白い犬



 妻に先立たれてから男の日々をなぐさめてくれたのは、一匹の愛犬だった。
「シロ、おいで」
 腰をかがめて声を掛けると、その白い犬は男のふところへと飛びこんでいく。男が両手で受け止めると、犬は嬉しそうに男の顔をめはじめる。
 妻が犬を飼いたいと言いだしたとき、はじめ男は決して積極的とは言えなかった。世話もラクではないと聞くし、生き物を飼うことへの責任もある。子供もおらず、定年を迎えてひまを持て余している身だとはいえ、軽はずみに賛成することなどできなかった。
 しかし、妻の知人の紹介でブリーダーの元を訪れたときのこと。歩み寄ってきたその白い子犬を見た瞬間、男はかみなりに打たれたような衝撃につらぬかれた。
 この子と一緒に暮らしたい――。
「よし決めた。この子をうちに迎えよう。名前は、そうだな……シロにしよう!」
 妻は急に前のめりになった夫に対し、驚くと同時にすっかり呆れた。おまけに勝手に名前までつけて……。
 でも、念願かなって飼えるんだから、まあいいか。
 こうして犬は男の家に迎えられることになったのだった。
 男も犬も散歩を好み、時間ができると一緒に出かけた。
 歩いていると道行く人にじゃれつこうとするのが、犬の困ったくせだった。
「こら、シロ! ダメじゃないか!」
 すみませんと謝る男に、相手はほほみながら、よくこんなことを口にした。
「かわいい犬ですねぇ」
 それを聞くと、男は嬉しくて仕方がなかった。
「ふふ、そうでしょう?」
 ニヤけながら、思わずそう口にする。夫のでき あいぶりに、妻は苦笑するばかりだった。
 その妻が亡くなったときに何とか持ちこたえることができたのも、犬がいてくれたからに他ならなかった。ひどく落ちこむ男のそばで、犬は何も言わずに寄り添ってくれた。彼らのあいだには、強いきずなができていた。
 そんな男がおもしろいものの存在を知ったのは、妻を失った傷がえはじめた頃のことだった。ぼんやりテレビを見ていると、こんな言葉が耳に入ってきたのである。
 ――これがあれば、家に居ながら犬と散歩ができるんです――
 家に居ながら散歩だって?
 その違和感に男は引かれ、テレビに見入った。テロップには「VR」という言葉が出てきていた。
 詳しい話を聞いていると、だいたいのことが分かってきた。
 アイマスク状のディスプレイを装着すると立体的な映像が現れ、まるで本当にその世界に入りこんでしまったかのような体験ができる――そんな技術を「仮想現実」「バーチャル・リアリティー」、あるいは略して「VR」などと呼ぶらしい。そのVRの技術を応用して作られたのが、犬と一緒にバーチャル世界を散歩できる「ウォーク・ザ・ドッグ」という代物のようだった。
「ウォーク・ザ・ドッグ」の使用者は、はじめにディスプレイを装着する。飼い主だけでなく、犬にもつけるのだ。そうすることで、両者は同じ仮想の世界に入っていく。
 次に一緒に、特別製のウォーキングマシンの上に乗る。それは小さな球体が敷き詰められた円板状の不思議なもので、三百六十度、どの方向に歩いても球体が動き、同じところに留まりながら歩行ができるようになっている。
 この二つの装置によって、飼い主と犬は家に居ながら仮想世界を散歩できるというのである。
 犬と遊べるゲームのようなものだろうかと、男は思った。そして、なんだか楽しそうだなとも感じていた。
 いい気分転換にもなりそうだ――。
 男はさっそくその翌日、家電量販店におもむいた。そして目的のものを購入すると、持ち帰って居間のすみえ置いた。
 まずは自分だけで試してみよう。そう思い、男はディスプレイを装着してウォーキングマシンの上に乗った。電源を入れると、目の前にいくつかの文字が浮かんでくる。それは世界中の町の名前で、この中から歩きたい場所を選ぶということらしかった。
 男はコントローラーを操作して、リストの中からニューヨークという字を選択した。
 その瞬間のことだった。
 現れた光景に、男は呆然となってしまった。
 目の前に広がったのは、あまりにリアルな映像だった。それはいつか出張で訪れた、てんろうの立ち並ぶニューヨークの景色そのものだったのである。
 男は思わず頭上を見上げた。すると視線の動きを感知して、ディスプレイの映像もなめらかに移り変わった。高層ビルの窓の連なりを追っていくと、ビルとビルに切り取られた青空が見えた。本物の空とまったく区別がつかないほど、抜群に鮮明な映像だった。
 試しにゆっくり歩いてみると、映像もそれに合わせて進んでいった。向きを変えると、その方向のものになる。
 これは凄い――。
「シロ」
 男はディスプレイを一度外すと、犬を呼んだ。やってきた犬に専用のディスプレイを装着させて、ウォーキングマシンの上に乗せてやる。
 男は自分も再度ディスプレイを装着すると、マシンに乗った。隣を見やると、ニューヨークのど真ん中できょろきょろしている愛犬の姿がそこにあった。
「おまえにも見えるか?」
 男は声をはずませた。
「こんなの初めてだろう? これが彼の有名なタイムズスクエアだ」
 犬は嬉しそうに声をあげると、先にとことこ歩きはじめた。男もその後をついていく。
 英語で書かれた大きく派手な看板が至るところに掛かっていた。ブランドショップやアパレルショップのウィンドウをのぞきながら、彼らは一緒に道を歩く。
 ときどき他の人や犬ともすれ違った。オンラインで世界中のユーザーとつながっていて、空間を共にすることができるのだ。
 男と犬はカーネギーホールの横を過ぎ、近代美術館のほうまで回ったところで散歩を終えることにした。
 ディスプレイを取り外すと当然そこは見慣れた自分の家の中で、たった今まで見ていた景色とのギャップにめまいを覚えた。犬も面食らったようにきょとんとして、しばらくは落ち着かない様子だった。
 けれど一度の体験で、男はこの風変りな散歩のとりこになった。それはどうやら犬も同じだったらしく、やがて装置の周りで行ったり来たりを繰り返し、またやりたそうなそぶりを見せた。
 それからの彼らは、一緒になって何度もバーチャル世界へと繰り出した。
 ロンドン、上海、モスクワ、パリ。
 そうするうちに次第に外での散歩はしなくなり、VRの散歩だけで満足するようになっていった。
「シロ、今日はエジプトに行こう」
 ディスプレイで場所の名前を選択すると、そこはもう ばくの中だ。見渡すと、大きなピラミッドがそばにあり、ギザの大ピラミッドだと説明が出る。
 犬がそちらに駆けていき、高い石段の前で止まった。男は手ごろな段を見つけると、犬と一緒にピラミッドの斜面を上りはじめる。登頂禁止の現実世界のピラミッドでは決してできないことだった。
 段を上っていくたびに、男は足腰に相応の負荷を感じていた。視覚のもたらす効果に加え、敷き詰められた小球体が上下にうねってそうさっ かくさせるらしかった。
 頂上まで来ると、砂漠が遠くまで見渡せた。男は犬と一緒に記念写真を撮影した。
 データは順次アップデートされていき、行ける場所はどんどん増えた。
 世界で最も美しい海岸、アマルフィ。男は犬と共にいし だたみのメインストリートを散歩した。道の至るところに路地があり、細い階段が上へ上へとつづいている。その先ではどう くつのような小さなトンネルが現れたり、バーやショップが現れたり。秘密の迷宮を歩き回っているようで、男は童心に返ってワクワクしながら散策した。
 マチュピチュを散歩したこともあった。犬と一緒に遺跡の間を歩いていると、リャマやアルパカとすれ違う。青空に切り立った山々が美しく、彼らは断崖絶壁に作られた細い橋をひやひやしながら渡ってみたりもした。
 男は犬と一緒に世界中の名所を訪れた。
 チベットの草原を駆けめぐり、アボリジニの居留地を散策し、南極大陸を横断した。
 しかし、年月の経過と共にそんな日々も変化していく。
 犬は次第に年を取り、年々散歩をおっ くうがるようになっていった。やがて自分からは散歩に行こうとしなくなり、じっとしていることも多くなった。世界を旅する体力も、新しいものに触れる気力も、昔のようにはなくなった。
 そんな折だ。「ウォーク・ザ・ドッグ」に新しい機能が追加されたのは。それは専用の機器でユーザー自身が好きな景色をスキャンして、VR上に取りこめるというものだった。
 これにより、人々は思い思いの景色をスキャンした。
 ある人は、桜の舞い散る満月の夜をVR上に再現した。またある人は、沈みゆく夕陽がさん ぜんと輝く夏の浜辺を再現した。
 データはクラウド上にアップされ、公開されたものは誰でも利用することができた。膨大な量の景色が上げられて、それらの情報を独自の観点で整理して、オススメコメントを添えて紹介するキュレーターも現れた。
 そんな中、男がスキャンしたのは家の近所の風景だった。
 かつて一緒に歩いた思い出の景色を見せたなら、犬も懐かしがって少しは歩いてくれるのではなかろうか。歩いたほうが健康にはいいだろうし、このVRの世界なら、もし途中で疲れたとしてもすぐにベッドで横になれる。
 この思いつきは見事に当たった。犬は少しだけ活力を取り戻し、昔のようにときどき一緒に近所の景色を散歩するようになった。
 けれど、その時間も長くつづきはしなかった。さらなる月日の経過によって犬はだんだん老衰していき、歩くのさえもおぼ つかなくなっていった。やがてほとんど寝たきりになり、男は看病にいそしんだ。
 そしてついに、別れの時がやってきた。
「シロ! シロ!」
 男は居間に伏せる犬に呼びかけた。
「ひとりにしないでくれよ! なぁ、シロ!」
 徐々に体温を失っていく犬に、彼はただ無力だった。
 やがて冷たくなったなき がら骸(がら)を、男はいつまでも抱きしめていた。
 飼いはじめてから十三年目の春だった。
 しょう すいしきった男の元に一人の青年が訪れたのは、それからしばらくしてのことだった。青年は「ウォーク・ザ・ドッグ」を開発した会社の社員で、男にある提案を持ちかけた。
「また一緒に、愛犬と散歩をしてみませんか」
 いきなり何を言い出すのかと、男は瞬間的に怒りを覚えた。できもしないことなど口にして、悪ふざけにもほどがある。
 青年はにゅう な笑みを崩さず言った。
「お客様のご利用履歴を元にすれば、在りし日の姿をデータで再現できるのです」
 そこに至り、男はついに限界を迎えた。データで身代わりを作るだなんて、人の気持ちをさか でするのもいい加減にしろ!
 だが、次の言葉で男は揺らいだ。
「もうすでに、データの準備はできています。あとはディスプレイを装着していただくだけなのです」
 それを聞いて、しばらくのあいだ男は黙った。
 いろいろな思いが交錯していた。
 そんなのは、むなしいだけのまがい物だ。
 一方で、それでも犬に会いたい気持ちが湧いてきていた。いや、考えれば考えるほど、男の中でどうしようもなく会いたい気持ちはふくらんだ。
 そしてついに男は動いた。ほこりをかぶった装置のほうへと近づいていき、ディスプレイを頭に装着したのである。
 映っていたのは、見慣れた近所の景色だった。
「シロ……?」
 少し経ち、男はようやく絞りだすように声を出した。
「シロなのか……?」
 男の隣には白い犬が座っていた。呼びかけると、ワン、と元気いっぱいの声で鳴いた。そしてとことこと道を駆けだし、少し先で立ち止まって男のほうを振り返った。
 男の視界はゆがんでいた。歪んで歪んで止まらなかった。
「シロ!」
 男は愛犬のあとを追った。
「待ちなさい!」
 まるで時間が巻き戻されたようだった。止まっていた時間が再び動きだしたようでもあった。
 その日から、男は毎日、犬との散歩を楽しんだ。
 もう世界中を旅しようとは思わなかった。家の近所を収めた景色。その単純な散歩コースが、男にとって一番安らげる場所だった。
 歳月は、あっという間に過ぎていく。
 男もずいぶん年をとった。ひざを悪くし、もう長いあいだ犬との散歩もしていなかった。
 しかし、男は幸福だった。 に座り、これまでの散歩が記録された数々の動画を見ているだけで十分だった。
「シロ、あのときは楽しかったなぁ」
 男はひとり、画面に向かって話しかける。
「覚えてるか? 初めてニューヨークに行った日のこと」
 男は微笑む。
「挙動不審に、一緒にあたりを見回したっけ」
 答えるように、画面の中で犬はワンと一声鳴く。
 そしてやがて、男も天に昇るときがやってくる。
 ベッドに伏せり、最後の瞬間までシロ、シロ、と男は呼びつづけていた。あるいは男の目には、本当に犬が映っていたのかもしれなかった。彼のことを迎えに来た、自慢の白い愛犬が――。
 男が息を引き取ったあと、彼の家は業者によって片づけられた。据え置かれたあの装置も持ち出され、はい された。
 男や犬が生きたこん せきは、この世からきれいさっぱりなくなった……かのように思えた。
 しかし、実際のところはそうではなかった。
 あるとき、ひとりの女が愛犬を連れて「ウォーク・ザ・ドッグ」の中を散歩していたときのことだ。彼女たちは、誰かが作った散歩コースのプレイリストを適当に選んで散歩するのが習慣だった。
 その日、目の前に現れたのは特段めずらしくもない、どこにでもありそうな町の風景だった。けれど、なんだかそこに住む人の息吹が伝わってくるようで、歩くうちにだんだん心が弾んできた。
 そのときだ。道の向こうから、誰かが歩いてくるのが目に入った。
 それは白い犬を引き連れた老人だった。
「かわいい犬ですねぇ」
 すれ違いざま、女は彼らに微笑みかけた。
 老人は穏やかな笑みを顔に浮かべた。そして女にじゃれつこうとする犬をたしなめながら、彼女に応えた。
「ふふ、そうでしょう?」
 やがて老人は会釈をし、名残惜しそうな犬に声を掛けて再びゆっくり歩きはじめた。
 女はそのうしろ姿をしばらくのあいだ眺めていたが、彼らが角を曲がって見えなくなると自分の犬を促して、夕暮れ時のいつもの散歩へと戻っていった。
                      (完)

 インスパイアを受けた方
  ・happinessさん
  (お題「犬の散歩世界大会」)