八人の侍・中

 
 源次げんじのくるのを和彦かずひこは待っている。
 仕事が終り次第『小堀こぼり塾』のほうにけつけると源次はいっていたが、まだ姿を見せない。『鍼灸しんきゅう院』は朝の十時から夜の七時までやっているが、閉院時間をすでに四十分ほど過ぎていた。
「先生、羽生さんは、本当にきてくれるのか」
 唇をとがらせぎみにして声をあげたのは、弘樹ひろきだ。
「僕たちのことなんて、忘れちゃってるんじゃないの」
 これは隆之たかゆきだ。二人とも落ちこぼれの不良予備軍だ。
「源ジイの治療院は個人営業だ。閉院ぎりぎりに患者がきても断ることなどは無理だ。おそらく、どこかの年寄りが、腰が痛くてたまらないとか何とかいって、駆けこんできたんじゃないかと俺は思うぞ」
 和彦は明るくいうが、急患きゅうかんではなく例の発作がもし起きているとしたら……くるのは当然無理ということになるが、しかしケータイには何の連絡も入っていない。それなら、そろそろと考えていると、入口の扉が開く音が聴こえた。とたんに、弘樹と隆之の顔がぱっと輝いた。
「悪い、悪い。終りがけに急に――」
 頭をきながら入ってくる源次の声にかぶせるように、和彦は声をかける。
「どうせどこかの、な年寄りが、腰が痛いだの何だのといって押しかけてきたんだろ」
「腰痛は腰痛なんだが、今夜押しかけてきたのは大竹おおたけ豆腐店の仙市せんいちじいさんでな。こうなると、じっくり療治をな」
 首を振りながらいう源次に、
「仙市さんがきたのか。それで腰のほうは良くなったのか」
 和彦は思わず大声を出す。
「痛みはどうにか治まったが。しかし、しばらくするとまたぶり返すだろうな。何たって、もうかなりの年だからよ」
「そうか、そういうことか。となると、何とか大竹豆腐店の後継者問題を解決しないとな。源ジイの腕の見せどころだな」
 笑いながら源次を見る。
「例の話か。あれは、もう少し考えさせてくれよ。有難ありがたい話ではあるんだけどよ。それよりも、この二人が和ちゃんのいっていた、不良予備軍か」
 じろりと源次が二人を見る。
「大きいほうが弘樹といって中学二年、小さいほうが小学六年の隆之で、二人とも強い人間にあこがれている。だから、お前にきてもらった。何か技でも見せて、そのあとに少しちゃんとした話でもしてやってくれ」
 和彦の簡単な紹介を受けて、弘樹と隆之は神妙しんみょうな顔つきで源次に向かってぺこりと頭を下げる。
「そうか、弘樹に隆之か――技を見せるのは得意だが、ちゃんとした話というのはというか苦手というか」
 いいながら源次は、手振りで二人を立たせる。
「じゃあ、隆之はまだ体が小さいし無理だろうから。弘樹、わしをなぐってみろ。思いきり力を出して」
 最初から荒っぽいことをいい出した。
「あの、殴ってみろって、どこを殴ればいいんですか。本当に思いきり殴ってもいいんですか」
 弘樹の身長は百七十五センチほど、鍛えでもしているのか体もまっていて筋肉質の体型だ。
「顔でもボディでも、好きなところを殴ればいい。わしを、ぼこぼこにするつもりで殴れ。死物狂いでやれ、ちゃんとした不良予備軍ならよ」
 命令口調の源次の言葉に弘樹がようやく動いた。思いきり左右の拳を源次のボディにたたきこんだ。素人にしては珍しく、肩も腰も入った突きだったが、むろん鉄の筋肉でおおわれた源次の体はびくともしない。
「そんな程度か」
 笑みを浮べる源次に、弘樹はむきになったように左右の連打をあびせるが源次はすずしい顔だ。鼻歌でも出てきそうな顔だ。
 弘樹の戦法が変った。今度は左右のパンチが源次の顔面をおそった。しかしこれも、ほとんど効かない。源次は上手に顔を振って弘樹のパンチを受け流している。
 弘樹の手が止まった。
 肩で大きく息をしている。
 汗だらけの顔には信じられないという表情が、はっきり浮んでいる。
「ボクシングでも少しかじったんだろうが、日本古来の古武術の突きは、そんなもんじゃねえ。体中の力を肩の旋回せんかいによって増幅させて腕に伝え、さらに突きを出す瞬間しゅんかんに軸足の裏で大地をる。これでさらに力は増幅されて、受けた相手は一発で沈む」
 何だか難しいことをいい出した。
「言葉だけではわからんだろうから、実際にやってみるので、よく見てろ」
 いうなり、源次の体がしなり、肩の部分がわずかに回ったと思った瞬間、右の突きが宙に繰り出された。びゅっという風を切る音と、ずしんという重い手応え。
「ついでにやれば――」
 源次の右足が、ものすごい速さで繰り出された。風を切るというより、つんざくような音が響いた。鋭くて重い蹴りだった。和彦は源次の蹴りを初めて見た。空気が打ち抜かれた気がした。すさまじい蹴りだった。
「わしの渾身こんしんの突きが顔面にきまれば骨は砕けちるし、わしの渾身の蹴りが水月すいげつにきまればあばらは折れ、内臓はれつして相手は死ぬ。だから、わしは渾身の突きと蹴りは封印して一度も使ったことがねえ」
 源次はにまっと笑ってから、
「もっとも、わしは足が短いから相手の上段にまではとどかんけどよ」
 ほんの少しくやしそうな顔をした。
 弘樹と隆之はといえば――。
 二人とも口をぽかっと開けて、源次の顔を見つめつづけている。相当ドギモを抜かれたような顔だ。
「突き蹴りはこんなもんだの。まあ、二人とも座れ」
 源次は二人を座らせ、自分もその前に座る。三人とも胡坐あぐらである。和彦は少し離れて座り、三人の様子をじっくりと見る。
「あの、突きや蹴りの他に、投げなんかもできるんですか」
 恐る恐るといった様子で弘樹が訊いた。
「投げかい。いろいろあるなあ、投げにもな。たとえばよ」
 胡坐をかいたまま、源次の右手がかたわらの弘樹の左手首をつかんだ。
「しっかりと、踏んばれ」
 まず声をかけてから、つかんでいる右手の掌底しょうていの部分で弘樹の手首を、とんと突くようなぐさをした。瞬間、弘樹の手首がくの字になり、源次はひねりを加えてりあげた。弘樹の体がふわっと浮いた。源次の手が空中でを描いた。これを源次は一瞬でやった。
 弘樹は一回転して背中から床に落ちた。
 手首は逆にきめられ、弘樹は身動きもできない。
 なんと源次は座ったまま、しかも片手だけで大柄な弘樹を投げたのだ。
 手首を離して弘樹を自由にさせてやり、
「手首は痛まないか、大丈夫か弘樹」
 源次は優しく声をかける。
「大丈夫です、何ともありません」
 とうわずった声でいう弘樹は胡坐ではなく、神妙な面持ちで正座をしていた。隆之も同様だ。
「あの、他にはどんな技が……」
 しばらくの静けさのあと、今度は隆之が訊いた。
「他にか……そうだな、なんせ技の数は数百にもおよぶからの、はて、どんな技を見せたらいいのかの」
 宙を見上げる源次に、
「数百も技の数が……」
 あっにとられた声を弘樹が出した。
「あれはどうだ、源ジイ。金縛かなしばりの法は」
 すかさず和彦は声をあげる。
「あれか」といいつつ、源次はまた弘樹の右手をつかんでてのひらを床に押しつけた。
連行れんぎょう金縛りの術」
 ぼそりといって「立ってみろ」と源次は声をかけるが、弘樹の掌は床にくっついたまま離れようとしない。びくともしない。
「わしが術を解かない限り、弘樹は一生この床に手をくっつけたまま暮すことになるな」
「ええっ、こんなこともできるんですか」
 心配して頭を抱えるかと思ったら、感激したような声を弘樹は張りあげた。
「こうすれば離れるから、大丈夫じゃけどな」
 掌の上を源次の手が叩き、弘樹は床から解放される。
すごい技ですね。武術というより、忍者の技のようですね。凄すぎますね」
 上ずった声で弘樹は忍者といった。
 あっという表情で、源次が和彦の顔を見る。
「源ジイの会得した技はいちほうげんりゅうという、平安時代に生まれた古武術だから、こうした不可思議な術も伝わっているんだな」
 もっともらしい解説をする和彦に、
「何だか難しくて格好いい流派だな。ところで平安時代って今からどれぐらい前になるんだ、先生」
 初歩的な質問を弘樹がした。
「大体千年ほど前だ――弘樹、それぐらいは覚えとけよ。それから、鬼一法眼というのは人の名前でな、こういう字を書いてだな」
 和彦は床にゆっくりと指で字を書き、
「牛若丸も手ほどきを受けたという、天狗てんぐの化身ともいわれている人物だ」
 おおざっなことをいった。
「鬼一法眼流は天狗の化身なのか――だから不思議な術が伝わっているのか」
 弘樹は一人で納得している。
「なら、このあたりで源ジイ。何かためになる話を二人にしてやってくれ」
 話を源次に振った。
「ためになる話って、いわれてもなあ。わしは理論立った話というか、しゃっちょこ張った話というか、そういった話は……」
 口のなかでもごもごいいながら、
「お前らは不良予備軍ということだが、わしは不良が嫌いではない」
 ようやく話し出した。
「何を隠そう、わしも高校時代は不良で番を張っていた。毎日が喧嘩けんかの明け暮れじゃった」
 とたんに弘樹と隆之の顔が、ぱっと輝く。
「じゃが、不良をやってもいいのは精々が二十歳ぐらいまでで、それをすぎても肩を突っ張らせておる連中はだと、わしは思うておる。社会に出たらきちんとせいぎょうにつき、不良でつちかってきたものを生かす。それが本当のともいうべきものじゃ。わしは難しいことはわからんが、これはけっこう、的を射た言葉だと思っている。わしの武術の師である爺様はよくこんなことをいっておった。チンポも立たず、もひらず――そんな人間だけには絶対なるなと。まあ、そういうことじゃ。こんなところでいいかいの、和ちゃん」
 情けない顔でちらっと和彦を見てきた。
「いい、いい。実にいい」
 和彦は大きくうなずき、両手を叩いた。
 すぐに弘樹と隆之の二人もそれにならい、三人の拍手は、しばらくりやまなかった。
 源次はすずめの巣のような頭をかきながら、照れた表情を浮べていたが万更まんざらでもない様子に見えた。
「よし、じゃあ二人はもう帰れ。俺はこれから源ジイと大事な話があるから」
 和彦は声を張りあげた。
「ええっ、もう帰れって。もう少し鬼一法眼流の技が見たいよ。なあ、隆之」
 弘樹が異議を唱え、隆之に同意を求めた。
「そうだよ、もっと羽生さんの技が見たいよ。せめて、あとひとつぐらいは見たいよ。そうしたら帰ってやってもいいよ。あとひとつぐらい凄い技を見せてよ」
 隆之が叫ぶようにいった。
「あとひとつなあ……」
 和彦は独り言のようにいい、
「じゃあ、あとひとつだけ。それが終ったら、ちゃんと帰るな」
 念を押すように弘樹と隆之にいい、二人もそれに素直にうなずく。
「じゃあ、源ジイ。しょう君のいっていたアレをやってくれないか、十円玉の――俺もこの目でそれが見てみたい。そして、気の話を二人にしてやってくれ」
 十円硬貨の折り曲げだ。
 和彦はあれが見たくて仕方がなかった。
「わかった。やってみるべ」
 妙なアクセントで源次はいい、
「二人のうち、十円玉を持っているやつはいるか」
 十円硬貨を二人に求めた。
 すぐに弘樹がポケットから出して、源次に手渡した。その硬貨を右手で握りしめ、源次は背筋をぴんと伸ばして何やら口のなかだけで呪文のようなものを唱え出した。忍者が印を結ぶときに口に出す言葉だ。しかし、二人に聞かれるとまずいと思ったのか、口のなかだけだ。
「なら、やるべ」
 源次は右手の人差指と中指の腹で十円硬貨をつまみ、真中に親指をそえてそくを整えた。
 ぐいと三本の指に力を入れた。
 瞬間、硬いはずの硬貨がきしんだ。
 折れ曲がった。
 声にならない悲鳴があがった。
「何それ、何が起きたの、羽生さん!」
 わめくような声が隆之の口から出た。
 弘樹はぼうぜんしつで声も出ないようだ。
「話には聞いていたが、凄いなこれは……」
 かすれた声を和彦は出した。
 信じられないものを見た思いだった。
「これがだ――」
 ぽつりと源次はいった、
「気とは大宇宙にただよいんの力。この気を自在に操ることができれば、化物じみた力を出すことができる。いわば火事場のぢからじゃが、この気という代物、真直ぐな心の持主の許にしか降りてきてくれぬ清浄な力といえる。この気の力の有無が、スポーツと武術の最大の違いといえるな」
 おごそかな声で源次はいい、
「なら、約束通り、お前たちは帰れ」
 りんとした声でいい放ち、折れ曲がった十円硬貨を弘樹に渡した。
 名残り惜しそうだったが、弘樹と隆之は立ちあがって出入口に向かった。二人で何やら話しながらドアの前で振り返った。
「羽生さんのその技を、俺たちに教えてもらうわけには……」
 弘樹が上ずった声でいった。
「本人はなかなか、うんといってくれないが、それも含めて、これから源ジイと話をするつもりだ」
 和彦の声に二人の顔がぱっと輝く。
「よろしく、お願いします」
 二人同時に頭を下げた。
 こんな謙虚けんきょな二人の様子は初めてだ。
「おう、二人の気持は源ジイも必ずわかってくれると、俺は信じている」
 和彦の言葉に、弘樹と隆之はまた頭を下げて部屋を出ていった。

 二人の気配がなくなってから、
「そういうことだ、源ジイ。みんな源ジイの技を習いたがっている。あの二人の気持は、世の中のワルの大方の気持だと俺は思っている。むろん、技だけ教えるのでは意味がない。術を教え、心を教え、まっとうに世の中を渡っていけるようにするのが俺たち大人の役目だ。若い者に頑張ってもらわないと、この商店街はもたん。いや、ここに限らず日本がもたなくなる。おおなようだが、俺は心からそう思っている」
 んで含めるように和彦はいった。
「ううん」と源次はうなっている。
「ワルの性根を叩き直して、まっとうに生きられるようにする。そして、できればそのなかから、この商店街の役に立つ人間を育てあげる。たとえばさっき話に出た、大竹豆腐店の後継者を担ってくれるような人材をだ。むろん、容易な仕事ではないのは、百も承知だ。脱落する若者も出るだろうし、反発する若者も出てくるだろう。しかし、やってみる価値は充分にある。羽生源次による、古武術道場の開校だ。ワルには昔ワルだった、お前をぶつけるのがいちばんだ」
 身を乗り出すようにして和彦はしゃべる。
「ワルには、ワルなあ……」
 ぼそっと源次はいい、
「だけどよ。前にもいったように、わしは実戦は得意だが、人に物を教えるというのが大の苦手でよ。和ちゃんだって知っとろうが、俺の頭の悪さはよ。それに技の数は数百……そんな数の技を、いったいどこからどうやって教えていけばいいのか。それが、わしにはわからんのじゃが」
 うなだれてしまった。
「だから、そのあたりは俺に任せてもらえばいい。源ジイの技を段階的に整理して、どう教えていったらいいのかは俺が考える。何といっても俺は、そっちのほうのプロだからな、心配はいらん」
「それは、そうなんだけどよ」
 なぜだか源次はえきらない。
「ワルを更正させて商店街の役に立たせると同時に、源ジイが学んできた大切な木曽流の忍法の術をここで絶やさずに、伝えていくことができるんだぞ。まさに一石二鳥、こんないいことはないと俺は思うが」
 発破はっぱをかけるように和彦がいうと、
「その、木曽流忍法を伝えるという部分――そこのところがよ」
 押し殺した声を源次が出した。
「そこのところに、何か困った点でもあるのか」
 源次のいっている意味が和彦には、わからなかった。
「和ちゃんも知ってる通り、俺の体はよ。がんにむしばまれていて、いつ死ぬかよ。そこのところがよ……」
「そこのところが、どうしたっていうんだ。俺には源ジイのいってることが、さっぱりわからん」
 和彦は声を荒げた。
「わしの技を習得するには、初歩の段階でも三年ほどかかる。その間にもし、わしが死んでしまったら、習っている連中に申しわけが立たなくてよ。せっかく意気ごんで一生懸命やっているワルたちをせつさせるようでよ。ワルにはけっこう、な部分があるからよ。それがわしにはな」
 ようやくわかった。
 源次は、自分が死んだときのことを心配しているのだ。律義なのだ、源次は。じゅんしんといってもいい。その無垢な心が、何十年にもわたってけいのことを……。
「源ジイ」
 和彦は、できる限り柔らかな声を出した。
「死んでしまえば、それで終り。そんなことまで考えなくてもいいんじゃないか。源ジイが死んで道場がなくなったとしても、誰も源ジイを恨まないし、それまでの成果は必ず残るはずだ。もう少し自分勝手に、大雑把に生きてみたらどうだ」
 さとすようにいった。
「自分勝手に、大雑把に……」
 独り言のように繰り返す源次に、
「そうだ。そんな生き方では、辛いだろ」
 しみじみとした口調で、和彦はいった。
「辛いな、確かに辛い」
 低すぎるほどの声を源次は出した。
 何となく湿しめった声にも聞こえた。
「それにな。死ということをいえば、俺だって死というものと常に一緒に生きてきた。死んだほうがいい人間だと常に思っていた、生きる価値のない人間だとな」
「ああっ……」
 いきをもらすような声を源次はあげ、
「そういえば、先日の集まりのとき、和ちゃん、そんなことをいってたな。俺はいつ死んでもいい人間だと。いや、死んだほうがいい人間だと」
 視線を床に落していった。
 両肩も落ちている。
「そうだ。癌でいつ死ぬかわからん人間と、死んだほうがいい人間……いい取り合せだな。もっとも俺のほうは、あくぎょうの末の勝手な結論だけどな……」
 そう、悪業の末の勝手な結論。
 あの、みんなで『のんべ』に集まったとき、自分は……。(つづく)