恋文・下

 昼過ぎ――。
 商店街の外れにある喫茶店の『ジロー』で和彦かずひこ貫次かんじに会った。呼び出しをかけてきたのは貫次のほうで、この店を指定したのも貫次だった。
「軽い胃痙攣いけいれんだと先日聞いたが、げんジイもたいしたことがなくてよかったよ」
 コーヒーをひとくち飲んでから、貫次は小さくうなずいていった。
「あんな頑丈がんじょうな体をしているくせに、源ジイは年中、胃の調子が悪くてな。まあいってみれば持病のようなもんだな」
 いってから和彦もコーヒーをすする。
 あのときの源ジイの発作は胃痙攣――和彦はこれでずっと通していた。
「ところで白猟会はくりょうかいのほうは、あれから顔を見せてはいないと聞いていたが。ひょっとしてあいつら、またやってきたのか。それで、俺を呼び出したのか」
 手にしていたコーヒーカップを、皿に戻しながらいった。
「いや、その件じゃねえよ。あいつらも、これ以上嫌がらせをすれば警察が動き出して面倒なことになるぐらいは、わかってるだろうからよ」
 貫次は顔の前で手を振り、
「それに、あいつらの件なら和ちゃんじゃなく、源ジイにきてもらわないと話にならねえだろう。あいつらのことじゃねえよ」
 話しづらそうにいって、口を引き結んだ。
 そうなると今日の話は奥さんの件――何か進展があったということなのか。それにしてもこの様子では、すぐには口を開きそうにもない。こんなときは待つよりすべはない。何といっても、事は最愛の奥さんの件なのだ。ひょっとしたら、貫次にとっては、白猟会より奥さんのことのほうが、はるかに重要なのかもしれない。
 貫次が口を開いたのは、たっぷり五分以上たってからだった。
「あいつのにやけている理由の、半分はわかった……」
 貫次は微妙びみょうないいまわしをして、ぽつぽつと話し出した。
 昨日の昼間のことだという。
 思い悩んでいるよりも当たって砕けろと、貫次は勇気をふるってにこんな質問をぶつけた。
「おめえ、この前の同窓会で何か変ったことでも、あったんじゃねえのか」
 声が少しふるえた。
「あら、どうして」
 すぐに明るい声が返ってきた。
「どうしてって、おめえ。あれからみょううわついているというか、にやけているというか。そんな様子が、ずっとつづいているからよ。だから、ちょっと気になってな」
 胸の鼓動こどうが速くなっている。
「へえっ、そんなことが気になるんだ」
 明るい声が一変して、皮肉っぽい調子になった。
「あたりめえだろ、夫婦だからよ。やっぱり気になるにきまってるさ」
 声を荒げていった。
「優しい言葉ひとつかけずに、ほったらかしの状態にしておいても、そういうことだけは気になるんだ」
「何というか、まあ。夫婦も何十年とやってりゃあ、そういうことにもならあな。かといって……」
「かといって、何よ?」
「そりゃあ、おめえ。あれこれと、いろいろだよ」
 貫次は言葉をにごす。
「あれこれと、いろいろねえ」
 美奈子は両手をくんで、にらみつけるような目で貫次を見た。
「そうだよね。あれこれと、いろいろあったよね」
 美奈子は同じような言葉を繰り返し、
「さっきの同窓会なんだけど、大したことはなかったけど、ちょっとしたことならあったわよ」
 どきりとするようなことをいった。
「何だよ、その、ちょっとしたことっていうのはよ」
 下腹したばらのあたりが重くなってきた。
「もらったのよ」
 妙なことを美奈子はいった。
「もらったって、何をもらったんだよ」
 重くなった下腹が痛くなってきた。
「ラブレター……」
 あっさりと美奈子はいった。
「ラブレターって、お前……」
 思わず絶句ぜっくした。
「いってえ、そんなもん、誰からもらったんだよ。俺の知ってるやつか」
 大声が飛び出した。
「誰からって、そんなこといえないわよ。プライバシーの何とかってことも、あるだろうから。ただ、あなたも私も同じ中学なんだから、知ってる人には違いないわよ」
 決定的なことを口にした。
「同じ中学の俺の知ってるやつということは、この商店街の人間ってことなのか。そういうことなのか」
「そういうことなんだろうね――でも、もらっただけだから。ただ、それだけのことだから、ささいなことだから」
 勝ち誇ったような口調で美奈子はいい、うれしそうな顔で貫次を見た。
「だから、もう少し私を大事にしたほうが。そうでないと……」
 ふわっと笑った。
 やけに可愛かわいい顔に見えた。
「そうでないと――どうなるんだよ」
 情けない声を貫次は出す。
「さあ、どうなるんだろうね」
 くんでいた両手を離して、ぱんと叩いた。
「じゃあ、私はまだ、タイルみがきが残ってるから」
 くるりと背中を向けてから振り返り、
「ラブレターっていうより、むしろ恋文こいぶみっていったほうがいいかもしれない」
 それだけいって貫次の前を離れていった。
 理由の半分はわかったという、貫次の話は終った。
 両肩がすとんと落ちていた。
「ラブレターか」
 あとの半分は送り主の名前に違いないと思いつつ、和彦は言葉に出す。
「そう、ラブレターだよ。誰だか知らねえが俺の美奈子に、そんなとんでもねえもんを渡したやつがいるってことだよ。だからあいつ、いつまでもにやけて上機嫌で」
 重苦しい声で貫次はいった。
 貫次が商店街の外れにある、この喫茶店を指定してきたわけがわかった気がした。これは近所の誰にも聞かれたくない、最重要ともいえる話なのだ。だから、この店を。
「そりゃあまあ、いくつになっても、そんな物をもらえば誰だって嬉しいだろうから、そこのところは目をつぶるというか」
 なだめるように和彦がいうと、
「いったい相手は誰だと思う、和ちゃん。同じ商店街の俺の知ってるやつって、あいつはいってたけど」
 泣き出しそうな顔で貫次はいった。
「そこまでは俺にも見当が……」
 困惑こんわくの口調でいう和彦に、
「ひょっとして、川辺かわべの野郎じゃねえか。あいつは美奈子の実家のすぐ近くに住んでるし、川辺の美奈子を見る目というのが、いやらしいというか物欲しげというか」
 とんでもないことをいい出した。
「川辺が銭湯せんとうにくるのか。あそこは確か内風呂があったはずだが」
「たまには広い湯船に入りてえといって、月に数度はやってくるよ。かつらをつけたまま入ってやがる」
 どうやら川辺の鬘の件は、町内では知れまくっているようだ。
「しかし、川辺は俺たちの同級で、美奈子さんとは学年が違う。同窓会でラブレターを渡すことはできないぞ」
「それはそうだが、そこは何やらカラクリというか、そんなものがあってよ」
 貫次の言葉に、同窓会という言葉がかぎになっているのではと、和彦はふと思う。
 もし、ラブレターをもらったのが同窓会ではなく、その前日ぐらいだったら……同窓会という特別なイベントがそれに重なって、何かがあったのならそれに違いないと貫次が思いこんでしまい、それに美奈子が話を合わせているとしたら。
 ううんと和彦はうなる。こうなってくると何がどうなのかは、もうさっぱりわからない。翔太しょうたの出番としかいいようがないが、しかし、あの川辺が、まさか……。
「ところで貫ちゃん。ひとつ気になったことがあったんだけど教えてくれるかな」
 和彦は貫次の顔を真直まっすぐぐ見る。
「夫婦も何十年とやってれば優しい言葉云々うんぬんというのはわかるんだが、そのあとに出た、あれこれといろいろというのが、よくわからない。ひょっとして貫ちゃん、浮気でもしてそのシッポを美奈子さんに……」
 気になったことを、ぶつけてみた。
「浮気なんかしねえよ。俺は昔も今も、美奈子一筋だよ」
 きっぱりといってから、
「けど、少し前……」
 意味深な言葉を口にした。
「少し前に、何かあったのか?」
 勢いこんでくと、
里美さとみさんだよ、の」
 もごもごといった。
「志の田の里美さんて。あの、おでん屋の女将おかみの里美さんのことか」
 驚いた声を和彦があげると、わずかに貫次はうなずいた。
『志の田』は駅裏にある小さなおでん屋で、以前は夫婦二人でやっていたのだが五年ほど前に旦那が心筋梗塞しんきんこうそく発作ほっさで倒れ、そのまま死亡。あとは里美が引き継いだが、皮肉なことにそれから店は大繁盛だいはんじょうしているといううわさを聞いた。和彦も三度ほど行ったことがあるが、里美は美人だった。年は四十代のなかばで、子供はいなかった。
「あの里美さんと、貫ちゃんが……」
 首を振りながら和彦がいうと、
「違う、違う。そんなんじゃねえよ。あの店にくる客はみんな、里美さん目当て。俺なんかがちできるわけがねえよ。俺はただ里美さんに憧れて、あの店に通いつめただけ、それも週に一度ぐらいの割合で」
 貫次は何度も顔の前で手を振った。
「週に一度の志の田通いか――ひょっとしてそれが美奈子さんの逆鱗げきりんに触れたのか、週に一度で」
「週に一度といっても、うちの銭湯は夜の十時までで、志の田の看板は十一時。そうなると後片づけは、みんな美奈子にまかせねえと。むろん、志の田から戻れば俺も一緒になって後片づけはやるんだがよ」
 貫次は肩を落した。
「そうなると、美奈子さんにしたら、やっぱり腹が立つよな。いつもは優しかった、美奈子さん一筋の貫ちゃんが何もかもほっぽり出して、志の田の女将目当てに出かけてしまうんだからな。しかも、その里美さんは独り身で誰が見ても美人……これじゃあ美奈子さんに限らず、誰だってな」
 和彦は小さな吐息といきをついてから、
「で、出かけていく貫ちゃんに対して、美奈子さんはどんな反応をしてたんだ」
 何気なく訊いた。
「無反応だったな。知らん顔して俺を送り出し、知らん顔して俺を迎えいれる。文句ひとついわなかったが、腹んなかはおそらくな。まあ、よくできたよめだから、俺はそれに甘えきっていたというところだな」
 溜息ためいきまじりにいった。
「その、志の田もうでは、結局どうなったんだ。今でもつづいているのか」
「やめた。やくもなさそうだし、競争相手が多すぎるし」
 ぽつりといった。
「ということは貫ちゃん。やっぱり、あわよくばという気持があったということか。あんな可愛い奥さんがいながら」
 とがめるようにいうと、
「男なんて、みんなそうじゃねえか。十中八、九は駄目だとしてもあとの一分は、ひょっとしたらって、あわよくばって――だから最初から何とかなるなんて、爪のあかほども思っちゃいなかったけど、ある日突然奇跡きせきがおこってとかよ。宝クジみてえなもんだけど、馬鹿だな男ってやつはよ。特に俺たちのような、しがねえおっさん風情ふぜいはよ」
 しょぼくれた顔で貫次は一気にいった。
「まあ、気持はわかるけどな」
 和彦も、ぼそっとした口調でいう。
「朝から晩まで自宅の仕事場で毎日毎日、同じことの繰り返しだもんなあ。たまには外でハメを外して……そんな気持になることぐれえは察してくれよ、和ちゃん」
 貫次は冷めたコーヒーを、がぶりと飲む。
「察しはするけど、貫ちゃんがそう感じるように、奥さんの美奈子さんだって同じ気持を抱えてるんじゃないか。二人して同じ仕事をやってるんだから」
 和彦の言葉が終らないうちに「あっ」と貫次が叫び声をあげた。
「そうか、よく考えてみると、あいつも俺とおんなじ思いを抱いていても不思議じゃねえんだよな。いくら若く見えるといっても、あいつもしがねえ、おばさんだもんな。大したもうけもねえのに、朝から晩までコマねずみのように働き通しで……馬鹿だな俺は。やっぱりあねさん女房のあいつに、甘えっぱなしだな」
 しみじみとした口調で貫次はいい、ずるっとはなをすすった。
「その結果、貫ちゃんは志の田に通うのをあきらめてほんの少し不幸になり、美奈子さんは同窓会に行って誰かから、ラブレターをもらって、ほんの少し幸せ気分を味わった。俺には何か辻褄つじつまが合っているというか、バランスが取れたというか。そんな気がしてならないんだが、貫ちゃんは、これをどう思う?」
「確かにな。神様ってやつは、やっぱりどこかにいるのかもしれねえな――けどよ、くどいようだけど、俺はラブレターの書き手が誰だか知りてえ。美奈子をいい気持にさせたのが、いったいどこのどいつなんだかよ」
 弱々しい口調で貫次はいった。
「願わくは、相手は川辺のおっさんであってほしい。あいつが相手なら、勝負は俺の勝ちだ。何たって川辺は――」
 貫次は塩頭しおあたまを右手でざらっとなでてから、
「けど、相手が川辺じゃなくて他の誰かだったとしたら負けるかも……けど知りてえ。やっぱり知りてえ。知りたくねえけど、やっぱり知りてえ」
 また洟をずるっとすすった。
「それなら、何とか相手を見つけてみるか」
 ぽつりと和彦はいった。
「えっ、相手が誰だかわかるっていうのか。いってえ、どうやって調べるんだ」
 貫次が身を乗り出してきた。
「推進委員会には、五十嵐いがらし翔太っていう天才がいるから、これまでの情報を全部話せば、何らかの結論を出してくれるような気がするんだがな」
 苦しいときの翔太頼みである。
「ああ、なるほど、なるほど……しかし、いくら天才少年でも、情報がこれだけでは、どう考えても……」
 ぶつぶつとつぶやく貫次の声を聞きながら、今度の独り身会の集まりは駅裏の『志の田』にしようと和彦は決めた。小さい店ながら、あそこには確か、小あがりがあったはずだ。みんなで押しかけても大丈夫だ。


 それから四日後の夕方――。
 和彦は翔太と二人で『すず』に向かっていた。今日は源次も留守番だ。
 美奈子にラブレターを送ったのが誰なのか。それを貫次に教えるために向かっているのだが――結論を出したのは、やっぱり翔太だった。
 昨日の夜、独り身会の集まりを和彦の考え通り『志の田』でやった。混んで入れないといけないので、前日のうちに予約を和彦はとり、六時に独り身会のメンバーは店に集合して、すみの小あがりに陣取った。
「私、この店、初めて」
 といいながら桐子きりここの目は、カウンターのなかの里美の顔をながめている。桐子だけでなく、川辺も洞口ほらぐちも同様だった。
 白い割烹着かっぽうぎ姿の里美は、やはり綺麗きれいだった。
 独り身会のなかで里美に関心を示さないのは翔太と源次ぐらいで、和彦の目も里美のいるカウンターに時々そそがれた。
「鈴の湯の美奈子さんも若く見えますけど、ここの女将も十歳は若い。三十代ぐらいにしか見えませんね」
 目を細めていったのは、ラブレターの主として疑われている川辺である。
「確かに若く見える。どうだい和ちゃん。次の独り身会の集まりも、この店にしたら。そうだ、そうしよう」
 といって和彦から強引に確約をとったのは洞口だ。
「じっちゃん、いやらしい」
 と桐子がすぐに声をあげるが、洞口は笑っているだけでまるで動じない。
「翔太、あんたは偉い。今夜こそ私は心の底から、あんたを尊敬そんけいするよ」
 桐子はこんな言葉を口にしてから、
「このおっさんたちは、駄目だ。源ジイをのぞいて、みんな性根が悪すぎ。まじで、キモすぎ」
 桐子がこういって唇をとがらせたところへ、みつくろったおでんを里美が運んできて卓子テーブルの上に並べた。
「推進委員会のみなさん、今夜はこの店を使っていただいて、本当にありがとうございます。今後とも、ご贔屓ひいきよろしくお願いいたします」
 みんなの顔を見回して、にこっと笑った。
 目鼻立ちのはっきりした美人特有の顔立ちだったが、嫌みを感じさせない柔らかさが、ほおあごの線にあった。
「もちろん、そのつもりですので、これからもよろしく」
 という洞口の言葉を押しやるように、
「私は個人的にも、この店を使わせていただくつもりですから」
 川辺がかん高い声でいった。
「まあっ、ありがとうございます」
 里美は顔中で笑い、飲み物を取りにカウンターに戻っていった。
「あの笑顔は、相当な練習の成果だと私は見たけど、それにしても」
 といったところで、
「男は馬鹿――そういうことなんじゃろな、桐ちゃん」
 源次がにまっと笑って、あとを引き継いだ。
 こんな調子で集まりは始まり、和彦は事の成り行きを詳細しょうさいにみんなに報告した。そして、いちばん最後に、ラブレターの主は川辺ではないかと貫次が疑っている件をつけ加えた。
 川辺の顔がぱっと赤くなった。
「そんなことになってるんですか。そりゃあ、家が近くだったせいか、中学生のころ、一時は美奈子ちゃんに熱をあげていたときもありましたけど、それはもう遠い昔のことで今更いまさらそんな。ラブレターの主は私ではないことをここで誓いますよ」
 宣誓するように、右手を直立させていった。
「一時は好きだったのを、あきらめたのか。軟弱なんじゃくなやつだな、おめえはよ」
 源次がぼそっといい、ハンペンを口のなかにほうりこんで、うめえなこれはとつぶやいた。
「そうそう、ここのハンペンの味は絶妙。あのひとの笑顔もできすぎだけど、ここのハンペンもできすぎなくらいの味。これは相当練習してるよね」
 うなずきながらいう桐子に、
「まあまあ、桐ちゃん。そういう話はあとにするとして、どうだ翔太君。ここまでの情報を元にしてラブレターの主をしぼりこむことはできないだろうか」
 和彦は話を翔太に振った。
「できますよ。あくまでも仮説ではありますけど」
 何でもないことのように翔太はいった。
「えっ、できるのか」
 和彦が驚いた声をあげた。
 周りがしんと静まり返った。
「絞りこむ前に、二、三質問があるんですが」
 と翔太はいい、
「まず、貫次さんの友達で一級上、つまり美奈子さんと同級生のお姉さんを持つ人はいませんか」
 妙なことを訊いてきた。
「貫ちゃんの友達といえば俺たちと同級生ということになるんだが、確か和菓子の橋本屋の満夫みつおがそうだったんじゃねえか。美奈子さんと同じクラスに、姉さんが一人いたんじゃなかったかな」
 洞口が視線をちゅうただよわせながらいうと、
「いたいた。橋本さんていう人が。そして橋本満夫は貫ちゃんとけっこう仲がよかったはずですよ。橋本和菓子店はその数年後、店をたたんで、一家は神奈川のほうに移り住んでいったはずです」
 川辺がその後を、すらすらと答えた。
「店をたたんだ理由は、わかりますか」
「橋本屋は元々、土地も家屋も借り物だったはずで、神奈川のほうに土地を買って新しい店を建てたと聞いていますが――もっとも満夫君は家業を嫌って、今は名古屋に住んでるはずです。家のほうは確か、お姉さんが継いだと」
 これも川辺が答えた。
「ということは悲惨ひさんな結果というのではなく、めでたい引越しだったということですね。それなら、その千代子さんが同窓会に出席していた可能性はおおいにありですね」
 翔太はうれしそうにいい、
「悲惨な結果の引越しだと、同窓会に出てこない可能性のほうがだいですから……それから、あと確かめたいことが二点だけ」
 和彦の顔に視線を向けた。
「美奈子さんは、同窓会のあと。つまりラブレターをもらったあと、貫次さんにはばかることなく、にやけた顔を浮べて嬉しそうにしていた。これも確かですよね」
 翔太の問いに和彦は大きくうなずく。
「それから、これがいちばん重要なことなんですが、美奈子さんは貫次さんにラブレターというより、これはむしろ恋文。はっきりこういったんですよね」
 念を押すように訊いた。
「確かにそういったと、俺は貫ちゃんから聞いているが」
 和彦は何度もうなずいて答えた。
「わかりました。仮説の段階ですけど、ほぼラブレターのぬしは特定できました。多分合っていると思います」
 はっきりした口調で翔太はいった。
「えっ、何なの。今の翔太の訳のわからない質問は。それでラブレターの主がわかったのなら、翔太って天才じゃん」
 素頓狂すっとんきょうな声を桐子があげた。
「そんなわかりきったことを今頃……お前の頭の出来はいったい」
 吐息まじりに洞口がいい、苦虫にがむしみつぶしたような顔で大根を頬張ほおばったところで、
「みなさあん、おでんの追加はいかがですかあ」
 カウンターのなかから、里美の柔らかな声が飛んだ。


 和彦と翔太は『鈴の湯』の釜場かまばで貫次と向き合っていた。釜場に貫次がいると教えてくれたのは玄関にいた美奈子である。
「ラブレターの主がわかったって、本当なのか、和ちゃん」
 貫次がうわずった声を出した。
「この翔太君が、すらすらと絵解きをしてくれてな。なあ、翔太君」
 和彦の言葉に翔太はぺこっと頭を下げ、
「少ない情報のなかでの仮説というか妄想もうそうに近いものなので、百パーセント合っているかどうかはわかりませんが、かなりの確率で当たっていると思います」
 翔太の言葉に「おう、おう」と貫次は声をあげてうなずく。
「鍵は奥さんのいった、ラブレターというより恋文という言葉でした。僕はこの言葉から、過ぎ去った時というのを連想れんそうして、ラブレターは現在のものではなく過去のもの。そう考えたんです」
 翔太は貫次に向かって早速絵解きを始め、
「じゃあ、過去というのはどれほど昔なのか。そう考えてみると、いちばん妥当なのは中学時代、それしかないと考えました。つまり、中学時代に書かれた奥さんへの恋文です。じゃあ、この恋文はいったい誰が書いたのか、そしてそれを奥さんは同窓会で誰から手渡されたのか」
 んで含めるように話を進めた。
「そこでみなさんに当時のことを訊くと、貫次さんには橋本満夫さんという友達がいて、そのお姉さんの千代子さんは奥さんのクラスメイトだったという話を耳にしました。なら、その恋文は千代子さんの手から、同窓会のときに奥さんに手渡された。そういう結論に達したのです」
「すると、恋文を書いたのは中学時代の橋本満夫で、何らかの手違いがあって五十年後の同窓会で姉さんの千代子さんから美奈子に手渡された。そういうことなのか」
 勢いこんでいう貫次に、
「違うんだ、貫ちゃん。その部分が違うんだ。そして、その先は美奈子さんと一緒に聞いたほうがいい。だから、美奈子さんを呼んできてくれないか」
 和彦が叫ぶような声で口をはさんだ。
「美奈子も一緒にって、それは……」
 怪訝けげんな声を出す貫次に、
「私なら、ここにいますよ」
 母屋から釜場につづく通路から声が聞こえた。三人が声の聞こえたほうを向くと、当の美奈子が立っていて、釜場におりてきた。
「小堀さんが源次さんじゃなく、東大現役合格確実という翔太君と一緒にきたってことは、白猟会の件じゃなく恋文の件だと直感して、さっきからそこでずっと話を聞かせてもらっていました」
 美奈子はそういい、パイプ椅子を持ってきて三人のそばに座りこんだ。
「だけど、翔太君って本当にすごいわね。ラブレターじゃなくて恋文という一言から、あれだけの事実を導き出すんだから。やっぱりうわさ通りのことはあるわ」
 翔太はやはり有名人である。
「事実って、この子がいったことは、やっぱり事実なのか。恋文は千代子さんから渡されたのか、同窓会の夜に。書いたのは橋本満夫なのか」
 上ずった声をあげてから貫次は翔太を見た。
「それが違うんです。その根本が違うんです。書いたのがその満夫さんなら、奥さんは大っぴらに貫次さんの前でにやけたり、嬉しがったりはしないはずです。ここまで、この鈴の湯一筋で一生懸命頑張ってきた奥さんの性格を考えると、そんなことは到底、ありえないんです」
 翔太は叫ぶようにいい、
「あの、できればその、恋文の現物を見せてもらえると有難ありがたいんですけど」
 今度は遠慮えんりょぎみに声をあげた。
「もちろん見せますよ。ちゃんとここに持ってきてますから」
 美奈子はエプロンのポケットから、古びた封筒を取り出して翔太に渡した。表面には、『市原美奈子様へ』の文字がおどっていた。いかにも稚拙ちせつな文字だった。
「いいですか、裏を見せますよ」
 翔太はそういって、ゆっくりと封筒の裏を返した。
「ああっ!」
 貫次の口から悲鳴ひめいに近い声があがった。
 裏にはこれも稚拙な文字で『鈴木貫次』とはっきり書かれてあった。
「つまりこの恋文は、中学二年生のあなたが、中学三年生の私あてに書いたもの。満夫君ではなく、恋文はあなた自身が書いたの」
 はっきりした口調で美奈子はいった。
「多分……」
 と翔太がいった。
「貫次さんは奥さんあての恋文を書いてはすて、書いては破りということを何度も何度も繰り返していて、何がどうなったか忘れてしまった。でも、そのなかの一通は友達の満夫さんに渡し、お姉さんから奥さんに渡るようにたくした。しかし、満夫さんはそれをお姉さんには渡さなかった。どこかにしまいこんでしまった。その理由はですね――」
 ちらっと翔太は美奈子を見て、なぜかうつむいてしまった。
「シャイな翔太君の代りにいえば、おそらく満夫君も、当時は美奈子さんが好きだった。だから――」
 和彦が翔太の代りに口を開いた。
「あらっ」
 といって今度は美奈子がうつむいた。
「モテたんだよ、美奈子さんは。今の里美さんのように、若いころの美奈子さんはモテモテだったんだよ。それをお前は……ついでにいうと俺たち推進委員会は昨夜、志の田に集まった。里美さんは綺麗だったが、どう見てもお前には合わない。やっぱり、お前に合うのは可愛い美奈子さんだと俺は思った。もうひとつ、ついでにいえば、里美さんには俺のほうがどうやら合いそうな気がした。そういうことだ」
 和彦が軽口を飛ばすと、驚いた表情で翔太が顔を見てきた。
「あなたはとにかく家業もおろそかにして、里美さん一点張り。私はそれが悲しくて悲しくて……そんなときに同窓会で、家の物置きを整理していたら見つけたといって千代子さんから、この手紙を渡されて、むしょうに嬉しくなって。この恋文がなかったら、私はあなたと大喧嘩おおげんかをして家を飛び出していたかもしれない」
 美奈子の両目はうるんでいた。
「美奈子さん。この手紙、読ませてもらっていいですか」
 和彦が訊くと、美奈子はこくっとうなずいた。
 翔太から封筒を受け取り、和彦は便箋びんせんを抜き出した。
 稚拙な文字が並んでいた。


『一年下の鈴木貫次です
 僕は美奈子さんが大好きです
 どれぐらい好きかというと、ここに書けないほど大好きです
 毎日毎日、美奈子さんとの結婚のことばかり考えています
 僕はもう少し大きくなったら、美奈子さんと結婚するつもりです
 しあわせにします、美奈子さんのために頑張ってはたらきます
 ほかの女の人を好きになることは絶対にありません
 僕のいちばんの夢は、美奈子さんと二人でお風呂屋をやることです
 毎日いっしょにくらすことです
 死ぬまでいっしょにいたいです
 それほど、美奈子さんが大好きです
 だから、美奈子さんも僕を好きになってください
 絶対にお願いします』


 和彦はこれを声をあげて読んだ。
 一言一句いちごんいっく、間違えないよう、ゆっくりと読んだ。
「いくら中学二年といっても、文章がへたすぎます。幼稚ようちすぎます。でも、ここには真心がこもっています。心を打ってくる何かがあります。だから私は、これを読んで泣きました。嬉しさとか何とかいうより、次から次へと涙が流れてきて。とにかく涙がとまらなくて、何度も何度も泣きながら、これを読みました」
 いいながら美奈子は泣いていた。
 肩を震わせて美奈子は泣いていた。
 貫次も泣いていた。
 ほえるような声を出して泣いていた。
「帰ろうか、翔太君」
 和彦は翔太の肩をぽんと叩いた。
 二人がうらやましくて仕方がなかった。
「まだ開いてないかもしれんが、帰りに志の田に寄って美人の顔でも拝んでこようか」
 軽口を飛ばして翔太の顔を見ると、やっぱり羨しそうな表情で二人を見ていた。
 和彦はゆっくりと椅子から立ちあがった。
 二人の泣き声だけが、釜場に響いていた。(つづく)