したんです。とても楽しかったんだけど、その帰り道、『楽しかったねぇ』なんて言いながら、まんてつ(南満州鉄道)に乗ってました。ところが、一瞬で電車のなかがシーンと静まったんですね。それまで本を読んでいた人が本を閉じたり、楽しそうにおしゃべりしてた人たちが急に黙ったり・・・。制服のけんぺいさん(旧陸軍の軍事警察官)が二人、電車に乗ってきたんですね。ぼくが憲兵のほうを何となく見てたら、お袋が頭を押さえて窓の方に顔を向けさせられて『外を見てなさい』ってね。まだ幼かったぼくには、さっきまで皆あんなに楽しそうにしていたのに、何で急にシーンとしたのか、よくわからなくて不思議だったけど、いやぁな気持ちにさせられた」
 その後、ちばさんは日本に戻ってから、戦争中は日本の誰もがそういう監視社会のなかで生きていたという現実を知ることとなった。
「子供心にもね、読みたい本を読めないとか、自由に話もできずに黙るとか、見たいものを見ていないふりするとか、ああいう社会はいやだなぁって思いましたよ。いま政治が表現を規制しようって動きが出ているでしょう。でも本来は、誰にも規制されない自由のなかで、描き手がちゃんと読者のことを考えて描く。暴力やエロだけで内容のないものはすぐ飽きられるし、いつの間にか捨てられる。必ず『自然とう』されるんです。それでいいと思うんですよ」
 豊かで自由で平和な現代の日本社会を大切にしてほしいと、ちばさんは言葉を重ねる。精力的に戦争や引き揚げ体験の作品を残し続けるのも、表現規制に反対するときも、ちばさんがそこに込めるメッセージは共通している。
「近隣のアジアの国々が植民地にされ、ひどい目にっているのを見て、あわてて軍事力を強化し、勢いにまかせて他の国と戦争をしてしまったり、戦後も経済を優先するあまり豊かな自然とか日本の美しさみたいなものをたくさん壊したりしてしまったけど、いまやっとそれらのことが間違いだったことに気づいて、失ったものをもう一度取り戻そうとしている。でも戦争とか、自由がない社会とか、実際にそういうことが存在していた事実が忘れられてしまうと、知らない間にまた戦前の生活に戻ってしまう。日本はなぜ愚かな戦争をやってしまったのか――若い人たちにも、その歴史をしっかり学んでほしいのです」

母子地蔵に込めた思い

 年間5000万人もの観光客が訪れる東京・浅草。観光客たちの多くがせんそうまで足を運ぶ。いまや日本を代表するアイコンとなったかみなりもんから参道であるなかを通り、いよいよ境内に入るところにそびえる大きな門がほうぞうもんである。
 その宝蔵門のすぐそばに、真っ赤に染まった数本のノボリとともに「まんしゅう母子地蔵」が建っている。
 真っ直ぐ前を見つめた母と、背中に背負われた幼い子ども、さらに母の胸元から母の顔を見つめる小さい子ども、三人とも穏やかなほほえみを浮かべ、見る者を優しい気持ちにさせてくれる。この母子地蔵をデザインしたのは、ちばさんである。

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浅草寺(東京)・宝蔵門の傍に建つ「まんしゅう母子地蔵」

あかつかとか、もりけんとか、きたけんいちとか、満州から引き揚げてきた漫画家たちと『平和漫画展』を開いたとき、そこにさんっていう人が訪ねてきたんです」
 戦時中、満蒙開拓青少年義勇軍にいたという千野せいさん(故人)は、当時、中国残留孤児の帰国支援などをしていた。
 戦時中に満州にいた日本人のなかで帰国がかなわずに亡くなった人は、18万人とも24万人とも言われている。引き揚げの途上で亡くなった人たちは、墓さえない。冬の凍った大地には遺体を埋める場所もなかったし、逃避行のなかでは墓を作る余力さえなかった。「お墓に手を合わせることさえできない遺族たち、引き揚げ仲間たちのために、慰霊できる祈念碑をつくりたい」と、千野さんは、引き揚げ同志である漫画家たちを訪ねてきたのだった。
 そんな千野さんの熱意に応え、漫画家たちも協力して、1997年に母子地蔵が建立されたのだ。
「私がデザインを頼まれて、いくつかイラストを描いたんです。そのなかの一枚で、お母さんが子どもを背負っている姿を描いたイラストを見た千野さんたちが『これを像にしよう』って。実際にできた母子像は、お母さんと子どもが二人だけなんだけど、最初に描いたイラストは、もっとたくさんの子どもがいたんです」
 幼い子どもたちを連れて満州から日本へ逃れてくる母親たち。親なら誰だって子どもを手放したくない。それでも食べ物がなく飢えが続くと、これ以上子どもに苦しい思いをさせたくない、子どもを死なせたくないと思いつめて、やむなく中国人に子どもを預ける母親の姿があった。また、死んでしまった子どもを背負い続ける母親の姿もあった。「なんとか子どもたちに生きてほしいって、子どもをたくさん抱えたお母さんの姿が、引き揚げの時にそこらじゅうにあったんです。浅草の母子地蔵の母親の笑顔には、引き揚げの苦労のなかで、日本に帰れるという希望をもった母親の気持ちを宿らせました。そんな母の顔を見てホッとする子どもたちの笑顔。戦争はこういう人たちも巻き込まれて、苦労させられるんだっていう思いを込めて、デザインさせてもらったんです。周囲に立つ真っ赤なノボリは、満州の夕焼けのイメージです」
 東京は、戦時中の度重なる空襲で焼け野原となった。浅草寺の本堂さえも焼けてしまった。そんな戦争の記憶が忘れられないよう、浅草寺の境内には戦争や平和に関する祈念碑がいくつも建立されている。浅草だけではない。私たちが普段、意識もせず通り過ぎている道端など、日本のあらゆるところに祈念碑はひっそりと建っている。気づかないだけで、私たちはいまもそんな戦争の記憶のすぐ横で暮らしているのだ。
 浅草寺・宝蔵門の傍にたつ母子地蔵は、寒い季節になると、えりきを巻かれたり、コートを着せられたりする。像の前には、子どもが好きそうなお菓子が供えられている。
「引き揚げ者のことを思ってくれている人がお供えしてくれるのかな。忘れずにいてくれるのは嬉しいですよね。つくづく思うんだけど、いまの日本って素晴らしい国だと思うんです。四季があって、自然が美しくて、海があって、おいしい魚が採れて、そういう風土から生まれた素晴らしい文化があって・・・。世界中で、日本の良さをたくさんの人が認めてくれている。そんな人たちとともに、これからも平和が大事なんだってことを考えてほしい。中国と日本の関係が危うくなりそうな時もある。でも、危険を冒してまでぼくら家族を助けてくれた徐さんと父の関係のように、ぼくは世界と日本の明るい未来を信じているんです」

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