第四章 直 視(承前)
「あなたは小倉さんが自殺するはずない、と思っていらっしゃる。そうですね?」
「そのことでしたら先日お話ししました」
「ええ、確認です。私も自殺ではないと思います。彼女は亡くなる当日、道端に立って、通過する近鉄電車に乗る女子高校生に手を振り、ガッツポーズのようなしぐさを見せました。その女子高生はそれを自分へのエールだと思い、夢に挑戦する気になった。二人は直接会ったことはないのですが、小倉さんが幾度か手を振る姿を見ていたからです。小倉さんが生まれ育った実家のすぐ側を、山陰線が走っています。レールの響きを聞いて育ち、通過する列車を見るのが大好きでした」
慶太郎は言葉を切って、タブレットの画面に目をやる。
『みんなそれぞれに行き先があり、目的がある。喜怒哀楽、いいところ、悪いところ、きれいなところ、みにくいところ、人間のすべてが鉄の箱に入ってるって感じが好き。
どんな人が、何を思ってどこに向かうのかを想像していると時間を忘れてしまう。由那ちゃんは電車が好きやね、と祖母がミルキーをくれる。だからか、いまも電車が通り過ぎるのを見ると、甘いミルクの香りがしてくる気がする。
これまで人生の岐路、ちょっと大げさか。大事な選択をしなければならないとき、必ず電車に向かってすることがある。
あの不特定多数の、喜怒哀楽の大きな魚に、手を振る。自分の決心が揺らがないように、誓いを立てる。
進学も、就職も、引っ越しもそして恋も……。だからといって願いが叶うこともなかったけれど、私にとってそれは一種の信仰のようなものだったのかもしれない。自分で自分の背中を押す儀式なんだ、きっと』
と読み上げ、慶太郎はタブレットから顔を上げた。
「小倉さんの日記の一文です。子供の頃は山陰線、そしてこの町では近鉄線を走る列車が『不特定多数の、喜怒哀楽の大きな魚』だった」
「大きな魚……由那さんらしい表現です」
「そうですね。実際に小倉さんが見た風景を見に行くと、ちょうど緩やかに蛇行する列車が泳ぐ魚に見えなくもない。私も詩が好きなんで、いい比喩だと感心しました。つまり、進学や就職、引っ越しなんかの節目、自分が何かを決心したときに小倉さんは、大きな魚、つまり線路を走る列車に手を振ってきた。それはさながら一種の信仰、自分で自分の背中を押す儀式だったんです。今回は、手を振るだけじゃなくガッツポーズをしてみせた。ではどういう決心だったのかが、やはり問題になる」
次に慶太郎が取り出したのは、前回も二人に見せた由那のメモだ。
「このメモこそ、その決心を明らかにしたもので、遺書ではない。そして平岡さんに宛てたものであろうことは、この間も言いました。推測の続きはまだあります。あの日、小倉さんは調理場でこのメモを書いた。そしてあなたに見せた」
「いえ、私は見てないです」
真理子は激しく首を振る。
「仮定の話です」
「いくら仮定でも、不愉快です、そんなこと」
鋭い口調で言って、隣の正太をちらっと見た。
正太は腕を組み、への字口で目を閉じている。
その様子に助け船を出してくれそうにないと判断したのだろう、慶太郎を睨み、
「私、見たものを見てないなんて、言いません。まるで私が殺人犯であるかのような仮定の話は、聞きたくない」
と言った。真理子の胸は上下し、息づかいも荒かった。
「殺人犯だなんて言ってません。だって死んでしまうなんて、あなた自身、思いもしなかったんですから」
「な、何をおっしゃってるんです」
「彼岸花の毒で死ぬのは害虫くらいでしょう。モグラ除けにはなっても、人は殺せない」
「帰ります」
真理子が正太の腕に触れた。
正太は、やはり目を閉じたままで反応しなかった。
真理子の視線が、正太と慶太郎の顔を落ち着きなく行ったり来たりする。そのうち何かを悟ったのか、深呼吸して座り直した。
「また私を裏切るんですね」
と真理子がつぶやくと、正太が目を見開いた。
「また……?」
正太は顔を真理子に向ける。
「結局、ブランド化の夢もあんなことになったし、いまも」
「すまんと思てる。けど、僕はどうあってもあんたの味方や。いや、あんたの家族の味方や。守る。守っていく」
正太はくしゃくしゃな顔で、半分泣き声だった。
「そんなこと、信用できません」
「先生、何とか言うてくれ。僕がほんまに、ほんまに本気やっていうことを」
正太は組んだ腕を解き、テーブルに手をついて身を乗り出す。
「平岡さん、名田専務はあなたのお子さんの面倒を見ると私に宣言されたんです」
正太の態度を見ていて、真理子への思いが分かったと、慶太郎は説明した。その上で、もし真理子が子供たちの面倒を見られないことになったら、どうするのかと問うたのだ。
「その返答が、いま専務が言ったことなんです。平岡さん、あなたのおっしゃったブランド化の夢。それについても、専務はちがうやり方で実現しようと奮闘されている」
「別のやり方?」
「親父の提案なんやけど」
農家が、出荷時点でふるいにかけて廃棄にまわす作物で、病院補助食が実現できそうだ、と正太は言った。
「実現できそう……」
真理子の顔がゆがんだ。
「平岡さん、あなたの心配はお子さんのことだ。名田さんはあなたの返事にかかわらず、責任を持つとおっしゃっている。心の荷物、下ろしませんか」
「…………」
「これを見てください」
慶太郎は、円山に宛てた封書から便せんを引き抜き真理子に渡す。
真理子は何も言わず、便せんに目を通す。
「小倉さんは、あなたという師と出会い、料理を習うことで自信を持った。そして、新しい世界に飛び出そうとしていたことが分かります。ただその前にあなたに恩返しをするつもりだった。『いまのお店のひときわ厳しいルールでは、大手を振って取り組むのは難しい状況です。私は、なんとかそれが上手く行くよう協力したい。さんざん悩みましたが、厳しいがゆえに、使える食材も多く、食品ロス問題を解決する一つの方法として、実験というスタンスで取り組みを許してもらえるよう店長を説得するつもりです』。これをどう思います?」
「私の夢を、応援してくれているんだと……」
「応援? それだけじゃないでしょう? 小倉さんは、大手を振って食材の二次使用ができるよう、店長を説得しようとしていた」
ビクッと真理子の眉が動き、激しく瞬いた。
「この手紙を読んで、私の仮説は正しいと確信した。それを話してもいいですか」
その言葉に、真理子は反対せず、便せんをテーブルの上に戻す。
「小倉さんは師であるあなたに、あのメモを渡した。メモを読んであなたは食材の二次使用を店長に告発すると受け取った。店長に知られれば、当然熊井氏との仕事は白紙となる。これはあなたにとって一大事だった。何としてでも店長への進言だけは阻止したい。しかしまっすぐな性格の小倉さんが、一度決心したことをすんなりやめるとも思えなかった。とにかく今日一日だけでも延期できれば、専務と善後策を話し合えると思ったのでしょう。以前小倉さんが、モグラ除けの殺虫剤を作るとき、彼岸花の球根をすり潰す作業で手を腫らしたことを思い出した。そして、それをうまく飲ませることに成功した。強い毒でないことを知っていたあなたは、気分が悪くなるか、お腹が痛くなるくらいで済むと思っていたんです」
慶太郎は一息入れ、真理子を凝視した。
真理子が唇を噛むのを見て、
「唇を噛みましたね。本音が出るときのあなたの癖です」
と指摘した。
「そんなことは」
また噛みかけてやめた真理子の唇が震えている。
横の正太はさっきから貧乏揺すりが激しい。正太が苦しんでいるのは分かっている。慶太郎の推理を話して聞かせたときも、涙を流しながら、自分の不運を呪っていた。結婚したい人がいると打ち明けた日から、両親の顔つきが明るくなったのだそうだ。期待が膨らんでいるのを感じ、それが一気にしぼむのが怖いと嘆いた。
「予想に反して、小倉さんはアナフィラキシーショックによる気道閉塞で帰らぬ人となった。そして内側から施錠されていたために、自殺が濃厚と判断された。私は担当刑事に内側から鍵をかけるつまみ、サムターンの指紋を確認しました。最後につまみを回したのは、小倉さんで間違いないのかと。すると小倉さんの人差し指と親指の指紋が鮮明に残っていたという。他の者が手袋をはめて、つまみを回した痕跡はなかったのだそうです。この意味、分かりますか」
真理子はゼンマイが切れかかった人形のように、ぎこちなく首を左右に振る。
「簡単なことです。密室にしたのは小倉さん本人だったということです。あなたは毒を飲ませて、時間稼ぎをしたかった。苦しんでいる小倉さんの姿を誰かに発見されたら困る。そう思って中から鍵をかけさせたんです。そこで利用したのが、ストーカーの存在だ。気分が悪いと言い出した小倉さんに、ストーカーの姿を見たから中から鍵をかけたほうがいいと言って、部屋を出たんじゃないですか。そして小倉さんは、あなたの言う通りにした。毒を飲まされたと知らず、最後まで師の言いつけを守ったんです。小倉さんは、あなたのために店長へ実験というスタンスを提案しようとしていた。そう手紙に書いています。おそらくクビになることも覚悟してたでしょう」
そう言って慶太郎が見たのは、眉を寄せうつむいた正太のほうだった。奇しくも、正太は店長に同じような提案をしたらしい。由那がどれだけ勇気を振り絞ったのかが、痛いほど分かるはずだ。
「健気な弟子だ。それに対してあなたは弟子の夢を奪ったとんでもない師匠だ」
「由那さん……」
真理子は隠すことなく強く唇を噛んだ。
「先日、私が自殺ではなく犯人がいる、と言ったときあなたは、留守中家の中のものが動いている気がすると由那さんが怖がっていた、という話をしましたね。そんな重要なことを、あなたは警察の聴取で一切触れてない。担当刑事は初耳だと驚いてましたよ。あなたが聴取されたのは、由那さんが自殺か他殺か判然としない状況だったときです。自宅に侵入されたかもしれないという重要なことを、警察に話さないなんてあり得ません。そのときは、自殺で処理されるものと思っていたから言わなかったんだ」
「わ、忘れていたんです」
「いいえ、それだけじゃない。あなたは苦し紛れに最後の手段に出てしまった」
「最後の手段だなんて」
「あなたはストーカーを犯人に仕立てようとした。他人に罪を被せようとしたんだ」
「………」
「平岡さん、私は精神科医として見過ごせないんだ。安全圏に身を置こうとした行為で、かえって心の重荷を大きくしてしまっていることを。もうこれ以上、荷物を増やしてはいけない。あなたの身のために」
「私の身の……でも私がいなくなったら」
「平岡さん、お子さんのことは専務が責任を持って面倒見てくれる。そのご厚意に甘えてみてはどうですか」
「……そんな、そんなことが許されるんですか」
真理子の肩が震えていた。
「かまへんで、甘えてくれて。いや甘えてほしい。親父にもちゃんと話す。もう逃げへん。それにさっき言うた農家さんとの契約で、病院補助食の冷凍食品会社を興すことも、認めてくれてるんや。そやからあんたが戻ってきたら、一緒にやりたい思てる。早く戻ってきてくれんとブランド化できひん」
正太は少年のように作業着の袖で涙を拭いた。
「名田専務」
真理子がハンカチを差し出す。
正太はハンカチと一緒に真理子の手を包み込んだ。
真理子は意を決したのか、正太の手を優しくほどき慶太郎に向き直った。
「先生、先生のおっしゃった通りです。私は、メモを見せられて頭の中が真っ白になってしまいました。私は井東サワさんに出会うまで、これといって何の取り柄もない女でした。夫が他に女性を作って出て行き、ますます自信をなくして、ただ子供の成長だけが……。けど、サワさんから『あんたの舌はこの上なく上等や』と褒められ、作った惣菜がみるみるうちに売れていくのを見て、胸がドキドキするのを覚えたんです。もうこの道しかない、いえ、この道なら子供たちが誇れる母親になれると思ったんです。だからブランド化の夢は家族のために絶対実らせたかった」
「その力があることは、小倉さんもよく分かっていました」
「由那さんは頼もしい反面、怖い存在でした。私にはない感性を持ってたから。それにやっぱり若くて、身軽で自由で……そんな由那さんが、私の夢を潰すと思ったら、許せなかった。店長に言うと決心した日に具合が悪くなれば、先送りできるだけではなく、何て言うか、もっと大きい力が働いて、バチがあたったと思ってくれるんじゃないか、と考えたんです」
「よだかのこころ、ですね。命をいただく以上、食べもせず廃棄することはさらに罪だと。小倉さんになら、通じるかもしれない理屈ですね」
「そこまで深く考えたわけではありませんが、とにかく仕込みの合間の休憩に、由那さんの家へ行きました」
調理中、由那は真理子のエプロンのポケットにメモを入れた。真理子は手袋をして挽肉をこねていたからだ。メモを見て慌てた真理子は、店長への進言をやめるよう説得するため、由那の家で会う約束をした。
「メモのことを聞くと、由那さんは、このままではいけない、すべてを店長に言うべきだの一点張りだったんです。何日も考えた末に出した結論だと、思い詰めている感じでした。説得できる状態じゃなかった」
由那がトイレに立ったとき、部屋の片隅にあった瓶が目に入った。昨年秋に一緒に作ったモグラ除けだ。
「由那さんはいつもドクダミ茶を出してくれます。それが緑茶やコーヒーなら思いとどまったかもしれません。ドクダミ茶だったら、いくら舌が敏感な由那さんでも気づかないだろうと思ったんです。それほど少量だったから。でも、飲んですぐに顔が真っ赤になって咳き込み始めました。急に心配になりました。でも、大丈夫だって、掠れる声で由那さんが言って。ああこれで時間ができたと思いました。しんどかったら休んでいいからと、私は部屋を出たんですが、先生の推測通り『そうだ、尾藤さんがまたきてたから、しっかり戸締まりして』と言いました」
「部屋に侵入されている節があったから、効果てきめんだった」
「由那さん、怖がってたから」
「でも素直に鍵をかけたのは、あなたを信頼していたからだ。実は、このメモの差出人の名が漢字ではなく、ひらがなで『ゆな』と書かれていたのを見たとき、相手は距離感が近く、少し甘えられる関係の人、信頼できる人だと思いました。そしてあなたに初めて会ったとき、その引き締まった口元、鋭い目に意志の強さを感じ、白を基調とした清潔なシャツ、まとめ上げた髪、短く切った爪に食品を扱う気構えもある、まさにこの人に宛てたものだと直感したんです」
真理子の顔が一瞬強ばり、
「……ごめんなさい、由那さん」
とテーブルに突っ伏して泣き崩れた。
話し終わると、春美が目頭を押さえていた。春来は、由那の便せんに目を落としている。
「私は、泣き止むのを待って、警察へ出頭するように言いました。そしてついさっき、担当刑事から電話をもらったんです。事件のすべてを自供したと。春来さん、あなたのお陰で、三人の大人が救われた」
「救われた?」
「そうです、救ったんだ。一人は小倉由那さん。彼女は夢に向かって強く生きる女性で、自ら人生を投げ出すような弱虫ではなかったことが分かった。もう一人は、自殺で片付けられていたら、一生重い荷物、十字架を背負って生きていかなければならなかった犯人。そしてもう一人、その犯人に思いを寄せる男性」
「どうして、その人が?」
「好きな相手が犯人だと、事前に説明したときの彼の動揺は激しかった。私に掴みかかってきたくらい。だけど、殺意はなかったと知り、またすべてはブランド化という夢を守るためだったことを理解したんだろう、こう言ったんです。『コソコソと仕事をしてた自分が悪かった』って。そのまま廃棄食品の横流しを続けていたら、結局は発覚して、店は潰れてたでしょう」
「私、何もしてないですよ」
「多くの人が見過ごしていた小倉さんの行動を見ていた。そして、彼女のアクションに込められた気持ちを察知したんだよ。だから先生は調査に乗り出せたんです」
「アクションに込められた気持ち」
春来は、拳を握って小さくガッツポーズをしてみせた。
「そうです。それは、これから身体表現をしていく人間として、大切な感性だと、先生は思う」
「先生、この足でもできるかな」
「玉三郎に感動したんだろう」
「うん。でも、みんなもっと早くからやってるし」
「そうだね、少し始めるのが遅いかもしれないね。春来さんはウサギとカメの話、知ってるよね。どうしてカメが勝ったんだと思う?」
「そんなのウサギが途中で寝ちゃったからじゃん。幼稚園の子でも知ってるよ」
春来は口をとんがらせた。
「いや、あの勝負、ウサギが油断したからカメが勝ったんじゃない」
「え、ちがうの?」
「うん。ウサギはカメを見て走った。けれどカメが見つめていたのはウサギじゃなく、ゴールだった。それだけだ」
慶太郎の言葉を自分で頭の中で繰り返しているのか、しばらく春来は黙ったままだった。そして、これまでで一番明るい声で言った。
「先生、ありがとうございます!」
エピローグ
「なあ慶太郎、そこより少し京都寄りに、いい物件があるんやけど」
と恭一が言った。
「何だ、それ?」
「いまの話を聞いて、よっぽど暇だったんだって思たんや」
「ちょっと待った。その物件なら、ここより患者さんがくると言うのか」
「そこよりは、な」
「ついに認めたな、この悪徳不動産屋。ここを精神科クリニックにはもってこいの場所だと言ったのは虚偽です、と謝れ」
「病んだ人が少なかったということや」
「言い訳するな。こっちは切羽詰まってアルバイト情報を収集してるんだぞ」
「お言葉を返すようですが本宮先生。一人の患者にそこまでして、まったく費用対効果いうもんを考えてない。だから貧するのでは?」
恭一は、おどけた言い方をした。
「精神科医を煙に巻くとは、泣く子とペテン師には勝てん。何なら澄子に代わろうか」
「あっいや、報告ありがとう。それにしてもよかったな。事件に関わった三人の無料カウンセリングが成功して。じゃあこれにて、またな」
「おい、冗談だって」
と言ったが、電話は切れていた。
「どうせ悪友は、私の名に戦いたんでしょうよ」
ソファーで「とち餅」を頬張っていた澄子が笑った。事件解決のお礼だ、と麻那が郷土の名物だと送ってくれたのだ。
「ああ、逃げた」
「でしょうね。慶さんもいただいたら? 美味しいわよ」
「おう」
慶太郎もソファーに座り、とち餅をつまんだ。
「真理子さん、どれくらいで帰ってくるのかしら」
「殺意がなかったことは、毒性の低さからも認められるだろうから、殺人ではなく、傷害致死になるんじゃないか。ただアレルギーであることは知ってたし、そのまま放置した。いろいろ調べてみると、三年くらいはかかるだろうな」
「三年間、専務さんは真理子さんの子供たちを支えるのね」
「名田さん、実はまだプロポーズの返事はもらってないんだ。弁護士さんに面会できるようにしてもらって、何度でも申し込むって言ってた」
「案外、頑張り屋さんね。そうだ、春来さんの件が終わったんだから、うちの頑張り屋さん、尊が放り出したプラモデル、どうにかしてやってね」
「挫折したのか」
口の中の餅を飲み込む。
「やっぱり見てない。自分の子供の心もくみ取ってやって。あの子、慶さんと一緒に作りたいのよ」
「分かった。よし、いっちょやるか」
慶太郎は立ち上がる。
「じゃあ今日は、もう終わって一緒に帰りましょう」
「そうだね。なあ澄子」
「なに?」
「『喜怒哀楽の大きな魚に、手を振る。自分の決心が揺らがないように、誓いを立てる』。人の心って不思議だね。由那さんが自分を奮い立たせる行為が、きちんと春来さんに届いてた。精神科医がいまさらだけど、心、もっと大切にしないといけないね」
と慶太郎が腕を出すと、澄子はそれにつかまって立ち上がる。
「ありがとう、慶さん」
「では参りましょう、奥様」
二人の笑い声が、診察室に響いた。
〈了〉