言葉の蛇口



けんしゃになってほしいんだ」
 久々に再会した友人が言った。
「ちゃんと謝礼も出させてもらうから」
「いやいや……」
 テーブル越しに迫ってくる友人を、おれは軽く手で制した。
「っていうか、まずは詳しく話を聞かせてくれよ」
 苦笑しながら彼に言う。
 ひとくくりにするわけではないけれど、こういうところが学者肌だなぁと思わされる。夢中になると周りのことが見えなくなるのは学生時代からの彼のくせだ。そういう意味では、研究所勤めの道を選んだのは正しかったのだろうなぁと、おれは思う。
「そうだった、ごめんごめん」
 友人は我に返った様子ではにかんだ。そんな彼に、おれはたずねる。
「で、その実験ってのは?」
 被験者も何も、まだ何も聞かされてはいなかったのだ。
 実証実験に、ちょっと力を貸してほしい。
 そう頼まれて、こうして待ち合わせ場所のきっ店を訪れたのだった。
 しかし、おれは不思議に思っていた。友人はたしかかんきょうエネルギー分野の研究が専門で、特に環境せんがどうのこうのと言っていたような覚えがある。そんな大きな規模のテーマに、自分みたいな一個人が役立てることがあるのだろうかといぶかった。
「まずは、これを見てほしい」
 友人はかばんから何かを取りだしテーブルに置いた。
 場にそぐわない奇妙なものの登場に、おれは思わず口を開く。
じゃぐち……?」
 それはゾウの頭にプロペラがついたような、まぎれもない蛇口だった。
 ただ、よく見ると普通のものとは少し様子が違っていた。根元のところが黒いシリコンでおおわれていて、そこからコードが伸びていたのだ。そして先にはUSBたんがついていた。
「なんだこれ……」
 つぶやくおれに、友人は言った。
「言葉の蛇口っていうもので。うちのチームが開発したんだ」
「言葉の蛇口?」
「ほら、前に言ったことがあっただろう? おれがいるのは環境エネルギー問題をあつかう研究所だって。中でもおれのチームは環境汚染問題の研究をしてるんだけど、この蛇口はその研究から生まれたもので」
「なるほど。っていうことは……」
 おれは言う。
「これは水のそうってところかな?」
 キーワードをつなぎ合わせて推測した。
 きっと友人は、水質汚染の研究をしているのだろう。これを使えばにごった水もきれいな真水に変えられる。そんな装置ではなかろうか。
 が、それならば、コードの先のUSBには何の意味があるのだろう……。
 ひとりで勝手に考えていると、友人は笑って言った。
「違う違う、そもそもおれの研究テーマは地球上の環境汚染じゃないよ」
「えっ?」
「ネット上の環境汚染を解決するのがテーマなんだ」
「ネットって……えっと、インターネット?」
 そうだとうなずき、彼はつづけた。
「ネット上の環境は、年々悪くなる一方で」
 特に最近はますますはくしゃがかかっていて、事態は深刻な状態におちいっているのだと友人は言った。
 いまやネットの中は不満やきょしょくぞうごんあふれかえってしまっている。人をおとしめるためのうわさまんえんしたり、レビューという名のうっぷんらしが横行したり、うそいつわりで着飾られたり。
 友人は、そういったネット上の環境汚染を解決すべく研究をしているらしい。そんな中、ある独自の理論をもとにつくられたのが、この「言葉の蛇口」なのだという。
「接続端子をパソコンにつなぐんだ。そうして蛇口をひねってせんを開ければ、ネットの世界に混入してる汚染物質が出てくるわけだよ」
 ただ、と彼は言った。いまの技術では、蛇口ひとつでネット上のあらゆる汚染を除去できるわけではまったくない。あくまで使用者の周辺環境が改善できる程度に限られる。
「でも、研究が進めば、いずれもっと除去できる範囲は広がるはずだ。ゆくゆくは、汚染物質を徹底的に取り除くための処理施設なんかもつくりたいって思ってる」
 まあ、それはずいぶんらいの話になるだろうけど。
 友人は笑い、それで、とつづけた。
「被験者っていうのは、この蛇口を家で試してみてほしいんだ。もちろん実験室レベルではすでに十分な効果が確認できてるし、安全性も問題ない。だけど、実際の生活の中でもきちんと効果が現れるか、データを取らせてほしくって」
 おれはすぐには頷きかねた。
 友人が未来の話だと語ったことなどよりもはるか手前――ネット上の汚染物質を蛇口で取りだせるなどという話から、まったくついていけてなかったからだ。
 が、しばらくしゅんじゅんしたのちに、おれはこう答えていた。
「分かった。協力するよ」
 理解できるまで問いただそうという気持ちは消えていた。その代わり、悪意のないんだひとみを信じてみようと思ったのだ。
 友人は途端に破顔して、何度もお礼を口にした。
「それじゃあ、とりあえず一か月、よろしく頼むよ」
 友人と別れ、喫茶店をあとにした。



 家に帰って落ち着くと、おれはさっそく自宅のパソコンに蛇口をつないだ。
 見た目には、変わった形のUSBメモリを差しこんだようにしか見えなかったが、蛇口を軽くひねってみて小声を上げた。いっぱく置いて、蛇口の先から液体がぽとぽと落ちはじめたのだ。
 おれはあわてて蛇口を閉めて、床に落ちた汚れを手でぬぐった。それは黒くどろどろしていて、まるでヘドロのようだった。においをぐとしゅうがして、はんしゃ的に遠ざける。
 これがネット上の汚染物質――。
 頭で理解するよりも先に、本能的にその存在を理解した。そしてすぐにきょうを覚えた。
 知らず知らず、自分はこんなものに触れながら暮らしていたのか――。
 不意に、大気汚染の問題を想起した。
 都会では、せんたくものをベランダに干しつづけると黒ずんでくる。空気が汚れているからだ。しかし、それとまったく同じ空気をみんない、ほとんど意識することもなく生活している。分かりやすい実害に見舞われるまで、人は見えないものにとことんとんちゃくなのだ。
 このままだと健康をそこなうのは時間の問題だ――。
 その日から、おれはパソコンを起動すると、まずは言葉の蛇口をひねることが日常になった。
 出てくる液体は、最初の数秒はいつもドス黒かった。が、少しすると黒味が薄れた。おれは毎回その状態になるまでしっかり待って、ネットを使うようになった。
 出てきた液体は捨てたりはせず、蛇口の先に設置した空のペットボトルの中にめた。あとで研究に使いたいからと、友人に依頼されていたからだ。ペットボトルはすぐにいっぱいになってしまい、次々に取り替え液体を詰めた。
 おれは渡されていたへんかんケーブルで、スマートフォンにも言葉の蛇口を接続した。
 蛇口をひねって出てきたのは、パソコンのものよりどろどろした液体だった。
 同じネット上から出てくるのに、どうして違いがあるのだろう――。
 そう不思議に思っていたが、やがて自分なりの答えにたどりつく。
 スマートフォンにあって、パソコンにないもの。それはアプリだ。
 自分のスマートフォンにも、たくさんのアプリがインストールされている。そして多くがりゅうげんの飛び交うSNSに関するものだ。
 なるほど、と、おれは思う。おそらく、ネット世界の汚染物質の濃度にはムラがあるのだろう。SNSアプリの周辺は、より汚染が進んでいるということに違いない。
 言葉の蛇口を使うようになってから一週間ほどが経ったころ、おれはなんだか落ち着かない気持ちにおそわれはじめた。毎日に、何かが足りない感じがするのだ。
 その「何か」が、人をあざけったりあおったりする言葉だと気づいたときにはぞっとした。それらはこれまでネット上で日常的に触れていたものたちで、いまは蛇口によって取り除かれているものでもあった。
 おれは、無意識のうちに悪意ある言葉に慣れてしまっていた自分に――いや、むしろそれを楽しんでさえいたであろう自分に気がついて、せんりつを覚えた。
 心の汚れは、あらってみるまで分からない。
 おれは何とかその物足りなさに耐えて日々を過ごした。
 そしてその初期症状を乗り切ると、まるで生まれ変わったかのようなまったく別の感覚が待っていた。
 心がかつてないほどおだやかで、清らかになったのだ。それまでの自分が、いかに取るに足らないことで腹を立てたり不安になったりしていたのかがよく分かった。
 それはネットに触れている間の話に限らない。実生活でもうそのように健やかな気持ちが持続して、おれはネットの汚染の影響力をつくづく考えさせられた。



 約束の一か月が経ったころ、友人がやってきた。
 黒い液体で満たされた大量のペットボトルを満足そうにながめると、彼は言った。
「どうだった?」
 おれは心の劇的変化を熱弁した。
「……なんだか、こっちが売り込まれてるみたいだね」
 友人は笑いながらも耳をかたむけつづけてくれた。
 おれはかんがいをこめてこう言った。
「この蛇口が普及したら、世の中はずっとよくなるだろうなぁ……」
 彼にはぜひ、夢の汚染物質の処理施設を実現してほしいものだと心底願った。
 と、ひとしきりしゃべり切ったあと、おれは友人にこんなことを尋ねてみた。
「ちなみにさ、この出てきたやつはどうするんだ?」
 それはずっと気になっていたことだった。
 研究に使うとは聞いていたが、量も量だ。全部使うとは思えなかった。
 が、たとえ余ったとしても、まさか自然界に捨てるわけにはいかないだろう。そんなことをすれば汚染物質が現実の地球上に流れだし、いっそう深刻な被害をもたらしそうだ。
 かくして保管しておくのも現実的とは言い難い。場所の確保ができないだろうし、万が一、れでもしたら大事だ。それこそ、新たな公害になるかもしれない。
「いい質問だね」
 友人は、なぜだかますます満足そうな顔になった。
「そのあたりはご安心。ちゃんと早々に研究がされててね。じつは、おれたちはこの液体にもすごく注目してるんだ」
 彼はつづける。
「うちの研究所には、これを研究するチームが別でいてね。新しいエネルギー資源になることが期待されてて」
 資源? この汚染物質が?
 困惑するおれに向かって友人は言う。
「ほら、これってネット上の過激な言葉もたくさん含まれてるだろう? 火力発電に使うんだ」
 あっ、と瞬間的におれはさとった。
 同時に彼は口にした。
「何しろ、ずいぶんよくえるから」
                         (完)

 採用させて頂いた方
  ・池堂翔太さん
  (お題「ことばの蛇口」)