黒い犬



「完成だ……」
 男はそうつぶやいた。部屋のカーテンは閉め切られ、照明も落とされている。パソコンだけがこうげんになり、くらやみの中に男の笑みを照らしだす。
 男は大きく開いた目で画面に見入っている。そこには大量の文字列が並んでいて、意味を読み取ることは難しかった。しかし、男は隅々まで熟知していた。それは男が組み上げたあるプログラムだった。
「これさえあれば……」
 世間を混乱の底にたたき落とすことができる。
 男は頭に思い浮かべる。人々がパニックにおちいる光景を。
 男が開発したものは悪意に満ちたものだった。プログラムを実行するとコンピューターネットワーク上の様々なセキュリティゲートを突破でき、その向こうの情報を自在にそうできるのである。
 エンターキーを静かに叩くと〝実行中〟と表示が出る。しばらくプログラムを走らせると〝完了〟と現れて、画面に英数字が表示される。
 男はそれをおくしてキーを叩き、あるサイトを立ち上げた。それはネット銀行のものだった。ページを進むとパスワードの入力らんが現れる。そこにいましがた記憶した英数字を打ちこむと、すんなりサイトへログインできた。プログラムによって手に入れたのは、この銀行口座のパスワードだった。
 振込ボタンを選択し、ある口座に振り込むように指示を出す。それは男のくう口座で、足がつかないように何重もの予防線が張られている。
 こうして男は、ものの数分で大金をぬすみだすことに成功した。その表情には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
 男は幼いころから孤独だった。
 両親は早くにくなり、引き取られた先の親戚一家では、まるでほうこうにんのようなあつかいを受けた。学校ではその家庭背景がゆがんで伝わり、何かじょうなものでも扱うかのように接せられた。周囲の誰からも相手にされず、いつもひとり切りで時間を過ごした。
 そんな男に、唯一、友と呼べる存在ができたのは小学四年生のとき。それは、近所に住みつく野犬だった。
 犬は草の生い茂る空地をねぐらにしていて、人が近寄るだけでひどくえた。その黒い容姿も不吉な印象を周囲に与え、近隣からはきらわれていた。
 しかし男は、その犬を知ったときから強い親近感を覚えていた。犬の姿に、どこか自分と重なるところを感じたのだ。犬もと男にだけは吠えることなく、近寄らせるどころかでることさえ許容した。二人は打ち解け、種族を超えたの友となったのだった。
 男は犬にクロと名づけ、クロ、クロ、と給食の残りを持ち帰っては分け与えるようになった。夜になるとクロはときどき遠吠えをあげ、近所の人の睡眠をさまたげた。が、男にとって、それは自分を呼ぶ声にしか聞こえなかった。そんな夜、男は眠れず、朝になると空地へ向けて急いで走った。
 男は世界中で、クロだけが自分を認識してくれていると思っていた。自分だけが、クロのことを分かってやれると思っていた。きずめ合うように、二人はい日々を生きた。
 ところが、ある日をさかいにクロの姿は空地から消えた。何日経っても戻ってくることはなく、やがて空地には住宅建設の看板が立てられた。草もられ、程なくして工事がはじまった。
 しばらく経って、男は同級生からあざける口調で告げられた。
「お前のあの犬、保健所に連れて行かれたんだってなぁ」
 一瞬頭が真っ白になった直後、反射的に相手へなぐりかかっていた。が、周りの人間からすぐにめにされ、逆に集団で殴られられた。ろうでうずくまる男へ次に声をけたのは担任の教師で、早く教室に入るようにとだけ言って去った。男はふたたび、ひとりとなった。
 中学校を卒業すると、しんせきの家を出た。コンビニ店員や警備員のバイトをしながら、細々と生活をはじめた。
 転機は、寝泊まりしていたインターネットカフェでおとずれた。たまたま見かけたプログラミングについて語り合う掲示板に興味を引かれ、自分でプログラムをいじるようになったのだ。そしてそれにりょうされるまでに、そう時間はかからなかった。
 この世界なら、自分のうで次第で好きなものを好きにきずきあげることができる。誰にねすることもなく、誰にじゃされることもなく――。
 やがてアパート暮らしをはじめると、男はなけなしの貯金をはたいて自分のパソコンを購入した。プログラミングの教材は、ネット上に無数に転がっていた。それらをほうし、組み合わせ、独自でスキルを習得した。仕事をえるレベルになると、バイトをやめて引きこもり、ますますプログラムの世界にぼっとうした。
 もともと才能に恵まれていたのだろう。そのうち男は高度なプログラムもやすやすと組めるようになり、多くの仕事がいこむようになった。
 しかし男は、そのすべてを請け負ったわけではなかった。ふところに余裕が出てくると、仕事を選ぶようになったのだ。
 悪意が見えかくれするたぐいのもの。誰かを傷つけられそうなもの。犯罪と紙一重のもの。犯罪そのもの。
 そういった仕事を積極的に選択した。
 これは世の中へのほうふくだ。男はそう思いながら仕事に励んだ。
 そして裏の仕事をこなすうち、男の技術はその筋におけるくっのものとなっていった。それでもとどまることなく力をたくわえ、ついにかみがかりと呼べる域にまで到達した。
 その技術を結集して生みだしたのが、あらゆるセキュリティゲートを突破できるしろものだった。
 男はその文字列の集合体に、バーチャル上でひとつの形を持たせることにした。
 黒い犬。
 男は、幼いころに殺処分されたあの犬を模した姿を、自らのプログラムに与えたのだ。
 クロと名づけたそのプログラムをしたがえて、男はクラッキング――コンピューターネットワーク上での様々な不正行為を行いつづけた。
 クロはバーチャル空間をじゅうおうじんけ抜けた。
 銀行の中にしのびこみ、暗証番号を男の元へと持ち帰った。企業のサイトに入りこみ、文章のかいざんを行った。WEBサービスの個人情報を手に入れて、アカウントを乗っ取った。
 事態が大きくなるにつれ、いやおうでも世間もその存在に気がつきはじめる。
 警察は市民へ警戒を呼びかけて、対策本部を設置した。IT企業は総力をあげてセキュリティ強化へと乗りだした。
 時を同じくして、ネット上ではこんな書きこみが増えはじめた。
 ――犬のようなものを目撃した――
 それは被害にった者たちによる声だった。
 彼らはこう主張した。
 被害を受けたその当日。パソコンや携帯電話の画面上を黒い犬が横切ったのを目撃した。その直後、不正行為が行われたようである。
 目撃談は相次いで、犬と事件に関連性を見出す声は日に日に高まっていった。そしてメディアが被害をもたらすそれに〝黒い犬〟と名前をつけ、人々はいっそう犬のかげきょうするようになった。
 世の混乱ぶりは、男の気分をこうようさせた。それと共に、忠実に仕事をこなしてくれるクロへの愛情も増していった。
「クロ、一緒にあいつらを見返してやろうな」
 愛おしそうに、画面に呟く。
 男はセキュリティが強化されるに応じ、クロをアップデートしていった。そのたびに、またセキュリティが強化され、イタチごっこの形となる。
 それでも常に、男の腕が一歩先を進んでいた。そしてその対象は国を超え、クロは世界を相手にしはじめる。
 とある国際機関のWEBサイトは、あるとき開くと画面いっぱいに文字が散らかっていて、何かに荒らされた形跡が残されていた。
 某国政府は、あとだらけのボロボロのページの復旧作業をせまられた。
 ある国の軍事システムは至るところが犬のはいせつぶつにまみれていて、クリーンアップをするためにシステムを一時停止せざるを得なかった。
「クロ、このあわてぶりを見てみろよ」
 男のちょうしょうが闇に包まれた部屋に浮かぶ。そしてまた、攻撃先の品定めを開始する。
「これは国際的なサイバーテロだ」
 事態を重く見た各国のサイバー攻撃対策部隊は立ち上がり、手を取り合って動きはじめた。
 黒い犬の被害にあった現場には、犬の足跡や独特のけものしゅうが残されていた。対策部隊は、それを手がかりにそうを進めた。
 その努力が結ばれて、やがてくだんの犬の犬種が推定された。被害をもたらしていたのは一頭のシェパードと思われた。現場に落ちていた抜け毛なども、それを裏付ける証拠となった。
 そして同じく現場から採取したえきから、対策部隊はDNAかんていを行った。すると、そのシェパードが日本らいの犬の血縁に当たる可能性が高いことが判明した。その結果は、犬が経由してきたであろう無数のサーバーをたどった先、犯人が住んでいるはずの候補国ともごうした。
 犯人は日本にいる。
 だが、捜査はそこであんしょうに乗り上げた。それ以上の手掛かりが、なかなかつかめなかったのだ。
 対策部隊はくちびるんだ。ぐずぐずしているこの間にも、黒い犬は手をゆるめることなくこうげきをつづけている。犯人はすぐそこなのに――。
わなを仕掛けるのはどうでしょう」
 そう発言したのは、ある国の対策部隊のひとりだった。
「罠?」
「ええ、ベアートラップを使うんです」
 それはさめの口のような形の罠で、むとねあがって強く脚を挟まれる。
「黒い犬が次にねらいそうなサイトの中に仕掛けておいてらえるんです」
 その案は採用され、エンジニアたちによってただちに罠が仕掛けられた。
 あとは待つよりほかはない。
 対策部隊は罠を置いた場所を定期的に見て回り、もの確保の瞬間を待ち望んだ。



 あるとき、いつものようにバーチャル空間で男がクロを走らせていたときだった。
 不意に、不穏な電子音が部屋にひびいた。それは異常を告げる音だった。
 男はめったにない出来事におどろきながらも、その原因を探りはじめた。そして身体が固まった。画面に表示された文字列から、置かれた事態が伝わってきた。あるサイト上で、クロの動きが止まっていたのだ。
 もうれつにキーボードを叩いて状況をさらに探っていく。クロはそこで、こうかつな罠にはまってうめいていた。
 男は舌打ちをした。
「いま助けてやるからな……」
 と、そのためのプログラムを書きはじめたときだった。今度は別の音が鳴りだした。
 危険を告げるアラートだった。
 誰かが男のもとへ迫ってきている。アラートはそう知らせていた。
 男はさらに舌打ちした。これは単にクロの捕獲を目的とした罠ではなかったのだ。それをエサに、主をおびき寄せるための罠だったのである。
 このままでは自分も捕まる。逃げるならば、いましかない。急いでクロを消去して、この場を早く立ち去るのだ。
 だが、対処法を分かっていながらちゅうちょしている自分がいた。大事なパートナーをこの世から消す。その行為に抵抗がえていた。
 いやいや、と首を振る。目の前で呻くそれは、しょせんはプログラムに過ぎないものだ。何を躊躇することがある。すぐに消して撤退すれば、追跡を免れられる。まだ間に合う。
 しかし、いまや男の頭には遠い昔の記憶がよみがえってきていて離れなかった。感情的になるんじゃない。そう自分に言ってみたがだった。
 クロと離れるのはもう嫌だ。
 男は素早く手を動かして、罠を解除する文字列を打ちこみはじめる。あせらないようにと言い聞かせながら、かつてない速度でキーボードを激しく叩く――。
「……よしっ!」
 罠を解き、クロを逃がした瞬間だった。これまでのどの音よりも不愉快なブザー音が鳴り響いた。
 パソコンの画面がロックされ、微動だにしなくなる。
 陥った状況を告げる文言だけが、静かにそこで光っていた。
 終わったか、と男は思った。
   *
 対策部隊が男を捕まえてから、例の被害はなくなった。が、黒い犬のうわさは絶えることなく流れつづけた。パソコンや携帯電話の画面上を、ときどき犬の影が横切るというのである。
 じつのところ、対策部隊は男を捕らえることはできたものの、結局、犬のプログラムは捕まえることができなかった。しかし、そのことは世間には伏せられることになった。直接の被害が出ていない以上、プログラムのほうは放っておいても問題なかろう。公表して、下手に市民の恐怖をあおる必要もないだろう。そう判断されたのだった。
 そんな事情で、黒い犬は変わらず人々の前に時おり姿を現しつづけた。
 そしてさらに、しばらく経つと犬は新たなきょどうを示しはじめた。夜中になると、暗い機器の奥底から遠吠えをするようになったのだ。
 それを聞いた人たちは、かつての被害を思いだし、またいつおそわれるのかと不安になった。その一方で、なんだかひどく胸が痛んだのも事実だった。
 遠吠えは、必死になって誰かに呼び掛けているようにも聞こえたのである。
 しかし、それに応える者が現れることは、ついになかった。
                          (完)

 採用させて頂いた方
  ・スヌスムムリクさん
  (お題「解除犬」)