八人の侍・下

 あのとき和彦かずひこは、白猟会はくりょうかいへの対応をどうすればいいのかと翔太しょうたに意見を求めた。翔太の考えが、むしょうに知りたかった。
「守ってばかりいては、もうらちが明きません。僕も討って出るのは賛成です。昭和純情商店街は反社会勢力は絶対に受け入れない――その気概きがいを彼らに知らしめるためにも、商店街の僕たち自身が行動に移すのは不可欠だと思います。ただ――」
 このとき翔太はこんなことをいい、ほんの少し恥ずかしそうな表情を浮べてから、
「白猟会全員を相手にすることはありません。彼らのなかには頭が怖くて従っているものもいるはずですし、ちゃんとした世界では行き場がなくて会に属する者も必ずいるはずです。そうした人間を、こちら側に取りこむのもひとつの手だと。つまり、仲間の切り崩しを図るのです。幸い、昭和純情商店街には源次げんじさんという忍びの術を遣う武術の天才がいます。白猟会の連中も源次さんの強さは十二分に知っているはずで、少なからず僕のようにあこがれを持っている者もいるはずです。だからここは、時間はそれほどありませんが、まず源次さんに動いてもらって会の切り崩しを図るのが得策だと」
 みんなの顔を見回して滔々とうとうと述べた。
「おい、わしはおめえと違って天才なんかじゃねえよ。他に何の取柄とりえもねえ、単なる武術馬鹿だよ。喧嘩けんかしか能がねえんだよ」
 源次がすぐに照れたような声を出した。
「格闘技に関しては源次さんは天才です。僭越せんえつとは思いますが、それは僕が保証します。だから源次さんに彼らをおどすというか説得してもらうというか」
 今度は翔太が照れたような声を出した。
 源次が情けない声をあげると同時に、大きな拍手が鳴り響いた。和彦だ。
「大丈夫だ、源ジイ。説得のほうは俺が引き受ける。源ジイが相手をちょっとしめてくれれば、そのあとすぐに俺が説得にまわる。俺は翔太君の意見に大賛成だ」
 我が意を得たりという思いだった。
 翔太は和彦の代弁者だった。
「そして、翔太君。その説得したワルたちをどうするか。翔太君のことだから、その先のことも考えてるんじゃないか」
 さりげなく水を向けてみた。
「はい、あります」
 打てば響くように翔太は答えた。
「まず源次さんに根性を入れ直してもらい、見込みのある人間は、ここの商店街のために働いてもらう。この商店街には空き店舗が何軒もあります。そこを利用してラーメン屋なり、居酒屋なりを開いてもらえば。以前、源次さんの子分になった、ブラジルの人たちと一緒に店をやってもいいですし――ワルといっても若い人です。商店街の活性化は若い人が参加しなければ成り立ちません。ワルだった根性を発揮してもらって、ラーメン屋でテッペンを取ってもらえばいいんです」
 翔太のほお紅潮こうちょうしていた。翔太の胸のなかにもこの商店街に対する強い思い入れがあふれているのだ。この商店街が好きなのだ。両目がうるんでいるようにも見えた。
 すぐに和彦が拍手をした。そして、この会に参加しているすべての人間の拍手がそれに重なった。
「翔太君のいう通り、商店街の未来を切り開いていくのは若者しかいない。主役は若者で俺たち年寄りは、その手助けを精一杯するのみ。それこそ、すて石になる覚悟でな」
 しみじみとした調子で和彦がいうと、
「すて石、けっこう。この商店街のため、大いにすて石になろうじゃないか。それにしても翔太君のいったテッペンとは、いい得て妙だよな。あいつら、テッペンという言葉に弱そうだから。これはひょっとしたら、ものになるかもしれねえな」
 洞口ほらぐちが大きくうなずいた。
「そのためには源ジイに、しっかり先方のタガをめてもらわないといけませんね。ちゃんと正業に励むようにですね。何たって、元はワルなんですから」
 心配そうにいう川辺かわべに、
「ワルのなかには、けっこう律義りちぎなやつもいるから大丈夫だと、わしは思うがよ。それに、いくらタガを締めても根性の直らねえやつは容赦ようしゃなく叩き出すから心配はねえ」
 源次もやる気充分の言葉を口にする。
「それじゃあ、明日から俺と源ジイは相手の切り崩しを実行することにする。どれほどの成果が出るかはわからんが」
 和彦は声を張りあげてから、
「さっき源ジイは、白猟会に殴りこみをかけるのは自分と若頭の二人のみといっていたが、俺も参加させてもらうから、そのつもりでいてほしい」
 ざらついた声でいった。
 いよいよあれだ。
 自分の悪行をここでぶちまけるのだ。いかに自分が生きていることに値しない人非人にんぴにんであるかを、ここで洗いざらいぶちまけて石のつぶてを全身に受けるのだ。死んだほうがいい人間であることを。
「なぜなら」
 と和彦が口を開こうとすると、
「二人だけでなく、私も一緒に行くつもりですから」
 かたわらから声があがった。
 冴子さえこだ。
 冴子がりんとした顔で周りを見ていた。
あねさん、それは駄目だ。危険すぎる」
 すかさず、成宮なりみやが叫んだ。
「危険は承知の上。だからといって逃げるわけにはいきません。山城組やましろぐみのテッペンは私なんですから。そんな私が顔を出さないということになれば、筋も名分も通らないことになります。下の者にも示しがつかなくなり、組の統率もできなくなります。何たって矢面やおもては私なんですから、私は自分の筋をきちんと通すつもりです。いいですね、若頭」
 冴子はじろりと成宮をにらんだ。
「それはまあ、おっしゃる通りで――」
渋々しぶしぶながら成宮が折れた。
「僕も一緒に行きますよ」
 次に声をあげたのは翔太だ。
「さっき僕は、昭和純情商店街は反社会勢力は絶対に受け入れない、その気概を知らしめるためにも僕たち自身がといったばかりですから――いい出しっぺの僕が行かないわけにはいきません」
 はっきりした口調でいう翔太に、
「翔太、おめえ。ひょっとしたら死ぬかもしれねえんだぞ」
 驚いた口調で源次がいった。
「そうですね。でも本音をいえば、僕はもう少し男らしくなりたいんです。危険な場所から逃げる人間ではなく、危険な場所だからこそ向かっていける人間に。いうなればこれは、僕にとって試練のようなもので、大いなる実験なんです。これから生きていくための」
 顔を上気させて翔太はいった。
すごいな、おめえはよ、やっぱり。大いなる実験という意味はよくわからねえが、おめえがいうんだからそういうことなんだろう。よし、許す。その代り、隅のほうでじっくり見てろ。何たって、実験なんだからよ」
 釘を刺すことは忘れないが、源次が翔太の参加をあっさり認めた。
「もちろん、私も行きますから」
 今度は川辺の声だ。
「様々ないざこざで私も近頃、ようやく恐怖心が薄れて自信がついてきましたから。今度こそ得意の柔道でやつらを、投げて投げて、投げまくってやります」
 頭を片手で押えながらいった。
「じゃあ、俺も行くことにするからよ」
 洞口が意を決したような顔でいった。
「冴子さんが組のテッペンなら、俺は商店街のテッペンだから顔を出さないわけにはいかないだろう。まあ、本音をいえば、源ジイが思いっきり暴れるところが見たいっていうところだけどよ。いずれにしても戦力にはなれそうにもないから、翔太君と一緒に隅の方で見物ということにするよ」
 小さくうなずく洞口に、
「じいちゃん、私も行くからね」
 傍らの桐子きりこが、とんでもないことを口にした。
「桐ちゃん、それは駄目だ。どう考えても女の子の行くところじゃない。危険すぎる。冗談じょうだん抜きで、殺し合いになるかもしれない場所なんだから」
 思わず和彦は制止の声をあげる。
「ていうか、私はみんなの、保険のようなもんだから」
 妙なことを桐子は口にした。
「みんなは殴りこみのつもりでいるらしいけど、これは表向きは話し合いにしないと駄目だから」
「殴りこみじゃなくて、話し合いですか」
 きょとんとした表情で川辺が桐子を見る。
「もし、とんでもない展開になって大事になり、事が公になったらどうするの。新聞の見出しに、『商店街の役員、半グレ集団に殴りこみ』の文字が、めっちゃおどることになるよ。それをけるために私は行くの。高校生の女の子が一緒なら、どう考えても、どう転んでも殴りこみにはなりようがない。だから私は保険。そういうこと」
 穿うがったことを桐子はいった。
「なるほど、そういう考えもありますね。今の今まで、まったく気がつきませんでした。いや、ぼうっと生きてるだけの女子高生かと思ったら、桐ちゃんもなかなかやりますね」
 感心したように川辺がいったとたん、じろりと桐子ににらまれて首をすくめた。
「それに状況をつぶさに把握して、もし、とんでもない事態におちいるようだったら、すぐに翔太と二人で逃げ出して警察に電話するから。我ながら、まったく頼もしい限りじゃん」
 盛んにうなずいてみせる桐子を、逃げ出すなかに入れてもらえなかった洞口が苦々しい顔で見ている。
「まあ、本音をいえば、私もじいちゃんと一緒で本気になった源ジイが、どんな突拍子とっぴょうしもない暴れ方をするか、生中継で見たいだけなんだけどね」
 どういうわけか、桐子は翔太の顔を見ていった。
「わかった」
 和彦が声をあげた。
「ここは公正にみんなで行こう、殴りこみではなく名目上は話し合いとして。その代り、桐ちゃん、翔太君、洞口は離れたところで事の成行きを見ているだけ。そして桐ちゃんのいう、とんでもない状況になったら警察にすぐに連絡する。そういうことにしよう。やっぱり保険はあったほうがいい、よろしく頼むよ、洞口」
 和彦は洞口に向かって頭を下げてから、
「それはそれとして――」
 喉につまった声をあげた。
「先陣を切るのは俺にしてほしい。俺がまず一番に敵のなかに飛びこむ。それを許してほしい」
「先陣はやっぱり和ちゃんよりも、腕に覚えのある源ジイか成宮さんのほうがいいんじゃないんですか。ぼこぼこにされて、へたをすれば和ちゃん、死にますよ」
 怪訝けげんな声を川辺があげた。
「俺は死んでもいい人間なんだ。だからこそ、先陣を切りたいんだ。それが人間としての俺の筋なんだ」
 悲痛な声を和彦はあげた。
 胸があえいでいた。
 息苦しかった。
「例の十月の精霊流しの件だ。話せるときがきたら必ずさいを話すといった、あれだ。あれをこれから俺は話そうと思う。今しか話すときはないような気がするから。生きている今しか」
 しぼり出すような声でいうと「あっ」という声があがった。冴子だ。
「それなら私たちはこのへんで――何かこみいった事情がありそうですから」
 成宮をうながして立ちあがろうとする冴子に、
「冴子さんもとおるさんも、どうかそのままで。これから生死を一緒にする仲間ですから。死地に向かう戦友として俺の話を聞いてください。人非人の俺の話を仲間として。どうかお願いします」
 和彦は深々と頭を下げた。冴子と成宮は互いの顔を見合せていたが、それでもその場にゆっくりと腰をおろした。
「何くわぬ顔で、しゃあしゃあと生きてはいるが、俺は人殺しなんです。それも何の罪もない赤ん坊の命を奪った……」
 かすれた声でいった。
「今から二十一年前。勤めていたアパレル関連の会社が倒産したのをきっかけに、俺と妻のとの間がおかしくなって、みぞができた。それでも貴美子はその溝を埋めるためにと、ある提案をした。子供ができたら二人の間は修復できるんじゃないかと」
 和彦はひざの上のこぶしを握りしめた。
「子供って……」
 ぽつりと桐子がいった。
「それまではお互いの自由のために、子供はつくらないでおこうと二人できめていたんだが、貴美子はそのきめごとを破ってでも、俺との仲を何とかしようと必死だった。俺はその提案に賛成し、そして貴美子は妊娠にんしんした。その直後だった」
 和彦はごくりとつばを飲みこんだ。
 胡坐あぐらをかいていた和彦の姿が、いつのまにか正座に変っていた。
「俺はある人妻と恋に落ちた。その人も家庭環境がうまくいっておらず、俺はその人との結婚を夢見た」
 和彦は奥歯をかみしめた。
「そんな、勝手すぎること」
 桐子が叫んだ。
「そう。桐ちゃんのいう通り勝手すぎる選択だ。そして、そのころ、その人妻も同じように妊娠した。父親が俺なのか相手のご主人なのか、それは今もってわかってはいないが」
 和彦はそのときの状況を詳細にみんなに語った。たったひとつ、恵子けいこの名前だけを伏せて。今になって、恵子を好奇の目にさらすわけにはいかない。それが最低のルールだった。和彦は恵子の名前以外のすべてを、みんなにつつみ隠さず正直に話した。
「俺はその人と結婚をするために、貴美子に離婚を迫った。そのとき貴美子はこういった。子供はどうするの。どうしたらいいのと……ろしたほうがいいと俺はいった。そのほうが第二の君の人生もやりやすくなると――口ではこういったが、子供がいないほうがその人との結婚話はうまく進むと思っていたことは事実だった。俺は利己主義のかたまり、鬼になっていた、人非人だった」
 和彦は両肩を震わせた。
「サイテー、和ちゃんって」
 また桐子の声だ。そんな桐子の声を胸に置きながら、和彦は話を続ける。
 修羅場しゅらばを繰り返した末、貴美子は子供を堕ろし、和彦と離婚した。一人になった和彦は恵子に結婚を申しこんだが、拒否された。他の人を不幸にしてまで、私は幸せになりたいとは思わない――これが一貫いっかんした恵子のいい分だった。恵子も夫の勇治ゆうじと別れることになったが、その時点で和彦との深い関係も断ち切った。
 和彦の話は終った。
「だから、十月のしょうろう流しだったのか。その堕ろした子供のための」
 低い声で洞口がいった。
「堕ろしたのが十月の二十五日だったから。子供の名前は秋穂あきほ……俺が勝手につけた。俺が殺した子だ」
 声が震えていた。
 畳の上に何かがこぼれた。
 涙だった。
 和彦は歯を食いしばって泣くのをこらえた。泣く価値など、ない人間だった。苦しんで苦しんで、苦しみ抜かなければいけない人間だった。いや、人間ではない。鬼だった。鬼は涙など流さない。みんなの前で泣くことなどはもっての外。あまえることなどは許されない。泣くなら一人、あの薄暗い部屋で……。
「その相手の女性の子供は、どうなったの。やっぱり堕ろしたの」
 恐る恐るといった表情で桐子がいた。
「その子は生まれた。秋穂は死んで、その子は生まれた」
 腹の奥から声を絞り出した。そうでもしなければ答えられなかった。
 一瞬、周りが静まり返った。
 重苦しい空気が流れた。
「みんな、かわいそう」
 沈んだ声を桐子があげた。
「みんなかわいそうだけど、和ちゃんもかわいそう。いちばん悪いんだけど、いちばんかわいそう。いちばん……」
 子供のような声だった。
 優しい声だった。
 その瞬間、和彦の体のなかで何かが外れる音が響いた。
 和彦は号泣ごうきゅうした。
 畳に突っ伏して和彦は泣いた。肩を震わせて泣いた。涙が次から次へと流れ落ち、畳にシミをつくった。それでも和彦は泣いた。
「和ちゃん、周りのお客さんが変な目で見てますよ。和ちゃんの気持はよくわかりましたから、そんな子供のような泣きかたは」
 川辺のおろおろ声が聞こえた。
「周りなんぞ、どうでもいい。泣きたいだけ泣かせてやれ。二十年以上、たまりにたまっていた涙だからよ。心おきなく泣かせてやればいいと俺は思うぞ」
 これは源次の声だ。
 それから和彦は十分ほど泣きに泣いた。
 よろよろと体を起こすと、みんなが和彦の顔を見ていた。
「すまない、あまえたような泣きかたをして」
 首を深く垂れた。
「いいってことよ。長い人生だ。誰だって人に話せねえことの一つや二つはあるはずだ。叩けばほこりの出る体が人間ってえもんだ。翔太と桐ちゃんを除けば、こんなかの誰もが埃を体にまとって生きてるはずだ」
 源次の声に翔太がすぐに声をあげた。
「僕だって、人に話せないようなことはあります」
 その声に桐子がすぐに反応した。
「えっ。翔太って人に話せないことがあるの、。じゃあ、私だって」
 宙を睨みつけるように見てから、
「ないかも、しれない……」
 悔しそうな声をあげた。
 が、桐子のこの一言が周囲の空気を穏やかにし、場を和ませた。
「桐子さんは若いから、まだまだこれから。少し年上の私なら」
 冴子が指を折って数え出した。左右の指をすべて折ってから、
「わっ、指が足りない。私ってけっこう、埃まみれの悪女かもしれない」
 はしゃいだ顔でおどけて見せた。
 とたんに隣の成宮が、首をがくっと垂れた。
「そういうことだよ、和ちゃん。むろん、反省するのは大事だが、そんなに自分を追いこむことはねえよ。一人で苦しまねえで、こういうときはいつでも、わしたちに話せばいいよ。和ちゃんの苦しみは、わしたちの苦しみ、和ちゃんの歓びは、わしたちの歓び。何たって、わしたちは仲間なんだからよ。なあ、みんな」
 源次の言葉に、独り身会の面々が次々にうなずく。
「そうだよ。この年になって何でも話せる仲間がいて、一緒になって何かができるなんぞ、素晴らしいことだと俺は思うぞ。俺は独り身会ができて本当に助かってる。ぼうっと生きてるだけの孫のりだけでは、とても間がもたねえからな」
 洞口の言葉に桐子がぷっと頬をふくらませる。
「そうですよ。私もこの半年間、どきどき、わくわくの連続で、まるで青春時代に帰ったような気持になれましたよ」
 嬉しそうにいう川辺の言葉を受けて、
「わしだって同様だ。わしは妻もいなけりゃ子供もいねえ。正真正銘の天涯孤独の身の上だから、独り暮しのさびしさわびしさは身にしみてわかっている。それが……仲間はいい、実にいい、生きるハリが湧いてくる。そんなわしたちのリーダー格の和ちゃんが、生きる気力をなくしてしまってはよ。秋穂ちゃんだって、和ちゃんの気持は充分にわかっていると思う。俺はそう思う。そうにきまっている」
 口べたな源次が、一生懸命しゃべっていた。
「そういってくれると本当に有難い。俺の話をちゃんと聞いて、真面目に受けとめてくれるだけで俺は嬉しい。源ジイのいうように仲間はいい。特に俺たちのような年寄りにとって、仲間は宝物だと思う」
 和彦がそこまでいったところで、冴子が口を開いた。
「私たちはみなさんより、うんと若いですけど、それでも私たちはみなさんの仲間だと思っています。いえ、仲間に入れてもらって本当にうれしく思っています。ねえ、若頭」
 冴子の言葉に、すぐに成宮が口を開く。
「もちろんです。私たちのような者のために、こんなに親身になってくれる人は、そうそうはいません。本当にありがとうございます」
 成宮は畳に額がつくほど頭を下げた。
 同時に独り身会の面々も冴子と成宮に頭を下げる。下げた頭を上げながら和彦が口を開いた。
「みんなが俺を思ってくれる気持はよくわかったが、たったひとつだけ俺のわがままを聞いてほしい」
 和彦は一人一人の顔を順番に見回し、
「最初にいったように、白猟会への殴りこみの際、先陣はやはり俺に務めさせてほしい」
 哀願あいがんするようにいった。
「このにおよんで、まだ先陣って。まさか、まだ死ぬつもりでいるのか、和ちゃん」
 怒鳴どなるような声を源次があげた。
「違う。ことさら死ぬ気は、もう俺にはない。死ぬも生きるも、時の運。今はそう考えている。ただ、先陣の件はずっと俺のなかでは確定していたことで、胸のなかの秋穂にもそれを約束している。だから、これをくつがえすことは……決して死ぬための先陣じゃない。けじめとしての先陣、そういうことだから」
 言葉を選ぶようにして和彦はいった。
かなえさせてあげましょうよ、小堀こぼりさんの先陣」
 賛成の声が飛んだ。
 声の主は翔太だ。
「生意気なことをいって申しわけありませんが。小堀さんはみなさんの様々な励ましで心の部分は納得したようなんですが、まだ体の部分がついていけないんだと思います。その体の部分を納得させるためのものが、先陣。だから、それさえ果たせば、小堀さんは精神面はもちろん、体の面もずいぶん楽になるはずなんです。僕にはそんな気がしてならないんですけど」
 遠慮えんりょぎみではあったが、はっきりした口調で翔太はいった。
「わしにはよくわからねえ理屈だが、頭のいいおめえがそういうんなら、そういうことなんだろうな。なあ、みんな」
 源次の言葉にみんなが一番にうなずく。
「ありがとう、翔太君。じゃあ、先陣の件はよろしく頼む。決して死ぬようなまねはしないから」
 嬉しそうな声を和彦はあげると同時に、桐子が叫ぶように声を出した。
「まるで映画みたいじゃん。ほら、サングラスをかけた、じいちゃん監督の『七人の侍』だったかな。でも、私たちの場合は一人多いのか」
「それをいうなら、八人の侍――これできまり。戦いは私たちの勝ち」
 珍しく、しゃれたことを川辺がいって、この場をうまくまとめた。

 白猟会のアジトは、隣町の外れにある倉庫群のなかにあり、そのうちの使われていない古い建物のひとつを根城にしていた。
 午後の二時少し前。
 和彦たちは、その根城に向かって歩いていた。なんと、洞口、翔太、桐子の三人は頭に頑丈そうなヘルメットをかぶっている。三人に対する源次の厳命げんめいだった。
「硬い物で頭を殴られれば、致命傷になる」
 源次はそういって、和彦たちにもかぶるように勧めたが、冴子と成宮はみっともないからと拒否、和彦もありのままの姿で闘いたいと首を横に振った。
「私がかぶると何となく、ハンバーガーのようなかんじになってしまいますけど……」
 頭に手をあてて悲しげな声を出したものの、結局かぶることにしたのは川辺だ。当の源次はといえば――。
「かぶり物は、武器を手にした多勢を敵にするときの武人のたしなみ」
 こんなことを口にして、戦国武将のくろかんの物をしたという、丼鉢どんぶりばちのような鉄兜てつかぶとをしっかり頭にのせていた。
「しかし、八人が寝返ってくれてよかった。これで敵の人数は三割から四割方は減ったということになる」
 隣の源次に和彦は話しかける。
 例の切り崩しの件だ。
「わしは、もう少しいくかと踏んでいたんだが、ちょっと当てが外れた」
 源次は丼鉢の頭を軽く振る。
 和彦と源次が、白猟会の切り崩しを実行したのは五日間ほど。地元の商店街と隣町の繁華街をとにかく歩き回り、それらしい男を見つけたら二人がかりで路地に連れこむ。そこで源次が金縛りの術を相手にかけて、ドギモを抜く。さらに追討ちをかけるように、今度は十円硬貨を取り出して目の前で折り曲げをやってみせるのだ。
 これで相手の気力は完全にえる。
「俺を敵に回すな、俺の側につけ」
 ドスのきいた声で源次がこういい、このあとを引き継いで和彦が白猟会を抜けるように丁寧に説得をするのだ。
 五日間の切り崩しで、和彦たちが声をかけた白猟会の連中は二十人ほど。そのうちの八人が寝返ったのだから、かなりの成功率だともいえた。
 最後が一昨日だった。
 夜の十時過ぎ、隣町の飲み屋街を左頬に傷痕のある若い男が歩いているのを見つけ、早速源次が動いた。
 男の脇に近づいて右手で相手の左肘の急所をつかんで力を入れた。男の顔が激痛でゆがんだ。そのまま路地裏に引っぱりこんだ。
「てめえ、白猟会のもんだな。俺のことは知ってるな」
 いつも通りの言葉を源次が出すと、男はがくがくとうなずいた。源次は右手をすべらせて男の手首をつかみ、傍らのブロック塀にぴたっと押しつけた。
れんぎょうかなしばりの術――これでてめえの手は、わしが術をとくまでこの塀から外れることはねえ」
 源次の言葉に男は左手を塀から離そうとするが、むろん離れない。男の顔に驚愕きょうがくの表情が浮ぶ。そして源次が印を結ぶ。
『臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前……』
 唱え終るとポケットから十円硬貨を取り出して指に挟み、ぐいと力をいれる。二つに折れ曲った十円硬貨を見て、男の顔がすうっと青ざめるのがわかった。
「俺を敵に回すな、俺の側につけ」
 源次のこの台詞のあと和彦が説得を始めたのだが、この男は一筋縄ではいかなかった。和彦が何をいっても首を縦には振らなかった。
「てめえ、うちの頭とやりあって、一度負けてるじゃねえか。負け犬が偉そうなことをいうんじゃねえぞ、莫迦野郎がよ」
 こんな言葉を源次に投げつけた。
 あの、梅の湯での一件だ。
「あれは負けたんじゃない。源ジイは体の具合が悪くて何もできなかったんだ」
 叫ぶように和彦がいうと、
「ほざけ。何がどうだか知らねえが、その馬鹿野郎が頭に負けたのは確かなこった。それに俺は頭の親衛隊の一人だ。てめえらの側につくはずがねえだろうが」
 男は恐怖に体を震わせながらも、吠えるように叫んだ。
「こりゃあ駄目だ、和ちゃん。こいつは根っからのワルだ。改心しようなどという殊勝しゅしょうな気持はさらさらねえ。刑務所に十年ほどぶちこまねえ限り、心変りは期待できねえ」
 源次の言葉に「そうか」と和彦は答え、
「じゃあ、お前のところの頭に、こういっておいてくれ。明後日の二時、俺たち商店街の推進委員会の六人と、山城組の姐さんと若頭の二人の八人が白猟会の根城を訪れる。これ以上、お前たちが馬鹿なことをしないための話し合いだ。きちんとこれに対応してほしいという旨を頭に伝えてくれ」
 こういって和彦と源次は男を解放した。
 明後日に白猟会に行くというのは、すでに決定済みのことだった。

 八人がアジトのある倉庫群に入りこんだ。
 人気はまったくない。大きな道を挟んで二十棟ほど並んだ倉庫の半分以上が、今はどうやら使われていないようだ。
 さて、この倉庫のどれがやつらのアジトなのか。八人は思い思いの場所に立って辺りをあちこち見回すが、どうにもわからない。
 和彦は、きょろきょろと視線を動かす源次に声をかけた。
「源ジイ、ちょっと話が」
 怪訝な表情で振り向く源次に、
「先日、のんべで話した、俺が恋に落ちた人妻の件なんだが。源ジイにだけは、その相手がどこの誰なのかを知らせておいたほうがいいかと思ってな」
 低すぎるほどの声でいった。
「和ちゃんの恋の話か――聞きたくねえな、そんなものは」
 ぼそっといい、
「人の恋の話ほど、つまらんもんはねえからな。うらやましいだけで、得るものは何にもねえし、それに」
 源次は言葉を切った。
「ダブル不倫をするような女の名前なんぞ、聞いてもな……しかも二十年以上も前の相当埃のかぶった話だからな」
 いってから源次は、ふわっと笑った。
 和彦にはそれが、泣き笑いのように見えた。
 源次はかんづいている。
 不倫の相手が恵子だということを。
 このとき和彦は、そう思った。
「和ちゃん……」
 抑揚よくようのない声を源次が出した。
「死ぬなよ、こんなところでよ」
 やけに明るい声に聞こえた。
 源次はそれだけいって、体を倉庫のほうに戻した。和彦は源次の後ろ姿に、そっと頭を下げた。目頭が熱かった。
 そのとき十メートルほど前方の倉庫の扉が開き、男が一人出てきて和彦たちに向かって手招きをした。あそこが白猟会のアジトだ。八人はその倉庫に向かって、ゆっくりと歩を進めた。
 開けられた扉からなかに入ると、手招きした男の手で扉は再び閉められたが鍵はかけられていない。これならイザというときには翔太たちは逃げられる。そんな思いを胸に和彦は先頭に立って倉庫の中央部に歩く。
 二百畳ほどの広さの倉庫はがらんとしていて、すみのほうに古くなった工作機械や鉄骨の類いが積まれてあった。併設するように小部屋が奥につくられていて、白猟会の連中はどうやらそこにたむろしているようだ。
 その小部屋の扉が開いて、男たちが次々と出てきた。最後に姿を現したのが頭の菱川尽ひしかわじんだ。プロレスラー並の大きな体が一際目立っている。
 総勢二十人ほどだ。
「これ以上あんたたちが無茶なことをしないように、今日は腹をくくって話にきた」
 和彦が大声をあげる。
「話し合いなあ。そんなものは聞く耳持たねえが、嬉しいなあ」
 最前列に出た菱川が笑みを浮べていった。大音声だ。
「俺はそこの冴子が好きで好きで、たまらなくてな。その冴子が俺のふところに飛びこんでくるとは、こんな嬉しいことはねえよな。年寄りどもを全部片づけてから、じっくり抱いてやるから、そう思え。それこそ、腰が抜けるほどいたぶってやるから楽しみにしてるがいい」
 菱川の言葉を聞いた成宮のこめかみの血管が、太く浮きあがるのがわかった、そのとき源次が動いて、いちばん端に立っている成宮と冴子の脇に立った。
「若頭、菱川の料理はあんたにまかせるから」
 思いがけないことを源次は口にした。
「えっ、いいんですか。源次さんが相手をしなくて」
 驚いた口調でいう成宮に、
「俺は一度、あいつとやって負けてるからよ。だからよ」
 照れたような口調で源次は答えた。
「でもあれは、病気のせいで……」
「理由は何であれ、負けは負けだからよ。こういう展開になった以上、菱川を倒すのはあんたの役目だ――好きな女は自分の手で守らねえとな」
 好きな女と源次はいった。
 成宮の耳が赤くなるのがわかった。
「ところで、あのでかい図体を倒す、秘策らしきものはあるのか」
「顔面に渾身こんしんの右のストレートを、ぶちこもうと――」
 すぐに成宮は答える。
「それでは駄目だ。鼻の骨と歯ぐれえは折れるかもしれねえが、ただそれだけであいつは倒れねえ。その間につかまえられて、殴られるか固い床に叩きつけられるかして終りだ。とにかくあいつは、頑丈がんじょうだからよ」
「それなら、背骨ですか」
 喧嘩師らしいことを成宮がいった。
「そうだな。いくら頑丈な大男で筋肉と脂肪で体を守っていても、背骨だけはむき出しの状態で守りきれねえ。簡単にヘシ折ることはできるが、へたをすれば相手は死ぬことになる。よくても半身不随で大事になってしまう。それは避けたほうがな」
「じゃあ、金的きんてきりですか」
 叫ぶように成宮が声を出した。
「それがいちばんだと、わしは思う。ただ、あいつは太股が信じられんほど太い。その股の間に足を差し入れるのは、至難しなんわざだ。そのすきを見出せるかだが」
 心配そうにいう源次に、
「やってみます。何とか隙を見つけて」
 成宮はきっぱりとした口調で答えた。
「よろしく頼む」
 源次は成宮に深く頭を下げた。
「そんな、やめてください。源次さんに頭を下げられたら、私はどうしたらいいのか」
 成宮が上ずった声をあげた。どうやら成宮は源次に対して心を開いたようで、かつてのライバル意識のようなものは、そこにはまったく感じられなかった。
「好きな女を命がけで守る。羨しい限りだの」
 源次はぼそっと口に出す。
「わしにも好きな女がおっての。それも五十年来の好きな女がの。わしはその女が好きで好きで、そのために一生を独り身で過ごしてきたようなもんだが」
 独り言のようにいう源次に、
「源ジイは今でも、その人のことを」
 口を開いたのは冴子だ。
「好きだな。心から好きだな。しかし、こっちを振り向いてくれるのは、まず絶望的。皆無だろうな。しかし、わしはそれでいいと思うとる。実らぬ恋でも、恋は恋。たとえ振り向いてくれない相手でも、わしは死ぬまでその人のことを思い続ける。わしはそれで満足。願わくば、その人のために、自分の術を思う存分に駆使くしして命を張ってみたかったが、そんな機会はな……残念なのはそれだけだの」
 ふっと源次は肩を落した。
「凄い人ですね源ジイは、やっぱり」
 うるんんだ声を冴子は出した。
 ばしっと両手で自分の頬を張った。
「よし、頑張ってよ、若頭。命を張ってを守ってよ」
 発破はっぱをかけるように怒鳴どなった。
「えっ、はいっ――命を張って頑張らせてもらいます、姐さんのために」
 成宮も叫ぶような声をあげた。
 そのとき、菱川の大音声が響いた。
「おい、てめえら。何をごちゃごちゃ喋くってるんだ。俺の話を無視してるのか、馬鹿野郎が」
 どうやら何かを喋っていたようだが、和彦たちの目と耳は成宮たちに集中していて、誰も菱川の話などは耳に入ってないようだ。
「実らぬ恋でも、恋は恋か……やっぱり源ジイは、昭和生まれのサムライじゃん」
 歓声をあげるようにいう桐子の声にかぶせるように「ウオーッ」と菱川がえた。
「桐ちゃんたちは、扉のほうへ」
 和彦が叫んだ。
「やったれや」
 菱川も叫んだ。
 同時に、先頭を切って和彦が飛び出した。
 二十人に向かって突進した。
 源ジイたちがそれに続いた。
 白猟会の面々は、ほとんどが鉄パイプを手にしていたが和彦たちは無手だった。そんなものを手にしていたら殴りこみになってしまう。だから得物は相手から奪う。無謀むぼうな作戦だったがそれしかなかった。
 真先に敵陣に突っこんだ和彦は、顔を殴られて床に転がった。しかし、それでよかった。和彦の目的は先陣を切ることで、相手を倒すことではない。
 源ジイの周りで人がちゅうに舞うのが見えた。
 相変らず源ジイは強い。そう思った瞬間、倒れている和彦の前に、源ジイの手によって相手から奪った鉄パイプが放られた。和彦はその鉄パイプを手にし、めちゃくちゃに振り回した。
 冴子の得物だけは自分の特殊警棒だ。その特殊警棒を手に冴子は敵と互角以上の戦いをしていた。
 投げまくるといっていた川辺の手にも、いつのまにか鉄パイプが握られている。和彦同様、それをぶんぶん振り回している。
 源次の働きは目覚しかった。
 忍法には当然、剣の技もあるようで、奪った鉄パイプを手にして的確に相手を倒している。頑丈な鉄兜のおかげで頭への攻撃は無視。体にあたる鉄パイプは鍛え抜いた筋肉が防いでくれるため、これもほとんど無視。強いはずだった。源次は余裕を持って相手の体に鉄パイプの一撃を加えていた。
 十五分ほどが過ぎた。
 白猟会のほとんどの人間が床に転がって、うめき声をあげていた。残るのは菱川を加えた数人のみ。
 その菱川は成宮と対峙たいじしていた。
 成宮はなかなか、金的蹴りを放つ隙を見出せないようだ。相手につかまらないように、近づいては飛び退さがるという戦法を繰り返していたが、さすがの喧嘩師も、このプロレスラー並の体にはてこずっているようだ。
 菱川も成宮の速い動きは持てあましているようで、両肩で大きな息をしている。
 そのとき、大音声が響いた。
「死中に活――」
 源次の声だ。
 成宮の速い動きが、ぴたりと止まった。
 無防備の状態で、すいと菱川の前に出た。
 菱川の太い右腕がうなりをあげた。
 強烈な右フックが成宮の顔面に飛んだ。
 が、そこには成宮の姿はない。
 菱川の右腕が唸りをあげた瞬間、成宮は床にはいつくばっていた。決していい格好ではなかったが、顔のすぐ上に菱川の股間があった。太すぎる両腿の隙間に、成宮は右手をねじこんだ。金玉があった。ぎゅっと握りこんだ。絶叫ぜっきょうがあがった。
 大きな体がゆっくりと倒れていった。
 放心状態で立ちあがる成宮の下で菱川は口から白い泡を吹いて、ぴくりとも動かなかった。
 そのとき和彦は異様な気配を感じた。
 あの頬に傷のある男だ。
 あの男がポケットから何かを取り出した。
 ナイフだった。
 物もいわずに成宮に突進した。
 放心状態の成宮は気がつかない。成宮と和彦の間は三メートルほど。和彦は、かばうような格好で成宮に飛びついた。同時に、もの凄い衝撃しょうげきを脇腹に感じた。ナイフが深々と和彦の脇腹に埋まっていた。
「和ちゃん!」
 源次の声が響いて、傷のある男が吹っ飛ぶのが目に入った。すぐにみんなが和彦のそばに駆けよった。
「桐ちゃん、救急車」
 翔太が叫んだ。
「大丈夫か、和ちゃん」
 これは洞口の声だ。
 おろおろ顔の川辺の姿が見えた。
「小堀さん、小堀さん、小堀さん」
 泣き出しそうな声を成宮があげた。
 脇にいる冴子の顔は蒼白そうはくだ。
「死ぬな、和ちゃん、死ぬんじゃねえぞ」
 源次の声が耳を打った。
「死なない、俺は死なない、秋穂のためにも俺は死なない」
 ようやく、これだけいえた。
 そうなのだ。秋穂のためにも自分は死んではいけないのだ。自分が生きている限り、秋穂も自分の胸のなかで生きている。でも、自分が死んでしまえば……死ねなかった。死ぬわけにはいかなかった。
 救急車のサイレンの音が聞こえた。
「死なない、俺は死なない」
 声にもならないあえぎを出したとき、見たはずのない秋穂の顔が脳裏に浮んだ。
 澄んだ顔だった。(おわり)