第四章 直 視(承前)
「店長と専務まで容疑者にされてたなんて……それに犯人を絞ってるって、僕にですか」
床に膝をついたまま、三郎が正太を見上げる。
「平岡さんに話を聞くのは分からんでもないけど、何でサブちゃんにまでか、もう一つ理解できんかった」
「そのときから僕に照準を絞ってたって言うんですか」
「そうとしか思えん。いったい誰に目撃されてたんや。小倉さんが歯牙にもかけない態度をとってた。そんなこと、よっぽど観察してないと言われへんで」
「間違った情報ですけど」
三郎はムキになって言うと、前の椅子に座り直した。
「実際のところ、お前らどうやったんや」
「……何でも話せる仲ですけど、由那ちゃんには思う人がいて」
「サブちゃんは単なる友達ってことか」
「仲のいい友達」
「ややこしいこと言うな。小倉さんがサブちゃんのことを恋人と思てなかったんやったら、密告したやつの言い分も間違ってない。そいつがどこまで知ってるかやけど。誰かが部屋に入ったかも、と小倉さんが怖がってたことを聞いた時点で、あの医者は確信を持ちよった」
「それで僕に鎌をかけて、いっそう確かなものに」
三郎は少し冷静さを取り戻しているようだ。
「サブちゃんが小倉さんの部屋に侵入したことを認めたら、ジ・エンドや。彼らが垣内刑事に言いつけて、サブちゃんこれやで」
正太は両手首を合わせ、手錠に繋がれた格好をした。
「嫌です、そんな。いまシナリオコンテストに応募してて、ひょっとしたらひょっとするかもしれません。結構自信作なのに」
「そやから言うてるんや、絶対に口を割ったらあかんて」
「それで彼らは諦めてくれますか」
「時間は稼げる。本来なら自殺で終わってる話や、そんなに長いこと捜査もできんと思う。けど密告したやつが気になるな。サブちゃん心当たりないんか」
「……そんなん、ありません」
「そやけど、サブちゃんのことを観察してた。何でや。考えられるのは、たまたまそいつの前をサブちゃんがうろちょろしてたいうことや。つまりそいつの目の先には、別の誰かがいた」
「それじゃ見てたのは僕じゃなくて、由那ちゃん……?」
「まあ、サブちゃんがストーカーされるようなことしたんやったら別やけど。いや、歯牙にもかけないという表現は、小倉さん側に立った言葉や。うん、密告者は小倉さんを追いかけとったやつや」
「ああ……あのストーカーのおっさん」
三郎が大きな声で言った。
「そや尾藤や。あいつにちがいない」
正太は、以前この部屋で見た防犯ビデオに写る痩せた男が、得意満面に本宮医師に証言する姿を想像した。
「尾藤のおっさんが、僕を犯人に仕立てようとしたんですね。つまり、由那ちゃんを殺したのも」
三郎はそこまで言って言葉を呑み込んだ。
「どうした?」
「鍵の問題があります」
合鍵の紐の結び方を知っているはずがないことをあげて、三郎は落胆のため息をついた。
「そんな気落ちすることか」
「それにアレルギーがあったなんて、僕も知らないことなんです。尾藤が知ってるわけない」
三郎の顔には嫉妬の色が差しているようだ。
「直接、尾藤に確かめてみようやないか。住所も電話番号も、携帯の番号かて分かってる」
「えっ、僕のためにそこまで。専務、ありがとうございます」
「うちの従業員にちょっかい出しよった尾藤に、腹が立つんや。大企業に勤めてるんやから、大人しいしてたらええのに。これサブちゃんと一緒で、ジェラシーかもな」
と正太は笑ったが、三郎は眉を顰めてこちらを見つめていた。
4
三郎との話を終えて、慶太郎が光田と共にクリニックに戻ったのは、夕方四時過ぎだった。診察室には五時からの診察に備えて準備をする澄子がいた。
「家内です」
名探偵ぶりを発揮することもある、と冗談めかして光田に澄子を紹介した。
「主人がいろいろご迷惑をかけてるみたいで」
澄子が丁寧にお辞儀をした。
「いえ、そんなことありません。こちらのほうが勉強させていただいてます」
「勉強も遊びも男性の特権じゃないですよ。私も仲間に入れてくださいな」
そう言って澄子は笑い、
「コーヒー淹れますので、どうぞ」
ソファーに掛けるよう促し、診察室内にあるコーヒーメーカーに豆をセットする。
「予約は?」
慶太郎は澄子の背中に聞いた。
「六時に、新患」
「そう、新患が」
久しぶりのことに慶太郎は声を上げてしまい、
「じゃあ光田さん、一時間くらいは話せますね」
と咳払いして、対面の光田に言った。
「そうしていただけると、ありがたいです」
光田はノートを開いた。
「いろいろ分かってきましたが、整理が必要になってきました」
慶太郎もタブレットを用意した。
「それにしても桑山三郎の動揺の仕方は、尋常じゃなかったですね。しかし彼が小倉さんをストーカーしてたのを目撃した人間がいたなんて。よく見つけましたね、先生。いったい誰ですか」
と光田がノートに突き立てたペンを持ち直す。
「守秘義務がありますから、ご勘弁を」
笑顔ではぐらかす。
「先生がそういうところをみると、医療行為の際に知り得た情報だってことですね」
「それも言えません。ただ、あれはルール違反ギリギリでしてね」
「どういうことです?」
「目撃者の主観が入り過ぎていて、事実誤認がないとは言い切れません」
尾藤の三郎に関する発言には、多分に嫉妬心が含まれている。嫉妬は事実を歪める屈折レンズのようなものだ。それを伝聞の形をとったにせよ、さも事実であるかのような言い方をした手法は、精神科医として心が痛む。
「それで、先生の見解として、桑山はどこまで小倉さんの事件に関わっていると思われるんですか」
「スナフキンの台詞を暗記してました。桑山くんが相当小倉さんに好意を抱いていたことは確かでしょうし、好きな女性ができた男性ならごく普通の感情として、一分でも一秒でも一緒にいたいとも思ったでしょう。程度の差こそあれ、ストーカー行為に近いことをやるものだ。最も小倉さんの側にいて、彼女をよく知っている。それだけじゃないですか」
「しかし彼は不法侵入したんでしょう」
「あの取り乱し方は、小心者の正直な反応だ。小倉さんの部屋に入ったのは、まず間違いないでしょうね。互いの夢を語り、励ましあっていたと言ってました。あの言葉は本当だと思うんです。励ますには、いま何に悩んでいるか、どんな問題を抱えているのか、もっと深く相手を知らないと、的確に助言もできない。彼は、もっと小倉さんのことを知りたかった。君の痛みはどこにある、君の喜びはどこにある、君の心はどこにある。恋心は、みんなを精神科医にしてしまうんです」
「なるほど、そうですね」
光田は、コーヒーをテーブルに置いて慶太郎の隣に座る澄子に、目をやる。
「どうぞ、冷めないうちに。君の心はどこにある……この人、詩人でしょう?」
澄子が、茶目っ気たっぷりな笑顔で言った。
「おいおいやめろよ」
慶太郎は恥ずかしさを隠すように続ける。
「目の前に好きな女性の部屋があり、合鍵の在処も知っていた。桑山くんは、イケないこととは知りながら魔が差したんでしょう」
慶太郎がコーヒーを口にすると、光田も澄子も同時に手を伸ばす。
「こうは考えられませんか。留守中に桑山が部屋に侵入して手紙なんかを物色していたことを、小倉さんが知った。桑山は詰問、いや罵られて凶行に及んだ。遺書めいたメモはカムフラージュするために現場に置いた」
光田がカップをソーサーに戻し、
「いかがです?」
と慶太郎の顔を窺う。
「光田さんが言うように、愛する女性から罵られて逆上するケースは多いですよ。可愛さ余って憎さ百倍っていう感じでね。ことに自分でも破廉恥で悪い事だと分かっていて、軽蔑されたときは、なおさら破壊的で暴力的な衝動に駆られます。その場合、自分の行為を正当化するために相手を服従させようとする。たいがいは力による支配です」
「毒なんて使わないってことですか」
「もし毒で口封じがしたいのなら、また弱毒性の問題に突き当たってしまいます」
「強い毒だ、と信じてたのかもしれないじゃないですか。彼岸花にもトリカブトのような猛毒があると」
「いまはネット社会です。本気で人一人の命を奪いたいのなら、必死で調べるはずだ」
「……名田親子も桑山も除外ですか。一体誰が毒を飲ませて、鍵のかかった部屋から出て行ったんですか。他に小倉さんに恨みを抱く人間がいるんですか」
光田はペンで額を軽く叩いた。
「死ねない毒とはいえ、実際に小倉さんはそれを飲んで亡くなった。そして部屋は内側から鍵がかかっており、その上、このメモだ」
慶太郎は、由那の残したメモが入ったビニール袋を取り出した。
「『もう限界です。これ以上は耐えられません。ただ自分が楽になりたいだけじゃなく、支えてくれた人たちのために決心したんです。覚悟を決めて今日のうちに行動に移します。迷惑をおかけすることになるもしれませんが、私の気持ちを分かってください ゆな』、これに立ち返るしかないようですね」
慶太郎が両手で髪を掻き上げ、そのまま後頭部の辺りで手を組み、ソファーの背にもたれた。
「立ち返るって、慶さん。いまさら何、小倉さんはやっぱり自殺したって言うんじゃないわよね」
澄子が驚いた様子で、慶太郎に聞き直す。多くの人を巻き込んでそれはない、と澄子も勢いよくソファーの背にもたれた。
「いや、そうじゃないんだ。アレルギーで気道を塞いで死のうなんて、若い女性がするはずはない。医療面接で重要なことは、患者の立場に立つことだって、君も知ってるよね。今日分かったことを含め、今一度このメモを書いた小倉さんの気持ちをいろいろ考えてみたんだよ」
由那が限界だと感じていたものは、食べられるのに廃棄処分する店のルール、つまり店長の方針の他に、正太と熊井の推し進めているプロジェクトに参加していること自体に罪悪感があったことも、真理子の話で分かってきた。食品ロスと廃棄を決めた食材の再利用の両方に、限界を感じていたと言ってもいいだろう。
「揺れ動く小倉さんの心が、この文言を書かせた。そしてこれが、店長か専務のどちらかに自分の意見を言おうとした決意表明だったらどうだろう」
「遺書ではないっていうこと?」
「うん。それで発想を変えてみようと思う」
「変えるってどんな風に?」
澄子が体を起こした。
「これが遺書でないと仮定する。なのに遺書に見えたのは、そこに小倉さんの遺体があったからだ」
「遺体があったから、遺書だと思った……?」
「そう。このメモだけが置いてあったのなら、誰も遺書とは思わなかったんじゃないかってことだ」
「完全に二つを切り離して考えるってことですか」
光田が言った。
「今度は犯人の視点に立ってみる。どうして、こんなメモを残す必要があったのかってこと」
慶太郎がメモの入った袋に触れると、微かな渇いた音がした。
「それは、先生が言うように、現場に残しておけば遺書に見えるからなんじゃないんですか」
「なら、例えばこのメモが現場になかったとして、光田さんは事件をどう見ます?」
「どうって。そりゃ若い女性が部屋で亡くなっていて、何かを飲んだ形跡があるんですから、誰も病死だとは思わないでしょう。飲んだものに多少でも毒が混入していて、部屋が内側から施錠されてた事実と照らし合わせれば、まずは自殺を疑います」
「そうですね。じゃあメモがなくったっていいですね」
「まあ、でも自殺をより強調できます」
「自殺を強調する必要があった。そこがポイントなんです。だって、調べればアレルギーによって死んだことが分かります。今日専務たちと話しているときにも思ったんですが、メモがなければ誤飲事故の可能性も吟味されるはずなんですよ。要するにこの自殺を強調する遺書めいたメモの存在のせいで、事故を否定してしまってる点がどうしてもしっくりこない」
事故での処理のほうが犯人には好都合だったのではないか、と慶太郎は言った。
「しかし、それは……彼岸花からの抽出液を口にすること自体、おかしいから……」
光田が口ごもる。
「モグラや害虫よけ以外に、ごく希ですが去痰薬として用いる民間療法もあります。絶対口にしない、ということもないんです」
「そうなんですか」
光田は納得いかないという目で慶太郎を見た。
「慶さん、何が言いたいの?」
澄子が口を挟む。
「どうして事故で済ませられたかもしれないのに、なぜこれを残していったのか。どうもモヤモヤするんだよね」
「そこまで頭が回らなかったんじゃない? 殺人を犯すときの人間の心理が普通じゃないことは、慶さんが一番知ってるでしょう。そのメモを見た犯人は、これなら遺書に見えて自殺だと偽装できると思った。他殺でさえなければ自分は安全だってね。事実、警察は自殺だと思い込んでたじゃないの」
澄子は、慶太郎が疑問を呈さなければ、警察はすでに自殺で処理して終わらせていたはずだと言った。
「メモを見た犯人の判断、ね」
「そうよ、メモを見て思いついた。だからそんなに深く考えたわけではないわ」
「前提として、遺体の側に置いておけば自殺に見えるってことだよね」
「……そうだけど、何かおかしい?」
「メモを見てから、犯行に及んだ。そうなるととっさではなく、計画の一部であったはずだ。犯人は、どこでこのメモを見たんだろう。いや入手したんだ?」
慶太郎は自問するような言い方をして目を閉じた。目からの情報を遮断すると、いっそう強くコーヒーの香りを感じることができた。そして光田と澄子の息づかいも聞こえてくる。
光田が大きく息を吸ったのが分かった。そして、
「桑山なら、小倉さんの部屋に侵入したときに見られるんじゃないですか」
と言うのが聞こえた。
慶太郎は目を開き、
「これは心理的なアプローチになります」
と断り、続けた。
「スナフキンの台詞を思い出してほしいんです。さっきも言いましたが桑山くんがよどみなく言ったあの台詞、『本当の勇気とは自分の弱い心に打ち勝つことだよ。包み隠さず本当のことを正々堂々と言える者こそ本当の勇気のある強い者なんだ』を知る人間は、この由那さんのメモを見ても、遺書には思えない。由那さんの部屋で、彼女のノートにあったこの言葉を見たとき、私が自殺ではないと思えたように」
「そう言われれば、メモの印象がまったくちがってきますね。少なくとも『覚悟を決めて今日のうちに行動に移します』を自殺だとは思えません」
「同じ心理的な効果によって、桑山くんも遺書とは思えなかったはずです」
「スナフキンの台詞を知らないだろう店長と専務は、すでに除外してますし。容疑者がいなくなりました」
光田がノートの文字を、ペンで激しく左右に動かして消した。
「……そして犯人がいなくなった、か」
「先生、ずいぶん暢気ですね。垣内刑事は今日にでも捜査終了の決定を決めるんですよ。次に彼から連絡がきたとき、すべては水泡に帰すことになる。それとも、ここにきて本気で犯人がいないって言うんですか」
「いえ、犯人はいますよ」
「慶さん、ひょっとして目星がついてるの?」
「うん。垣内刑事にあることを確かめる必要があるけど」
「先生、誰ですか」
「光田さん、先走った取材をしないと約束してもらえますか」
ここからは慎重さが必要だ、と厳しい口調で慶太郎は尋ねる。
「ここまで協力してきたんじゃないですか。信用してくださいよ」
光田は真顔を向けてきた。
「信じます。ではその前に、垣内刑事に電話をかけさせてください」
慶太郎は、携帯を手にした。
5
「許してほしい。この通りや」
正太は玄関の上がり框に額をつけた。自分の呼気に、気付けに飲んだウイスキーの匂いを感じ、口を閉じる。
「やめてください、専務さん。子供が変に思いますし」
顔を上げるようにと肩口に触れ、
「ずいぶん飲んではるようですけど、どうされたんです。まずは上がってください」
と言う真理子の声には戸惑いの音が混ざっていた。
「時間も遅いから、ここでかまへん。平岡さん、ほんまに迷惑掛けてしもた」
正太は、さらに頭を床に擦りつける。時間は十時を回っていた。
「専務さん、あきませんて……今日のことやったらうちも謝らんといけません。分をわきまえず出しゃばってしまって」
「ちがうんや、今日のこととは」
「えっ、じゃあ何です?」
「ついさっき……」
喉がひっついて言葉で出てこなかった。
「さっき? とにかく頭を上げてください」
真理子が耳元で大きな声を出した。
正太は三和土に膝をついた格好で顔を上げ、
「熊井さんから電話をもろた。うちとの企画、なかったことにするって」
絞り出すように言った。
真理子は息を飲み、正太の目を凝視したまま動かなくなった。
「平岡さん、平岡さん」
そう声をかけて、真理子の腕を軽く叩く。それでも固まった表情はそのままで、反応を示さない。
「大丈夫か、平岡さん」
正太の声が聞こえたのか、奥から真一が飛び出してきた。
「おじさん、こんばんわ。母が、どうかしたんですか」
「いや、おっちゃんが悪いんや。仕事のことでミスしてしもてな」
真一が、真理子と正太との間に入って、真理子の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫」
と、ようやく真理子は口を開いた。
「びっくりするやないか」
「ごめんな、真一。お母さん、なんや急にぼーっとしてしもて。ちょっと疲れが溜まってただけやと思う。専務さん、今日はこれで、明日きちんと話を伺いますので」
真理子は正太を見ずに、頭を下げた。
「そ、そうか……まあ、そうやな、そのほうがええな。ほな、明日の昼休みに、バックヤードで」
経緯を説明するにしても、誰にも聞かれないようにしないといけない。
「真一くん、すまんな夜分に。お母さん、あんじょう休ませてあげてくれるか」
そう告げると、正太は真理子の家を出た。気温が下がっていて、ハッピーショッピーのユニホームだけでは寒いはずだが、アルコールのせいなのか顔が火照り夜風が気持ちいいくらいだった。
店に向かって歩き出すとすぐ、膝に痛みを感じた。それを苦痛とは思えないほど、さっき熊井から投げつけられた言葉のほうが痛かった。
「ぼん、あんた誰かにマークされてるやろ。うちのプラントから、あんたと平岡さんが出て行くところをカメラで撮ってたやつがいるのを、若い衆が目撃した。マスコミが何かを嗅ぎつけよったにちがいない。早晩、こないなことに巻き込まれるんやないかと思てました。ぼん、あんさんとは、これまでやな」
「待ってください。写真、あれは心配ありません。ちゃんと口止めしてますから」
「ぼん、マスコミを甘くみたらあかん。あいつらは世間が飛びつけば何でもええんや。善も悪もあらへん。わしぼんと心中するつもりはない。これで終わりや」
「あのう、食品メーカーと進みかけてる話はどうなるんです」
「そら進めますがな、おいしい話や。けどあんたの会社とは一切関係ない。企画は他店と組んで成功させますわ。その邪魔はしなさんな。ええな、これまでのことは他言無用でっせ。ちょっとでも漏れるようなことがあったら……まあええ。あんさんの大事なもんをあんじょう守りなはれ。惜しかったな、わしと組んでたら体だけやのうて、ビジネスでもビッグになって親孝行できましたのに。とにかく廃棄処分のご契約は、これまで通り当社で承りますので、よろしゅうに」
正太は、けっして口外しない、と誓って電話を切った。
正太が熊井を尊敬していたのは、正しいと思うことなら、どんな手を使っても実現させる強引なところだった。その行動力が、いまは恐怖になっていた。これ以上怒らせたら、真理子にも被害が及びかねない。
これまでの正太なら、自暴自棄になっていただろう。しかし、真理子とその子供たちのことを慮る気力が残っていた。
放心した真理子が心配だ。だが一刻も早く伝えないと、時間をおけばおくほど彼女の傷は深くなると思った。日ごと夢が膨らんでいたからだ。
住宅地から外れて畑が続く道を行く。大きな道に出てしまうと、猛スピードの大型トラックがすぐ側を通るため、とくに夜は危険だ。申し訳程度の路側帯は、カップルが腕を組んで歩けない幅員だった。
路肩の土塊にできた何かの轍に躓き、転倒しそうになった。よくない膝に激痛が走ったけれど、かろうじて体勢を立て直した。完全にツキから見放されたわけじゃない、と苦笑する。
真理子が許してくれるよう、今後のことを考えないといけない。
正太は煙草をくわえ、ライターで火をつける。北風が強いことを、顔の前で暴れる紫煙で知った。
真理子の夢が、病院や介護施設向けの冷凍食品の開発だとは知らなかった。彼女の料理の腕に間違いはないのだ。どうにかして、食材の二次使用でコストダウンした冷凍食品会社を興せないだろうか。食品ロスを減らした上に、多くの患者の役に立つとなれば、親父の賛同を得られるかもしれない。このままハッピーショッピーを継いだとしても、先細りは目に見えているのだ。
いや、何が何でもやらなければならない事業だ。成功すれば、店も真理子も守れる。
正太は自分を鼓舞しようと、ガッツポーズをしてみた。その瞬間、『由那さんを最後に見たとき、ガッツポーズをしたといいます』という本宮医師の言葉を思い出した。由那の部屋で聞いた垣内刑事との会話だった。
思わず近鉄電車はどこだ、と探した。夜空の少し先に、ぼんやり高架線が見えた。
ガッツポーズをして、自殺する心境にはならない。妙なところで精神科医の分析は正しい、と感心した。
その本宮医師が三郎を疑っている。
ダメだ。信じると言った以上、サブちゃんを信じてやろう。
〈つづく〉